八王子市古競馬ロマンスケープ



Deem Nostalgia
  ―廃競馬場探訪記次
八王子市競馬ロマンスケープ



東京都多摩市へと越してからはや半年以上の時が経った。
この半年の中でフィールドワークを行ったのは有馬温泉郷付近と沖縄県の久米島の二箇所のみだが、近郊に栄華を誇った馬たちの桃源郷が存在していた。
日本競馬史上、初の馬連発売を行った競馬場…それが八王子競馬場なのである。

今回は、多摩市から少し足を伸ばし、南多摩方面は北八王子市へと向かった。
いまはなき幻影の鉄火場を目指して――。

忘却競馬場No.12
八王子競馬場

草競馬の開催地まで数に入れたら、どれくらいの馬場跡に咫尺してきたか分からないが、今回の八王子競馬場は最も繁栄を誇った競馬場だったことは間違いない。
何しろ不人気により閑古状態に追い込まれた訳でもなく、売上難や自然災害や戦争など歴史の受難者となった訳でもなく、止む無く閉場となった競馬場だからである。
あまりの人気高騰から人が人を呼び、売り上げ増へとつながり、売上は賞金となって出走馬を集めた。しかし、その反面ヤミ競馬が跋扈し、騎手や馬主の不正行為は日常茶飯事のようだったという。
こうした無法状態を是正すべくしかれた、1946年の地方競馬法により、当競馬場の施設・資産も東京都へと継承され、1949年の開催を最後に終了。1950年より、その機能はすべてこの年に開場となる、現在の大井競馬場へと移動されることとなった。
以降、跡地は八王子牧場となり、競走馬の育成・調教場として活かされていく。
1954年には騎手の講習所、1962年には騎手学校も創設をみるが、これらの機能も栃木県(騎手関連設備)、千葉県(牧場・育成場)へと移転され、1965年には牧場としての役目も終えることとなる。
所在地は、東京府南多摩郡小宮村中野、現在の東京都八王子市中野町。
開場は1928年の8月25日のことだった。

ちなみに大井競馬場にはかつてアラブの重賞として、この競馬場のメモリアルとした「八王子記念」が1984年まで、延べ17回開催されていた。


 現在八王子競馬場跡地

   
実際に来訪し、踏査してみての現況だが何気ない郊外の一角としての一ページ…馬の影もその縁すら感じ取れない、安閑とした町並みが広がっていた。
現在の元競馬場の位置には首都大学東京の日野キャンパスがある。


▲〔首都大学、日野キャンパス〕


▲〔キャンパス構内より八王子ビル群を遠方に望む〕

  


▲〔かつて直線の入り口であったと想定される横断歩道の手前から撮影。遥か数十年前の昔、この道路へ幾頭もの馬が疾駆し、歓声と歓喜の声と罵詈罵倒、ため息が上がっては交錯し、熱狂の渦を作り出していたのだろうか〕


▲〔おそらくスタンドが建っていたであろう場所には小学校の校舎が棟を構えていた。〕


 八王子競馬場歴史年表

はじまりの発端、起源となっているのは大正時代に行われていた神社の祭りの余興、「お祭り競馬」が起因となっているようである。近隣に住む農家が農耕馬を持ち寄り、若者が騎手を務め、即席の草競馬を行っていた。これが八王子競馬の創世記である。
どうやら記録に残る文献から察するに横浜から訪れているという痕跡も認められることから、相当の人気を博していた模様である。
 
1927年:【地方競馬規則」】の制定により『多摩八王子競馬会』が設立される。

1928年:8月25日、競馬施行許可を受け、一周1,000m、幅16mのというつくりで、開場の運びとなる。

1928年:11月17日。第1回目となる記念すべきレース開催。

1934年:小宮町と日野町日野新田(現在の八王子市高倉町・日野市旭ヶ丘2丁目・6丁目付近)にまたがる総面積80,000坪の新競馬場開設。

1937年:開催者が多摩八王子競馬会から「東京府馬匹畜産組合連合会」へと移管される。

1939年:「軍馬資源保護法」施行。これにより競走が「鍛錬馬競走」と改められる。

1944年:第二次大戦の戦局悪化により、すべての競走・開催が中止となる。

1945年:競馬開催再開。日本競馬史上初となる連勝単式馬券、いわゆる馬連発売

1946年:「地方競馬法」施行。

1948年:「競馬法」制定により機能を大井へと移転

1950年:閉場。



☆日野橋の付近には農耕馬をレンタルする場所があり、そこでも競馬は行われていたという。

☆おけら街道もあったという。

入場券は勝馬投票券となっており、入場券1枚につき馬券1枚、つまり1人1回しか馬券が買えない方式を戦前は採用していた。

Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 00:57 * comments(0) * - *

幸海の五神駒メモリー


五神駒メモリー

愛知県豊田市。一見馬とは何の関わりもないようなこの地域にも、ほんの数十年前までは馬と人の織り成した琴瑟相和の光景が日常的に見られていた。
岩倉町から幸海町にかけての巴川西筋には馬頭観音が顕著に見られる。
その昔、荷物を運搬して往来していた馬たちが増水した川に流され、それを哀れんでの供養の為たてられたものと伝えられている。

  


  馬人形神輿


町の秋祭りの際に用いられていたという馬の人形が載った神輿。
しゅろで作られており、背中には実際の献馬が身につける装備を装着させる。


中切地区の馬頭祭り
  〜伝説五神駒

中切地区にある馬頭観音は、当地にて営みを送っていた部落の農民、その5人が所有していた農耕馬を祀るものだという。この5頭の馬たちは農閑期になると豊川の桜馬場・高浜・吉浜方面など、各地の草競馬へと参戦し、圧倒的力と速さを見せ、村人たちの自慢の種であり、誇りとさえなっていたのだという。

 
▲〔伝説の五神駒の一頭。5頭の名前、血統などは不詳である〕

彼ら伝説の五神駒は天神街道で物資の運搬も行っていた。
この地区の皆の心に刻まれた名馬たちを忘れぬ為の祭りが、明治の終わりごろから始められているという。旧7月7日が縁日であり、子供たちが地区内を回り、米を集める。この収集した米で人参ご飯が作られ、参拝者たちに振舞われる。

  
▲〔にんじんごはん〕

戦前は「がく」と呼ばれる紙人形を箱に挿した飾り物が馬頭さんの周りに並べられた。
子供たちが切磋琢磨して作った「がく」が祭りを飾り、賑やかだったとのことである。


Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 05:58 * comments(0) * - *

とちぎ競馬ロマン譚

栃木競馬ロマン

私、うみねこの生まれ故郷である栃木県には、かつて北関東競馬で栄華を誇った競馬場がありました――…そこには言い知れぬ熱狂と爽やかで森閑なる趣の中、風のように舞う馬たちのエデンが確かに…――存在していたのでした…。

Deem Nostalgia
 ―廃競馬場探訪記察

忘却競馬場No.11
 宇都宮競馬場
昭和8(1933)年10月完成、記念すべき第一回の競馬は栃木県馬匹畜産組合連合会が競馬場を借り上げ同年11月13日から3日間開催された。
その後、戦火の影響を受けたため、開催は一時棚上げ。
戦後は、昭和21年11月公布の地方競馬法を受けて、栃木県馬匹畜産組合連合会が昭和21年12月10日に開催したのが始まり、この形の開催は新競馬法が公布されるまで1年8ヶ月の間に8回開催された。
その後、昭和23年7月新競馬法公布により栃木県営競馬となった。
また、競馬場が所在の姿川村(昭和30年4月宇都宮市に編入)は、昭和27年から開催した。
終幕となったのは、平成17年3月14日。栃木県最終開催、宇都宮競馬廃止。最後の勝ち馬は北関東最初にして最後の三冠馬フジエスミリオーネ。
一周1,200m、最後の直線は200m。


    主な重賞競走
   

とちぎマロニエカップ
北関東ダービー
とちぎ大賞典
北関東皐月賞
関東オークス
ベラミロード記念かもしか賞

マロニエカップは中央交流G靴覗汗校のノボジャックやノボトゥルー、ビワシンセイキ等、JRAの強豪も多数参戦していた他、武豊騎手も勝った栃木競馬最高峰の一戦だった。
また数多くの名馬も誕生したのがここ宇都宮。アラブの怪物トチノミネフジ、43勝を上げ、中央にも挑戦したブライアンズロマン、そして北関東史上最強馬ベラミロードも、栃木三冠馬となり、全国区へと羽ばたいていった。


  消えた競馬場へ

そして…現在。
かつて競馬場のあった西川田町を、ふと訪れてみた――…

目の手術後、瞳と心の休養に当てる為、旧友との再会の為、ここ母郷・栃木を訪れた私は帰途につく時、ここへ足を向けることを決めていた。

そこに馬の姿はなかった……――。
馬はおろか、競馬場のスタンドも、パドックも、電光掲示板も…
かつて栃木の馬券師たちが集った鉄火場は、瀟洒な住宅街の一角、不気味なほどまでに空虚となった空き地となり、ただ夏風に吹かれていた。
競馬場はおろか、厩舎さえもマンションへと姿を変え、競馬の雰囲気はまるでない…がしかし、やはり微々たるものではあるか、目を細め、仔細に視線を配らすと、かつての俤をみとめることができた。


▲〔かつての競馬場正門前。上記写真にも写っている小さなブナ林(?)がかつての栄光を偲ばせる〕


▲〔競馬場前の小さな橋。その格子に馬の絵を見とめることも〕


▲〔“競馬405”…と書かれている。競馬場前の電信柱には、今だ“馬”の縁が感じられる〕

踵を返し、帰りのタクシーへ乗り込むと運転手さんからも懐郷ともとれる哀愁漂うお話を頂いた。
「昔はねぇ…ちょっと前までは道路を普通に馬が歩いててねぇ…このへんは…。馬の世話する人と、馬が仲良く並んでさ。いまじゃあ馬の気配なんてないもんね…寂しいね」



ふと公園の噴水近辺で戯れる少女が目に留まった。
彼女の記憶に馬はない。存在しえないのだ…もう数年あと数年生まれてくることが早かったなら…いや宇都宮競馬が現存していたのなら、彼女の記憶にも馬は強い印象・思い出となっていたかもしれない。もしかしたら、多大な影響を受けていたかもしれない。
しかし、もうそこに馬はいないのだ―――。

列車に乗って横浜へと向かうその足は、どこか重く、景色もぎこちなく見えた。その言い知れない疲労感は、目から来るものだけではない…そんな気がした――…。


※今回は宇都宮競馬場のみ。足利・小山・那須競馬場跡地は今後、踏査予定です。
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Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 10:44 * comments(0) * - *

岐阜市における明治・大正時代の草競馬


明治・大正時代草競馬
   IN岐阜市

競馬法の制定を受け、馬券が法的認可を受けるや、日本全国には狂喜狂乱のごとく競馬場が乱立されていった。しかし、馬券認可の隙間を突き、闇競馬が往行し幅を利かせる暗黒時代がつづくことになるも、津々浦々全国各地の都府県の市区町村で、長閑な平和の象徴・犇デ廊瓩療瑤煌々と燈っていたのである。
それが以前私が踏査した山形県庄内地方の庄内競馬であったり、今回紹介する岐阜市の界隈・山間の集落で開催されていた草競馬である。


道楽・余興競馬
      の一端として

明治末期から大正期にかけ流行した草競馬。催していたのは農民を中心とした村民たち、いわゆる民間人たち。彼らは「馬かけ」と呼び、余興・娯楽の一環としてこの競馬大会を行っていた。大衆娯楽が限られた時代。競馬の存在はとてつもなく大きいものだった。
当時は二戸、あるいは一戸で1頭の農耕馬を所有しており、彼らが草競馬の主役となった。馬好きな富豪に至っては農耕馬以外に競走用の馬も所持している人物もいたという。
騎手(この地では“乗り子”と言われた)も農民たち一般人。勝てば酒を飲み、負けても酒を飲む酒宴開催で、“賭け”というよりも道楽の概念が強い催しだったとのこと。
開催時間は12時過ぎから開始となり、夕方の明るい内に終了させるという、適時に応じたものであったらしい。
開催は村中で口伝され、美濃紙に書かれた広告を青年が配り歩いて集客を図っていた。
一方、賞金ではなく優勝賞品が勝者には贈られており、賞品の費用は集落で集められた寄付金であったり、競馬好きが出し合ったり、出場者の持ち寄った祝儀で賄った。
出走馬は全レース合わせても50頭程度で、クラス分けもなされている。

岐阜草競馬のクラス分け
・大跳び
・中跳び
・小跳び
・東初段
・西初段
・南初段
・北初段

上に行くほど早い能力の高い馬という内訳。分類の方法は、参考程度に歩かせてみたり、2・3頭ずつ走らせて走りを見たりして判断していた。
下のクラスから発走となり、メインが「大跳び」の級にいる馬たちのレースであった。
また現在のパドックの走りのようなものもあり、これを「馬場見せ」といった。
南初段で5周、最上位クラスの大跳び馬たちは9〜10周してゴール。ゴールのラインは縄で、これを「勝負縄」と呼んだ。ちなみにスタートの合図は太鼓だったという。



  開催場所は
     市内持ち回り

岐阜市における競馬場は笠松競馬場の登場をみるまで、常設の施設がなかった。
競馬開催が決まると、3日〜1週間で集落の青年たちが急造していた。観客整理や馬の世話、何から何までが村民だけで分担し、仕切っていたのである。
北部では楕円形、南部では直線コースが主立っていた。コースの概要だが、現在の笠松の3分の1程度の敷地面積で、馬場は二重に柵をし、その間を馬が走った。直系40〜50mの小さな馬場だったと文献には記されている。


〔楕円形コースの大まかな見取り図〕

以下に開催された主な地域を記しておく。


円形コース
※全コース、右周り

・佐野
・大桑の萱野
・太郎丸の古馬場
・美江寺公園の西
・石谷
・高富の戸羽
・山県郡梅原
・千疋
・伊自良
・溝口の川原
・福富
・中屋の川原
・三輪神社前の川原
・伊吹
・蘇原
・那加
・北方
・福富の白山神社境内
・鶉田神社の中の御社頭


直線コース
・茜部神社の境内から堤防へのコース
・鶉の堤防の小段でのコース
・鶉の宮の拝殿から新田の四辻へのコース



   溢れる馬への


〔草競馬の賞品の一つ〕

主だった賞品は、バケツ・額・タライ・タンスなどで、観客も“晴れ着”で出掛け、弁当を頬張りながら観戦、家族総出で出掛けていたようである。
またウイロや味醂粕の売店も並び、運動会さながらの賑わいだったらしい。
競馬に出走した馬たちは、家に帰ると愛でられながら全身を湯で洗われ、大切にされた。
開催終了後は関係者や手伝いの青年たちが五目飯と酒で会食して労いの言葉を掛け合うのが習慣だったとのことである。



いつの時代も変わらない馬への愛、そして競馬への情熱が小さな集落にも確かに存在した。
しかし、ハートフルな草競馬も、戦争による馬の徴用・笠松競馬の台頭に開催の場を奪われ、いつしかその姿を消してしまった―――。

Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 22:40 * comments(0) * - *

Deem Nostalgia 此 素儷デ肋戝桔〜

 Deem Nostalgia
 ―廃競馬場探訪記此

氷雪の彼方へと霧散していった馬たちのヒヅメオト…。
物言わぬ瓦礫と成り果てた入場門――
噎び泣く風雪の中に消えたオモヒデの地…――。


忘却競馬場No.10
 ★青森競馬場
  (日本・青森県青森市)

東津軽郡横内村、現・青森市に位置した競馬場。
昭和6年の8月1日、青森競馬倶楽部にて初の開催がなされた。三日間での売り上げは5万5千円。これは現在の物価指数に換算すると、なんと1億円以上にも上る。
開催は大成功も大成功。大盛況の内に終わったという。
中には若い女性ファンもおり、県民の4分の一にあたる2万人もが詰め掛けてのお祭り騒ぎだったとのこと。とても水田地帯に立てられた瀟洒な競馬場(一周1,600mあり、走路自体は中々のものだった)が上げた成果には見えないが、それほどに当時の常民たちにとって、競馬は一大イベントであった。午後7時までレースは挙行されたというから、現在で言う薄暮競馬・プチナイターの延長戦のようなものであったのかもしれない。
昭和10年には青森県畜産組合連合会が横内村に競馬場を新設。しかし、新風もここまで。    昭和14年の軍馬資源保護法公布により休止に追い詰められてしまう。
その後、昭和24年、青森県が県営競馬を昭和26年まで開催し息を吹き返したに見えたが、人気の傾きに歯止めが掛からず、ついには廃止という道を辿ることになってしまう。

闇夜に消えていった馬と人。
果たしてその心証はどこに残されていったのか――。
どんな馬が人々を熱病へと駆り立てたのか。
どんな走りで淑女の心を鷲掴みにしたのだろうか。




もはや、誰も知るものはなく、あまりにも侘しく寂寥たる鉛空が、冷たい空気となって、八甲田山一帯を包んでいる。

Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 04:42 * - * - *

セピアデイズメモリー〜はるかなるキヲク〜

セピアデイズメモリー
〜はるかなるキヲク〜 

人と馬とが歩んできた道。
今はセピアに
色褪せた日々も
現代(いま)を生きる
馬と人たちの語らいに
笑顔はじけるなら
それは至上至福の
セピアメモリー
なのかもしれない…――。


目黒路地裏から

Y子
元競馬場通り。その昔、ここには競馬場があったんですよね。

うみねこ
目黒競馬場跡地だね。今は区画整理され、住宅地になっているけど、第一回ダービー馬ワカタカの父トウルヌソルの銅像が今もバス停近くに佇んでいるほか、ニンジン祭りという祭事も執り行なわれているんだ。
んで、これ↓が目黒競馬場のさらにその前の競馬場。

原っぱですね〜…。

不思議なものだよね。人と馬が集まり、すると想像もできないような熱気に溢れ、みんな元気になっていく。遥か古の時代から人と馬とのモノガタリはずっと続いてる。
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Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 09:41 * - * - *

勇足競馬

 【Deem Nostalgia
 ―廃競馬場探訪記后

大平原を駆け巡った春風の日々――
野原で家族で見つめた草競馬――…
鉄火場ではなく
家族と馬との絆を
認め合ったあの穏やかな日々は
もう…

遙かなる朱鷺色の空の向こう
おぼろげなる残影の俤にたゆたうのみ――。


忘却競馬場No.9
 ★勇足競馬
(北海道・十勝本別町・勇足地区)

1912年(明治45年)頃に発足したと言われる勇足競馬は、十勝の大平原を舞台に、競馬が行われていたという。スタンドや投票所のような場所はなく、草っ原にそのまま座り、家族連れでピクニックのような観戦がなされていた。また、草競馬でのばんえいも行われており、上の写真はその様子を写した貴重なものである。
国営競馬が確固たる地盤をつくり、運営がなされていた時代にもひっそりと行われていたようで、記録上1968年(昭和43年)まで平地競走が開催されていた。


▲実際に勇足競馬にて騎手が着用していたという勝負服

すでに中央競馬へと時代は推移しており、その中での観戦者は次第に疎らになっていった。
最後の開催はばんえい競馬で締めくくられたという。それが1970年のことで、以降記録から姿を消し、事実上勇足地区からも競馬が消えていった。まるで秘催されていたかのような競馬ではあったものの、十勝の人々を活気付け、心を大らかなものにした功績は非常に重要な意義があるものであったと評価していいのではなかろうか。

Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 03:34 * - * - *

Deem Nostalgia    ―廃競馬場探訪記検

 Deem Nostalgia
 ―廃競馬場探訪記検

波間へと消えた
馬たちの蹄音。
あおぞらへ児玉していた
島民(しまんちゅ)たちの
アタタカナ声援――。

戻りたいあの時代、そこには「競馬」の姿があった…


忘却競馬場No.8
 ★与那国浜競馬
(日本・沖縄県八重山諸島)

今から30数年前、日本最西端の孤島・与那国島の各集落近隣の浜辺で行われていた競馬大会。
「んまはらし」と呼ばれ、かつては豊作を祈願するムヌン(物忌祭)の余興として行われていたが、農耕馬・乗用馬の減少により、その姿は失われていった。
2008年5月3日、島民の熱い要望を受け、ついに復活を果たした。
30年前以前の浜競馬では、各家々が賞品(野菜や果物・お菓子など)を用意し、金品の賭けは行われていない(もちろん復活してからも)。
しかし、そこには中央競馬にも地方競馬にもない、人と馬のあたたかなぬくもりがあった
…。


ちゅら海を背景に赤いギラギラの太陽の下、砂浜を駆け抜けたあの時代――。
あの日あの時の笑顔(ちゅらさ)は漣(さざなみ)にさらわれていったのだった――…・・・。


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Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 00:02 * comments(1) * - *

Deem Nostalgia    ―廃競馬場探訪記掘

  【Deem Nostalgia
廃競馬場探訪記

  
時の彼方へ消えていった馬たちのいななき――…
騎手たちの熱気・闘志――…
そして見つめる者たちの夢念夢想――…

今回は海外の廃競馬場を取り上げて見たい。
日本人にも身近な観光リゾート地ハワイにも競馬は存在している。

ハワイ競馬

ハワイの競馬史は意外と古く、1800年代後期には入植者たちの手で営まれていたという。地主や植民地の富豪たちの人気を集め、1872年にはカラカウア王自らが、ジョッキークラブを創設している。
生産馬の能力水準向上を図る目的で、米国本土や英国からも種牡馬を輸入し、飛躍的にそのレベルが上昇した。しかし、相次ぐリゾート開発と経営難の板挟みに遭い、徐々に崩落の道をたどっていった。



忘却競馬場No.6
ココオモナク競馬場

(写真元:Hawaii for Visitors)
1800年代後期に、現在のカアナパリビーチに建てられた小さな競馬場。
リゾート開発の波に押され、1918年に閉場。
最後のレースは奇しくも米国独立記念日の7月4日に開催された。


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Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 18:53 * comments(0) * - *

Deem Nostalgia   ―廃競馬場探訪記供

 【Deem Nostalgia
廃競馬場探訪記

  
記憶の片隅に今も残るあの歓声…馬たちの蹄音と嘶き――。
そして息も詰る騎手たちの駆引き…レース後の悲壮感と感動とが入り混じり化学反応を起こしたかのような不可思議な時間――。もうこの世界には存在しない、かつての楽園へ想いをはせる…――。



忘却競馬場No.3
稚内競馬場

昭和3年6月13日北海道宗谷郡稚内町に開場。 
宗谷畜産会により昭和8年まで開催されていた。しかし、昭和14年に軍馬資源保護法制定により、完全に廃場となり、姿を消失させてしまった。
日本競馬史上、最も北に位置した競馬場であり、写像から窺えるのは長閑な雰囲気のみ。
スタンドは無く、1周1,000mという簡素な造りであった。
まさに大自然の中に杭だけを立てて、作り上げた様な競馬場で、馬と人との距離はゼロにちかかったものと推察される。


忘却競馬場No.4
荒川沖競馬場

茨城県稲敷郡朝日村大字荒川沖に大正13年5月、常南畜産組合により創設。
同組合により昭和3年まで競馬が開催され、村民たちにこよなく愛された。
昭和4年以降は茨城県畜産組合連合会が運営・管理権を譲り受ける形で承諾し、昭和13年まで競走馬と騎手とファンたちが滾る想いを交し合った。昭和14年、廃場。


忘却競馬場No.5
高岡競馬場

昭和5年4月27日より八尾競馬場の名で開場。富山県射水郡二塚村下黒田(現高岡市)に創設され、昭和13年まで富山県畜産組合連合主催の下競馬が行われていたが、昭和14年からは軍馬鍛錬を主目的とした競走が行われ、競馬開催は中止された。
終戦後の昭和23年からは富山県主催の県営競馬として復活を果たしたものの、昭和25年には経営破綻し、姿を歴史の暗影へと潜めていった。
写真は入場門で、戦前から戦後まで、ここを多くのファンが通り抜けていった。




きっと、どの競馬場にも語り継がれるほどの強豪がいたことでしょう…。脅威驚嘆するほどの、神懸かった騎乗を見せるジョッキーもいたはずです。当時への想いを馳せながら、現在調査中。
名馬発見の際には『奇跡の名馬』コーナーにて紹介させて頂きます。


  
今はもう戻らない戻せない悠久の時間――。
人々の想い出の中、あの馬あの人は、今も走り続けているのかもしれない――…。

(写真元:全国地方競馬場写真帖)

Deem Nostalgia 〜廃競馬場探訪 * 20:17 * comments(0) * - *

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