神着一角神獣の謎 〜三宅島踏査記録譚〜


神着一角神獣の謎
〜三宅島踏査記録譚〜

2014年初夏某日、私は調布飛行場へと向かうべく、駅を出るや単身タクシーへと身を転がした。
鈍色の曇天の下、向かう先は三宅島。

日本に存在する角馬七神話の一つ、神着村に現れたという一角獣の調査が今回のフィールドワークの主旨である。
前述したように日本には馬に角が生えてきた…もしくは角が生えた馬が産まれてきた…という言い伝え、伝説、民話が七例存在している。


日本に存在する
  角馬神話



1.三宅島・神着村の一角馬

2.山形県庄内地方の農家の角馬

3.茨城県の廃村に言い伝わる角馬

4.能登半島に降誕した能登駒の母

5.岐阜の武士の愛馬・山桜号

6.高千穂の龍駒

7.沖縄県久米島の琉球一角



▲〔その他のユニコーン情報・一角獣への民俗学的考察は上のイラストをクリックorタップでジャンプ!〕


今回は三宅島…という事なのだが、この三宅島の伝説として残る角馬は他とは一線を画した異を呈す存在である。
それというのも、この角馬は殺人を犯しているのである。その詳細は以下の通りである。
 
 
神着村の角馬事件

神着一角
昌泰元年(898年)の1月24日。伊豆七島に浮かぶ三宅島の神着村で起きた事件。
壬生という家の妻女は、首山という山の方へ向かっていつも小用を足していたのだが、これを毎回見ていた馬がいた。ある時、妻女はからかい半分でこの馬へ話かけ、こう言った。

「お前に角が生えたら、何でも言う事を聞いてあげる」

妻女は、馬などが人間の言葉を理解できる訳がない、万一理解していたとしても、角を生やす事など出来るわけがないと思ったのだろう…それは当然のことである。
しかし、何という事か、この馬に本当に角が生えてきてしまったのである。妻女は何とか誤魔化そうとしたのだが、時すでに遅し。


妻女は馬の玩具にされ、最後は角で突き殺されてしまった。
(話にはもう一パターンあり、こちらは娘に小用を足させていた母親が「角を生やせたら娘をやろう」と問いかけ、馬に角が生えてくる)。

女性の家族は、これに震撼し、戦慄と怒りに身を震わせながら、馬を全員で手にかけ殺してしまったという。
馬の角は今もこの家に残され、死んだ馬は首神社の三島明神として祀られいると伝えられる。また殺害された女性は、こばし神社に祀られたのだとか…。


現在でも、事件の起きた1月24日の夜は、決して外へ出てはいけない、と戒められている。
葬られた馬の首が、村中を飛び回るのだという。


事の顛末は上記の通りである。
その真実を確かめるべく、降り立った三宅空港。駅舎のような小さな空港を出ると、そこはとても同じ東京都とは思えぬ、どこか南国ムードを漂わせる、離島ならではの世界観が広がっていた。


島を一周する道路を道なりに歩み、阿古の集落を目指す。
まずは宿を決め、本格的探査は翌日と出立前から決めていた。
小さな社や祠が、荘厳と森閑たる雰囲気の中、あちこちに鎮座している。なかなか見られない光景だが、これも外界と隔離された離島ゆえの特色である。2000年の噴火も影響してか、廃屋もかなり目立つ…いやそれ以前とも思えるほどの崩落ぶり、その古色蒼然たる佇まいに、思わずジャパン・モダン・ダークサイド・ホラーゲームであり、映画化もされた『サイレン』を連想してしまった。たしか映画の舞台は八丈島だった。同じ伊豆七島ゆえの想起だったのかもしれない。


▲〔道路脇の自動販売機をふと見てみるとすべて100円!そしてサイドには飾られたイルカやクジラの揺れる玩具が〕

阿古の夜。夕景坂の夕日を見送り、民宿で鯛の刺身に舌鼓。
日が明けるや、すぐさま歩を向けたのは島の郷土資料館であり、図書館でもある市役所であった。
箱物の中に眠る、いにしえの文書が語るは果たして――


馬がいない。
馬がいたという記録が遅々として見つからない。
資料館の方々へ聞き込みをしてみるが、やはり馬は三宅島に一頭もおらず、2000年の噴火前も牛ならいたが馬はいなかったという。図書館の司書を務めておられる古翁の方にも聞いてみたが、大昔役人が乗っていた馬はいたが、それ以外では馬はいなかったと思うとの事。
そこで曰くつきの馬の角の話を切り出してみた。するとその古老の方は、「聞いたことがある」とのこと。

「おそらく、その話を知っているのは壬生屋敷の神主さんくらいかと…」
(実際に島民の方で知っているのはご年配の方の極少数の方のみでした)

壬生家は一角馬による婦女殺人が起こった、まさにその現場であり、その馬の飼い主だった神官の家である。
すぐさまタクシーへ乗り込み、神着村・壬生屋敷へ。


▲〔壬生屋敷〕

馬の角は実在した。
しかし、一般公開はしていない…。

懇願してみたが、丁重に断られてしまった。
神主さんいわく、
「馬の角の伝説、云われ色々あるようですが、私はあまり詳しく分かりません」

…とのこと。
しかし、諦めきれず、その特徴だけでも教えて頂きたいと頼み込むと、それのみなら…ということでお話しを頂戴することができた。壬生さんの話では…


神着村・馬の角の特徴

・一本角である。
・長さは15cmくらい。
・色は茶色から黄土色。
・太さは片手で握って指と指が届かないくらい。

(『うみねこ博物館』独占調査情報。他ではどこにも掲載無しの極秘情報です。)




はたして本当にあるのだろうか。いや…正確には「角馬殺人事件」は本当にあったのか。
民俗学的見地から考証を進めてみたい。
三宅島に馬はいなかった。
唄や句の中にわずかにその存在を確認できたのみである。
馬の存在意義が際立っていなかったこの島に、唯一残るであろう馬にまつわる奇談は、あまりにも特異な存在として映えるのである。
しかし、壬生氏一族は神官・代官の一族であり、来島の際に馬の1,2頭、連れだって来ていても何ら不思議はない。
では馬がいたとしよう。しかし、その馬に突然角が生え、そして刺し殺すといった事が現実には考え難い。
その馬が本当に神の力を宿した超常的存在であったなら話は別になるが、その馬は何らかの記号なのではなかろうか。
伊豆七島に伝わる海難法師の夜、1月24日と同日が禁忌の日とされているのも引っ掛かる。

海難法師
江戸時代、伊豆諸島は徳川幕府の天領であり、代官が度々来島巡視し、治めていた。その間、254年間。30名もの代官が就任したと紀伝されている。
中でも特に性悪の悪代官がこの地を牛耳ることになった時代があったという。島民たちは皆、その悪政に喘ぎ哭いたという。
ある時、新島を視察することとなったこの代官の乗った船が、大島を出た後、船頭たちが船の栓を抜き逃亡。悪代官は海の藻屑と消えることとなった。1月24日の出来事であったという。
ところがである…事件以来、毎年1月24日の命日となると、その亡霊が伊豆の島々に現れ、島民に危害・呪いを加えるようになった。島の人はこの亡霊を海難法師と呼び、1月24日を厄日とした。
三宅島も例外ではなく、昭和の中期まではこの日が最も恐ろしい日とされた。
1月24日はすべての人が仕事を早めに切り上げ、なんと便器まで家の中に持ち込んで(当時は便所が必ず戸外にあった)戸締りを厳重に行い、絶対に外に出ることはなかった。

長い一夜が明けると、餅を油で揚げて家族揃ってこれを食べた。これは厄払いの一環であり、もしこの油揚げを食べずに外出しようものならば、必ず海難法師の祟りがあると信じられていた。

現在では1月24日を気に掛けることはあっても、外出を一切控えるということはないようであるし、若者は一笑して取り合わない。この「1月24日」に何らかの大義が、裏に隠れているような気がしてならない。

もし馬ではなく人だったとしたら――。
西洋に伝わりしユニコーンはイエス・キリストを表象する記号だとする説がある。
ユニコーンは処女にのみ心を許し、そうでない場合、獰猛性を剥き出しに怒り狂い、その強靭なる角で乙女を一刺しにしてしまうという。
この神着村で起きたという角馬事件と非常に酷似している。
馬は役人の乗り物だった…それはまた貴族を表す記号にもなりはしないか。
“馬”は“貴族”の置き換えであり、また「一本角」は男性の生殖器「男根」へのイメージ転換が可能ではなかろうか。
壬生家の妻女へ暴行を犯した貴族・役人を一族総出で殺める凄惨な事件。
その貴族の祟りを懼れ、一年毎に秘供養を施す…その光景は見られる訳には行かぬ行為そのままでしかない。村民・島民たちの目を絶対に背けさせる必要があった。そのための夜を禁忌である1月24日にあてがったものだったとしたら――。

これはあくまでも私個人の民俗学的考察の一環・一考でしかないし、また絵に描いた麒麟そのままの想像でしかない。
しかし、である。
あらゆる言い伝え、謂れ、神話・民話・伝説の根底にあるのは「二律背半の精神」である。
要するに「忌まわしい記憶を封印すると同時に記録する」。
それ即ち「記憶の封印と記録」である。
何かがあるのは間違いの無い推察な筈である。


雨粒が落ちるアスファルトを滑走路に、飛行機は雨雲を切り裂き東京へと飛び立った。
靄がかったような、暗転たる心模様の私を乗せ飛行機は三宅島から遠ざかっていく。
答え無き夢幻のフィールド、民俗学。そこに佇立する一角獣は何を伝えようというのだろう。


次なるレジェンドを求め、私は島を後にした。暗鬱と清爽が背中合わせな、そんなイメージぴったりの初夏だった――
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馬民俗学研究探訪誌 * 23:24 * comments(0) * - *

キカイヒメ ―喜界姫― 想歌


 キカイヒメ
  ―喜界姫― 想歌

  【喜界島馬今昔探訪譚

鹿児島県の南西、奄美大島を西に望み、東経130度線上に浮かぶ隆起珊瑚の小島…
その島はかつて、馬と人との絆が琴瑟相和に結ばれた、名馬安住の楽園が存在していた。
一年中、珍重な蝶が舞う南国のアルカディア。
東シナ海と太平洋を分かつ海の道標として鎮座してきたその島を、「喜界島」といった――。


失われた馬の楽園『喜界』へ――。

12月某日、私うみねこは、助手の美空を引き連れて、鹿児島へと飛んだ。
曙光も差す前の天王洲アイル。大井競馬場を横目に、美空が缶コーヒーを差し出してきた。

「買ってきましたぁ〜!まだ飛行機の時間までたっぷりありますし、ゆっくりコーヒーでも飲みながらと思って」
「ありがとう」
熱々の缶コーヒーを受け取り、プシュッと開け一飲み。
タバコを嗜まない我々二人のリフレッシュタイムと言えば、「コーヒーを飲むこと」。
はるかなる昔日、南国に夢遊した馬の楽園を目指し、飲み干した空き缶を捨てるのを合図に、私たちはまず羽田へと歩を向けた。

さて、私はかつて『奇跡の名馬』にて「喜界」という馬を紹介したことがあったが、今回はそのコラムの改良・増筆版である。フィールドワークへと赴き、得られた貴重な情報と資料・文献を元手にさらなる情報を加筆させて頂いた。

  
▲〔島の民俗資料館。こちらの管理人の方から喜界島郷土研究会員の北島公一氏をご紹介頂き、北島氏からは獣医師をされている高坂嘉孝氏をご紹介頂き、しばしの間、喜界馬にまつわる話で盛り上がり、喜界馬に関しては高坂氏よりお話を図書館の郷土資料室にてお話を頂き知識を蓄えさせて頂いた限りである。〕

  
▲〔民俗資料館の2階奥側は会議室が設けられている。〕

はじめに、「キカイヒメ」というこの馬、下の写真は今回の踏査にて生前の本馬を飼われていたご家族の方に許可を頂いて拝見させて頂くに至った大変貴重なものである。これは生前の最後の喜界馬を、人を乗せて撮影された最初で最後の一枚であり、写真を見るには喜界島民俗資料室を訪れて願い出るか、ご家族に見せて頂くか、この『うみねこ博物館』にてご覧頂くかの3択しか存在しえない。

〜最後の喜界馬〜
キカイヒメ

父 ???
母 ???
母父 ???

生年:1963年?
性別:牝
毛色:鹿毛
調教国:喜界島
生涯成績:???
備考:鞍上はこの馬の飼い主である故・栄元太郎氏。

喜界島は奄美諸島の北東部、奄美大島から東方約25kmに位置する島で、古くは鬼界・奇界などとも記された。低平な台地状の島で、周囲を珊瑚礁原に囲まれている。この島に、喜界馬は住み、草を食むでいたのである。その最後の1頭となったのが、本馬“キカイヒメ”である。実際にこの名前で呼ばれていた訳ではない。実際の所の名前は不明であり、喜界馬の牝馬であることから命名させて頂いた次第で、私が勝手にこう呼んでいるだけである。
喜界姫は牝の鹿毛馬で、平成2(1990)年にその生涯に幕を下ろした。26歳(旧馬齢表記)という天寿を全うした名馬は、いま喜界町公民館の剥製として島の行く末を見守っている。


▲〔最後の1頭となった喜界馬の剥製。与那国馬や野間馬といった在来馬より一回りから二回りは大きい。脚の周りの毛、顔の形状、そして額の星から判断するに重種や軽種といった様々な馬種の血を引いた混血種であると思われる。〕

  
▲〔正面からの一枚。在来馬オリジナルは星を持たない。この馬は混血種であったものと推察される。〕

喜界馬に関する記録や文献は少なく、馬の由来や経過などは明瞭・正確に判明しない。希少な当時を知る人々の回想録をよすがに、その素顔へと歩み寄っていくことにしよう。
剥製の説明文の序文は次のようにはじまる。
「喜界島と言えば馬、馬と言えば喜界島と言われる程その昔、馬の産地として有名であった」
果たして喜界島にいつの頃から馬がいたのだろうか。
最古の記録として残るものを紐解くと、1775年、実に安永の時代頃より飼養がなされていたようである。
その名声を満天下に示す要因となっているのが、この島の特殊性である。いまだに隆起し続ける隆起珊瑚の土壌はミネラルとカルシウムを多分に含まれた牧草を供給し続け、これを馬が食むことで骨が太く頑丈に育ち、肢蹄は他種の類例を見ないほど頑強に育まれた。喜界馬はそのほとんどが蹄鉄を打つ必要がなかったという。


 喜界島伝説の名手
  “志戸桶の喜美治

『喜界町誌』、竹内譲著『趣味の喜界島史』によれば、1746年11月21日、宗信公御家督継承につき、御祝儀のため翌年春、志戸桶の喜美治なる者が島民を代表して(鹿児島へ)上国した。ちょうどその折開催された藩の馬術大会で喜美治は他の藩士たちが持て余した駻馬を見事乗りこなして藩主の御感に入り、褒美としてその馬に鞍を置いたままいただいて帰島し、これを種馬として良馬の改良繁殖をはかった」とある。
志戸桶で愛育された、いわゆる「志戸桶馬」は戦前は島内で開催される、各種の馬匹品評会において、常に上位入賞を果し、戦時中には多くの優れた軍馬を移出したという。
さて、伝説の名手・喜美治だが、それはもう馬を手繰るに手馴れた名手であったという。これだけの名手が育つ為にはそれなりの環境が必要な訳で、1746年よりも遥か前から馬は喜界島におり、飼養されていたと考えるのが自然というものだろう。

少し、ここで時系列に沿って整理してみることとしたい。

 琉球・奄美馬事関連年表

1446年 文正元年  喜界島、琉球王朝軍に制圧される。

1477年 文明9年   済州島の漁夫、与那国島に漂着。「李朝実録」より。

1609年 慶長14年   薩摩軍の奄美・琉球侵攻

1747年 延喜4年   志戸桶の喜美治、新藩主より名馬を拝受。

1894年 明治27年   日清戦争

1897年 明治30年  喜界の馬、十数頭が宝島へ移送。

1901年 明治34年  馬匹去勢法発布。

1904年 明治37年  日露戦争

1906年 昭和39年  種牡馬検査法施行。

1936年 昭和11年  喜界島阿伝出身の民俗学者・岩倉市郎氏が喜界馬を撮影。
(岩倉氏の撮影した写真の馬はまだオリジナルの喜界馬と写像から推断できる。これ以降の写真では軽種、重種もチラホラ見られ、オリジナルが姿を消す。)

1937年 昭和12年  日中戦争

1939年 昭和14年  種牡馬統制法施行

1941年 昭和16年  太平洋戦争

1952年 昭和27年  トカラ列島本土復帰。

1953年 昭和28年  トカラ馬が天然記念物に指定される。

日本在来馬の一種、トカラ馬は、鹿児島県はトカラ列島に息づく在来品種の馬である。滔々と凪がるる黒潮が洗う七島灘は、海の恵みを授与してくれるが、海の難所でもある。厳しく過酷な自然に寄り添うように生きてきた人と馬たち。琉球文化と大和文化が交差するトカラ列島は、生物、民俗文化の宝庫であり、太古の昔から大海原を舞台に幾多もの交流を繰り返してきた、いわば「海上の道」であった。

  
▲〔船から降ろされる馬たち。馬匹改良の為、喜界島へやってきた新たな別種たちである〕

トカラ馬の存在が明かになったのが昭和27年のことで、宝島に飼われていた小型の馬たちが、当時の鹿児島大学農学部教授の故林田重幸博士らに発見され、“トカラ馬”と命名された。そのトカラ馬のベースとなった馬種が喜界島の喜界馬である。

時は流れ、移り変わってゆく…喜界馬は島で大切に愛育され、頭数も増えてゆき、農耕・物資の運搬に使われ、糞は貴重な肥料として珍重されたという。

         

明治の中頃までの喜界馬は、体格が小さく、長身の者が乗ると足が地面に届く程だったが、改良が重ねられると戦中には軍馬で名を馳せる程の馬種へと成長を遂げていた。


 喜界島における競馬の記録

「船と馬は並べば競う」奄美地方の諺だという。やはり、ここ喜界島においても競馬は行われていたようである。
賭けなどが行われていたかは定かではないが、馬場として使っていたのが現在の県道となっている所であるという。
3頭立て等で行われ、明治30年代には落馬して血だらけとなる重傷を負う記録(開スイさん談)も文献から読み取れた。
また闘馬も開催されており、こちらは小学校を会場にたびたび開催されていたが、大正6年頃、警察に中止を促され、以降公の舞台では開かれていないようである。

 
▲〔喜界島の眺望〕

その昔、農業で村役場へ勤めていた方の話によれば、「喜界馬は性格温厚、粗食に耐え、蹄も丈夫で評判だった。軍用の良馬は農耕馬の2倍の値が付き、祖父の代だが、その弟が分家する時、子馬を売って屋敷・畑を買った」という。
8kgもある旧早町村役場までの道は馬に乗って通い、医者の送迎も馬だった。自転車など無い時代。村長も馬で通った。馬での通勤は、自転車の普及する昭和34〜35年まで続いたという。当時はどの家も1、2頭の馬を飼育しており、馬は農耕と生活とを支える大切な働き手だった。
そんな喜界馬たちは、この小さく平坦な島で、どうしてそこまでの繁栄をみることができたのだろうか。その要因として考えられうるファクターを、元町役場経済課補佐畜産担当の森本一敏氏は次のように分析している。
「(喜界島が)琉球石灰岩、隆起珊瑚礁から成り立つため土にミネラル、カルシウム含量が多く、アルカリ性土壌で良質牧草生産ができたこと、冬でも温暖な気候で野草が利用できること、冬季はサトウキビの葉が飼料化でき、周年青草使用が可能なことなどがある」


▲〔島のほとんどの岩は人工物で無い限り石灰岩である。〕

馬の骨軟症がなく、骨が丈夫で蹄が固いことは、セリ市でも高く評価されたとのこと。
また、加藤啓雄町長は「沖縄県浦添市長が当町を訪問された際には、喜界馬に対する謝辞があった。昔、現金収入は馬だったから、喜界馬で仕事をして大学まで行かせてもらった、とのことでした」と、感慨深く語っている。

島には「保食神社」と呼ぶ信仰対象が21ヶ所ある。その多くは馬頭観音を祭ったものと云われる。馬が病気になった時、ここに連れてきて病気の快癒を祈祷したという。現在ではかつての人と馬との関わりに感謝し、人々と牛の無病・平安を祈る場となっている。



もの言わず、ただ瞳を澄ませるキカイヒメ。
いま彼女は何を想い、我々に語り掛けてくるのだろうか。
様々な血が掛け合わされ、島民の愛に抱かれた彼女の剥製は、琉球・奄美の歴史を物語り、そのまま“カタチ”となった喜界島の結晶のようなものである。いわば物言わぬ永遠の生き証人。

蔗の坂道に珊瑚の玉詞がそよぐ時、喜界馬の在りし日の残影がくっきりと浮かび上がる――…。
明日を信じる馬と人との慕情の詩が、そこには間違いなく存在していた…――。

   

馬民俗学研究探訪誌 * 08:30 * comments(0) * - *

チュラウインドメモリー・.°・゜.球美島馬探訪記・。.゜・。°

久米島…
かつて琉球の地にて沖縄の“粋”を集めたとされる犁緘の島瓠

その島で馬とともに夢をカタチにした人がいた――…

与那国島で久野マサテルさんとクーに出会ってから7年、波照間で馬へ一瞥してから6年越しの琉球邂逅で見つけた素敵な馬の物語――…・・・

 
   〜球美島馬探訪記〜

私が、こよなく愛する沖縄の地を最後に踏んだのは、2007年の初夏のことだったと思う。
しかし、それは私としてはかなり特異な、自愛の癒しを主眼とした、それは鷹揚たる「旅」だった。
厳密な意味での、馬を目的とした本来の私のフィールドワークでの来沖というのは、波照間島を訪れた2006年以来のことだろう。
ディープインパクトが凱旋門賞を狙い、世界へと上翔していった炎熱の8月。
それ以来の琉球探訪。偶然にも今年、ディープの息子キズナが父のベストパートナー武豊と共に同じく凱旋門賞へと参戦する。数奇な運命の潮流を心地よく感じながら、羽田へと向かう列車に乗り込んだ時には14時を回っていた。
やれやれ。こりゃ沖縄到着は夜だな…

実際には宝塚記念を観戦してからのフライトの予定だったのだが大幅に予定が狂ってしまった。
前日に東京競馬場で購入していた馬券が気にかかる時間帯…
ゴールドシップの凱歌に、またしても臍を噛む。あれほど天皇賞の前から宝塚は金船だと吹いて回ってきたのに…ホンとあの馬とは相性が最悪らしい。
蹌踉とした足取りでエスカレーターを上ってゆく。


▲〔ゆいれーる終着点より那覇空港を望む〕

白いゴールドシップが走る姿を見る度に古の残影が脳裏をよぎる――。
琉球競馬史上最強最高の名馬と謳われたヒコーキの存在である。

  
▲〔ヒコーキに角が生えてて、その角が馬の角だったら面白いのになぁ…何て思ったりもしました(笑)〕

今回のフィールドワークの目的は三つあった。
その内の一つがヒコーキの走った馬場跡の視察。
古波蔵馬場(こはぐらんまうぃー)がその聖地である。
深夜2時を回る頃、宿を飛び出し徒歩で楚辺近辺へと向かう。


溶暗と蕩ける宵闇の中、白い馬像が浮かび上がる。
幻想的にも思える光景。



馬像を見つめ、一人悠久の時を時間旅行…
かつてここをヒコーキが駆けていたのだ…。
そう思うだけで、何とも感慨深い物思いに耽ってしまう。
ガジュマルの樹の下、深閑と佇立する馬像に一礼し、ホテルへと踵を返した――。


▲〔古波蔵馬場跡地〕

二つ目の目的として久米島に伝わる「馬の角」の踏査。
かつて琉球の王が中国より譲り受けたという世にも珍しい馬角。
はたしてどんな代物なのか。ぜひ一度この目に収め、その正体を兼ねてより精査してみたかったのである。


久米島は沖縄本島から西に約100kmの位置に浮かぶ、小さな島。
「はての浜」と楽天のキャンプ地として有名である。

島へと降り立ち、早速聞き込みを試みる。
こういう時、沖縄の人たちは快く話しを聞いてくれるから素晴らしい。怪訝な表情などされず、こちらとしても話が進めやすい。
スーパーやましろのおばぁの話によれば、判明した「馬の角」の新情報は…

1.所有者は現在島を離れ那覇に暮らしている。

2.その所有者は沖縄本島で議員の仕事をしており、学生時代は同志社大にて競馬サークルを立ち上げていた。

3.管理者のおばぁが存命の頃はテープを使って「馬の角」の説明をしていた。



▲〔スーパーやましろ。おばぁは「いちゃりばちょーでー(うちなーぐちで“一度会えば皆兄弟”)」と言って缶コーヒーとゼブラパンをただで譲ってくださいました!ありがとぅ、おばぁ!〕

どうやら首里の王様から宝物を譲渡されるだけあって、相当立派な家柄のようだ。
またおばぁたちから興味深い話も耳にした。
かつて、久米島にも馬はいた。
各家庭一頭の馬が人と共に営みを送り、苦楽を共感しながら生きていた。
しかし、やがては機械化の波に飲まれ、馬は亡失していき、人々の記憶の中からもいまや忘失しようとしている。
与那国島や小浜島、本島や内地の至る所で行われていたような、草競馬。久米島にも例に漏れず存在していた。イーフビーチで馬を持ち寄り競走。決勝戦は仲里小学校前の直線馬場にて行っていたというのである。やましろのおばぁの家でも馬を飼っており、競走でも相当強かったらしいが、おばぁも名前までは覚えておらず、もしかしたら白い馬もいたかもしれないというのである。
もしかしたら…ヨドリ与那嶺のヒコーキも久米島へと遠征を試みていた可能性も…無きにしも非ずかもしれない。


▲〔仲里馬場跡地〕


そして、もう一つの来島目的は一年前に誕生したという久米馬牧場へと足を運ぶことだった。
焼け付くような久米島の夜。フツフツと明けてゆく宵空に、新たな出会いの鼓動が共鳴しているかのような、心落ち着かぬ夜だった。
久米馬牧場は2012年5月開場。
大阪出身の井上福太郎さんと東京出身の恵子さんらが、たった二人で島に残っていた2頭の馬とともに始めた。
かつて人と寄り添い、運命を共にした在来馬たち。
その存在は忘却の果てへ消失し、スポットライトはサラブレッドのみへと当てられる…
命を捧げ、共に暮らしてきたパートナーたちを私たちは余りにぞんざいに扱ってはいないか。
彼らへと向けられる世間の眼差しはあまりにも冷たい。
今一度原点へと立ち返り、彼等の尊さを見つめ直してほしい。

井上さんは快く『奇跡の名馬』を受け取ってくださり、貴重なお話をしてくださった。
日本在来の馬たちに抱く想いは、私と同じ。
早速の乗馬で、私はパートナーにシンノスケを選んだ。


大人しく賢いシンノスケ。
彼の背中から見えた海の景色は、これまで見た海の中で特別な絶景となって私の目に映った。
与論島の百合ヶ浜に匹敵するほどのキラメキを放つ紺碧のラグーンがそこにあった――。


〔お昼ごはんも同席させて頂き、最高に見晴らしのいい、場所で馬について語らいながら楽しい時間を過ごさせて頂きました。さらに…「馬の角の家」までご案内して頂き、久米島観光協会にまで問い合わせしてくださる寛大なご配慮!〕


「…そうですか。ありがとうございました」

「…やはり」

「えぇ、もうこの家にはないそうです」

「馬の角」は本島へと持っていかれていた。
果たしてどんなものなのか…そしてその正体は…今回をきっかけにさらに探究心は高まる。

   
▲〔果たして本物の一角獣はいるのだろうか〕

一角獣伝説を追いかけて、まだまだ調査続行していきたいと想いを固めた。



▲〔「馬の角の家」こと濱川家。立派な看板は立てども、ここに「馬の角」はもうない〕


  
▲〔与那国馬のムギちゃんと御崎馬マドカの仔の水を飲む微笑ましいツーショット。2頭はホンとの姉弟みたいに仲が良いんです。〕



青い空の下、島の風が吹く。
馬の背の上、私の胸に。

「馬って面白いですね、やっぱり。
一頭一頭にそれぞれの物語があって、馬がいなかったらこの子もいない訳で…」
赤ちゃんを抱いて話す恵子さんの瞳はとても綺麗に輝いていた。
馬と人とが織り成し、紡ぐ『絆』。それは未来へとつづいてゆく“夢”となり、その夢がまた人と人、馬と馬とを結ぶ『絆』となる。




シンノスケの鬣を揺らす海風とイーフビーチの漣と。
あの景色を未来に出会う子供たちにも、大切な人にも見せてあげたい。
久米馬牧場の発展と島の“かりゆし”を祈り、いつの日かの再会を約束し島を発った――



機内でまどろむ中、真っ赤になった腕にハッと気づいた。
肌はいつの間にかヒリヒリと焼けていた。
どこか気持ちいい、懐かしさ感じる痛みだった。

  

P.S 最後に島ガイドをして空港まで送ってくださったグッチさん、ありがとうございました!
   また競馬談義で盛り上がりましょう!


馬民俗学研究探訪誌 * 08:46 * comments(0) * - *

犖翼天翔のゴスペル


フランスへ届け――
この祈り。
このゴスペルコラム――…
オルフェーヴル凱旋門賞優勝祈願コラムです。


 馬聖地


私うみねこはこの夏、頂いた休暇を故郷の栃木で過ごしておりました。
そしてこの貴重な時間を使って訪れたのが那須郡那珂川町の馬頭という小さな山間の町落。
ここはその昔、名前の通り馬と関わりが深く、馬喰(ばくろう)たちの聖地と崇敬されていた土地なのです。

  
▲〔緑の部分が馬頭。2005年、那珂川を隔てて隣接する小川町と合併し、馬頭町は消滅。後には倏脇瓩箸いγ鰐召世韻残された〕

那須与一の伝説の影響を受け、この地は古くから馬を愛し、地に汗涙を流しながら、懸命なる思いのまま馬と人とが営みをおくってきた神聖なる土地なのです。


▲〔馬頭町を望む〕


   馬


 
馬を飼う家では、昭和15年頃まで、那須郡馬頭町の馬頭院に参拝して馬の安全を祈願した。
そして馬頭院から受けてきた御札を馬屋の柱に貼ったという。
馬頭院からの帰り道には、クマザサの束を買い、馬に与え労を労っていた。
馬を飼う者達は集会を開き、道を通る人に甘酒を振舞うなど、馬頭観音講を催していたという。
またある町では明治45年に設けられた勝善神の石碑があり、これを馬頭観音と呼び12月の不定日、甘酒を作り祭りを開いていた。この場所は馬の洗い場ともなっており、水田で働いてきた馬たちは夕暮れともなると集まり、1日の汚れを落としていた。



  
▲〔馬頭町入口に立つ馬像〕

実家を車で出てから県東へ走ること約2時間。
馬頭町へと到着しました。目的地は静神社。
オルフェーヴルの凱旋門賞勝利と、レースの無事を祈る為やってきたのです。

静神社は、昼間にも関わらず外界とは一線を画すかのような冷涼な空気に満ち溢れ、荘厳なムードに包まれていました。
神社の前には小学校。
まるで20年前の田舎の夏にタイムトラベルしたかのような、牧歌的光景。

   
▲〔神社の前に立つ馬頭小学校。昇降口手前の壁には馬の絵が〕

目眩もするような、切り立った長い長い階段のその先、蝉時雨の中たどり着いた馬頭静神社。

 
神々しい雰囲気に取り巻かれる境内。
二礼二拍手一礼で祈りを込めて手を合わせました。

 
▲〔神社の裏手に鎮座する人馬像〕

人と馬が寄り添い、信愛を酌み交わした古き良き時代の記憶はいつしか人々の心から消えてしまうのでしょうか――…
私は改めてこの地を踏んで静かに誓いました。
馬を愛し、馬と人の歩んできた歴譜を語り継いでゆくことを。

オルフェーヴルの凱旋門賞が、馬を愛する人たちの大きなターニングポイントになることを予感して、馬頭町へ踵を返しました。

  
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馬民俗学研究探訪誌 * 01:21 * comments(0) * - *

ゲットウ月桃追想録 〜白い木曽馬狎齋邁岫瓠


 ゲットウ
    月桃追想録

白い木曽馬
    


夜行列車、特急の「スノーモンキー」に駆け込んだ時、すでに辺りは夕闇に包まれ始めていた。
1月28日夕刻、私はかねてより猝鸞瓩里△辰芯耕遒陵Э預陲悗噺かっているのである。
車窓を流れてゆく景色に粉雪がちらつき始める。車内には地元の女子高生が彼氏の話で盛り上がっていたが、それ以外の乗客は皆口をつぐんで窓の雪を見つめていた。

 
信州中野駅に到着。待合室から眺望する雪景色は、北海道とはまた違う、高原ならではの情緒を醸し出している。携帯から友人へと到着の旨を知らせる。
「いま駅に向かうから、中で待ってて」
程なくして再会を果たした私たちは、懐かしさを噛み締めながらスーパーで飲み物を買い、友人宅へと向かった。
家では奥さんがキムチ鍋をこしらえて待ってくれているという。何ともありがたい。数年前に帯広の雪原での寒さも体感していた…その時以上に着込んではいる。それでも凍てつく冬の夜、身にしみる寒気を解き放つには暖かな食事と、人の温かな心が一番の特効薬である。

友人の赤ちゃんは、表現しようの無いほどに可愛くて、ほんとに天使のようだった。プレゼントした馬のぬいぐるみに喜色満面になった時、来て良かったと、心底からほっとできたような、そんな安堵感をじんわりと感知した。『奇跡の名馬』をプレゼントし、数年越しの約束も果たし、友人との会話、赤ちゃんとの団欒を楽しませてもらった。そんな素敵な時間が送れたことを、あらためて友人に感謝したい。

「明日は木曽へ行ってみようと思う。」

「木曽かぁ…いいんじゃない?」

そう、もう一つの目的は爛侫ールドワーク瓠D耕遒量攸消亙に生まれ育った木曽馬たちに会うのが、この旅のもう一遍の主題なのだ。

赤ちゃんと奥さんは静かな寝息を立て始めている。
どうやらナツカシトークも終了か…音も無くしんしんと降りつぐ雪の調べを子守唄に、私たちは布団をかぶった――

  


 木曽馬の里へ―――


▲〔木曽馬の里観光案内所の前に立つ親子馬の像〕

翌朝友人宅を出立し、長野駅へ。時はすでに12時を回っていた。
目的地である木曽福島駅を降り、地図を広げる。古い町並みを散策しながら木曽の空気を体一杯に浴びながら…と行きたい所だったが、時間が私にはなかった。駅前に停車していた小さな200円バスに乗り込み、町の狄渊饉辞瓩悗噺かう。

「図書館」でなく狄渊饉辞瓩箸いΔ里砲鰐がある。実は木曽町には図書館が無いのである。
本を通しての情報交換は、いまの時代だからこそ希求されること。若者の為にも、行政の前向きな姿勢展開がとられることを期待したいものだ。
地域住民の唯一の知蔵庫となっているのが「木曽福島保険センター」である。

  
▲〔写真右奥の白い建物が「健康保険センター」である〕

ここで私は意外な馬に邂逅をはたすこととなる。
深奥なる山々に囲まれた書肆に眠る古い文献と資料から獲た貴重な記録がこれである。


木曽における
   馬の飼育頭数


(明治9年に行われた実地調査による)

♂牡馬⇒757頭
♀牝馬⇒6,430頭

内、木曽馬の総本山にして名産地となっている開田高原の開田村では牝馬が特に抜きん出ており、1,244頭もの牝馬が飼養されていたらしい。
馬が家族同然、寝食も喜怒哀楽も共にし続けてきた木曽では、「夫より馬を大切に」とか「銀行に金を預けるくらいなら馬を飼え」との格言が多く色濃く残されているが、当時の馬市(馬を持ち寄り売り側と馬を買う側が取引する場。今で言うセリ市)の熱狂・狂騒ぶりを見ればそれも頷ける。

 
▲〔馬市の様子。上町にて〕

半夏生の頃、共に暮らしていた若駒(キソッコ)に別れを告げる農婦の写真が眼に焼きついて離れない。

 
▲〔上部写真の馬市の舞台となった上町のすぐ近く、橋を渡った場所に図書室はある。古の悠久の時へと遡る扉がそこにはある。ちなみに各バス停留所にも馬のデザインが。バスの名前も『木曽っ子号』。町民から名称を募り、これが選出されたという。この「上町」も馬市が盛んだったようである。〕



当時の馬主ベスト10なるものも発見できたので、ここに記しておきたい。


伝説の大馬主
フルハタマゴシチ


≪【馬主ベスト10】≫
※昭和26年調べ。

1位 古畑 孫七 
108(開田村)
コメント
古畑任三郎…とはもちろん関係ないが
直木賞作家で恩師でもある井出孫六先生の顔も脳裏を過ぎってしまった。
先生は長野出身。ひょっとすると…
さすがにそれはなさそうだが、この突き抜けたダントツの1位は半端ではない。
余程力を持った大馬主だったに違いない。
幽邃深くとんでもないホースマンがいたものである。

2位 黒田 三郎
67頭
(新開村)

3位 原 義亮
60頭
(新開村)

4位 島尻 勇吉 51頭(玉滝村)

5位 大島 武雄 44頭(三岳村)

(『木曽の庶民生活』生駒勘七著より)


  
今回の写真・
  イラスト提供・協力
    参考文献ほか

うみねこ、秋山由美子、広報かいだ、キソッコ55号さん、美空
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馬民俗学研究探訪誌 * 19:57 * comments(0) * - *

伝説の帝都献上神馬『余目(あまるめ)』 〜庄内競馬追想録〜

伝説帝都献上神馬
   『余目(あまるめ)』
  〜庄内競馬追想録

どこまでも渺茫と広がり続ける田畑と用水路…
ここは日本有数の稲所、庄内平野である。

今回のフィールドワークは、日本人の力の源である猜騰瓠△海量昌挫呂舞台である。
急遽の調査地変更も、有数の温泉で疲れを落とすことが出来、貴重な出会いにも恵まれた。
それはそれで幸運とも言えようが、どうも秋のフィールドワークは、ついていない。天運に見放されているようだ。行く先々で台風のうれ憂き目にあっている。日頃の行いのせいなのか、それはさて置き、本題へと推移してゆこう。

稲穂が垂れる秋の平野が、遠い母郷の記憶を呼び覚ます。
この長閑に澄み渡る大地を背景に、馬たちが活躍した時代が間違いなくここにはあった。
そのはずなのである。馬の力なくして、庄内の名米誕生はありえなかったと言っても過言ではない。


▲〔町立図書館の庭先風景〕

私がまず足を向けたのが町立図書館。
町の歴史・郷土史を語れる古老の声に傾聴するならば、こうしたアーカイヴ・書肆をフルに活用したい。郷土資料の貸し出しを係りの方に申し出、古い文献を読み漁ること小一時間…やはりこの地にはかつて馬の楽園があった。
そして、馬と人とが寄り添い合い、競馬も開催されていたことが判明したのである。


乾田馬耕紐解きから
  
明治初頭、山形の水田は一年を通し水を入れておく湿田であった。
この状態にある田圃は耕すのが容易ではなく、その上に酸素も不足し、そればかりか肥料の分解も遅々として進まない、二束三文な土地でしかなかった。このため、冷夏・多雨の年にはコロリと凶作となり、度々農民たちは困窮に喘ぐこととなっていた。
この悪況の打開策として農商務省は明治15年、ドイツの農芸化学者であるマックス・フェスカに日本各地の巡視を打診。日本農業の欠陥を模索し、改善対策を入念に練り上げる決意を固めた訳である。フェスカの指摘した点は的を射たもので、まず耕転が浅いということ、そしてもう一点が排水の必要性を上げ、犂ヅ椎蝋稔瓩料甬泙壁要性を訴えた。
これにより、全国から結集した老農たちが議論を重ね、その結果、乾田馬耕の推奨を県へと続けていくことで一致した。
それが結実したのが明治16年のことで、県の勧業課が県費3,000円余を拠出。
北海道より馬耕教師2名、千葉県からも同じく2名、招聘。肝心要の主役である馬は、千葉から輸送し、導入するに至った。すなわち、山形農耕馬の原点は千葉の馬ということになる。

馬たちの活躍は目覚しく、その効率性の格段の違いに、山形の民たちは舌を巻いた。
明治18年5月には、山形千歳園内に馬耕伝習所が設けられ、伝習志願者を募る動きもあった。
ところが、当地の農家はもとより、多くの農村において各戸の資力は雀の波度ほどに乏しいもので、その為普及率・浸透率は非常に低いものだった。これに奮い立ったのが地主たち。試験田を設け、いかに乾田馬耕が絶大な効果をもたらす物か、地元民たちにまざまざと見せ付けることでモチベーションを向上させ、その上で小作人に五人組組織をつくり、馬の購入資金を貸し付けるよう伝道に尽力した。この結果、明治末期には現在の庄内平野に見られる水田地帯が完成されるに至ったという流れである。

  

馬耕作業はもっぱら成年男性の仕事であったが、第二次大戦中の昭和19年には、女子対象の牛馬耕伝習会も催された。おそらく戦時中は馬を女性が駆り、田を耕した時もあったことだろう。


  ◆庄内競馬

さて、馬の導入に至る経緯は既述の通り。では馬たちは馬耕のみに一生涯を尽くしたのかと言えば、決してそうではない。乗用としてはもちろん、当時娯楽の少なかった時代には、競走馬として古民たちと憩いの時を過ごした。庄内町での競馬は以下のエリアで開催された記録がある。

鶴岡市・菅原の土手
備考:城下町である鶴岡その土手を用いての競馬。
直線数百mで開催されていたかもしれない。


羽黒・郷の浜
備考:羽黒は山伏の修行や松尾芭蕉の一句で有名な地。かのような山奥で競馬とは…。

湯の浜・七窪
備考:山形有数の天然温泉が沸き起こる土地。
七窪と言うなら、砂浜を使っての競馬だったのかもしれない。


最上川河川敷
備考:庄内地域の母なる大河、「最上川」。
夕暮れ時の競馬であったならば、夕日に輝く清流が、
さぞかし絶景であったに違いない。



これらの競馬開催の中心人物が、菅原喜平、本間一郎、そして斎藤伝次郎の三人で、彼らは庄内競馬の三羽烏とまで言われていた競馬好きだった。
中でも、その中枢主軸となり、生涯を通して馬を愛し続けた斎藤伝次郎氏、古の幻のホースマンを紹介しよう。


 ◆斎藤 伝次郎

1889年6月、農家の長男として生まれた伝次郎は将来有望な青年と、(庄内町)栄村村長から白羽の矢を当てられ、稲作技術と稲の改良品種の指導を職務とした。
昭和18年には村長へ就任、戦争終了とともに公職を去ると、その情熱のすべてを馬に捧げた。
馬の話が大好きで、一旦話し出すと真夜中の3時4時まで延々と話が続いたという。また馬好きな婿が盆や正月にやってくると、庭に馬を出しながら眺め、馬の話で盛り上がり、他の人が宴席に加われず困り果てたこともあったらしい。
農耕馬が大車輪の活躍をしていたこの時代、伝次郎は飼うだけに飽き足らず、競馬開催を挙行してしまう。恐るべき馬への熱情である。また馬の水墨画も残しており、絵画のみならず達筆かつ弁舌も優れていたという。土地改良地区理事長や町議会議員にも当選し、人生最後のそのひまで、社会奉仕に力を注いだ。昭和42年(1967年)10月12日、永眠。その驚嘆に値する指導力と行動力の源であるエナジーの根底にあるのは、馬へと漲る熱き想いがあったからではなかろうか。
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馬民俗学研究探訪誌 * 05:58 * - * - *

蜜柑の唄・潮騒のメロディ

 【蜜柑
  潮騒メロディ


風と波、島影が連なりて風光明媚な空間を織り成す瀬戸内海。
この多島美を背景に映える愛媛県・今治市。
この地には古来より農家が大切に愛育してきた、日本在来の小さな小さな馬たちの楽園があった。

「野間馬」

日本在来馬八種の中でも、一番体高が低くぢんまりとした詰まった馬体が特徴のこの馬は、粗食でまた頑強であり、蹄鉄がなくとも70kg以上の重量を駄載することのできるといった特徴を着目され、山間部や丘陵地の農耕・作物の運搬に重宝された。
いわば山に生きる民たちの伴侶のような存在だった彼らの歴蹄と発祥をなぞるとともに、愛媛の馬文化について触れていきたいと思う。

まず、野間馬の起源について見ていこう。
遡及するとかなり古く、そのルーツは対州馬・トカラ馬・宮古馬・与那国馬といった別種の在来馬ともリンクしてくることが、すでに研究調査の対比にて明らかになっている。また四国地方に古くから飼養されていた土佐駒・越智駒といった馬格の小さな馬種の末裔とも言われている他、縄文後期の遺跡から発掘された馬骨の解析では非常に野間馬に酷似しているという結果が出たことを受けて、太古の四国より息づいてきたことが推測される。
しかし、日本一小柄な体型が形成されたのはどのような経緯をたどったためなのか。
この謎を解く鍵は、来島海峡に浮かぶ「馬島」にあった。



▲【馬島】
実際島へと渡り散策したが、馬のいた気配は一切感じられなかった(今は一頭も島に馬はいない)。


1635年(寛永12年)、松山城藩主の久松定行公が、今治城主久松定房公に命じ、軍馬の放牧場を作らせた。その島が「馬島」であったという訳である。実は馬島以外にもこうした島は存在していたようで、貞観十八年(876年)の記録には忽那島という島には毎年馬4頭、牛2頭を納めていたが、頭数が増えすぎたことで家畜の飼料がなくなり、苗や麦を食い荒らされる事態にまで陥ったらしい。一方の馬島でも、馬たちは飼料不足喘ぎ、さらには追い討ちをかけるように疾病にまで蝕まれ、軍馬養成は遅遅として進まなかった。
そこで藩は松山領の乃間郷(のまごおり)一帯の農家に馬を委託し、増頭させるよう支持を出した。
これが成功の切っ掛けとなった。当時の規定である体高四尺(121Cm)を超える馬は報奨金を渡し買い上げ、それ以下の小さな馬は農家へ払い下げるというシステムが確立されていったのである。
これにより、農夫たちの袂へと残された馬たちが交配を繰り返され、より小さな、現代の野間馬を形作っていったのであった。

 
▲「乃間馬」
〔蜜柑やヤマモモといった柑橘類を運搬していた力持ちの野間馬たち(この貴重な写真は、とある農家の方から提供して頂きました)〕

しかし、明治18・30年と二度に渡る種牡馬検査法の制定を受け、産馬改良の方針に反れる小型馬である野間馬の繁殖は禁じられ、さらには農耕の機械化、自動車の普及がこの波に拍車を掛け、野間馬たちは減少の道を歩まざるを得なくなる。
第二次大戦後、風前の灯火となっていた野間馬たちに救いの光が差し始める。
偉大な二人の偉人の登場である。
長岡悟氏と新開豊氏の二人である。長岡氏は大の馬好きで、自分で飼養していた野間馬4頭を今治へと寄贈。これに奮起、胸打たれ立ち上がった人々は野間馬保存会を立ち上げ、地域一丸となって野間馬を育て紡いでいくことを決起。その中心となったのが新開夫婦であり、お二方の血の滲むような努力が結実し、野間馬たちは“生きる文化遺産・ふるさとの宝”として、絶滅を逃れ、現世を生きている。現在、野間馬たちは郊外の丘陵地に佇む『野間馬ハイランドパーク』(1989年開園)にて静かに暮らしている。

産業上の使命はすでに果たしたかもしれない。しかし、その存在価値は昔年とはなんら変わらない――…いや、こんな心の荒んだ悲哀あふれる現代だからこそ、その価値はより絶大なものだと確信できる。命を命とも思わぬ悪が跋扈するこの時世。
近交係数の高まり(近親交配の度合を示す一種の数値のようなもの)など懸念もある。
しかし、どんなハードルも越えてゆくだろう。彼らを愛する心を忘れぬ限り…。
子供たちに笑顔と、やさしさを与える奇跡のパートナー。
貴方の街にも届いてほしい…
野間馬たちのいななきが、蜜柑畑を流れてゆく潮風のメロディに乗って―――。

                                     

※今回の写真は上記野間馬のもの以外はすべて、うみねこ撮影のものです。
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馬民俗学研究探訪誌 * 22:57 * - * - *

マーマレードスカイ  〜稚内競馬場跡探訪記〜

 マーマレードスカイ
稚内競馬探訪記
 

日本最北端の夕陽を前に感嘆と感激の溜息がもれ、私はしばしその夕景に我を忘れた。仕事のことも、煩わしい悩みや鬱積たる人間関係もすべて私の心から霧散していった。
水鏡のように澄徹とし、凪いだ浅瀬がマーマレードに染まってゆく…沈みかけた太陽の斜陽はやけに眩しく、波一つない海浜は日本の北海とは思えぬ、別世界へと誘われていった。
この南国の海をも想起想念させる奇跡の夕刻に、のめり込み、ただただ甘眠にも似た時間に酔い痴れる。はるか彼方、おぼろげに映える樺太が視界に入った瞬間(とき)、やはり、ここは日本の最北端なのだ…と我に返る私がいた。

「ところで、運転手さんは昔、稚内に競馬場があったことをご存知ですか?」

「競馬場?知らないねぇ…。
昔あったんですか?」

「ええ。昭和初期には姿を消してしまったんですがね…。あったんですよ」

気さくで温厚なタクシー運転手へ何気なく振った競馬場跡の話。しかし、現地住民からは競馬はおろか、馬の臭いさえが消散しきっていた。
そう、人々の記憶からは、悲しいかな稚内競馬場の面影は完全に消失してしまっていたのである。

 
〔現在競馬場跡地は見る影もなく、区画整理された住宅地が広がっていた〕

向かう先はかつて競馬場があったと言われる土地、栄2丁目。
今はその往年の勇姿を偲ぶことすらできない、清閑な街並みへと姿を変えていた。
街の外れ、かつて競馬場の東を流れていたというウエンナイ川が当時の残影を乗せたままゆっくりと流れている。

 
 〔ウエンナイ川〕

私の心は少しずつ、過去へとタイムスリップを始めていた。
かつて、この長閑な競馬場でどんな馬や騎手が競い合っていたのだろうか…。
渦巻くに古の時間へと追憶を重ねつつ、私は図書館へと足を向け、競馬場跡地に別れを告げた。


1980年代。爛丱屮覘瓩噺世錣譴振戸陲了代があった。現世からはとても想像できない程のカネが溢れ返り、人々はその金海に溺れ、つぎつぎと高層ビルやら資料館といった箱物を乱立させていった。後々、この国の重鎮たちの首を絞め、税金のムダ使いと呼ばれるそうした建造物たちだが、アーカイヴスの役割を十二分に発揮し、あらゆる天災・災禍から過去の記録を護り収めてくれているこれらの施設は、多くの研究者にとってはこれ以上なくありがたい「宝物庫」なのだ。

この町にも市立図書館がある。きっと稚内の畜産史についての資料・文献も残されているはず――。
「稚内郷土資料」と明示された書架に並んだ一冊から
『稚内百年史 畜産開拓篇』なる文献が私の目に留まった。思うが侭、その小冊子を手に取ってみると、微々たる力でも加わればバラバラに散ってしまいそうなほどに、年季の入った代物であることがすぐさま感じ取れた。
私にとって、その資料は目から鱗の、珠玉の一冊となった。

この古文書によれば、蝦夷地へと牛馬が姿を現したのは、1682年(貞享元年)のことで、白神海岸へと漂着した倏魑蹲瓩覆詛呂初となる目撃例であるという。
1719年(享保4年)になると、幕府の命を受けた松前藩が上国産の馬2頭を献上した―…とあり、すでにこの時代には馬が蝦夷に飼養されていたことが推析できる。稚内宗谷地方へ初めて馬が配備されたのは1807年(文化4年)と記されているが、当時の稚内ではロシア人の暴行やロシア艦の焼討ちが多発した暗黒時代であり、つまりは、これらの鎮圧に当たるための藩兵らの巡視が強化されていた年と重なる。それだけに乗用としての馬が必要とされたことは想像に難くない。

さて、それではこの地に競馬が芽吹いたのはいつのことだったのだろうか。精読を進めていくうちに、稚内競馬場以前に、もう一つ競馬場が立てられていたことが分かった。
それが、稚内北遊園地競馬場である。
この競馬場は、現在の稚内中学校の敷地一帯にあったとされる幻の競馬場で、明治36年に布施菊蔵、西野茂吉、石戸谷才助、石山富太郎、中町熊大などが中心となって創設。初開催となったのが7月15日で、「祭典臨時競馬」なる名目で開催された。

この時代における競馬は、多くの畜産家たちが自慢の愛馬を持ち寄り、競走させるレクリエーション的意味合いが強い内容の場となっていたようで、騎手は各馬主が騎手となることを義務付けられていた。
明治末期から大正時代になると、稚内における競馬熱は空前のものとなり、この頃からなのか、騎手も馬主とは別に現れ、特に若手騎手が大変な人気を博していたという。中でも大正初期の目時市三郎は稀代の名手であったと伝えられている。

名馬を何頭か紹介しよう。乗用馬の東雲号とアメリカントロッター種のニューゲット号から生まれたライデン(来伝)号は大変な名声を馳せるに至った競走馬であったという。また種牡馬として活躍したアングロアラブ種のアツクラマーは、稚内から横浜へと売却され、この地にて速歩の日本記録(当時の物で距離は不明)で優勝した名馬である。そして古の稚内競馬最強馬“花園”も忘れてはなるまい。
この稚内地方で生産された馬は『宗谷馬』と呼ばれ、この種の繁栄に多大な影響をもたらしたのが「花車」、「華山」、「瑞海」の三大種牡馬であったという。

 
〔第六瑞海:ペルシェロン種の青毛馬で、宗谷地方屈指の馬産改良の功労馬であった〕

稚内北遊園地競馬場が担うべき、真の命題は、国防上・畜産上における馬匹奨励のための、地方住民が馬へと寄せる期待と親愛感の煽情効果を狙っての政(まつりごと)であった。
その思惑は想像以上の成果をもたらし、この頃、競馬となると老若男女は皆一帳羅を着飾って町へと繰り出し、御馳走持参での大きな愉しみの一つであったという。
1923年(大正12年)、競馬場が学校敷地となることが決定され、遊園地競馬場は悠久の時へとその身を委ねる運命となった。しかし、数年後には北遊園地競馬場の南、栄の地に新たなる競馬場が誕生し、新たなる歴史を刻んでゆくこととなる。

今はもう馬の縁(よすが)さえ感知できない、最北端の町並を見つめ、冷たい秋風が吹いている。
まるで冬の足音がそぐそばまで迫っているかのようにまで感じる差し迫った寒気は、気候のせいだけではないのかもしれなかった。

 
〔日本最北端の駅である稚内駅の一番端。つまり日本の線路の一番端っこということになる〕

夕刻、宵闇が辺りを包み始める頃、図書館を後に宿へと踵を返した――。
露天風呂から望む北の街。夜の帳を背景にどこからか馬のいななきが…心の中聞こえてくる――…言いようのない侘しさに駆られる最北端の一夜。夜明けまで、まだ6時間以上の時間があった。

横になり、目を瞑ると北の果ての夕焼けが心に浮かんできた。目の前に広がるマーマレードに染まった別世界の夕凪…とても言葉に出来ない至福の夕景と、古の遊園地競馬場とがどこか重なって見えて来るころ、いつの間にや朝焼けが窓から差込み、一日の始まりをそっと知らせてくれていた―――。


 
 ≪最北端のモニュメント≫
(全写真:うみねこ)
10月6日〜9日まで、北海道は稚内のフィールドワークに出掛けておりました。
その際に発見した資料・文献を手に、筆を執った次第。
台風接近も忘れ、調査にのめりこんでしまいました(笑)。

馬民俗学研究探訪誌 * 06:10 * comments(0) * - *

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