馬民俗都市奇談    

 【馬民俗都市
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街中で口伝される都市伝説…。馬の世界、競馬界においても様々な曰くつきの話は伝わっている。
幽霊が現れる競馬場であったり、立地の際に隠された猊印瓩箸い辰燭發里楼婆襪砲燭罎燭β膤い猟譴砲泙匹蹐犇愧任瞭罎任△襦
競馬場という場所は賭博場であり、常に大金が飛び交う場でもある。
その為か“ジンクス”や摩訶不思議な言い伝えや奇談は数多い。しかし、ここでは別の視点から宵の空へと照明を当ててみたい。


今から数十年前、この日本の帝都を舞台に、江戸川乱歩が描いた奇々怪々なる『二十面相』ワールド。この世界には様々な怪人・怪物が跳梁跋扈した訳であるが、実際に近代社会においても口裂け女などの噂は絶えない。こうした怪人奇憚の正体は、人間の恐怖心と想念とが化学反応を起こした、想像力の賜物であろう(もちろん、各々の分析を進めれば科学的かつ民俗学的に説明がつく)。
さて、そんな中、帝都には「見世物小屋」という名の“異界”が点在していた。この閉鎖的異空間を舞台に語られる都市伝説も幾つか存在するが、その中で馬にまつわる古い文献を発見したので紹介しよう。

怪馬・双頭三目馬
時は文政8年5月、天草にあった富田村の農家に奇妙な馬が生まれたとの報せ。
役人・要人が駆けつけて見るや、なんとその馬は二つの頭を持ち、その顔の間に大きな目が付いていたという。
この怪馬は先天的畸形だったらしいが、異常な程の生命力で長生きしたと伝えられている。
現代では捏造という、神をも恐れぬ行為でミュータント生物が作られているが、時代背景を考えれば、この馬は人為的策略から誕生したものではないと推断できる。
しかし、不幸にも見世物小屋で日々衆人環視の晒し者にされていたらしい。
この馬を記した絵図が東海地方・名古屋に数点残されている。

 
▲悲哀か嘲笑か…「バケモノ」と呟かれる時もきっとあったに違いない…。この双頭馬は日和どんな想いを抱懐したのだろうか。

かつてトリビアコーナーにて5本以上の脚を持つ畸形馬の話を出したが、双頭の馬というのはこれが初耳であった。
もう一つ、有名な奇談を一つ。

件(くだん)

『山海経』には多種多彩な奇獣が登場してくるが、この件(クダン)もその一つである。

「人面獣心ということはあるが、これは人面牛体だ。今より10年前、肥前の国五島の奧島のある百姓屋の飼い牛が生んだもので、今は剥製になって長崎市の八尋博物館に陳列されている。なんでも生後31日目に『明治37年には日本は露西亜と戦争をする』といって死んだのだそうな。件(人・牛)だけに預言が的中している。それで本当に依って件の如しだ」
(明治42年6月21日の名古屋新聞より抜粋)

この預言する人面牛は馬であった可能性もある。
つまり人面馬…ちなみに上の貴重な写真は八尋博物館の剥製のもの。しかし、残念ながら今は閉館となり、展示物はすべて散逸してしまったとのこと。
件はいまどこで眠りについているのか。

なぜこの奇獣が馬の可能性もあったかと言うと、実はこの生物、まだ他の時代にも生まれたことがあり、その時は天保7年・宝永2年の時だったという。その時瓦版に描かれた体の特徴が馬に似ているのだ(しかし、記述には「牛」とある)。
この予言者の正体は、顔面畸形の牛馬であった可能性が高い…しかし、口を利くとは到底信じることができない。
件の真の正体は「人」そのものだった可能性が高い、と私は見ている。
知識人が奇病に侵され、病の淵で己の見解を述べる…それが“予言”とされ伝えられ、周囲の目に触れさせたくない家の者たちは「件」という空想の怪物を創り上げた。もしその予見が的外れになろうとも、非難中傷を回避可能とする為だ。予言した直後にこの世を去るというのも、重病患者であればありえること。しかし、どうにも腑に落ちない点がある。それが「剥製」の存在。遺族が隠蔽の為にそこまでするだろうか。ところが、この点も納得のいく答えがある。件の存在を聞いた者の周囲を騒がせる為の愉快犯的犯行である。
ドイツには的中率100%のタコが現れたが、物は言わなかった。この人面牛馬が発した言葉は近未来の真実だったかもしれないしかし、その正体は…?いまだ推測の域を出ない見解が犒鎰瓩梁減澆魄悩兇垢覦譴弔陵存世箸覆辰討い襪茲Δ瞥輯兇してならない。

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 23:59 * - * - *

   琉球馬    ―空と海の記憶―

   ◆ 琉球馬 ◆



現在の沖縄県にあたる琉球王朝(1429〜1879年)にて仕えていたという馬。
撮影年代は不詳だが、この写真には農夫と琉球で使役していた馬が写されている。絢爛なる装飾が施された鞍や頭絡は当時の王国の繁栄を窺わせる。







                           

〔色艶やか錦糸紫玉の犢鳩伸甓縄独特の雰囲気が伝わってくる〕







  
〔沖縄・八重山諸島・小浜島の風景。紺壁の海と風に揺れる草原…沖縄の原風景に心癒される。サトウキビ畑の道をゆく長閑で朗らかな人と琉球馬の語らいが目に浮かんでくる――〕




                           

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 18:27 * - * - *

小浜馬 〜美ら馬物語〜

   ◇ 小浜馬 ◇



沖縄県八重山諸島の中心に位置する小浜島。素朴な景観と古き良き沖縄の原風景が残るこの島は、リゾート地としての側面を兼ね備えた新たな観光スポットととして確立されつつある。
さとうきび畑の広がる島に草を食む馬。もともとこの島に馬は棲息しておらず、他島から持ち込まれた宮古馬か与那国馬である可能性が高い。農耕の最大のパートナーとして活躍したのは、この小浜においても然り。森閑としてのどかな営みを送る彼らへの愛と賛辞を島民は決して忘れない。

  




〔青い空に、白い砂浜…とてもここが日本とは思えない〕


        

                           
  〔茜空の夕暮れ〕
      

          


〔小浜島は、2001年に放送されたNHK朝の連続TV小説『ちゅらさん』の舞台として大変有名である〕

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 16:22 * - * - *

喜界

    【喜界】

  〜蔗と珊瑚と馬と〜

  

父 ?
母 ?
母父 ?

生年:1965年(?)
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:日本 鹿児島県 喜界島
生涯成績:〆
※本馬の馬名は、生息していた島の名前を引用し、命名させて頂いております。

日本在来馬の一種、トカラ馬は、鹿児島県はトカラ列島に息づく在来品種の馬である。滔々と凪がるる黒潮が洗う七島灘は、海の恵みを授与してくれるが、海の難所でもある。厳しく過酷な自然に寄り添うように生きてきた人と馬たち。琉球文化と大和文化が交差するトカラ列島は、生物、民俗文化の宝庫であり、太古の昔から大海原を舞台に幾多もの交流を繰り返してきた、いわば「海上の道」であった。
トカラ馬の存在が明かになったのが昭和27年のことで、宝島に飼われていた小型の馬たちが、当時の鹿児島大学農学部教授の故林田重幸博士らに発見され、“トカラ馬”と命名された。そのトカラ馬のベースとなった馬種が喜界島の喜界馬である。

喜界馬に関する記録や文献は少なく、馬の由来や経過などは明瞭・正確に判明しない。希少な当時を知る人々の回想録をよすがに、その素顔へと歩み寄っていくことにしよう。

喜界島は奄美諸島の北東部、奄美大島から東方約25kmに位置する島で、古くは鬼界・奇界などとも記された。低平な台地状の島で、周囲を珊瑚礁原に囲まれている。この島に、喜界馬は住み、草を食むでいたのである。その最後の1頭となったのが、本馬“喜界”である。喜界は牝の鹿毛馬で、平成2(1991)年にその生涯に幕を下ろした。26歳という天寿を全うした名馬は、いま喜界町公民館の剥製として島の行く末を見守っている。

『喜界町誌』、竹内譲著『趣味の喜界島史』によれば、1746年11月21日、宗信公御家督継承につき、御祝儀のため翌年春、志戸桶の喜美治なる者が島民を代表して(鹿児島へ)上国した。ちょうどその折開催された藩の馬術大会で喜美治は他の藩士たちが持て余した駻馬を見事乗りこなして藩主の御感に入り、褒美としてその馬に鞍を置いたままいただいて帰島し、これを種馬として良馬の改良繁殖をはかった」とある。

時は流れ、移り変わってゆく…喜界馬は島で大切に愛育され、頭数も増えてゆき、農耕・物資の運搬に使われ、糞は貴重な肥料として珍重されたという。

         

明治の中頃までの喜界馬は、体格が小さく、長身の者が乗ると足が地面に届く程だったが、改良が重ねられると戦中には軍馬で名を馳せる程の馬種へと成長を遂げていた。

その昔、農業で村役場へ勤めていた方の話によれば、「喜界馬は性格温厚、粗食に耐え、蹄も丈夫で評判だった。軍用の良馬は農耕馬の2倍の値が付き、祖父の代だが、その弟が分家する時、子馬を売って屋敷・畑を買った」という。
8kgもある旧早町村役場までの道は馬に乗って通い、医者の送迎も馬だった。自転車など無い時代。村長も馬で通った。馬での通勤は、自転車の普及する昭和34〜35年まで続いたという。当時はどの家も1、2頭の馬を飼育しており、馬は農耕と生活とを支える大切な働き手だった。
そんな喜界馬たちは、この小さく平坦な島で、どうしてそこまでの繁栄をみることができたのだろうか。その要因として考えられうるファクターを、元町役場経済課補佐畜産担当の森本一敏氏は次のように分析している。
「(喜界島が)琉球石灰岩、隆起珊瑚礁から成り立つため土にミネラル、カルシウム含量が多く、アルカリ性土壌で良質牧草生産ができたこと、冬でも温暖な気候で野草が利用できること、冬季はサトウキビの葉が飼料化でき、周年青草使用が可能なことなどがある」
馬の骨軟症がなく、骨が丈夫で蹄が固いことは、セリ市でも高く評価されたとのこと。
また、加藤啓雄町長は「沖縄県浦添市長が当町を訪問された際には、喜界馬に対する謝辞があった。昔、現金収入は馬だったから、喜界馬で仕事をして大学まで行かせてもらった、とのことでした」と、感慨深く語っている。

島には「保食神社」と呼ぶ信仰対象が21ヶ所ある。その多くは馬頭観音を祭ったものと云われる。馬が病気になった時、ここに連れてきて病気の快癒を祈祷したという。現在ではかつての人と馬との関わりに感謝し、人々と牛の無病・平安を祈る場となっている。



もの言わず、ただ瞳を澄ませる喜界はいま、何を我々に語り掛けてくるのだろうか。 蔗の坂道に珊瑚の玉詞がそよぐ時、喜界馬の在りし日の残影がくっきりと浮かび上がる――…。明日を信じる馬と人との慕情の詩が、そこには間違いなく存在していた…――。

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 11:49 * - * - *

ケッティ

 【ケッティ

ケッテイ(駃騠)は、オスのウマとメスのロバの間に生まれるウマ科の雑種動物である。オスのロバとメスのウマの間に生まれたラバと似ている言われる。ウマとロバの染色体の数が異なることから、ケッテイは生産が難しい。ロバは62本の染色体があるのに対して、ウマには64本ある。これらの雑種として生まれるケッテイは63本の染色体となり、不妊である。偶数ではない染色体は、生殖機能に不全をもたらす。ADMSによれば、「ウマ科の雑種は、遺伝子の数が少ない側(ロバ)をオスの親に持つときに生産しやすい。したがってラバに比べてケッテイを生産するのは難しい」という。
身体的特徴としては、平均的にはわずかにラバより小さいことが挙げられる。
この2種類の雑種の間に見られる大きさの差に関しては多くの考察がなされており、この大きさの差は単に生理学的なもので、メスのウマに比べてメスのロバの方が小さいことに起因すると考える人もいる。遺伝的なものであると主張する人もいるが、しかしアメリカロバ・ラバ協会 (ADMS: American Donkey and Mule Society) の見解によれば「ケッテイが親から受け継ぐ遺伝子はラバと全く同じである」としている。

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 13:11 * comments(0) * - *

ゾース

ゾース】 

シマウマとウマから生まれた異種交配の雑種。シマウマ zebraとウマ horseを合わせた合成語が名称の由来である。
シマウマと他のウマ科の動物との雑種をさすゼブロイド(zebroid)ないしゼブルールzebrule(zebraとラバ:muleの合成語)のひとつでもある。
雄シマウマと雌ウマとの交雑とされるが、雄ウマと雌シマウマの間でも生まれる。
ウマは64の染色体を持ち、シマウマは種により44ないし62の染色体を持つ。ゾースとして生まれる個体はオスもメスも染色体数は63である。


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2009年の5月12日、米国にて珍妙な毛色の牝馬が誕生した。
それがこのメイアブルオブオルカスアイランド
父シャンドール、母ケサリともにこのような毛色模様の全く無い馬だった。

 

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 12:29 * comments(0) * - *

クアッガ

 【クアッガ

ウマ目(奇蹄目)ウマ科ウマ属サバンナシマウマの一亜種である。南アフリカの草原地帯に生息していたが、すでに絶滅した。クアッハとも表記される。

クアッガ、またはクアッハという名前の由来は、クーアッハクーアッハというその鳴き声を写したものである。1785年のある記録では、クアッガの鳴き声は馬やロバとは完全に異なり、犬のような鳴き声を発するのだという。
体高135cm程度。外見上特筆すべき特徴は、身体の後ろ半分に縞がなく茶色一色であることであろう。脚とその付け根は白。
生存時は数十頭で群れを作って生活していた。なお、同じ地域に別のシマウマ種が生息していたが、混じり合わずに別々の群れを作っていたとの報告がある。なお、一体何の利点があって身体の後ろ半分に縞がないとという進化の過程には資料に記載がなく、神秘のヴェールに包まれている。

クアッガの絶滅の主因としては、人間による乱獲と開発に伴う生息地の減少がそれとされる。
食糧に、また一方で皮が靴や袋などに加工されるために大量に殺された。
野生の最後のクアッガは1861年に射殺された。ヨーロッパ各地の動物園に運ばれていたものがその後も生きていたが、飼育下で絶滅回避を図るには数が少なすぎた。この時、雄雌両方のクアッガがいたが雄のクアッガが薬殺処分されてしまったことで絶滅が確定。最後の一頭である雌のクアッガが死んだのは1883年8月12日のことであった――…。

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 13:25 * comments(0) * - *

日本在来馬八種


  日本在来馬
かけがえのない文化遺産



わが国に昔から定着していた馬、つまり日本在来馬は朝鮮半島を経由して入った蒙古系馬が先祖だと言われている。現在、北海道から九州、沖縄の島々まで八馬種が営みを育んでいる。
しかし、これらの馬は明治から昭和時代に馬産改良のかけ声の元、欧米諸国の輸入馬と交配されたり、馬格が小さいために排除され、激減してしまった。これに拍車をかけたのが昭和30年代からの自動車の普及、農林業の機械化である。現存する在来馬は、厳しい規制の網や合理化攻勢の波を逃れた小集団の子孫である。
それを踏まえても八馬種で約2,300頭しかなく、飼養者の高齢化、後継者難が進んでいるため、より深刻な状況となっている。極論すれば「経済性を持たない在来馬」とも言われるが、人と馬が共生した時代の証であり、かけがえのない世界で唯一の遺伝資源、文化遺産である。
これらの系統は内地型島型に分類可能であり、前者に属するのが北海道和種、木曽馬、御崎馬、対州馬、野間馬。後者に属するのがトカラ馬、宮古馬、与那国馬である。





北海道和種

体高125cm〜135cm
毛色芦毛、河原毛、粕毛、佐目毛など多様。

北海道へ渡った和人が東北の南部馬を持ち込んだのが始まり。明治末期には9万余頭が道内の開拓に活躍。気候風土に順応し、持久力、耐病性に富む。側対歩が特徴で、主に道南部と東部太平洋岸に分布。


木曽馬

体高:125〜135cm
毛色:鹿毛、河原毛が多く、まん線(背中の線が他の色と違っている状態)がある。

源平時代は木曽義仲が多くの駿馬を所有したという。藩政時代は尾張藩が馬産の管理を行っていたと言われる。
現在の飼育場所は長野県木曽郡を中心に県内および隣接する岐阜県東濃地方等。



野間馬

体高90〜120cm
毛色鹿毛、栗毛、芦毛が多い。

瀬戸内海の島や半島で、主にミカンなど農林産物の運搬に使われた。日本在来馬の中で最も小さいが、性格は温和で人懐っこい。その気性が影響してか、少年用や障害者乗馬に使われている。また体格に比べ頭が大きい。近年は愛媛県今治市を中心に集中施設で管理されている。


対州馬

体高125〜135cm
毛色青毛、鹿毛、栗毛など。

対州馬の歴史は古く、古墳期には存在したと推定されている。「宇治川の先陣争い」で有名な磨墨(するすみ)と生食(いけずき、こちらは「奇跡の名馬」コーナーで紹介済み)も対州産馬とされており、蒙古来襲の時にも活躍したという。性格は温順で扱いやすく、かつて農耕では、専ら運搬と乗用に使われた。



御崎馬

体高100〜120cm
毛色青毛に近い野生色、河原毛など。

江戸時代、高鍋藩秋月家が都井岬に開設した御崎牧場が始まり。明治以降は牧野組合が軍馬や農耕馬を生産した。一時は激減したが、昭和28年国の天然記念物に指定、保護されて頭数が増えた。年間放牧・自然繁殖で野生味を失わないよう努力されている。


トカラ馬

体高100〜120cm
毛色青毛に近い野生色が多い。

明治30年頃、鹿児島県喜界島からトカラ列島南端の宝島に在来種が導入されたものが始まりとみられ、昭和27、28年にトカラ馬と命名された。現在、開聞山麓自然公園と鹿児島大学入来牧場で保存。また体躯が強健で、サトウキビの搾汁や農耕に使われた。



宮子馬

体高110〜120cm
毛色鹿毛、栗毛が多い。

沖縄県最大の馬産地では、小型在来馬が長く利用されてきた。しかし、島の基幹産業・糖業が盛んになると、より大型の馬が要求され、大型雑種化が進められてきたが、その後は畜力から機械化への移行により、在来馬は絶滅の危機に瀕した。昭和51年、宮子畜産技術委員を網羅した組織である「宮子畜産技術委員会」の宮子馬調査を契機に、昭和55年保存会が発足。保存事業が始まった。


与那国馬

体高110〜120cm
毛色鹿毛、栗毛が多く、白徴が無いのも特徴。

頭部はやや大きく、目が穏和。後躯はやや貧弱だが、蹄質が硬く、サンゴ石灰岩の悪路でも蹄鉄をはめる必要がない。
田植え前の田んぼ踏みや、米、サツマイモ、薪、飼料用野草、サトウキビの運搬・駄載用として、また乗用として活躍した。


失われた馬種

 

Sepia Nostalgia 〜日本在来馬・絶滅馬種・変異馬モノローグ〜 * 06:14 * - * - *

奇獣『ウマウシ』

◇「頭は馬で体は牛という珍獣が存在した」◇



その昔、甲斐の国(山梨県)保坂の牧の馬が、放牧されていた牛と交わって生まれたものだという。
頭は馬で全身は牛。四足も、左の爪は馬で、右の爪は牛のような形。

1765年(明和2年)正月、甲斐の国より引かれやってくると、大阪において見世物とされる。

この珍獣については、『蒹か堂雑録・二』に記されている。
著者は、
「まことに古今の奇畜というべき存在である」
と述べている。

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『ウシウマ』

◇「『ウシウマ』という、奇妙な品種の馬が存在していた」




◆特徴◆

・体高…121〜129

・毛色…栗毛or白毛のどちらかのみ

・被毛の状態により、著しく毛やたて髪・尾の乏しいものと、夏になるとほぼ無毛状態になるものの二種に大別される。

・頭は馬。首は牛の異獣だという。

・尾は殆ど毛の抜け、しかも短い。

◆起源&ルーツ◆

・1598年(慶長三年)、慶長役の際、朝鮮軍を来援した明軍が使役する蒙古馬の中に、この異馬がいたという。

・日本にいたウシウマは、島津義弘が朝鮮より持ち帰った十数頭がその起源とされる。

・種子島に放された5頭は、1843年(天保十四年)頃までに、50頭にまでその数を増やした。


〔ウシウマの剥製〕

・ウシウマの骨格は、鹿児島県立博物館、種子島開発総合センターに保管されている。

・種子島でウシウマの保護に尽力した田之七之助氏は、上野動物園に寄贈したウシウマに乗り都内観光。
さらに帰路にては、阪神鳴尾競馬場で観衆の見守るなか、単独走を披露したという

・両親が不明だった明治号以外は、すべて在来種との交配により生まれたもの。

・昭和6年には天然記念物に指定されたものの、昭和25年に絶滅した
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