伯楽仙人列伝(伝説の調教師・生産者・馬主・評論家その他関係者)


伯楽仙人列伝
 〜世界の伝説的調教師・
     生産者・馬主・評論家たち〜


がついた人物はうみねこが実際に面識ある人物です。


フェデリコ・テシオ


(1869年1月17日 - 1954年5月1日)
テシオはイタリアの馬産家であり、馬主兼調教師。
当時、競馬が始まったばかりのイタリアで、しかも年間10数頭程度の生産馬からリボー、ネアルコ等の世界的名馬を輩出した伝説的ホースマン。
そのあまりの異才から「ドルメロの魔術師」と呼ばれた。
幼少の頃に両親を亡くし、モンカリエリで13年間学んだ後、騎兵隊に入隊。最終的には少尉として軍役を終えると、その後両親の遺産を受け継いだテシオは、ギャンブル三昧の日々の中、絵を描いたり、アマチュア騎手をしたりと放蕩生活を送り、世界中を回って馬への研究に勤しんだ。日本にも訪れている。
しかし、リディア・ディ・セラマッツアナとの結婚が転機となり、テシオは29歳になって、1898年ミラノ北部マジョレ湖の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開くこととなった。
テシオの調教師人生のスタートであり、伝説の始まりであった。
テシオは、その後自信の血統理論に基づいて、数々の名馬を生産しヨーロッパの競馬界で一時代を築くが、唯一のライバルにデル・モンテル氏がいた。モンテル氏は豊富な資金力を背景に、各国から良血馬を次々に導入し、獲得賞金ベースではテシオを上回っていた。さらには1929年には、テシオに先んじてオルテッロで凱旋門賞を制覇。
これに触発されたテシオは、インチサ・ロケッタ氏のオルジアタ牧場と提携し、自身の牧場規模を拡大。その後生産されたのがドナテッロやネアルコ達である。

テシオの血統理論はかなり複雑で、著書「サラブレッドの生産」にまとめられている。
その内の一つが英オークス&ダービーを勝ったシニョリネッタに準えた恋愛配合理論。
「貴婦人の繁殖牝馬と失業中のうらぶれた種牡馬が路上で恋に落ち、そこから英ダービー馬が生まれた」というエピソードに興味を持ったのである。
そして過去の名馬の血統を丹念に調べ上げ、分析し、「最良の組み合わせが、いつも最良の結果をもたらすとは限らない。血統の相性は確かにある」という結論に達した。
種付け時の馬同士の興奮の度合いが、遺伝力を喚起するエネルギーになるのではないか。テシオはまじめにそう考えたりもした。つまり人間でいうなら夫婦が子づくりのとき、互いがどれだけ興奮し、感じたかによって、生まれてくる子の出来の良し悪しが決まると考えたのだった。
また世界中のあらゆる名馬の誕生日にまで注目。その同日へ生まれるよう配慮して配合したという逸話も残されている。

他の大馬産家とは違って、自身が生産した名馬はあまり自分では使わず、常に新しい血を求めていた。
というのは、各繁殖牝馬に対していろいろな種牡馬があった方が良い、と信じているからだ。だが彼が選択した外国種牡馬へ種付けさせるために自分の牝馬を輸送させるのが不可能であった時代には自身の生産した最良の3頭の種牡馬、すなわちニッコロデラルカ、ベリーニ、トルビードをドルメロに置き、大部分の牝馬に数年間に渡って配合した。

有名なイタリアの競馬評論家であるフランコ・ヴァローラが残した「馬と猟犬」という記事から引用すると、

「テシオは自分の馬をいつも監督することによって競走馬が成功する機会を著しく増やすことができる、ということを実現して見せたイタリアにおける唯一のホースマンであった。最も進歩した競馬先進国においてさえも、これをテシオと同程度にできていた人がいたか、私は疑問に思っている。」

「テシオがミラノの調教施設とマジョーレ湖畔の牧場との間を掛け持ちで働き、毎日早朝から夕方まで忙しく過ごした時間は膨大なものだ。ほとんど誰からの手助けもなしにテシオは働いた。テシオから直接命令を受ける騎手は別にして、調教師、厩舎の番頭といった人物が彼の傍にいたことはなかった。
 

テシオの手がけた14戦全勝の名馬ネアルコはリボーの出現により現代における競馬ファンの評価は少し低いものがあるが、以下のエピソードを耳にすれば、もしかしたらこの馬は…と思うかもしれない。
ネアルコの勝つパリ大賞典(当時最高のレース)の前哨戦の話である。
このトライアル戦は歴史上有名なザテトラークやセントサイモンのものと同等と捉えておくべきである。

ネアルコはイタリアの2歳路線を次々と制し、3歳にはイタリアダービーに勝った。これらの成功に満足せず、テシオはネアルコが3000mをこなせるのか、という若干の疑問を抱いた。そこでミラノのサン・シーロ競馬場でその距離を走らせてみることにした。

テシオはネアルコの相手馬として、3歳馬ウルソーネとビストールフィという2頭の一流馬を選んだ。
ウルソーネは3000m戦に9回出走し、7勝2連対だった。一方ビストールフィはスプリンターだったが、1500mではイタリア最強だった。斤量はネアルコとビストールフィは119ポンド(54kg)、ウルソーネは108ポンド(49.4kg)だった。そこで何と、ビストールフィには途中1400m過ぎからネアルコとウルソーネに併走させる変則レースを行ったのである。

ネアルコが3000mのベテランであるウルソーネよりも11ポンドも重いのだから、ウルソーネを負かすのはありえないことだと思えた。
さらにビストールフィの最も得意な距離を先に1400m走って尚、ビストールフィを負かすなんて全くの空想ごとに過ぎないと思っていた。
しかし、着順は次のとおりである。
 

1着 ネアルコ 楽勝
2着 ビストールフィ
3着 ウルソーネ 大差


この面白い離れ業をやってのけた後、ネアルコはミラノ大賞典に楽勝し、2日後にパリに向けて出発した。
ビストールフィはパリ大賞典の日、ちょうど前のレースである1850mのイスパーン賞に出走した。フランスの最良馬が相手であったが、オッズ8対1で楽勝した。
さて、テシオが先のトライアル戦が十分に意味があったことを示したのはこのパリ大賞典である。騎手のベルグリーニが手綱を解き放つとネアルコが発射された弾丸のように飛んでいくのを見た。イタリアダービーの勝ち馬がその年の英国ダービー馬とフランスダービー馬を破ったのだ。

私はネアルコの先のトライアル戦を真に偉大な馬への賛辞ばかりでなく、テシオが無茶なことをさせたのではない、と記すために、テシオの誠実さゆえにここに紹介することにした。テシオの誠実さが報いられ到底不可能と思われたことが実現したことについて、彼の正確な判断力について、賛辞を呈しなければいけないと思ったからだ。

1911年から1953年まで自国のダービーを20勝したという永久不滅の世界記録を残し、数々の伝説を残した偉大なる魔術師は、史上最強級のサラブレッド・リボーの走りを見届けることなくこの世を去った。
1992年に閉鎖されたドルメロ牧場と凋落の中にあるイタリア競馬。テシオはいま母国の競馬をどんな眼差しで見つめているのだろうか。
 


ダービー卿


(ダービー家の紋章)
競馬界で最も世界で名の知れたダービー卿は、第12代伯。ランカスター公領大臣を務めたが、専ら競馬の世界で有名である。特にオークスやダービーを創設したことで知られ、前者をブリジット(Bridget)およびハーマイオニ(Hermione)によって二度、後者をサーピーターティーズルによって一度、それぞれ勝利した。
現在は第19代のダービー卿が小規模ながら競走馬の生産者・馬主として活動しており、生産所有馬ウィジャボードは2004年、曾祖父のサンストリーム以来59年ぶりにオークスを制した。2005年、2006年のジャパンカップでは、19代伯がウィジャボードと共に来日している。現在19代伯の息子のエドワードが法定推定相続人となっている。



大岡賢一郎

1973年生まれ。明治大学大学院文学研究科博士前期課程修了。競馬史家。
戦前の日本競馬史及び南米競馬史に通じ、「週刊競馬ブック」や「月刊サラブレ」などに寄稿。
現在は大正期の公認競馬の成績整理を進めている一方で、散逸した19世紀のウルグアイ競馬の成績記録の復元やマローニャス競馬場(ウルグアイ)の競馬史サイトの立ち上げに協力している。
共著に「海外競馬完全読本」(東邦出版)。
2010年に『奇跡の名馬』をうみねこから依頼を受け南米馬の執筆に協力。
世界一の南米競馬の権威としても知られ、度々南米の大レースにてプレゼンターを務めておられるようである。



マルセル・ブサック


Marcel Boussac、1889年4月17日 - 1980年3月21日)は、フランスの実業家。サラブレッド競走馬の生産者および馬主としても知られる。繊維業および競走馬生産者として成功するが、晩年に没落した。

1889年4月17日にフランスのシャトールーで生まれる。1906年に高校を卒業した直後に家業であった繊維業を継ぎ、持前の才覚で大きく発展させた。第一次世界大戦では軍需に、戦後は民需に応えて「繊維王(le Roi du Coton)」と呼ばれる大富豪となり、様々な分野でパトロンとしても活動を始める。 1946年にクリスチャン・ディオールと出会い、独立したばかりの彼を援助してオートクチュールのメゾンを設立、大成功を収めさせた。この成功もあって、当時ブサックはフランスで最大の資産を誇るに至った。最盛期には繊維業のほか、『ラウロール(L'Aurore)』紙を発行する新聞社、銀行、家電メーカーなども保有していた。1914年に馬主となり、1919年にフレズネイ=ル=ビュファール牧場を所有してサラブレッド競走馬の生産を開始した。後にはテディの生産者エドモン・ブランから購入したジャルディ牧場を加え、大規模な二元生産を行った。 ハーマン・デュリエの未亡人からデュルバンやデュルゼッタを、ロスチャイルド家フランス当主の従弟にあたるモーリス・ド・ロトシルト男爵からザリバやアステリューを購入して生産基盤とすると、ブサックの馬主活動は早くから軌道に乗った。アステリューに加えて、トウルビヨン、ファリス、ジェベルという3頭の自家生産馬が種牡馬としても成功、さらに自家生産馬同士の配合から生まれた競走馬が大競走を席巻した。
彼の所有馬はジョッケクルブ賞(フランスダービー)を12回、凱旋門賞を6回優勝し、仏英両国のクラシック競走をひとつ残らず勝つなど、主にフランス・イギリスで約1800の勝利を挙げ、フランスのリーディングに馬主として14回、生産者として17回輝いた。また、1950年と1951年には英愛でも馬主・生産者リーディングとなっている。

1933年から奨励協会(フランスギャロの前身)の委員に選ばれ、1949年における凱旋門賞への高額賞金設定や前夜晩餐会の発足を主導。各国から一流馬を招致するなど、現在に至る世界最高峰の競走としての地位を整備するにあたっても力を尽くした。そして1959年12月8日にはジョッキークラブの一員以外では初めて会長に選ばれ、1974年12月12日までの15年間その座に就いていた。就任中の1962年から1969年には凱旋門賞を開催するロンシャン競馬場が増改修されている。
ブサックの生産馬には、コロナティオンなど強いインブリードが試みられたものが多いと言われるが、実際にはそれと同程度に、強いアウトブリードを施された生産馬も多い。ブサックの取った独特の手法は遺伝学者から批判の対象となったこともあり、ブサック自身はそれに対して「それでは具体的にどうすべきか説明してくれ。君たちはニックスをどう説明するのだ。」と反論している。
ブサックは自らの4大種牡馬が亡くなると、アメリカのカルメットファームに種牡馬を求め、三冠馬ワーラウェイや、ファーヴェント、コールタウン、アイアンリージを輸入したが、これらはすべて失敗に終わった。またデュルゼッタなどの母である名牝フリゼットの購入にも当たっているが、購入時にはすでに高齢で、こちらも結果は出なかった。
晩年は本業であった繊維業が経営不振に陥り、1978年に破産、それから2年後の1980年にブサックは没した。



ピエール・ロリラード

(1833年〜1901年)
19世紀末、ニュージャージー州のランコカス牧場を拠点に、弟ジョージ・ロリラード(1843年〜1886年)とともに米東海岸のビッグレースの数々を制覇。
最大の勲章は米国産馬史上初の英ダービー制覇。持ち馬の Iroquois(1878年生)が成し遂げた。同馬はほかに、英セントレジャー、プリンスオブウェールズS、セントジェームズパレスSなど、イギリスにおける多くのビッグレースを制し、引退後は1892年に米リーディングサイアーに輝いた。
ピエール・ロリラードが生産したアメリカ馬の血がやがてヨーロッパで芽吹き、ジャージーアクト(イギリス生産界からアメリカ馬を締め出した悪名高い規則)撤廃の大きな後押しとなった Tourbillon や Nearco を生み出した。生産界に及ぼした影響は計り知れないものがある。



モハメド殿下


1949年 ドバイ生まれ
06年1月、マクツーム家の三男、長兄マクツーム殿下の死去により、ドバイ首長となる。と同時にドバイを含むUAE(アラブ首長国連邦) の副大統領兼首相に就任。71年に22歳の若さでUAE初代国防大臣となりまず、英国で馬主となったのが77年。馬主名義 が「ゴドルフィン」。その名は3大始祖の1頭ゴドルフィンアラビアンにちなむ。彼はスタートからわずか10年目の2003年に G100勝を達成する。冬場を温暖なドバイで調教する方式を確立する。ダルハムホールスタッドなど英、愛、米に4つの牧 場を所有している大馬主である。
◆米国首位馬主:9回
◆主な管理馬
ドバイミレニアム、ラムタラ、 サキー、 オペラハウス、 デイラミ、 ファンタスティックライト、 シングスピール、スラマニ、 シャマーダル、 エレクトロキューショニスト など他多数



ヴィンセント・オブライエン

1917年4月9日 アイルランド生まれ
アイルランドの元調教師。英ダービー6勝など、数々のレースを制した。2003年には、英レーシング・ポスト紙のRacing Great 100で1位に選出され、 競馬界において最も偉大な調教師の一人である。英ダービー馬セクレトの調教師だったデイヴィッド・オブライエンは実の息子。彼のキャリアのス タートは障害競走の調教師として頭角を表す。グランドナショナルを3度勝ち、さらにコテージレーク(Cottage Rake)という馬でチェルトナムゴー ルドカップを3連覇する。1951年、ティペラリー州に厩舎を開設し、平地競走に進出する。1962年にラークスパー(Larkspur)で英ダービーを初めて 勝つと、その後ニジンスキーやザミンストレルなどで6度制した。中でもニジンスキーではレスター・ピゴット騎手とのコンビでイギリスクラシック 三冠を制した。ピゴットは、1960年代から1970年代にかけてヴィンセント・オブライエンの管理馬で多くの大レースを制した。1970年代にはロバー ト・サングスターとヴィンセント・オブライエンの娘婿であるジョン・マグナーと共にクールモア・スタッドやバリードイル厩舎を設立し、成功を 収める。この成功はノーザンダンサー系の競走馬の活躍によるところが大きい。ヴィンセント・オブライエンの調教師引退後、バリードイル厩舎は エイダン・オブライエンに引き継がれた。
◆愛国首位調教師:13回
◆英国首位調教師:2回
◆英国障害首位調教師:2回
◆主な管理馬
サーアイヴァー、 ニジンスキー、 ザミンストレル、 アレジッド、 ロベルト、 エルグランセニョール サドラーズウェルズ、 ストームバード、 など



エイダン・オブライエン


1969年10月16日 アイルランドウェックスフォード生まれ
調教師の家庭に育ち、J.ボルジャー調教師のもとで3年間、助手を務め、23歳からで障害調教師へ。初年度の93〜94年は首位騎手。クールモアグループ に認められて1995年、V.オブライエン大調教師の引退の後を受け。ティペラリー州カッシェルの有名なバリードイル調教場の主に迎えられる(姓名は同じだが、ヴィンセントとは血縁関係はなし)。以後、平地 中心の調教師へと移行。愛国ばかりでなく、英国、仏国、米国など世界中で大きな足跡を残している。ガリレオで英・愛ダービーを制した01年には欧州クラシック7勝を含め、欧州G1全78レースのうち22勝をマークする。他に英・愛ダービー、ブリーダーズCターフのハイシャパラルなど名馬多数を手がけた。
◆愛国首位調教師:9回
◆英国首位調教師:2回
◆愛国障害首位調教師:5回
↑現在進行形。今後もタイトル量産は間違いなし。
◆主な管理馬
ジャイアンツコーズウェイ、 ガリレオ、 ロックオブジブラルタル、 ハイシャパラル、 オラトリオ、イェーツ、 ジョージワシントン、 ディラントーマス、リップヴァンウィンクル、ソーユーシンク、キャメロット、オーストラリアなど他多数



大川慶次郎


1929年2月6日生まれ、1999年12月21日永眠。
日本の競馬評論家。
東京府北豊嶋郡王子町15番地(現在の東京都北区王子)出身。慶應義塾大学文学部心理学科卒業。予想家としては通算4度パーフェクト予想を達成し、「競馬の神様」と呼ばれファンに親しまれた。
サラリーマンをえて新田新作(メイヂヒカリの馬主)の秘書となり、その後予想業を転々とした後、日本短波の解説者に。
『ケイシュウNEWS』で予想家として活躍、その後『スーパー競馬』『日刊スポーツ』の専属解説者として活躍した。

名言と逸話の数々
・競馬とは?の質問に…

それは、僕の『天職』です。けっして運命論者じゃなく、むしろごりごりのリアリストである僕が……、これだけは運命論者になっちまう。競馬ははじめから(僕の前に)天職として用意されていたとしか思えません。

・パドック解説時の名言
「馬鹿によく見えますね」

・動物としての馬を知らないで予想をたてる予想家や競馬記者に対して…
「動物学を修めろとは言わないが、馬がどういう動物かくらい勉強すべきだ」

・「競馬の神様」という称号に関して
「競馬の神様だなんて、とんでもない。単に人がつけたニックネームだ。べつに俺は神でもなければ才人でもない、ただの大川慶次郎だ」

・倒れてから意識を取り戻すことはなかったが、家族が競馬中継やGIのファンファーレを聞かせると脳波が強く反応したという。なお、入院後の検査でかつて癌を患った肺の状態も悪化していたことが判明。診察した医者は「よくこの状態で普通に呼吸ができていたものだ」と言ったという。

・「神さまに戒名なんか要らない」という家族の意向により、大川に戒名はつけられなかった。

・生前最後の予想となった有馬記念。大川が予想した優勝馬はグラスワンダーだった。大川の死から5日後、グラスワンダーはスペシャルウィークを際どいハナ差で退け優勝、大川の「生前最後の予想」は見事的中した。数日後、大川家に差出人「グラスワンダー」の花束が届いたという。
 

清水成駿

1948年生まれ。2016年8月4日永眠。

父の経営する印刷会社が請け負っていた縁で競馬専門紙の『1馬』に入社し、旧東京系のトラックマンとなる。

後に解説者となり、編集長も務める。

同紙で長年に渡り担当したコラム「今日のスーパーショット」をはじめ、 ラジオやテレビ中継、

はたまたスポーツ紙、週刊誌などで「走らせる側に立って考える」という独特の予想理論を展開。

人気薄の馬に敢然と本命を打ち「孤独の◎」として人気を集めた。

鋭く辛辣で、重みのある予想論説は人気を博し、東京スポーツの一面を、

例えば「成駿◎ウオッカ」などと飾るのは当然だった。

2001年以降は文筆業に専念するとして一旦身を隠すが、2003年から再度登場。

以降は『競馬最強の法則』などで活躍していた。

自身が1983年に出版した『マジで競馬と戦う本』は約30万部は売れたという。

この記録が本当ならば、古今を通じて最も売れた競馬本という事になる。

「競馬は経済」と唱え、調教師試験に「血 統」の問題も入れるべきと提唱。

そして彼と彼の生きた時代を象徴するのが、次の一文である。

 

「かつてギャンブルファンは怒っていた。銀行員も先生も、罵声を轟かせていた。

決まりそうになれば、そのまま!外れれば馬鹿野郎!か八百長である。

そんな怒りが重賞レースでは、地の底から沸き上がる大歓声となった。

競馬場には喜怒哀楽が渦巻き、何物にも替え難い自由があった。

だが今は紳士に淑女、それにジーパンの若者、罵声が横断幕に変わり、

怒りは手拍子にかき消された」

 



尾形藤吉


(1892年3月2日 - 1981年9月27日)
1908年より騎手となり、1911年からは騎手兼調教師として初代ハクショウ、アスコット、1936年より専業の調教師となってからは11戦無敗のクリフジ、八大競走3勝を挙げ、日本馬としてはじめてアメリカの重賞競走を制したハクチカラなど数多くの名馬を手掛けた。日本中央競馬会(JRA)が発足した1954年以降だけでも年間最多勝を12回記録し、通算1670勝および東京優駿(日本ダービー)8勝をはじめとする旧八大競走39勝、重賞189勝(1932年以降)は史上最多勝利記録。さらに門下からはそれぞれJRA騎手顕彰者の保田隆芳、野平祐二、同調教師顕彰者の松山吉三郎ら数々の人材を輩出した。その幾多の功績により日本競馬界において「大尾形」と称される。1964年黄綬褒章、1966年勲五等双光旭日章受章。2004年、調教師顕彰者に選出。同じくJRA調教師の尾形盛次は長男、尾形充弘は孫。

■調教師成績

通算成績 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率
平地 1471 1168 1056 8406 .175 .314
障害 198 178 149 932 .212 .403
1669 1346 1205 9338 .179 .323

※1954年以降。

藤吉は馬を購買する際の要点として、まず血統を最重視したといい、馬体では「胸の張り、あばらの張りがよいのと、皮膚が薄いのをえらぶ。背中から腰うつりが良く、『名馬の尾だくさん』といわれるとおり、尾毛が多く、付け根の丈夫な馬がよい。膝下は骨太で、腱、球節(くるぶし)、繋(くるぶしと足の間)が丈夫なもの。蹄はあまり浅いのはよくない」と述べている。藤本冨良は藤吉の馬選びについて「見たところモサッとしたような、(中略)太めと細めの二つに分ければ、太めの馬を好んでいたようだ」としている。
非常に厳格だったことでも知られ、挨拶には特に厳しかった。人には厳しかった反面、馬に対しては折檻することを厳禁していた。娘の恵美子によれば「馬は神様に祀られたもので、世の中でいちばん正直な動物だ」と口癖のように言っていたといい、馬をいじめるようなことは一度もなかったという。

往時の競馬界では、「この世界で本当に先生といえるのは、尾形藤吉ただひとり」ともいわれていた。松山吉三郎は、藤吉の頭には常に競馬人の地位向上があり、そのため礼節について特に厳しく注意したのだとしている。弟子に対しては周囲を観察し、馬ばかりではなく時事を知り、出来事について自分なりの意見を持つことを促し「人のことや世間のことが判らんのに馬のことが判るようにはならんぞ」としばしば説いていたという。松山は「先生がいなかったら、馬の社会はもっともっと遅れていた」と述べている。また、藤本冨良は「あの方は紳士でしたし、貫禄もあった。調教師としてあれだけの人望家というか、信頼のおける人物は、もう出てこないでしょう」と評している。



アガ・カーン殿下


(1877年11月2日 - 1957年7月11日)
第一次世界大戦後に本格的にイギリスでの競馬活動をスタートした。 当時のダービー卿の調教師であるジョージ・ラムトン調教師と、当時の一流の血統評論家であるヴィリエ中佐をアドバイザーとして、1921年以降の競り市で多くの高価な幼駒および繁殖牝馬を買い集め、オーナーとしての最初の10年のうちに4回のリーディングを獲得する大成功を収めた。このうち1922年に購買した牝馬ムムタズマハル(Mumtaz Mahal)は、2歳牝馬として驚異的なスピードを示し "Flying Filly" と呼ばれる活躍を遂げたが、繁殖入りしてからもその子孫からマームード、ナスルーラ、ロイヤルチャージャーなどを輩出し、現在のサラブレッド血統の多くにその血を残している。

また功績として自己が所有していた馬を高額で買い取りたいとの申し出には気前よく応じておりマームード、ナスルーラ、バーラムといった名だたる名馬が海を渡っている。これによりアメリカの血統レベルが大幅に向上され、その後のアメリカの馬が欧州を席巻する要因にもなっている。エプソムダービーでは5頭の所有馬が勝利しているが、そのうちで最強だったのは、無敗で三冠馬となったバーラム(Bahram)である。また、リーディングオーナーを13回、リーディングブリーダーを9回獲得するという記録を残している。サラブレッド生産事業は息子のアリ・ハーンに引き継がれ、その後アーガーとアリが1957年に相次いで亡くなると一時中断されたが、後継者のアーガー・ハーン4世は後にサラブレッド馬産を本格的に再開し、現在に至るまで有力な生産者としてフランス・アイルランドを中心に活躍している。

所有馬は日本の馬産にも大きな影響を与えており、セフトやヒンドスタンが種牡馬として日本に輸入されリーディングサイアーを獲得し、幾多の名馬を送り出している。



ヘンリー・セシル


1943年1月11日 スコットランドのアバディーン生まれ。
2013年6月11日永眠。
調教助手を経て、1969年に調教師免許を取得し独立し開業する。クラシック競争を得意とし、英国23勝、愛国6勝、仏国3勝、合計32勝、の欧州の主要クラシックを制 するなど、76〜93年までの間に英国首位調教師を10回獲得するなど96年の年度代表馬ボスラシャムやレファレンスポイントやコマンダーインチーフなど多数の名馬管 理していた。
“ナイト”の称号をエリザベス女王から与えられた史上唯一の調教師。
史上最強馬フランケルを育て、そのレース振りを見届けるかのようにこの世から去っていった。
◆英国首位調教師:10回
◆カルティエ賞特別功労賞:1回
◆主な管理馬
オーソーシャープ、 レファレンスポイント、 コマンダーインチーフ、 ディミヌエンド、 ボスラシャム
オールドヴィック、 ラムルーマ 、フランケルなど他多数



寺山修司


(1935年12月10日 - 1983年5月4日)歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。
言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に俳人、詩人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。寺山の競馬との出会いは1956年。ネフローゼで入院中、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。1962年、山野浩一氏と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、アローエクスプレスの半姉ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。



虫明亜呂無


大正12(1923)年9月11日、東京生まれ。評論家、翻訳家。ドナルド・リチー著『映画芸術の革命』の翻訳、『三島由紀夫文学論集』の編纂、記録映画『札幌オリンピック』の脚本、小説『シャガールの馬』が直木賞候補になるなど幅広い分野で活躍した。主な作品に『スポーツへの誘惑』『ロマンチック街道』。平成3(1991)年6月15日死去。
文芸、映画、スポーツと幅広いジャンルに独自の美文で活躍した評論家虫明亜呂無は、日本中央競馬会機関誌『優駿』にも、騎手論、観戦記を始め秀逸な名文を数多く残している。
虫明が競馬に興味を持ったのは、早稲田大学の学費を援助してくれた恩人が馬主だったからだった。「その人が、人はいかに生きるか、生き抜くかという問題を競馬で語ってくれた。競馬というのは何かわれわれに教えるところがあるだろうということが競馬をやり始めた動機」と『優駿』の座談会で語っている。競馬の魅力を問われ「人間というのは99%データを尊重しなければいけない、九分九厘までを信じて、あとの一分一厘で勝負しなければならないということに魅力を感じます」と応じた虫明を、同席していた劇作家の寺山修司は「虫明さんは、記録で競馬するというか、記録という形で現れる宿命的なものを一生懸命いじっている感じ」と評している。



アルフレッド・グウィン・
    ヴァンダービルト2世


(1912年9月22日 - 1999年11月12日) はアメリカ合衆国のヴァンダービルト家の相続人、ルシタニア号の沈没により亡くなった英雄アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルトの長男。母親は制酸薬ブロモ=セルザーの発明家アイザック・エドワード・エマーソンの娘マーガレット・エマーソンで、アメリカでもっとも裕福な女性であり、国内外に少なくとも7軒の大邸宅を所有する女主人であった。彼の祖父コーネリアス・ヴァンダービルト2世はアメリカのもっとも著名な実業家の1人であり、曽祖父コーネリアス・ヴァンダービルトはニューヨーク・セントラル鉄道の創立者、ニューヨークのグランド・セントラル駅の建築者であり、海運業および鉄道事業の一族企業の祖である。
母親に連れて行ってもらったプリークネスSを見て競馬の魅力に惚れ込む。20世紀の米国競馬を語る上で切っても切り離せない程の人物で、ネイティヴダンサーを世に送り出した事が最大の功績。



ホセ・コルヴィダル


1892年8月17日生まれ。
プエルトリコの歴史的大馬主。
馬主としてデビューしたのが1931年。
同年1月に初勝利。
以降、通産勝利数4,252
クラシック勝利数なんと177
カマレロ、カルディオロゴ、2頭の三冠馬のオーナーとなる。
クラシック三冠馬を個人馬主が2頭も輩出するのは世界でもかなり稀な例。
個人馬主としてのクラシック勝利数は世界記録か?

  
▲〔ホセ・コル・ヴィダル氏の勝負服〕
 

アルゼンチンで調教師をしていた日本人

岩谷宗谷

この方こそ、日本人で唯一、南米はアルゼンチンで調教師となった偉大なホースマンである。
岩谷氏は13年間をアルゼンチンの牧場で過ごし、さらに12年間を調教師としてアルゼンチンに滞在していた。
南米へと渡ったのは大正元年。はじめはチリへと渡り、各牧場を視学。その後、アルゼンチンのラアルトーナ牧場、ヲンスエ牧場にてそれぞれ2年の実地実習をえた後の大正5年にコルテン・サントス氏から騎手を懇望され、練習に2年を費やすも、体重調整に苦しみ断念。その後6年の競走馬研究に明け暮れ、昭和2年に念願の調教師となった。

岩谷氏は驚愕的躍進と躍動を遂げ、1927年〜1936年の10年間リーディングに君臨し、南米最大のレースとして名高いカルロスペェリグリーニ大賞も3勝するという快挙。アルゼンチン競馬史にその名を刻んだ。
今現在、シンガポールでご活躍されている高岡調教師も凄いが、他国で10年間リーディングというのは、もう二度と破られることのない記録ではないだろうか。


カポエイラの達人調教師

メストレ・ビンバ

カポエイラ近代化の父であり、カポエイラヘジョナウの創始者でもある、メストレ・ビンバ(1899〜1974年)。

彼はサルバドールに生まれ、12歳からカポエイラの修練を始めると、当時民俗芸能へと遷移しかけていたカポエイラに疑問を抱き、実戦的要素やバトゥーキという格闘技の技術を取り入れ、カポエイラヘジョナウというカポエイラの新たな形を創りあげ、カポエイラの発展と地位向上に生涯を捧げたのだった。


▲偉大な格闘家も調教師として馬と向き合っていた

調教師をしたのは、サルバドールの競馬場で、生活の糧を得るためであったが、彼は大変な苦労人で、調教師の他にも炭鉱作業員、大工、倉庫管理人、港湾作業員など、多種に渡る職種に就いたり、掛け持ちしたりしていたという。

 


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The Legendary horseman(世界ホースマン列伝) * 02:59 * comments(0) * - *

マジカル★スターウインド(女性騎手の暦呈)

 

マジカル
  スターウインド

 ◆女性騎手の歴呈◆


日本競馬、真の?
   女性最初の騎手

ダンロップ夫人
ミッチョル夫人
ほか一名。

明治31年に横浜競馬で騎乗し、ミッチョル夫人が勝ったという。
  

斉藤澄子
(京都競馬倶楽部)
  

1936年、日本競馬史上、初の免許取得の快挙を成し遂げた女性。
しかし、風紀を乱す惧れがあると農林省から出場禁止を命じられ、
実際の騎乗を公式レースで見せることは無かった。


昭和21年8月10日岡山での女性騎手レース
山陽合同新聞が開催を伝えているが出場者は不明。

岩田富子

本邦初の女性騎手と伝えられる。
昭和23年7月4日の米独立記念日に上山競馬第三レースの騎乗速歩(2,800m)にジャンダーク号に騎乗し、3着に入線したという。セーラー服で微笑む彼女の写真も残されている。彼女は進駐軍の青年兵と逢瀬を重ね、恋慕の果て異国へと渡ったという。


伝説少女ジョッキー
宇佐見りつ子
  
昭和25年の帯広競馬に紅一点の参戦。
大樹村出身ということ以外はすべて不明。
32頭立てのレースに勇躍出走。
100mのハンデと観衆の大声援を背に受け、懸命の騎乗も15着と敗れたとのことである。


高橋クニ
昭和41年、水沢競馬で誕生した繋駕速歩専門騎手。
通算253戦33勝、2着39回(1966〜1971年)。


 
▲高橋騎手とホマレ号。彼女はホマレに乗りたいという熱情に駆り立てられ、騎手を志望した。
ホマレは輸送中のアクシデントにより競走生命を絶たれた馬だったが、高橋騎手の昼夜を問わない懸命の看護により復活を果たした奇跡の馬で、彼女はこの馬へ募る、心底から沸き立つ愛情一本で「乗りたい」と願いそれを実現させた奇跡の女性である。


高橋優子
 
※写真右端が優子騎手。端正な顔立ちにうっとりしてしまう。
日本初の平地女性騎手
。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969〜1974年,通算5年6ヵ月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。いわくつきの急逝であり、一部闇の情報によれば、競馬関係者から婦女暴行を受けたとの暗澹たる黒い噂も…。

(審査員として紅白出場経験を持つ史上初の競馬関係者にして、地方唯一の紅白出場者)


神野治美
 日本の女性騎手として史上初の初騎乗初勝利の快挙を達成した女性。後に同じ名古屋所属の騎手であった横川健二と結婚し、子息である横川怜央が大井所属の騎手となる。
彼は日本の平地競馬では史上初の両親が騎手経験者である騎手。


宮下瞳

かつて名古屋競馬に所属し、日本の女性騎手として史上最多勝利記録である626勝を上げた。
2012年現在もこの記録は破られていない。


JRA初の女性騎手
牧原由貴子
(増沢由貴子)


田村真来
細江純子

 

藤田菜七子

2016年3月3日、ひな祭りの日、川崎競馬場にてデビュー。

JRAの女性騎手として1日に2勝した唯一の騎手。

CMや女性誌の表紙を飾るなどアイドル顔負けの活躍を芸能界でも見せる。

これからの飛躍が大いに期待される女性騎手である。



 世界女性騎手

ペニー・アン・
      アーニー

1968年11月、ケンタッキー州はルイビルのチャーチルダウンズにて騎手免許を取得するも、女性参入を反対する男性ジョッキーたちがこぞってボイコット。これによりアーニーは騎手生活にピリオドを打つことに。男性のプロバスケットボールの試合にはじめて出場した異色の経歴も持つ。

ジュリー・クローン
 

通算3704勝、重賞132勝、1993年のベルモントステークスに優勝するなど超一流騎手と呼ぶに相応しい実績をあげ、2000年8月に女性騎手として初めて競馬の殿堂入りを果たした。
また女性騎手の世界最多勝記録も保持している。

パム・オニール
1979年、オーストラリア初となる女性ジョッキー。

ビル・スミス
 
非公式記録だが、オーストラリア真の女性ジョッキー第一人者。
ビルは、その頃“女っぽい”という蔑称を付けられ、「ビル“ガーリー”スミス」という名で知られていた。
彼は他の騎手と一緒には絶対シャワーを浴びず、競馬場に来るときには既に勝負服を身に着けていたという。 誰ともしゃべらないし、「変な奴」だと思われていたらしい。実際、同僚の騎手たちから裸にされそうになり、裁決委員が止めに入ったこともあったし、落馬して助けられた時に、洋服を脱がせないでくれと懇願したとも伝えられる。
ビルは、当時のオーストラリアでは条件付きで許されていた調教師の免許も持っており、主に、自分で調教した馬に騎乗していた。トップトレーナーでもトップジョッキーでもなかったビルは、引退してからは国が提供する貧しい人たちのための住居に住み、もともと自分が調教していた馬、シドニーツー号に乗って近所のビール工場に通っていたのを当時の人が覚えている。
その後病気に罹り、長い間の療養生活を経て、80歳を過ぎて亡くなった時に、彼が初めて女性であったことが分かった。ビルという名前は通常、男性の名前ウイリアムの略称なのだが、彼女の場合のビルは、ウイマラーナという女性名の略称であった。


シャンタル・
    サザーランド

 
カナダ出身、「ジュリー・クローン以来の史上最高の女性騎手」と激賛されるスーパーウーマン。モデルとタレント兼業しており、2012年には女性として史上初のドバイWC出場も果たした。

ラタ・ブランディス

チェコ共和国の女性ジョッキーで、障害競馬の名騎手。1937年に真の世界最大にして最難関の障害レース、ヴェルカ・パルドゥヴィツカ(芝6,900m)唯一となる女性騎手の優勝という歴史的快挙を達成。
いまだこのレースに女性騎手が勝利することはおろか、そのレースの恐ろしさから参戦する女性もほぼ皆無の状態。
いまやチェコ競馬のレジェンドとして語り継がれている。



その他・女性騎手一覧




竹ケ原茉耶(ばんえい)

笹木美典(北海道)

下村瑠衣(北海道)

山本茜(名古屋)

別府真衣(高知)
※父は高知所属の調教師別府真司。

岩永千明
(2011年12月荒尾競馬廃止後、2012年佐賀へ移籍)

小山紗知伽(佐賀)

2012年3月31日付で新規免許所得。
うみねこもファンの一押し。

板倉真由子(JRA)

押田純子(JRA)


西原玲奈(JRA)

辻本由美(ばんえい)

佐藤希世子(ばんえい)

安田歩(北海道)

勝賀瀬芳子(北海道〜宇都宮)

佐々木明美(北海道)

佐々木亜紀(岩手)

石川夏子(岩手)

千田和江(岩手)

新田弥生(旧姓:吉田)(岩手)

皆川麻由美(岩手)

小田嶋志生子(上山)

和田美由紀(上山)

徳留五月(旧姓:遠藤)(上山〜高知)

藤塚聡子(新潟〜高崎)

山田真裕美(新潟)

山本泉(大井〜新潟)

赤見千尋(高崎)

▲〔引退後は競馬キャスターとして活躍する赤見千尋元騎手〕

米田真由美(高崎)


牛房由美子(浦和)

木村園夏(浦和)

平山真希(浦和)
 ※騎手引退後調教師に転向。


土屋薫(浦和〜大井)

▲〔土屋薫騎手〕


稲川由紀子(船橋)

鈴木久美子(船橋)

鈴木千予(船橋)

溝邉悦代(船橋)

米井陽子(船橋)

松沼緑(大井)

沢江鮎美(大井)

埴谷美奈子(大井〜益田)

戸川理彩(川崎)

安池成実(川崎)
※騎手引退後調教師に転向。父は元調教師の安池保。


宮岸由香(金沢)

山上由紀子(金沢)

岡河まき子(笠松)

中島広美(笠松)

吉岡牧子(益田)
※8年間で通算350勝。現代競馬において女性騎手の存在を広めた功労者。引退まで益田のスター騎手でもあった。

白津万里(福山)

池本徳子(旧姓:大場〜佐藤)(福山)

森井美香(高知)

伊藤千織(佐賀)

藤本美芽(荒尾)

小田部雪(中津〜荒尾) − 2001年中津競馬の廃止とともに荒尾競馬に移籍。

篠田幸子(中津)

メアリー・ベーコン(アメリカ)
※1978年大井競馬場の招待競走などで来日。

エマ=ジェイン・ウィルソン(カナダ)

リサ・クロップ(ニュージーランド)
 ※1994年にJRAの短期免許を取得し来日(女性短期免許騎手第1号)。

リサ・マンビー(ニュージーランド)

ロシェル・ロケット(ニュージーランド)
※2002年中山大障害優勝、JRAの重賞競走で唯一の女性G1ジョッキー

アンヌソフィ・マドレーヌ(フランス)
※1999年インターナショナルジャンプジョッキーズで来日。

アレックス・グリーヴス(イギリス)
※1997年ナンソープステークス優勝、欧州の平地競走で史上初の女性G1ジョッキー

カースティ・ミルクザレク(イギリス)
 2011年にイギリス競馬八百長事件で騎乗停止を受ける。

バーナデット・クーパー(オーストラリア)
※大井競馬場に短期免許(期間は2003年8月5日〜11月4日)で来日歴あり。

ヘイリー・ターナー(イギリス)
2006年、2007年シャーガーカップイギリス代表として出場。2011年ジュライカップG1、2011年ナンソープステークスG1優勝。

カシー・オハラ(オーストラリア)

 

 



  女性最多勝利数
 


日本記録
626勝

宮下瞳
騎手が地方・名古屋競馬を中心として紡ぎ上げた金字塔。
公営競馬のみで、海外での勝利は含んでいない。


▲〔宮下瞳騎手〕

世界記録
3,158

ジュリー・クローン騎手が1980年〜1996年にかけて記録した女性史上最多勝記録。
この記録が破られた時は、それはそのまま歴史的女性騎手の登場を意味している。


これからの女性ジョッキーの活躍が楽しみですねっ

 

 

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The Legendary horseman(世界ホースマン列伝) * 21:53 * comments(0) * - *

神風ライダー(伝説のジョッキー列伝)

 
  神風ライダー
〜伝説のジョッキー列伝〜


ここは世界中に実在した伝説の騎手たちの記録を記したアーカイヴスです。
続々と更新・追加予定。ごゆっくりとご覧ください。
 

〜騎手になるためには?〜

騎手になるためには、騎手免許の試験に合格する必要がある。

騎手免許の試験を受けるには、競馬学校の騎手過程に入学して勉強しなければならない。

その騎手過程の入学条件は、中学卒業以上で、「20歳以下(地方競馬)」あるいは「20歳未満(中央競馬)」となっている。

しかし、18歳以上の合格者はほとんどいない。

実際、高校の卒業を待って入学試験を受けるのでは遅いといわれている。

できれば、15歳か、16歳、遅くとも17歳までに競馬学校の入学試験を受けなければ、騎手になるのは難しい。

ただし、競馬学校に入学できなくても、厩舎に就職し、調教や騎乗を習い、騎手免許試験を受けるという方法はあるが、

競馬関係の法律や馬に関する学問まで独学で勉強するのはかなり苦難を極める。

競馬学校は、中央競馬と地方競馬のそれぞれに設置されている。

中央競馬が「JRA競馬学校(千葉県白井市)」で、

地方競馬が「地方競馬教養センター(栃木県那須塩原町)」

JRA競馬学校は3年間、地方競馬教養センターは2年間通うことになる。

入試倍率は、どちらも10倍前後と狭き門。JRA競馬学校に合格する方が難しいといわれている。

 

《騎手になるための基本的条件》

年齢・学歴は中学卒業以上で20歳未満。
視力は裸眼左右0.8以上(眼鏡、コンタクトレンズの使用は不可)。
体重は46.5キロ〜44キロ以下(生年月日により異なる)。
これらの条件を満たした者だけが競馬学校騎手課程に入学できる。
騎手課程在籍期間中は年齢区分毎に上限体重が指定され、

いかなる理由であっても、この体重を超過することは認められていない。

なお、卒業時の上限体重(指定体重)は、全生徒一律47.5kgとなっている。

 


犖殿絅蹇璽泙凌正骸雖
●ディオクレス
ディオクレスは、イベリア半島生まれ。
24年間で4257回にも渡り戦車競走の御者として出走。優勝2900回、2着861回、3着576回、受賞4着1回、着外1351回、重賞競走92勝。
上記の成績を上げ、9頭を100勝馬へと導いた。


狄燭離皀鵐ー乗り
●サリー
三重県伊勢市有滝町にある、伊勢乗馬センターで飼われている猿の騎手。
当センターを管理する橋爪軍児氏の手で育てられた猿で、ほかにもキューピー、ハッピーと2頭の猿もいるという。


 

爛蹈椒薀ぅ澄辞
●エレクトリック・ジョッキー

米国はデビット・クマエ氏の発案品。特許も取得されたという。
遠隔操作を可能とし、本当に馬を操作する事も可能。
実際にレースでも使用され、票を投じられた事もあった。
作成したのはテネシー州のチャールズ・マクヴィノム氏。



狎こ最古の
  シマウマライダー

ロスチャイルド男爵

 
ヴィクトリア朝時代の高貴で、類まれなる技術を持っていたという。その技巧はシマウマすら掌握するほどだった。4頭のシマウマを手玉に取り、バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている。
シマウマで競馬もしたらしいが、公的記録として残されておらず、どんな競走記録だったのかは定かではない。また、その4頭のレーシング・ストライプたちがその後どんな経緯を辿ったかについても不明である。


鎌倉時代の不敗騎手
  こますけのぶ
狛助信
鎌倉時代の説話集。橘成季(たちばなのなりすえ)編。1254年(建長6)成立。20巻。
その巻の15・第481話に記されている幻の名手。
当時の競馬(くらべうま)にて無敗を誇っていたらしく、大変な名声を博した名手だったという。
ある日の競馬に勝利した直後、門の閂(かんぬき)に頸を引っ掛け、あえなく命を落とす。


2年で14,000マイルを走破
福島安正
  “バロン福島

これは『世界記録集』にも展示済みの偉大なるホースマンの記録である。
福島少将はベルリンから日本まで、約14,000マイルを走破したと伝えられている。
これは騎馬を通じての人類の走行距離としては史上最長距離を誇るもの。
マイナス60℃の環境時も耐え抜いての歴史的偉業であった。
その強靭なる精神と謙虚な立ち居振る舞いから爛汽爛薀ぁΕ蹈鵐哀薀ぅ澄辞瓩箸靴匿魄Δ気譴討い襦
ちなみに…走破した14,000マイルをキロ換算すると…

22,526Km!

メートル換算すると…

22,526,000m!!

信じ難い伝説の騎手がここ日本にいた…。
ちなみに騎乗した馬たちは、その後天皇家へと献納されたという。

 

 

狄拭ε狙發量昭雖
大野市太郎

横浜根岸に端を発する明治競馬における、日本人騎手の草分け的存在にして、

真の伝説の騎手と称えられる存在が彼、大野市太郎である。

「イチ」の愛称で親しまれ、44歳まで現役を続けた。

神奈川県出身で、1876年、明治9年のデビュー。

ちなみに、根岸競馬における日本人第1号は松村亀吉、もしくは久保田太郎とも言われている。

最大のライバルは神崎利木蔵。この二人が近代日本競馬の黎明期を引っ張った。

 

 

爛▲襯丱ぅ箸乃骸蠅鯡海瓩新抓鵜
ウォルター・ロクストン

明治初頭に来日。警官として神奈川県警に雇われの身となった彼は、

1880年(明治13年)〜1885年(明治18年)にかけて、

当時、春と秋に三日ずつ行われていた横浜競馬に騎手として出場している。
また1884年(明治17年)には、上野不忍池で行われた共同競馬に日本人騎手へまじり、

ただひとりの外国人騎手として出場したと、史実に残っている。
さらに、明治15年10月31日の横浜競馬では、全9レースのうち、合計5レースを彼が勝っている。
「春秋二回の競馬の時、職務を休んで競馬の騎手をしたい。

それを認めてくれるなら月給が今の2/3以下でも結構」と語っており、

余程の競馬好きであったことは間違いない。

 


犖習いのまま
リーディングジョッキー

村口繁一
わずか28年でその生涯を閉じた薄幸の伝説騎手。
村口騎手は大正4年5月2日に生を受け、小倉の坂本勇次郎厩舎に所属でデビュー。偉業達成は昭和16年のこと。平地で12勝・障害で30勝を上げ、なんと見習い騎手でリーディングに輝いてしまったのである。
しかし、翌年の10月4日、阪神競馬4日目第八競走に騎乗した彼は、2周目の第三障害で落馬し、昏睡状態に陥ってしまう。その10日後、彼は目を開くことなく、この世を去ってしまったのであった…。
JRA創設前の偉大なジョッキーの話である。



犁疎の騎手
高橋政治郎
彼、高橋騎手は富山の山村出身。小学校卒業と同時に上京し、馬術に明け暮れた。戦時中は乃木大将が騎乗する馬の調教に従事していたが、安田伊左衛門の呼びかけにより競馬の世界へと足を踏み込む。
片足を失ってしまったのは、大正4年7月に起きた落馬事故が原因と推考されている。
義足になってからの活躍は足を失う以上のもので、想像を絶する血の滲む努力が彼を支えていたものと思われる。全国にファンがおり、引退後も調教師として日本競馬に尽力した偉大な人物である。



猝声・大正時代
欧州で大躍進を遂げた
   日本人騎手

赤石孔
彼こそが欧州仕込みの伝説の日本人騎手であり、ヨーロッパ流モンキー乗りを日本へと持ち込んだジョッキーなのである。
赤石騎手は明治27年11月13日、福島市生まれ。福島中学2年時修学後、騎手募集に応募し、ヨーロッパへと単身乗り込んだ。英国、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコと、
競馬の本場の舞台に身を投じ、肌で当時最高レベルの競馬を体感。
昭和2年に帰国し、当時の根岸競馬へと新風を吹き込んだ。
鞭持ち替えの早業は「一鞭千両」と称えられたという。
昭和14年まで根岸で騎乗。300戦36勝、
2着35回、3着34回の成績を残した。



狆赦卒の米国
100勝以上上げた若者

仲村直己
彼は1944年に生まれ、米国へ留学。サンフランシスコに身を置いていたが、
当地の競馬に魅せられ、ついには騎手となってしまったという。
1970年から騎乗し、1975年の5年間で1435戦134勝という成績を上げた。
この134勝という記録は武騎手の記録をも遥かに凌駕するもの(武豊が本腰入れて5年アメリカにいれば十分に更新可能だろうが)。
しかし、その後の消息は不明ままである。


狹狙發里个鵑┐さ骸雖
中西関松
  

ばんえい競馬界の伝説の騎手・中西関松氏(故人)は、戦前から各地の草ばんばで手腕を発揮していた。競馬大会があると聞けば、馬を引き連れて出かけて行った。
昭和22(1947)年に旭川でばんえい競馬が始まったときには、これぞ自分の進む道と悟り、騎手の道を本格的に歩み出すが、しばらくは山仕事も続けていたという。
騎手専業になったのは昭和40年代(65年〜)ごろ。
中西氏のそもそもの仕事は運送業。騎手になってからも、レースのない期間は馬とともに山へ入り木材運びをしていた。当初はみな兼業騎手だったという。
その後、30年近くも名騎手としてばんえい競馬をもり立てた。初期の記録がないため定かではないが、通算2000勝は上げただろうといわれる。後継の育成にも力を注ぎ、教えを受けた騎手や調教師が今も現役で活躍する。



爛潺好拭爾个鵑┐き
金山明彦

史上初めてばんえい騎手として通算3000勝を挙げ、「ミスターばんえい」と呼ばれ、ファンに愛された。通算成績は19712戦3299勝うち重賞88勝。ばんえい競馬最高峰のレースである『ばんえい記念』を6勝した。1999年に調教師試験に合格し、同年末に騎手を引退した。


狷本競馬史上初となる
  初騎乗&初勝利
  &JRA初の外国人騎手


ロバート・アイアノッティ
JRA史上初となる外国人騎手かつ、史上初となる初騎乗初勝利の偉業を達成した幻の騎手が彼、アイアノッティである。
日本でのデビューは1955年。イタリア系のアメリカ人で当時21歳。
日本に来た理由は1953年に徴兵され、日本に駐留する部隊に配属されることになったため。
母国では16歳で見習い騎手となり、フロリダのとある競馬場を舞台に招聘されるまで、約4年の活躍。通算1200戦414勝の成績を収めていた。
日本在住の間に体重を7Kg以上も増やしてしまったことを受け、日本で騎乗することを決意。知り合いだった矢野幸夫調教師に相談し、矢野調教師の元に馬を預けている馬主たちが身元引受人となることを同意。日本中央競馬会も矢野調教師の申し出を受け、アメリカジョッキークラブ側へも話を通し、アメリカ領事館との間で3年の契約を結んだ。さらにJRAは農林水産省へと外国人騎手の出場を認めるよう省令の改正も申請した。
こうした働きかけを受け、無事免許皆伝。除隊後は矢野厩舎で住み込みながら働き、初騎乗の時を待った。
こうして迎えた1955年3月5日、東京競馬場の第一レース。騎乗馬タジマオーは1番人気。出遅れるものの、道中から早くも先頭を奪い、一気の加速。10馬身ほど引き離し、そのまま逃げ切り勝ちを収めた。
しかし…これが最初で最後の勝ち鞍となってしまう。JRA通算成績はわずか22戦1勝。どうしてこの一年のみのキャリアで身を引いたのか…いまとなっては謎のままである。


爛タツムリでも
     勝たせる男

フレッド・
   アーチャー
  

1857年1月11日、イングランド領チェルトナムのセントジョージ病院に生まれる。
1867年、後にセントサイモンも手懸けることになるマシュー・ドーソン調教師の下、騎乗訓練を積み、1868年12歳でデビューし、1870年障害競走で初勝利。
覚醒したのは1873年を迎えた頃で、17歳の若さでクラシック優勝。勢いそのままにリーディングジョキーの座まで勝ち取り、1876年には当時としては超常絶する200勝を達成し、若干20歳の若さでクラシック完全制覇を達成。
あまりに驚異的な勝率にThe Tinman(金の男)の異名で賞賛され、ついには「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」とまで吹聴されるほどになる。
1883年にはドーソン氏の姪・ヘレン夫人と結ばれ、幸せの絶頂に立つと、勝利数はさらにペースアップ。577戦241勝という、信じ難い数字まで叩き出す。ところが不幸にも長男が出産直後に亡くなり、長女出産の際にはヘレン夫人まで命を落としてしまう。これ以降、アーチャーには暗い影がついまわるようになるが、騎乗技術はなんら陰りなく1885年には年間246勝の金字塔を打ち立てる。英国三冠もオーモンドで成し遂げたが、178cmの長身がゆえ減量に煩悶し、ついには体調不良、腸チフスと様態を悪化させてしまう。苦難と幻覚との闘いの果て、拳銃を咥えて引き金を引いてしまうのだった。29歳の若さだった。



世紀の名手
史上唯一人の【ナイト】

ゴードン・
  リチャーズ

1904年5月5日、英国はシュロップシャーのドニントンウッドで生を受ける。幼少時より家で飼われていたポニーに跨り、7歳になる頃には家族をポニーで送迎するまでになっていたという。
15歳を迎えるとジミー・ホワイト氏の下、本格的に鍛錬を積み、1921年にレスター競馬場で初勝利し、1925年には118勝もの勝ち鞍を上げて自身初のリーディングを獲得。
1944年には英国競馬史上初の3,000勝騎手となったものの、どうしてもダービーが勝てない。それは世界の七不思議の一つと揶揄されるほどであった。その一方で、歴史的大活躍を評価され1953年、騎手として初めて【ナイト】の称号をエリザベス女王から授かった。これが幸運を呼び込んだのであろう。同年勲章授与の一週間後、はじめてダービーに優勝した。騎乗馬はピンザ。
通算で4,870勝し、26回リーディングジョッキーになった、史上最も偉大な騎手と断言していいだろう。



狹狙發量昭蝓
ダービー9の世界記録

レスター・
    ピゴット

英国バークシャー出身。調教師であた父の影響を受け4歳から乗馬をはじめ、12歳でデビュー。
身長173cm(騎手としてはかなりの長身)が災いし、減量で苦心するが、奇抜な騎乗スタイルを次々と披露し神懸かった騎乗を見せるものの、厳重注意を度々受けてしまっていた。
しかし、溢れる才能を全開に18歳でダービーを優勝すると、1964年から8年連続でリーディングに輝き、全盛期を迎えると、ダーリア、シャーガー、ニジンスキー、アレジッド、サーアイヴァーら歴史的名馬を駆り世界を股にかけて席巻した。
母国英国のザ・ダービー9勝をはじめ、英国クラシック30勝、フランスのクラシック8勝、アイルランドのクラシックを16勝。59歳まで現役で活躍し、4大陸、35カ国で勝利を挙げた伝説の騎手。冷静沈着かつ、正確無比の騎乗技術、完璧なまでに乗りこなす。
まさに20世紀英国最高のジョッキーである。
そんな彼も1985年には鞭を置き調教師へと転身。しかし脱税をしたがため3年の実刑判決を受けてしまうことに。ところが、ここからが驚異的で、1年の服役後、なんと騎手へと復帰し、わずか10日後にGI優勝という奇特な偉業を成してしまうのであった。



猜禿狙發量昭蠅砲靴董
 米国史上最高の騎手
アイザック・バーンズ・マーフィー

1861年4月16日生まれ。没年1896年2月12日。1955年、米国競馬の殿堂入り。
米国伝説の黒人騎手にして史上最高の名手と呼ばれる神格的ジョッキー。
ケンタッキー州フランクフォート出身。
11年間騎乗し、生涯成績1412戦628勝。史上最高の勝率44%を記録した。
この記録は全世界においていまだ更新されておらず、もはや破ることは不可能の記録の一つとされている。
ケンタッキーダービー三連覇、そしてケンタッキーオークス&ダービー&クラークHを
同一年に制覇した史上唯一の騎手である。
ニックネームは“Colored Archer”。これは同年に活躍した同じく英国のレジェンド騎手フレッドアーチャーに
端を発するものである。
肺炎により命を落とし、ケンタッキーホースパークのエントランスに亡骸は移された。
彼の隣には米国伝説の最強馬マンノウォーが眠る。
1995年には、年間最高勝率を誇った騎手へ表彰されるアイザック・マーフィー賞が創設され、
アーリントンパーク競馬場では彼の名を冠したアイザック・マーフィーハンデキャップが創設されている。


犹代に翻弄された伝説の
  アフリカ系黒人騎手
ジミー・ウィンクフィールド

1882年4月12日生まれ。没年1974年3月23日。2004年米国競馬の殿堂入り。
1898年16歳で騎手デビューするも4頭の発馬機による事故が原因で、
たった1戦で騎乗停止となってしまう。1900年に復帰し、
以後1903年まで米国で騎手を務め、1904年からはロシアで騎手となる。
ケンタッキーダービーを1901年1902年と連覇した他、
ロシアにおいて歴史的大活躍。ロシアダービー3回、ロシアオークス5回、
モスクワダービー2回、ワルシャワダービー2回、皇帝賞3回という
空前絶後の成績を極寒の地で上げ、生ける伝説となった。
ロシアにおいてリーディングジョッキーを3度獲得、
1917年にロシア革命が起きると今度はフランスへ拠点を移し、
サンクルー大賞、ドーヴィル大賞、ユージンアダム賞などを勝利。
2,500勝以上を上げ、50歳で引退。調教師としても成功を収め、
1974年に亡くなるまでパリ郊外のメゾンフィラットの農場で
余生を過ごしたという。


狷酳禿狙發旅人騎手
●イザベリーノ・
"ネグロ"・ディアス
 

1858年に隣国ウルグアイのビラデラウニオンで生まれ、15歳ごろにモンデヴィデオにて競馬界に入り長く騎手兼調教師として活動した。黒人奴隷の末裔であったが、彼の卓越した才能が身を助け、馬主からファンから絶大な支持を獲得し、歪んだ骨格から“リゴレット”の愛称で親しまれた。
1885年にアルゼンチンの有力馬主らに誘われてブエノスアイレスに渡ると、1889・1890年と2年連続で首位騎手を獲得。1891年には名馬カモスでアルゼンチン・ウルグアイ両国のインテルナシオナル大賞(現、カルロスペリェグリーニ大賞とホセペドロラミレス大賞)を制覇した。1892年にはその手腕を請われブラジルのリオデジャネイロでも活躍。翌1893年からはアルゼンチンに専念し、1893・1894・1898・1899年と首位騎手を獲得し多くの主要競走を制覇した。



犹望綵蕕1万勝騎手
ジョルジ・リカルド
  
1961年9月30日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。
競馬一家に生まれ、自身も騎手を志す。
アルゼンチンと地元ブラジルに拠点を置き、次々と勝ち星を量産。
2008年1月9日、アルゼンチンはサンイシドロ競馬場にて世界初となる10,000勝を達成。
デビューは1976年で、1982年にGI初制覇。そしてブラジル競馬における25年連続リーディングという大記録を打ちたて、現在も活躍中。

世界最多勝利の変遷
※≪≫内の年数は前記録を破った年代。

≪2006年12月1日≫
ラッセル・ベイズ(米国)
史上2人目の1万勝

≪2003年4月≫
ラフィット・ピンカイJr.
(パナマ)が9530勝

≪1970年9月≫
ウィリー・シューメイカー
(米国)が8,833勝

≪1956年≫
ジョニー・ロングデン
(米国)が6,032勝


4,870勝
ゴードン・リチャーズが記録。




琉球伝説名手たち


瀬名波のイリヤラ
屋良朝乗

読谷が生んだ天才騎手。紺色の着物と袴をまとい、二尺五寸(約76cm)の鞭を手に自在に馬を手繰ったという。


与那嶺ターリ
⇒北谷村、現在の嘉手納町で無敗を誇ったという。

幸地タンメー
⇒馬上から、しかも走らせた状態で地面のカンザシをすくい上げたという逸話を残す名手。
嘉手納町出身だったという。


上謝名ブッセーカナヤッチー
⇒今帰仁の豪傑。三国志に登場する関羽の生き写しと絶賛されていたらしい。



女性騎手の歴呈◆

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●ポール・カライ
ハンガリー出身。第78回ハンガリーダービー(芝2,400m)を67歳という高齢で制した。
かなり異色の経歴の持ち主で、プロボクサーになるがジョッキーへと転身。リーディングジョッキーの座に立ったかと思いきやハンガリー動乱のため米国へと亡命し、ダービージョッキーの夢は断たれたかに見えた…いや、それなら米国で騎手になっちまえと、米国のジョッキーに本当になり、1718勝を上げる大活躍!
ところが今度は八百長事件に巻き込まれ、罪無きまま服役することとなってしまう。不運にも米国競馬界から追放され、民主化された祖国へと帰還。
そんな波瀾万丈な騎手人生の果てに待っていた栄光は、夢にまで見た母国のダービー制覇だったのであった…。
ちなみに彼にダービーの栄冠をプレゼントしたのはロドリゴ。生涯成績38戦11勝、他にはハンガリーセントレジャー(芝2,800m)などを制した歴史的名馬。


 
〔世界史上最年長のダービー制覇ゴールの瞬間〕


〔参考記録〕
日本では明治9年生まれの坂東角太騎手が昭和9年春の札幌・騎乗速歩に騎乗。
地方競馬では昭和3年生まれの海方昭三騎手が平成4年の樹氷賞をティーボイスで勝利。
翌5年にはアラブの蔵王賞をルビーキャップで勝利。

日本最年長騎手
山中利夫


62歳2012年7月15日、第7回金沢競馬2日目第1競走の騎乗を最後に現役を引退した。
元春木競馬のリーディングジョッキー。金沢競馬所属。
2012年5月7日の第1レースにてブライアンズメテオ号に騎乗し見事勝利。これにより、最年長勝利記録を更新。


世界史上最年長騎乗記録
ハリー・ビーズリー


83

アイルランドの障害戦コリティアン・プレートにて、モーリーという自分の持ち馬に自ら騎乗したという記録がある。

ビーズリー騎手はアイルランドでは名の知れた障害騎手4兄弟の一人で会った。
1891年にはグランドナショナルも優勝している。
そんな彼がこの記録を作ったのは1935年 6月10日。
自分の持ち馬であるモーリー(牝)に騎乗し、アマチュア騎手のためのレース、『コリンティアン・プレート』に出走。

結果、5頭立ての4着と健闘している。
 


【世界最長寿騎手記録】
騎手を務めた人物の史上最長寿者は英国の…

フォークナー
104


102歳で馬に乗ったという記録も持つが、この時の落馬で大怪我を負ってしまう。驚くべきことに32人の子供がおり、皆競に関わる職に就いたというからすごい。英国のアップルフォートで静かに暮らしていた世界最長寿の騎手である

 

世界史上最年少競馬騎乗記録
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9

 

南アフリカにて記録される。

しかし、競馬ではなく馬に騎乗したという括りにするとさらに上があり…

 

世界史上最年少騎乗記録
 

2歳8ヶ月 
 

2013年8月9日、モンゴルにて世界最大の馬のパレードが

行われた際記録されたもの。

 

 

【世界4大ダービー優勝騎手】

◇世界四大ダービー◇

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フランスダービー

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スティーヴ・コーセン(米国)

英ダービー⇒1985年 スリップアンカーで優勝。

ケンタッキーダービー⇒1978年 アファームドで制覇。

愛ダービー・仏ダービー⇒1989年 オールドヴィックで勝利。

 

 

【三連勝&三連続レコード記録】
※騎乗したレースを三連勝、そしてその三戦すべてでレコード勝ちするという珍記録。

伊藤勝吉(日本)
※昭和4年10月6日に記録。

 


【見習い騎手で一日5連勝】

岡 潤一郎(日本)

◆1989年 6月18日札幌競馬場の4Rから8Rにかけて勝利。

ちなみに単勝転がしを元手100円で成功させた場合、配当が330万を超えていたという。
その将来を非常に期待されていたジョッキーだったが1993年1月30日、京都競馬7Rでオギジーニアスに騎乗した際に落馬。

意識不明の重体に陥り、同年の2月16日、帰らぬ人となった。享年24歳の若さだった。
 

【生涯1戦0勝の騎手】
◇「一生涯でわずか1戦、しかも大差のシンガリで1頭も馬を交わすことなく去っていったプロ騎手」◇

人生は上手くいくことばかりではない。狭き門を潜り抜けてプロにったとしても、そこには数々の試練が、巨壁となり立ちはだかる。
折角プロフェッショナルの騎手免許を手にしたにも関わらず、たった1戦で諦めてしまったジョッキーがいる。しかも稀少な女性騎手だったからこそ、なんとも口惜しい。

「もぅマジ無理ィ!勝てないから私やめるぅ〜!」

…なんて女子高生のような、あまりにも放擲な理由にも似た理由で辞職してしまった。

もちろん、上記のようなふざけた発言ではなかったのだが…。
その詳細を記そう。

この伝説(?)のジョッキーは、大井の三坂博厩舎に在籍していた澤江鮎美騎手がその人。

 

澤江鮎美騎手
生涯成績:1戦0勝


<1987年7月27日 大井第3競走 エドサンホマレ号 結果12着>
出遅れではなかったがいいスタートでも無く、無事にゲートを出た彼女であったが、1400という短距離戦だけに新人でダッシュをつけられなかったことは致命的だった。
ポジション取りの激しい最初のコーナーですでに最後方。勝負どころから徐々に離されてしまうものの、直線で懸命に追い始めた。しかし、馬を動かせるほど、自身に余力が無かったようで、殿り負けを喫してしまう。ほろ苦いデビュー戦となった。検量所前で下馬したときにすぐ”初騎乗”の印象を取材した記者のとったインタビューでは、次のように述べている。

「大井競馬場の直線が本当に”長いなあ”と実感しました。だって追っても追ってもゴールに辿り着かないんだから…」

息も絶え絶えに彼女は答えたという。

それから数ヶ月して彼女は忽然と姿を消してしまう。周囲からは「澤江が男と逃げた」という噂が立ったのだが、真相は、騎手はあきらめたが、馬が好きなので馬からは離れられないという理由で、
厩務員さんと、馬輸送をやっている東都輸送の社長の、宮城にある牧場に転職したというのが事の顛末であったという。
騎手生涯で一頭も馬を抜けなかった彼女。しかし、そんな彼女も現在、結婚して幸せに暮らしているという。

折角、騎手免許を取得したのにたったの一戦で自分に見切りをつけてしまった潔さ(?)…。
人生ってわからないもんだよなぁ…。



〔実は同じようなジョッキーがもう一人いる。37戦して0勝2着もたったの2回という成績で姿を消してしまった植谷美奈子騎手。…実にもったいない…。〕

 

しかし!

世界にはレースに出走する事無く、競馬直前で騎手の道を断たれてしまった騎手もいる。

 

◇「一生涯でわずか1戦、デビュー戦で落馬してしまい道を断たれた薄幸の騎手」◇

 

キャスパー・ハーウッド騎手

 

騎手としてのデビュー戦で落馬。それもレース中では無く、スタート前の輪乗りの時のに落馬。

1953年の5月16日、英国エプソム競馬場の第二レースの4歳馬による下級条件戦でそれは起こった。

メフィストフィリーズという牝馬に騎乗してのデビューとなったハーウッド騎手であったが、

この牝馬の名前通り(馬名の意味がゲーテのファウストに出てくる悪魔)の不運をもたらす。

雲の影に驚き、動転し前のめりになって暴れたところで、ハーウッド騎手は落馬。

骨盤を骨折し、騎手として絶対必須の前傾姿勢を取る事はおろか、歩く事さえままならぬ程の重傷を負う。

騎手人生は断たれるも、俳優として成功を収めたハーウッド氏。

1973年、映画『ウィークエンド・ラブ』で英国におけるアカデミー賞に当たるGBA賞の助演男優賞を受賞。

この記者会見を見たエプソムジョッキークラブが、彼へのお祝いとしてエプソム競馬場での騎乗機会をプレゼント。

1974年の6月19日、エプソム競馬場にて、メフィストフィリーズの曽孫に当たるブルートパーズという6歳の牡馬に跨り、向こう正面からスタートし、盛大な拍手に送られながらゴールイン。

「キャスパー・ハーウッド騎手、トップでゴールインしました。優勝タイムは20年と一ヶ月と3日でございます…」

という場内アナウンスが流れたという。

 

 

【死亡しながら優勝した騎手】

 

フランク・ヘイズ騎手

 

1923年2月、米国はNYはベルモント競馬場にて起きた事件。

スウィートキス号に騎乗したヘイズ騎手は、不幸にもレース中に心臓発作を起こし、死亡してしまう。

しかし、騎乗姿勢を変えず、手綱も握りしめたまま、死亡後も騎乗を続行。

スウィートキスは彼の魂が乗り移ったかのごとく激走し、見事優勝を果たす。

しかも、このレース障害レースだったのだから驚きである。

 

 

 

【1日で平地・繋駕速歩・障害の3鞍を勝った騎手】

 

稲葉幸夫騎手

 

これは昭和九年、12月1日、土曜日の中山競馬場で樹立された珍記録。
達成したのは稲葉幸夫(元騎手・調教師)氏。
記録の内容がまた凄まじく、第2競走の平場がアラブの競走(資料1参照、1,600m)で5馬身ぶっちぎり。
第5競走の繋駕速歩競走(資料2参照、5,000m)が圧倒的1番人気馬を大差、

2着馬を8馬身置き去りにしてのレコード勝ち。
そして最後の障害競走(資料3参照、2,600m)が、障害では非常に珍しい単走という、

現代競馬では到底なしえない境遇を取り巻いての記録達成。
アラブ競馬は現在、極限られた一部の競馬場でしか開催されておらず、繋駕速歩は完全に廃止。

これだけでも日本競馬では永遠に達成不可能な怪記録である訳であるが、全鞍5馬身以上ちぎり、

しかも障害が単走という舞台設定は、もう二度と起こりえない状況ではないだろうか。


[資料1]


[資料2]


[資料3]

 

 



勝負服

中央競馬
中央競馬JRA)では馬主ごとに服色が定められている。服色の登録は馬主が行い、勝負服そのものは、競走馬を預託している調教師が所有と管理を行う。一部の騎手の中には騎乗回数が多い馬主の勝負服を所有・管理しているケースもある。

勝負服の製作場所
制作メーカーは福島県福島市にある合資会社河野テーラー


 
▲〔河野テーラーで作られた勝負服たち〕

勝負服の登録
勝負服の登録は馬主登録と同時に行うか、所有馬が初めて出走する直前にJRAに登録する。使用できる色と柄は競馬施行規則に定められており、柄についてはその寸法について明記されている。

使用できる色
白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶13色で、胴と袖それぞれ地色と模様に1色ずつ、合計4色まで使用できる

使用できる胴の柄
無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・一文字・帯・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・山形一文字・山形帯・菱山形・襷・十字襷・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散の中から1種類を使用できる。
※帯と山形帯については最近ではほとんど使用されていない。

使用できる袖の柄
袖の部分は胴とは別の色を使用でき、柄も別に定められている。左右で同じ柄を使用する。「無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・菱山形・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散」の中から1種類を選択する。

 
特殊な柄
鋸歯形(胸から肩にかけて使われる柄であり、胴の柄はこれ以上使えず、袖の柄は「一本輪・二本輪・三本輪」しか使用できない)

   
▲〔鋸歯形の勝負服。ディープインパクトやキングカメハメハで有名な金子オーナーの勝負服として広く知られている〕

勝負服の変更
服色変更の申請があれば何度でも変更が可能である。過去には変更した翌週に元に戻した事例もある。

勝負服の抹消
馬主登録が抹消されると勝負服の登録についても抹消される。抹消された勝負服は抹消日から60日間は使用できないが、抹消馬主の相続人であれば同じ勝負服を使用することができる。

特殊な事例

勝負服が未登録のまま
     馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく1・2枠が薄紫、3-8枠が黒となる。

 
勝負服を用意できなかった場合
JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。競走馬の調教師に対して過怠金(1万円)が課せられる。競馬開催中に発覚した場合は、文字放送において告知を行う。

 
中央競馬馬主登録を
  受けていない馬主の
 競走馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色が白で枠番の色(1枠は水色)の四ツ割が入り、袖の色が白で枠番の色(1枠は水色)の一本輪が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。枠番の色が導入される以前の貸し出し用勝負服は、当時の写真を見ると、胴と袖の色が別々(色は不明)で、胴の右胸の部分に馬番が縫い付けられたものを使用していたようである。

海外馬が出走した場合
日本では登録が認められていない装飾の勝負服を着用して出走することができるが、帽子は枠の色の物を着用する。

地方競馬
地方競馬(NAR)ではホッカイドウ競馬の一部のケースを除き、騎手ごとに勝負服が定められている。これは騎手服と呼ばれるシステムで、所属競馬場やあるいは同じ地区の競馬場の他の騎手と同じものにならないように、騎手が色や柄を登録することになる。

デザインが騎手ごとのものであるため、基本的には騎手本人が色柄を選択する。他地区の有力騎手や中央競馬や海外の有力馬にあやかってその勝負服と同じデザインを登録している騎手や、一門で共通の柄を用いていたり、師匠である調教師が騎手時代に用いていた勝負服のデザインを弟子である騎手が受け継ぐなどということも見られる。

その他、中央競馬と地方競馬の勝負服で異なる点として、中央競馬では使えない色や柄が地方競馬では使えることもある。例えば、橙色は中央競馬で勝負服の色には使用できない(一部を除く)が、地方競馬では使用できる。

中央競馬の騎手が地方競馬場に指定交流戦のために遠征し、その遠征馬の他に一般戦などで地元所属の馬に騎乗する場合については、基本的には枠順に合わせた色の勝負服がJRA所属騎手用とし用意される。ただし、兵庫県競馬(園田、姫路)では、元兵庫所属のJRA騎手である岩田康誠が地元所属馬に騎乗する場合、馬券を購入する地元の競馬ファンの混乱防止の観点から、地方競馬時代に使用していた服色の勝負服を着用している。また、岩田康誠以外の元地方所属だったJRA騎手が騎乗する場合、地方所属時代の勝負服をイメージできる色の貸し服を着用する(小牧太:緑・内田博幸:青など)。武豊はこれらに該当しないが、ゴールデンジョッキーカップに招待されることが多いということもあり、ピンク色の勝負服を着用する。

   
▲〔武豊騎手オリジナルデザインの勝負服〕

同様に南関東地方競馬でも、2008年3月より騎手の取り扱いについて変更を行い、中央競馬に移籍した元南関東地区所属の騎手について、中央所属馬に騎乗する時以外は地方競馬当時の服色での騎乗が可能となった。これは大井競馬場のトップジョッキーであった内田博幸が中央競馬に移籍したことに伴って行われた変更である。また川崎競馬場では、2011年から「一定の基準」を満たしたJRA所属騎手については、各自がデザインした勝負服の着用を認めることとした

海外
日本の中央競馬と同じく、馬主ごとに勝負服が定められている。デザインについては日本より自由度が高く、日本で認められていない色や柄、装飾などが用いることができる。また、文字の挿入を認めている国もある。


ベージュ・ダークブルー・ダークグリーン・エメラルドグリーン・ライトグリーン・ガーネット・オレンジ・白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶 ほか


無地・エポレッツ(肩章)・ストライプ(縦一本)・ブレセス(縦二本)・ストライプス(縦縞)・ホローボックス(枠)・ホープ(一本輪)・ホープス(三本輪)・シェブロン(V字一本)・シェブロンズ(逆V字三本)・シームス(縫目)・サッシュ(襷)・クロスベルツ(十字襷)・クロスオブロレーヌ(ロレーヌ十字)・チェック(元禄)・ディアブロ(鼓輪)・ディスク(円盤)・サークル(輪)・クォータード(四ツ割)・ハァヴ(胴左半分・右袖)・スター(星)・スターズ(星散)・ダイヤモンド(ダイヤモンド一つ)・ダイヤモンズ(ダイヤモンド散)・トリプルダイヤモンド(菱山形)・スポッツ(玉霰)・ラージスポッツ(玉襷)・トライアングル(逆三角形)ほか

上記の柄の他に馬主独自の意匠が認められる場合もある(主にアメリカ競馬)。


帽子


日本競馬において競走時に装着する帽子は、1957年以前、勝負服同様、登録する義務があった。帽子がヘルメット仕様に替わったのは、1957年のこと。その前年にダービーにてエンメイ号の落馬事故あり、その際に阿部正太郎騎手が重傷を負ったことがきっかけと言われている。また1953年の国営競馬時代に年間に4人もの騎手が尊い命を落としていることが発端とも言われている。中央競馬会の関係者は騎手を守る為の打開策を検討し、米国の競馬雑誌『サラブレッドレコード』にヘルメットの記事を見て導入に踏み切ったという。
ここで、出走馬の識別を容易にするために連勝式の枠番別に帽色を決めようということに。
この時に決められた帽色は以下の通り。


1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 水色


※(当時は6枠制)

一方、地方競馬では一足早くヘルメットを導入。1953年1月27日に東京、神奈川、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、長野、山梨の1都8件で構成する関東地方競馬組合が、騎手服の導入とともに枠番別の帽色を決定した。この6枠制の色は、1枠から白、黒、赤、青、黄、緑。つまり地方競馬では6枠制のときから現行の色だったのだ。これが地方競馬に浸透していった。

1963年 8枠連勝複式制導入

中央競馬では1〜6枠は以前と同色で…
新たに7枠=茶色。8枠=黒と決定された。
この8枠制、当初は東京・中山・京都・阪神のみでの採用だった。ほかのローカルでは平均出走頭数が6頭を下回る状況だった為で、8枠にする意味がなかったのである。
(全競馬場での8枠制が実施されたのは1969年。)

 

これに対し、地方競馬側は8枠連複制を導入した際、中央競馬会との間で帽色の統一について話し合いをしようと歩み寄り、会議を行っている。中央競馬会からは理事2名、地方競馬側からは1名の計3名が出席してのものだった。このときに中央競馬会が強く反対したのが"黒"の使用だった。縁起が悪いという理由からだったそうだ。しかし地方側の代表は、「スタンドから一番遠い位置からでも、容易に色を識別できることが最重要。そのためには一目で識別できる黒は絶対に外せない」と真っ向から対立。代案を提示できなかった中央側に対し、地方競馬側は3ヶ月の準備期間を取り、色彩学の専門家に話を聞き、欧米に専門家を派遣したりするなど研究を重ねた。

その結果、従来地方競馬で使用していた6枠の色に、7枠は橙、8枠は桃というのを足して会議に出した。その結論は67年1月の「優駿」に記載されている。

「正月の中山、京都の両競馬から従来の連勝番号別色別帽を地方競馬と統一し、ファンの便宜をはかるため次のように変更になった。なお、第2色、第3色は従来通り四つ割、八つ割の染分帽を使用する。
1白、2黒、3赤、4青、5黄、6緑、7橙、8桃。」

こうして現在の帽色が決められた。

現行の帽色

1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 

7枠 

8枠 桃



帽色配色の起源
帽色の配列の由来・起源は競輪にあるという。
昭和23年に競輪が小倉で初めて行われたときのこと、自転車に番号札を付けただけではどうも判別がしにくいので、当時の小倉市役所(現在は北九州市)の職員が良い工夫を考えていた。
たまたま暦を見て「一白、二黒……」という陰陽五行説にヒントを得たのだという。ただし、それをアレンジして決めたために陰陽五行説と微妙に一致しない。他の競技はこれに倣って色を付けたため必然的に同じ色になった。
当初、競輪は6枠までで、7枠と8枠は後に競輪が他の競技に合わせて、色を決めたとのこと。ちなみに9枠は紫になる。

 

染め分け帽

同じ枠に同馬主の馬が入った場合は、帽子の色も勝負服も同じことになる。それでは見分けが付かない場合もあるため、大きい数字側の馬に騎乗する騎手が染め分け帽と呼ばれる色が2色に分かれた帽子を着用することになっている。また17頭か18頭立てで行われるレースは7枠および8枠に3頭ずつ入るようになっているが、もし3頭全て同じ馬主の馬が入った場合は、最も大きい番号の馬の騎手が交互8つに色が分かれた帽子を着用することになっている。また、2番目に大きい番号の騎手は前述した4つ分けの染め分け帽を着用する。ただ8つ分け染め分け帽は滅多に見られず、2013年8月10日の第2回新潟競馬5日目第11競走で8枠制になってから初めて使用されている。

 

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