馬・競馬の基礎知識 〜騎乗編〜

 


 馬・競馬の基礎知識
     
〜騎乗編〜



 
 
馬好き、競馬好きならぜひ乗馬もいかがでしょう?
誰もが一度は武騎手やアンカツみたいにカッコ良く馬に乗ってみたい…!
そう思ったことありませんか?


美空
「このコーナーでは、そんな貴方の夢を実現へと近付ける必読の乗馬の基本を記していますっ!お馬さんと心通わせ、風とひとつになりましょう!当コーナーを担当・ご指導させて頂きます、美空です!宜しくお願いしますです。」

それでは、乗り方に触れる前に、馬術界の格言を一つ、ご紹介しますね。

一服二顔三馬術
馬術界の格言。
馬術がただ技を競うものではなく、紳士の素養として発展していった神髄を端的に表す金言なんですよ。簡単に言うなら、「技術だけ長けてても駄目。服装・社交性も重んじましょう」という教えなのです!


              
それでは…本題にいきますよ。


  【乗馬の基本

1

1. 安心感を与える
馬は臆病な動物ゆえ、まずは安心感を与えるのが肝心だ。名前を呼びながら、首を軽く叩いてやろう。近づく際は斜め前方から、が正解。正面は恐怖を生み、後方は何かの拍子に蹴飛ばされる危険が。

2

2. またがる
左手で手綱とたてがみをつかみ、右手で鞍を押さえる。左足を鐙(あぶみ)にかけたら、勢いをつけて右足を大きく旋回させ、馬体をまたぐ。前へ進めの合図なので、つま先で腹を蹴らないように注意してくださいね。

3

3. 手綱を握る
騎手の意思を伝える要となる手綱はまず、親指と人差し指で押さえ、薬指と小指の間から逃がす。こぶしはやや内側に傾け、左右均等の長さで適度に張った状態をキープするのが正しい握り方である。

4

4. 膝は「く」の字に
動くのは馬であり、騎手ではない。よって、体はつねにリラックスさせておくのが望ましい。膝が「く」の字に曲がり、鐙はつま先で引っ掛ける要領で、かかとをしっかりと下げた状態がベストとなる。

5・6

5・6. リズムを合わせる
騎手、馬ともに負担が少ない乗り方を軽速足(けいはやあし)という。二拍子のタイミングで、馬体からの突き上げと同時に尻を上げて、2歩目で尻を落とす。馬のその呼吸をつかむのが大切である。

7

7. 胸を開く
耳、肩、尻、かかとの縦のラインと、馬のハミ、こぶし、ひじの横のラインが直線になるように。視線は常に進行方向へやるのが正しい姿勢をキープするコツだ。「ブリティッシュ・スタイル」の基本である。

8

8. 降りる
左手は手綱を握ったまま、右手を鞍に添え、右足を鐙から外し、旋回させて馬体の左側で脚を揃える。腹を鞍の上に預けた状態で、左足も鐙から完全に外れたことを確認したら体を反らせて降りる。


いかがでしたか?
私の通う乗馬倶楽部と親交の深い、東京乗馬倶楽部の内容を引用させて頂いてのご説明でしたぁ〜。
【なぜ騎乗する時「左側」からなのか?】
騎乗する際は必ず左側からと教えられるが、これはなぜなのか?
右手で馬を引いてきて、そのまま乗ろうとすると、必然的に左からになる。
世界中のほとんどの人間が右利きである
以上、左からの乗り降りが自然なのである。
思えば自転車も左側から乗るし、陸上競技も左周りに統一されている。

しかしながら、日本では、例外的に右側乗降がかつて存在していた。
古墳の埴輪で、馬を引く人が例外なく左手で引いていることから、かなりの古の時代から、日本特有の異質な仕来り・習慣があったようである。
この起源については、未だ不明だという。
 
考えられる理由としては…
”雹里了斗茲蠕
武士は左腰に刀を差していたが、その刀の柄が鞍にあたらないように右側から乗っていたのではないか、というのが一つ目の説。

しかし、この説は刀の脇差しをすることが習慣になる前から武士は右乗りをしていたようなので決定的ではない。

弓手・馬手説

 

もう一つの説は、弓を装備して騎乗することによるものではないかというもの。

左手に弓を持つと必然的に右手に手綱を持つことになり、常に弓を持っているとすれば右側から乗らざるを得ないという論説。

実際、昔は左手は弓手(ゆんで)、右手は馬手(めて)と呼ばれていた経緯がある。

しかし、同じように馬上で弓を使う民族でも左乗りの習慣の地域の方が多いのでこの説もあまり確定的とは言えない。

結局のところ何故昔は右側から乗っていたかはハッキリと分かっていないようである。


馬とのコミュニケーション
守ってほしい4カ条をご紹介します!
【1】静かに穏やかに

【2】あいさつ
馬と友達になるには、まず話しかけ、そして愛撫してあげることである。
特に、前肢の付け根を掻いて上げるといい。

【3】立ち位置

【4】スキンシップ


乗馬人口
日本におけるそれは、7万人強
ちなみにドイツは250万人。
本場・英国においては400万人を超える。
騎馬文化の根付いていない日本は残念ながら乗馬後進国といっても過言ではない。



装備品について
乗馬倶楽部で必須品はすべてレンタルできるが…

・ヘルメット
・ブーツ
・キュロット

以上の3種の人装品は、趣味として本格的に続けるようであれば、用意したいところ。
費用としては約20万円。



総合馬術
総合馬術は、馬場(調教審査)、クロスカントリー、障害飛越の3種目を同一人馬でたたかうもので、3日間かけて行うこともあり、「3DAY Events」と呼ばれています。まさに人馬ともに体力、精神力が必要な競技です。 sougou.png
最終的に、上記3種目の減点合計が少ない人馬が上位となります。騎乗馬の能力を正確に把握し、クロスカントリー走行時のコース取りを緻密に計算することや、競技期間を通して馬のコンディションを良い状態に保つことが必要です。

【1日目:馬場(調教審査)】

総合馬術競技における馬場(調教審査)は、翌日に実施される総合馬術のメイン競技「クロスカントリー」に向けて騎乗馬がどれほど調教が進んでいるかを審査されます。騎乗馬には柔軟性のあるしなやかな動き、また選手の指示に従順であることが求められます。具体的には、騎乗馬のハンドリングやスピードにどれほど対応が可能か、など馬がクロスカントリーの走行に対応するための調教が充分にできているかを審査されます。

【2日目:耐久(クロスカントリー)】

総合馬術のメインが迫力満点のクロスカントリーです。クロスカントリー競技は、自然に近い状態の地形に竹柵、生垣、池、水濠、乾濠など、丸太などの天然素材で作られたボリュームのある障害物が設置されます。世界のトップレベルの大会では、コースの長さは6km以上にもなり、飛越する障害物は40を超えます。そのハードなコースを分速570m(時速34.2km)のスピードで駆け抜ける様子は迫力満点です。

また、ロングルートが設けられている障害もあります。これはダイレクトルートよりも容易に通過しやすく作られますが、その分走行距離が長くなるため、タイムに影響するものです。選手は騎乗馬の能力に応じて、拒止・逃避のリスク(減点20)を覚悟してダイレクトルートを行くのか、あるいは時間はかかっても安全策をとるかの選択をしなければなりません。
sougou_pic.png sougou_pic.png
とにかくスリリングで見どころいっぱい!また、設置されている障害物は固定されているため、馬が肢を当てても落下することがない。飛越のタイミングを大きくはずしてしまうと、選手が馬とともに転倒する危険もあるので、人馬の信頼はもちろんのこと、テクニックと勇気が必要になります。

【3日目:障害飛越】

そして最後の競技が障害飛越です。ハードなクロスカントリー競技の翌日、獣医師によるホースインスペクション(馬が競技への参加を続けるだけのコンディションにあるかどうかをチェックされる)が行われます。選手やスタッフは、馬のコンディションを維持するためにあらゆるケアをしてインスペクションに臨み、合格した馬がこの競技への参加を許されます。

高さが130僂泙任両祿欧10〜13個設置されたコースを走行します。ただし、前日にはクロスカントリーを走って馬が疲れていることもあり、慎重な走行が求められます。馬の余力がどの程度残っているかがポイントになります。

shogai_ss.png

総合馬術競技の採点方法やルールは?

ここでは、主に2日目に行われる耐久(クロスカントリー)をご紹介したいと思います。全長6km以上、障害物数40程度のコースを決められたタイム(規定タイム)以内に周ってくることが出来るどうかで採点されます。規定タイムを超えるとタイム減点、コース走行中に拒止(障害物を前に馬が止まること)などがあると減点、など採点では減点法をとっています。以下に主な減点を紹介させていただきます。 rule1.png
rulu2.png
rule3.png

このようにならない為にも、総合馬術で勝つためには、日頃のトレーニング時から人馬のコミュニケーションをしっかりとり、信頼関係を築いておくことが最も大切なことになるのです。
歩様に関して
馬の歩様には色々あるのは皆さんご存知と思いますが…そのリズムに関しての詳細も含め、全歩様を見ていきましょう!
常歩(なみあし)
4拍子。対角線上の脚が概ね交互に出される。普通に歩いている時は4本の足が交互に着地する歩法です。
速度は通常、分速110メートルほど。
騎乗者にはごく軽い前後の揺れが伝わる程度。
速歩(はやあし・トロット)
この歩き方は人間が普通に歩くように、対角線上の足が交互に動きますので、2拍子となり、小走り程度の速さになります。
速度は通常、分速220メートルほど。
騎乗者には強い上下の揺れが伝わる。
駈歩(かけあし・キャンター)
この走り方だと3拍子となります。障害を飛んだり草原を走ったりする速さとなります。
速度は通常、分速340メートルほど。
騎乗者には、ブランコのような大きくゆったりとした前後の揺れが伝わる。
襲歩(ギャロップ)
競馬でよく見る走り方で、馬は全速力で走っている状態です。リズムは4拍子となります。
全速力で走る際の馬の歩き方です。
馬術の基本となる「三種の歩度」(常歩、速歩、駈歩)には含まれません。
◉側対歩(そくたいほ)
4拍子。左右の脚が前左脚と後ろ左脚が同時に出て、その次に右前脚と右後脚が同時に出るという走法。
ちなみに・・・
長距離の移動が普通だった3,000〜4,000年前に、どのような歩様が多く取られていたかは、ほとんど分かっていません。
続きを読む >>

馬・競馬の基礎知識 * 07:12 * comments(0) * - *

ハルモニウムスカイ   【うみねこ博物館宝物資料記録庫】 ―馬民俗アーカイヴス―



  
すべての記録と記憶の調和する空の世界。
ここは馬に関する古知識を保管する博物館の別館になります。
随時更新。どんどん増えてゆくウルトラマニアック馬ワールドにどっぷりと浸ってください。


馬/競馬の知識所蔵庫
  
基礎知識アーカイヴス
 
震天動地の世界記録集

 
 

馬民俗アーカイヴス


競馬界の民俗
〜忌み言葉と爛殴鵐ツギ瓠

爛殴鵐ツギ瓩録佑日々生活を送る中で生まれ紡がれる民俗の一つである。
漢字で書くと「験担ぎ」。元々の語源は「縁起をかつぐ」で、その昔、逆さ言葉が流行った時代に遡及するという。逆さ言葉で、「えんぎ」→「ぎえん」、さらに変化して「げん」になったという説が有力である。また、「験(げん)」とは、修験道で仏道修行を積んだ効果のことだともいわれている。これらのその意味があいまって、以前に良い結果が出た時の行為と同じことをして、今回も良い結果が出るように祈りを込めるという形で使われるようになったという。
競馬の世界には、そんな禁忌が多く存在する。
ある古老いわく…かつて競馬当日の朝、味噌汁だけは絶対に作らなかったという。
これは「勝負にミソをつける」との言葉のあやからくる物で、いわばゲンがよろしくないとのことなのだという。味噌汁はダメだが、豚汁は大いに結構だったとか。それは…「トントン拍子に勝つ」との語呂合わせ(笑)。競馬の世界は常に勝負事が取り巻く上、閉鎖的社会がそこに形成されていることも相まって、忌み言葉やジンクス、縁起担ぎが非常に多い。



その他の風習では、競馬が終わるまでは洗濯を控えたり、関係者の肩を叩くのもNGとされた。
これは「ツキを落としてしまうため」だという。
また夜家へクモが入ってきた時、一般の習俗からすれば「夜のクモは泥棒グモだから殺せ」とか、「不吉の象徴」とされれるが、競馬界では真逆。「ヨクモきてくれた」と言って大喜びし、神棚に上げるのだという。
こんな話もある。朝ヒゲを剃っていて、うっかり手を滑らせ顔を切ってしまうと「カネが入った」と一喜びするものだとされる。
ちなみにパドックで馬の尻に見かける「盛り塩」だが、通常の塩ではサラサラしていてとても盛れない。盛り塩をするには昔からの“荒塩”を入手する必要がある。


琉球馬民俗譚
現在の沖縄はかつての馬の名産地である…と聞けば、現世を生きる常民は皆訝しげに眉を顰めることだろう。
かつて盤古の時代、琉球王朝の頃、中国との貿易における重要品目は馬と硫黄であった。
馬が記録上交易に登場してくるのが洪武5年(1372年)、朝貢貿易が封切られた年で、洪武7年には40頭の馬が中国側に買い取られている。そしてなんと洪武16年には983頭もの馬たちが遠く東シナ海を越えた。これだけの頭数が生産されていたということは、それなりの生産技術や風土があったからに他ならず、相当な名馬も武帝へと献上されていたという。どうやら明代の琉球は重要な馬の輸出地としての役割をになっていたらしい。その生産地は読谷・宮古で、王府直営の牧場があったとされる。

≪沖縄独特馬文化≫
ムイスウ
その昔、1950年代ごろまで、馬売り買いの仲介を果たすウマバクヨウというという職があった。それまで所有していた馬を売り、新しい馬が来ると、家族はもちろん近隣住民総出となって喜んで盛大に迎えたという。きっとカチャーシーを皆で踊り、馬を愛撫したのであろう。ご馳走としてイワシ缶詰入りの
ソーメンチャンプルーが振舞われたという。

馬の病気
ネーラ
関節に何らかの障害が生じ、歩様が乱れる病気。

イーゴー
皮膚が爛れる病気。

その名称だけでも奇異な感覚を覚えるが、その治療法がまた独特。例えば、前出のネーラの治癒法というのが、野原で脚に縄をかけ、引き倒して蹄の中央部から鋭利な刃物で血を採るというもので、ネーラの主原因とされる悪い血を引き抜く方法なのだという。
蹄といえば、馬蹄鍛冶まで馬を連れ、馬蹄を新調してくるのは子供たちの仕事だった。
子供たちは馬に乗り遊び、馬耕など仕事の手伝いもする一方、仲間同士で馬を自慢しあったのだという。

ドウドウ馬
沖縄の結婚式の婿入儀礼の奇習。
杵を馬に見立て、それに花婿を乗せ、村の人々が囃し立てて花嫁の家へと向うという民俗で、研究発表がされていない、民俗学における未開の地でもあるこの風習は、生殖繁盛を主眼においた呪術的儀式であるとされる。
ドウドウ馬は読谷村喜味、知念村手堅、首里、那覇で伝わっており、その様相は勇壮の域を超え、激昂した猛々しいほどで、卒倒する者もいたほどだったという。
民俗学的見地から考察するに、馬は魔除け・精力の強い動物の象徴でもある傍ら、神の依り代でもあることは再三再四述べていることで、杵は男根のシンボルと見做すことが出来よう。どうやら、やはり子宝繁栄を祈願する風俗文化の一つと言えそうだ。



 ◆ 伊豆大島

伊豆大島に3頭だけ暮らす馬の一頭。ウルマという名前で、沖縄県八重山諸島の最果ての島与那国からやってきた。1998年に来島。島の観光産業に貢献する貴重な存在である。

 ◆インフェルノの写真◆
ついに入手。カナダ最初の名馬にして最強クラスの伝説の名馬、インフェルノ
彼の詳細は『奇跡の名馬』をご参照ください。


気性はセントサイモン以上に荒く、暴漢の如しだったというインフェルノ。
地獄の業火の名を授かるにふさわしい荒馬だったようだ。
心臓も巨大で馬体も…なるほど、あのファーラップを想起させるような巨躯である。


超ディープなマニアック馬情報を続々とこの書庫へと記していきます。ぜひぜひご期待ください。

馬・競馬の基礎知識 * 09:18 * comments(0) * - *

馬・競馬の基礎知識 〜海外編〜

 
競馬基礎知識
   〜 海外編 〜


海外各国の統括団体洋式競馬創世年度

⇒統括団体

⇒洋式競馬創世年度


イギリス
BHB(英国競馬会社)
※1993年までは各競馬場のジョッキークラブ

12世紀より。

売り上げ:約2兆2309億円
控除率:17%(ブックメーカー)
※これにギャンブル税が加わり、実質26%

《トータリゼータ》
単勝(Win)      13.5%
複勝(Place)     18%
馬連(Dual Forecast) 29%
馬単(Exacta)     24%
6重複勝(Placepot)  27%
6重勝(Jackpot)    29%
4重勝(Quadpot)    29%
3連単(Trifecta)   29%
指定6重勝(Scoop6)  30%




ギャロ
(平地・障害競走協会、スポーツ奨励協会)

※1995年より

シュヴァルフランセ
(繋駕速歩競馬)


17世紀より。

売り上げ:約1兆796億円
控除率:25.7%


アイルランド
HRI
(ホースレーシングアイルランド)
※1995年より。農水省の管轄

16世紀後半より。

売り上げ:約3466億円
控除率:23.5%
競馬場数:27


ドイツ
ユニオンクラブ

1822年、バルト海沿岸都市のバード・ドベランにて

売り上げ:約297億円
控除率:28.0%
競馬場数:57


チェコ共和国
ジョッキークラブ運営(全15箇所の競馬場を管理。1919年発足)

1816年に最初の競馬がフランシス二世皇帝の下開催。最初の競馬場は1909年プラハに創設される。
開催日は日本と同じ土日開催。

売り上げ:約1.7億円
控除率:30.8%
競馬場数:14



UNIRE(ウニーレ)
※2000年より。それ以前は各競馬場のジョッキークラブ。

1808年、ナポリにおいて開始。

売り上げ:約4010億円
控除率:30.4%
競馬場数:45


スウェーデン
各ジョッキークラブ。

1830年代より。
ただし、1555年に氷上にて競馬が行われた記録がある。これがスウェーデン最古の競馬記録となる。

▲〔スウェーデンの氷上競馬を記録した絵画〕

売り上げ:約1647億円
控除率:30.0%
競馬場数:37


ハンガリー
各ジョッキークラブ。

1827年6月6日、ペストにて初の競馬。

売り上げ:約7.5億円
控除率:30.0%
競馬場数:2

【ハンガリーはキンツェムパークを訪れました!】

仕事でヨーロッパはドイツ、ルーマニア、ポーランド、ハンガリー、オーストリアを来訪しました。
その際、54戦54勝、爛魯鵐リーの奇跡瓮ンツェムの母郷はブダペストの競馬場へ。
場内スタンドはちょうど改修工事中でしたが、運が良く中を見せて頂けました。
大感激!大感動の一言!


▲〔キンツェムパーク〕

地元の人たちに聞いてみましたが、みんなキンツェムのことを知っていて、あらためて偉大な名馬なのだと実感致しました。
ちなみにディープインパクトやフランケルすら、みなさん「なにそれ?」とのこと…
キンツェムすごいな…。



▲〔キンツェムパークのメインスタンド〕

ハンガリーの競馬は鎖橋をかけたセーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵が始めたことにはじまります。
キンツェムのみならず、キシェベルやペイシェンスなど、歴史的名馬を何頭もオーストリア・ハンガリー帝国時代に輩出。
一時代を築き上げた騎馬民族の国家がハンガリーなのです。



キンツェムも愛し、見つめたであろうドナウ川。
郊外の整備された高級マンションのリバーサイドからの眺めは絶景でした。



▲〔キンツェムの銅像〕
いくつもの幸運が重なって回り逢えたキンツェム像。
『奇跡の名馬』はディープインパクトとこの馬のために書いたといっても過言ではない、私の集大成第一号。
不思議なことにキンツェム競馬場に来訪したのが「5」月「4」日。
そう、54戦54勝という戦績に、偶然にもかぶる日付の日に邂逅できたのです!
銅像の前に立ったとき、心なしか、キンツェムが
「わたしのこと、書いてくれて、ありがとう」
そう言ってくれた様な気がしたのです。




ポーランド
Towarzystwo Wyścigów Konnych i Wystawy Zwierząt Gospodarskich w Królestwie Polskimにより運営されている。

1841年、ワルシャワのモコトワ・フィールズにて初の競馬。

売り上げ:約12億円
控除率:不明
競馬場数:3


(ソヴィエト連邦)
レベジャーニ

1772年7月、サンクトペテルブルクの郊外クラスノエセローにて開催された物が、ロシア最古の競馬とされる。
統括団体が登場したのは1826年のタンボフ州における競馬に端緒を求めることが出来る。
1836年に首都モスクワに競馬場完成。同年サラブレッドスタッドブック刊行。
1841年にサンクトペテルブルクにて公式競馬。

売り上げ:約1.2億円
控除率:不明
競馬場数:42


アメリカ合衆国
各州にて管轄。

1620年代頃より。
1665年、アメリカ大陸史上初となる競馬場がロングアイランドに立てられ、ニューヨーク知事のリチャード・ニコルズ監修の下、初となる競馬が行われたという。

売り上げ:約1兆7848億円
控除率:概ね21.0%
※各州ごとの設定。

カリフォルニア州(代表・サンタアニタパーク競馬場)
単勝・複勝 15.43%
連複・連単 20.18%
3連単    20.18%

ケンタッキー州(代表・チャーチルダウンズ競馬場)
単勝・複勝 16.00%
連複・連単 19.00%
3連単    19.00%

ニューヨーク州(代表・ベルモントパーク競馬場)
単勝・複勝 15.00%
連複・連単 20.00%
3連単    25.00%


競馬場数:175



ウッドバイン・エンターテイメントグルー
(オンタリオジョッキークラブ)

1760年代より。

売り上げ:約1515億円
控除率:21.0%
競馬場数:72



エミレーツ競馬協会

1970年代より。本格的参入は1991年。

売り上げ:ー
控除率:
競馬場数:4


香港

1845年ハッピーヴァレー競馬場にて。

売り上げ:約8183億円
控除率:15.9%
競馬場数:2


シンガポール
MRA(マラヤン競馬協会)

1843年、フェーラーパーク競馬場にて。

売り上げ:約1223億円
控除率:19.7%

【シンガポール競馬の歴史】
1842年 競馬ファンのグループにより、シンガポール・スポーティング・クラブが結成される。
1843年 ファラーパークの競馬場においてシンガポール初の競馬。
1896年 今日ではマレーシア競馬協会として知られている海峡競馬協会の結成に伴い、公式競馬規則が導入される。
1959年 日曜競馬の開始。翌年には一般市民が競馬に参加することが初めて許される。
1981年 マレーシア・シンガポールサーキットで女性初の騎手誕生。
1995年 国内初となる場外馬券センターの設立。また携帯機器を通 じて賭けることを可能にするアクセスと、
     口座を持っていれば電話で賭けることを可能にするテレベットが導入される。
1998年 国際化が大きく進展。代表的レースであるシンガポールゴールドカップが海外からの参加可能に。
1999年 ナイトレースが始まる。
2000年 シンガポール競馬場がシンガポール共和国大統領SRナザンによって公式に開幕。
2001年 300万ドルのシンガポール・エアラインズ・インターナショナル・カップが国際G1の認定を受け、
     100万ドルのシンガポールカップが国際G3の認定を授与。
2002年 シンガポール・エアラインズ・インターナショナル・カップがワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップの一つとなる。


マレーシア
MRA(マラヤン競馬協会)・3競馬場主催者
最初はアマチュア競馬だったが、20世紀に入りプロ化。シンガポールと一体となっての開催。
南半球産馬がほとんどの為、北半球にあっても南半球式の馬齢制。初となる競走馬サラブレッドの輸入は1786年と伝えられている。

19世紀後半。
⇒イポー、セランゴール、ペナン競馬場の3場開催。
ぺラ州では1886年タイパンにて初となる競馬。最初は馬車を用いての競走だったという。1896年、初となる英国式競馬がバトゥ・ガジャにて開催される。
セランゴールでは1890年に最初の競馬が行われたという。
ペナンにおいては1864年から競馬が行われている記録がある。

売り上げ:約207億円
控除率:20.9%
競馬場数:4(シンガポール含む)


マカオ
マカオジョッキークラブ

1637年。マカオを訪れた貿易商が開催したという。

売り上げ:約1067億円
控除率:19.4%
競馬場数:1


アルゼンチン
各競馬場のジョッキークラブ

1828年、サラブレッド競馬創世。

売り上げ:約380億円
控除率:28.0%
競馬場数:22



★各競馬場のジョッキークラブ

★1814年、リオのボタフォゴビーチにて。

売り上げ:約126億円
控除率:30.0%
競馬場数:8


ウルグアイ
マローニャス・エンターテイメント

1854年、首都モンテビデオにて。マローニャス競馬場においては、1875年。

売り上げ:約9億円
控除率:29.9%
競馬場数:1


ペルー
ペルージョッキークラブ

1864年より

売り上げ:約20億円
控除率:33.2%
競馬場数:2


チリ
各競馬場のジョッキークラブ

1864年、貿易港のヴァルパライーソにて。

売り上げ:約295億円
控除率:28.4%
競馬場数:6


ジャイカ
KTR(ケイマナス・トラック・リミテッド)

1904年、ナッツフォードパークにて。 

売り上げ:不明
控除率:
競馬場数:2


南アフリカ共和国
NRA(南アフリカ全国競馬機構)

★1797年、同地にて結成された競馬クラブにより施行開始。

売り上げ:不明
控除率:23.4%
競馬場数:11


ジンバヴウェ
NRA(南アフリカ全国競馬機構)
※ただし、マショナランドターフクラブのみ、独立してハラーレ競馬場を管理運営。

1891年、北部のマショナランド植民地のソールズベリーにて。

売り上げ:不明
控除率:25.0%
競馬場数:1


モーリシャス
モーリシャスターフクラブ(エドワード.Aドラッパー大佐による監修・指導の下創設)

1812年の6月25日、チャンプドマーズ競馬場にて最初の競馬。この競馬場は南半球最古の競馬場でもある。

売り上げ:約86億円
控除率:25.0%
競馬場数:1


オー
州単位での統括。
※ただし、1998年に全国組織の「オーストラリア競馬評議会」が設立されている。
この団体は、各州を代表する2名で構成される。

1810年、英国第73連隊の士官らにより、シドニーの中心・ハイドパークを舞台に競馬が開催された。

三段階のシステム
・都市(メトロポリタン)
 ▼▼▼▼▼▼▼
・郊外(プロビンシャル)
   ▼▼▼▼▼
・田舎(カントリー)

上記の三つのタイプの競馬場に分類され、上に行くほどレベルが高く、賞金も当然高くなる。
また平日の競馬より、週末の競馬の方が賞金も高く設定されている。
日本の中央と地方とはタイプが異なり、各競馬場の行き来は条件さえ満たしてさえいれば、いつでも可能となっている。

売り上げ:約8860億円
控除率:14.0%
競馬場数:479(世界一)


ニュージーランド
NZTR
(ニュージーランド・サラブレッド・レーシング)

1841年より英国式競馬開始。サラブレッドのみの競馬は1860年より本格化。

売り上げ:約517億円
控除率:16.1%
競馬場数:64





873億3483万6697ユーロ
(1ユーロ=135円台の計算)

円換算すると…

117兆855億円!!!!!






世界競馬場

1540年 イギリスにおいて、建設されたチェスター競馬場が現存最古の記録とされている。これは、近代競馬(正式のルールと専用の施設に基づく競馬)が行われるようになる最古の記録物でもある。

 
▲〔チェスター競馬場〕


記録に残る
  
最古競走記録


英国史上最古となる競馬に関する記録は1174年ごろ、ウィリアム・フィッツスティーブンがラテン語で書いた「ロンドン市の描写」の記事である。
その記事によれば、スミスフィールド市場近辺にて2名の騎手による競走が行われたという。



馬について記した
   最古
文書記録

紀元前1780年頃、ユーフラテス川中流岸の都市国家マリの典礼長が、王ジムリ・リムに宛てた手紙が馬について記された史上最初の文書とされている。この便箋の中、王はチャリオットあるいはロバに乗り、決して馬に乗らないよう進言している。


 史上最初の競馬

紀元前13世紀、ホメロスにより綴られた『イーリアス』の中で戦車競走の模様が記されている。これはトロイ戦争で殺されたパトロクス(アキレスの親友)の葬送競技の一つとして執り行われたものらしい。
レースの距離は曖昧だが、記された文書によれば、トロイの都の外に開けた平原を横切ってゴールに向かい、アキレスがそのゴールに立ち勝者を判定するというものだった。
ゴールは樫かカラマツの木がその役割を担ったという。
ディオメデス、メネラオス、アンティロコス、ネストール、メリオネスら5名が参加し、5着全員に賞品が用意されていた。ちなみに優勝者には美女がその賞品として用意されていたという。
見事優勝を勝ち取ったのはディオメデスと伝えられている。
これが馬の登場する公式の世界史上最古の競走・競馬である。


スタート・
 発走はじまり


その始源は大変に古い。遡及すること紀元前680年。第25回古代オリンピックに、4頭曳きの馬車(チャリオット)競走がスタート。以降続々と競馬の種目が加わっていった。
なんと、すでにこの時にゲートは完成していたことが、1766年に英国のリチャード・チャンドラー氏の発掘調査により判明している。そのスターティングゲートを発明・考案したと言われているのがアリストクルスの息子クレオエタス。その概略と仕組みを記しておく。



上図を見て頂きたい。コースに向かって三角形の先端に当たる前方に青銅のイルカをのせた柱が立てられている。このイルカ像から向かって正面の位置に両翼を広げた青銅のワシの祭壇が設けられている。先頭のイルカの柱から三角形の1辺に当たる距離は約400フィート(約120m)あり、その両辺に馬を入れる枠が仕切られる。各枠・馬たちの前にはロープが張られている。
スタート方法だが、まずスターターが祭壇の位置に立ち、三角形の先端から最後方の位置にある枠のロープを外し、この枠の馬を発走させる。走り出した馬の鼻先が後方から2番目の枠の馬の鼻面と並んだ瞬間、後方2番目の枠のロープを外し、この枠の馬が発走。あとは同様に繰り返し、最後の馬が発走する頃には各馬がほぼ一緒に並んで走り出している状況が作り出せるというカラクリ。


ちなみに、英国でゲートが使用されはじめたのが1965年7月10日、ニューマーケット競馬場。
それまでは伝統に重んじ、旧態のバリヤー式発走を取っていた。
また世界最初のスターティングゲート導入競馬場は、カナダのブリティッシュコロンビア州にある兵スティングス競馬場。1939年、当時スターターを務めていたクレイ・ピュエット氏がバリヤー式による発走にかかる時間と手間の軽減を目的に、以前から暖めていたアイデアを元にゲートを考案。さらには開発まで自らの手で進めていった。開発当初は競馬関係者から懐疑的視線を浴びるものの、その実用性を見せることで説得させ、1939年の7月1日、世界初となるゲート式競走が開催されるに至った。その後、高く評価され、アメリカ西海岸へと普及。さらには米国全土、そして世界へと浸透してゆくことになる。

  
▲〔ヘイスティングス競馬場。1889年創設。当時はバンクーバー市西部のハウ通り沿いにあり、イーストパーク競馬場と呼ばれていた。1892年に現在の所在地へと移り、同地にて開催された博覧会に因んでエキシビジョンパーク競馬場と改称された。現在の名称に移り変わったのは比較的近年のようである。一周約1,069m、直線は約156mという小さな競馬場である。〕



世界競馬放送

世界最初の競馬放送が行われたのは、英国の地。
放送媒体となったのは、ラジオで、1927年のことだった。
放送内容は第148回を迎えた英国ダービーであり、実況を担当したのが英国のG.F.アリソン氏。
双眼鏡で馬を追いながら放送できる特別仕様のマイクロホンを使用しての実況であったという。
米国初の競馬放送は1930年のアーリントンクラシック。シカゴからの放送であった。




世界馬の写真撮影


▲「a man leading a horse (馬引く男)」1825年

世界で初めてとなる、馬を写した写真撮影1825年であると言われている。
これはまた現存する世界最古の写真でもある。
フランスの発明家である二フォール・ニエプスが撮影したという。
競走馬としてカラー写真に残るサラブレッドは、英三冠馬となる
フランスの歴史的名馬グラディアテュールが最初と口伝されている。



世界馬の映像撮影


1878年6月15日、イギリスのE.マイブリッジが疾走する馬の脚でシャッターが切れる装置を考案し撮影に成功。
等間隔にこの装置を12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。
これに触発されたトーマス・エジソンが映画の原点となる映写機キネトスコープを発明することになる。
これがシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。
映画発端の誕生に馬が関わっていることをどれだけの人が認知しているのだろうか。



グレード制導入

グレード制が導入されたのは、せり名簿に掲載する際に、勝馬の競走の格付けを行うためであり、ヨーロッパではグループ制1971年に、アメリカではグレード制1973年に設定された。
ちなみに日本での導入年度は1984年


競走馬空輸暦遷

1945年10月22日m米国ではじめて馬の輸送が空の便により行われた。はじめて空を飛んだ馬は、エルロボーとフェザー・フートという3歳馬の2頭。馬主はスチュアート・ハンブレン氏。
移動距離は約550km。ロサンゼルスからサンフランシスコ近隣のベイメドウズ競馬場の駐車場まで飛んだという。

競走馬初の大陸横断飛行
1946年5月29日、アメリカン・エキスプレス社によって行われた。
カクーラとウレタという3歳牝馬がその時の馬で、ニューヨークからカリフォルニアまで約3,900km
の輸送距離で、悪天候もあり20時間近くかかったという。


輸送中の死亡事故
1948年1月、パリのオルリイ空港から出発したシーボルトウスタンの航空機がケンタッキーへ向け出発。機内にはジェラールという種牡馬が搬送中で、最初の着陸地はアイスランドだった。
しかし、犬を一緒にしていたのが悪かったせいか、離陸直後から狂乱状態となり壁を蹴り始めてしまった。この異常事態に付き添いの係員が緊急着陸を操縦士へ要請。その後まもなく、最寄の空港に
寄航。早急に扉を開けるも、馬はもう瀕死の状態で、最悪なことに脚を骨折してしまっているようだった。苦心惨憺の末、機内から降ろすも、2〜3分後死亡してしまった。

ちなみに日本で初の空輸が行われた馬は、ハクチカラだった。

▲〔東京優駿優勝後、口取り式でのハクチカラ。〕

ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては飛行機に乗ること自体が高嶺の花であり、増してやデリケートなサラブレッドを太平洋横断させるという、このようなスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカですらほとんど有していない状態であった。このことから、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った旅客機がチャーター便として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった。日本の空港には馬を出し入れできるスロープがなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。



風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の拳銃の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意することを条件とされたため、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈るような思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中まったく落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた騎手・保田隆芳は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。



モンキー乗り使用者

鐙を短くし、腰を浮かせ背を丸め、膝でバランスを取りながらの騎乗法を『モンキー乗り』、馬の背に腰をおろした長い鐙の乗り方を『天神乗り』、そしてそれを日本近代競馬に浸透させたのが保田隆芳氏というのはある程度、有名な知識ではあるが、その発祥・起源は米国の黒人少年にあるのだという。
時は1880年、米国南部のとある黒人少年が馬の乗り方を誰も教えてくれないとのことから、単独で騎乗法の挑戦に打ち込んでいた。貧しいがゆえ、鞍の代わりにボロボロのズックの布を馬の背に付け、振り落とされぬようしがみついて馬に乗る我流の騎乗法を生み出していった。
ある時、この少年の斬新な乗り方と鮮やかな操縦を粒さに認めた馬主が、白人騎手が乗って敗れた馬に、たまたまこの少年を乗せて競馬をしたところ、なんと言うことか、圧勝してしまった。
思考を巡らし、この少年の騎乗スタイルを分析。その結果、サルの様な乗り方は空気抵抗を著しく減少させ、その上重量を軽減させることが可能であることが判明。
以降、この騎乗スタイルは「モンキー乗り」の呼称で伝えられ、世界的に伝播してゆくのであるが、本格的に近代競馬に姿を見せるのはその10年後、1894年のことだとされている。
この年、サンフランシスコ競馬場にて調教をしていたトッドスローン騎手の馬が突如逸走。彼は馬を止めようと手綱を引っ張っることに躍起になるが、馬の頸(くび)の上に乗ってしまう。それを見ていた周囲の者たちは「サルのようだ」と嘲笑。しかし、彼はこの体重移動が馬を楽に、そして自由にしていることに気付き、改良に改良を重ね、現代のモンキー乗りの原型を作り上げていったという。

 

ちなみに、鞍は最初期は毛布だったが、形はどうあれ、良い鞍の基本条件は、乗り手がバランスが取れて、脚で馬に的確に合図を送れる位置に乗れること、そして体重が馬の腰にかから無いこと。そのポイントを主軸に鞍は現在のフォルムへと進化を遂げていく。



障害競馬遷譜


競馬の母国、英国においてはより競馬ファンの熱烈な支持を集めるのは「障害競馬」である。
日本よりはるかに馬事文化の歴史が長く、馬が身近な存在である同国やオセアニア地域では、乗馬愛好家の絶対数や潜在的支持者層も日本とは比較にならないほどの大きな比率をもつ。水濠や生垣といった多種多様な障害を飛越し、人馬一体となってゴールを目指す障害へ強い親近感を抱くことはいたく当然であり、絶大な人気を誇るも頷ける。乗馬などで馬と触れ合う機会の多い国民にとって、猛スピードで馬を駆り立てる平地競走の方が、はるかに猗麁常瓩如⊃爾た討靴澆睚┐ないと言う訳である。
最初期の障害競走は競馬場で行われるものではなく、クロスカントリーの形式で行われ、障害もレースのために用意されたものでなく、牧場の囲いや小川、天然の生垣などを飛越していた。発馬地点や走路に明確な規定はなく、通過すべき障害の地点に係員が立ち、旗を振って誘導を行っていたという。

障害競馬のタイプ分け

スティープルチェイス
最古の記録は1752年の愛国(アイルランド)。とある日の昼下がりのことだった。
コーネリアス・オキャラハンとエドマンド・ブレイクという二人の男が狩猟に出るも、まったくの不振に終わる。
その帰途、二人の視線の彼方、およそ4マイル先の小高い丘の上に、セントレジャー教会の尖塔が斜陽の中、視界に入ってきた。その時、彼方に見える教会まで競走しようという提案がなされ、この話し合いのもと、競走が行われた。ルールは唯一つ。
バターバント教会からセントレジャー教会まで一直線に走る…
つまり、何らかの障害物に行き当たった場合、これを飛越して進んでいかねばならない…という訳である。
これが馬を使った障害競走の始まりとされている。
尖塔=steeple…これを目標として追い掛ける(chase)することから、その競走は現代障害競馬で表現するところの“スティープルチェイス”へと進展してゆくこととなる。


ハードル
大まかに説明するならば、障害の数が多く、距離も長く、障害の大きさも難易度が高いものが上述のスティープルチェイス。その逆を行くのがハードル競走だという。


ポイント・トゥ・ポイント
野外を走る競走で、フォックスハンティングから自然派生したレースだとされる。最古の記録が1836年3月2日、ユースターで催されたもの。
スタート地点とゴール地点が決められており、目標到達点までのコース選択は騎乗者にすべて委ねられる。使われるのがハンターという種の馬なのだが、あのグランドナショナルをこの種の馬が5回も制していることは見逃せない。



米国障害競馬
米国における最古の障害競走は1844年ニュージャージー州に立つホボーケン競馬場にて行われたものだとされる。この競走はヒート制で行われ、勝ち馬はカナダのホップスという馬だった。
1897年に統括団体となるナショナル・スティープルチェイス・ハント協会が設立された。
そんな中、米国産馬としてはじめてグランドナショナルを制したのが、ホテルでバスを牽いていたルビオという使役馬で、彼の勝利は、大きな話題を呼んだ。


フランス障害競馬
フランスにおける初となる障害競走は1830年3月4日、ジュイにて行われ、シャルトル公爵の所有馬が優勝した。障害競馬はその後、定期的にクロワ・ド・ベルニーやマルシュ、ヴァンセンヌなどで開催されている。
1863年にはフランス障害競走協会が設立され、パリ市からパリを囲む城壁跡からモルトマール丘までのブローニュの森内の土地を賃借。1873年11月10日にオートイユ競馬場を建設した。パリ大障害の前身となるフランス・グランドナショナル(距離6,400m、22障害、1着賞金38,700フラン)が行われたのは1874年5月25日。1876年に行われた第1回パリ大障害は、フィノ男爵の所有馬が優勝した。



繋駕競馬遷譜

その始原は、紀元前のギリシャ、ローマ時代の円形競技場で行われていた戦車競走にある。
日本では馴染みの薄い競走だが、欧米オセアニアにおいては絶大な人気を誇っている。

繋駕速歩に使われる競走用二輪馬車は、サルキーと呼ばれ、1892年に発明された。
1970年代の中頃、ジョージ・キングというエンジニアが改良を施し、現在に至る。
これにより、1マイルを2分で走破する馬が1974年には685頭だったのが、彼の改良により、僅か二年後には1849頭へと、飛躍的発展を見せた。
 

【サルキー以外の馬車の種類】

競走に使われるサルキー以外、日常の中乗られた馬車を始め、

馬車の多様性は非常に多岐に渡り幅広い。

 

・ベルリン(二人乗りの四輪箱馬車)

・ブレーク(四輪の大型遊覧馬車)

・御者台に屋根のないブルーム型馬車

・バックボード(弾力性ある板を車体にした長い馬車)

・バギー(1頭立て軽装馬車)

・キャブリオレー(1頭立て2輪で二人座席の折り畳み式幌付き馬車)

・カレッシュ(幌が前後に開く1頭立て2輪馬車)

・チェイス(二人乗りの1頭立て幌付き2輪軽装馬車)

・キャラバン(大型の遊覧馬車)

・クラレンス(ブルームに似た箱型4人乗り4輪馬車)

・クーペ(二人乗り箱型四輪馬車)

・イヌ馬車(イヌが引くのではなく、狩場にイヌを運ぶのに使われた)

・ロバ馬車(引いたのはポニー)

・ガバナスコート(左右両側の座席が向き合っている軽二輪馬車)

・ハンサム(二人乗り1頭引き二輪辻馬車)

・ジョギングカート

・スタンホープ(幌無し一座の軽二輪馬車)

・ランドー(幌の前半分と後ろ半分が別々に開閉し、向き合った座席を持つ四輪馬車)

・フェートン(2座席の軽二頭立て四輪馬車)

・サリー(2座席四人乗りの軽快な四輪馬車)

・タンデム(縦並びの二頭引き馬車)

・ティルブリ(覆いの無い二輪軽装馬車)

・トラップ(二輪ばね付きの軽馬車)…etc.

 

■北アメリカ

北アメリカにおいては繋駕速歩競走の80パーセントから90パーセントはペーサーであり、ほとんどすべての競走の距離は1マイルである。また、ヨーロッパなどで見られる距離ハンデ競走は行われておらず、全競走でモービルスターティングゲートが使用される。多くの競馬場では緩やかな傾斜があるが、いくつかの競馬場は平地競走と共同で使われるために傾斜がない。

トロッター三冠やペーサー三冠、ブリーダーズクラウン(トロッターとペーサーごとに牡牝別、馬齢別により12競走で構成される)などの競走が有名である。
北アメリカでは、馬がキャンターで走った場合、ドライバーはただちに馬を大外に持ち出すとともに手綱を引き、位置取りなどで有利になることがないよう処置することが義務付けられているが、速歩に戻った場合は競走を継続できる(ただし、キャンター状態でゴールした場合は失格または降着となる)。この点は、キャンターで走れば即座に失格となるヨーロッパの競走と大きく異なる。
アメリカのニュージャージー州にあるメドウランズ競馬場とフリーホールド競馬場、カナダのオンタリオ州にあるウッドバイン競馬場とモホーク競馬場が人気のある競馬場である。とくにカナダではサラブレッド競走よりも人気がある。
アメリカでは1947年以降、記者の投票によってペーサーとトロッターをあわせて1頭の年度代表馬が選ばれている。


■オセアニア

オーストラリアでは、速歩競走専用競馬場が各地にあり、盛んに行われている。

競走は一般的に1マイル以上のさまざまな距離で行われ、勝利数によってクラス分けされている。1競走ごとの参加頭数が多く、13頭が出走することもめずらしくない。ニュージーランドもほぼ同じであり、多くの馬がタスマン海を越えて交流している。

最大のイベントはインタードミニオンチャンピオンシップである。この競走は毎年オーストラリアの各州で持ち回りで実施され、4年に1度はニュージーランドで実施される。
 

■ヨーロッパ

イギリス、アイルランドをのぞくヨーロッパの多くの国では、日本で一般的に行われている平地競走よりも繋駕速歩競走の方が人気がある。とくにイタリア、フランス、スウェーデンの3か国が規模が大きい。ほかにベネルクス三国、スイス、フィンランド、ノルウェー、ドイツ、デンマーク、ハンガリーなどでも年間500 - 10000の競走が施行され、どの国も平地競走の競走数を上回っている。競走形態はトロッターが中心。競走馬は高齢まで現役を続けるのが普通で、一流馬でも10歳ごろまで現役を続け、平地競走の一流馬では考えられないほど多くの競走に出走する。国ごとの交流も大変盛んで、8か国14競走が対象のシリーズもある。
とくに有名な競走はフランスのヴァンセンヌ競馬場で行われるアメリカ賞とスウェーデンのエリトロップなどで、アメリカ賞はヨーロッパの競馬のイベントの中でもっとも権威ある競走のひとつと認識されている。ただし、全体的な賞金に関しては平地競走には及んでいない。
ちなみに繋駕速歩競走を題材としたゲームも多数あり、優秀なスタンダードブレッドを生産して世界を舞台に戦うことができる設定となっている。

●フランスの競走環境
フランスのトロッターは毎年1万頭を超える規模で生産されているが、そのうち能力試験で合格し競走馬となれるのは約4000頭である。なお、能力試験は1年毎の更新制であり、毎年受験させる必要がある。競走馬がセリ市で付けられる平均価格は2万ユーロで推移し、富裕層よりは庶民層寄りの客層が見受けられる。
フランスの速歩競走における最大のトレーニングセンターは、パリ南東部にある町グロボワにあり、グロボワ城の敷地を利用している。敷地の広さは412ヘクタールあり、約60厩舎、約1500頭に及ぶ競走馬の管理が行われている。調教で使用される繋駕車は競走時のものと別の車であり、調教と競走で場面が変わる事に使い分けがなされる。ここで調教を施される馬は調教時のみならず、厩舎との往復時にも速歩で移動させ、動作を馬へ覚え込ませているという。
トレーニングセンターそばにあるグロボワ城は1580年に建築されたものであり、現在は速歩競走の博物館として公開されている。展示物には過去のアメリカ賞優勝馬の勝負服人形がある。なお、速歩競走の博物館はグロボワ城を含め世界に2つしか存在しない。

●諸外国・繋駕速歩人気の理由
日本以外の競馬主要国において、繋駕速歩競走が人気を博している理由として、不確定要素によるギャンブル性が強い事や、競走馬の活動期間が長いこと、特にフランスでは、比較的馬主になりやすいこと等もその理由に挙げられよう。ヨーロッパではライセンス取得が容易であり、アマチュアドライバーによる繋駕速歩競走も活発に行われており、前述のアメリカ賞前日には、アマチュアドライバーのチャンピオン競走も行われている。



お隣、韓国競馬


韓国における競馬は、1898年の5月に行なわれたロバの競走にまで遡ることができる。
賭けを伴う、洋式の“近代競馬”が初めて開催されたのは1920年、ジョセオン競馬クラブにおいて。
現在、競馬場は、オリンピック馬術競技場が改装され1989年にオープンしたソウル競馬場(1)と、済州島に生息する野生のポニーを保護する施策の一環としてつくられた済州競馬場(2)、および2005年に開場したプサン・ギョンナム(釜山慶南)(3)の3か所で行われている。
韓国でのレースはすべて、内国産馬のレースと外国産馬のレースの2種類に分けられ、内国産馬は獲得賞金によって5つのグループに区分けされる。外国産馬も同じ基準で4つのグループに分けられており、全レースが、内国産馬、クラス1、3歳以上というように、馬の生産地、クラス、年齢によって組まれるという仕組みが取られている。
2013年には日本の大井競馬場と交流競走が行われ、競馬史上初となる“日韓戦”も実現された。
韓国では、1920年代から主要都市に競馬クラブが設立され、1922年には全国組織の朝鮮競馬クラブが設立、1933年には9つの競馬場を傘下に置く朝鮮競馬協会が創設を見るに至る。そして独立を果たした1945年、現在の統括組織である韓国馬事会となる。しかし、1950年に勃発した朝鮮戦争により競馬場も一時閉鎖に追い込まれるが、1954年にはソウルにトクソム競馬場がオープン。紆余曲折をえて競馬開催を続
けてきた韓国馬事会。1986年にはアジア大会、そして1988年の夏季オリンピック開催決定時には、馬術競技場の建設という大儀も任された。両大会において馬術競技の開催に成功した後、この競技場は競馬場へと改装され、1989年9月に現在のソウル競馬場が完成され今に…というのが韓国競馬の大まかな歴史である。


異郷・辺境競馬模様


こんな所にも競馬が!?知られざる魅惑の世界競馬エリアをご紹介しましょう。


 微笑みの国
     タイ競馬

タイには八つの競馬場がある。

サナームファラン
サナームタイ
チェンマイ
ウドーン・ターニー
コーン・ケーン
マハー・サラカーム
ロイエット
コラート


サナームファランはタイ最古の競馬場で1901年設立。
別名ロイヤル・バンコク・スポーツ・クラブ競馬場。ちなみにサナームはタイ語で広場、ファランとは白人のことを指す。在住の欧米人たちによって建設されたものだという。
サナームタイは前者に対抗して1914年に創設された競馬場。別称ロイヤル・ターフ・クラブ競馬場。

  
▲〔サナームタイ競馬場〕

プミポン国王一家の暮らすチットラダー宮殿の中にある。両競馬場とも王室の後援のもと開催されており、日曜にのみ交互に開催されているという。
土足やサンダル、半ズボンやTシャツでの入場は禁止。これは王室内なのだから、正装すべきという規律があるためらしい。
発売されている券種は単勝と複勝の2種のみで、数十年前までは発売機が手動式(鉄のレバーをガチャンと押して印字する原子的なもの)だった。現在はコンピューター式のものへと移行が進んでいる。一方で券種も増え、馬連、馬単、枠連、枠単といった日本でお馴染みの券種も購入可能になった競馬場も出て来ている他、枠三連単やDaryWという特殊な馬券も売られている。これは2レース連続で馬単を当てるという難易度の高い券種である。

日本で見られない珍しい光景といえば、騎手の作法。騎手は騎乗する際、馬に対して合掌する。これは馬に対しての敬意とレースでの安全を祈念してのものと思われる。


  
▲〔手を合わせるタイの騎手〕

ちなみにダービーは芝1,840m。正月第一週に開催しているようだ。
また2009年のダービーでは9番に入ったチョコレートという馬が優勝。2着に9番が入り、馬連6−9、配当66.9倍という69づくしで決まった珍事が起きている。ダービーにも関わらずハンデ戦という珍重な競走でもある。また出走制限も馬齢ではなく、「生涯一度だけ」という実に変則的手法がとられている。


 

続きを読む >>

馬・競馬の基礎知識 * 05:24 * comments(0) * - *

馬・競馬の基礎&古知識 〜日本編〜

競馬基礎知識
     〜日本編



  馬由来


与謝野寛氏(昭和71922年)が記した『日本語源孝』によれば、「ウマ」(午、馬)は古くは「ムマ」と言い、その語源は「馬」(Ma)であるという。唇を堅く閉じ急に開いて発音する時、「m-ma」と云ふ風に「M」母音が微かに呼ばれる。それを写したのが「ムマ」であるが、後には「Me」母音「u」と呼ぶようになって「ウマ」と書くに到ったのだと論及されている。また一方で、白鳥庫吉氏によると、朝鮮語との比較から「ウマ」が「ムマ」の転訛形だと、その著書「日本の古語と朝鮮語との比較」の中で論述している。

   
▲〔多種多彩な倏廊瓩離タチ…〕



騎馬起源

日本における騎馬風習の起源は5世紀にあると言われている。
これは考古学的見地から遺物の調査によって明らかになっているし、文献上の観点から見てもその根拠を認める事ができる。



記紀


記紀(『古事記』と『日本書紀』)の岩戸神話の中に「天の斑駒」や「生馬の皮」として登場してくる。
興味深いのは応神天皇15年、285年8月の条に「百済の王は、良馬を二匹奉った。そこでその馬を軽(奈良県橿原市大軽町付近)の坂上の厩で養わせ、その馬を養ったところを名づけて馬坂といった」とある。
どうやらこの頃には盛んに馬が飼養されていたことが窺える。



明治時代以前馬政

日本では、馬は農村の労働力や食用として発達改良されたものではなく、権力者や支配階級の乗り物や戦争の為のものであったので、神代の昔、遙かなる昔日には牛馬の食肉への利用や屠殺は禁止されていた

天平3年(733年) 牛馬食肉の禁止令

天平11年(741) 牛馬屠殺の禁止令



明治・大正馬政

●馬改め
藩政時代から行われていた村々からの書き上げ資料を元に、実在する馬の記録や頭数を把握する管理業務。

明治6年 馬匹調査

明治8年 厩調査


これらにより馬政の基礎資料を作り上げ、基盤を固めた。
そして翌9年に「セリ場規則」が定められた。
以降、「父馬預り規則」「牛馬管理規則」が制定され、積極的な馬産計画が推進されていった。
そして…

明治13年 馬籍編成規則

…が作られ、行政側の体制が整備されていくこととなる。

日露戦争後、日本の馬匹改良は、国策としての軍馬増強に主眼が置かれ、馬格の大きい洋種馬との交配による大型化が行われた。
まず…

明治34年(1901年)馬匹去勢法
種牡馬及び将来の種牡馬候補以外の牡馬は全て去勢することが定められる。

明治39年(1906年) 内閣馬政局の設置

さらには…
昭和14年(1939年) 種馬統制法
さらに強化徹底された。この大規模な「改良」の結果、
多くの地方では短期間の内に純粋な在来馬が消滅するに至った。


  ☆競馬法

法令番号:昭和23年法律第158号
行政法の一つで、昭和23年7月13日制定。
原典となる旧競馬法、わが国初の競馬法発布は1924年(大正12年)3月24日のことで、この時代は軍馬育成促進化を図る為の競馬奨励の一つとして法制化された。この時、初めて馬券が合法化された。2010年10月現在、最新の改正は2007年6月6日。平成19年法律第76号。

≪主な内容≫
・日本中央競馬会、都道府県又は指定市町村以外の者は、勝馬投票券その他これに類似するものを発売して、競馬を行つてはならない(1条6項)。
・勝馬投票券は10円単位で発売し、10枚(100円単位)以上を1枚として発売することができる(5条1項・2項)。
・未成年者は勝馬投票券の購入および譲り受けができない(28条)。
・中央競馬の競馬場の数は、12箇所以内において農林水産省令で定める(2条)。地方競馬の競馬場の数は、北海道にあつては6箇所以内、都府県にあつては2箇所以内とする(19条)。




競馬法施行規則

競馬法を実施するために必要なルールを詳細に定めたもので、昭和29年に農林大臣が制定した。

馬主の区分
(1)個人〔本邦以外に住所を有する者、つまりは外国人馬主含む〕
→住所、氏名、生年月日

(2)法人
→住所、名称、代表者の住所、氏名および生年月日

(3)法人格なき組合
→事務所の住所、名称、組合員の住所、氏名および生年月日、代表者の氏名
※→以下はJRAに申請するさい明記しなければならない項目。

入厩の義務
中央競馬の競走に出走した事のある馬を競走に出走させようとする場合は、当該競走の実施される日の10日前から、中央競馬の競走に出走したことの無い馬を競走に出走させようとする場合は、当該競走の実施される日の15日前から、それぞれ引き続いて本会の管理する厩舎に入厩させていなければ、当該競走に出走させることができない。


馬の減価償却と耐用年数

競走用馬  4年
小運搬使役用馬 6年
繁殖用馬    7年
種付用馬    6年

 


運営審議会

日本中央競馬会の運営審議会は、委員10名で組織する。

運営審議会の委員は、次に掲げる者の内から理事長農林水産大臣の認可を受けて任命する。

  1. 競馬会が行う競馬に関係する馬主
  2. 競走馬の生産者
  3. 競馬会が行う競馬に関係する調教師及び騎手を代表する者
  4. 学識経験を有する者




日本競馬
  JRA創設までの
       
遷移史

馬券黙許時代
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は、内閣直属の馬政局を設置して馬匹改良に着手した。馬政局は優れた種馬を選抜育成して質の高い馬を多数生産するとともに、馬の育成・馴致・飼養技術を高めた。さらに国内における官民の馬産事業を振興するためには競馬を行って優勝劣敗の原則を馬産に導入すると共に馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させる必要があるとして、馬券の発売を前提とした競馬の開催を内閣に提言した。賭博行為は違法であったが競馬は軍馬育成の国策に適うとして、桂太郎内閣は馬券の発売を黙許するとの方針を1905年(明治38年)に通達しこれにより馬券発売を伴う競馬の開催が可能となった

1906/07年

閣令により競馬の法人化が義務付けられる。公認競馬の成立である。
これは明治39年9月、12月、明治40年3月の3回に渡って発布された閣令で、競馬を主催する社団・財団は法人格の取得を義務付けられることとなる。法人を取得し競馬認可された政府公認の競馬クラブが主催する競馬は“公認競馬”と呼ばれることになり、この公認競馬が現在の中央競馬の直接のルーツである。
→ 法的な意味での中央競馬のスタート。


時は馬券黙許(公に認められてはいないが禁止されてもいない。いわば黙認状態)の時代。
日露戦争後、軍馬育成・馬匹改良を早急に求められた政府は、馬政局を創設し馬政を管轄させ、さらには競馬による馬事促進をねらい馬券を黙認していたのである。

1908年
競馬連合会

(JRAの最古の前身組織)
同年10月5日、桂内閣が馬券禁止令を断行。

1911年
全国公認競馬倶楽部連合会


馬券禁止後も公認競馬クラブは競馬法の成立を請願しつづけていたが、受理されるには至らなかった。その願いが叶うのは、大正12年3月24日。この日、ついに我が国初となる競馬法が成立し、馬券が復活したのであった。
競馬法成立の翌日、競馬協会は帝国競馬協会に名称を変更。以降、競馬統括機関としての役割をより強めていく。日本で最初の競馬成績書(レーシングカレンダー)が刊行されたのもこの年からである。

1923年
帝国競馬協会


時代の潮流は軍国化へと進む中にあった。これを受け、馬政の強化のため競馬統制を巡る動きが強まりを見せ始め、公認競馬クラブの統一が求められることとなる。
昭和11年競馬法は改正。これにより日本競馬会が創設される。

1936年
日本競馬会
(帝国競馬協会及び公認競馬クラブを吸収)

日本競馬会は敗戦後の昭和23年、GHQに独占禁止法の疑いを掛けられ解散。
これにより競馬は国有化されることとなり、国営瓩箸覆


1948年
国営競馬

行政のスリム化を計る吉田茂政権の下、国営競馬の存在が問題視されたことをきっかけに日本中央競馬会法が制定され農林大臣の諮問機関における議論を経て1954年9月16日に設立。国営競馬から施行を引き継いだ。

そして…


1954年
日本中央競馬会(JRA)


昭和29年、政府が特別立法の「日本中央競馬会法」を公布し、日本中央競馬会を創設。
中央競馬の施行団体として法的に認可。
同年9月25日の東京・京都開催で中央競馬として初のレース施行。年間10場にて最大288日間の開催。
農林水産大臣の監督を受け(日本中央競馬会法第31条、日本中央競馬会定款第1条・第2条)、政府が資本金の全額を出資する特殊法人である(日本中央競馬会法第4条、日本中央競馬会定款第4条)。
略称の「JRA」は、英文表記の「Japan Racing Association」の頭文字を取ったもの。以前は「NCK(Nippon Chuo Keiba-kaiの略)」という略称で1987年に現在の略称へ変更されたが、電話投票等の口座振替で一部銀行では「NCK」と表示される。


【JRAのロゴマーク】
1987年4月から使用。JRA総合企画室とイメージアップ活動推進事務局(現・総合企画部)、そして広告代理店の協力のもと考案・制作されたもの。

 

【経常利益】
H23年度:60億8,476万4,000円

H24年度:284億9,317万3,000円
【純利益】

H23年度:▲63億4,421万2,000円

H24年度:230億8,300万9,000円

 


入場人員レコード
  1,490万人
1975年(昭和50年)に記録。

売り上げレコード
 4兆円
1997年に記録。

中央GI馬券売上額トップ5
1位 875億104万2,400円
1996年 有馬記念(サクラローレル)

2位 819億9,089万4,000円
1995年 有馬記念(マヤノトップガン)

3位 788億8,415万2,000円
1993年 有馬記念(トウカイテイオー)

4位 780億7,606万8,700円
1997年 有馬記念(シルクジャスティス)

5位 750億4,951万1,000円
1998年 有馬記念(グラスワンダー)

ちなみに9位まで有馬記念が独占。
10位が1994年、ナリタブライアンの日本ダービーで567億8,629万400円の売上額だった。


▲〔未成年者は馬券を買えません!〕


歴代理事長

氏名 就任時期 備考
1 安田伊左衛門 19541955年
2 有馬頼寧 1955〜1957年 (在任のまま逝去)
3 酒井忠正 1957〜1962年
4 石坂弘 1962〜1966年
5 清井正 1966〜1972年
6 大澤融 1972〜1978年
7 武田誠三 1978〜1981年
8 内村良英 1981〜1985年
9 澤邊守 1985〜1990年
10 渡邊五郎 1990〜1995年
11 京谷昭夫 1995〜1996年 (在任のまま逝去)
12 濱口義曠 1996〜1999年
13 高橋政行 1999〜2007年
14 土川健之 2007年〜 初の生え抜き


初代理事長は安田伊左衛門。また2007年より在任の第14代理事長を務める土川健之氏は、初の生え抜きである



調教師・
  調教助手・
 厩務員・騎手の収入

調教師
管理馬が出走した際の進上金(賞金の10%)

騎手
出走ごとの騎乗料、出走して8着までの進上金(平地競走の場合賞金の5%、障害競走の場合7%)、これに騎乗契約料(所属厩舎からの月給)が加給される。

厩務員
進上金の5%。基本給および各種手当て。

調教助手
厩務員給与が基本。これに調教助手手当てが加給される。




JRA中央競馬
  
地方競馬ルーツ

一般には、中央競馬の前身はクラブ競馬、地方競馬の前身は祭典競馬や地方の馬産連合会による余興競馬がそのルーツにある。
中央競馬は農林水産省の管轄であり(正式には農林水産省生産局畜産部競馬監督課)、地方競馬は各地方公共団体(地方自治体)の管轄に当たる。
特殊法人のNAR(地方競馬全国協会)は昭和37年に設置された。

中央競馬と地方競馬の相違点一覧


競馬場設立可能上限数

JRA⇒12箇所以内

NAR⇒北海道6箇所、他都府県2箇所以内。


  馬場の大きさ

⇒一周1,600M以上、幅20M以上。

⇒一周1,000M以上、幅16M以上。


  納付金・交付金制度

⇒国庫納付金
1.売得金の10%
2.剰余金の2分の1
≪競馬法 第27条≫
競馬会は、政令の定めるところより、競馬法第5条の規定により発売する勝馬投票券の発売金額から同法第12条第6項の規定により返還すべき金額を控除した残額の百分の一に相当する金額を国庫に納付しなければならない。

⇒交付金
1.地方競馬全国協会交付金
(売り上げの約1.2%)

2.公営企業金融国庫納付金
(売り上げの約1.1%)

  
ちなみに、競走距離の最小限度は平地競走が600m、速歩競走が1,000m以上、障害競走が1,600m以上、ばんえい競走が100m以上と規定されている。




日本西洋
    
競馬観差異
これは競馬史家である大岡賢一郎氏の見解。
「ヨーロッパでは、民衆の賭博文化とは別に上流社会の社交としての賭博文化が成熟したが、日本では民衆のアンダーグラウンド文化として民間に特化して近代を迎えてしまった。
これが現在に通じる日本人と西洋人との決定的なギャンブル観の相違の一因ではなかろうか」

(『アナログ文庫』より一部抜粋)

馬名登録はじまり
中央競馬(公認競馬)
⇒明治44年の全国公認競馬倶楽部連合会の結成に伴う「競走馬馬匹名簿馬名」という形で始まり、帝国競馬協会で大正13年に認可された馬匹登録規程にしたがって血統の登録も義務化される。

地方競馬
⇒昭和8年、地方競馬規則が改正された。これにより、それまで自主性だった地方競馬の馬名登録が強制化される。またこの改正法は、それまで競馬場が変わるごとに馬名も変更されるなど、競馬の公正性を揺るがしていた地方競馬に関する根本的問題を解決する、一つの大きな道標・指針となった。当馬名登録規則は、それを管理する帝国馬匹協会の権限を強めるものになり、全国の地方競馬の一元化も一層進むことに寄与していくこととなった。



的中馬券の配当金は税法により「一時所得」に該当する。
税金は払い戻し額から的中馬券の購入額を引いた利益が50万円を超過した場合にのみ発生する。
例えば、あるレースで単勝1.1倍の馬に百万円を賭けて的中した場合、払戻110万円のところ、購入額100万円ゆえ、利益は10万円。50万円を超えていない為、税金は発生しない。
ちなみに、今まで馬券で納税した人はいないらしい…。

 

【H28年ハズレ馬券訴訟】

馬券の払戻金は一時所得として課税されるが、宝くじの払戻金は課税されない。

馬券の払戻金について一時所得としていた東京地裁の判決を取り消し、

雑所得としてハズレ馬券の購入費も必要経費に含まれるものとして、逆転判決を下した。

長期間に渡り、馬券の払戻金を得ることにより多額の利益を恒常的に上げ、

一連の馬券の購入が一体の経済活動の実態を有することが、客観的に明らかである場合の

馬券の払戻金に係る所得は営利を目的とする継続的行為から所得として雑所得に該当するものとした。

国側が上告を行ったことにより、雑所得の範囲が狭く捉えられることが推測される。



日本最古の馬
約1500万年前に棲息していたと推考される三本指の馬、アンキテリウムがそれだとされる。
その存在を証言する化石が岐阜県可児郡平牧から出土し、「ヒラマキウマ」と命名された。
この化石は大正10年に歯の化石2本、昭和36年に下顎、昭和52年に上顎が発見されたことに機を発するもので、2010年7月には1800万年〜1700万年前にいたとされる東アジア最古級の新種も同場より発掘された。
このことから1800万年前には、日本でウマの先祖が闊歩していたと考察される。
これが2010年7月現在、日本最古とされるウマの祖先である



▲アンキテリウム(ヒラマキウマ)
〔『可児の地層と化石』より〕



日本最初の
    サラブレッド

明治の根岸横浜競馬で活躍したダブリン号がそれだとされる。
ダブリンは農商務大臣・西郷従道の持ち馬で、明治14年(1881年)第二回内国勧誘博覧会に出陳され、600円で買い上げられた。同名の父ダブリンは北海道馬産の祖とも称えられるエドウィン・ダンを通じ米国から輸入されたサラブレッドだったのである。その馬体は、これまでの日本馬の中で最高と褒賞・賛嘆された。


輸入史
日本における洋種馬の最古の輸入は天文12年(1543年)に遡及する。
これは種子島に鉄砲が伝来された時に一致するが、それもそのはず。この時渡来したポルトガル人が馬も残していったのである。あまりに素晴らしいその馬体の造りに恍惚を覚えた薩摩藩は、他陣に馬が奪われることを憂え、口外を一切禁じ、歴史の闇の中へと一切の木洩れ日も差し込むことなく近世まで蓋されてきたという。藩にはこの馬を記した文書が残されている。これが事実ならば、現在まで調査された外国洋種馬本邦初の輸入例ということになる。
また天正19年(1591年)には、ポルトガル人宣教師ヴァリニャーニが来日に際し、豊臣秀吉へと贈呈した品目の中に、馬一頭の記録。この馬は馬具を付けており、アラブ馬であったという。本来は2頭贈与する予定だったが、船旅の途中で息絶えてしまったらしい。
着実明白浮上する洋種馬の記録は、江戸幕府の時代のもの。八代将軍・徳川吉宗は馬匹改良を志し、享保10年(1725年)〜元文(1737年)の間、20頭以上もの馬の輸入を行ったと伝えられる。
幕末・慶応3年(1867年)、ナポレオン三世から26頭のアラブ馬(バルブ馬の諸説もあり)が贈られた。この中にいたのが、日本競馬史の礎を築く高砂(たかさご)であった。徳川幕府の雉子橋厩舎に繋養されたこの芦毛の牝馬は、吾妻を生みそのメールラインからセカイオー(阪神大賞典・鳴尾記念)、イナボレス(目黒記念)などが現れた。
近代政府が馬の輸入試みた、事実上初となる輸入は明治10年〜11年のことで、内務省観農局の指導の下、米国から大量のサラブレッドが海を渡り日本の土を踏んだ。

海上輸送ではない、もう一つの運輸手段である空輸の歴史も紐解こう。
日本競馬史における初の空輸は昭和33年(1958年)、米国遠征したハクチカラ。ロサンゼルスまで給油時間を含め31時間も掛かり、当時の為替レートでこの1回の空輸だけで540万円、当時としては超破格の負担額となっている。5月21日午後7時40分、5ガロン缶40本の水と大量の飼葉と共に積み込まれたハクチカラ。この一頭の為にノースウエスト航空DC4号機がチャーターされた。機体には“ハクチカラ・レースホース・スペシャル”と英字で書かれていた。これだけでも、本馬がどれ程に期待されていたかが覗える。ご存知の通り、本馬は米国で歴史的偉業となる日本馬海外勝利をやってのける。
はじめて空輸で輸送された海外種牡馬は昭和36年のロイヤルチャージャー。この機会以降は全馬、空路にての輸送となっている。



日本最初の競馬


1861年、文久元年の春、横浜の本村、現在の元町にあった洲千弁財天社裏馬場にて。
ただし、これは近代英国式競馬の始まりであり、それ以前の“競べ馬(くらべうま)”も競馬の範疇に汲取るならば、日本最古の競馬の記録は701年(大宝元年)に遡及されるという。

日本最初の円形馬場にての、正規の競馬


1862年5月1日。文久二年のことで、横浜新田、現在の関内で催された。
この馬場は居留外国民たちの要求により神奈川奉行所が湿地帯を埋め立てて作った競馬場で、幅六間(約1メートル)、一周約1,200mという馬場であった。催されたレースは『日本賞』、『メトロポリタン賞』、『横浜賞』といったラインナップで、斜対歩や側対歩といった決められた走法で競う競走や、『徒競走』、『騎乗速歩競走』、『婦人財嚢競走(見物人の婦人方からの寄付を賞金にするというレース)』といった一風奇抜な競走も存在していた。登録料は5〜10ドル、賞金は15〜100ドルとなっていた。


日本最初の、競馬場での賭けを伴っての、正規の洋式競馬

1867年1月11日。慶応2年12月6日のことで、晴天の下行われたという。
当日のレーシングプログラムおよびレース結果は以下の通り。
(写真は「横浜スポーツ百年の歩み」より)

■第1R グリフィン賞典(13頭立て?)
1着 ポドソカス
2着 サムライ
3着 ウシデッカ


■第2R フェアウェル賞杯(6頭立て)
1着 モノグラム
2着 デモン
3着 バタヴィア


■第3R ホープフル景物(10頭立て)
1着 サムライ
2着 イースト・ノーフォーク
3着 ブラタラー


■第4R グレートウェルター(4頭立て)
1着 トミー
2着 トム・ブラウン
3着 ブラック・ボブ


■第5R ニッポンチャンピオン賞杯(12頭立て)
1着 フォーファバラ
2着 パディワック
3着 ポドソカス


■第6R シレスチャル賞杯(3頭立て)
1着 マジック
2着 マジシャン
3着 シーガル


■第7R 障害物競走(6頭立て)
1着 スイートウィリアム
2着 イオナ
3着 ブラック


■第8R ビジター賞典(6頭立て)
1着 モノグラム
2着 デモン
3着 トミー


 

路上競馬

1865年5月13日に行われたとされる道路上で行われた個人間のマッチレースだが、莫大な賭け金が動いたという。コースとして使用された道路は、現在のJR桜木町〜石川町間、または山手本通りと思われる。出走したのは中国産のポニーにラットとアウトキャストという2島だったと伝えられる。

▲〔現在の山手通りの風景〕


初の天覧競馬
1881年。明治14年5月10日。
明治天皇が根岸競馬へと初となる行幸。


本州競馬史上初となるダート競馬
その昔、北海道の競馬場はすべてダートコースのみで、片や本州の競馬場には芝コースしかなかった。本州初となるダートコース誕生は1961年のこと。日本の気候風土に合う馬場を研究するために、“東京競馬場サンドコース構築委員会”が発足され、1960年6月10日からコース工事を着工。3ヶ月半後の9月30日に竣工。使用開始は1961年2月25日の東京開催からであった。



馬券発売機と
    仕組みの歴史


我が国初となるパリミューチュエル方式馬券発売
1888年。明治21年の根岸競馬秋季開催にて。
これ以前にも馬券は存在していたらしく、どうやらブックメーカー方式がとられていたようだ。
1906年の池上競馬場では2種類の馬券が売られていた。「ガラ」馬券と「アナ」馬券がそれで、「ガラ」はまず1枚10円で切符と呼ばれる番号札を購入し、その後出走馬が決まると抽選で各番号に馬が割り当てられる。抽選の際に木箱に札を入れてがらがら回すことから「ガラ」と呼ばれるようになったという。自分に割り当てた馬が優勝すれば120円、2着になれば60円がもらえた。一方、「アナ」は現在の単勝と同じ。配当金はパリミュチュエル方式だった。馬券は1枚5円だったが、当時のエリート公務員の初任給が50円の時代の話。あまりにも馬券が庶民から遠かった時代の話である。

※パリミューチュエル方式って?
賭け金から一定率の手数料を差し引いた残額を的中者へ比例配分する方式で、現在の中央競馬や地方競馬でとれれている「勝馬投票」と言えば、この方式を指す。1867年にカタロニア出身のフランス人、ジョセフ・オレール(1839〜1922年。ムーランルージュなどのキャバレー経営者)氏が考案し実践。その後、1891年フランスではじめて法の認可を受け(最初は香水に番号を付け、勝つと思う馬番のついた香水を購入するという方式だった。この時、初めて競馬に“人気”という概念が生まれた)、それから米・英と合法化され、日本においても1923年(大正12年)に法制化。現在に至る。

オッズの登場
日本における初のオッズの登場は昭和34年。1964年のことだった。

トータリゼータ・
   システムの登場

1880年頃、ニュージーランドではじめて競馬用の機械式集計装置が考案される。
これが「トータリゼータ」の原点である。
日本では借り入れや保守員の動員に莫大な費用がかかる事から、国内独自のトータリゼータを開発することに踏み切った。
日本中の多種多彩なメーカーへと声をかけ、協力を仰いだが、名乗りを上げたのは富士通信機器製造(現、富士通株式会社)のみだった。

トータリゼータシステムが誕生する以前は、発売を締め切ると同時に馬・組番ごとに発売票数を各部署がそろばんで集計し、その結果を電話するか、職員が走って中央の計算部署に伝達。最後に発売所ごとの集計数を再度そろばんで弾き出していた。場外発売では発走の1時間前から締め切り、これを行っていたという。


▲〔発売締め切り直後、そろばんで集計する様子。当時はまさに狎鐓讚瓩世辰拭

ちなみに、配当金は次の二段階計算式で計算されていた。

◆第一号計算式
(W+D/P)×{1−(R+r)}=T


◆第二号計算式
(T−W)×r’

■配当金総額
第一号計算式−第二号計算式

Wは当該優勝馬に対する優勝馬票の総額面金額、Dは馬場に出た馬であって優勝馬以外のものに対する優勝馬票の総額面金額、Pは優勝馬数、Rは競馬施行者が取得することができる金額の優勝馬票の売得金額に対する割合だった。
Rは通常20%(上限25%)、rは優勝馬の売得金額に対する馬券税率4%、r’は払い戻すべき総額金に対する馬券税率10%。



▲〔初のトータライザーと屋外表示板が登場したのは1957年(昭和32年)10月の中山競馬場〕



▲〔発売機の裏側〕

そして、本格的トータリゼータシステム導入となったのは1966年(昭和41年)11月の中山競馬場でのことだった。さらなるシステム発展の為、1968年(昭和43年)9月に日本トータリゼータシステム株式会社(JTC)が設立された。
現代のマークカード読み取り式へと移行されたのは1990年(平成2年)4月のことで、現在の発売機が使用されたのは2001年に入ってからのことだった。



停電の時はどうなる?

たとえ電源の供給されない状態に陥ったとしても、現在競馬場には無停電電源装置(CVCF装置:低電圧低周波無停電電源装置)と非常用発電装置があり、非常事態にも対応できるよう万全の措置が図られている。


▲〔CVCF装置〕


日本競馬失格処分
1907年。明治40年の緑号事件が記録に残る1着降着の日本最古の記録。
根岸競馬にて緑号が1着入線を果たすも、騎手が規定の負担重量を欠いており、失格処分となってしまった。これに馬券を買っていた観衆が納得行く訳もなく、阿鼻叫喚の投石大暴動へと発展。警察が鎮圧するも、ファンの生活破綻やトラブルの頻発に世論の風当たりは強くなっていった。これは1908年から1923年にかけて敷かれた馬券禁止令の発端でもある。


日本競馬初のナイター競走
(イラスト:わたせ せいぞう)
1986年7月31日、日本競馬史上初となるナイター競走が行われた。
これは日本の公営競技としても初となるナイター開催であった。

 


オマケ競走
現代、競馬場で行われるブラスバンドの演奏、ポニーの曲芸のような催し物、「ジョッキーベイビーズ」や「ジョッキーマスターズ」といったエキシビションレースのはじまり、最古の競走は文久2年(1862年)の別当競走の爛ケッコ瓠2燭どんな風な競走だったのかは不明。

   
▲〔オマケの代名詞と言えばやはりグリコ(?)。おまけの玩具の中にも時々馬を見かける〕


連勝式勝ち馬
  投票券(馬連)が
 初めて発売された競馬場


八王子競馬場

※中央では札幌競馬場



 日本競馬唯一のマッチレース

中央競馬発足後、2頭立てとなったレースが1回だけある。
それが昭和45年8月の小倉競馬の障害オープン。
キングスピードという馬が9連勝中で、その圧倒的強さから他陣営が回避を続々と直前で表明。
結果、ブゼンエイトという馬が1頭だけ残り、2頭のみの競走に。
この時発売された馬券は単勝馬券のみで、キングスピードが圧勝した。


▲〔キングスピード〕


日本競馬スターティングゲートの変遷

最初期のスタート法は、旗の合図によるものだった。スターターが発走のベストタイミングを見計らい、旗を地面へと下ろすというもの。それゆえ当時のスターターの役割は非常に重要な位置を占めていたことになる。「旗手」、「旗役」、「旗切り」などと呼ばれていた。
明治41年(1908年)から横浜競馬や東京競馬にて、軟式発馬機が登場。これは馬場の両側に立てられた柱の腕木に一本の紐(真田紐)を張り、これをスプリングの力を利用して上方に跳ね上げる…という方式の発馬機であった。
大正時代に入り、1926年、バリヤー式のスタートが目黒競馬場にてはじめて施行された。一本の紐ではなく、エキスパンダのような数本のゴム紐を跳ね上げるもので、スタート時ゴムの飛び上がる音とスプリングの跳ねる音が特徴であったという。しかし、このようなスタート方式らは、後列発走や出遅れの不利が日常茶飯事だった。
それからまた時が流れ、1953年の大井競馬で、我が国初めてのゲートが導入された。これは電磁石のみで制御できる「宮道式(みやじしき)」と呼ばれるもので、宮道信雄氏が開発した。中央競馬で初めてゲートが登場したのは昭和35年(1960年)7月2日の小倉競馬場で、この発馬機はニュージーランドの水道技師エドウィン・ウッド氏が考案・設計し、開発されたものであった。その後日本で改良がなされ、1975年に電動式の現在のゲート、『JSG60型発馬機』が誕生。ウッド式は取り扱いが簡単で、多頭数にも対応できること。また重量が軽い為、芝の痛みを軽減でき、なおかつ短時間での移動が可能であること、その上制作費も安価だっため採用に至ったのだという。1959年から馬事公苑でテスト改良を繰り返し、発馬機の講習会も開き、事故の起こらないような万全の態勢を敷いて満を持して翌年に導入したという訳である。そして現在に至る。
因みに、ゲートの減価償却・耐用年数は10年である。


スタートでのトラブル

昭和53年・天皇賞での爛ンパイ
「カンパイ」とはスタートのやり直しであるが、過去に一度GI級競走でカンパイが記録されている。それが昭和53年の秋の天皇賞。定刻通りにゲートが開くも、パワーシンボリがスタートせず、白旗が振られる。これは騎手に正常なスタートでなかったことを知らせる合図であり、これによりスタートが取り直された。


1993年グランドナショナル
世界最大にして最も有名で過酷な競走であるグランドナショナル。
この競走が一度だけスタートのトラブルで競走不成立になった時がある。




競馬ラジオ放送
         
第一電波

昭和6年(1931年)7月3日、NHK札幌放送局にて行われたもの。この放送は畜産局が許可を出す以前のことだった。放送されたレースは春季札幌競馬の初日で、特に大きいレースを中継しようという意図ではなく、札幌競馬初日の様子を伝えるものだったというが、その内容の詳細はNHKにも残っておらず、内約を知ることは出来ない。
正規の競馬ラジオ放送は翌1932年。4月3日、鳴尾競馬場にて施行された帝室御賞典が、はじめてラジオの電波に乗った。担当は大阪放送局の永原芳雄アナウンサー。
当時、音声を録音するにはレコード製作時と同じような、大掛かりな器械が必要だったため、残念ながら録音は残されていない。


テレビ中継第一映像
日本ではじめて競馬の生放送・中継が実現されたのが昭和28年(1953年)6月28日。NHKの伝播に乗った映像がお茶の間へと届けられた。放送時間は1時間半。最初に映ったレースが中山第5レースで、ハイライトは中山大障害だった。総勢30名のスタッフと、3台のカメラを駆使しての中継だったという。

写真判定
     
始源歴史

1949年、東京都中央区にある競馬・競艇・オートレースの写真判定映像、および各競技場における公式映像の製作を請け負う「山口シネマ(1925年創設)」がアメリカの競馬場で使われていたシャッターのない写真カメラを日本において初開発。当時は蓄音機のぜんまいを動力源として使い、これを写真判定に用いることとなった。
公式の初採用・初使用は1953年の中山競馬場でのことで、以降も改良が重ねられ、2001年にはカラー化されるに至る。
馬との関わりはかなり古い時代より続いているらしく、1920年代の競馬雑誌にも写真の撮影は山口シネマが行っていたとの記録がある。
この他、中央競馬会と連携・提携を組み、数々のファンサービス・システム向上に寄与している。


地方競馬場における場内テレビの設置
⇒1962年より開始。ちなみに中央競馬場では一年遅れの1963年からだった


自動タイム計測器の実用化
⇒1965年。皮切りとなったのは中山競馬場


写真判定拡大装置の完成
⇒1976年。同時に着順決定の重要参考となるフォトチャートカメラも開発導入。


オッズプリンターの設置
⇒1991年。


 

今となっては勝負の行方のみに視線集中・釘付けになる写真判定だが、その開発は苦行の連続だった。当初は写真の完成に二日三日とかかり、現像されたはいいものの、肝心の鼻面部分が映っていなかったり、数秒間の写真にも関わらず、その長さが3m以上に及んだりと、コスト面からも難題は雪崩の様に押し寄せ、開発担当者たちを煩悶させた。撮影の試用は江戸川の土手で、電車を対象としてのものだったという。こうした試行錯誤、苦悩の日々が重ねられた末、粉骨砕身の努力の犒訃臭瓩箸覆辰瞳觴造靴燭里、現在のターフビジョンに映し出される犒莨´畆命燭覆里澄N鮖砲忙弔詭松”蕕虜喃曚箸覆覘犒莨´畆命燭呂△覦嫐犒訃臭畆命燭噺世┐襪里もしれない。感動の裏には、いつも先人たちの血の滲むような想いがあることを、我々は忘れてはならない。


馬体重計測始源

 明治43年5月27日に、青森県にて行われた長途騎乗競走大会で馬体重を計量。
競馬ではないが、日本で初めて馬体重を計った馬のレースとされている。
この時出走していた競走馬デビュー前の3歳牝馬、瑠璃の馬体重は325kgしかなかったという。
三本木を午前6時にスタートし、25里離れた大橋に12時44分52秒でゴールイン。
23頭中7位と健闘していた。

 

 

続きを読む >>

馬・競馬の基礎知識 * 02:05 * - * - *

馬・競馬の基礎&古知識 〜日本編〜第二部

 【競馬基礎知識
  〜日本編・第二部〜
※一部海外含む。



障害競馬歴蹄

日本競馬最古障害競走
1862年。居留地競馬時代に行われたものが最古の障害競走と言われている。

靖国神社における祭典競馬の障害競走
1887年の5月6日、靖国神社において909m、馬場一周する形で障害競走が行われたという記録が残っている。

日本競馬史上初となる競馬場で障害競走
1908年、北海道の子取川競馬場において創始された1,600mの競走がそれとされている。
この競走は平地競走の走路に小規模な置き障害を設置してのもので、当レースはキンツルという馬が2分2秒で優勝したという。
障害専用走路での初の競走は1915年東京競馬場のものとされているが、それ以前に明治44年近辺において札幌競馬場において曲線走路における競走や3マイルにも及ぶ長距離レース、ゴール前に障害を置いてのレースなど一風変わった競走も行われていた記録が残されている。
地方競馬においてはすでに障害競馬は行われていないが、その最後の開催地となったのは大阪・春木競馬で1974年に終焉を迎えた。
※ちなみに「障碍」は1945年の当用漢字告示まで使用されていた表記である。当用漢字に「碍」が採用されず、1956年には国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」で「障害」への書き換えが指示された。中央競馬の競走では1970年より「碍」が「害」に、「盃」が「杯」(大阪杯など)に切り替わった。

ばんえい競馬の歴曳
挽曳競馬の誕生
大正4年9月16・17日、函館区外十郡畜産共進会の余興として行われた「挽馬実力競争」が現代ばんえいの原点と言われる。
この競走は函館競馬場内の広場に長さ40間(約73m)の平坦コースを造り、雪橇に1俵16貫(約60k)の土俵を3俵から14俵積んで走らせた。


初となるセパレーションコースでの競走
昭和23年10月15日、青森県の八戸競馬場にて行われた競走で初となる200mのセパレートコースにて競走が施行された。北海道でセパレートコースが使用されるようになったのは、昭和38年の旭川が最初で、岩見沢・帯広・北見は昭和43年からの使用となっている。
この八戸挽曳競馬は一風変わっており、騎手は橇に乗らず、馬を前方で引っ張る役だった。また各馬ごとに助手も一人参加し、鞭の使用にも規制があった。


ばんえいもうひとつのルーツ?
農耕にほとんど牛馬を使わず、飼養・生産ともに乏しい北陸地方において、比較的多い地域にあった石川県羽咋郡羽咋町では、商工会が崖の下に広がる砂浜にコースを造成し、年に一回の競馬大会が行われていたという。
その初開催となったのが、大正4年7月15・16日。
設けられたコースの設定は以下のとおり。


羽咋競馬場
・1周300間(約545m)、縦170間(約309m)、横150間(約273m)に区切り、周囲を囲って開催。
・大正6年の開催では拡張され1周360間(約655m)、大正7年には1周半マイル(約804m)に。
・レースの審判は警察署長が務め、開催の総長は郡長が務めての開催だった。
・挙行された競走は、普通競馬(平地競走?2周)、持種競馬(3周)、三歳競馬、万歳競馬(余興レースか?)、選手競馬。

ばんえい競馬は大正7年に登場している。


史上初の馬券付ばんえい競馬
大正14年7月15日の羽咋競馬の第7レースにて。
羽咋海岸の半マイルコースを舞台に、なんと2万人もの大観衆を集めての開催。
レースは西村長七氏の持ち馬である10歳牝馬の黒毛馬カロンが勝利を収めたという。


関東での初のばんえい競馬
昭和21年11月28日、松戸小運搬組合長・鈴木精造氏の主催のもと、松戸競馬場にて、馬頭観音祭の奉納競馬として挙行。ばんえいの他には平地駈歩・速歩・障害が行われ、ばんえいは荷車の両車輪に丸太を通し、回転しないようにして実施。負担重量はなんと、人間7人という想像を絶するもの。直線100メーター・4頭立ての競馬で、馬券の発売はなかったとのこと。騎手は八戸式で前から手綱を引いたようである。

オマケ
伝説晩曳記念
勝ちタイムが震天動地、超常的驚愕タイム。

 1:47.0

これは昭和33年10月20日、旭川競馬場のセパレーションコース220mで記録されたもの。
勝ち馬バンユウハ。騎手は鬼頭兼一。905kgの酷量を背負っての歴史的タイム。
どれほど凄いタイムかと言えば、近30年でも最速が1974年の岩見沢で行われた際の、ダイニミハルの2:26.9。あのばんえい史上最強馬と称えられるスーパーペガサスですら、最速タイムが2004年にマークした3:07.8(ただし、負担重量は1000kg[1t])なのだから、とても昭和中盤の馬が記録したものとは思えない(というより現代最強クラスのばん馬でも99.9%不可能に近い)。
まだに幻夢の伝説タイム。クロフネの2:05.9(ダート2,100m)やセクレタリアトの2:24.0(ダート2,400m)以上の、この世のものではない常軌を逸した幽界鬼睨なる時計である。
もはや距離を誤魔化した上で、負担重量やドーピングの反則をしたとしか思えないが…そんなことはない、正式のミラクル・ウルトラレコード。いまは参考記録でしかないが、このタイムを破れる馬は、もう現れることなどないだろう。

白いばん馬

2010年4月15日、北海道は浦幌町の北村俊明氏が営む牧場で生を受けた。
父キタノコウテイ、母は第二富士姫という子馬。ばんえい競馬に登録することも出来たが、北村氏は神聖なものを感得し、これを自重した。全身の毛はまつげまで白く、鼻やひづめなど皮膚が露出した部分は淡いピンク。ばん馬をはじめとする農用馬の白毛馬の記録は、平成5年に一頭記録があるのみ。非常に珍重な存在であることに異論はなく、ばんえいデビューを期待する声も多いという。しかし、まずは健康に元気いっぱい育っていってほしいものである。
もうお分かりだろうが、この馬がのちのハクバビューティー号である。


繋駕速歩馬歴蹄

日本では、大正時代に戦場で車両を引く軍馬育成のために奨励され、日本競馬会が開催した競馬において、数多くの競走が実施された。また、かつて兵庫県にあった鳴尾速歩競馬会では、短期間ながらも専門の競走を開催したこともあった。またこの当時は、繋駕速歩競走だけでなく、騎手が平地競走同様に騎乗する騎乗速歩競走も存在していた(日本競馬会では、函館競馬場と札幌競馬場でのみ行われていた)。

戦前の繋駕速歩
戦前の繋駕速歩競走では、距離は4000メートル以上の競走がほとんどであり、出走頭数も20頭以上がざらであった。馬の資源については、トロッター種、とくにスタンダードブレッド種の別名アメリカントロッター(米トロ)種は、軍部から「軍馬の改良には適さない」とされたために排除方針となっており、トロッター種が出走できない競走が数多く設定されていた。そのため、速歩競走に出走する馬は、ハクニーやアングロノルマン種と、内洋種と呼ばれるサラブレッド系の馬、あるいは血統不詳の雑種の馬を掛け合わせた馬が大半を占めていた。一方、わずかながらロシア産のオルロフトロッター種も輸入されており、こちらはアメリカントロッターと区別されて「露トロ」と呼ばれていた。またわずかな数のアメリカントロッターの繁殖馬もいて、優秀な競走馬を輩出していた。しかし1940年には、軍部により速歩競走の中止が指示され、競走馬や繁殖用馬の多くは軍馬として徴用された。ただ一部は徴用されずに国内に残留し、戦後の生産に寄与することとなった。

戦後の流れ
太平洋戦争敗戦後、各地で地方競馬が再開され、速歩競走も実施されるようになった。一方かつての日本競馬会から運営を引き継いだ国営競馬では、速歩競走はしばらく開催されなかったが、1950年になって、競走馬資源が充分ではない状況から、競走数確保のために繋駕速歩競走を復活することとなった。しかし、比較的競走馬の頭数に恵まれていた関東地区では、関係者が競走復活に消極的であったため、より競走馬の頭数が少ない関西地区でのみ、競走が行われることとなった。ただし騎手は不足していたため、戦前に繋駕速歩競走の騎手であったが、戦後競馬界から離れていた者や、一時的に調教師に対して騎手免許を与えて、騎手を確保した。
戦後は、繋駕速歩競走に適したスタンダードブレッド種などの生産数は減少しており、また長年改良も行われていなかったため、競走馬間の能力差は大きかった。そこで、白井新平ら関係者により、将来的に繁殖入りして馬種改良に寄与することを前提として、アメリカからトロッター種の競走馬を輸入したほか、出走馬の能力差が少ない日本国外の速歩競走では一般的な、モービルスターティングゲートも使用されるようになった。このころ、首都圏に繋駕速歩競走専用競馬場の設置が検討されたが、これは日の目を見なかった。

そして斜陽へ…
一時期の関西地区の中央競馬を支えていた繋駕速歩競走であったが、軽種馬、とくにサラブレッドの生産頭数が増加し、1競走あたりの出走頭数や競走数が増加してきた一方で、速歩馬は高齢まで出走を続ける馬も多く、速歩馬自体の在厩馬自体も増加していった。さらに、速歩馬のほとんどが京都競馬場の厩舎に所属していたが、走法などの調教には時間を要するため、次第に増加してきた平地競走用の馬との調教時間の調整が難しくなってきた。一方競馬ファンからは、競走にスピード感に乏しいなどの理由もあり、主催者・ファンの双方から、次第に興味が失われていった。
日本中央競馬会では、まず1960年に、速歩馬の競走出走条件を200メートルを19秒で走行できることとして、それに満たない馬の出走を制限することで、速歩馬の在厩頭数の制限と競走内容の充実を図ったものの、大きな効果を挙げるには至らなかった。また平地競走の競走数の増加により、繋駕速歩競走で芝馬場を使用することによる馬場の傷みが無視できなくなってきた。このため1965年には、阪神競馬場や京都競馬場での競走を中止し、ローカル開催の競馬場のダートコースでのみ行うことに変更した。その結果、関東地区の新潟競馬場でも、中央競馬の繋駕速歩競走が行われるようになった。

ただし、繋駕速歩競走自体が縮小方針となっており、廃止に向けて関係者や生産者団体との調整も進めた結果、1968年12月、中京競馬場で行われた競走を最後に中央競馬での繋駕速歩競走は終了した。なお、最後に廃止記念競走が行われる予定だったが、中京競馬場でファンによる騒乱事件が発生して開催取り止めとなってしまい、行われることはなかった。

一方地方競馬では、戦後すぐに繋駕および騎乗速歩競走が復活し、馬産地の北海道や東北地方の地方競馬で重要な地位を占めたが、中央競馬での繋駕速歩競走の衰退および廃止によって馬資源の確保が難しくなったため、1971年6月に盛岡競馬場で行われた競走を最後に廃止された。それ以後、日本国内での馬券発売をともなう競走は行われていない。


●現在の日本繋駕速歩
一方で、畜産振興などのアマチュア草競馬としては、現在でも北海道の根室振興局管内を中心とする道東で行われている。だが競技人口(繋駕速歩の騎手)そのものは多く見ても数十人規模と極めて少なく、「日本一競技人口の少ないスポーツ」という異名もある。
競馬法施行令第5条および17条の4により中央・地方競馬とも現在でも法令上は施行可能であるが、もしも復活をさせるとしても、現実として現在の日本国内のスタンダードブレッド種の生産状況では、内国産馬のみでの競走番組編成は現実的に不可能である。また、現在現役の騎手にはトロットレースの技術を持つ者もほぼ皆無であり、人材確保についても極めて困難がともなう。ただし、「愛馬の日」のイベントなどとして競馬場で模擬レースが行われた例はある(これについては、人馬は上述のアマチュア草競馬の面々が参加して行われた)。



かつて存在していた
   風変わりな競馬

黒部の馬寄せ
ばんえい競馬とはまた違う、非常に珍奇な競走が富山県は黒部地方にかつて存在していた。
それが倏牢鵑鮫瓩箸いμ召龍チであった。
馬寄せ
富山県は新川地区の黒部市において昭和初年まで開催されていたという、この地域でしか催された記録がない珍重な競走である。
農耕作業の終わった後、特定の日を決め、自慢の馬を越湖浜へと持ち寄り、砂の上で“代掻き馬鍬
”をつけ、引き廻して競走するという内容で、一定の歩調で長時間引くことのできた馬こそがを優良であるとしていた。この競走は強い馬を見出す目的を主眼としていたが、その一方で不要となった馬をなるべく高値で売却することを目的に参加する者もいたという。


  
▲〔ばんえいでも繋駕速歩でもない特殊極まる競走が、北陸に存在していた〕

そうしたことから、馬寄せ競走終了後には、決まって競り市が開かれていた。馬を売ることができたものは代金を懐に、上位入賞者はその喜びを胸に揚揚と帰途につくのであった。
明治中期には黒部川左岸の堤間の荒地が青年団らにより開拓され、三段歩余りの水田と姿を変えた。この土地の農耕の傍ら、馬寄せが当地においても越湖浜に代わっての開催地となり、近郷の名物行事となった。馬寄せの日には茶店や露店が出て、農繁期を終えた農民たちの「農休み」の最大の楽しみとなっていた。

トビキリ競馬

群馬県甘楽郡妙義町菅原の馬頭観音祭りの当日、寺の山際で開催されていたという直線競馬。一直線に真っ直ぐ飛び抜けることからこの名称がついたという。
その後、トビキリではつまらないと、山の木を切り出し即席の馬場が田に設けられ、大掛かりな競馬大会が開かれるようになると、村内は元より近在の町や村のアチラ此方へと招待状が出されるようになったという。招待された者は花を包んだり、お祝いの品を当日持参した。また馬を出走させる馬主たちも金一封をしたため、来場。祝い品を持って来た者は、特別席へと案内され、酒やご馳走が振舞われたという。
出走馬は約50〜60頭ほどで、陽雲寺の和尚が馬頭観音のご本尊を持ってきて、拝んでから始めた。横綱・大関・小結など、相撲のように階級が分けられており、クラスごとの競走が催されていた。優勝馬の帰りの行列は、それは賑やかなものだったという。

ノリッキリ競馬

群馬県の千代田村・舞木という村落でのみ開催されたかなり珍奇な競馬。
この村に立つ円福寺には馬頭観音があり、1月18日に縁日が設けられていた。その祭日の当日、この寺の堤防の上にて競馬が行われていたとのこと。その距離、約300m(文献には「仁木の前から小西屋?前まで」と記されている)で、途中には両側に竹が立てられており、その竹には二本を繋ぐように縄が結ばれている。その縄には何本も手ぬぐいが吊り下げられており、競走する者はその手拭いを騎乗しながら掴み取る。馬に自信のあるものでないと、中々成功しなかったという。



お見合い競馬


神奈川県藤沢市、御所身地区。現在の滝不動の付近には、かつて長さ300メートル、幅7メートルほどの「鉄砲馬場」と呼ばれた馬場があったと伝えられる。
長田家家中の馬事訓練所として設置され、最盛時の祭の際には、競馬が開かれたという。
この競馬は、明治末期になると大変な賑わいをみせ、ここで多くのカップルが誕生したことから犖合い馬場瓩噺討个譟∈農拘の大正初期ごろには、一周400メートルの円形のコースが作られ、周囲の山林に観覧席も設けられるほどの賑わいを見せた。
その後、この競馬は戦争が激化するに伴って衰微し、1945(昭和20)年(1950年という説も)頃を最後に姿を消していった。現在では畑が広がり、当時の面影をしのぶものは残されていない…。あぁ愛する者の夢の跡――…・・・




   天災・災害競馬

大災害や異常気象の中でも競馬が行われた記録は数多く存在している。
ちなみに日本競馬史上初となる雪による開催中止は、1952年第一回東京開催の初日のことだった


1959年(昭和34年)
伊勢湾台風


巨大台風が接近する中、9月26日の京都競馬は開催された。
風速平均12mという悪況の中、レースは施行されていったが、障害競走がこの日のメインに組まれていた。横殴りの風雨はもはや暴風狂風雨へ姿を変え、競馬場を大きく揺らしている。中止か…と思いきや、その障害レースは強行された。1番人気が競走中止となり、1位入線馬が失格となるという、まさに“嵐”の結果となり、5番人気のタケリュウが優勝。2着はさらに人気薄のカスカリュウで、枠連で26万7350円という超大波乱。
来場数は1,923人。雨にも負けず風にも負けず来場した1,900人の競馬好きは財布の中身まで吹き飛ぶ羽目になった。


1961年(昭和36年)
第二室戸台風


東京競馬場での珍事。当時の放送室はスタンドの上に突き出た庇の上に建てられた小屋で、四方を細いワイヤーで吊るしただけという、なんとも心許ないつくり。人が駆けただけでグラグラ揺れたという話も残っており、風が強い日だけでも当時のアナウンサーや解説者は肝を冷やした。そんなところに超巨大大型台風が接近するというのだからたまったものではない。競馬は中止されずに強行。第3レースの頃には命の危険さえ感じる程、放送室は大揺れだったという。関係者は皆貴賓室へと移動。なんとそこから実況中継を開始。なんというプロ魂。しかし、部屋からは正面の馬場しか確認出来ない。「○○らしい」といった推測系の実況で切り抜けようと試みたが、強風によりついにガラスが割れ、豪雨にさらされながらの中継を行い、なんとか乗り切ったという。


  ダービー


1967年5月14日は朝から絶好の“ダービー日和”。
ところが,発走時刻の10分ほど前,一天にわかにかき曇り,電光が走り,雷鳴とともに激しい雨が降り出した。日射で空気が暖められたところに寒冷前線が南下してきたことによるもので、いわゆる“熱界雷” であった。 

“波乱”を予告するかのように,スタート13分前に大粒の雨が降った。しっかりと馬券を手に立ち見席でかたずをのんでいたファンは“天候のいたずら”にハンカチや新聞紙を頭にスタンドへ逃げる。スタンドは一瞬“静”から“動”にかわった。ところが場所を“確保”するためにカサをさして動かないファンもポツポツ。
雨が強くなってくると,だんだんと小さくなり懸命に雨をふせいでいた。すさまじい執念! (5月15日付
サンケイスポーツ)

ダービーは雷雨の中でのスタートとなった。
最初の1ハロンこそ13.0秒でしたが,2ハロン目はなんと10.0秒。アラジンが先頭でバックストレッチにはいりるが…そこから先, 馬の識別が出来ないという異常事態。
この時、フジテレビで実況していた鳥居アナも激しい雨のためにほとんど視界が利かなかったという。
勝負所、4コーナーを回って先頭に立ったアサデンコウにヤマニンカツプが外から、シバフジが内から並びかけて三頭の激しい叩き合い。熾烈な攻防は300mも続き最後はアサデンコウが僅差突き抜けた。まさにこの馬の為のダービーのようだった。なお,このときの雷雨によって千葉県と福島県で5人死亡,重傷6人,また埼玉,栃木,群馬などでは雹の被害があったという。


▲〔アサデンコウ。引退後はマレーシアにて馬匹改良の為の種牡馬として活躍するも政変の波に飲まれ、その後の消息は不明となっている。〕

2009年のダービーも突然の集中的豪雨により不良馬場で行われた。府中近辺のみが雨雲に包まれ、ダービーが終わるや雨が上がるという奇妙な天候。勝ち馬ロジユニヴァースは昭和のダービーのような勝ちタイムでダービー馬となった。

  
▲〔ロジユニヴァース〕


  The White Derby

世界競馬史上、ただ一度だけ雪の中開催されたダービーがある。
1867年のエプソムダービーがその奇跡のホワイトダービーで、勝ち馬はハーミット。
後の大種牡である。
6月に雪が降るという異常気象がもたらしたものであった。



“白い闇”事件



1949年6月26日、米中部イリノイ州のスプリングフィールドにあるチャッツワース競馬場にて起きた怪事件。この日のチャッツワースは霧が周囲をに立ち込め、内レースを迎える頃には視界が2mを切る、ミルク色の世界に包まれてしまっていた。
ジョッキークラブ会長のJ.トンプソンはサブマネージャーのL.ケント氏と話合い、7レースを最後にこの日の開催を終了とすることを決定。定刻が来て、出走したのは8頭。
スタンド前に集合した8頭はトラブルもなくゲート入りを終え、霧の中へと飲み込まれていった。
向こう正面は全く見えない。3コーナーも、4コーナーも霧で視界は遮られていた。
間もなく、霧の中から姿を現したのは本命馬のモレリア。2着も対抗2番人気のサンルーカスで、穴党の期待も虚しくガチガチの本命サイドで決着。開催側は配当以上に無事レースが終了したことにホッと胸を撫で下ろしたが、レース後の検量時7頭7人しかいないことが判明。
ただちに場内と競馬場の周囲を捜索が行われたが、その姿はどこにもなかった。
この競馬場は外ラチ沿いが小高い木立と民家、そして工場の塀に囲まれており、飛び越えられるような環境でもなかった。消えた馬はライトヘンダーソン。そしてその鞍上はC.ハーニー。
最外8番からスタートした彼らの姿は、スタンド前のファンも、レースに参加していた騎手たちも認めている。向こう正面以降、その姿は忽然と消えてしまったのである。


▲〔カナダのとある競馬場にて。濃霧の中の直線〕

これが後に“白い闇事件”と呼ばれる米国競馬における怪異現象である。
結局二人は戻ることがなかった――。
この“白い闇事件”、1950年のノースダコタにあるファーゴ競馬場と、1952年のカナダ中部に位置するサスカツーン競馬場でも発生している。
中でも、サスカツーンの事例では3頭3名の競走馬と騎手がレース中、霧の中で行方不明となり、消失してしまったのである。
彼らに姿を消すような理由もなく、その後彼らの姿を見る者もいなかったという。

これらの3場で起きた現象の正体は一体何なのだろうか。
飛行機や船が突然消失するという海域・場所が存在しているのは有名な話であるが、まさか競馬場でそれが起きようとは…
バミューダ島と西インド諸島の中間点にある爛丱潺紂璽瀬肇薀ぅ▲鵐哀覘瓠△修靴謄▲薀好州はバロー岬沖のボーフォート海。このれら2者が消失事件多発のミステリーエリアである。

  
▲[飛行機や船舶の失踪が後を絶たない“魔の海域”バミューダトライアングル] 

偶然なのか、それとも何らかの因果関係があるのか、“白い闇事件”の起きた3つの競馬場は、上述した2つののミステリアスゾーンを結ぶほぼ一直線上に点在していたのである。
はたして、一体何があるというのか…?
事件から60年以上が経った今も、消えた人馬の行方は分かっていない――。


▲〔はたして人馬はどこへ消えたのか――こちらクリックして頂くと霧の中で行われた日本のレース映像・バイオレットSをご覧頂けます〕



事件
1964年9月24日。
東京オリンピックが二週間前に迫った頃、米国はテキサス州ヒューストン郊外のノーフォーク競馬場で、それは起きた。
当日のメインレースは「ノーフォーク・メモリアル」(ダ2,000m)。
出走馬はわずか8頭だったが、新たなるスター候補誕生の可能性に、観衆は胸を膨らませていた。ダントツの1番人気(1.1倍)ニューアイルランド号は3連勝中ですべて大差勝ち。コースレコード1:58.4の時計は破格のもので、小さな競馬場に納まって終わるような馬ではないと、ファンもその未来のヴィジョンを脳裏に描く程の素質馬だった。戦法は逃げ。この日も同じように電光石火のスタートを切り、火柱のごとく立ち上がる砂煙を、背土産に、後続を突き離してゆく。あまりにも能力に差がありすぎたか、ニューアイルランドの加速は尋常ではなく、立ち上る砂塵、その様はロケットエンジンから排出されてゆく煙のようだった。
最終コーナーをカーブした時、確実なセーフティリードにそれは広がっていた。完全な独走態勢。
しかし、真黒な馬体が狂った弾丸のように、凄まじい勢いで伸びてくる。最低人気、単勝オッズ438倍という超大穴馬だった。ここ9戦すべてシンガリ負け。しかも前走はニューアイルランドから32馬身も引き千切られていた、とても掲示板すらないような脆弱馬。それがどうだ、みるみる内に黒い影は大本命を飲み込み、交わし去ってしまったのである。残り50m。勝利はもう間違いない。場内も騒然となり、悲鳴が飛び交い、中には頭を抱え絶望する者も。

その時である。
何とこの世紀の大駆け馬が、卒倒し転倒。
突然倒れこんでしまい、ピクリとも微動だにしなくなってしまった。
青天の霹靂、宙へと放り出された騎手もなすすべなく、馬場へとたたきつけられてしまったものの、幸いにも騎手の命に別状はなかった。
その横でニューアイルランドとその鞍上は拍子抜け、唖然としながらのゴールイン。

ところが、払い戻しは一時棚上げとなった。
ゴール直前で猛然と伸びていた馬が倒れるなど、どう見てもおかしい。
不正があったのではないか――。
大本命の絶体絶命を救うべく、何者かが穴馬へ発砲したものと、最初ジョッキークラブ側は判断。しかし、獣医による診断結果が、それは間違いであると証明した。
傷口から弾丸が見つからなかったのである。
緊急事態に警察も駆けつけ、馬の倒れた周辺もくまなく捜査が行われた。
そこで小さな血のついた石が発見された。
馬は、この石が当たって絶命したのである。

いや、待てよ…石を投げ入れた者などあの場にはいなかった。
メジャーリーグの選手を持ってしても、馬の額に命中させ、さらにはその命を奪うことなどできようか?
この石はさらなる精査の必要性があると、ノーフォーク署の化学研究室へと搬送された。
時経たず、この石の正体が明らかとなった…

それは…


隕石だった。
大差勝ち連続の1.1倍の馬が、438倍の連続シンガリ負け中である大穴馬の強襲を喰らうこともかなり稀な話であるが、その馬があろうことか隕石に打たれ、ゴール直前で命燃え尽きることは、それこそ天文学的数字の話である。

しかも。

この隕石と衝突した馬の名前は…


星屑という名前だったのである。

続きを読む >>

馬・競馬の基礎知識 * 02:55 * comments(0) * - *

馬・競馬の基礎知識 〜生態・成り立ち編〜

競馬基礎知識
〜馬・競馬の成り立ち編〜



哺乳類・有蹄類・奇蹄目。草食動物であり、その起源は6000万年前のヒラコテリウムにまで遡る。
進化系統図は以下参照のこと。


▲〔ヒラコテリウム〕


エクウス進化系統図


〔系統遷移図.1〕


〔系統遷移図.2〕


概してジェネラリストであり、食物を選好みしたりしない(好物はニンジン、リンゴ、角砂糖など硬く甘いもの全般)。
馬の餌は大きく粗飼料(牧草類)と、濃厚飼料(穀類、配合飼料など)に分けられる。運動量の多い競走馬や乗用馬は繊維の多い粗飼料に加え、嗜好性が高く栄養豊富な濃厚飼料を少量与えるのが基本。場合によってはサプリメントや黒蜜、アマニ粕など油脂類を加えることもある。甘く硬いものが大好物で、前述の角砂糖のみならずアイスキャンディーなども食べる。

馬の代表的餌・一覧
乾草
青草
ヘイキューブ
トウモロコシ
フスマ
野菜・果物(主にリンゴ、ニンジン)
エンバク
オオムギ
ペレット
ミネラル塩

 

英語の「馬」を意味する“horse”は「速やかな走り」から来ている。
馬は平らな地面なら時速60〜67kmで走ることができる上、長い距離を走り続けることも可能で、160kmに渡って、平均時速16劼魄飮できる。
馬の好奇心が強く、縄張り意識は薄弱で、大抵の馬は攻撃的性格でなく、従順で依存性が強い。その染色体は例外なく6431対の常染色体と、XYの性染色体32対計64本固定された遺伝子は2万322個。この内約4分の3の1万5027の遺伝子はヒトの遺伝子と一致するものだという。
寿命は25年ほど。個体差もあるが長いもので30〜40歳が一般的である。
繁殖期は春。発情周期は22〜23日、発情持続時間は約7日間。単子で妊娠期間は約335〜340日

離乳は5〜6ヵ月。
体高は品種により大小大きな差があるが、広く世界に飼養されているアラブ、サラブレッドは基本150〜160cmの体格である。ちなみに148cm以下の体高の馬をポニーという。これは1889年にイギリスは王立農業協会にて定められた規定である。
加え、米国ミニチュアホース協会では、体高86cm以下の馬をミニチュア・ホースとして定めている。

▲〔上は日本における、サラブレッドの主な一生を表した円グラフ。〕

知能は大変高く、記憶力も抜群。日本の農民が、自身も兵士として徴兵され中国大陸に送られた。数年後、戦地で偶然かつての愛馬に遭遇し、馬の方が自分を覚えて懐いてきた姿を見て涙し、周囲の兵士達もその姿を見て感動したという逸話も残されているほどである。
馬は人を識別出来る能力を備えており、これは実験においても立証されている。
記憶力・学習能力も並外れている。その測定方法として図形・光・音の弁別、迷路、レバー押し、電撃刺激の回避など多種多彩の手法が用いられてきているが、総じてこれらの課題に対して良好な学習能力を示している。
これらの手段を用いて計測された成績から、学習能力は意外にも、4歳未満の馬の方が、それ以上の年齢の馬よりも、また牡、およびセン馬の方が牝よりも上回る傾向があるとされている。また品種間での差異も認められている。
記憶力の秀逸さを証明した実験が、米国にて行われたことがある。
米国の研究者であるディクソン氏が行った実験は以下の通り。
20セットの図形を用いての学習能力検討。1セットずつ図形の一方を正解と指定しておき、いずれかの1セットを馬の前に差し出した時に正しい方を鼻で指し示せば餌(ちなみにこの時はニンジンを報酬としていたという)を与えるということを繰り返したのだという。毎日約20分、87日間これを繰り返したところ、正解率93%(92.5%)。この結果から学習速度は遅いと言える。ところが、その後一ヶ月、三ヵ月、半年して同じテストをしてみたところ、一ヵ月後でも変わらぬ正答率(80%)を示し、3ヶ月後で78%、半年後でも77.8%という驚異的正解率を弾き出したのである。これが人ならばほとんど忘れてしまっているだろう。この結果は馬の記憶力の優秀性を示す何よりの指針である。
さらに、この実験の中で、馬は学習が進むに連れてより速く新しい図形の組み合わせの弁別ができるようになっていった。このことから、馬はここで出された課題の一般則を学習する能力を持っていると考えられる。
馬の学習能力の個体差が、その馬の調教の難易度とある程度の相関があることも判明している。また、馬の気質も学習能力と関連性があると考えられており、迷路の実験では、成績の良かった馬ほど調教も容易だったことが認められている。興奮しやすい馬ほど学習能力が劣る傾向も見受けられている。


〔ディクソン氏の実際に用いたカードセット。その一覧表である。貴方は完璧に暗記できるだろうか。〕

睡眠時間3〜4時間。立ったまま寝て、夢を見ることも研究から明らかとなっている。仔馬か妊娠中でない限り、1日4時間も寝れば十分であるという。それも1度に10分〜15分の小刻みな睡眠を取る。(対照的に最も睡眠を取るのが猫。1日16時間は睡眠を取る)

安心しきった環境では横臥して眠ることもある。横になり、体をゴロゴロ地面に擦りつける行為は体表についた虫を払い皮膚を守る為の行動で、馬にとってはリラックスの時間でもある。とはいえ、馬は400万年を超える歴史の中、熟睡するということが無かった。


前脚で前を引っ掻くような行為が見られるは餌を要求しているサインととれるが、場合によっては疝痛を訴え、苦しがっている場合もあるので注意が必要である。

消化器官

馬は体重の2%は食べ物を摂取する必要がある。馬の歴史は消化と消化不良の歴史でもある。

馬は体の大きさに比して胃が小さく、人間同様、胃が空っぽだと不快に感じる。

そのため、一度に食べる量は多くないものの、可能であれば始終何か食べている。大食いの人間を馬に比喩して表現するのはこのためである。消化器官は強く、木の皮でも、木の実でも、葉でも大抵のものを消化できる。しかし、馬の消化器官は人間と決定的に異なっている点があり、それが息をするのと食べるのとを兼務していることである。そのため、馬は嘔吐することができない


馬の顔が長いのは、草を食べながら周囲に警戒を払うためであり、その結果切歯と臼歯との間に隙間が出来始め、進化の過程、そこがハミをかませる部位となった。野生のものは1日の14~16時間を草を食んで過ごしている。視野が大変広く、350度まで見渡せる。盲腸が極めて長いが、これは動きながらでも消化を可能とするためで、反芻する必要がないため、胃は一つしかなく非常に草食に適した動物である。これは多量のセルロースを持つ低質の草原地帯を生活の拠点とし棲息したためであり、他の動物との生存競争を避け、危険な肉食獣から逃れるためで、一方では速く走って逃げるため第三指が発達し、やがては一本の蹄となった。
聞き取れる高音の限界はおよそ30kHz。

 

ちなみにシマウマに関してだが、ウマ属ウマ科ウマ目の縞模様の系統である。

ウマとは言うものの、ロバに近い存在で。

意外にも鳴き声は「ワンワン」と鳴く

シマウマの縞模様の効果は、捕食者が狩りの獲物とする個体を識別しにくくすることといわれている。

これは、霊長類以外の哺乳類は色の識別能力が低いことと関連しているという。

つまり、シマウマの白黒の模様は、霊長類以外の哺乳類が遠くから見た場合には

草原の模様に埋もれ判別しにくいと想定されている訳である。

また、縞模様は身体の部位ごとに向きが異なり、群れをなすと各個体の縞模様が混ざって視覚的に同化してしまう。

他にも説があり、日よけや草食動物のため群れている方が被害が少なく群れを見つけるのに役立っているとも言われている。

シマウマなど縞模様を持つ生物は、体表面で温度差を形成して微細な空気の流れを生じさせに役立てているとする研究がある。

 

野生のシマウマは非常に気が荒く、人間にはなつかない。

加齢により気性は更に荒くなる。シマウマを乗りこなした人物は、

ジャック・キャメロンビル・ターナー、そして4頭のシマウマを手玉に取り、

バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている、

ウォルター・ロスチャイルド男爵ら3名のみ。



馬体の名称

※PCやスマートフォン・アイフォンなどからですと明瞭に確認可能です。


   


    馬の骨格



前肢の骨格  
 

      左前肢(外側)



 

 

腕節(左)

 

正面

 

外側
 
(1) トウコツ
橈 骨
(4) シャクソク
尺側手根骨
(7) 第4手根骨 (10) 第4中手骨
(2) トウソクシュコンコツ
橈側手根骨
(5) 第2手根骨 (8) 第2中手骨 (11) 副手根骨
(3) チュウカン
中間手根骨
(6) 第3手根骨 (9) 第3中手骨

 
 
後肢の骨格  
 

      左後肢(外側)                   右足

 

 

飛節(左側)

 

内側

 

外側
 
(1) ケイコツ
脛 骨
(4) チュウシンソクコンコツ
中心足根骨
(7) 第1、第2足根骨 (10) 第2中足骨
(2) ショウコツ
踵 骨
(5) 第3足根骨 (8) 第3中足骨
(3) キョコツ
距 骨
(6) 第4足根骨 (9) 第4中足骨

 



    馬

牡の場合、切歯12本。犬歯4本。臼歯24本の計40本。
牝の場合、犬歯がなく計36本。歯替りが一番多くなるのは3歳クラシックシーズン。

  
  ▲〔馬の歯〕

馬の歯の構造は、ヒトと異なりエナメル質は上記イラストの赤い部分のみ。これは草食動物特有の構造で、歯を臼のように使い、草を磨り潰して食べるからである。当然磨り減るので歯は絶えず伸びる。

加齢による生え替り、歯質・歯形の変化、噛み合わせの変遷の様は以下のイラストの通り。





上述のように馬の歯は絶えず伸びるため、馬は“虫歯”にはならない。ただし、上顎が広く下顎が狭いために、左下の図のように上の歯の外側、下の歯の内側が尖ってくる。これが口の粘膜や舌を傷つけてしまうので定期的にこのように鑢で削ってやる必要がある。勿論痛みはない。
正確に言うと、人間と同じような症状の、歯の神経に菌が入って激痛を伴う…といったような虫歯にはならないというのが正しい表現か。

馬の虫歯を
   発見する方法


朝、飼葉桶を見て歩き、その中にに球状になった飼葉が入っていると虫歯があるという標しだそうです。虫歯の穴によって飼葉が球状になり、馬がそれを飲み込めないので桶の中に吐き出すということだそうです。

齲歯
歯のエナメル質や象牙質を侵食する疾患。歯が質的にもともと弱い馬や、裂歯、不良な飼料の給与などが原因となる。口腔内常在菌と食物によって産生された酸によって生じる歯質の脱灰現象といわれている。エナメル質形成不全は齲歯になり易く、成馬でも飼料が原因の体質のアルカリ化、腎臓病および妊娠などの場合はなり易い。症状としては、食餌の咀嚼困難、よだれの流出などで、進行すれば歯槽骨膜炎を併発し歯瘻にいたる。治療として抜歯、歯垢の除去などを行う。

 

【歯槽間縁の発見】

口の中に滑り込ませたハミ身を前歯と奥歯の空間に噛ませることで、

舌と口角に作用する。馬には下顎に歯槽間縁と呼ばれる隙間があり、骨なり金属の棒片なりを

宛てがうことが出来ると分かったのは、人類史上大きな発見であった。

これは馬が草や葉、枝などを口に入れて真剣に咀嚼する前にしばし貯めておくための、

口の中のポケットのようなものと進化した部位なのだが…

ちょうどハミを噛ませるのにおあつらえ向きとなっていた。


   馬体温

平熱は年齢により差異があるものの、平均人間より若干高めの38度


   馬血液型

国際動物血液型学会で認定されている血液型の検査項目では40項目もあり、その全種類はなんと121億通りにもなるという。


   嗅覚

人間の1千倍の嗅覚を持つと言われる。
これは犬や猫のそれには劣るものの、馬の場合は特殊で、匂いから感情まで読み取るという。



    馬


馬の蹄の詳細、部位名に関しては以下の通り。


サラブレッドが全力疾走中に脚が着地する度に受ける衝撃度は以下の通り。

◆芝⇒150G

◆ダート⇒120G

ちなみに地球の引力は1G。
具体的な衝撃の一例を挙げるなら重さ4圓療瓦硫瑤80僂旅發気ら落とした時の衝撃…
それが100Gとされるから、相当の衝撃度である。
馬の蹄は人の爪と同じケラチンで出来ているが、比較にならないほど厚く、適度な粘性と堅牢さを兼備している為、上記のような衝撃を受けてもビクともしないのである。
その衝撃を緩和する役目を果たしているのが蹄の表面、蹄壁の内側にあるセキチンと呼ばれる柔軟性に富んだ組織。自動車で言う所のエアバッグで、衝撃を受けると左右に膨らみ衝撃を吸収する仕組みとなっている。


  馬の心肺機能

速く、そして長い距離を走ることのできる馬、とりわけその分野において特化されたサラブレッドはほかの動物に比べ効率的にガス交換が可能となる構造をしている。人の肺が体重の1%にも満たないのに対し、馬の場合は体重の約1.5%を占める。
肺に入った空気は最終的には肺胞に到達する訳だが、人の場合、肺胞の数は約300万個。その総表面積は75平方メートル。対し、馬の場合はなんと1,000万個以上でその表面積は2,500平方メートルにも達する。これは諸外国の一つの城の敷地面積ほどの広さと考えてよい。
一方で、人の心臓は握り拳くらいの大きさとされるが、競走馬の心臓はその16倍もの大きさがある。
ちなみに馬の安静時の拍動数は多くの場合、一分間に約30〜35回。レース中には230〜240回へと激変する。
肺はトレーニングによって鍛えることの出来ない部位で、これが能力向上の限界を生む蓋だとする研究報告もある。

サラブレッドの平均的心臓重量は4.1圈これはトレーニングにより増量されるが、休養すると元の大きさに戻ってしまうという。長期休養して別馬のようになってしまうケースがあるが、これを聞くと成る程と辻褄があう。
またサラブレッドの最大酸素摂取量は体重1圓△燭衞160ml。一般成人のこれが体重1圓△燭1分間に40mlとされるから、いかに競走馬たちの持久力に富んだ動物かが判る。


  馬の新陳代謝

サラブレッドが一回走ると、約2,000キロカロリーの熱が産生されるとされる。
この熱エネルギーの放散は発汗を行うことにより蒸散されている。
馬の汗にはラセリンと呼ばれる物質が多分に含まれている。この物質は石鹸と同様の界面活性剤としての機能があり、汗が被毛を通って全身に広がりやすくする役割を担っている。競馬を終えた馬の股間や首が泡立って白くなっているのも、このラセリンの為である。ちなみに、一回の競走でバケツ一杯、約10ℓの汗をかくと言われている。
運動時、全身の酸素運搬能力の向上を果たす役割をしているのが脾臓である。脾臓には血球成分を非常に多く含んだ血液が、普段から大量に蓄えられている。この貯血機能により蓄えられた濃厚な血液のほとんどが、運動時の循環血中へと流れ込まれてくる。
人の脾臓の重さが100グラムであるのに対し、サラブレッドの脾臓は2kgにも及ぶ。そしてまた、人の脾臓血が血液中に流れ込むことで上昇する血液濃度は高くても15%程度に過ぎないのに対し、走行時のサラブレッドの血液濃度増加率はなんと50%も超過する。
また、馬の血圧は最高100〜130、最低70〜90で、人とほぼ等しい。しかし疾走時には200以上にもなる。
一方、馬は1日で3〜9ℓの尿をする。多いようにも思えるが、飲み水は20〜40リットル摂取するのが平均とされるので、体の大きさから考えると、排泄は少ない方だと言えよう。それだけ汗をかいていることになる。体重1圓亡校擦垢襪反佑糧省程度であり、少ない部類に属している。これは体表面で失われる水分が多いこと、腎臓での水分の再吸収機能が発達している為と考えられる。馬の尿は不透明で、糸を引くような粘りけを持っている。


    馬


眼球の直径が4.5僉人の約2倍の大きさがある。重さは約100グラム。ピンポン球のような綺麗な球状ではなく、やや歪んだ形状をしている。さて、その機能性だが、人とは大分異なる。網膜の残像作用時間が短く、高速で走っている時も目に映る風景が流れない。これにより敵の位置を正確に把握しながら走り続けることが出来るのである。
網膜にはかん体と錐体と呼ばれる形の異なる2種の視細胞が存在し。錐体は色を感知する細胞である。馬にもこの細胞があることが認められる。つまり、馬にも色覚があると推定されるのである。ただし、人に比べ大分劣る。進化の途上、色彩はそれほど重要な概念ではなかったということか。ちなみに黄色を最も良く区別でき、次いで緑、青の順となる。意外なことに、赤の識別を苦手としていることも実験から明らかとなっている。
この網膜の裏には、タペタムと呼ばれる輝板があり、網膜で吸収されずに透過した光を反射する役割を担っている。この為に、馬は夜行性の動物でないにも関わらず、夜目が利き、目が光るのである。


また馬は真後ろ以外はすべて視界に入れることができる。
図の死角の領域はどうやっても見ることができない。

 



   

「馬力」とは、いかに遠くまで、速く行けるか、さらにどれほどの重量を引けるかを示す語である。

1馬力は、18世紀に蒸気機関を開発したジェイムズ・ワットが荷役馬を使った実験によって、

最初に定義したもので、1分間に220フィート(およそ66m)の穴から150ポンド(約68kg)の

重りを引っ張り出すのに要する力である。

 





唯一の野生馬
現生する唯一の野生馬は「プルツェワルスキー」。
1881年に中央アジアの砂漠にてロシアの探検家プルツェワルスキーに発見され命名された。

家畜化の始まり

6000年前、紀元前4000年前のウクライナ・デレイフカにて


▲〔デレイフカで発見されたハミとその想像模型〕

頭絡とハミの歴史もデレイフカに始原を求める事が出来よう。

 

【馬銜(ハミ)の種類】

スナッフルビット

6000年ほど前からあり、スナッフルを真ん中でジョイントさせ、顔を刺激できるようにした。

ハミ身の両端に取り付けたハミ環やチークと呼ばれる棒状の部分で顔への圧迫の強度を増すことも可能。

ハミ身の端のハミ環に通した手綱で扶助する。近代で使われているのはスナッフルである。

 

・カーブビット

紀元前4世紀前後のケルト人が使い始めたものと言われる。ハミの部分はスナッフルと同じだが、

頬革を当て、ハミ身の端にハミ枝かクツワ鎖を加えることでこの作用が働き、頭部か下顎に力を伝えることが出来た。

1500年間、ハミといえばこのハミのことを指し、カーブビットでなく、スナッフルを使う者は嘲笑されたという。


⇒しかし!!
 ⇒ここに来て新説が!!
  ⇒
新約家畜化始原説


▲[世界最古の家畜馬爛▲襦Ε泪ル]

2011年、
アラビア半島にて9000年前の馬の家畜化の痕跡を残す遺跡が発掘された。
アル・マカルという遺跡から発見されたもので、馬の家畜化が初めて行われたのは5500年前の中央アジアだと言われていたため、それよりも3500年も古いことになる

Ali al-Ghabban氏は、この発見によって後期新石器時代における文化の発展に関するこれまでの説が変わってくる、と述べている。
遺跡からは石鏃、スクレイパー、製粉具、紡織具やその他の道具が発見されており、居住者が工芸の技術を有していたことがわかる。
Ghabban氏によると、遺物に対する放射性炭素年代測定法、人骨に対するDNA分析が行われているという。
年代測定では、
紀元前7000年という値が出ている。

「アル・マカルの文化は新石器時代における非常に進んだ文明だった。この遺跡は、9000年前における馬の家畜化のルーツがここにあったことを明確に示している」

…とGhabban氏は述べている。
人類は5万年前から馬との接触はあったようだが、最初は肉や皮を利用するために狩猟されていた。
馬乳を利用していた可能性も考えられる。

これまで知られていた馬の家畜化に関する考古学的証拠では、北部カザフスタンのボタイ文化のものが最古と言われていた。
5500年前に年代づけられており、発見された馬の骨が旧石器時代の野生馬よりも青銅器時代の家畜化された馬と類似していることや、複数の馬の歯に轡がつけられていたこと示す痕跡が認められている。


初めてウマ科の雑種繁殖を試みた民族
シュメール人。紀元前三千年紀のメソポタミアにて

世界最古の騎馬遊牧民
キンメリア人
前八世紀ごろ、南ロシアに住んでいた民族。

 

世界有数の馬文化を築いた民族
ブラックフット族。(同盟でピーガン族、シクシカ族)
19世紀、北部大平原地帯に栄えた部族。馬に関する技術は精緻を極め、鞍や頭絡といった馬具は、

色彩豊かに編まれ、戦争にも、日常用にも、もちろん様々な儀式にも使われて、彼らの文化の一部となった。

速い馬が好きで、競馬も好んだ。また、指導者が死ぬと馬を道連れにするという慣例が続いていた。

 

 



 馬能力遺伝秘密


産駒の資質と
    種雌馬の関係

高い競走能力を持つサラブレッドを生産するためには何より優良な種雌馬を導入することが重視される。しかし、種雌馬に傾注するあまり種雌馬の資質や要因についてはこれまで軽視されがちであった。実際に、競走馬の競走成績に及ぼす両親からの遺伝の影響は約33%にすぎず、残りの約66%は妊娠中の母体内の影響や生後の子馬を取り巻く環境によることがアイルランドの研究によって明らかにされている。また、米国や英国の研究で、産駒の素質は母馬から55〜60%を、父馬から40〜45%受け継ぐという報告があり、優秀な産駒を生み出すためには種雌梅の素質や要因について見直すことの必要性が提起されている。
種雌馬の年齢や出産回数が産駒の競走能力に影響を与えたり、生産に伴う損耗に深く関わっていることを示す幾つかの研究も報告されている。これらは、妊娠中の母体の状態が加齢や出産回数に伴って変化し、サラブレッドの生産に関わっていることを容易に想像させるものである。ここでは、諸外国と日本の研究を紹介しながら、種雌馬の年齢や出産回数が生産性や産駒の競走成績にどのような関わりを持っているのかについて述べる。

種雌馬の年齢、
  出産順位と産駒の
    競走成績について

これについては幾つかの研究がある。しかし、いずれも調査方法や調査対象が異なるため、これらの成績を同一のレベルで評価することは難しい。それをお断りした上で幾つかの代表的な研究を紹介したい。
まず、1992年から1994年までの欧米のグレード競走の勝ち馬1,420頭を対象に誕生時の種雌馬の年齢を調べた米国の研究では、6〜9歳時に分娩された馬に活躍するものが多いことが分かった。また、別の研究で、680頭の産駒を対象にしたグレード競走の勝ち馬の出産順位を調べた成績では、出生順位の早い馬に勝ち馬が多い傾向が窺われた。
一方、英国のグレード競走の勝ち馬の母馬の出産時の年齢を調べた英国の研究は、7〜11歳までの母馬が勝ち馬を生んでいた事実を明らかにしている。また、同じ英国の研究では、ある一定の条件、すなわち、。呼以上分娩していること。1947〜1986年の間に分娩された産駒であること。6チ能力指数(SSI)110以上の産駒を2頭以上産んでいること。こられの3つの条件を満たす100頭の母馬とそれから生まれた1,196頭の産駒を対象に統計学的に調べた。その結果、母馬の年齢が9歳で、4産目の時に最も優秀な産駒を輩出していたことが判明した。
日本では母馬の条件を英国ほど厳密に規定して調べたものはないが、子馬を産んだ時の種雌馬の年齢とそれらの産駒のその後の競走能力の関係を調べた研究がある。それによると母馬が6・9・10・12歳の時に生まれた子馬のその後の競走能力が最も優れていて高かった。さらに、図に示すように日本のトップエリートホースが競う過去12年間(1990年から2001年)の皐月賞、日本ダービー、菊花賞、春の天皇賞、秋の天皇賞および有馬記念の6レースの勝ち馬72頭の出生順位と母馬の年齢を調べた結果、概ね1から5番目の産駒が優れた競走成績を収めている傾向が明らかにされた。この競走馬の平地競走出走一回当たりの収得賞金を数値化したもので、異なる世代間の競走馬の競走能力を比較することができるものである。
これらの研究から共通していえることは、優秀な子馬を生産する種雌馬の要因として、その年齢が6歳から12歳で、かつ、出産順位がなるべく早いことが重要な要素として挙げられる。

それを裏付ける科学的根拠
生産率と種雌馬の年齢の関係についてに幾つかの研究の結論は、母馬の年齢が増すごとに、また、当然の事ながら出産回数が増すごとに生産率は、低下する傾向を示すことで一致している。
これらのうち、加齢に伴う受胎率の減少の理由としては、子宮の内幕に病変が生じ、これによって、胚の着床、胎盤の形成、子宮腺の機能の低下が起こるためと説明される。また、胎子の健全な発育を阻害する要因としては、胎盤に酸素や栄養を運搬するために動脈硬化を起こした結果、胎盤に十分な血液を供給できないためと推察される。過去の我々の研究で、このような子宮内膜の加齢制の変化は17〜19歳を境に目立って多く見られることから、種雌馬の供用年齢は17〜19歳が生理的限界であるろうと推論した。これについて、英国のS.W.Ricketts教授(ブリストル大学)による膨大な子宮内膜の生検査によると、その供用年齢の限度は16歳までであるとし、英国ではこれに基づいて16歳以上の種雌馬の淘汰が薦められている。
これらのデータは胚や胎子を育む子宮内環境が産駒の競走成績にいかに多くの影響を与えているかを、また、加齢に加え、度重なる出産も子宮に大きな影響を与えている事を示すもので、種雌馬は種雄馬に勝とも劣らない重要な役割を担っているといえる。

 



双子の記録

     双子の記憶

本来、単胎動物である馬は、牛と同じように一度に産む子の数は一頭が普通である。例え双子を妊娠しても、胎児の発育に母体から子宮への栄養補給が追い付かなくなり、やがて胎児は死亡して妊娠八ヵ月頃に流産してしまうか、片方が死んでしまうことが多い。通常、双子の妊娠が確認された場合は、早期に一方の胎児を取り除く措置がとられ、親子を救う手段がとられる。しかしそれでも、数千分の1の確率で双子が生まれることがあるという。


 牡牝の双子が
  同じ日の同じレースで
   デビューした唯一の例


2014年4月31日、アルゼンチンはパレルモ競馬場の第一競走2歳未勝利戦で双子の競走馬が同時デビューを果たした。
2011年9月20日、父 Senor Carmelo、母 Endiablada Toss の間に生まれた牡牝の双子は
アントニニオレオノラと名づけられ、同じ厩舎に所属して調教を積んできた。
アントニニオは馬体重440kg、レオノラは368kg の小さな身体でレースに臨んだが、
勝ち馬から30馬身離されたブービー8着にレオノラ、更に10馬身差の最下位にアントニニオという結果に終わっている。
歴史上、双子の競走馬が同一競走に出走するのはかなり稀な事とみられており、世界でもこの一例のみではなかろうか。


 JRAでデビューした双子馬

1991年に生まれたリアルポルクスとリアルカストールというダービー馬アイネスフウジンの半弟として生まれてきた2頭が唯一の例。戦績はともに2戦0勝で競走生活を終えている。


 競馬界の金さん銀さん

2001年に九州は宮崎県に生まれた双子馬は幼名が「ゴールド」と「シルバー」だったという。
父アサクサゴーフル(父サンデーサイレンス)、母トウカイルージュ(父オグリキャップ)。
結局デビューできたのは一頭のみで、それがアポロホールで、園田・姫路で競馬をしていた。生涯成績は22戦0勝。
不思議と双子の戦績は【2】絡みが多いのは気のせいだろうか…。

 



 兄弟(兄妹・姉妹・姉弟)馬が

   成し遂げた記録一覧

◇◆兄弟馬3頭が揃って同日に出走した記録◆◇

1984年(昭和59年)、1月8日の中山開催にて

キャンヴァズビームを母に持つ3頭が出走。


2R フジノレイメイ(牡4)1着

7R フジノトウリュウ(牡5)8着

8R フジノオオトリ(牝6)9着



◇◆全姉妹馬が同一騎手で一開催の重賞レースを独占◆◇
1984年(昭和59年)、三回新潟開催にて。

父ノーザンテースト、母シャダイマイン産駒2頭の両頭に柴崎騎手が騎乗し…

8月26日 新潟記念⇒ダイナマイン(姉)
9月2日 新潟3歳S⇒ダイナシュート(妹)
※アドマイヤマックス、ホーネットピアスらの母。
 


◇◆全兄弟馬3頭が1、2、3フィニイッシュ◆◇
1990年(平成2年)、9月10日の新潟競馬10R白勢特別(アラブA1級・9頭立て)にて。
厩舎も馬主も同じ全兄弟馬がワンツースリーフィニッシュを決めた。

1着 シネマドーター(牝5)
2着 サクラバット(牝7)
3着 サクラドラゴン(牡6)

 

 

◇◆父馬、母馬、その仔馬の3頭が、同じ日に同じ競馬場で出走◆◇
2004年8月11日、米国オハイオ州はリヴァーズダウンズ競馬場にて。

第4R⇒母馬のゲットミーイーヴン(7歳)が出走し、9頭立て6着。
第8R⇒子馬のエイトアンドチェインジ(牡4)が出走し、11着シンガリ。
第12R⇒父馬のフィフティーントゥライフ(7歳)が出走し、10頭立ての最後方

でゴールイン。

 

◇◆初勝利時、兄弟全馬そろって単勝100倍以上だった三兄弟」◆◇
ノアパンチ
新馬戦時149.2倍の10番人気。

フィールドマックス
新馬戦時238.5倍の15番人気。

極めつけは!長男坊の…

ジャンボプリンス
初勝利時が500万下で179.2倍の11番人気。
(しかも馬体重がプラス40圈)

ノアパンチは父ウイニングチケット。14戦して勝ったのはこの1勝のみ…。1999年生まれの世代であった。フィールドマックスは一つ下の2000年ミレニアム生まれ。ポリッシュパトリオット産駒で8戦して1勝と、やはり稀代の大駆けは値千金の1勝のみにとどまってしまった。
…これら三頭の母はジャンボアトラス。
父バンブーアトラス、母テイタニヤ、父ダービー馬で母は人間に育てられたという稀有なエピソードをもつ歴史的二冠女王という和製良血馬だけに、尚のこと哀愁と寂寥感に苛まれる。
ちなみに、彼女の生んだ仔たちで1勝以上挙げた馬がいない…。侘しく痛切になる珍記録である。



  世界最長寿の双子馬

1982年に英国に生まれたタフとグリフが最長寿記録を持っている。

2017年現在、36歳。ロンドン動物園にて生活を送っている。



 双子馬による愛の結晶
   “奇跡のマーメイド”



父 サンウェーブ
母 メリーメイド
母父 サンミント


生年:1937年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍: ウィンドワード諸島 グレナダ
生涯成績:?戦?勝

彼女を『奇跡のサラブレッド』と評したくなる誘因は、その能力ではなく彼女の血統にある。
サンミントの2×2。ヘアドレッサーの2×2。
なんということか、父と母の父、父の母と母の母がインブリードされているという、空前絶後、血統表中のすべての血がクロスされているという驚天駭地、戦々慄々とした血統なのである。「2×2」の類例ならば、『セントサイモンの2×2』の悲劇で有名なコロナティオン(紹介済み)など、何例か見当たるのだが、「2×2、2×2」という極限の配合がなされたサラブレッドは、このマーメイドのみしか競馬史には浮沈してこない。世界競馬史上唯一の血統例なのだ。


▲〔これがマーメイド号の血統表。ミラー血統とも呼ばれる〕
 

 

しかし、これだけなら、ただ単なる世界屈指の超危険配合例で終わるところだが、この血統を“奇跡の血統”と呼びたくなる所以は、もう一つのポイントにある。
それは…「父も母も同じ1930年に生まれた子供」であったという点。いまいちさっぱり来ない方のために、さらに詳しく説明しよう。
1930年、ヘアドレッサー(マーメイド号のおばあちゃん)は双子を産んだ。1頭が牡馬のサンミント、もう一頭が奇跡的になんと牝馬で、彼女はメリーメイドと名付けられる。そしてこの双子の2頭から生まれたのがマーメイドだった。
まず馬の双子という時点で大変珍しく(大抵の場合、1頭を無事出産させるため、複数の仔を確認した場合は人偽的に1頭を残し他は間引かれる)、2頭とも無事に生まれてくる時点でさらに貴重。そしてさらなる奇跡は牡と牝だったということ。これにより、競馬史上唯一無二の奇跡的血統が完成されたという訳である。

そもそも、超近親交配はサラブレッドの生産のみならず、生物学上でもタブーとされている。近親配合で生まれてきた仔馬には、脚部不安など、何らかの失陥を抱えている馬が多く、競走できる寿命や、身体の機能不全を後世にまでもたらしかねない。マーメイドはこうした血統のセオリーを踰越し、競走馬生活を謳歌した『奇跡のサラブレッド』なのである。



 その他の双子

アドマイヤベガ、メジロアルダン、メジロラモーヌも双子だったという。
アルダンの双子は死産。他二頭の双子の兄弟はおろされたと伝えられている。

続きを読む >>

馬・競馬の基礎知識 * 01:07 * - * - *

+ 1/1PAGES +