ブラックキャップ ―Black Cap―


〜共鳴・鼓舞する
    “黒き弾丸”〜

アフリカ競馬
  史上最強スプリンター

父 デンチュリウス
母 ジャスティティア
母父 バースライト
生年:1946年
性別:牡
毛色:青鹿毛
調教国:南アフリカ共和国
生涯成績:23戦13勝[13-3-1-6]
主な勝ち鞍:キングズプレート連覇(現クイーンズプレート・芝1,600m)、スチュワーズカップ(ケープタウン・芝1,000m)、スチュワーズカップ(グレイヴィル・芝1,000m)、サバーバンスプリント(芝1,200m、2回)、グランドスタンドトハンデキャップ(芝1,200m)、グランドスタンドスプリントハンデキャップ(芝1,000m)、マーチャンツハンデキャップ(芝1,200m)、ナーザリーハンデキャップ(芝1,200m)ほか


まるで脳内まで蕩けて行きそうな炎熱の大地。
闇黒と冥闇とが街並みを舐めるよに嚥下してゆく最中、
陽炎立ち上るアスファルトの上立ちすくむ少年の目に光は映っていない―


南アフリカ連邦成立後、富裕でリベラルなイギリス系と貧しく保守的なアフリカーナーはあちこちでいざこざをおこしたが、やがて黒人を犠牲にすることによって両人種はともに経済成長を達成し、1948年までには両人種間の経済格差はほとんどなくなっていた。政権は常にネイティヴアフリカンたちが握っていた。有権者の60%を占め、イギリス系より団結する傾向のあるネイティヴアフリカンたちは、常に選挙で有利な状況を保ち続けた。1910年に南アフリカの政権の座に就いたのはルイス・ボータとヤン・スマッツであり、彼ら率いる南アフリカ党は鉱山主やイギリス系に配慮しながら政権運営を行った。これに不満を覚えたジェームズ・バリー・ヘルツォークは、1914年に内閣を飛び出し国民党を結党した。一方で、南アフリカ党政権は白人の地位向上を目指して黒人差別を法制化し、1913年の原住民土地法によって黒人を居留地へと押し込めようとした。
これが人種隔離政策とよばれる、いわゆる“アパルトヘイト”の発端となる地脈で、以後アフリカンたちへの白人たちの怨嗟は大地をジリジリと照りつける太陽光のごとく熱を上げていくこととなる。

   
▲〔ダニエル・フランソワ・マラン氏〕

1948年、国民党は政権を獲得し、ダニエル・フランソワ・マランが首相に就任。国民党は政権獲得後、1950年より人種差別政策を実行に移し始めた。この政策を、国民党は人種ごとに分離して発展するものであるとして「分離」(アフリカーンス語でアパルトヘイト)と称した。それまでの差別法に加え、異人種間の婚姻を禁ずる雑婚禁止法(1949年)、人種別居住を法制化した集団地域法(1950年)や黒人の身分証携帯を義務付けたパス法(1952年)、交通機関や公共施設を人種別に分離した隔離施設留保法(1953年)、人種別教育を行うバンツー教育法(1953年)などが次々と法制化され、白人、カラード、インド人、黒人の4人種を社会のすべての面で分断する政策が実施された。さらに1951年、国民党はカラードから選挙権を取り上げる法案を可決。司法がこれに対し激しく抵抗したものの、1956年には両院3分の2以上の可決をもって最終的にカラードの選挙権は取り上げられてしまうことになる。
白人による圧政がアフリカナーたちへ絶大なる重力としてのしかかり、押し潰されそうな日々が延々と続く中、まるで呼応するかのように現れた名馬がいた。
それが南アフリカ競馬史上に残る“グレートスプリンター”ブラックキャップである。

まさにネイティヴアフリカンを連想想起させるかのようなその名前と、漆黒の馬体は南アフリカ連邦のシンボルそのままのような馬であり、その強さと速さも相応することで絶対的名馬へと崇愛されていくこととなる。
しかし、その生まれは皮肉にも英国であり、デビューの地もまた英国であった。

1948年の5月10日、キャッスルプレート(芝1,000m)でデビュー。6着という平凡な結果で、その後も13、8、9着と見るところのない散々な結果が続き、オーナーサイドも猜疑心に捕らわれるが、次なる一戦でまるで馬が変わったかのように3秒差の大圧勝でデビューを飾る。フェウォルフ・ナーザリー・ステークス(芝1,000m)、ナーザリーハンデキャッププレート(芝1,200m)と楽勝で3連勝を飾り、一気に評価も覆った。そして1948年の10月9日、アスコットのレースを最後に、馬主と共にブラックキャップは南アフリカへと移り住むこととなり、英国へと惜別を告げ、海を渡った。

アフリカの地を踏んでの、実に半年ぶりの一戦。そしてまた同時に、アフリカデビューとなったのは1950年6月28日の、ケニルワース競馬場にてのサバーバンスプリント(芝1,200m)のことであった。
すべてが初物尽くしのアフリカンデビューであったが、ランジットという馬を相手に2馬身差の快勝を決める。
その後キングズプレートを含む3連勝を決めるが、これはまだ序章に過ぎなかった。
ケニルワースに再び舞台を移してのビッグレース、メトロポリタンハンデ(芝2,000m)はさすがに距離が長かったか、9着と轟沈するも、馬体の成長は明らかで、トモの張り、胸前の筋肉などは歴然たるパワーアップを示していた。
立て直しを図ってのサバーバンスプリントで、生涯を通してのライバルとなるモーグリと初対戦。惜しくも敗れるが、以後7戦して6勝と勝ち越すどころか、勝利した6戦ではすべてぶっちぎっての圧勝で、この好敵手を完全放逐したことが、この馬の絶大なる評価へともつながることとなる。


▲〔同時代に活躍した歴史的名馬モーグリ〕


モーグリは世界競馬史上においてもいまだに残るGI6連勝を最短期間で残すという偉大な記録を残したアフリカ競馬史上においても歴史的名馬なのである。これ程の最強馬を相手にもしなかったブラックキャップなら、「史上最強の短距離馬」としての絶対的称賛を確実のものとしたことにも頷ける。
ラストイヤーとなる1951年〜1952年は競走馬としてのピークを迎えたこともあり、国士無双のレース振り。
クレアウッドでの1戦を3着に落とした以外は完璧な内容で、他馬を震撼させ、アパルトヘイトが推し進められ、明日も見えぬ苦境に立たされたアフリカナーを鼓舞するのであった。


▲〔ゴール寸前、颯爽と差し切るブラックキャップ。勝利した13戦中、最も凄まじかったのが、1951年10月13日のグランドスタンドハンデキャップ(芝1,200m)での圧勝。ダイアログという馬に、ほぼ馬なりのまま2秒2差の大差勝ちをしたと伝えられている〕

そして、ベストパフォーマンスとされるのが1952年1月26日、まさにモーグリへのパーフェクトリベンジとなったサバーバンスプリント。なんとモーグリを相手に66kgの斤量(ハンデ)を背負い圧勝。次位のハンデ馬との差は実に10kg近く、9.5kg差もあり、すなわち56.5kgであった。この時2着のモーグリには1秒85差(10馬身差)。絶望的大差を楽々とつけてしまったのである。
1952年6月4日、グレイヴィル競馬場のニューバリーステークス(芝1,200m)でモーグリへ引導を渡し、ブラックキャップは競馬場を去ることとなる。
どれだけ走って訴えても変わらない、アパルトヘイトへのアンチテーゼをほのめかし、アフリカンたちの心の叫びを代弁するかのようにアフリカ中の競馬場を走り続けたブラックキャップ。その走りを瞳と心へ投影、映写、焼き付けて、ファンは暇乞いを交わした。


南アフリカに差別解放の光明が差すのは、1989年。デクラーク氏が大統領に就任し、内外からの批判に耐えかね、マンデラ氏が釈放された1990年。アパルトヘイト終焉の兆しがようやく垣間見れた瞬間である。ブラックキャップ引退から実に40年近くの歳月が経過しようとしていた。
寂寥感立ち込める、冬風吹きさぶ街角に陽炎が再燃する。
佇む少年の瞳には、ほんのわずか…曙光が差すかのように希望という名の光が輝きを発し始めていた――。


 

奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 08:58 * comments(0) * - *

イグーグー ―Igugu―

  イグーグー

 〜ジャングルは
    いつも
   晴れのちグー


南アフリカへ
   舞い降りた
    奇跡を呼ぶ妖精



ガリレオ
サリニア
母父 インティカブ

生年:2007年
性別:牝
毛色:鹿毛
調教国:南アフリカ共和国
生涯成績:12戦10勝2着2回
※2012年2月初頭時点。
主な勝ち鞍:南アフリカ牝馬クラシック三冠(サウスアフリカン・トリプルティアラ)⇒〔ハウテンフィリーズキニー(芝1,600mG2)、サウスアフリカンフィリーズクラシック(芝1,800m)、サウスアフリカンオークス(芝2,450m)〕、J&Bメット、ダーバンジュライ、ウーラヴィントン2000、イピトンビチャレンジほか

『奇跡の名馬』コーナーにて現役馬を紹介するのは史上初。引退後には修正・補正が加えられ、よりセンティメンタルかつポエティックな表現が加味されることを前提で読んで頂ければ幸いである。

  
▲〔サブタイトルはこの漫画から…少年が不思議な力を持った少女に振り回されるコメディコミックである。神懸かり敵強さのイグーグーはまさにグゥのよう…!?作(C):金田一蓮十郎、スクウェアエニック〕

この馬、イグーグーはそれ程に魅力溢れる競走馬だったということである。
現在世界的に注目されている競走馬といえば世界最強と謳われ、歴代最強級のマイラーとも言えるフランケル。豪州でGI馬、それも屈強な牡馬をあしらいつづけ無敗の連勝を突っ走るブラックキャヴィア。21連勝、北米連勝記録を更新し続けるラピッドリダックス。凱旋門賞圧勝のデインドリーム。そして我等が三冠馬オルフェーヴル(ドバイWC1番人気に支持されている)といったところなのだろうが、このイグーグーも必注必見の歴史的名馬である。
もしかしたら、世界最強の牝馬はデインドリームでもスノーフェアリーでもジョワドヴィーヴルでもなく、この馬である可能性すらあるのである。それ程に強い。何せ数々の歴史的名馬を見つめ続けてきたマイク・ドゥコック調教師にして「これまで管理した中で最高の馬」と、最大級の賛辞を送ったのである。馬主はドバイのモハメド殿下。父ガリレオという背景からも、欧州のチャンピオンロードが目に浮かぶ。この馬の動向次第で、世界競馬が大きく動くことになりそうだ。凱旋門賞へ参戦ということになれば、オルフェーヴルとの三冠馬対決ということで大変な盛り上がりになりそう。
日本にも興味があるようで、昨秋はエリザベス女王杯やジャパンカップ参戦も噂されていた程。

 
▲〔二冠目、10馬身差という歴史的大勝〕

 
▲〔厩舎でくつろぐイグーグー〕


イグーグーは2007年、オーストラリアの大地に生れ落ちた。そして2009年の7月、海を渡り南アフリカの地へとやってくると、名伯楽・世界最高級のトレーナーであるマイク・ドゥコック氏の袂へと舞い込み、世界最強を目指しての英才教育が施されていく。
覚醒したのが昨年2011年。南アフリカ牝馬三冠を史上はじめて達成。しかも第一冠目のハウテンフィリーズギニーは4馬身、二冠目サウスアフリカンフィリーズクラシックはさらに凄まじく10馬身1/4、三冠最終戦のサウスアフリカンオークスでも敵は無く、5馬身3/4も突き抜ける一方的圧勝。返す刀で牡馬も含めた南アフリカ最高峰の一戦ダーバンジュライ(芝2,200m)でも力で捻じ伏せる強い内容で快勝。ついには2011年の南アフリカ年度代表馬の座へと輝き南アフリカ最強馬にまで君臨することになるのであった。
まさに南アフリカの女オルフェーヴル。2012年の今季初戦も圧勝し、J&Bメット(芝2,000m)でもスローで先行する馬を捉え凱歌を上げた。国士無双の妖精イグーグー。もはや世界進出は必然的状況。しかし…アフリカンホースシックネスの影響により海外遠征は非常に難航しそうで、現段階では厳しいと言わざるを得ない。


  オマケ
世界三冠
   +国内最強
歴史的女傑セレクション

  
ロスアード
北欧六冠〔デンマーク1000ギニー、デンマークオークス、デンマークダービー、デンマークセントレジャー、スウェーデンダービー、スウェーデンオークス〕、フラワーボウル招待Hほか

シンプリィーマジック
ジャマイカ五冠〔ジャマイカ1000ギニー、ジャマイカ2000ギニー、ジャマイカオークス、ジャマイカダービー、ジャマイカセントレジャー〕

ミニモ
トルコ四冠(トルコ1000ギニー、ドルコオークス、ガジダービー、トルコセントレジャー)

バンベーラ
ヴェネズエラ五冠

ジャクリーン
インド四冠(インド1000ギニー、インド2000ギニー、インドオークス、インドダービー)



ドバイで、フランスで、さらには日本で、この歴史的名馬の走りを見られる未来を、きっと信じている――。

奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 02:12 * comments(1) * - *

セヴンスバード ―Seventh Bird―猝喜壱隲瓠10年と100年前のSympathy〜


  セ


父???
母???
母父???

生年:1912年?
性別:牡
毛色:芦毛
調教国:ザンビア共和国
生涯成績:???戦???勝

いまから100年前にアフリカの大地に降誕したというアラブとハンター種の混血馬。
この馬の馬が生を授かったと言われているのが、アフリカ一平和な国と言われるザンビアであった。
ザンビアは、かつて英領北ローデシアに位置した共和制の国家で、独立は1964年。やはりかの地にも競馬は根付き、名馬がアフリカの熱地へと旅立っていった。

本馬セヴンスバードは英領北ローデシアにて無敵を誇っていたと一部の古翁の間で口伝されている、まさに狹狙皚畸罎劉狹狙皚瓩龍チ馬。
どうやらアラブ馬だったらしい…
蒼穹のストライプの勝負服をまとった白人騎手…
厩務員が黒人奴隷…

…という極々微細に残された光跡をたどることしか許されない幻の存在。このイラストさえ、「その馬のもの…らしい」という非常に曖昧模糊としたもので、その残影すら認めることすらできない。なかば蜃気楼のような存在。調査・探査を継続し、その深部へと徐々に光を当てていくしかあるまい。
まさに100年前に想いをワープさせた夢邂逅である―――…・・・。

この馬の名前を見て、数年前のクラシックが想起された。

今から10年前のことだ。

爛札凜鵐好弌璽畢

…という名の馬が一頭、ターフで躍動躍起に暮れていた。


 
1999年生まれ、2002年のクラシック戦線で活躍を期待された牡馬である。
父トニービン、母ホワットケイティーディド。
母の父ヌレイエフ。
いかにも東京・府中の直線で躍動しそうなシーンが目に浮かぶ血統である。
あのスリープレスナイトの兄でもある。
かなりの資質は秘めていたが、その芽は開花せず、静かにターフから姿を消した――…

そんな幻の2頭のセヴンスバードに儚き泡夢を照らし見て、2011年紹介の名馬を振り返っていきたい。2011年は前者セヴンスバードのような存在であるヒコーキ、ヴェラシーラ、シリウススノー、サーヴァジェット…後者のような存在であったタイキチェイサーなどを中心に紹介していた。

年が変わり、一年過ぎた今、そのラインナップを振り返ることで新たなる発見、新たなる記憶との猝喜壱隲瓩發△襪もしれない。
過去の名馬を逡巡、脳裏で反芻することは当時の自分との対話でもあり、生まれる以前の名馬であるならば、それはタイムスリップしての猝喜壱隲瓠
奇跡とも言える廻り逢いが2012年も際限なく、幾度となく、訪れんことを冬天に浮動する鳥に祈念をかける――……・・・――

(『続き』からは【奇跡の名馬2011総集編】です!)
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奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 23:39 * comments(0) * - *

ヴェラシーラ ―Verasila―

 【 ヴェラシーラ

 〜自由の果て、

犲由の象徴瓩箸覆
   疾駆しつづけた
     白き孤高の勇者




父 ???
母 ???
母父 ???

生年:1902年
性別:牡
毛色:白毛?葦毛?粕毛?
国籍:オレンジ自由国
生涯成績:28戦24勝
※推定・推算、非公式戦含む。記録に残るもののみ。

フォークグループの『赤い鳥』が1971年に発表した『翼をください』は今や誰もが知る、世界中でカバーされ歌われる名曲である。果て無き蒼空に自由を希求する純粋無垢なる想いを綴る抒情詩は、やがて教科書にまでその翼を下ろし、子供たちに合唱され、一方でカバーソングを耳にする若者たちは、この名曲の向こう、見果てぬ自由無き自由を我武者羅に求めるかのように口ずさんでいる。
自由を夢求する心動は、いつの世でも不変のものだが、凄惨なる戦乱の時世にこそ、その二文字が渇望される時代もないだろう。

南アフリカには、かつて先住民たちである民たちが完全に奴隷視され、犲由瓩剥奪された暗黒の歴史がある。確固たる経済基盤や政治組織を持たなかった当地民たちは、植民地化を企てて侵犯してきたヨーロッパ列強国(オランダ・イギリスなど)に抵抗するすべもなく侵略・蹂躙の限りをつくされ、崩滅した。奴隷となる運命を甘受するしかない彼らの屈辱と怨恨の日々は、現代を生きる日本人の想像の域を遥かに超えるものだったに違いない。


▲〔自由を手繰り寄せるべく闘う人々に希望の光は見えたのか…〕

1854年、アフリカ南部に建国された原住民たちのエデンであったオレンジ自由国も、第二次ブール戦争後の1902年、フェリーニヒング条約によって英国植民地の傘下に甘んじることとなる。
ヴェラシーラは、奇しくもその同年に誕生した競走馬だった。
馬主は英国人だったが、その身の回りの世話や調教は黒人のマーク・ウェジスン氏が携わったと文献には記されている。雪のように白いその馬体は、特異であり、否が応にも白人を連想させるに容易な存在であった。簡易的に建設された競馬場で走る際にも当地民からは奇怪な視線を浴びせられたが、その圧倒的競走能力で、まるですべてを白く元に戻すかのように走り抜け、連勝を重ねていった。やがて罵声はあたたかな声援へと変わり、マークが頬を摺り寄せるシーンを目にした有色人たちは涙を誘われ、いつの日かヴェラシーラへ誰しもが自らの想いを重ね始めていた。

犲由瓠

たった二文字、されど大きな夢の蜃気楼を追い求めるかのように、走り続けるたった一頭の白馬。
国境を越え、トランスヴァール植民地へ…ケープ植民地へ…。見つめる者たちは胸奥で鼓動する大きなうねりを、もはや押さえ切れぬものと感知していた。


▲〔血統不詳の白馬。謎の多きこの馬は狄製鱈瓩箸靴道召┐蕕譴拭

ヴェエラシーラとは倏鬚翼瓩琉奸
自由という名の大空へ羽ばたくための力を、当地当時の人々は心の底から欲し、手を伸ばした――。
切なる願いと祈りをこめて。

     
  





1910年、南アフリカ連邦の建国により、行政区分に組み込まれ、夢想郷は消滅…オレンジ自由州(現在のフリーステイト州)となった。そうして、ヴェラシーラも役目を終えたかのように翼をたたみ、競走生活を終えた――…。
アパルトヘイトがその悪しき役目の終焉を迎え、真の自由が来訪するのは、まだ遙か彼方のことである。


奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 07:57 * comments(0) * - *

ヒアーザドラムズ ―Hear the Drums―

ヒアードラムズ

 〜ける鼓動

南アフリカ大陸
     史上最多勝馬



父 ゴールドプレス
母 ウイニンググローリー
母父 ギャリックリーグ

生年:2002年
性別:せん馬
毛色:鹿毛
調教国:南アフリカ共和国
生涯成績:59戦33勝

生涯を通し、健全健康かつ一切の故障も無く競走生活を終えることができる馬…それでいてなおかつ、勝ち続けることを可能とする巨万のポテンシャルを抱懐する馬というものは、ほんの一握りにもならない。そんな観点から一望し鑑みてみると、競馬主要国において最多勝を記録した馬というのは、真に偉大なチャンピオンなのかもしれない。たとえば、米国の1880年代後期から活躍したキングストンは、なんと10歳まで走り続け、138戦89勝というとてつもない成績を残した。また一方で、早期引退のイメージが取り付く欧州競馬においても、1853年に英国に生まれたフィッシャーマンが120戦70勝という驚異的成績を残していった。
以下に各大陸・エリアごとの最多勝馬を記しておく。


各大陸エリア
   史上最多勝馬

※繋駕速歩・ばんえい除く

≪アメリカ大陸≫

キングストン
138戦89

≪欧州≫
フィッシャーマン
120戦70

≪オセアニア≫

グローミング
67戦57

≪中米カリブ海≫
コリスバール
324戦197

≪南米大陸≫

フロルデロート
72戦54

≪日本≫

キノピヨ
??戦62


そして南アフリカ大陸史上最多勝となる馬が、本稿紹介のヒアーザドラムズである。
ヒアーザドラムズはその屈強かつ頑強なる馬体を武器に59戦も走り、33勝もの勲位を勝ち取り続けたスーパーホース。南アフリカのプレスからは爛泪諭璽泪轡鶚瓩箸泙埜世錣譟⊂,狙韻鯲婿困径海韻拭ただ勝ち続けた訳ではなく、一線級で闘い、そして歴然たるチャンピオンスプリンターとしてターフに君臨していたのであるから、天晴れ、溜息の漏れる蹄歴である。
誕生の地は名門サマーヒルスタッド。2歳時にピーター・ファブリシウス氏に買い取られ、デ・マクラクラン調教師の袂へと渡ると、前途洋洋たる競走馬生活を歩み出していった。
わずか15.2ハンドの小柄な馬体だったヒアーザドラムズの評価は、良くも悪くも無い曖昧模糊たるものであったが、ピーター氏の眼力は確かなもので、南アフリカドルにして42,000の価格で競り落とされた。
その後、気性の問題もあり、去勢手術を断行されると、もはや彼には走り続けることが、天命となった。薄幸の棘道を突き進む彼を救ったのは、彼自身のコンパクトな馬体。小さな馬体ゆえ脚元への負荷が極端に軽減されていたのである。得意のスプリント路線を主幹道とし、疾駆し続けるヒアーザドラムズ。
直向に走り、屈託なきまでに無垢の心でゴールだけを見据える彼のシルエットに、ファン万員がシンパシーを感じ取り始めていた。

1勝ごとに積み重なってゆく栄光の残響。その一つ一つが、彼の心の鼓動そのままだった。
南アフリカの歴代勝利記録は四半世紀も前に記録されたスクリーチアウルの32勝。次位がリザの31勝、そして歴史的南アフリカの韋駄天センティネルの29勝。
遺功の階段を一歩一歩上ってゆくヒアーザドラムズ。偉大なる先達、スタースプリンターのセンティネルにグレンドアスプリント(芝1,000m)に並ぶ、最多勝タイを2010年3月26日、ついにマーク。


〔29勝目の口取り式。右で手綱を持つ男性がマクマクラン調教師〕

アンドリュー・フォーチュンを背にイーストケープカップスプリント(芝1,200m)を圧勝したのである。とうとう頂点へとあと一歩。王手をかけたヒアーザドラムズは、前馬未踏の領域へ向け、勇躍レースへと挑むことに。

爐修了瓩やって来た。2010年7月23日、アーリントンでの芝1,000m戦、レーシングエクスプレス・ファクトファイル・ピナクルS。慣例事項のごとく、電光石火のロケットスタートを決め、一気の猛加速を切るや忽ちに3馬身の差をつけ、6頭の挑戦者たちを遥か後方に霞み見ながらのゴールイン。62kgもの酷量がまるで嘘のような劇的な牾攵弖皚瓠
偉大な記録の誕生は、また同時に南アフリカの歴史的名馬が降誕した、まさにその瞬間だった――。


〔歴史的南アフリカ大陸最多勝記録のゴール前〕

「ほっとしました。」
そう胸を撫で下ろすのは育ての親マクラクラン調教師。
「この記録をぜひ達成させてやりたかったですから…彼のような名馬を手がけることができたのは名誉なことであり、また誇りでもあります。もうこの記録が抜かれることは、おそらくないでしょう」
胸中へ響く鼓音。
感慨深く目を細める師は、絶大な名馬と過ごした時を胸の中、想いをタイムスリップさせていった。
この歴史的一戦の手綱を取ったアントン・マーカス騎手は、次のように語っている。
「最後はこの馬に乗れていることに、なんて幸運なんだろう…なんて思ってた。けど、そんな僕をお構い無しに、彼は全身に気持ちを滾らせて走っていたからね。最高の瞬間だよ」


生き続けることに意味がある。
生きる事に意義がある。
33瓩領鮖謀巨音は彼方の胸にどう響くだろうか。

炎熱の大地を舞台に轟いた心の鼓動。
そこには何か、記録だけではない大きなメッセージがあるような気がしてならない。

ヒアーザドラムズはそのレコードを持って、我々に何を告げようとしていたのだろうか。

きっとわかる日が来るだろう…その「答え」は、絶望の暗夜を乗り越えたきっとその先に――。

   

奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 17:48 * - * - *

モーグリ ―Mowgli―

  モーグリ

魔法の11週間 〜

わずか2ヶ月半で
伝説となった奇跡の馬



父 キプリング
母 ティザァールロック
母父 サーモンリープ

生年:1947年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:南アフリカ共和国
生涯成績:under the researching

南アフリカ競馬においてもはや遠い、遠い、記憶も彼方の伝説となっているほどの偉大なる名馬。
わずか2ヵ月半…たったの11週間…正確な日数にすると、なんと71日間でGI級競走を6勝もしてしまったというのである。何という戦慄。天撼胸揺する衝撃の記録である。
比較対照の記録を数例、列挙してみれば、モーグリ号の残し去った光跡がいかに讃美されるにしかるものか理解・反芻できよう。


アグネスデジタルの記録

◎GI級競走4連勝

1.マイルチャンピオンシップ南部杯

2.天皇賞(秋)

3.香港カップ

4.フェブラリーS

アグネスデジタルの場合、GIを地方、中央、海外、ダート…あらゆるカテゴリーにおいて歴史的強豪を沈めてきた。しかし、GI連勝数は4に留まるほか、10月3週から翌年の2月と間隔も長い。
もちろんこれは日本競馬史に残る色褪せる事のない記録であろう。
しかし、モーグリのそれが視界に入るたびに鈍色への変色を抑えることができない。

テイエムオペラオーやタイキシャトル、日本競馬史に残る名馬はGI6連勝・5連勝をそれぞれ決めてはいるが、途中で敗戦を喫してしまっていたり、一年で到達といったもの。(これだけでも十二分に偉大な記録であるのだが)
海外へと目を向けて見ても、同じことが言える。
“鉄の馬”と呼ばれたジャイアンツコーズウェイはGI5連勝を約二ヶ月半(2000年6月20日のセントジェイムズパレスS〜同年9月9日の愛チャンピオンS)で達成しているが、結局5連荘で踏み止まった。モーグリはさらに1勝多いのである。
しかし、GI勝利数ではさらに上を行く馬が現れた。ロックオブジブラルタルである。爛供Ε蹈奪瓩2001年10月7日のグランクリテリウムから翌2002年9月8日のムーランドロンシャン賞まで欧州における1,400〜1,600mの主要GIを次々と鯨飲していった。これはミルリーフが2年に渡り築き上げた世界GI連勝記録(6連勝)を凌駕する、世界新記録となった。

もう一度…よく熟考し、再三再四渡って再考してみてほしい。

ミルリーフ
二年架けてGI6連勝

▲〔凱旋門賞のゴールを向えるミルリーフ〕

ロックオブジブラルタル
一年架けてGI7連勝

モーグリ
2ヶ月半GI6連勝

わずか11週間でミルリーフの記録に並んだというのである。
しかも、モーグリの場合は、なんということか1,200mの古馬混合GIから、アフリカ最強の豪傑が集う最高峰であるダーバンジュライ(芝2,100m)戦で圧勝しているというのであるから、舌を巻くとはこの事だ。
さらに付言するならば、ハンデも酷重なものを背負わされており、そんな劣悪な環境下で歴史的記録を紡績したのであるから、賛嘆と称賛の眼差しを向けるほかなかろう。


▲〔ダーバンジュライのゴール前。モーグリは内、奥の馬である。接戦だったが、貫禄の完勝であった。〕

こうした輝かしい功績から、モーグリは史上最短期間でスプリントから中長距離、あらゆるカテゴリーのGIを最多勝した幻夢世界の名馬と評価する事ができよう。こうした観点から、屈強かつタフなイメージを各人へと抱懐させるが、決して頑強な馬ではなく、むしろその反対。1レース消化する度にひどく疲弊する馬だったという。とは言え、すぐさまケロリと復活を果たす回復性能を発揮していることは曲げようのない事実である。もはや普通の競走馬が成せる技ではなく、この世のものとは言えない尋常ならざる生命本能を宿していたということだろう。

  
〔モーグリはアフリカ大陸における20世紀の名馬投票で一番の票数を獲得して選出されたという逸話も持っている。それだけのインパクトと記録と記憶、そして牋Ν瓩鬟侫.鵑醗蕕鵑戚焦呂世辰燭箸いΔ海箸覆里世蹐Α写真は某有名テレビゲームに登場するモーグリのヌイグルミ〕

ラドヤード・キプリング氏が想念した『ジャングル・ブック』に登場したモーグリは狼に育てられた。
一方、ダーバンジュライを勝利したキプリング号を父に持つモーグリは、人に育てられ世界競馬史にひっそりと樗立する偉大なる神名馬となって、愛憶の中未来永劫に生き続けることだろう。

光矢流星のスピードで頂点を翔けた愛すべき妖精のアネクドーテ―――……・・・・。


奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 02:02 * - * - *

ジェラバブ      ―Jerabub―

 ジェラバブ

逆風幸風に変えて 〜

アフリカ奥地から
    インド競馬へ…
   異色異端の最強馬




父メッセンジャーボーイ
母バンメルカイト
母父カプト.S.タイオン

生年:1942年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:ケニア⇒インド
生涯成績:16戦12勝
※確認できるもののみ。

東アフリカ諸国における競馬の歴史は古いが、一部の地域に限定され、その開催は包括的に植民地の英国民たちの旗下開催されていた。とりわけ東アフリカの雄・ケニアは1904年に避寒中の英国貴族たちが立ち上げたジョッキークラブを発祥として発進し、現在では日本の支援も受けつつ、素晴らしい名馬も誕生している。調教師兼騎手を務める女性の手により、牝馬としてダービー・オークスダブルという歴史的快挙を成し遂げたティンセルタウンが記録にも記憶にも残る女傑として語り紡がれているが、史上最強馬となると、その推考は反芻の咀嚼を要することとなる。当時を物語る資料文献が霧散してしまっている他、戦乱や政治情勢の狂乱も禍し、偉大なる名馬たちの記録はほぼ消失or焼失し、忘却曲線は上昇するのみとなっているのが、このエリアの実情である。

そんな境遇ゆえ専門家や評論家の間でも東アフリカ史上最強馬は?との質疑に四苦八苦し、議論は混線鼎談の色合いを深める。現在アフリカで飛躍的発展を遂げている競馬だが、若いファンたちが、かつての伝説の名馬たちの俤も残光も知らぬまま、ただ遮二無二になってなけなしの金銭を放擲してゆく様には悲哀すら感じる。

 
〔ブルキナファソの投票場。掘っ立て小屋のような施設だが立派な屋外馬券購買所である〕

かつてアフリカの奥地、密林に囲まれた農場で産声を上げた馬がいた――。
当時、世界はまだ第二次世界大戦という闇の時代で、母国を離れて暮らすケニアの高貴たちは不安という衝動に日々踊らされていた。そんな暗鳴渦巻く時代を豪放磊落、天衣無縫なまでの強さのみで万民を魅惑した名馬がケニアの地を疾駆していた。その馬こそがジェラバブ。ケニア競馬史上最強の名馬である。
莫大な富を持つインド出身のウハガー・シン・ダーリワァル氏は、1944年にジェラバブとの邂逅を果たした。一目で見惚れ、すぐさまに購入を決めたという。
荒涼たる大地を弾むように駆け、烈動たる躍進。あっさりと連勝・圧勝・大楽勝で一流の領域へと浮翔すると、東アフリカダービー(ケニアダービーの前身、芝2,400m)を隙のない強さで快勝。一気の頂点奪取で決めると、ケニアセントレジャー(芝2,800m)ではフワフワと浮遊浮動するかのような大跳びのフットワークで馬なりの大勝。当時の東アフリカは植民地主義と人種差別の意識・動きが過敏かつピークを迎えており、インド人の移民であるダーリワァル氏には常に逆風が吹き荒れ、白い視線と冷徹な待遇に見舞われるが、ジェラバブの活躍はそれらのマイナスベクトルを跳ね除け、すべてプラスへと転化させるばかりか、幸運という幸運を彼の元へと招来させ、ダーリワァル氏はジェラバブの巨翼に守られて、人生における絶盛の時を迎えようとしていた。その神威的能力の前に愚鈍たる人間の蹂躙など月に向かって石を投げる行為に等しかったのだ。


                  
[心を綺羅めかせる名馬の力に、我々は驚嘆と讃辞の声を述べる他ない]

二冠馬の威光を頂いたジェラバブの快進撃に歯止めは掛からない。
国内最高峰の舞台であるケニアゴールドカップ(芝3,200)では、東アフリカ中の最強級を子供扱いし、その名声は頂点をも劈き、犹望綺廼瓩寮参里気囁かれるようにすらなっていた。

                                      
[ジェラバブとダーリワァル氏。ケニアGC優勝後のワンシーン]

これほどまでの名馬が東アフリカで躍動し、天地鳴動させている事実を世界へと…せめて母国インドだけでも示したい…そんな観念から、戦火も影を潜め、平静が鎮座を始めた翌1946年、ジェラバブは船舶に乗せられ、故郷ケニアに惜別を告げた。
アフリカの神怪獣を乗せた航海の行き先地はインド、ボンベイ。

  
[アフリカの奥地の湖には恐竜の生き残りがいても可笑しくはない!?]

何十時間にもわたる船旅を終えたジェラバブの顔に疲れの色はなかったものの、動きに精彩を欠き、どうやら長時間の輸送が蓄積疲労として顕著に顔を覗かせた。
しかし、それでも一国で最強の玉座を欲しいままにした超怪物である。レースに出走すれば、そのモーションは忽ちに頼もしいまでの豪快なものとなって現れた。
アガカーンカップにブルボンネCといった当時のインドのビッグレースを鯨飲。5戦して2勝2着2回、着外わずか1回という絶対的ポテンシャルを、インドでも変わらず示して見せた。
引退後はオーナーと幸せな余生を送ったと伝えられるが、その深層は不明瞭な混沌の海を彷徨っている。

世界の傍ら、人知れず暗躍せざるを得なかった名馬たちの咆哮が聴こえて来る――。
戦乱や災禍に玩ばれ、記憶からも記録からもそっと消えて行った馬たちへ込み上げる熱い情念はこの先も未来の果てまで、漸滅することはない。そう、彼らと再び廻逢を交わすその日まで―――…。

 

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奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 06:13 * - * - *

スレッジハンマー    ―Sledge hammer―

スレッジハンマー

たった一人の開拓民

南アフリカ競馬で
  歴史的偉業を達成
 異色異端の外国産馬



父スタンニング
母フェアーアイル
母父フェアーズフェアー

生年:1970年
性別:牡
毛色:栗毛
国籍:南アフリカ共和国(ニュージーランド産)
生涯成績:31戦21勝[21-4-1-5]

夢虚ろなまどろみを掻き消すような曙光がアフリカの大地へとそそがれる――。
小高い丘の上にそびえる記念碑は、アフリカの血と涙の歴史を語り紡ぐフォール・トレッカー開拓者の記念堂。1949年に建てられた。
英国の支配に徹底抗戦・反旗を翻し英国占領地を逃れ、内陸部へと移動を開始したアフリカーナー(オランダ系アフリカ人)たちが築き上げたトランヴァール共和国・オレンジ自治国。建国に行き着くまでに多くの命が失われた。荷馬車で移動し、先住民たちとの血を血で洗う凄惨な死闘。さらには食糧難…彼らがその果てに求め続けた、たった一つの犖瓩録燭亮由だった――。
開拓民たちの勝ち取った夢の国。そのトランスヴァール共和国では1886年に金脈が発見され、また一方のオレンジ自治国ではダイヤモンドが採掘され、バベルの塔が崩れたかのような騒ぎとなった。
そしてボーア戦争…さらにはアパルトヘイト…アフリカの歴史は闇と背中合わせ。夢のフロンティアに安息の日々は…ない。


"Ons vir jou
    Suid-Afrika"

「我が命、南アフリカのためにあり」
記念碑にはそう刻まれている。


しかし、南アフリカにおける競馬は不遇にも英国占領時代に根付き、発展を遂げていった。
ケープ、ナタール、そして開拓民たちの楽園であるトランスヴァール、オレンジ自由国でも1886年、奇しくも金鉱発見の年を境に、飛躍的進展を見せた。
キャンプファイヤー、パンフレット、ハワイ、シーコテージ、コロラドキング…さまざまな名馬が降誕し、人々を鼓舞し、勇気を与えてきた彼の地に、1970年ニュージーランドからやってきた1頭の馬が歴史的大躍進を見せる。

彼の名はスレッジハンマー。まさに開拓を連想想起させる馬名。馬とハンマー…開拓地に欠かせぬ素材の融合体となったこの馬は、とてつもない破壊力を秘めた名馬であった。

  
〔“馬とハンマー”…荒涼たる土地で、金脈採掘に、ダイヤモンド発掘に、そして発展にこの2者は欠かせない、象徴的存在とは言えないか〕


偉大なる異邦人(馬)とでも称えようか…スレッジハンマーは己の力のみで、南アフリカ競馬を制圧していった。まるでその姿に、ファンはかつての、あの開拓者たちの姿影に重ねた。
ゴールデンマイル三冠戦の一つであるクイーンズプレート(芝1,600m)、また短距離でもキレ味を発揮し、ドリルホールS(芝1,400m)を制覇。さらには中距離でも怒濤のスパートでチャンピオンS(芝2,000m)を勝利。そして最大の勲章はダーバンジュライと双肩を成す、南アフリカを代表するビッグレース・J&Bメット(芝2,000m)を史上初、英国産、フランス産、地元南アフリカ産馬以外の国で生まれた馬として優勝。このJ&Bメットを制したニュージーランド産馬は、いまだこのスレッジハンマーのみである。凱歌が唱えられたのは1975年の1月18日のことであった。
異国の地から来訪したスレッジハンマーは、南アフリカ競馬史に名を残す歴史的名馬となったのである。勇往邁進し続けた、たった一人の開拓馬。


〔スレッジハンマーを所有したのは南アフリカに住まうハーヴィッツ夫妻だった〕

大地を焦がし続けた太陽が夕陽となり、地平線の彼方へ沈んでゆく――。
今宵の晩餐、ゆっくりとハープを弾くように語りたい…。
犖瓩魑瓩瓠奇跡を起した“馬と槌”の話を―――。

奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 07:15 * - * - *

グリァーグルーグルー

 【グリァー
     グルーグルー】

〜偉大なる聖母の光輪〜

―万能多彩の
   資質を眠らせる
アフリカの隠れた瞑王妃―



父 アシャリ
母 グュリアグムレク

生年:1984年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:ナミビア
生涯成績:〆

太陽と月。母なる海。壮大なる生命の抒情詩を紡ぎ出す母の力はいつの世も偉大である。
生命の神秘…初めてこの世の光を浴びた仔馬が自然と自らの力で立ち上がり、乳房を求め母馬へと寄り添う…。我々人類は新たなる命の息吹が湧き上がるその瞬間、例えようの無い神々しい天球の念をヒシと感じてしまう。
科学文明が飛躍的に進んだ現代社会においても、まだまだ信じられないような事象・事件・生物が織り成す奇想天外・摩訶不思議が溢れている――。

  
1935年、世界最年少の母親となったペルーのリナ・メディナとその息子ヘラルド。そして彼女の主治医。彼女は信じられないことに5歳で出産したという。またこの出産は謎めいており、父親はいまだ明らかとなっていない

人類が歩みを始めたと言われるアフリカの大地。かの地にナミビアという国がある。この国の空港を出ると、見渡す限りの地平線。コンビニ…など言語道断、民家はおろか道らしい道すらないのである。日本人が抱懐するアフリカンイメージがまさにしっくりくる風景が遥か彼方まで眺望できるのだから、その光景に圧倒され立ち尽くすしかない。


ナミビアの空港から一歩外へ出ると…地の果てまでも見渡せる!?これは実際の空港周辺の風景


この国に、1頭の絶世の名アラブがいる。それが本馬グリァーグルーグルーである。
彼女はショーホースとして活躍し、いざ馬場へと繰り出すと、たおやかで森閑としていた姿を豹変させ、躍動した。風を飲み込み、疾駆するその艶姿は、煌きを放つ玉紫を纏う烈火のようだったという。名のある選手権にも幾度と無く優勝を重ね、その名も知れ渡り始めていた。
しかし、この馬の真価発揮は母馬となってからだった――。
12頭の仔馬を儲け、その全頭が高い資質を評価された。ある馬はエンデュランス用の乗用馬に、ある馬はショーホースとして、またある1頭は種馬として、乗馬として全馬が“成功”と明言出来るだけのパフォーマンスと成績とを残し、母の名を最高名誉の地位まで掲げるに至った。


その突出したポテンシャルが世界的にも認知され、グリァーグルーグルーは国からも表彰を受けるまでに。生まれてくる仔馬が全馬、生産者にとっての財を成す嗣子と成る確率は天文学的な数値で、グリァーグルーグルーのアラブ馬の歴史に蹄刻していった航路は“奇跡”そのままとしか述懐するしかなく、縷言のしようがない。まさに生命が爪弾いた神秘の琴音である。



『馬小屋のイエス』 聖坂養護学校の生徒による共同作品の木版画。イエス・キリストも聖徳太子も、馬小屋で誕生したと伝えられている

   
ラファエロの作品。一般的な聖母のイメージはまさにこれではなかろうか

   
『黒い聖母』 世界の一部では“黒い聖母”も存在している。信仰以前にオリエント一帯に広まっていた大地母神信仰が吸収されたものともいわれる。また、芥川龍之介の短編作品にも「黒衣聖母」という名で登場し、無気味なモチーフとして扱われる


母なるぬくもりの中、夢見る聖母の面影に、人も馬も猝伸瓩了呂泙蠅魍个─△泙深‖紊悗箸修竜憶は引き継がれてゆく。
生命の大いなる福音は聖なるノエル。

 

今日もまた新しい“奇跡”がこの宇宙(ほし)との邂逅を果たそうとしている―――。
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奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 03:30 * - * - *

ネムロドデュパオン 

【 ネムロドデュパオン 】

〜シーラカンスの
       眠る丘で〜

―チュニジア・アラブ
      最強の名馬―



父 ティジャニ
母 ギュリアデュパオン
母父 ヴェイナードALモーリー

生年:調査中
性別:牡
毛色:栗毛
国籍:
チュニジア共和国
生涯成績:調査中

1942年、トランペット奏者のディジー・ガレスピーが、ピアニストのフランク・パパレリとの共作で作曲した楽曲である『チュニジアの夜』は、1940年代のビバップ期以来、モダン・ジャズのスタンダード・ナンバーの一つとなっており、「マンテカ (Manteca)」などと共にガレスピーの代表的な作品の一つに数えられている。
ラテン・ジャズを象徴する一曲であるこのエキゾチックなメロディラインの舞台となっているのは、当然だが北アフリカに位置するチュニジアである。この国における競馬はアラブ馬のみの競馬で、近隣のモロッコやアルジェリアとも交流競走が催されるなど、競馬へ対しての想い入れ慕情は深い。
1881年バルドー条約…1883年にはマルサ協定が締結され、フランスの占領下となったチュニジア。遡及してみると、競馬がこの地に根を下ろしたのも恐らくこの時代と推考され、現在でもなお、フランス競馬の影響が色濃く残っている。


  
〔ゾウも腰を抜かすような古の名馬がアフリカにはまだまだ潜在している〕


                          


アフリカの競馬は意外にも歴史が古く、相当な実力を秘める名馬も潜在している。もしかすると、まだ見ぬ伝説の名馬が、古ぼけた書肆のどこか、塵埃にまみれた資料・文献の片隅で、こうしている今も誰かを待ち侘びているのかもしれない。

                           
〔何気ない量販店の書店コーナーでも意外な資料の発見があるかも!?〕



偉大なる名馬の発見は、「世紀の発見」とどこか似ている――


“生きた化石”と称される「シーラカンス」の発見もアフリカの海からであり、“世紀の大発見”と持て囃された。
事の顛末はこうだ。

1938年12月22日、南アフリカ南東部のインド洋のカルムナ川河口付近で漁をしていた漁船が見慣れない魚を捕獲した。南アフリカのイーストロンドンの博物館員であるマージョリー・コートニー=ラティマー(Marjorie Courtenay-Latimer、女性)は漁船から調査依頼の通報を受け調査するものの、どの文献に当たってもその魚の種を同定するに至らなかった。そのため知り合いの魚類学者ジェームズ・レナード・ブライアリー・スミス(James Leonard Brierley Smith)にその魚のスケッチを送り助言を求めた。そのスケッチは簡単に描かれたものであったが、白亜紀末に恐竜とともに絶滅したものと考えられていたシーラカンスの特徴がはっきりと描かれていた。スミスは剥製にされた標本を詳しく調査し、マクミラン社「ネイチャー」に新種のシーラカンスの確認を発表。ラティマー (Latimer)にちなんで属名 Latimeria および科名を Latimeriidae とし、種小名を発見地のカルムナ川(Chalumna River)にちなんで chalumnae とした。この確認は「世紀の大発見」として世界中に知れわたった。
腐敗のため、頭と剥製用の皮膚しか保存することができなかったため、スミスたちは100ポンドの懸賞金を掛けた手配書を配って第2の標本を探し求めた。次の標本が捕獲されたのは14年後の1952年12月20日(この日は現在「シーラカンスの日」とされている)で、発見されたのは最初の発見地から3,000km近く離れたコモロ諸島のアンジュアン島であったという。
(ウィキペディア 『シーラカンス』参照)


〔1938年に捕獲されたという“シーラカンス”の剥製〕


フランスに生まれ、チュニジアへと渡ったネムロドデュパオンは、それは途轍もなく桁違いに巨烈なる馬であった。
圧倒的豪快に捲くりあげ、他馬を地の果てまで突き放してゆく勇壮なファントムオレンジに、観るものは皆、虜になり、心奪われた。
国内最大のレースであるカルタゴ国際大賞(ダ1,700m)では4馬身もの差を直線だけで瞬時に離し大勝。このシーンが扉写真のものなのだが、ジョッキーはもはや手綱を抑え、後方を確認していることからも、相当な大楽勝であったことが垣間見えてくる。



 
〔誇らしげに口取り式を挙行するネムロドデュパオンと関係者〕


炎砂の上にも巨大なるシーラカンスが、悠然と泳いでいたのだ。
カルタゴの地、誰も知らない小高い丘の上、夢光年の時空を“恋”えて―――。



  

奇跡の名馬 (アフリカ諸国の名馬) * 23:58 * - * - *

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