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ユンヌ・ド・メ

 【 ユンヌ・ド・メ 】

 〜桃泡のフィアンセ〜

―仏国民を熱狂させた
   速歩のプリンセス―



父 調査中
母 調査中
母父 調査中

生年:1964年
性別:牝
毛色:栗毛
国籍:フランス
生涯成績:137戦74勝(82勝の説もあり)2着50回

1960年代の中期、フランスの繋駕速歩競馬にエキゾチックかつ浪漫譚に抱かれた幽艶なるプリマドンナがピルエットを舞っていた。“ヴァンセンヌのフィアンセ”と呼ばれ万民から愛されたプリンセス。フランス文化の一角を占めるほどにもなった伝説の王妃の夢物語をじっくりと琴奏してゆこう。

1964年に生を受けたユンヌ・ド・メであったが、その風貌はお世辞にも歎美できるものではなかった。頭は異常に大きく、右前肢は内側に彎曲している。馬格だけは大きく雰囲気はあったものの、全体としては鈍重な印象は拭えなかった。しかし、フランス速歩競馬の第一人者であり、彼女の馬主でもあったジャンルネ・グジョン氏にとってみれば、可愛い愛娘。せめて競走はさせてやりたいと、2輪車を引かせてみたところ、轣轆も軽やかに、あの歪曲した肢が嘘のようにしなやかな運びを見せている。紅口白牙の天女が桜舞するような瓢踊たる少女がそこにいたのである。これに心変わりしたジャンルネ氏は全幅の信頼を寄せるジャンルイ・プピオン調教師の袂へと預け、壮大なる未来へと展望を膨らませるのであった。




                                     


しかし、ユンヌ・ド・メは非常に繊細で、些細なことで冷静さを失ってしまう。また孤独も嫌い、平静な精神を保つことは難局を極めた。そこでプピオン調教師はこの馬に一生を捧げることを誓い、まるで実の娘を扱うように、宝愛し、付きっ切りになって世話と調教に当たった。頬を寄せ、耳の傍で語りかけつづけたという。
この天涯比隣の愛情がこの馬の全てを解き放つ。2歳時にデビューを果たすも、3戦して全敗。しかし、3歳を迎えると覚醒を遂げる。1968年の6月7日。この日から伝説は幕を開ける。1:16.8というヴァンセンヌ競馬場のコースレコードを颯爽と計時すると、連戦連勝。圧勝に次ぐ大楽勝の連続で、大レースを次々と手玉にとっていく。さらには海外遠征へも飛び立ち、31勝を上げる(海外のみ)。





フランス国内においては、もはや一躍国民的アイドルにまで昇華していた彼女に欲しいタイトルはたった一つだけだった。繋駕速歩競馬の最高峰に位置づけられるアメリカ賞がそれである。
このレースだけがどうしても勝てない。絶対的本命に毎回支持されたものの、掴み取りたい麦藁帽子は、常に伏兵に掻っ攫われていってしまった。
プピオン師は苦虫を噛み潰したような表情でこう語っている。

「ヴァンセンヌの可愛いフィアンセは、この競馬場に呪われている」

少女の夢は子供にたくそう…ファンもオーナーも愛慕は一緒だった。
競馬場へと煌く残影を照射し、ファンへと暇乞いした少女は、最愛の婚約者であるヴァンセンヌ競馬場へとも別れを告げ、母となった――。

引退から4年の月日が流れ、ようやく待望の時が訪れた。あの愛娘に赤ちゃんが生まれるのだ。出産は難産となった。夜を徹しての、分娩に人も馬も、片時の休息をも許さない緊張がピンと張り詰めた糸のように明け方まで続いた――

生まれてきたのは、牝馬だった。
命の鼓動を確かめるようにそっと寄り添う母子に、皆目頭を熱くしていた。


しかし―――


仔馬の誕生からわずか一ヶ月後のことだった。
悲劇がフランスを包み込んだ――。


1974年4月。
ユンヌ・ド・メは、たった1頭の幼い娘だけをこの世に残し、天へと翔けていった――――

胃の裂傷がその死因であったと言われている。
プピオン師は声も出ず、打ちひしがれ、まともに生活できるまで3週間以上、深い哀しみに暮れていたという。



    
花の都パリを舞台に、絶世の舞踏会で華々しく舞い続け、人々を勇気づけた一頭の少女。

     

桃泡のシャボン玉が舞い上がる風の中、ほんわかと微笑む彼女が今も記憶からはなれようとはしない。


   




  ★彡追記メモ★彡

☆ユンヌ・ド・メの獲得賞金は900万フラン。

☆出産した牝馬の名前は「キオコ」といった。

☆スペインの天才画家ダリはこの馬に惚れ、画布に描いたという。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 23:45 * - * - *

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