カテリーナ ―Catherina―



しえなる旅路果てに〜

―171戦75勝。
   欧州競馬史上
    最多出走&最多勝、
      世界競馬史上
  最長走破距離の伝説的女帝―



父 ウィスカー
母 アレクト
母父 ヘットマン

生年:1830年
性別:牝
毛色:黒鹿毛
国籍:大英帝国
生涯成績:171戦75勝
主な勝ち鞍:クィーンズプレート、マンチェスターカップ、ヒルトンパークスキングズカップ、14マイル競走ほか

学生ラウンジから見える空は、どこか虚ろで遠かった。
何かそこにあるようで掴めない、虚無と希望とが同居している不可思議な空間がそこにはあった。

「ねぇ知ってる?昔の英国競馬って、すっごい長い距離走ってたんだって!」

つい先日知り合ったばかりのSが、僕の競馬好きを知ってか知らずか、唐突に話しかけてきた。
長い距離。
アスコットゴールドカップやカドラン賞など、4千メートル級の競走は現代競馬において稀少な存在である。
かつて3,000メートルあった東京大賞典や南米のビッグレースも、見る見るうちに距離短縮化の世界的激流に飲まれ、2,000mや2,400m級への変革が図られた。その潮流は今も変わらず…いやさらに加速を遂げ、もはや世界から長距離レースは天然記念物や世界遺産を見るような眼差しを注がれている。

史上最も長い距離を走り抜き、なおかつその大半を勝利でもぎ取った馬は果たしてどの馬なのか。
以下にその候補を列挙してみよう。


 驚異驚愕の
   競走歴持つ名馬たち


フィッシャーマン

121戦or13670

インプ

17162

コンダード

213152

コリスバール

324197

バンクラプト

34886


以上に挙げた偉大なる名馬たちも、天文学的距離を駆けた名馬たちである。
特に英国が誇るフィッシャーマン、米国のバンクラプトらは、生まれた時代がヒート競走や超長距離全盛の時代。
推定走破距離は30万メートルを超えるだろう。

それでは、あのハンガリーの国宝女傑、キンツェムの生涯走破距離はどれ程のものなのか。

54戦54勝、その走破距離総計は…

124,169m

翻って、カテリーナの走破距離を想定してみよう。
この時代、14マイルの競走や6,000mクラスのレースを使っていたこと。
低く見積もって1戦3,000メーターで計算した場合…

513,000m
さらに、多く見積もると…
ヒート競走で3,200×2本や14マイル走等も配慮し、
1走あたり6,000mと想定すると…
1,026,000m
…以上の距離を駆けていたと思われる。
この距離が以下に凄いか。
富士山が3,776m。
エベレストが8,848m。
マリアナ海溝最深部が10,911m。
人間のマラソン距離が42.195km=42,195m。
…要は、一つの小惑星の一周分の直径くらいの距離である。
ちなみに小惑星帯に位置する最大の天体「セレス」の直径は975km=975,000m…なのである!

超常絶する距離を走り続けた古の女帝。
しかし、その最後はあまりに惨い仕打ちが待っていた。

時は1858年。
日本では彼女の母国、英国との日英修好通商条約が結ばれ、ダービー伯爵における第二次内閣がスタートし、日本ではまだ徳川幕府が全国を統べる時代…日本で洋式競馬が始まる10年以上前、キンツェム降誕の20年近く前の話である。

母としての役目も終え、もはや廃用と見なされた彼女は、人知れず銃殺された。
誰に見取られることもなく、黄昏の中静かに絶命していった。

  

……・・・―――
その時と同じような夕焼けがキャンパスを覆い始めていた。
どこか虚ろで遠い夕映えは、虚無と希望とが同居している不可思議な空間として未来へ広がっている…
詩人のような事を口ずさみ、名馬の物語に一度、ピリオドを打とう――。

奇跡の名馬 (英国の名馬) * 04:18 * comments(0) * - *

クイーンオブトランプス ―Queen of Trumps―



〜切り札は、“青の女王様”〜

―世界競馬史上、
    初となる
  オークス・セントレジャー
     二冠達成牝馬―

父 ヴェロシピード
母 プリンセスロイヤル
母父 キャストレル

生年:1832年
性別:牝
毛色:青鹿毛
調教国:大英帝国
生涯成績:11戦10勝[10-1-0-0]
主な勝ち鞍:英オークス、英セントレジャー、シャンペンS、ノーズリー・ディナーS、チェスタースタンドカップ、チーフテンS、マルケス・オブ・ウェストミンターズ・プレート、ニュートンブラウンカップほか

桜と菊は日本を表象する、ステータスシンボリックな花である。
桜は法定の国花ではないが、ほぼその地位を築き、日本人の精神的愛玩対象としての位置に鎮座している。とある携帯電話の調査では日本人の8割が「好き」と答えたという記録もある。それ程に日本人の心の支樹となっている、愛おしい存在だ。

 

日本では古来より桜には神が宿ると信じられ、稲作神事や日本神話の中においても数多くの伝説を残している。淡いピンクの美しい色合いに咲き乱れる春の風物詩としてだけでなく、限られた短い時間で咲き誇る荘厳性、そして儚く散りゆく潔さに日本人は己の一生を投影させてきたのである。

他方、菊も国花と言っていい程に日本人の精神文化思想に浸透した花である。国会議員から弁護士、そして天皇家の家紋…古日には数多の豪族や武家が家紋としていた。

  

菊の文字が現れる最古の記録としては「日本書紀」にその文影が覗える。菊理媛神(くくりひめのかみ)と神名の一部がそれだ。民俗学の基礎知識としても非常に重要な礎石ともなっている理念の事象で、黄泉を訪問したイザナギがイザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出し、黄泉比良坂で生者(イザナギ)と死者(イザナミ)の言葉を取り継ぐ…という場面で伊奘諾尊と菊理媛神が登場する訳である。

 
 ▲〔イザナギとイザナミ〕

これら日本の二大国花を冠とした二大クラシック競走こそが、牝馬の一冠目の桜花賞と牡馬最終冠門となる菊花賞である。桜花賞が1939年4月9日の第一回施行されて以降、牝馬の確たる路線が整備されるまで幾多もの強豪牝馬が菊花賞へと出陣してきたが、桜・菊の二冠を決めた牝馬はたった1頭しかいない。1947年のブラウニー(16戦6勝)がそれである。タカハタ、クインナルビー、スウヰイスー、ミツタロウら1952年のクラシック世代はウオッカ・ダイワスカーレットら2007年のクラシック世代に次ぐ程の豪牝の世代だったが、ブラウニーらの世代も強烈。なんとこの世代、桜花賞、オークスはもちろん、皐月賞、菊花賞の二冠に至るまで牝馬が制圧してしまったのである。
まさに日本のショットオーヴァー世代。ブラウニーは1947年の3月にデビューし、6連闘して桜花賞に臨み、そして勝った。現在では考えられないような鬼ローテ。これ程に屈強なブラウニーが歯が立たなかった牝馬がいたというから驚きだ。その馬こそ顕彰馬にもなるトキツカゼ。ブラウニーはダービーで3着健闘するも1着のマツミドリと並んで入線したライバルのトキツカゼからは6馬身差も離された完敗。しかし、秋には古馬も交じっての2,400m戦で61kgを背負い圧勝して菊花賞へと乗り込んでいく。トキツカゼもマツミドリも不在だったが、7頭立ての6番人気という低評価。ところがパワフルな走りで牡馬を寄せ付けず3:16.0のレコード勝ち。2着アスカヤマには2馬身の決定的着差をつけていた。
…この菊花賞から四半世紀以上の時が流れたが、いまだ菊花賞を勝つ桜花賞馬(牝馬)は現れていない。

  
▲〔日本競馬史上唯一の皐月賞・オークス変則二冠のトキツカゼ〕

一方、オークスと菊花賞を勝った牝馬はどれくらいいるのか…と言えば、これもたった一頭、絶大無比の競走能力を見せたクリフジただ一頭しかいない。
戦前の競走体系が確立されていなかった混沌たる時代から牝馬の菊花賞挑戦は続いているが、その快挙を成し遂げたのは前述の2頭のみ。オークス馬ダンスパートナーが参戦するも大敗と、長距離戦においての牡高牝低の傾向は顕著となる。距離が延びれば延びるほどそれはくっきりと浮き彫りとなり、いかに牝馬がロングディスタンスで牡馬を撥ね退けるのが四海荒波の艱難たる事実を、菊花賞史は雄弁に、訥々と物語っている。

さてさて、桜花賞は英国の1000ギニーを模範として創設されたレースであり、菊花賞はセントレジャーを模したレースであるように、皐月賞、オークス、ダービーとすべてのクラシック競走は英国のそれを倣って創始されていったものである。
そうしたクラシックレースにて二冠、三冠という概念がホースマンたちの観念に定着してくるのは19世紀末から20世紀初頭を迎える頃であり、1700年代〜1800年代後半までは三冠という言葉も存在していなかった。この“トリプルクラウン”はラグビーからの伝播と言われている。


クラシック年表

■1776年 セントレジャー創設
■1779年 オークス創設
■1780年 ダービー創設
■1809年 2000ギニー創設
■1814年 1000ギニー創設
■1867年 ベルモントS創設
■1873年 プリークネスS創設
■1875年 ケンタッキーダービー創設
■1932年 日本ダービー創設
■1938年 日オークス・菊花賞創設
■1939年 桜花賞・皐月賞創設

≪英国初代二冠馬一覧≫

〔英1000ギニー&セントレジャーの二冠を成し遂げるパスティル〕

世界競馬史上初となる二冠達成
1800年、英国のチャンピオンという馬がダービー・セントレジャーの二冠を達成。

世界史上初の牝馬のダービー制覇、ダービーオークスダブルの快挙達成
1801年、エレノア

世界史上初となる英2000ギニー・ダービー二冠
1813年、スモレンスコ

世界史上初となる2000ギニー・セントレジャー二冠
1846年、サータットンサイクス

世界史上初となる1000ギニー・セントレジャー二冠
1857年、インペリウス

世界史上初となる1000ギニー・オークス二冠
1817年、ネヴァ

世界史上初となる2000ギニー・オークス二冠
1822年、パスティル

世界史上初となるオークス・セントレジャー二冠
1835年、クイーンオブトランプス

杳遠たる遙日の彼方、変則二冠を戴冠した稀代の歴史的名馬たちを、一体全体、仔細に渡るまで吟唱琴語できる者がはたして何人いるだろうか。
その史上初の永久なる快挙を射止めた馬たちの中でも、飛び抜けた異次元世界のポテンシャルを振りかざした女帝がいた…彼女の名をクイーン・オブ・トランプスといった。

緒言、序奏が大分長蛇となってしまったが、オークス・セントレジャー二冠を達成した超怪牝の蹄音に傾聴していきたいと思う。
クイーンオブトランプスはその競走能力の深淵が見えないままターフを去って行った、美貌と無限の競走能力を兼備した、言わば絶世の名牝だった。フォルモサやヴィラーゴ、カテリーナ、プリティポリー、そしてセプターといった英国を代表する古の女帝、女王、王妃、太后、女神たちにも匹敵はおろか、遙かに凌ぐと断言していい才能の持ち主であった。
デビューは1834年、ノースウェールズはフリントシャーのホーリーウェル。4頭立てのシャンペーンSという半マイルのレースに出走し、危なげなく軽くキャンターで快勝。
2歳で走ったのはこの1戦だけだったが、このレースぶりを見た者たちは皆口々に驚嘆の声を洩らし、驚愕の光景を青写真に胸に収め翌年のクラシックを夢想した。

3歳になっての初出走がなんと、6月5日の英オークス。
クイーンオブトランプスはかなりのブランクがあったものの、風の噂を聞き耳を立てたか、2番人気にまで推されていた。大本命に抜擢されたのが、無敗の英1000ギニー馬となったプレザーヴだった。
クイーンオブトランプスは久々も影響してか、スタートで立ち遅れ、大きなロスを背負ってのスタートとなってしまった。しかし、慌てることなく怜悧なまでに落ち着き払ってレースを進め、ペースを上げていった。直線に入ると10頭が団子になっての大激戦。残り400m地点に差し掛かった時だった――全馬が死に物狂いの大乱戦の最中、インコースを突き破る一陣の風。プレザーヴかっ!?レースを見つめる観衆のほとんどがそう思っていただろうが、突き抜けたその馬は、クイーンオブトランプスだった。残り200mを残しなんとキャンターで他馬を置き去りにしていく。あっという間に勝負を決定付けてしまった“青の女王”は鮮烈な大楽勝でオークス馬の冠を手中に収めた。
このセンセーショナルな圧勝を当時のニュースポーティングマガジンの記者が大絶賛。名実ともに女王となったクイーンオブトランプスは、同年の7月17日、リヴァプール競馬場へと出陣し足を慣らすと、悠々とドンカスター競馬場へと乗り込む準備を進めていった。セントレジャーで二冠目を狙うクイーンオブトランプスの前に立ちはだかるは英1000ギニー馬のプレザーヴ。さらには英ダービー馬ムンディッグとも対峙することとなった。しかし、レースぶりは一方的で、あっさり抜け出すや全力を出さないまま、キッチリと1馬身差の余裕を保ってのゴールインで史上初となる英オークス・セントレジャーの二冠を決めた。
その3日後、歴史的女傑となったクイーンはスカーボローS(芝1,600m)というレースに出走。7ポンドものハンデ差がありながら、断凸の1番人気。ここも当然の大圧勝になるかに思われたのだが、空前絶後の闖劇の前に歴史的敗戦を余儀なくされてしまう。最後の直線、何ということか大型のブルドッグがコースへと侵入し、先頭のクイーンオブトランプへと襲撃をかけてきたのである。突然のハプニングにも動じず、犬を避けつつゴールを目指すが、大きく蛇行や旋回を繰り返したため、さすがに後続馬も追い付いてきて、玉響の刹那、躍起に追われるエインダービーという牡馬が最後の最後、女王は頭差差し切きられ、ついに不敗神話を崩壊させられてしまった。不運な敗戦を喫したとは言え、これこそ負けてなお強し。女王はまだまだ走り足らなかったらしく、この日の午後、セントレジャーと同距離のスウィープSを単走で駆け抜けている。

   
▲〔青鹿毛の馬体に大きな流星と3本脚のソックス。特徴的な馬体からは常に幽玄たるオーラがほとばしっていたらしい。全戦で手綱を握ったのは“トミー”の愛称で親しまれたトーマス・ライ騎手〕

地元ホーリーウェルへと凱旋出走。10月13日のチーフタンSには他にも登録があったが、オークスやスカーボローSの内容に震え上がったか、全馬回避してしまい、このレースでも単走となった。威風と威厳を取り巻く蒼き女帝は、瞠若たる振舞で高らかに凱旋を放吟しこの年のキャリアを締め括った。
1836年、新たなる年を迎えた青の女王は、5月初頭のチェスター競馬場から始動。牡馬を相手に圧勝し、その翌日にはマルケスオブウェストミンスターズプレートを単走。とにかく強すぎて相手がスタコラサッサと立ち去ってしまう。ネイビーブルーの肢体を見るとことは、もはやレース回避の緊急シグナルのようなものだった。その後、クイーンオブトランプスはニュートン・ル・ウィロウズ競馬場へと襲来。ボローカップ(芝3,200m)をキャンターのまま、対戦相手のヴェストメントのプライドをボロボロになるほどに、地の果てまで引き離すごとくの大楽勝。そして生涯最後のレースとなったのは、奇しくもデビュー地ホーリーウェルでのスウィープS(芝3,200m)だった。オズワルドを徹底的に打ちのめす大差の大楽勝でワンサイド勝ち。
ターフを去りゆく女王は、振り返ることなく青の彼方へ駆けていく――
数十年後、彼女は伝説の名馬となり、数百年後には空にたゆたう群青色の神話へと昇華していった。
遥かなるクイーンの記憶。




最後に、もう一つ付け加えておきたい。
彼女の現役時代、彼女の走りを眼前で目撃した、とある記者の一言…
「クイーンオブトランプスは、これまで目にしてきた牝馬の中で、別格中の格別な存在だよ。あんな馬は見たことがない」

そしていま――
偉大なる青の女傑の矜持を手繰り寄せ、彼女を召喚する。
「切り札は…女王様!!」



奇跡の名馬 (英国の名馬) * 02:04 * comments(0) * - *

エターナル・レジェンド Frankel瓠,修靴禿狙發悄宗宗帖Α・

 
 The Eternal Legend
  
 そして伝説へ――…・・・

父 ガリレオ
母 カインド
母父 デインヒル

生年:2008年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:イギリス
生涯成績:14戦14勝
主な勝ち鞍:英チャンピオンS、ジャドモント・インターナショナルS、英2000ギニー、サセックスS連覇、セントジェームスパレスS、クイーンアンS、クイーンエリザベス2世S、ロッキンジS、デューハーストS、ロイヤルロッジS、グリーナムS
フリーハンデ:147(タイムフォーム社史上最高値)140(国際レーティング)

21世紀の全世界が目撃した驚異のレーシングモンスター、狎さの怪物瓠弔修譴フランケルである。GI競走10勝、GI無敗の9連勝…あまりの凄まじい記録も、この馬の前では単なるお飾りに過ぎない。それは全14戦の合計着差と平均着差を見ることで、明らかだ。見れば見るほど狄儲瓩鉢犇式勠瓩2文字が心の中浮かび上がってくる。

超怪物

 〜14戦全勝軌跡
※全レースの映像付き。

■デビュー戦
(芝1,600m)
翌年キングジョージを勝つナサニエルに1/2馬身完勝 。

■2戦目
(芝1,400m)
13馬身で圧勝。

■3戦目【ロイヤルロッジS】
(芝1,600m)
出遅れながら、最後方から大まくりで10馬身圧勝 。
大差引きちぎったトレジャービーチは愛ダービー馬に。

■4戦目【デューハーストS】
(芝1,400m)
史上空前のハイレベルと謳われた伝説のレース。
シャンペンS馬で2戦2勝のサーミッド、ミドルパークS9馬身差圧勝の3戦不敗ドリームアヘッドを相手に2馬身1/2圧勝。2着には翌年愛2000ギニーを勝つロデリックコーナー。
2番人気のドリームアヘッドは翌年短距離王者に 。

■5戦目【グリーナムS】
(芝1,400m)
年明け初戦を4馬身圧勝 。
2着エクセレブレーション。

■6戦目【英2000ギニー】
(芝1,600m)
⇒一方的に突き放す一方。6馬身圧勝、ニジンスキーを超えて歴代最高支持率での勝利。

■7戦目
【セントジェームスパレスS】
(芝1,600m)
騎乗ミスで最悪の競馬をするも3/4馬身差完勝 。

■8戦目【サセックスS】
G1を5連勝中、古馬王者キャンフォードクリフスとのドリームレースを5馬身圧勝!

■9戦目
【クイーンエリザベス2世S】
(芝1,600m)

下半期の混合マイルG1勝ち馬全馬総集結したレースで4馬身圧勝!
2着エクセレブレーション、3着にジャック・ル・マロワ賞圧勝のイモータルヴァース。

■10戦目【ロッキンジS】
(芝1,600m)
古馬になっての緒戦で5馬身差圧勝、2着はまたもやエクセレブレーション。

■11戦目【クイーンアンS】
(芝1,600m)

11馬身圧勝、落鉄しながらやや重の馬場で、最後約100mを馬なりのまま流しながらレコードタイムに迫る。
2着のエクセレブレーションはこの後GI馬集結の超豪華メンバーのジャック・ル・マロワ賞にて圧勝。フランケルがもしいなかった場合、2着を1着と夢想すると、13戦11勝(GI5連勝!)という歴史的マイラーに!!
他、豪州GI3勝のヘルメット、重賞4勝のストロングスイートらがまるで未勝利馬のように見える始末。レース直後でも息一つ乱さずケロっとしていたという。

■12戦目【サセックスS】
(芝1,600m)
⇒馬なりのまま6馬身差連覇達成。GIにおいて公開調教のごとき、持ったままの超大楽勝。
追っていないにも関わらず、欧州の馬場とは思えぬ上がり33.3を記録。

■13戦目【ジャドモント国際S】
(芝2,080m)
⇒初の1,600を超える距離。出遅れるも、馬なりのまま先頭へ躍り出て、7馬身差大楽勝。
BCターフ・コロネーションC連覇の愛ダービー馬セントニコラスアビーや前年度覇者トゥワイスオーヴァーらを大差ちぎる。

■14戦目【英チャンピオンS】
(芝2,000m)

最終戦は世界ランク2位にして仏最強王者・世界最強のセン馬であるシリュスデゼーグルが立ちはだかった。この馬は重馬場の鬼で、馬場の渋ったガネー賞、ドラール賞をGI級馬を相手に大差勝ちしている怪物。そしてナサニエルとドイツダービー馬パストリアスも参戦。
レースでは5馬身の出遅れを喫し、相当水分を含んだ馬場にいつもの爽快なストライドを殺されるも、直線に入るや馬なりのまま先頭、シリュスデゼーグルが追いまくるも、手綱が微動だにせず交わし去り、最後クィリーのゴーサインに鋭く反応し最強セン馬にトドメ。・3/4馬身差の完勝で引退レースを飾った。

合計着差:約76馬身

平均着差:5.4馬身

近代競馬において、無敗のまま勝ち続け、しかもGI級の1,400という短距離からマイル…そして2,000mクラスの大レースばかり使って、この合計着差は前代未聞。
全能力を見せないまま引退していってしまうような気がしてならない。
何しろ、この馬に並びかけ、最後まで競り合い続けられる馬は一頭も存在しなかったのだから。これはシーバードにも共通して言えることだ。オルフェーヴルやブラックキャヴィアとの対戦が叶わなかったことが至極残念。もしフランケルに本気を出させることができる馬がいるとしたら、2,000以上で戦う時のオルフェか、1,400m以下で戦う時のブラックキャヴィアくらいしかいないと思う。マイルでは文句なしに世界史上最強だろう。ブリガディアジェラド、テューダーミンストレル、ミエスク、ゴルディコヴァの4頭を相手にしても圧勝してしまうのではないか。中距離において見せた無限の可能性。特に左回りはフランケルがより得意としているように映らなくもない。中距離でもミルリーフやリボー以上だろう。2,400以上…こればかりは走っていないから空想の絵空事でしかないが、2,400の芝という条件までならセクレタリアト、ヤタストらを圧倒してもおかしくなさそうだ。ディープインパクトやオルフェーヴルら以上に、対戦を夢見てしまうのがサイレンススズカだ。あの逃走力とフランケルのスピード能力はどちらが勝るのだろうか。

キンツェム、セントサイモン、ネアルコ…リボー、全戦全勝の名馬の戦跡を見つめ眺める度に胸中に抱いたロマン。同時代に生きた人々がどのような心持で、そしてどれほどに熱い眼差しを向けていたのか…それをこの時代に体感させてくれたフランケルに感謝を述べたい(もちろんまだブラックキャヴィアがいるが)。
  
印象に残るのは、荒唐無稽の競馬で圧勝した2000ギニーやキャンフォードクリフスを返り討ちにしたサセックスSなど色々あるが、11馬身差で途方もない程突き放し、147のレーティングを叩き出したクイーンアンが衝撃だった。強さに距離など関係ないのではないか。距離云々抜きに最強馬はこの馬なのではないか…と本気で思った瞬間だった。

ベストレースは、そのクイーンアンかインターナショナルSだろう。
まさか初の2,000mで、あの競馬をしようものとは思わなかった。出遅れて馬なりのまま強豪を涼しい顔で交わして行くあの光景は、この世のものとは思えないファンタスティックなものだった。
そして最後のチャンピオンS、まさか重馬場でのシリュスデゼーグルを馬なりで交わしされる馬がこの世に存在しようとは…。あの完勝でもまだ物足りないと思わせてしまうのはある意味不幸なことだ。
ただひとつ、ケチをつけるなら海外で競馬をしてほしかったということ。せめてフランスには遠征してみてほしかったし、ドバイやBCクラシックでも面白い競馬になっていたと思う。

数十年後の未来、人々はフランケルを狹狙發量焦廊瓩箸靴童譴蠏僂い任い襪海箸世蹐Α
今を生きる我々が過去の偉大なる名馬たちを想起し、語らうように。
そしてその時代を生きる名馬との夢のレースが、世界中の競馬ファンの空想を膨らましているにちがいない。
牘扮鵑覆訶狙皚瓩悄宗宗
フランケル第二章はこれからはじまる。


今回の写真・
  イラスト提供・協力
    参考文献ほか

秋山由美子、Mr.woolhouzen、タイムフォーム社、レーシングポスト紙

奇跡の名馬 (英国の名馬) * 05:47 * comments(0) * - *

ダンシングブレイヴ ―Dancing Brave―  

ダンシングブレイヴ

〜地球(ほし)をも震わす
   烈脚“舞勇”列伝〜

全欧最強・追い込む
    伝説の究極名馬



父 リファール
母 ナヴァホプリンセス
母父 ドローン

生年:1983年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:英国
生涯成績:10戦8勝(2着一回、4着一回)
フリーハンデ:141
主な勝ち鞍:凱旋門賞、キングジョージ裟ぁクイーンエリザベスS、エクリプスS、英2000ギニーほか
※最良の後継馬キングヘイローのメモリアルレースが近いということもあり、再執筆致しました。あえてダンシングブレイヴと表記しております。

凱旋門賞の歴史には、二つ史上最強最高のメンバーと呼ばれたレースが存在している。
その一つが1965年。狎さの名馬瓩秘陲錣譴シーバードが6馬身差よれながら歴史的大勝を演じたレース。そしてもう一つが1986年。ダンシングブレイヴが究極とも言える烈震烈空・大気をも震撼鳴動させる追い込みを決めたレースがそれである。
(もしかしたらシーザスターズの凱旋門賞が後々三つ目に数えられるかもしれないが)

この一戦により彼は欧州の80年代最強と評さるようになったが、私はもちろん世界中の名馬評論家は、その力は80年代のみにとどまることなく、セントサイモンと並び、英国史上最強ではないか…ミルリーフにも一歩も譲らぬ…いやミルリーフをも凌駕する驚異的競走性能があると論評を重ねる。
その体重をグッと沈み込ませる独特のアクセレーションは間違いなくほかの馬に真似のできる芸当ではないし、追い込んで大差突き放してしまう馬も、グラディアテュールを引き合いに出したくなる追い込み馬も彼しか浮沈してこない。

彼の最高のパフォーマンスを放った、1965年の旋門賞以来の高水準と言われる1986年凱旋門賞をまずは振り返ってみたい。
まさに鳥肌の立つメンバーであった。


仏ダービーをレコードで圧勝、近年最強の仏ダービー馬と讃えられるベーリング


愛ダービーを8馬身圧勝で飾った英ダービー馬シャーラスタニ。


12連勝中でドイツ史上最強とも賛歌されるアカテナンゴ


世界でGIを勝ちまくる、“鉄の女”トリプティク


当時の欧州最強古馬であるシャルダリ。

仏セントレジャー(ロワイヤルオーク賞)圧勝のメルセイ。


ヴェルメイユ賞を勝ち上がってきたダララ。


コロネーションC馬サンテステフ。


日本からは日本ダービー馬シリウスシンボリ。

南米からも強豪参戦。
ラスオークス(チリオークス・芝2,400m)を大勝し、ナシオナル・リカルド・リオン賞(芝2,000m)も圧勝してきたチリの豪牝マリアフマタ

なんと出走馬の14頭中11頭がGIホースという超高水準。しかもその11頭全馬が、まさに油が乗り切った鮪のごとく全盛期にあっての激突。これに世界が湧かない訳がない。

直線半ばまでダンシングブレイヴの姿は見受けられない。
熾烈を極める先頭争い。ベーリング、シャーラスタニ、トリプティク、アカテナンゴがブラウン管越しに放つ激震のシーンがつづく――。
しかし、ふと画面の中央から右下部にさらに一際神烈なるオーラを解き放ちながら槍のように突き抜けてくる馬影が走る。
それがダンシングブレイヴだ。
猴戮詬士瓩虜嚢皀僖侫ーマンスが展舞される。
他馬は全くばてていない。疲弊しきっておらず…それどころか加速に加速しているのである…それにもかかわらず、それ以上の回転力とワープするかのような推移推進能力を全開させ、颯爽たる烈風のごとく先頭にたち、ベーリングを突き放して行く…――そこにゴールがあった。

 
〔1986年の凱旋門賞ゴール前〕

世紀のメンバーを世紀の追い込みで殲滅させた歴史的英雄。
彼の蹄跡を一つ一つ、紐解いてゆくこととしよう。

世紀の勇士を射止めたのは、サウジアラビアのハリド・アブデューラ皇太子殿下。サウド国王36人の皇子の中でも、若くして政治活動やビジネスに頭角を現した人物で、ダンシングブレイヴをファシグティプトンのジュライセールにて競り落とした。しかし、実際に馬をみて購買を決めたのは彼のエージェントであるジェームス・デラフーク氏であり、また殿下の承諾を得て「踊る勇士」と命名したのもまた彼で、ダンシングブレイヴを語る上では忘れ難い要人と言えよう。

デラフーク氏は親友であるガイ・ハーウッド調教師へと預託を依頼。快くこれを引き受けた彼は、本馬の成長する日和を細い目で見つめ続け、デビュー前にして、すでに生涯の名馬になることを予感していたという。
デビューは2歳10月のサンダウン。ドーキングS(芝1,600m)で剣閃を迸らせた。
わずか4頭立て、スターケイ騎手の騎乗で巨大生物がプランクトンを鯨飲するようにゆったりと最後方からゆくと、なんとゴールの1ハロン(200m)手前でまだ最後尾という絶望的とも思える境遇から、わずか微動だにした鞍上のサインに応え、鋭敏。全くの馬なりのまま、他馬に3馬身差もの大差を突きつけての快勝で狹狙皚瓩琉譽據璽犬魴るのだった。

2戦目も同様の大楽勝で、すでにとんでもない馬がいるという噂が殷賑を騒がせるようになっていた。この年の2歳チャンプは殿下のバハロフだったが、ダンシングブレイヴはバハロフを調教でものともせず、楽々と突き放してしまっていた。これを粒さに認めた幾人かが口伝したのだろうか。ダンシングブレイヴはいつのまにか英2000ギニーの1番人気に支持されていた。

3歳緒戦のグレーヴンS(芝1,600m)をこれまたビデオのリプレイを繰り返すかのような大楽勝。英2000ギニーはさすがに相手が強くなり、グリーンデザートが彼とスターケイ騎手の前に立ちはだかった。先頭を譲らずダンシングブレイヴを跳ね返そうと躍起になるグリーンデザートに、ついに勇士に鞭が放たれる――…かに見えたが、鞭をかざしただけでダンシングブレイヴは信じ難い加速をみせ、ついには3馬身突き放して一冠目を手中に収めた。
二冠目は当然のごとくダービーとなる訳だが、父方・母方ともにマイラー色の濃かったダンシングブレイヴにはスタミナの欠陥が危惧された。しかし、陣営はこの馬のスタミナを信じ、そしてそれ以上に稲妻のような瞬発性能に全幅の信頼を寄せ、ダービーへと意気揚々、溢れんばかりの自信と誇りを胸に送り込むのであった。
勇者は最後方からエプソムのダービーロードを歩んでいった。レースは超スローで展開され、スターケイ騎手が犂躙鵜瓩鮖|里靴浸、すでに先頭まで団子状態に馬群は一塊。タテナムコーナーをカーブしながら外へ持ち出そうと試みるが、閉じ込められ、坂を下った時点で交わしたのはわずか2頭。もうゴールまで距離はなかった。はるか前方でシャーラスタニが悠々とダービーゴールを目指していた。そうはさせじ――
「まだだッッ!まだ間に合う!いくぞ!!」
スターケイ騎手がゴーサインを送り、ダンシングブレイヴへと生まれて初めてレースで鞭が一閃放たれた。

まるで光の槍のごとく、馬群を突き抜け、坂を駆け上がるダンシングブレイヴ。
スターケイ騎手も豪腕を唸らせるパワープレイと言わんばかりに追いに追いまくったが、わずか1/2馬身差届かなかった。
この時のラスト1Fはなんと10.3という凄まじさ!
エプソムの深い芝で10秒台というのは戦慄の数字である。セクレタリアトのベルモントSの勝ちタイム2:24.0と双璧を成す究極のものと賛嘆していいだろう。

このあとダンシングブレイヴはエクリプスSを4馬身差圧勝。古馬をあっさり蹴散らすと、キングジョージでシャーラスタニに雪辱。
秋はセレクトSから始動し、軽い相手に調教代わりの10馬身差の超大差勝ち。
そうして伝説の凱旋門賞である。
この時の勝ちタイムは2:27.7のレコード。最後に、引退レースとなってしまうBCターフだが、敗因不明の4着大敗。目に土の塊が入ったためとも、歴戦の疲労によるものとも言われている。

BC敗戦後、引退しモハメド殿下のダルハムホール牧場で種牡馬生活をスタートさせたが、マリー病という鳥の結核である奇病に蝕まれ、闘病生活も同時に始める苦境にたたされてしまう。
抗生物質の投与による懸命の治療が実を結び、再発の恐れがなくなったところでJRAが8億2000万という、これほどの絶世の名馬が破格の低価格で購買され、日本の土を踏むこととなった。
そのわずか一年後…コマンダーインチーフが英愛ダービー馬となり、ホワイトマズルが凱旋門賞で2着すると、欧州の生産界は歯軋りを立てて手放したことを後悔したという。



〔種牡馬時代の写真。早逝が悔やまれる〕

日本でもキョウエイマーチが桜花賞を圧勝、キングヘイローが出現し、その血は孫・曾孫の代へと広がりつつある。脈々と受け継がれてゆく勇士の遺伝子に彼の逸話も添えておきたい。
天翔槍閃――。
あの大気も震わす究極の刹那・その瞬間を。
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奇跡の名馬 (英国の名馬) * 13:25 * - * - *

   ゼブディー      ―Zebedee―    

 【 ゼー 】

   〜心開いて

―歴史上初の
    シマウマ乗用馬―



父?
母?
母父?

生年:2007年
性別:牡
毛色:縞
国籍:英国[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国](輸入元オランダ)
生涯成績:〆

マーマレード色の斜陽が街並みを照らす頃、一人の老翁と珍奇な仔馬が1頭地元のパブへと歩を進める――。擦れ違う人たちは皆家路へと急ぐ中、その存在と遭遇するや、皆一瞬の懐疑心と信じ難き眼前の邂逅とが交錯し、我を忘れる。それもそのはず。現代の街中をシマウマに乗る老人が闊歩しているのである。足を止め、現実の虚像を真実のものと受理する時間を作らない者たちのほうが不自然というものだろう。

古翁の名はビル・ターナー。長年競走馬の育成を手懸けた人物で、調教師としての腕もかなりのものである。彼は元来より一つの大望を抱き続けていた。それは「シマウマを調教し、手なづける」というもの。どんな名調教師も成し遂げたことも無い、それ以前に発想さえしないような挑戦を、彼は内奥にあたためつづけていたのである。

歴史上、シマウマを家畜・乗用として扱えた前例は一つとしてない他、飼い慣らそうとも彼らは従順として指示・指令を受けようとはせず、乗用とすることなど蜃気楼の彼方に浮かぶ砂上楼閣のようなものだった。いわば、漣波が寄せては返す海浜で、確実に波に浚われることを知りながら砂の城を作り続けるような、不毛の極み、徒労の極みともとれる挑戦なのである。

 
〔野生のシマウマは後50年ほどで絶滅する危険があるという。写真:札幌円山動物園〕

過去に一例のみ、シマウマを家畜化した報告がある。当館のトリビアコーナーにても紹介した『ジャック・キャメロン』の話である。この男、何を想ったか、4頭のシマウマを当歳から育て、馬車を引かせることに成功したというのである。勿論、その過程には幾多もの挫折と苦心惨憺があって、彼の尋常ならざるざる情熱が結実したことは述べるまでも無い。しかしながら、彼をもってしても、次の世代まで家畜としては管理することができなかったし、第三者がシマウマを扱おうとした際には激しく拒絶され、とても乗用として扱うことができなかった。

ジャック・キャメロンの一身一生を傾倒しての挑戦から数十年後、とんでもない縞馬とその飼い主が現れた。それがビル氏であり、ゼブディーの存在である。ビル氏は積年・宿念の輿望を現実のものとすべく、4,500ポンドの大金を叩き、オランダの動物園から生後間もない、14ヶ月のシマウマを購入し、ゼブディーと命名。知り合いの牧場の馬房を借り、調教を試みた。しかし、怯え震躯するゼブディーは彼を拒み噛み付き、恐怖を露わにし続けた。頑なに自分の領界への進入を拒否するゼブディー。

「ゼブディーは…と言ってもシマウマ全部に言えることだけれども…彼らはとても神経質で、木の葉一枚にすら、ビクリと狂心させ怯えてしまう…調教なんて夢のまた夢のように思えたさ」

しかし、ビル氏はゼブディーがどれだけ喰らいつこうが、逃げ惑おうが、熱心に語り続け、優しく愛撫することを決して欠かさなかったという。そしてゼブディーと食事までも共にし、ゼブディーと同じものを口へと運び、自分が無害な存在であること、味方であり友であることを、身体で示唆し続けたのである。こうしたビルの誠心熱意が天へと届いたのか、共同生活から僅か数週間でゼブディーは心を開き、ビルに懐いていった。やがて、ハミを装備し、鞍を載せ、ビルとゼブディーは一体となった。宿願の夢を叶えたビル氏は溢れる喜念を抑えきれず、常連となっている地元のパブへと赴き、マスターをはじめ、町の人々は我が目を疑い、仰天した。
「シマウマを乗りこなし、店へと通うなんて…そりゃたまげたさ!」

   
〔ビル氏とゼブディー〕

果たして、なぜここまで簡単にゼブディーはビル氏へと心開いたのだろうか。誰もが、いや一流の調教師とてこなせるものではない。ビル氏の飽くなき熱情とゼブディーへの深愛とが融合し、彼の心を包む氷を溶かしたとしか表現できない、いわば奇跡的快挙である。
ビル氏は今も愛飲する酒と対話を交わすため、ゼブディーの背に乗りパブへと向かう。


  
〔ゼブディーをブラッシングして労うビル氏〕

ビル氏はゼブディーの今後の進路について煩脳し、その未来を模索している。ずっと一緒にいたい…その想いがきっと片隅にはあろうものの、ペットとして第三者の元で生きてこそビル氏の快挙は本物のものとなる。ライオンのような猛獣に命を貪られることは決してない。だからこそ、敵は自分自身…野生という一つの世界から抜け出した者の決して抗えない運命にゼブディーは挑もうとしている。果たしてそれがゼブディーにとって幸せなことなのか…それは彼自身にしか分からない。
ただ願う。彼が安住し、心開ける人物と馬生を歩むことを。
そして祈る。彼を心底から愛し、一生を傾ける人物が彼と人生を歩むことを。


数年後、老翁の下へ、手紙と贈り物が届くのだろう――。
「ゼブディーとの出逢いを、ありがとう」






今回の写真元:ゼブディー(IKONINIBWANASEED)、ワイングラス(秋山由美子)

奇跡の名馬 (英国の名馬) * 20:57 * - * - *

シニョリネッタ    ―Signorinetta―

 【シニョリネッタ

 〜天使のくれた時間

運命の恋に導かれた
英ダービー・オークス馬




父シャルール
母シニョリーナ
母父セントサイモン

生年:1905年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(英国)
生涯成績:13戦3勝

運命の出逢い――。
心の琴線を爪弾かれ、桜色のハルモニアが眼前へと舞い上がる。
一度はあるはずだ。彼方にも心トキメキ、淡くされど燃え上がる恋慕の一目惚れが。
相思相愛・天涯比隣。天命に導かれ、邂逅を果たし、深く愛し合う二人の結晶――。
新たなるその生命は、きっと犂饑廰瓩修里發里覆里もしれない。




お互いに一目惚れしてしまい、身を焦がすような恋愛の末、誕生した牝馬が、ダービー馬へと登り詰める――。そんな映画や漫画の世界だけのようなドラマが、実在していたことを、彼方はご存知だろうか。
奇跡の翼姫、シニョリネッタ。彼女が歩んだあまりにも煽情的かつ劇的な馬生を鑑みると同時に、彼女の誕生秘話も紡ぎ語っていこう。
                             

イタリアで瀟洒な厩舎を細々と経営していたチェバリエル・エドアルド・ジニストレーリ氏は、1880年に一念発起し、遠くサラブレッドの母国である英国へと渡り、長年の夢であった牧場経営へと乗り出していた。数頭規模の厩舎も隣接されたこの閑静な棟には、ジニストレーリが故国イタリアから連れ添ってきた自慢の愛馬たちが顔を覗かせていた。そんな平凡な生産馬の1頭であったスターオブポルティシという牝馬に、セントサイモンを配することを決めた。
2頭から生まれてきたのは、華奢な牝馬でシィニョリーナと命名され、乳母日傘に愛され育っていった。愛情こそが何よりの栄養促進。そう頑なに信じ続けるジニストレーリは、まだこの時シニョリーナの深淵に宿る途方も無いエナジーを感知するまでに至っては、いなかった。

シニョリーナは、平穏無事に競走馬としての青春を謳歌することに成功した――。
なんとデビューから無傷の9連勝。現在で云われる重賞級レースも勝ち、ジニストレーリを熱狂と歓喜に酔わせたのだった。その活躍ぶりは実に目覚しく、引退後は「ぜひうちへ」と、有名な大牧場からも声が掛かったほど。しかし、自慢の愛娘は嫁にやらない…と主張するが如く、ジニストレーリは断固として誘いを断り、自らの牧場で繁殖活動をさせることに決断。
これが最初の運命の分岐点だった。もしここでシニョリーナを手放していれば、シニョリネッタの誕生も、ジニストレーリのダービー制覇も儚い夢物語へと変移していたことだけは間違いない。人間やはり、目先の金品に目が眩んではならぬ…という何よりの教訓な気がしてならない。

しかし、ここからがジニストレーリにとっても、シニョリーナにとっても、険しい試練の棘道だった。
最初の種付けは不受胎と終わり、ジニストレーリは肩を落とした。しかし、そこは陽気なイタリアの血を引き継いでいるジニストレーリ。すぐ前を向き、翌年へと想いを膨らませたのだった。
ところがである。またその年も不幸なことに流産。そして、その翌年…さらにその次の年も、シニョリーナが仔を宿すことはなかった。

1901年――。最初の種付けからは、すでに10年もの歳月が流れようとしていた。
その年の早春、ジニストレーリに吉報が舞い降りる。ようやく、シニョリーナのお腹に新たな命が芽生えたのである。
まさに大願成就。その翌年、待望の初仔が誕生。この馬はシニョリーノと名付けられ、牡馬としてクラシック制覇も期待された。しかし、現実はそう甘いものではない。死に物狂いで1勝を上げるも、その後は泣かず飛ばず。それでも本番では良血馬の意地を見せるかのように、2000ギニーで2着、ダービーで3着と、この2戦では光る所も魅せた。しかし、健闘もここまで。ここで全ての力を使い果たしたか、衰退と廃頽の裏路地を歩み、暗黒街へと消えていった――。

「私は諦めない」そう自分へ言い聞かせるように、奮い立たせ、自らを鼓舞するジニストレーリだったが、彼の胸の内は、なんとも孤影悄然の寂寥たる憐憫でいっぱいだった。
不幸の連鎖は止まる事が無く、ようやく胎動をはじめ、この世の光を浴びた牝馬も、競走馬としての手解きを受ける前に天国へと旅立ち、1903年の交配でもジニストレーリの祈りも虚しく、流産に終わった。

非望と絶望に暮れるジニストレーリ。
「なぜ…どうしてここまで仔が生まれないのだろう…」

胸奥に降り続ける悲涙の雨。心痛なる日々を送る彼に、ついに天使が微笑む。
「天使がくれた奇跡の時間」がやってこようとしていた―――。


1904年、ジニストレーリはシリーンの種付け権を取り逃し、途方にくれながら、シニョリーナと彼女と寄り添って歩みを進める牧夫との三人(二人一馬?)で、とある種牡馬が繋養されているパドックをすれ違った。
するとどうしたことか、大人しく従順なシニョリーナが突然取り乱し、1頭の牡馬と嘶き合い、グルーミングを始めたではないか。
ジニストレーリはその種牡馬の馬衣へと目をやり、Chaleureux(シャルール)瓩箸いμ樵阿魍稜Г靴拭
“そういえば…この2頭、朝の運動の時や、すれ違う時、必ず挨拶を交わすようにじゃれ合っているな…”

歩を進めようと、牧夫が必死にシニョリーナの手綱を引くが、尋常ではない力で動こうとしない。
それを見かねたジニストレーリが、周囲が腰を抜かして驚くほどの提案を発した。
「この2頭は愛し合っている。今までシニョリーナに子供が恵まれなかったのは、愛の無い結婚だったからに違いない。うん…そうだ!そうに違いない。ようし…2頭を結婚させよう」

この発言に、牧夫は目を丸くしたのは当然のことだった。
これまでシニョリーナに配されてきた種牡馬はすべて超一流の名馬ばかり。しかし、それを今回は取り立てなんの実績も無く、血統も三流のもはや失業寸前に陥っていた馬なのである。

この光景を見た英国紳士たちは、徹底して影で彼を冷やかし、中傷し、嘲笑った。
「あんなどうしようもないクズ馬を宛がうとは!」
「アイツは頭がオカシイに違いない!」

種付けも、ロマンティックな雰囲気を醸し出すため、シニョリーナのパドックへ突然愛しのシャルールが現れるという劇的な手法がとられ、2頭はついに結ばれた――。


〔恋愛に手紙は付き物。もし2頭が人間であったら、どんな恋文を交わしたのだろう〕

そして、1905年、愛の結晶体である牝馬が産声を上げた。
それがシニョリネッタであった。宝愛され、無事に競走馬デビューを果たした彼女を見つめるジニストレーリは、細い目で実の孫娘を見守るように競馬場へと足を運んだ。
しかし、シニョリネッタは初勝利に6戦も要し、歴史的名馬となるには程遠いように思えた。英1000ギニー、2000ギニーどちらにも出走するが、大敗。
やはりカエルの仔は蛙なのだと、嘲笑されるが、ジニストレーニの瞳に輝きが失われることは無かった。完全に彼女シニョリネッタを、一点の曇りも無く信じていたのである。

  
〔この猫の名前は“シニョリネッタ”という。もちろん本家とは無関係であるが、愛くるしさに心和む存在であることに違いは無い〕

1908年の英国ダービー。エプソムへと奇跡のシャワーがふりそそがれる――。
単勝100倍以上の超大穴馬。見向きもされない牝馬が、エプソムの急勾配を先頭で疾駆してくる。まるで翼がついたかのように、颯爽と軽やかに、屈強なる猛者を退け、薄幸の美少女が世界の頂点とも讃嘆されるザ・ダービーのゴール板を先頭で駆け抜けた――。

競馬場は驚嘆とどよめきに支配され、静観を完全に失っていた。正装した貴族・紳士たちが微動だにできず、佇立する中、ジニストレーリは目頭を熱くしながら、シニョリネッタを迎えた。
厩務員の作業服に麦藁のパナマ帽という、英国ダービー馬のオーナーとしてはあまりにもかけ離れた姿で、シニョリネッタの頬を愛撫している。
この姿に感極まった英国王エドワード7世は、貴賓席から自ら身を乗り出し、スタンディングオベーションで称えた。

  
〔パナマ帽。この麦藁仕様というと、田園風景や牧歌的光景が目に浮かんでくる〕


犂饑廰瓩ら2日後、エプソムオークスにおいても風の羽衣を翻し、浮動するシニョリネッタが圧勝。オークス2着に終わった母の無念を晴らすとともに、なんと、史上3頭目となる英国ダービー・オークスダブルという歴史的快挙を成し遂げてしまったのである――。


  
〔牧場でのシニョリネッタ。1801年のエレノア、1857年のブリンクボニー、1882年のショットオーヴァーにつづく、史上4頭目の牝馬によるダービー制覇は偉大なる快挙だ〕


  
 「アナタが好き」



穢れ無き純粋無垢なままの、真っ直ぐで澄み切った…淡く切ない恋心。


奇跡を呼び起こす魔法の言葉であるかような、そのたった一語に込められた想いは海よりも深い。
永久を誓った2頭が織り成した稀代のサクセスストーリー。
それは遺伝学や生産学を遙かに超越する、科学では測りきれない、牋Ν瓩生んだ犂饑廰瓩修里發里世辰拭宗宗宗


      
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奇跡の名馬 (英国の名馬) * 19:34 * - * - *

 スワロウテイル   ― Swallow tail ― 

  【スワロウテイル】

〜ピンク・ホーリー・
       ラグーン〜

―英国から
  ブラジルへと渡り
 夢を紡いだ歴史的名馬―



父 ボワルセル
母 スキァッパレッリ
母父 スキァッヴォニ

生年:1946年
性別:牡
毛色:黒鹿毛
国籍:グレートブリテンおよびアイルランド連合王国
生涯成績:12戦5勝
memorial400!

南国の楽園をイメージする時、彼方が連想するものと言ったら何だろうか。
青い海…白い砂浜…椰子の木…珊瑚礁…そよぐ潮風…波のセセラギ…漣艶が織り成すグラデーションは言葉にもならない壮麗なるパノラマを展開し、夕凪の空と斜輝を煽情的に心へと溶け込ませてゆく…――。
泡沫のマーマレードスカイ。南国の情景にはなぜか“蝶”が相応しい。海豚も実にマッチしているが、千紫万紅のハイビスカスに眩耀なまでの燐光を放ちひらめく蝶の絵に比肩しうるものもないのではなかろうか。蝶…中でもその代表格とも言えるのが「アゲハチョウ」だが、英語ではアゲハを“Swallow-tail”と言う。見た目がツバメの尾に見えるから、それ由来・起端としているものと推察される。また一昔前の男性の正装であった燕尾服も“Swallowtail”と呼称されていたものである。

   
  〔アゲハ蝶〕


1946年、第二次世界大戦という20世紀最大の負の遺産が終焉を迎えてから一年の時を得た英国に1頭の牡馬がヒラリ舞い降りた。それがスワロウテイルであった。
巨大なる能力を内包しながら、結局ほんの僅か、チラリとした微光しか垣間見せることが出来なかった薄幸の競走馬生であった本馬は2歳戦で強烈な勝ち方を見せる。大きな出遅れ、立ち遅れといった不利を被ったにも関わらず、全くの持ったままでグングンと2番手を引き離し大勝。しかし、慢性的な脚部不安と身体の疾患を抱えていたスワロウテイルは、全能力の内10%も見せることが出来なかったと、陣営は後に語っている。スワロウテイルはロイヤルロッジS(芝1,800m)、チェスターヴァース(芝2,460m)と勝ち、英ダービーへと駒を進める。スワロウテイルは後続から一気に直線で天槌するような猛襲をかけるが、3着と敗戦。

廻漣に飲み込まれてしまったアゲハ蝶は、心底に眠らせたる獅子のポテンシャルを放散することが出来ずに、キングエドワード酸Sを勝ち土産代わりに手中に収めると、競馬場から尾を翻して飛び去っていった――。
オーナーサイドと陣営間で協議が遂行され、スワロウテイルの新天地が模索された。
亭主の好きな赤烏帽子とはよく言ったもので、競走馬はどこまで行っても馬主のもの。オーナーの決めた路と方針は絶対であることは、今も昔も変わらない。

  


南米ブラジル…ここがスワローの種牡馬として与えられた場所になった。しかし、紺碧の天と蒼い海が広がるラグーンに蝶が映えるように、またスワロウテイルにとっても、ブラジルは最高の舞台となるのであった。まるでブラジルという国が、彼へと潤沢かつ絢爛な晩餐を帆走さするようなパワーを天与する聖廟であり、まさに聖櫃と呼べるような聖域へと昇華してゆくこととなる。


 
〔スワロウテイルの最高傑作。ティメオ。ブラジル三冠に加えダービーパウリスタ、コンサグラカオ大賞典を勝ちブラジル五冠を達成。さらにはブラジル国際大賞典も制し、不動の最強馬に君臨した。距離適性も幅広く、芝1,200〜3,200mのGI級も物ともせず、颯爽とこなしてしまった。しかも種牡馬としても大車輪の活躍。最高の後とり息子である。スワロウテイルの真のポテンシャルは、彼がブラジルで見せたそれであったのかもしれない〕



数年後…
スワロウテイルはブラジル生産界から神駒に崇愛されるほどの強大なる存在となっていた。デビューする産駒が次々と走りに走った。蝸牛も亀でも走らせてしまうのでは無いだろうか…と幻惑するほどの、天井無しの騎虎が旗鼓を上げる曙光の勢いで、もはや手のつけ様が無い様相すら呈していた。
中でも、日本へ降臨したサンデーサイレンスがそうであったように、クラシックシーズンに入るや否や、メキメキと力を付け始め、バイオリズムは上昇曲線を描き始めた。
まるで自分が勝てなかったクラシックを巨鯨がプランクトンを一飲みするように、全てを飲み込んでしまうような感すら、当時の群俗は感じていたという。
深潭に眠る潜在エナジーのすべてを、ようやくスワロウテイルは解放できたのかもしれない。
その状況下が競走馬時代でなく、種牡馬時代であったというだけだったのだ。
彼の奥底に揺らめく途方も無きダイナミズムが競走馬時代に解き放たれていた場合、どれほどの名馬へと“変態”、豹変を遂げていたのか、想起することすらも、戦慄が走る――。



                                        




クシピアースの慟哭と
飛燕の翼韻。

       


恋人たちの
セイント・ピンク・ラグーン…そこは誰もが夢見る桃源郷。
心あたたまり嬉色で満たされる人生最高の居場所。どこになるのだろう?



スワロウテイルが見つけ出した奇跡の海泡。
いつか私も心安らげるそんな場所との邂逅を果たしたいと、桜琴の夕瑛に祈り誓いを立てる――。


  

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奇跡の名馬 (英国の名馬) * 01:39 * - * - *

ラルカン

   【ラルカン】

 〜騾馬と南極冒険紀〜

―冒険隊一行を
      支えたもの―



父 不明
母 不明
母父 不明

生年:1900年代初頭
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:英国(生産地はインド)
生涯成績:〆

人類の探究心ほど底の知れないものはないのではなかろうか。
科学技術が発達し、飛行機が空を飛び交い、衛星中継がなされ、世界情勢をリアルタイムで体感できる今でこそ、「秘境」や「魔境」といった単語は馴染みが薄弱となってきているものの、深海底や南米・アフリカの人類未踏の領域はまだかろうじて残されている。

かつて、幾多の冒険家、探検家たちが海を航海し、未知の大陸へと脚を踏み入れ、血眼で解明解析に乗り出していた時代、南極大陸はその一つの大きな目標地点であった。
日本で言うなれば、白瀬中尉の南極探訪が有名な話である。また世界で周知の冒険譚ともなっているのがアムンゼンの南極点到達ではないか。しかし、その極光を放つ偉業の影に隠れているのが英国人のスコット率いる探検隊の南極圏での悲惨な末路と、彼らに命の全てを懸け身を捧げたポニーたちの悲話である。

   
〔スコット氏の彫像〕

1910年11月26日、テラ・ノヴァ号が汽笛を港へと響かせ、大海へと旅立っていった。
船には33匹の犬と彼らの餌であるビスケット5トン、そして馬の飼料50トンと共に、20頭のポニーが乗船し、ニュージーランドへと暫しの別れを告げたのだった。
船は波と時に揺られ、1911年の1月4日水曜日、ついに彼らは南極大陸のへと上陸を果たした。探索の拠点基地を設置する期間は隔靴掻痒として掛かり、旅の始点が打たれたのは約10ヵ月後の11月1日。その時、ポニーたちはすでに疝痛、サナダムシといった厄介な病魔に侵されてしまっていたという。まともな飼料が底を尽き、滋養を摂取できなくなってしまった彼らに待っていたものは、あまりにも悲惨かつ残酷な結末だった。1911年12月9日、第31キャンプ地において、全ポニーは射殺され、その存在は冷暗なる暗黒世界の闇の中へと放擲されてしまったのである。


     
〔今もなお、現存する拠点基地。封を切られていない食料もかなり見受けられる〕


1912年の2月、テラ・ノヴァ号は南極探査のための準備を再補填するため、スコットら、一部の隊員をケープ・エヴァンスの基地に残し、インドへと向かった。そこで宛がわれたのがラルカンをはじめとする騾馬7頭と食料であった。
ラルカンたち、騾馬はインドで探検用に十分に調教が積まれていた優秀な馬ばかりで、帆布で作られた「スノー・ゴーグル」を装備し、さらには雪靴まで履かされるという盤石の準備がなされていた。さらに心強いことには、「搖り箱」の中で、船の揺れに対応・順応するための筋肉を発達させるという、特殊訓練も消化していたため、驚異的な耐久力と頑強さを見せた。
ラルカンらの騾馬たちは長い船旅を終え、さらには南極での旅路においても全く動じず、ポニーたちが四苦八苦しつつ駄載、牽引した貨物より遥かに重量のある700ポンド(317.5キロ)もの荷を牽き、隊員たちを鼓舞するのであった。
中でもラルカンは指折りの屈強さを誇っていたらしく、一行の心の支えにもなった愛おしい存在であったという。

しかし、旅の終わり、スコットの姿はそこにはなかった――。
ラルカンたちが上陸した時、すでに冷たくなり、何も語らない彼が、静かに眠っていた。
彼の夢を叶える為に海を越えやってきたラルカンたちは、その時何を想ったのだろう?


                              

我々人類の新たなる歴史の一歩。その傍には馬がいた。
彼らの存在なくして、今日の発展も繁栄も、そして裕福な生活もソコにはなかったに違いない。とある学説でも、馬の存在なくして現代社会の進展は有り得なかったと叙述、論及が重ねられているが、それも大げさな話でもなさそうだ。


   

モノ言わぬ、人類へと与えられた天からの贈り物に、ささやかなる祝盃を。

天涯比隣、「ありがとう」の想いを一杯に注いで――――。



奇跡の名馬 (英国の名馬) * 02:42 * - * - *

デヴォンロック   

  【デヴォンロック】

〜競馬は小説より奇なり〜

―グランドナショナルで
  幻の飛越をした名馬―



父 デボニアン
母 クーラリーン
母父 ロックロモンド

生年:1946年
性別:セン馬
毛色:鹿毛
国籍:グレートブリテンおよびアイルランド連合王国

ディック・フランシス(Dick Francis、1920年10月31日 - )は、競馬ファンなら誰もが一度は耳にしたことのある、英国が誇る偉才の小説家である。彼は障害競走の元騎手でもあり、本名をリチャード・スタンレー・フランシス(Richard Stanley Francis)。“ディック・フランシス”はペンネームなのである。
彼はイギリスのウェールズで生まれ、1953年から1954年のシーズンでイギリスの障害競馬においてリーディングジョッキーに君臨。また、1953年から1957年にかけては、クイーンマザー(エリザベス王太后)の専属騎手を務めることになる。

そんな彼も最初から成功のレールに乗っていた訳ではない。
デヴォンロックを語る上で切っても切り離せない、彼の生い立ちから話を進めていきたい。
フランシスの祖父はアマチュア騎手として20年以上の経験を持ち、父も第一次世界大戦の前にロート・フィリップス厩舎の控えの専属騎手を数年勤めていた。父の厩舎には乗馬学校が併設されており、フランシスは7才の頃から乗馬学校のポニーや乗用馬に調教師代わりに騎乗していたという。騎手を目指していたフランシスは15才で学校をやめ、父の仕事を手伝うようになる。そんなフランシスは逸る気持ちを抑えることが出来ずに、16才の頃から何度か競馬厩舎に雇われようとしたが、結局願いは叶わず、夢は気泡へと帰っしてしまう。

運命は残酷である。彼の志しを他所に「戦争」という悲劇が彼と馬とを引き裂いた――。
大戦終結後、今一度騎手の夢を胸に、精進と努力の日々を刻むものの、身長という制限の前に、夢は儚くも散っていった――…。
フランシスは子供の頃、小柄で平地競走の騎手になれる可能性があったのだが、成長期に背が伸び、平地競走に騎乗することは身体的に不可能となってしまったのだ。

しかし、しかしである。それは平地での競馬のルール。障害競馬ならば、騎手になるのがまだ可能であった。
フランシスは1946年に障害競走馬の調教師ジョージ・オウインの秘書兼アマチュア障害騎手となり、デビューシーズンで9勝を挙げた。次の1947年から1948年にかけてのシーズンではプロ騎手と同等の100回以上の騎乗回数を得て、シーズン途中も28才にしてプロ騎手へ転向した。祈願の夢が成就した瞬間である。



〔フランシスの作品。デビュー作『本命』に続く2作目。1964年 『度胸』〕


順風満帆に勝利と経験を積み重ねた結果、1953年から1954年にかけてのシーズンからクイーンマザー(エリザベス王太后)の専属騎手を平行して務める。このシーズンで76勝を挙げ、リーディングジョッキーの座を攫む。

そしてデヴォンロックとの出逢い、そして奇怪なる事件の渦中へと舞台は加速度を上げ進展してゆく――。

1956年のグランドナショナルのことだった。
その日のデヴォンロックはまさに絶好調。難関の障害を人馬一体となり、軽やかに、そして颯爽と緑の絨毯を駆け抜けていった。
最終障害も難なくジャンプし、最後の直線。後続には大差を突きつけており、もはやデヴォンロックの勝利は99.99%間違いなかった。
残り70mを切って、大観衆は白熱と興奮のるつぼに飲み込まれ、熱狂としたフィーバーピッチへと様変わりしていた。平常、平静にレースを見守る英国紳士・淑女たちも、皇太后さまの所有馬が栄えあるグランドナショナルを勝利…それも大差の劇的圧勝で締め括ろうとしているのだから、咆哮が地鳴りのように饗応し続けるのも納得がいく。

しかし…信じられないような事が起こってしまう。

残り45m地点に差し掛かった時であった――…



〔デヴォンロック転倒。その瞬間を捉えた貴重な写真〕


デヴォンロックが突然のヘッドスライディングを敢行。場内の空気も一変。歓声が180度反転し、悲鳴と嘆きの溜息へとストリームしてゆく。
倒れたまま動かないデヴォンロックの傍を、後続馬たちがようやく追いつき、ついには追い越してゴールラインを横切っていった――――

「競馬に絶対はない」とはよく聞く格言であるが、このレースほど相応しいレースもないだろう。ゴール手前で突然にして馬が転倒してしまう―…こんな漫画の世界のような事が現実に起きてしまうのだから、本当に最後まで勝負の行方というものは解らない。


それでは、デヴォンロックが突然にして倒れた原因・要因は一体何なのだろうか。あの時、あの瞬間、デヴォンロックに何が起きたというのであろう。
これには様々な憶測や説が流れた。


1.心臓発作を起こしてのもの。

2.自分の影に怯えてのもの。

3.度重なる障害に混乱し、幻の障害を飛越しようとし、転倒。


…こうした分析を余所に、フランシス自身は「大観衆の声援に驚いてしまったようだ」と語っているが…真相は謎のまま夕暮の薄闇の中、今も明らかにされていない。一説には何らかの陰謀なのではないか、という諸説すらあるほど、この事件は競馬における最大のミステリーの一つとして語り紡がれている。


「競馬は小説より奇なり」。
騎手がフランシスであったからこそ、より一層ミステリアスな一面を見せるデヴォンロック事件。
彼は今、英国における一つの暗喩表現として言葉の中息衝いている。
“To do a Devon lock”…「成功の一歩手前で崩れてしまうこと」。

「事実は小説より奇なり」。「競馬も小説より奇なり」。
そして、人生もまた小説より、奇なり。
一寸先は闇。何が起こるかなんて誰にも解らない。だからこそ、未来は光に満ち、競馬は面白い――――。デヴォンロックが教えてくれる大切な事である。


フランシスの名作の数々も、彼との出逢い、そして事件があったからこその賜物なのではなかろうか―――そんな哀愁と物思いを、窓の向こう映える蒼空に写してみた。
何気ない昼下がりのことだった。










  ★彡追記メモ★彡

☆フランシスは生涯を通じてグランドナショナルに8回挑戦して勝利できず、1949年にロイモンドに騎乗した際の2着が最高成績だった。
また、通算で350勝以上を挙げ、1957年に37才で騎手を引退した。


☆フランシスは1987年に日本の中央競馬のレース、ジャパンカップ(第7回)を視察するために来日したことがある。

☆デヴォンロックはハイペリオンの孫。天空を行く馬の孫らしく、飛越センス抜群の彼にあのようなアクシデントが待ち受けていようは…。

奇跡の名馬 (英国の名馬) * 17:57 * - * - *

ニッケルコイン   

  【ニッケルコイン】

   〜飄遙の金貨〜

―グランドナショナルを制した
      翁逢の名牝―



父 ペイアップ
母 ヴィスカム
母父 ウォーターゲイ

生年:1942年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:グレートブリテンおよびアイルランド連合王国

1752年の愛国(アイルランド)…とある日の昼下がりのことだった。
オキャラハンとブレイクという二人の男が狩猟に出るも、まったくの不振に終わる。
その帰途、二人の視線の彼方、およそ4マイル先の小高い丘の上に、セントレジャー教会の尖塔が斜陽の中、視界に入ってきた。その時、こんな提案がされたという。

「ここから教会の尖塔まで競走しないか?ただし…」

「ただし?」

「“一直線に走る”。これがルールだ」

つまり、何らかの障害物に行き当たった場合、これを飛越して進んでいかねばならない…という訳である。これが馬を使った障害競走の始まりとされている。
尖塔=steeple…これを目標として追い掛ける(chase)することから、その競走は現代障害競馬で表現するところの“スティープルチェイス”へと進展してゆくこととなる――――
……。


……――現代。日本における障害競走のイメージというものは、以前とは比較にならないほど陽の光が当たるようにはなったものの、いまだどこか暗い影が付きまとっている。米国にも似たようなことが言えるが、欧州各国やオセアニアでは真逆で、障害レースの重視度は日米と比べたら雲泥の差にもなる。その証拠になるのが、記者やファンによる投票結果で、1999年にレーシングポスト紙が行った『世紀の名馬』選出時、障害馬が除外対象となっていることに対し、多くのものが憤慨し、議論が収まらなかったという。また英国で実施された『好きな馬』で1位に選ばれたのが、伝説の障害馬レッドラムであった(同馬は『有名な競走馬』部門でも3位に選出されている)。また中山グランドジャンプを制したカラジやセントスティーヴンらは、オーストラリアで国民的英雄の地位にまで一気に昇華し、生きる伝説にまでなっている。

平地競走は確かにスリリングであるし、熱狂的で白熱し、壮烈な迫力に溢れている。
しかし、日常的に馬にふれ合うものたちが「国民」という一つの集団を形成する場合、平地競走は不慣れな夢世界の出来事と同じ感覚になるのだ。騎馬民族であり、至る場所に馬の息遣いを感じれる英国における民たちが、平常では想像もしない超スピードで疾駆する平地競馬より、生活の中、乗馬を嗜んでいる彼らが、障害競馬に親近感を覚えるのはごく自然的派生と言えよう。
これを翻せば、日本は馬文化が衰退してしまっている傾向が非常に強い。「馬」と言えば「競馬」しか脳裏に浮かばない我々日本人は、その昔、共に寄り添い、苦難の道を歩んできたパートナーである「馬」たちの面影を忘れかけている。
これでいいのだろうか?

話を俎上に戻そう。競馬の母国であるイギリスには障害レースの象徴にして世界一のジャンプレースが存在する。もうお分かりであろう…そう“グランド・ナショナル”がそれである。この競走の人気がいかに絶大絶世のものかは、その視聴者数を見れば明白である。ある年の英国ダービーの視聴者数が270万人だった際、グランドナショナルはその約3倍となる780万人が視聴したという。
また近年ではさらに人気は上昇のカーブを描き、テニスの最高峰『ウィンブルドン』、あの決勝戦の視聴率を遥かに上回ってしまったと言うのだ。
恐るべし、グランドナショナル。それではその概要と歴史を紐解いてゆくことにしよう。


毎年4月にイギリスのエイントリー競馬場で4マイルと4ハロン(約7242メートル)の距離に、30の障害があるコースで行われる障害競走で、イギリスでは最も人気のある馬券の売れる競馬の競走である。この競走はグランドナショナルミーティングのメイン競走としてハンデキャップで行われ、グレード3とされている(イギリスの障害重賞はgroupでなくgradeで表記される)。
ほぼ毎年出走可能頭数の限界の40頭の出走馬を集めるが、年によっては完走頭数は10頭を切ることも珍しくない。英愛の障害競走では共通のことだがスタートはゲートではなく、スターティングバリヤーを用いる昔ながらのバリヤー式スタートで行われる。
ここがまた古典的であり、昔日の情緒を偲ばせる。
最多出走頭数を記録したのは1929年の66頭。最小出走頭数は1883年の10頭となっている。優勝はおろか、完走することすら過酷を極める危険な競走でもあり、1929年の66頭立て時も完走はわずか10頭。その前年の1928年などは2頭を除いてすべて競走中止という見るものが凍りつき震え上がる結果となった。
その走行距離が7,000mを超える事自体、難局の極みと言えるが、どのような障害が用意されているのだろう?それを見ていきたい。

グランドナショナルに使用される障害は英愛で一般的なものと異なり、トウヒの枝を組み合わせて作られている。全部で16の障害が設けられ、ザチェアーと呼ばれる障害と水濠障害を除いて2度飛越することになる。6番目(22番目)及び7番目(23番目)、8番目(24番目)、9番目(25番目)、15番目の障害にはそれぞれ固有の名称が付いており、順にビーチャーズブルック(Becher's Brook)、フォイネイボン(Foinavon)、キャナルターン(Canal Turn)、バレンタインズブルック(Valentine's Brook)、そしてザチェアー(The Chair)である。

最難関とされるのはビーチャーズブルック。障害は踏み切り地点より着地側が低くなっているため、バランスを取ることが難しく毎年複数の馬が落馬する。これはもはや障害ではなく、トラップと言っても大袈裟なものではない。またザチェアーは踏み切り地点の乾壕をもち、そして最も高い障害である。そしてキャナルターンとフォイネイボンについては、前者は着地後に直角に曲がるコーナーがあり後者もカーブの途中に設置されているため、馬が内側に密集しやすく年によっては多重落馬が発生している。
この生死の天秤とも代言できるほどの危険度から、1961年、動物愛護団体から峻烈な罵詈・批評を受け、蛇蝎視の対象にすらなってしまったがため、障害に傾斜、そして踏み切り板を設けるなどの安全対策が迅速に行われた。その後も何度か障害の形状に変更が加えられ、1990年にはビーチャーズブルックの着地側のスロープ及び水濠が埋め立てられた。このため、ビーチャーズブルックをはじめ多くの障害がその難易度を低下させている。

  
〔ビーチャーズブルックを飛越する馬たち〕

それでも危急的な惨澹たる光景を生むレースであることに変わりはない。しかし、こうした極限の世界だからこそ、奇跡のドラマは天舞する訳で、その燧玉のごとく紡がれた玉石混交の逸話・寓話・エピソードの数々は枚挙に暇がなく、平地競走ではあり得ない空前の事態さえ敢然と発生する。
過去160回を超える競走数の中で、狩猟を得意とするハンター種の馬が競走を本業とするサラブレッドを薙ぎ倒してしまったのは5回を数える。また農耕馬が優勝を掻っ攫ったのが1924年で、彼の名をマスターロバートといった。さらには、タウセスターにてホテルバスを引いていた使役馬が勝利の詩を高らかに放吟したこともある。こちらは1908年のことで、馬名をルビオといった。現在でも語り継がれる伝説の使役馬とは、彼のことである。

   
  〔使役馬 ルビオ〕


さて、160以上の優勝馬の中、牝馬による勝利はわずか12回。

《優勝した牝馬一覧》
☆ミスノォーブレイ(1852)
☆アナティス(1860)
☆ジェラシー(1861)
☆エンブレム(1863)
☆エンブレメティック(1864)
☆カッセテーテ(1872)
☆エンプレス(1880)
☆ゾードーン(1883)
☆フリゲート(1889)
☆シャノンラス(1902)
☆シエラズコテージ(1948)

…そして本編にて登場のニッケルコインにて12頭となる訳であるが、牝馬が出走すること自体、珍しい。障害競走とは本来、平地にて光明の差さなかった牡馬や去勢馬の新たな活躍を見出す舞台としての役割をはたすことが比重の多くを占めているはずだが、牝馬には繁殖牝馬としての道がある。敢えて生命の瀬戸際に立たされるような領域と足を踏み入れるからには、相当な資質を見出されてのことと穆然される(単に馬主の意向による場合や特殊な例外もあろうが)。
ニッケルコインはグランドナショナルを制した最後の牝馬である(2007年まで)。
頑強な牡馬すら疲労困憊、その絶命寸前なまでの苦境の臨界に追いやられる凄惨なるこの障害競走を牝馬が勝ってしまうとは…彼女はどんな馬であったのだろうか。
その生涯を翻ってみてみよう。

ニッケルコインが生まれたのは1941年。小さな農場の片隅に産まれた彼女は、チョコレートのような繊細な色と、ビー玉のように透き通って屈託のない瞳を持っていた。
その後、関係者から煦嫗され、玉杯のように抱愛された。
鞍上の指示に従順なばかりでなく、常に周囲へと気遣いを忘れず、まさに「英国淑女」のような遙遠な雰囲気の馬であったという。こうした気質・気丈は5代前の父、シリーンの隔世遺伝であったのかもしれない。“天使の心と翼を持つ馬”の末裔。そんな彼女だからこそ、グランドナショナルを走破するばかりか、優勝という未来永劫の二文字を天空の五線譜へと乗せることができたのかもしれない。




                             

姚弦なる銀貨と木漏れ日の金貨。
ニッケル製でも心は天使。
戦後間もない時代、陰鬱なる闇影のカーテンが世界を覆い、万民が暗鳴し続ける中、大楽勝でグランドナショナルのゴールラインを過ぎっていった…天使の翼で奏でられた英国民との琴瑟の調べ。
誰にも語られない彼女の韵胤を後世へと届けていきたい。
華胥の国に遊んでいるその安らかなる休息の時も、馬の幸せを想いながら――――。









  ★彡追記メモ★彡

☆ニッケルコインがグランドナショナルを勝ったのは、競走馬としてはかなりの高齢となる9歳の時。数々の困窮な障害と7,200を超える走行距離を乗り切る大海のスタミナと強靭なる精神力は牝馬のものとは思えないものであった。しかも現代グランドナショナルとは比肩出来ないほどの難易度と馬場整備も万全でなかった時代にである。感嘆、感服、激讃の拍手を送りたい。



奇跡の名馬 (英国の名馬) * 14:19 * - * - *

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