センジュ



 〜アラブ神話

―アラブ競馬の最盛期。
     無双無敵の王道を
   泡夢と共に疾駆した
     超伝説のアラブ最強馬―



父 方景
母 イースタン
母父 バラッケー

生年:1956年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:日本(大井)
生涯成績:90戦31勝
主な勝ち鞍:千鳥賞、春の特別(アラブダービー)船橋記念、秋の特別(アラブ大賞典)、ワード賞、銀盃、スプリンターハンデ、ビクトリーハンデほか

かつて日本にはサラブレッド競馬とアングロアラブの競馬と、いわば2つの似て非なる馬種による競走体系が組まれていた。
しかし、時の流れの中、暫時日和に枯凋は進み、サラブレッド競馬のみが現在の日本競馬に生き残りを果たすこととなる。
遙遠なる黄昏の時代に禁足されし、古の神々。
“神々”とまで呼称したくなるその訳は、これから陳述する彼らの古伝を紐解き、繙読、拝誦して頂ければ、ご理解頂けるものと思う。
彼らに関して残された文献・古事は非常に少ない。
「国会図書館」という古の記憶を現世へと召還せしめる、極大なる文殿へと赴き、夥しい程の厖大なる書誌・書帙を捲りめくることで、回り逢えた奇蹟。そこには幻のアングロアラブの神馬たちが、威光あふるる残影を迸らせ、鎮座していたのであった。



何頭か列挙させて頂こう。
日本競馬における平地競走における最多勝を記録したフクパーク。


フクパーク
(キノピヨ)



父 ラッキーパーク
母 フクセカイ
母父 オールグリーン

生年:1950年
性別:牡
毛色:栗毛
国籍:日本
生涯成績:96戦62勝(34戦30勝2着3回?44戦22勝2着11回3着3回[対サラ10戦4勝2着4回]・中央:18戦10勝2着4回3着1回平地5勝・中央障害5勝)

タマツバキなどが中央競馬を席捲していた時代の後、地方にもアラブ競馬の黄金時代の潮流が押し寄せる。
その代表馬であり、歴代最強をも想起させるのがこの馬。
兵庫競馬で抽選馬としてデビュー。その後、以下に紹介するホウセントと死闘・激闘を展開。
晩年は中央へと矛先を向け、「キノピヨ」という底抜けに明るいイメージの馬名へと名を変え、サラブレッドや中央のアラブを震撼させるほどの強さを見せる。
そのあまりの神威的強さに、震顫、吃驚、驚倒し、キノピヨを恐れ戦いた。
やがてその波は、全アラブを標的とした縛りへと変貌を遂げ、全アラブへと襲い掛かる。
“地方アングロアラブの中央(国営)転入禁止”
地方のアラブは中央への競走を締め出されてしまうのであった…。

地方競馬のアングロアラブ。ただ同然の値打ちしかない埴輪馬たちに、殲滅させらる訳にはいかない中央のエリートサラブレッドたち…そしてその関係者たちの生活とプライドを守り抜く為には一緒に走らせなければいいこと。
中央競馬から追い遣られたアラブの名馬たちは小さな競馬場へと封印され、その絶大なるポテンシャルを眠らせたまま一生を余儀なくされていってしまう。
もちろん、怪物キノピヨの魔脚の蹄音に、国営競馬の調教師たち関係者は畏怖の念を抱いてはいたが、キノピヨを締め出す為のルール改正ではないと、表面的には述べている。
しかし、第二第三のキノピヨ襲来を跳ね返す手段として講じたと邪推してしまうのは、考え過ぎだろうか。


ホウセント


父 方景
母 ラッキーバラッケー
母父 バラツケー

生年:1950年
性別:牡
毛色:栗毛
国籍:日本
生涯成績:63戦42勝(南関東:58戦39勝2着8回3着5回[対サラ14戦5勝2着4回3着4回]、国営:5戦3勝3着2回[対サラ系3戦2勝3着1回])

上述のフクパーク最大のライバルとして立ちはだかったのがこのホウセントである。
中央(国営)ではフクパークに勝る程の成績は収められていないが、対フクパークでは相当の強さを見せている。
偶然にも2頭は栗毛。黄金の巨兵2騎が中央競馬を震え上がらせていた時代は確かにあった。
まさにアラブのエルドラドが、そこには展開されていたのである。
このホウセントとフクパークは、長らくレース名として後世へとその名を轟かせていた。
しかしホウセント記念が消失し、2003年にはついにフクパーク記念までもが歴史の渦へと飲み込まれていった。
そして現在、アラブ競馬自体が滅っした現在、2頭の名はもはや風前の灯。忘却の彼方、消えていくのが運命だというのだろうか。

そんな2頭の意志を継承するが如く、南関東へと降誕するのが、センジュである。
センジュは父と母父がホウセントに同じ。そしてキノピヨ怪話を踏襲するが如く、中央のアラブを蹴散らし、サラブレッドをも圧倒していく。

〔貴重なセンジュの立ち姿の一枚〕

その名称の由来がどこから来ているのか…
「千寿」なのか「千手」であったのかは知る由もないが、生まれ落ちた時から他勢とは異質な雰囲気を取り巻いていたようである。写像からも見て取れるように、その馬体の造りからして流麗なボディラインで、閑麗なる皮膚の光沢は嬋媛たる後光を放つフィラメントとなっていた。

   
▲〔センジュの放つ異様な闘気は、千手観音の後光輪のようだった〕


デビューは1958年の大井。玉響の4連勝を圧倒的内容で制し、早くも「大井にはとんでもないアラブがいる」と、噂が飛び交い、何処誰となく囁かれ合うようになっていた。ところが、迎えた5戦目アラブ3歳争覇で絶望的な程の大出遅れを喫し、終始チグハグな精細を欠く内容で終戦。何とか掲示板の5着は確保したものの、3歳時唯一の敗戦となってしまっている。
明けて4歳に成熟したセンジュはさらにスケールアップ。壮烈なるスピードと剛勇極まるパワーで重賞級レースの勝利を積み重ねていく。


▲〔1960年代の大井競馬場近辺にて〕

そして、ついにその瞬間はやって来る――。
サラブレッドへの挑戦。
1960年8月26日のスプリターハンデ(ダ1,400m)。初となるサラブレッドとの対戦相手には、後の天皇賞・有馬記念を勝つことになる未来の最強馬オンスロートもいた。初のサラブレッド相手も闘志を剥き出しに激勝(頭差)、この時の勝ちタイムは1:27.3。驚愕すべきことに、サラブレッド種も含めた大井のレコードだったのである。
ちなみにオンスロートという馬はどれ程の馬か。その詳細を知れば、センジュの恐ろしさにも気付いて抱けるものと思う。


▲〔オンスロート〕

オンスロートは生涯成績41戦26勝[26-7-4-4]、地方在籍時[17-6-1-3]、中央成績[9-1-3-1]という素晴らしい総合成績を残しており、天皇賞と有馬記念も勝つほどの名馬。
センジュと対峙した際はもちろん眠れる獅子であったし、センジュが芝でオンスロートと相対して互角以上に闘えたかは未知数。しかし、日本現役最強馬へと昇り詰めるサラブレッドを打ち破ったことは、真実以外の何者でもない。


ちなみにこれは昭和37年の日刊競馬・有馬記念の馬柱である。
◎がズラリ。どれ程の馬だったかは、火を見るより明らかであることを察知して頂けるものと思う。
その中央地方合わせての最強馬を、一方的に力で圧制したレースを繰り広げて見せたセンジュ。
オンスロート撃破後も、サラブレッドと幾度となく激闘・烈闘を繰り広げ、同種のアラブ相手には68〜69kgもの酷量を背負いながら捻じ伏せ続けるも、ついに斤量は満量となる70kgへと到達。もはや勝つレースと互する相手すらいなくなってしまったセンジュは競馬場へ尾を向け、ゆっくりと夕日の彼方へと歩みを始めた――。

     
主戦を努めた名手・佐々木正太郎も舌を巻き、偉人へ向ける畏敬の念を持って騎乗し、称賛したという超伝説のアラブ。
アングロアラブの黄金時代、その絶頂時に照臨した千手観音は、衰亡し潰滅へと追いやられてしまった日本のアラブ競馬と、現在の地方競馬の斜陽、凋残の一途に…はたして何を思うのだろうか。

もはや語られることも無く漸滅してゆく運命にある太古の名馬たちに、私たちがしてやれることは…はたして――。


 今回の写真・
  イラスト提供・協力
    参考文献ほか

うみねこ、秋山由美子、Mr.woolhouzen、ぐれい様、『ぐだぐだfreedom 〜アングロ・アラブの神々がいた時代 フクパーク・ホウセント考(ぐれい様HP)』、『競週地方競馬』、『アラブ牝馬系統大鑑』、『日刊競馬』、流離のおやっさんさん(センジュの現役時代を知る方に直接印象を聞いて頂き、その情報を提供して下さった方です)、タヌキうどんさん(イラスト)、続日本馬政史(神翁顕彰会)ほか
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奇跡の名馬 (日本の名馬) * 07:33 * comments(4) * - *

サンキヨウスーパー



時代を劈く
    電磁加速馬


オグリをえる競走馬


父 ドン
母 セルソロン
母父 パーソロン

生年:1978年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:日本(笠松)
生涯成績:18戦12勝 [12‐2‐0‐5]

「笠松」という地名を耳にすると、瞬時に脳裏を疾駆する一頭の名馬。
オグリキャップ。
たいていのファンはそうであろう。
日本を代表するスーパーアイドルスターの名を知らぬ競馬ファンは皆無にも等しいはず。
しかしこの笠松には、オグリキャップの大きな影に隠れている、知る人ぞ知る“伝説の名馬”がいるのである。

その名はサンキョウスーパー。
あのアンカツこと安藤勝己にして「モノが違う」と言わしめた怪物である。
そのスピードたるや狡鏡筬瓩琉豸譴世辰燭箸いΑ
烈火轟雷たるその走りに、笠松のファンと若き日の安藤勝己は胸を高鳴らせ、脈動する鼓動と目瞬きを共鳴させるかのごとく、彼への熱烈たる視線をひた、ただ真っ直ぐに向け続けた。
時代と不釣合いなまでの、何か「不安定」感を覚えるまでの脅威的瞬発力と速度推移推進能力に、未来の競走馬を目撃しているかのような、不可思議な錯覚が頭を擡げる心持となる者さえいた。

かつて「セントサイモンには電気的なものを感じた」というドーソン調教師の言葉があるが、日本の競走馬においても、電気を感じる程のスピードを放散したのは、本馬サンキヨウスーパーのみかもしれない。


▲〔レールガンの模式図。『レールガン』とは、火薬ではなく電磁誘導で砲弾を加速させ発射させる。数百僧イ譴唇銘屬らマッハ7の速度で放てるという〕

史上最強のダート短距離馬は何だろうかと熟考、再三再四に逡巡しても、サンキョウスーパーを知らない者は、その答えを希求する。
…ブロードアピール…ベラミロード…あるいはイナリトウザイやアグネスワールドといった答えや、サクラバクシンオーにその勲位を授与する者もいよう。
しかし、この馬のダート短距離における瞬転たる速力は、物理的限界を超えた所にいる究極のサラブレッドを連起連想させる程だった。
リアルタイムかつ眼前で見つめ、彼が切った風を肌で感じたた者ならば、必ずや史上最強短距離馬に推すはずだと、とある古老は滔々と語る。

   
▲〔栃木競馬の至宝にして北関東史上最強馬ベラミロード〕


さてサンキョウスーパー、彼はどのような馬であったか。
その伝説を紐解いてゆこう。
勝鬨を上げた全戦が圧巻だった。
デビュー戦は手綱をがっちりと抑えられたまま、馬なりの疾駆。
その一戦が大レコード勝ち。
他すべての勝利レースも尋常ならざるスピードで疾走。
この馬についてきた馬や、無理に追いかけてきた馬たちはみんな壊れてしまったという。


新緑賞
   タイム比較論

     
笠松の大レースに新緑賞(ダ1,600)というレースがある。
サンキヨウスーパーのこのレースの勝ちタイムは…

1:41.9

…だった。
サンキヨウスーパーのベストは800〜1,200のダートの短距離である。
それを留意した上で以下のタイムを並べて比較検証してもらいたい。

1:42.2
⇒1982年
ゴールドレット(愛知の名馬)

1:56.6
⇒1983年
ヤドリギ
(鞍上・アンカツ)

1:43.1
⇒1990年
マックスフリート
(東海史上最強牝馬。23戦15勝)

1:44.8
⇒1992年
トミシノポルンガ

1:43.2
⇒2000年
ミツアキサイレンス
(佐賀記念連覇、名古屋グランプリ優勝など中央の一線級を斥ける)

1:43.1
⇒2009年
カキツバタロイヤル

…いかがだろうか。
もちろんサンキヨウスーパー以上のタイムを出した馬も数頭いるし、このレースのレコードは1998年フジノモンスターの1:40.6である。
しかし、上述した面子は中央一線級ともやり合える程のポテンシャルを持った強豪馬であることを踏まえて鑑みて頂きたいのである。

  
  ▲〔東海公営史上最強馬ゴールドレット。23戦20勝、2着3回〕

     
     ▲〔トミシノポルンガ。32戦17勝。ダービーグランプリも制した東海の雄。アンカツの名パートナーの一頭〕

   
   ▲〔カキツバタロイヤルあのスマートファルコンの2着もある地方の強豪だ〕


安藤勝己はこの馬について、次のようなコメントを残している。

「こんな馬はおらん。オグリキャップと比べても、モノが全然違う」

「中央の馬なんて話にもならんやろ」

「短距離ならサクラシンゲキより速いと思ってるよ」

  
▲〔サクラシンゲキ。大逃げのレーススタイルから“日の丸特攻隊”の異名で親しまれた。26戦9勝。1981年の最優秀スプリンター〕


笠松時代の最高の名馬として、アンカツが挙げるのが、このサンキョウスーパーなのである。
中央へ挑戦したライデンリーダー、オグリキャップ、トミシノポルガ、東海最強の女傑マックスフリートらを差し置いての選出だけに、重みが違う。
18戦して12勝。
800〜1,200のダート戦なら、ロードカナロアすら敵わないと私は信じている。


1984年に引退。
そして――いま彼が伝説となってから20年の歳月が流れようとしている。
彼の背を知る名手は鞭を置き、彼を知る古翁たちも少なくなりつつある。



ダイワスカーレットやフェートノーザン、そしてキングカメハメハと比べてはどうなのか?
アンカツに詰問攻めにしたくもなるが、それにしてもあのオグリキャップと比較にもならないとは…
一体どれほど強い馬だったのか…。
時代を劈いた超電磁加速馬(レールガン)。
その真の破壊力を知るのは、安藤勝己、ただひとり―――…・・・・・ 。

  

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 06:41 * comments(0) * trackbacks(0) *

ツバサ・メモリー


今年のダービーでハナ差の2着に泣いたフェノーメノと蛯名騎手。
蛯名騎手は悔しさのあまり号泣したと聞いていますが、あれ程のジョッキーが人目も憚らず感情を表にしてしまうほどの栄光…やはり“ダービー”というタイトルは別格中の別格なのでしょう。勝った岩田騎手もディープブリランテに寄り添って涙していたくらいですし、武豊騎手がスペシャルウィークで勝った時も、天才とあろうことか鞭を落としてしまっていたというエピソードもあるくらい…。


さて、本題に入りたいと思います。
 蛯名騎手が、もしかしたらダービージョッキーに輝けていたのは、憶測勝手ながら2008年だったのではないか…と思うことがあるのです。
ディープスカイが勝った年。
騎乗していたのは四位騎手であり、2着はスマイルジャック。こちらも蛯名騎手とは密接な関係はありません。
それではなぜ、この年、天運さえ味方していればダービージョッキーになれていた…と私が考えるのか…。
それは一頭の存在が為。

その馬の名は…

ツバサ

父ホワイトマズル、母ガルフパール。母の父ジェイドロバリーという鹿毛の牡馬。
アパパネやマツリダゴッホで後に東の名伯楽となる国枝栄調教師の管理馬でした。国枝厩舎の期待馬は、ほとんどが蛯名騎手の手綱に託されます。
このツバサ号も例外ではありませんでした。


▲〔ツバサ〕

デビュー前から調教で物凄いモーションと躍動感溢れる闊達な走りで、POG大魔王の異名も取る丹下日出夫氏も、当時ブログやTV番組にて「すごい動きのツバサくん」と、人気サッカー漫画の主人公に準える形で紹介。
噂になる中ついに迎えたデビュー戦。
シャドーロールを揺らしながら翔動するツバサ。
なんと上がり3F33.7。東京2,000mのデビュー戦では破格の上がり時計で、豪快に3馬身も突き抜けて見せた。
そして、国枝氏はポツリと一言…

「ダービーを狙える馬」

デビュー戦だけで確実にGI馬になると思った馬は、ディープインパクト、スティルインラブ、キングヘイロー、アパパネ、ブエナビスタ、アグネスタキオン、クロフネ、アドマイヤコジーンなどいるが、この馬も間違いなくこれら名馬と遜色ないインパクトの残るデビュー戦でした。
もちろん、ブラックタイド、リアルヴィジョン、ウインラディウス、トリップ、オーシャンエイプスなど、大物の相を感知し期待を膨らませつつもGI獲りの夢叶わず散って行った馬たちがいるのも事実です。
しかし、この馬には途轍もない記録の裏付けがあるのです。
たった一戦、生涯ただ一度のこのレースだけで、彼は無限の才能があることをその翼音で滔々と物語っていたのです。


芝2,000デビュー戦
    における
後半1,000m
   歴代タイム一覧


位 ディープインパクト
 57秒8
(04年12月19日=阪神)

2位 カミノタサハラ
 58秒4
(12年11月25日=東京)

3位 ダイワスカーレット
 58秒6
(06年11月19日=京都)

4位 ファインモーション
 58秒7
(01年12月01日=阪神)

5位 ツバサ       
 58秒9(07年11月04日=東京)
※2012年11月24日まで、府中2,000mデビュー戦における最速タイム。


猛威を振るうディープ産駒を称賛する形で、先日のデビュー戦を圧勝したカミノタサハラを栗山求先生はご自身のブログの中でご紹介されています。
以下、『栗山求ブログ』「GIを狙える素材カミノタサハラ」からの引用となります。


芝2000mの新馬戦は、ほぼスローペースになるので全体時計では比較になりません。後半1000mは、持久力と速い脚――つまりは総合能力を端的に測ることができるので新馬戦の能力検定としては信頼できる指標です。ペースを問わずそれなりの結果が出てくる点がミソですね。

つまり、ツバサも脚部不安さえなければ…
「GIを勝てる名馬であった可能性が高い」ということです。
ディープインパクトは別格として、ダイワスカーレット、ファインモーションは牡馬ともガップリと組合、GIを複数勝った日本競馬史に残る名牝。その下に位置するツバサは、カミノタサハラが現れるまでは東京芝2,000デビュー歴代ナンバーワンの後半1,000m記録を持っていた馬なのです。


あの頃を思うと懐かしくも胸中に浮沈する寂寥感は叶わなかった恋の思い出か、それとも儚きツバサの残影からか――



それはもう、取り戻せない時間の彼方、桜舞する邯鄲の夢のごとし。
キラキラと輝くビー玉を覗きこむと、リフレインする翼の記憶。


たったの一戦でも夢光年を超越して思いを馳せた未来のダービー馬。


今でも信じている。
彼こそが、あの年のダービー馬だったと――。

▲〔爛劵魁璽瓩箸蓮古の沖縄に実在した白い幻の名馬。琉球競馬史上最強と謳われる伝説の名馬。たった1戦でターフを去ったツバサは現代のヒコーキに思えてきてならないのです…そのネーミングからも…ちなみにヒコーキ兇楼柄亜美空がトリビアにて上げておりますのでそちらをご覧くださいませ〕

  
▲〔謎が謎を呼ぶ翼馬。撮影年代、撮影地不明。鳥の羽根のようなものが、背中に生えていたという仔馬。半年から一年で突然息絶えてしまったという〕


【うみねこ選定!】

ヒコーキはこの馬!

犖義張劵魁璽

ヒコーキ


爛劵魁璽境

翼持つ馬INグレートブリテン


ヒコーキ鍬ツバサ

ヒコーキ
ゴールドシップ
ゴールドシップには…
 

 無限の可能性があると、私は信じている――…・・

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 21:14 * comments(0) * - *

タケシバオー



 〜過去にいた未来

犖義帖Σ物
     距離条件
    完全
    スーパーホース―
 
父 チャイナロック
母 タカツナミ
母父 ヤシママンナ

生年:1965年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:日本
生涯成績:29戦16勝[16-10-1-2]
主な勝鞍:天皇賞(春)、京都記念(春)、朝日盃3歳S、毎日王冠、ジュライS、東京4歳S、東京新聞杯、英国フェア開催記念(スプリンターズS)、3歳S(福島)ほか


その剛力猛々しい走りと豪風なるままのスピードは、その「昭和」という時代にどこかミスマッチな、アンビバレンスな感触さえも見つめる人々に抱懐させていた。
上手く表現しきれぬ無限の可能性と強さに、当時を生きたファンは牴物瓩箸いΠ豸譴砲修里垢戮討鮟弧鵑気刺集修靴った。
「元祖怪物」。それがタケシバオーを召喚する最大の讃辞にして爛ーワード瓩任△襦

さて、タケシバオーがなぜ「怪物」と称されるに至ったか。それはどんな競走条件も天候も馬場も斤量さえもいとわず、圧勝楽勝の連続で数々のレコードタイムを刻印していったことに他ならない。一流スプリンターから一流のステイヤーとまで鎬を削り圧倒しつづけた豪烈なる日々。その生涯を見つめ解いていくことにしよう。

野武士として生きる道
北海道は新冠町に生まれたタケシバオーは、決して期待のかけられていた存在などではなかった。
見栄えが悪く、後に手がける三井末太郎調教師のファーストインプレッションも「これが馬なのだろうかと思った」と語っているほど。
デビューの舞台となったのが1967年6月18日の新潟競馬場の新馬戦…ではなく、なんとオープン特別の芝1,000m戦。なんということかそこで2着とすると、2戦目でもチューリップS(芝1,000m)へと出陣し2着。その後、函館へと舞台を移し、同じく1,000m戦を6馬身差の大楽勝で待望の初勝利。この時手綱を握っていた中野渡清一騎手が以降主戦としてタケシバオーの背中に跨ることとなる。タケシバオーは初勝利を上げるやさらに旭日昇天の勢いで休む暇もなく闘い続ける。札幌から福島、福島から中山と転戦。5馬身…2馬身…3馬身半と圧勝の連続で3歳(現2歳)チャンピオン決定戦である朝日盃3歳Sへと駒を進める。ここには、初顔合わせとなるエリートホースであるアサカオーが出走してきていた。父ヒンドスタンはシンザンを送った大種牡馬。近親には英ダービー馬ピンザという当時選りすぐりの、煌びやかな光をまとった、いわゆる「良血馬」だった。対するタケシバオーは血統がパッとせず、当時のチャイナロックは活躍馬を出せず辛酸を舐める時代。母タカツナミも大井競馬で未勝利だった馬なのだから、お世辞にも血統を褒められるような存在でなかったことは、容易に想像できよう。
「エリート」対「野武士」。まさにそんな構図の中、火花を散らした対決が、木枯らしふきさぶ中山を舞台に展開されたが、蓋を開ければタケシバオーのワンサイド勝ち。7馬身差の圧勝だった。

元祖・三強
新たな一年の1ページが捲られてからも、タケシバオーに陰りは見られず、むしろその勢いは急速的に加速度を上げているかのようだった。
年明け初戦を5馬身。つづく東京4歳S(芝1,800m。この年はダート変更になりダート1,700mで開催された。現共同通信杯)を8馬身差も引き離し、レコードのオマケ付き。鬼神のごときあまりの強さにクラシック確実…の声も上がりそうなものだったが、この年タケシバオーに匹敵する大物が関西にも君臨していたのである。それがマーチスである。「タニノ」の冠号でお馴染みカントリー牧場出生の栗毛馬で、暮れのもう一つの3歳チャンピオン決定戦・阪神3歳S(芝1,600m。現・阪神ジェベナイルフィリーズ。当時は関西の2歳王者決定戦で、牝馬限定戦ではなかった)を鮮やかな差し切り勝ちを決めていた。そしてアサカオーも朝日盃後に巻き返し、エリートホースらしい輝きを取り戻していた。
こうして3頭が初めて顔を揃えることになったのがクラシック登竜門・弥生賞(芝2,000m)であった。初の三強対決となった一戦はアサカオーが優勝。2着タケシバオー、3着マーチス。最終トライアルのスプリングS(芝1,800m)ではマーチスが優勝をもぎとり、2着タケシバオー、3着アサカオー。そうして迎えた本番・皐月賞(芝2,000m)ではマーチスが戴冠。タケシバオーは三度目の2着、アサカオーは3着に敗れるが、4着はなんと3頭からさらに5馬身も引き離されてしまっていた。完全な3強時代の到来。きっとダービーも菊花賞も、そしてその先の未来も、この3頭の時代がつづくのではないか…そんな淡い幻が中山の中空をおぼろげながらに浮遊していた。

  
▲〔マーチス。31戦14勝。阪神3歳Sと皐月賞を制するも、古馬になってからは大きなタイトルと取ることなく引退していった。〕


▲〔アサカオー。24戦8勝。菊花賞を勝ち、1968年の年度代表馬にも選ばれる。しかしマーチスに同じく古馬としてビッグタイトルを手にすることはなかった〕

犲畦璽澄璽咫辞瓠なんとこの年のダービーは7月7日に開催されていた。東京競馬場の改修工事に伴う日程変更によるものである。三強の強さはもはや誰しもが知っていた。それゆえか、各三強陣営は執拗に3頭のみに意識を向け過ぎていたようにも見て取れる。結果牽制し過ぎたことで、伏兵タニノハローモアの逃げ切りを許してしまったのである。
この時、またしてもタケシバオーは2着。3着アサカオー、マーチスは4着と、それぞれ苦杯を舐める結果と終わった。

  
▲〔タニノハローモア〕

タケシバオーは秋風がススキをなびかせる頃、大衆の期待を背に海を渡ることとなる。
遠征先は米国ローレル競馬場。ワシントンDC国際(芝2,400m)へと出走することになったのである。過去の遠征馬とは違い、まだまだ未知の可能性を秘めた牴物瓩粒こ葦鸚。「この馬ならもしかしたら…」が心の片隅、否が応にも囁きかける。しかし、体調を崩し、とても万全の態勢ではないまま本番を迎えることになってしまう。体調難を押して出走するも、勝ち馬サーアイヴァーにトモを引っ掛けられるアクシデントに見舞われ、心折れたのか最下位へと転落していまう。アウェーの洗礼を受け踵を返す他なかったタケシバオーの瞳には、エナジーの炎が滾り立ちつつあった。


覚醒の1:41.9。
タケシバオー不在の菊花賞は、アサカオーが最後の一冠を奪取。2着ダテホーライ。マーチスは3強と皐月賞馬のプライドを見せ、なんとか3着に食い込んだ。
有馬記念が呼ぶ心のざわめきと、クリスマスソングが街角を賑わす頃、帰国したタケシバオーは翌年への糧とすべく調整が進められていた。これまでの先行策を捨て、差し追い込みに転じてみよう…という試行錯誤が練られていたのである。これがタケシバオーの本格化の時期とも重なった為か、1969年のタケシバオーは無敵の巨獣へと変貌を遂げることになる。
年始の一戦は2着と甘んじるが、東京新聞杯(ダ2,100m)でその巨神のポテンシャルがついに開放される――…持ったまま6馬身差の大差勝ち。しかもタイムは驚異的レコード。当時ダートの2,100で10秒台を切る馬が現れようなど、誰も想像していなかった。
つづいてのオープン特別(ダ1,700m)は伝説の一戦となった。タケシバオーは暴走気味に掛り、グングンと猛加速。直線に入ってもリードは広がる一方で、大差の大楽勝。この時記録したレコードタイムは、なんと1:41.9!しかも60圓箸い酷量を背負っての、掛かり通しでマークしたものなのだから開いた口が塞がらない。


各競馬場の
   ダート
1,700m
  レコード一覧表


【札幌】 1分41秒7(不良)
=マチカネニホンバレ(55キロ)
<平成21年記録>

【中山】 1分43秒1(重)
=エルフォルク(53キロ)
<昭和51年年記録>

【函館】1分43秒1(やや重)
=ランフォルセ(57キロ)
<平成23年記録>

【小倉】 1分41秒8(不良)
=サンライズキング(56キロ)
<平成18年記録>

【福島】 1分43秒3(良)
=ゼンノストライカー(57キロ)
<平成18年記録>

【新潟】 1分46秒6(良)
=マカリオス(57キロ)
<平成23年記録>

…施工回数のほぼゼロに等しい中山を除いてみると、すべて平成に入ってからのレコードで、現役ダート界の一線級で活躍するランフォルセの全盛時のタイムとタケシバオーのタイムを比較してみれば、タケシバオーのモンスターぶりを嫌と言う程実感できよう。41秒台を出したマチカネニホンバレとサンライズキングは、確かに凄い。しかし、タケシバオーが背負っていた斤量は5kg近く多かったことを思えば、戦慄が走り、背中にゾクっと震えが来る。

さて、話を俎上に戻そう。その驚異的パフォーマンスから約2週間後、今度は京都競馬場で天皇賞の試走を兼ねた京都記念(春)へ出陣。今度は62kgを背負い、重馬場をものともせず勝利。さらには阪神のマイルのオープン特別へ矛先を向け、なんということか9馬身も千切り捨ててのレコード勝ち。その直後、2マイルの天皇賞を34秒9という当時では考えられないような尋常ならざる3Fでアサカオーを葬り去った。もはや、アサカオーもマーチスも、ライバルとして成り立たず、ただの引き立て役すら精一杯だった。

  
▲〔天皇賞勝利後のタケシバオー。獲得賞金は初の1憶円を突破した〕

天皇賞後、タケシバオーはジュライS(芝1,800m)へと出走。この時、馬場は最悪のコンディションでドロドロの不良。その上65kgという拷問にも近い斤量がタケシバオーの肩にのせられた。それにもかかわらず、涼しい顔で軽斤量馬を交わし去り、千切ってゆくタケシバオー。
国内敵無しは当たり前、この頃になるとタケシバオーは…
「斤量100Kgが妥当」だとか
「横綱・大鵬が乗っても勝てる」…
…とまで持て囃される存在へと昇華していた。



▲〔横綱・大鵬。幕内優勝回数32回。内全勝優勝8回。45連勝、そして生涯勝率.827。不滅の大横綱だ。〕


▲〔69年秋の始動戦となったダート2,100mの毎日王冠。クロフネのような雄大かつ幽玄なる足取りで楽々と3馬身半差持ったまま圧勝のタケシバオー〕

毎日王冠で始動。そしてこの後、スプリンターズS(芝1,200m)へと出走したのである。天皇賞を勝った馬が…である!当年のこのレースは英国フェア開催記念と銘打たれていた。当時はまだGI級の扱いではなかったものの(グレード制導入は84年)、出走馬のレベルは高く、この年も皐月賞と有馬記念を勝ったリュウズキも出走してきていたのである。タケシバオーはここでも62kgという重量と闘い、見事勝利。なんとなんと、ここでもレコード…!たしかに、これほどのレースぶりで怪物と呼ばれない方がどうかしている。

無敵の狂龍と化したタケシバオーは騎獣の勢い駆って再度の海外遠征を試みた。昨年の忘れ物を取りに、向かうはローレル競馬場。今回なら、覚醒したタケシバオーならきっと勝てる…ファンはそう祈望を膨らましていたに違いない。しかし…天意はタケシバオーに辛く当たった。熱を出し、呻らされるタケシバオー。フラフラになりながらも、陣営はタケシバオーのポテンシャルに賭けた――。
「折角ここまで来たのだから…」と送り出されたタケシバオーは、またも屈辱の最下位。さすがの怪物も疾病を患ったまま海外の強豪相手に伍する程甘くはなかったのか…。

忸怩たる失意のレースを最後に、タケシバオーはターフを去った。
彼は種牡馬としても怪物ぶりを発揮し、活躍馬を次々と送った。海外からの種牡馬の活躍には及ばぬものの、決して劣らぬ成績を残し続けていったのだから立派だ。



▲[南関東三冠馬ハツシバオーもタケシバオーの代表産駒の一頭だ。他には東西金杯制覇という快挙も成し遂げたドウカンヤシマなどが有名]


内国産種牡馬たちが冷遇な扱いを受けていた受難の時代の活躍だからこそ、その光輝は映えよう。


〜過去にいた再来〜
後にオグリキャップ、ナリタブライアン、グラスワンダーらが牴物瓩半里気譴覲萍をすることになる訳だが、怪物の異名が最もふさわしいのはタケシバオーなのかもしれない。犖義牒瓩許される唯一の存在だからこその感覚なのかもしれないが。
もし…もしもタケシバオーが現代競馬に降臨し、一から競走馬として生涯を歩くとしたら、一体どれほどの活躍ができるだろうか。調教技術、交通手段が遙かに進化し、騎乗レベルも上がった現代。タケシバオーの真120%を解放したその雄姿が、一目見たくて夢想する――

  

クロフネ再来を夢見るいまも、その存在はひょっとしたら過去、昭和の時代に犖義腸物瓩箸靴瞳臨していたのかもしれない。
競走生活晩年、主戦として手綱を握った古山良司氏は後年、次のように語っている。
「タケシバオーが、現代の競走体系で走っていたらダート交流戦を使うでしょうね。最大目標はジャパンカップダート。いまのトップホースたちに敵うかって?当然勝てるでしょう」

いつの日か、また犖義腸物瓩醗える日を心待ちに今宵も甘い夢を見るとしよう――…・・・。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 05:56 * comments(1) * - *

レーヴディソール=Rеve d'Essor

レーヴディソール

 〜ける

悲運・悲涙に暮れた
    幻想的女傑



父 アグネスタキオン
母 レーヴドスカー
母父 ハイエストオナー

生年:2008年
性別:牝
毛色:芦毛
調教国:日本
生涯成績:6戦4勝
[4-0-0-2]
主な勝鞍:阪神ジェベナイルフィリーズ、チューリップ賞、デイリー杯2歳S

それは一瞬のことだった―――…

瞬く間…
一刹那、玉響の瞬刻。

デビューの2010年9月11日から2011年の3月30日までの時節、父タキオンが駆けた光速の軌跡をなぞるかのような、儚くも幾千もの夢がたゆたった至福の時韻。

淡く切ない
サクランボメモリーの旋律…
あどけない瞳に
ピンクホワイトの馬体…
兎の様なサラブレッド。
彼女の駆けた風色を――
ベランダから見つめた青空は…
そう…
あの頃に見上げた空色はいつも猝歓Л瓩世辰拭



飛翔の夢。
クラシックに、世界の空へと舞うことなく夢泡へと帰っした戻らない「想い」。

レースの最終最後に見せた光速すらも超過超越する瞬転の閃き。
あの末脚に、我々はこのあどけない純粋無垢なる可憐な少女に、牝馬三冠はおろか、ダービーを、さらには凱旋門賞を未来の空へ投影していた。
それほどの可能性を秘めた、幻惑的なほどに魅力的だった競走馬。
それが彼女、レーヴディソールだった。
大望巨夢の空を舞った彼女の記憶をここに記す―――…・・・・・・

薄幸の美少女
レーヴディソールは、2008年4月8日、北海道は安平町のノーザンファームに生を受けた。
父アグネスタキオン、母レーヴドスカーという血統。例年POGや一口馬主では注目の的となるが、誰しもが大きな危惧を抱くのもまたこの血統。
それというのも、そのはず。この血筋を受け継ぐ馬たちは皆、呪われたかのように不運・不遇の生涯を送っているのであるから。
下記の一覧を見て頂ければお分かりの通り、レーヴドスカーの仔たちは不思議と体質が貧弱・脆弱な一面を孕んでおり、やけに不幸染みた最期を迎えている馬がほとんどなのである。


レーヴドスカーの子供たち

リーガルシルク(一番仔)
⇒父ドバイミレニアム。ゴドルフィンの持ち馬だったが、2004年に死亡。

ナイアガラ(第二仔)
⇒父ファンタスティックライト。金子真人氏の持ち馬として活躍。地方競馬へと転入。その後
詳しい行方は不明。

レーヴダムール(第三仔)
⇒父ファルブラヴ。阪神JFにて、わずかキャリア1戦での連対を果たすが、2008年12月19日死亡。死因は骨盤骨折による内出血だった。

アプレザンレーヴ(第四仔)
⇒父シンボリクリスエス。2009年の青葉賞を勝つも、左前浅屈腱炎を発症し、引退に追い込まれてしまう。

レーヴドリアン(第五仔)
⇒父スペシャルウィーク。2010年、いわゆる“最強世代”の一頭として活躍するも、調教時の不幸により同年11月11日、この世を去っている。

レーヴは父が有力馬や素質馬に故障離脱馬の目立つアグネスタキオンに変わった事で、なおさら言い知れぬ胸騒ぎと疑惧とを周囲に抱かせ煩慮、憂患を重ねさせることとなった。
血統超一流も鬼胎を抱かざるを得ない薄幸の美少女。
幼少時のレーヴディソールは、そんな外界に飛び交う不穏な囁きなどどこ吹く風と、元気に育ち、天真爛漫と競走馬としての手解きを受けていった。

天翔る夢の閃き
レーヴディソールのデビュー戦は夏の北海道開催、9月11日の札幌競馬場の芝1,500m。中団のインを追走し直線へ向くやあっという間に先頭を捉え、後のアーリントンカップ馬ノーザンリバーを楽に差し切り、見事デビュー勝ちを果たした。
並みの馬ではとても届かないような位置からの追い込みで、これはまた一頭、相当な素質馬が現れたと、あらゆる場所で話題となった。

▲〔デビュー戦のゴール前。この時の鞍上は中館英二騎手。以降全戦にて福永祐一騎手が手綱を握る。〕

2戦目に選定されたのが、牝馬限定の重賞ではなく、牡馬混合のデイリー杯2歳Sであったことに、その期待の大きさが反映されていた。
ここにはこの後に朝日杯フューチュリティSと翌年のNHKマイルCを勝つグランプリボス、夏の小倉にて出色の内容で未勝利を圧勝してきたメイショウナルトらも出走してきていたが、全く問題にもせず、大外から一気に巻くりあげ、残り100mで先頭に立ち、流しながらゴール。前脚を高く上げ蹴りつける独特のフォーム、後方からいつの間にか先頭に立つ極上のキレと瞬発力に多くの者が魅了され始めていた。

▲〔デイリー杯の牝馬による優勝は1996年のシーキングザパール以来、14年ぶりのことだった。〕



▲〔阪神JFの4コーナー、一気に上がっていくレーヴディソール。このレースは1着から3着まですべて芦毛馬という珍しい結果になったレースでもある〕

3戦目となったのは2歳牝馬チャンピオン決定戦の阪神ジュベナイルフィリーズ。ここには強敵が揃った。札幌2歳Sで牡馬相手に2着と好走し、翌年の秋華賞を勝つアヴェンチュラ。芙蓉Sを勝ち、翌年の牝馬三冠戦線で崩れず戦い抜くホエールキャプチャ、名門・藤沢厩舎が送り出すダンスインザムードの娘で2戦2勝のダンスファンタジア。ファンタジーSを勝ったマルモセーラ…。
この強力メンバーを相手に、レーヴディソールを福永はどう手繰ったか――。
やはり後方待機策だった。しかし、レースはスローで展開され前方をゆく有力馬たちに勝利は転がり込むかのようにもレース途中から見え始めていた。しかし、福永はこの馬の内包する絶大無比のポテンシャルを信じきっていた。3コーナー過ぎから徐々にポジションを上げ、4コーナーで一気の捲り。ホエールキャプチャ、ライステラス、アヴェンチュラらが粉骨砕身、必死の追い上げを見せる中、なんと一鞭もくれることなく、軽いサインを送るだけで信じ難い瞬発性能を開眼させると、改修後の阪神コースで行われたJF最速の3ハロン、33.9を馬なりで叩き出し、優勝してしまったのである。

「今日は最小限の力で勝たせました」

破顔一笑。白き女傑に惚れ込んだ男が、白い歯を見せ、大願を師走の空へと投影させた。


▲〔空飛ぶ木馬。直線最後のアクセレーションと独特のフォームからその姿は空を飛ぶ木馬のようにも見えた。〕

レーヴディソールはウオッカやアパパネ以上のレーティングを獲得。
同厩舎の大先輩ブエナビスタのレーティングには及ばなかったものの、誰しもがウオッカ、ダイワスカーレット、ブエナビスタといった牡馬をも打ちのめす女傑・女帝の系譜を継承する存在だと、胸中で確信めいた何かが、萌芽しはじめていた。

ところでこの桁外れの瞬発力、いい表現・称号は何かないものかと考えてみたのだが、私は狹傑討詭瓦料き瓩噺討屬海箸砲靴拭この由来となっているのが、週間少年ジャンプにて連載され大人気を博した少年漫画『るろうに剣心 −明治剣客浪漫譚−』の主人公・緋村剣心の使う飛天御剣流、その奥義・天翔龍閃(あまかけるりゅうのひらめき)。
この奥義は超神速の抜刀術。右足を前にして抜刀する抜刀術の常識(通常、抜刀術は刀は左から抜刀するため、左足を前にすると抜刀時に斬ってしまう危険性があるため)を覆し、抜刀する瞬間に絶妙のタイミングで鞘側の足、つまり左足を踏み出し、その踏み込みによって刀を加速し神速の抜刀術を、超神速にまで昇華させる…というもので、まさに瞬刻の刹那、直線最後に見せるレーヴディソールの天性の瞬速力を現すにふさわしいと感知しての命名であった訳である。
完全に余談だが、あのゴールまえのダイナミックなモーションと豪快なフットワーク、そしてその一弾指のスピードを一言で表現する言葉が、欲しくてたまらなかった。それほどに彼女の瞬発力は魅惑的なものだったのだ。

ディープを超えた奇跡
レーヴディソールが、桜花賞へ向けての始動戦を迎えることとなった。
牝馬、しかもまだ2歳のGIを1勝しただけの馬。その馬がなんと新聞各紙の一面を飾っている。
信じられない光景である。そしてその単勝支持率は史上空前のものへと昇っていく。
チューリップ賞の最終単勝支持率はなんと81.4%。
ディープインパクトの菊花賞が79.03%を超える驚天動地の支持率である。
ファン、関係者皆の仰望を一身に受け止めたレーヴディソール=福永は期待通りの大楽勝を展開させる。
ステッキどころか、一度も追われることなく、見せ鞭とゴーサインだけで、馬なりのまま4馬身差の超楽勝。これほど楽に重賞を勝つ馬がいようとは…。ディープの阪神大賞典やタイキシャトルの京王杯SC以上の衝撃的大楽勝だった。
この大勝に犧までに乗ったことがない馬瓩班召掘遠回りながらもかつて自らが手綱をとった名牝シーザリオ、ラインクラフトらを上回る評価を与えている。
そしてチューリップ賞後、親しい仲の者には「この娘、マジはんぱねぇーよ!!」と興奮気味に語っている姿もあったという。
桜花賞はもちろん、牝馬三冠確定の声も上がり、中には「ダービーへ出て欲しい」と願う者も現れ始めた。栗東や美浦のトレセンでもこの馬の噂は凄まじく、「凱旋門でもきっと勝負になる」との囁きもあったという。
敵は己の中潜む悲運の血筋のみ。
誰もが無事と幸運を願った―――。


悪夢に飲まれた
     儚き夢の物語
2011年3月11日、午後2時46分。
宮城県牡鹿半島の東南東沖の海底を震源としたマグニチュード9.0という日本史上最大規模の大地震が発生。太平洋沿岸部を中心に壊滅的甚大なる被害をもたらした。
この未曾有の大震災直後のことだった。


3月30日。レーヴディソール骨折。
右前脚のトウ骨遠位端部分の骨折が判明したのである。


天翔る銀髪の少女の夢物語は、儚くも散った。
そう、この日の空に。
 
ガラス玉のような、いつ砕けてもおかしくない繊細精緻な脚だった。
誰しもが、懼れていた。
「いつかきっと故障してしまう日が来るに違いない…いやでもこの馬は特別に違いない」
レーヴディソールのニュースが上がる度に上がる心拍数。
無事だ。今日も何事もなかった…
とにかく無事にクラシックへ…――。
しかし、それは悪夢は現実となった。
まるで大震災に飲み込まれるかのように、夢を追う少女の物語はバラバラに砕かれてしまったのである。

「このまま引退したほうがいい。」

「もう一度あの走りがみたい」

意見は二つに分かれていた。骨折後も競走能力を変わらず発揮できる馬もいるが、大半は長期休養を要され、復帰後は怪我前とのギャップに苛まれ、全開することなく競馬場を去るか、怪我の再発に蝕まれる運命。レーヴディソールのあの天空を翔る走りは、もう二度と戻らないだろうと、私はこの時、心のどこかで確信めいたものを感得していた。

その後レーヴは放牧に出され、陣営の弛まぬ努力から、レーヴディソールは復帰の道を歩み出していった。

しかし――…・・・

復帰戦エリザベス女王杯、11着。

二戦目の愛知杯、4着。

あのレーヴディソールは、天翔る夢の閃きは、輝き方を忘れ、空を舞うことすら叶わなくなっていた。少女は翼をもがれ、地面へと叩きつけられた――…
大いなる大空を、翔舞する夢を断たれた少女が、インフェルノの亀裂へと転げ落ちてゆく――。

2012年、2月29日。
レーヴディソールの引退が決まった。

夢の空、遠き空。
あの日あの時、
飲みこまれていった夢の空を、
白い翼で一瞬の閃きを見せた彼女との日々、その空たちを。
私たちは、ずっと忘れない。

  
いつか見る夢の空を翔ぶために――・・・・。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 06:05 * comments(0) * - *

ヒカルタカイ



しえなる大差勝ち

天皇賞史
  伝説
18馬身
歴史的地方初の三冠馬


父 リンボー
母 ホマレタカイ
母父 ハクリヨウ

生年:1964年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:日本
生涯成績:31戦15勝[15-10-3-3](地方20戦12勝、中央12戦3勝)
主な勝鞍:南関東三冠[羽田盃、東京ダービー、東京王冠賞]、天皇賞(春)、宝塚記念、全日本3歳優駿、黒潮盃、青雲賞ほか

絶唱、絶句。
   極致的大差勝ち

「ヒカルタカイ1着でゴールイン。ヒカルタカイが1着だが、2着にはタイヨウが伸びる、タイヨウが伸びる、ヤマニリュウが粘る、タイヨウが2着に上がる、タイヨウが上がるか、タイヨウが上がるか、1着ヒカルタカイ、2着にタイヨウが入りました。」

この実況はヒカルタカイ1着入線後、約2秒の間に織り成された実況の一部始終である。
クラシック八大競走でも最古の歴史を誇る天皇賞史において刻まれたGI級競走最大着差。その差は秒間にして2秒8。着差に換算すると18馬身差という途方もない記録になる。諸説・文献によっては17馬身差と記してある文面も見られるが、ヒカルタカイがとてつもなく強かったことと、凄まじいまでの大差勝ちだったことは容易に感知できよう。
GI級の大レースで10馬身を超える大差が記録されることはそうあったものではない。
それもクラシック競走となればなおさらで、クリフジの菊花賞、テスコガビーの桜花賞など、数える程しかない。ちなみに日本のGI競走において15馬身以上となる大差勝ちはヒカルタカイの、この天皇賞における大差勝ちしか、2012年現在、存在していない。
史上稀に見る歴史的大勝を上げたヒカルタカイとは一体全体どのような馬だったのか。
その生涯の顚末を1ページずつめくっていきたい。

史上初・南関東三冠馬
ヒカルタカイは1964年の4月9日、北海道新冠の吉田勇牧場に生を受けた。
たった一頭の繁殖牝馬の牧場で、幼駒もたった一頭…つまりはこのヒカルタカイただ一頭という零細牧場の片隅で、宝物のように育てられた。
しかし、幼少時は誰の目にも平凡に映っていたようで、80万円という競走馬としては破格の安さで売られていくこととなった。この暴落的安価の誘因は三つ。一つは前述のように至って平々凡々に見えていたこと。また一つが母親のホマレタカイ。この馬は初代年度代表馬のハクリヨウの仔だったが、大井で7戦未勝利に終わり、良い所なく抽選馬として売却されていった。また三代遡っても未勝利という三流の血統的背景。そして三つ目に、脚部に抱えた慢性的不安。これらが総合しての低評価によるものだった。
1966年、大井競馬場の鏑木文一郎厩舎へと預けられたヒカルタカイは、人間側の不安憶測など跳ね返すように逞しく育ち、昭和41年7月8日にデビューを果たした。ダートの1,000m戦で、竹山隆騎手が手綱を取り、アサヒエリーという馬に8馬身差の大差勝ち。以後、竹山騎手が主戦として南関東の猛者たちと鎬を削っていくこととなる。
2戦目(7月16日)はデビュー戦以上の大楽勝で、1:00.2という驚愕の時計で圧勝。デビュー戦より2秒近く早く、それでいて楽だったことから、大物出現か…の声も俄かにチラツキ始めていた。
少し間が開いての3戦目も当然の大楽勝で、地方敵なしの英雄出現かにも思えたが、川崎に遠征しオールカツプの2着と初じめて土をつけられてしまう。さらには大井へと戻っての三歳特別(ダ1,400m)も一度下したジンライオーに先着を許し2着。ファンも期待の中に微少ながら陰りを感じ、見つめた3歳(現在の2歳)王者決定戦となる青雲賞と全日本3歳優駿を圧勝で決め、オールカツプに雪辱。地方最強の3歳王者の玉座へとつき、南関東三冠ロードを突き進んでいく。
年始に遠征した浦和のニューイヤーC(ダ1,600m)でまたしてもオールカツプに先着を許し、大井に戻っての中距離特別(ダ1,800m)に至っては、初となる連対圏外となる3着に敗れてしまう。
しかし、ここからが本領発揮。父系に流れるマンノウォーの血が覚醒の時を迎えていた。
当時を振り返り、主戦の竹山氏はこう語っている。

後肢の蹴りの強い馬で、全身バネで走る感じ。性格も素直で”ホラホラ”という指示通りに動いた馬です。あの年では群を抜いていましたね。あんな凄い馬は最近いません。生涯忘れられない名馬でした」

仕切り直しの1戦として出走したレースはC2,B3特別(ダ1,800m)。なんと古馬相手のレースを選択してきたのである。まだ4歳(現在の3歳)を迎えたばかりの若駒が古馬に公式のレースで挑むというのは、たとえ相手古馬が条件馬であっても相当な壁である。しかし、事も無げにヒカルタカイは快勝。続くB2,C1特別(ダ1,800m)も圧勝で決め、公営クラシックへと改めて帆を上げた。羽田盃のステップ、黒潮盃(ダ1,800m)も古馬撃破の勢いそのままに踏破。そしてついに南関東一冠目の羽田盃(ダ2,000m)へと駒を進めた。ここも自信たっぷりと、早くも3コーナーから進出開始し先頭。そのまま楽に3馬身差の圧勝。そして二冠目、東京ダービー(ダ2,400m)を迎える。今度はスタートから飛ばし、グングンと加速し続けた。最終コーナーを周る時、そのリードは10馬身にも広がっており、もうどう足掻いても他馬の出る幕はなかった。完全なる独走。完全なる独り旅に場内は騒然となった。結果12馬身差。大差のダービー大楽勝。歴史的二冠馬誕生に、誰もが犹梓馬瓩了以源を意識した。
小さな馬体の躍動するその先に、まだ見ぬ未来を誰しもが予感していた。もう夢でもない現実的感触。史上初となる公営三冠馬爆誕はすぐそこまで迫っていた。

11月5日。ついに三冠の大儀が降り注ぐ1日に、朝日が昇った――。
二冠達成後、休養明け叩き2戦を共に3着。増えた馬体444圓亘全の証。
ところがである。東京オリンピック記念(ダ2,400m)にてトヨカメオーの後塵を拝し、叩き2戦目なら圧勝と思われていたところの敗戦には焦りが感じられなくもなかった。その焦りが竹山氏の不運を招来させてしまったのかもしれない。落馬事故に遭い、ヒカルタカイの三冠目、東京王冠賞(ダ2,400m)での騎乗が絶望となってしまったのである。代打に出たのが竹山氏の兄弟子である須田茂氏。さすがは歴戦のジョッキー。この大一番を番手につけ、ゆっくりと周回、逃げるビューティブラザーただ一頭を目標に競馬を進めた。しかし、後方では連戦連勝で騎虎の勢いにあるマーブルアーチがギラリと睨みをきかせていた。
直線。先頭馬を捉え、ヒカルタカイ先頭。突き放しにかかり、今回も大差の大楽勝に思われたその瞬間、マーブルアーチが物凄い脚で迫ってくる。二冠とも2着のビューティブラザーを交わし、ヒカルタカイも交わす勢いだったが、そこは二冠馬。意地のもう一伸びで、先頭を守りきり、1馬身半差でゴールイン。史上初となる南関東三冠馬の誕生だった。
その後、竹山騎手が復帰しての東京大賞典(ダ3,000m)で2着、年明けての新春盃(ダ2,000m)でも2着と惜敗するが、威風堂々たる競馬ぶりで、決して三冠馬の称号が色褪せるような内容ではなかった。勝つべきは天皇賞。中央へと向かうべく、ヒカルタカイは調整が進められた。


天空で輝きし者、
  常しえの大差勝ち

中央競馬へと移籍したヒカルタカイは、藤本富良調教師の袂へと渡った。
主戦騎手も当然と替った。第一戦、二戦目は藤本勝彦騎手が騎乗したが、共に2着。初戦は1番人気の支持を受けるも、稀代のクセ馬カブトシローの大駆けの前に為す術なく1秒8差もの大差負けを喫してしまった。天皇賞を前にしたオープン(芝1,600m)では爛潺好拭雫デ廊瓩海般酳人監鶺骸蠅縫丱肇鵐織奪繊このレースではなんと62圓發旅麥未鯒愽蕕ぁ2着。どんな悪条件でも、負けても2着。連対を外さないことで、さすがは三冠馬と、その能力の高さは誰しもが認め始めていた。
しかし、この一戦で初騎乗となった野平氏は、「この馬が天皇賞を勝つな…」と、確信めいた手応えを、確かに感じ取っていたという。
そんな中迎えた天皇賞。圧倒的1番人気と、南関東の熱い声援を背に、晴れの大舞台。ニホンピロエースが作る流れを早め三番手。見つめる視線の先、地方時代に首っ丈になっていた陣営とファンは大差勝ちを予感する。

「これは…東京ダービーと同じ展開じゃないか…」

2番手につけるヤマリユウの外、3コーナーの下りの坂から外へと持ち出し一気の猛スパート開始。グングンと突き放しにかかり、あの東京ダービーとピタリ重なる最終コーナーが京都の一角に再現された。
7馬身…8馬身…9馬身…そして10馬身に馬身差が広がるも、さらに加速の一途。


▲〔後続を引き離し、ゴールへ向かうヒカルタカイ。野平氏の天皇賞後のコメントは以下の通り。「ごらんの通りです。いいレース(接戦)をしたかったが、相手を待っているわけにはいきませんからね。私はなんの苦労もせず、いかに勝つかを考えて乗っていたら馬が自由に走ってくれました」〕

まるで天空を翔け上がる馬のごとく、ただ一頭、疾駆してゆくヒカルタカイ。大独走劇だった。マンノウォーが見せた100馬身神話を、一部切り取って現実に落ちてきたような、幻想的光景。18馬身、17馬身と呼ばれるGI級競走類例を見ない大差勝ちはマンノウォーから時空を超えてヒカルタカイへと渡された威令だったのかもしれない。
飛空船のようなその走りと超激的圧勝に、誰しもが唖然とした。
2着タイヨウの日野哲也騎手はただ一言。「あほらしい」と捨て台詞を吐いたと言われる。
一方で、重馬場だから勝てた、最強メンバーが揃っていなかったから勝てた…という声も聞かれた。いつの時代でも、強い馬にアンチはつきものである。そしてそうしたアンチが粉微塵に粉砕される瞬間も…
そう、ヒカルタカイはこの後出走する宝塚記念にて中央初戦に鉄槌を下されたカブトシローをはじめとした当時の中央最強クラスを向こうに回し、レコードで駆け抜けたのである。2:14.7。当時の日本レコードだった。
良馬場でも、強いメンバーと走っても、その強さ、その走りは変わらなかったのである。
この一戦を境に、もはや誰しもがこの名馬の強さを懐疑的に見ることなどなくなる。

最後に、天皇賞を共に大差勝ちした野平祐二氏の言葉で締めくくりたい。

「天皇賞、宝塚記念に限れば競走馬として完成された非の打ちどころのない最強馬でした。ヒカルタカイは弾力があり、すべてに大きく見せる男性的な馬でした。とにかく犇い瓩琉豸譴某圓る」

後に皇帝と称される日本競馬史上初の無敗三冠馬、シンボリルドルフを手懸けることとなる男の言葉である。
永久不滅、未来永劫の大差勝ち。
常しえの18馬身差。
この記録を敗れる名馬は、はたして現れるのだろうか―――。


奇跡の名馬 (日本の名馬) * 21:12 * comments(0) * - *

飛燕爛轡蹈張丱甅



りし瞬刻(とき)

―またの名を
  シロツバメ
 日本神話名馬


父 ???
母 ???
母父 ???

生年:???年
性別:?
毛色:白毛
調教国:日本
生涯成績:???

幽邃なる正倉院の奥、ひっそりと鎮座し続ける聖武天皇の遺愛品の数々。
その宝物中に、白く翼を持った馬が描かれた銀壺がある。

馬は壺の胴部に刻描されており、草花が咲き乱れる草原の中を風のように疾駆し、羊や鹿、兎、猪を追う情景が展開されている。馬の周囲には鳥や蝶が飛び交っているようだ。
騎乗しているのは聖武天皇ご自身だろうか。どうにも位の高そうな武人・貴人であることに間違いはなさそうだ。

   
   ▲〔聖武天皇〕

日本最古の競馬の記録は701年(大宝元年)に遡及されるという。
これは聖武天皇の誕生年と重なっていることも興味深い。その天子が天翅として駆ったこの白馬、ツバメと伍すか、それ以上の神速を持った神駿だったようである。
その真偽の程はさておき、当時の競べ馬(くらべうま)において神威的強さだったらしく、他を霞めるほど暁の果てまで突き放していたと口伝されている。
正式な呼称は不明瞭なのだが、ここではツバメのようなスピードから、猗燕瓩噺討个擦督困。
馬体が白いだけに、爛轡蹈張丱甅瓩睥匹いもしれない。


▲〔白いツバメは“幸せを運ぶ”という。幸運の象徴。1万〜10万羽に一頭の割合で誕生すると言われる〕

しかし果たして、この馬は本当に翼をもっていたというのであろうか?
突然変異の一種だったとも推察されるが、翼が実際にあったのか…と聞かれれば、それには疑念を抱かざるを得ない。恐らくは翼を宿したがごとくの尋常ざる韋駄天だったということの比喩表現だったのではないか。英国においてフライングチルダーズが飛ぶように速いことから爛侫薀ぅ鵐悪瓩琉枉里付け加えられ、爛侫薀ぅ鵐哀船襯澄璽梱瓩噺討个譴襪茲Δ砲覆辰燭茲Δ法△泙晋渋紊埜世Δ覆譴丱妊ープインパクトを「空飛ぶ英雄」、「平成の天馬」と呼んだように、有翼馬は当時ならではの、駿馬に対する称賛の顕われだったのではないのだろうか。


  
  天馬と呼ばれた
   
名馬たち

フライングチルダーズ


ヒコーキ


トウショウボーイ


ディープインパクト



ちなみに、この飛燕の登場する100年以上も前に、もう一頭、日本には神話的名馬がいた。
それが聖徳太子の“甲斐の黒駒”である。


▲甲斐の黒駒

白と黒。
相対する光と影のように、対照的な馬体の2頭。
聖徳太子が甲斐の黒駒に騎乗しての猗翔伝説瓩竜録が窺えるのが598年の9月とされている
から、やはり100年以上の時をえて、日本終天の名馬が降り立ったと考えて良さそうだ。

千古の白夜を
越えて降誕した

爛轡蹈張丱甅

いにしえ琉球に
舞誕せし白き飛行馬

爛劵魁璽

そして――……・・・
近代競馬150周年、大きな節目を迎えた我が国に、再び白き飛天が舞い降りる奇跡が起こるかもしれない。


黄金船と言う名の、巨白の名馬の伝説が―――。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 03:47 * comments(0) * - *

★・.北海ヒコーキ°・゜☆

 
 北海ヒコーキ

沖縄に実在した幻の伝説琉球馬ヒコーキ。
しかし、本土にも一頭奇怪なヒコーキが存在していたのです。
その名も…

 北海ヒコーキ

本当にこんな名前なのです。
1941年生まれのアングロアラブらしいのですが父母不詳。つまり血統が消失してしまっているという現代競馬ではありえないような状況下で登録を受けております。
しかし、当時は戦時中。ゴタゴタのまま煩雑としていた可能性も十分です。


色々調べてみましたが一向にこの馬の正体がつかめません。

それにしても一度聞いたら忘れられない特殊なネーミング。
漢字+カタカナという馬名は、日本唯一…いえ世界でも一つしかない極めて特殊な名前といっていいでしょう。


美空「うみねこさん、北海ヒコーキかもしれないって言う写真を手に入れたのでいまPCへ送信しときますね。」


関西地方、日本海側にお住まいの匿名の方から連絡が。
書庫に一角に保管されていたという古めかしい写真でした。


記録によれば鹿毛…であるらしいのですが…。
毛色の誤植だったのか、それとも幼少時黒かった馬が白くなったのか…?
真実ははっきりとしません。
産駒に1958年にキヨノミノル(父ダイゴ)、1960年にランライト(父ヒエン)という2頭の仔を後世に残しており、キヨノミノルにはカンサイヒコーキ、ランライトからはチクゴヒコーキという馬が現れているが、アラブ競馬史に残るような大活躍はできなかったようである。

  
風の歌とともにストリームしてゆく都市の景観の中、想いは染込んでいく――……
いにしえの空に幻舞した、とある奇妙なアラブ馬は、時間と心の挟間、今もまどろんでいる。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 02:42 * comments(0) * - *

マルゼンアディアル

 【

   〜流星

―大井の名手が愛した
 狠亙史上最強
  ダービー馬

ゴーマーチング
マスミスピード
母父 アレツ

生年:1982年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:日本(大井)
生涯成績:8戦6勝
主な勝ち鞍:羽田盃、京浜盃、黒潮盃ほか


夕映えが首都高を撫でる様に降りてくる師走の16時。
大井競馬場が茜色の情景に染まる頃、躍動する真っ赤な勝負服――。

狢膂罎猟覯Ν瓩琉枳召鮗茲蝓大ベテランとなった豪腕騎手、的場文男である。

的場は1956年9月生まれ。福岡県大川市出身。ジョッキーを志したのは兄の影響と言われている。多くの名手・名人を輩出した名門・小暮嘉久の最後の門下生として1973年に騎手デビュー。公式緒戦初騎乗馬はホシミヤマ。また初勝利も同馬で、勝負服のデザインともなっている「胴白星散らし」とも狎鵜瓩馬動しているところが、何とも命運的なものを感じさせる。
的場は「大井こそ日本一の競馬場」と自負し、誇りを持って愛している。それゆえなのか、中央への参戦は稀だ。しかし、心底大井への信愛を貫く的場が今だ勝てていないのが、爛澄璽咫辞瓩離織ぅ肇襪任△襦これは“大井の七不思議”とも言われ、ファン・関係者の間でも色々と吹聴されている。的場はこれまで地方全国リーディングにも2回(2002年・2003年)輝き、大井リーディングに至っては、21回。1985年〜2004年の期間は全くの独壇場で、戸崎や内田博らが頭角を現すまでは完全な一人舞台と言っても過言ではない程だった。帝王賞、桜花賞、関東オークス、東京大賞典、川崎記念、かしわ記念、ダイオライト記念、浦和記念、東京記念、東京盃…南関東の欲しいタイトルはすべて手にした。そう…狹豕ダービー瓩鮟いては…。

チャンスがなかった訳ではない。的場は2011年までに30回挑戦。内2着が8回もある。1番人気での出走も当然あった。1.1倍で出走したブルーファミリーは神のいたずらと言うほかない大出遅れの末敗れ、ベルモントドリームやナイキジャガーといった“ダービー当確級”の馬の主戦を務めるも、故障で夢が霧散してしまう不運にも見舞われている。「運」がない…それ以外の表現の見つからない苦心惨憺たる棘のダービーロードを、的場は歩んできたのである。それゆえ爛澄璽咫辞瓩悗了廚い楼貽だ。

   
▲〔的場文男騎手。大好物はカレーだそうで、かつて競馬場では狹場弁当瓩箸いΕレーピラフの特設弁当も売られていた。無類の愛妻家でもあるという。私も大ファンで、犧能レースの的場は買い!甅狎屬で鰐召稜呂謀場が乗ったら買い!瓩覆匹半ー蠅乏文世鮑遒辰導擇靴泙擦督困い討ります。〕

そんな的場が、生涯ただ一頭、「ダービー大楽勝当たり前」「中央でも勝てる」「史上最強」と認(したた)める馬がいる。
それがマルゼンアデイアルである。的場は前述した通り、大井の生んだ歴史的名手であり、数々の名馬に跨ってきている。中央のGIでも勝負になるボンネビルレコードや、地方最強級のカウンテスアップ(41戦29勝。東北で無敵を誇り、東海南関東で当時中央よりレベルの高かったダートの強豪たちと幾多の名勝負・死闘激闘を繰り広げた地方の歴史的名馬)の手綱も取っている。その的場をしてただ一言。

     「別格」。

はたしてそのポテンシャルはどれほどの物だったと言うのだろうか。
のどから手が出るほど欲するダービーのタイトルを「大楽勝。勝って当たり前と思ってた」とまで大胆に言わしめる素質は並の名馬のものではない。
当時を振り返り的場は様々な想いを吐露する。

「重賞は130個くらい勝ってるし、相当な名馬に乗ってきたつもりだけど、その中でも別格。もうあんな馬には会えないじゃないかな」

「京浜盃、黒潮盃、羽田盃の3回しか乗っていないんだけど、どれも馬なりで本当に強かった。あんなにゴムマリみたいな馬はいないね。羽田盃も馬なり5馬身。ポーンと出っぱ良くゲートを出た瞬間にあぁ、勝ったなと。負ける気がしなかった」

 「ダービーは絶対勝てるだろうから、夢見たのはその先。まずはオールカマー使って、この馬とジャパンカップに行こうと思った。芝適性がものすごくありそうだったし、とにかく素軽くて、車でいうならベンツの最高級クラス。それくらい乗り味がよかった。」

(TCK公式HP、『重賞名馬ストーリー08』より抜粋)


最初は「サギヌマジエツト」の名前で川崎の名門井上宥蔵厩舎から昭和59年7月のデビュー。デビュー戦は5馬身差持ったまま。2戦目の30万下の条件戦では、川崎で大物と言われたマリンボーイ、ロングタイシヨー、ラピスポート等が出陣するも意にも介せず、マリンボーイに2馬身差をつけ快勝。このレースの強さに一目惚れしてしまったのが、あの中央版犖犬離澄璽咫芝廊瓮泪襯璽鵐好ーで御馴染みの橋本善吉氏。同氏はサギヌマジエツトを購入すると、馬名を爛泪襯璽鵐▲妊ぅ▲覘瓩悗畔儿垢気譴拭L樵阿変わってからの初めてのレースは9月の大井の条件戦。相手が軽かった事もあり、ダート1,200を1分13秒0の好時計。短距離にも関わらず、9馬身差というワンサイドの大楽勝で船橋平和賞に臨んだ。ところが、キクノダンサーの術中に主戦森下博騎手がはまり、クビ差届かずの2着で2歳を終えたのだった。
的場とマルゼンアデイアルが巡り逢えたのは、こうした他騎手の騎乗ミスが誘因となった為のもののようである。的場がマルゼンアデイアルに騎乗したのはわずか3戦。
裂蹄に蝕まれ、復帰が遅れていたものの、牧場から帰還したマルゼンアデイアルは別馬のように進化していたのだという。短期間で急激な成長を見せる馬はオルフェーヴルやサニーブライアン、サイレンススズカやナリタブライアンなどの例を挙げるまでもなく、このマルゼンアデイアルもその類であったということなのであろう。生涯2度の敗戦も本格化前の言い訳の効くもの。話を元のレールへ戻そう。厩舎へと戻り、追い切られたマルゼンアデイアルは、中央でも勝負になったステートジャガーの動きをも凌駕するものだったと口伝されている。しかし、休養明けの為なのか、精細を欠きマルゼンアデイアルは敗れてしまう。その敗戦(前述の2着)を目にした岡部猛調教師は、名手・的場に白羽の矢を立てた。

「次戦からは的場に任せてみよう。」

この判断がズバリだった。的場はマルゼンアデイアルの深淵、泡枕で甘眠を貪る膨大絶比なるポテンシャルを呼び覚まし、快進撃を開始。
京浜盃(ダ1,700m)では好位2番手追走から軽々と3馬身。つづく黒潮盃(ダ1,800m)ではスイスイと滑る様に5馬身。そして的場に鞍替えしての3戦目は南関東三冠の第一関門である羽田盃(ダ1,800m)。ここでもマルゼンアデイアルは鬼神のごとく迫力のまま5馬身差圧勝。その2着は東京ダービー馬となるミルコウジ。ここにもマルゼンアデイアルが犖犬離澄璽咫芝廊瓩噺世錣譴詬咳錣覆里任△蹐Αもちろん、3戦ともその全てが手綱がピクリとしか動かない、馬なりだったことは敢えて言うまでもないことだろう。

  
▲〔羽田盃の時、的場は調教中の落馬が原因で肋骨を4本も折る大怪我をしていたが、「落馬さえしなければ、つかまってるだけで勝てるから乗せてください」と一報を入れ、病院を抜け出して競馬場へとむかったという逸話も残されている〕

しかし――…・・・
羽田盃後、マルゼンアデイアルの脚下が異常を訴えていた。ヒザが腫れ、ダービーを断念せざるを得ない状況に。復帰さえ叶えば、地方で無双無敵は当然。「夢は大きくジャパンカップ!」
的場は胸中で大きく脹らんでゆく未来のヴィジョンを本気で見つめ、凝視していた。
「この馬ならば…この馬となら…」
的場の熱情を余所に、運命の秤は最悪の方へと傾いていった…――
帝王賞での復帰を目指した調教中でのことだったと言う。大井に絶望を告げる鈍い音が響き渡った――…・・・
崩れ落ちるマルゼンアデイアル。
肩の骨が折れ、粉砕していた―――
マルゼンアデイアルは最期何度も何度も振り返って織田厩務員へと悲哀を浮かべる眼差しを向け続けていたという。自らの最期を覚っていたのだろうか…。

  

それから幾多もの時間が過ぎ去っていった。

的場騎手は6000勝騎手となり、若いファンたちは「マルゼンアデイアル」を知らない新世紀。

そこに残されていたのは、やはり爛澄璽咫辞瓩箸いΕ織ぅ肇襦

猝喚瓩鬮狎簑亅瓩噺世錣靴瓩薪狙發虜廼馬。
大都市の一角、一人の孤高の男の胸の中、熱く滾る流星が今日も流れてゆく――

爛泪襯璽鵐▲妊ぅ▲覘

赤き巨星よ、永遠なれ。

  

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 22:03 * comments(0) * - *

ヒコーキ

   ヒコーキ

古の琉球・
  
美ら競馬史上最強


ちゅら海の彼方へ
 消え去った幻の伝説馬



父 ???
母 ???
母父 ???

生年:???
性別:牡
毛色:芦毛
調教国:日本・沖縄
生涯成績:???(琉球古式競馬・全戦全勝)

沖縄に競馬という民俗概念は存在していない…というのが世間一般の通論であり、殷賑に浮遊し続ける夢想理念に過ぎないものであろう。しかし、本島はもちろん、離島の末端・絶海の孤島である与那国島にまで、競馬の息吹は萌芽している。
小浜島や与那国島で催されていた古の浜競馬は知る人ぞ知る桃源郷の競馬エリア。また、宮古島には日本在来馬八種の一つに数えられる「宮古馬」が今ものんびりと草を食み、営みを送っている。
琉球王朝時代においても馬は貴重な存在であり、それは“権力”の象徴でもあり、神聖な存在意義を持つものであった。そんな馬たちが主役となる競馬は盤古の沖縄においては、アブシバレーを中心とした年中行事(祭祀行事)の折に開かれていた。
たとえば、北谷町の砂辺馬場では旧暦1月20日の二十日正月、佐敷町の屋比久兼久(馬場)では旧暦3月3日の浜下り、北中城村の瑞慶覧馬場では旧暦5月5日のグングヮチ・グニチ(男子の節句)、具志川村の新城馬場では旧暦5月15日のグングヮチ・ウマチー(稲の初穂祭)、読谷村の宇座馬場では旧暦6月25日のカシチーウーユミ(新米でカシチー=おこわを炊いて神仏に供える行事)、北中城村の和仁屋馬場では旧暦8月11日のヨーカビー(悪霊払い)。シヌグ(豊年祭)、ウンジャミ(豊漁祭)に開催したところも多いようだった。また一方で、旧盆であるウークイ(旧暦7月15日)の晩に祖先への御礼として行われる「エイサー」や、ユッカヌヒー(旧暦5月4日)の豊漁祈願「ハーリー」、旧暦6月26日などに催される農作の吉凶占い「綱引き」と同じように、競馬も時代とともに祭祀行事から娯楽に変化していったのである。
首里へ急報を届けた早馬の「ムルカキバイ」(全力疾走)ではなく、「イシバイ」というゆったりとした走りで華麗さを競った沖縄の競馬は猗ら競馬(ちゅらけいば)瓩噺鴇里気譴襦
そんな世界に類を見ない競走スタイルが出来上がったのは、もともと祭祀儀式だったからなのではないか。琉球独特の民俗文化が形成した世界唯一の競馬スタイルがここに造詣されていった。
本馬ヒコーキは、そんな沖縄競馬に忽然と降臨した無敵の最強馬であり、いまや琉球民俗誌の一端に宿る精霊のようなシンボルとなってたゆたう伝説的幻の神駒である。


   
▲〔王朝時代、ノロ(神女)が馬に乗って御獄を往復したことから、馬は「神の使い」と信じられていた。
馬の生産地として知られた伊平屋村の祭祀といえば、旧暦7月17日のウンジャミに神女たちが馬に乗って東の海岸へ神を見送りにいく「ヌイシジチ」(乗り連ね)。ここでも馬は神の使いだった〕


▲〔沖縄は女性の霊力を重んじた民俗信仰が各村落の中に深く息づいた土地柄である。『TRICK』の主人公・山田奈緒子も沖縄の離島で巫女の末裔という設定。そのモデルは新城島のようで…しかも演じる仲間由紀恵さんのご出身も沖縄…『功名が辻』で馬とも共演(?)してるし…沖縄の美女は馬と縁深いのかなぁ…〕

現代競馬とは対極に位置する、極限美を追求する琉球古式競馬。はたしてどのような規定で執り行われていたのであろうか。
現在、文献から汲査してゆくと、馬場の数は確認されているだけで沖縄本島153(北部24、中部44、南部85)、本島周辺離島19、先島6(宮古3、石垣3)の計178(「沖縄県における馬場跡の調査報告」より)。沖縄学の祖である、伊波普猷氏によれば、馬場を意味するウチナーグチ(沖縄言葉)として、ンマウィー=馬場、カニク=兼久、マージ=真地、ヂョー=門、ンマナー=馬庭などを挙げている。すなわち、上述の数字はこれらから推察したものであり、実際にはこれ以上の競馬場が存在していた可能性も十二分に推考できよう。
さて、現代を生きる常民たちにとってサラブレッドはとても簡単に手の出る存在ではないように、当時の沖縄においても、競走用馬は高嶺の花であった。当時の様子を綴った、こんな一節がある。
「(馬車で塩、石炭を運搬する仕事の)一日の収入は4円、馬(荷役用)の値段は最高で300円位でした。競馬用の馬になると2600円もした。30坪の瓦葺住宅がその位で建てられた時代だから大変な値段だった」…戦前の西原町における回顧録である。

またこの当世における競馬は賭けの対象とはなっておらず、お互いの家運と誇りを懸けた真剣勝負の理念を孕んでおり、必勝を期し、一家総出で参拝を行った話も残されている程である。


  
▲〔当時の競走馬と等身大のオブジェが建っている那覇・楚辺の古波蔵馬場(クファングヮ・ンマウィー)。城岳小学校の前に位置するこの馬場は往来の激しい道路に変わっているが、小学校時代に目の前が馬場跡だと判明している。古波蔵は真和志間切(間切=現在の市町村)の代表馬を決めた馬場でもある。間切の大会で勝った馬は群の大会へ、さらに全県大会へと進んだ。その全県大会の舞台が、那覇の塩田地帯で知られた潟原(現在の泊、前島周辺)と昭和初期、沖縄神社祭の奉納競馬で「爛茱疋衢親疥羮瓩劉爛劵魁璽瓠廚優勝した舞台、平良真地だった。馬場の数は那覇市内だけで18。那覇から西海岸を北上すると、浦添市で4つ、宜野湾市で1つ、北谷町で3つ、嘉手納町で3つ、読谷村で4つの馬場が確認されている(「沖縄県における馬場跡の調査報告」)。いずれの市町村史にも載っているのが名馬ヒコーキの名前である。〕

南国の楽園・琉球沖縄は名馬生誕の地でもある。
ナカダオーギ赤馬右流間…そしてカリユシドルフィン…。
爛劵魁璽瓩呂海譴蘚狙眦琉球名馬たちのさらに上を行く駿馬と妄察できる伝説的幻の名馬。
その走り、空を飛翔ぶがごとく。
ヒラリ優雅に翔舞し、流麗なるままに長き白尾を翻す。
颯爽と流動する肢体は、神歌に合わせて舞う神女の舞踊のようであったという。

  
▲〔皇太子殿下の乗用馬となった右流間と共に海を渡った宮古の名馬・珠盛(たまもり)〕


まるであのディープインパクトのようではないか。
いにしえの沖縄競馬に君臨せし、白き琉球のディープインパクト。
彼を所有していたのは与那嶺真宏氏。彼はヒコーキを駆り、村の競馬だけで無敵を翳すに飽き足らず、沖縄中の美ら競馬にヒコーキを参戦させ、凱歌を上げ続け勝利のカチャーシーを吟舞していたという。明治15年生まれの彼には一人、愛娘のミツさんがいた。現在100歳を迎えた彼女の証言をここに記しておく。

「ヒコーキというのはね、戦前に父の与那嶺真宏が飼っていた馬です。白い馬でした。白い宮古馬でした。尻尾が長くて、毛並みのとても美しい馬でした。私がまだ子供の時でしたから走り方までは記憶していませんが、姿形に気品があって他の馬とは雰囲気が全く違う馬でした。今の浦添市役所のあたりに昔は馬場(安波茶馬場)があって、ヒコーキが馬勝負(競馬)に出る時は家の者総出で見に行ったものです。でも、父はムラ(浦添)の競馬だけでは満足しませんでした。馬勝負が命という人だったので、県内のどこかで大きな馬勝負があると聞くと、じっとしていられません。ヒコーキを連れて県内を歩き回っていました。西原村から中頭の各村、山道を越えて遙かヤンバル(北部)にも行ったと思います。女学校に入学する前だから、昭和2、3年頃ですかね。

あの頃は競走馬の売り買いを辻(那覇の遊郭街)でやっていたようで、我が家にも何頭か出たり入ったりしていました。でも、ヒコーキは物心がついた時から女学校に入る(昭和3年)までずっと飼っていました。馬名がついているのもこの馬だけでした。当時は飛行機なんて沖縄に飛んでいませんから、いったい誰が名付けたのか…」


▲[異様だが息を呑むほどの絶世美の白い馬体…爛劵魁璽瓩箸いδ貳瓦韻北世襪ぁ弔靴し謎が謎を呼ぶ馬名…そして全戦楽勝無敗無敵というその幻惑的戦績…。そして沖縄という特異な環境が彼の神秘性に深みを与えている。これ程の隠れた幻の名馬がまだいようとは…]



▲〔晩年のヒコーキ。ミツさんが女学校卒業する昭和7年に消息を絶った。競馬が命だった与那嶺氏がヒコーキを手放したのは、生活のためだったのか。それとも、名馬の血を残そうとして去勢法が適用されない離島へ逃したのか。あるいは、もっと別の理由があったのか。その行方は覗い知れない。与那嶺真宏さんが病で亡くなったのは昭和19年。美ら競馬が消滅した翌年だった…〕


謎の馬名がさらなる幻想を喚起する――。
当時、飛行機を目にする島民はおらず、その名称のみ、ほんの一握りの者が脳裏の奥底にのみ浮動しているような狷端賤儻讚瓩任△辰燭里任△襦
まだ見ぬ近未来の高速船と、未知の能力を秘めた名馬を重ね合わせての命名だったのだろうか―――…・・・。

  

どこか遠くから聞こえてくるサンシンのメロディと馬たちの蹄音…

そして
潮風の音色が織り成すシンフォニーに、心の琴線が奏でられ、白き記憶がよみがえる――。

戦火の忍び寄る足音を聞き取ったかのように漸滅していった幻の名馬。
その正体は何者であったというのであろう。

「大海から上陸してくる馬を竜馬、あるいは神馬と称す―」

八重山の民族学者、喜舎場永旬は生前、そう述べていた。
宮古島では大地の神が白馬に姿を変え来訪するという言い伝えもある。
“ヒコーキ”はまさに沖縄近代競馬の終焉に流星のように走り抜けた神馬だったのかもしれない……――・・・
  


軍馬育成の圧政に終焉を告げられた「美ら競馬」。


自動車社会の波に飲まれ、消失していった農耕馬。


時代の空影で、きっと彼は自由きままに飛び回っている――永久なる夢空(エデン)をただ一途に目指して…――きっと。

  

今回の写真・
  イラスト提供・協力
    参考文献ほか

うみねこ、秋山由美子、Mr.woolhouzen、ちゅらさん大好き!さん、与那嶺エリカさん、日本の在来馬(日本馬事協会)、馬の雑誌 ホースメイト45号(日本馬事協会)、沖縄の在来家畜 その伝来と生活史 新城明久著(ボーダーインク)、富国強馬 武市銀治郎著(講談社)、続日本馬政史(神翁顕彰会)ほか


※冒頭の写真は与那嶺恵里香さんの曽祖父の方が馬勝負の際に撮影したという一枚。ヒコーキが最も優雅に舞った、全盛期の一枚と伝えられています。
真っ白な馬体と特徴あるタテガミ…隣の宮古馬と比較しても馬体は大きく、只ならぬ雰囲気を取り巻いていることが写像からも窺い知れます。与那国馬とのハーフだったのでしょうか?
その他の写真は「もしかしたらヒコーキ…かもしれない」という曖昧な証言の元お借りした写真で、真偽は不明不詳であります。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 06:08 * comments(1) * - *

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