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サイテーション    ―Citation―

 【 サイテーション 】

〜 ザ・グレイトホース 〜

―伝説の16連勝・
    米国競馬の象徴―



父 ブルリー
母 ハイドロプレーン
母父 ハイペリオン

生年:1945年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:アメリカ合衆国
生涯成績:45戦32勝[32-10-2-1]

米国の象徴的競走馬というと多くの者が推奨するであろう“ビッグレッド”こと歴史的偉大なる2頭。1頭がマンノウォー、もう1頭がセクレタリアトである。2頭は共に“ビッグレッド”と呼ばれ万民から愛され、そしてその途方も無き破壊的パフォーマンスと威圧するような巨体に酔い痴れた――。
しかし、私が米国のシンボリックホースと鑑みるのは彼ら2頭ではなく、このサイテーションであると考察する。連勝を続ける者が一つの大きな境界線と考えるのが「16連勝」。この燦然と輝く記録を創ったのは同馬。また“100万ドルホース”というアメリカンドリームを現実の下へ初めて招来せしめたのも本馬である。連勝に次ぐ連勝と米国馬特有のタフネスぶり、そして天壌無窮、圧巻の大爆走で飾るヴィクトリーロード…米国の最強馬の確固たるイメージを全世界へと焼き付けた馬こそ、本馬サイテーションであると、私はここに明言し、推敲を進める。

  
〔様々な文献・資料を読み解き、彼の走りも映像で確認したが、やはり猜胴餠デ廊瓩両歡的存在には彼が、史上最強馬候補かつ猜騰瓩両歡Г砲蓮悒咼奪哀譽奪鼻2頭が相応しいと私は思う〕

サイテーションは第二次大戦という20世紀最大の負の遺産が終焉を迎えつつある1945年の4月11日、米国は名門カルメット・ファームへと降誕した。
幼少時のサイテーションは決して見栄えが良かった訳でも、驚異的身体能力を見せていた訳でもなかったが、血統が群を抜いていた。父は時を統べる大種牡馬ブルリー、母ハイドロプレーンは第17代ダービー卿の生産馬。彼女の父はハイペリオンで母が英オークス馬ドボガンという超良血だったのである。オーナー・ブリーダーのウォーレンライト氏はその点に注視し、サイテーションの成長に祈念を深めた。育成段階が進んでゆくに連れ、サイテーションは祈りに共鳴するかのように頭角を現し始めた。
デビューはハヴァードグラース競馬場のダート900m戦。持ったまま楽勝すると星火燎原の猛勢で連勝を開始。僚馬であり、歴史的強豪牝馬ビウィッチにワシントンフューチュリティ(ダ1,200m)で不覚をとったものの、それ以外は全てほぼ追うところなしの大楽勝で、その名を全米へと轟かせた。
クラシックロードを踏破する1948年はハイアリアパークの一般戦(ダ1,200m)で始動。足慣らしと言わんばかりの圧走を披露すると、次に出走したのがセミノールH(ダ1,400m)。ここへは前年の年度代表馬であり、時の全米最強馬であったアームドと対峙することとなった。
下馬評では完全にアームドであったが、傲慢なまでに突き放し、最強馬の玉座を略奪してしまう。
3歳初春の時点で全米最強馬となったサイテーションの超進撃がけたたましい警笛となり鳴り響く。
フラミンゴS(ダ1,800 m)を軽くながしながら6馬身の大差を突きつけ、ハイアリアパークの地に暇乞い。いよいよ舵は三冠ロードへと向けられた。しかしである。ここで主戦騎手のアルバート・スナイダー騎手が行方不明となってしまう。捜索が日夜続いたが、結局の分からずじまいで、パートナーの変更をせざるを得ない苦境に立たされてしまう。

新伴侶に迎えられ、三冠請負人となったのがエディ・アーキャロ騎手だった。
春風が訪れを告げるハヴァードグラー競馬場…思い出のデビュー地へと戻ったサイテーションはアーキャロ騎手と共にチェサピークトライアル(ダ1,200m)へ出走。大楽勝すると予期されたこの1戦で格下の馬に足元をすくわれ2着と敗れると、三冠戦へ向け暗雲が立ち始めたような印象を大衆は抱いたようだったが、陣営は何の問題も無いと、三冠への準備を進めた。
敗戦からわずか5日後のチェサピークS(ダ1,700m)では4馬身半差の圧勝。僅かな不安を完全払拭すると、いよいよ舞台はチャーチルダウンズへと推移してゆく。


  
〔サイテーションのペーパーブックも発刊されている〕

父ブルリー、オーナーはカルメットファーム、そして調教師もサイテーションと同じベン・ジョーンズ師という競走馬が別路線で連戦大勝。ケンタッキーダービーの前哨戦ブルーグラスS(1,800m)をレコードで圧勝、ついにこの馬がサイテーションとがっぷり四つに組むこととなった。後に短距離路線で名を馳せ、殿堂馬にも選定されるコールタウンがその馬であった。
最強2騎の初対戦に、観衆は多いに湧いた。がしかし、レースはあっけなく勝負がついてしまった。
先頭をひた行くコールタウンが最終コーナーをカーブし、突き放しにかかるも、サイテーションはまるで別な生き物のように加速を開始し、あっさりと3馬身半差離したところにミントジュレップの美酒があった。陣営はこの1戦をみてコールタウンには短距離路線を歩ませ、サイテーションへはこのまま三冠路線を驀進させた。
つづに二冠目プリークネスSではもはやライバルはおらず、5馬身半つける圧勝。このあとは普通なら三冠目のベルモントSへ出走するところだが、なんとジャージーS(ダ2,000m)へと赴きレコード&11馬身差の大差勝ち!その直後、ベルモントパークへと乗り込んで、悠々と8馬身差の大楽勝で米国史上8頭目となる三冠馬の栄誉を手中に収めるのだった。


〔ベン・ジョーンズ調教師(左)とサイテーション。鞍上はアーキャロ騎手〕

このあとも連戦連勝…先行し前を見据え、直線で全てを交わし去る、完全無欠のスーパーホースとして君臨。ついにピムリコスペシャルS(ダ1,900m)では相手がいなくなり単走となってしまった。
この歴史的1戦を1:59.8という好タイムで駆け抜けた同馬は、威風堂々と年度代表馬に選出され、誰しもが最強馬として彼を崇拝することとなった。

ところがである。翌1949年、サイテーションは骨瘤を患い、全休せざる得ない状況に追い込まれてしまうという、突然の不幸に見舞われてしまった。
これで最強馬伝説に暗幕が下ろされることになるか…と米国民の脳裏を暗影が過ぎるが、彼は戻って来た。勝つために、ただ先頭を奪い、比類なき存在へとなるために――。
迎えたる運命の1日。1950年1月11日、サンタアニタ競馬場の一般競走でついに16連勝瓩鮹成。これが後世の名馬たちの壁となって残る記録になる。


〔調教師いわく、「サイテーションは前に馬がいれば、全馬交わす。交わすまで加速をやめない」と語っている〕


全米による、全米のための、全米の最強馬サイテーション。
偉大なる名馬の蹄跡…そこにたゆたうのは神々しいまでの生命力。
そして永久の燈り火となり続ける絶大なる記録の数々。
米国のすべてを凝縮したシンボルであり続ける孤高のグレート・ホース…サイテーション。
記憶と記録へとカタチを変え、今も彼は米国の象徴として輝きを放っている―。




☆ ブラッド・ホース誌による20世紀のアメリカ名馬100選ではマンノウォー、セクレタリアトに次ぐ第3位、ESPNによる『20世紀のトップアスリートベスト100』では人間以外としては上記2頭に次ぐ97位にランクされている。

☆馬名は「表彰状」意。

☆引退後はカルメット牧場で種牡馬入りした。産駒の成績は自身の競走成績に比べれば不振と言うしかなかったが、ファビウス(プリークネスステークス)、シルヴァースプーン、ビヨンドなどの産駒を送り出した。その後、24歳で死亡するまでカルメット牧場で大切にされ、死後はカルメット牧場に埋葬された。ちなみにサイテーションには自分の体を噛む癖があり、防止のために食事のとき以外は常に口に篭を装着されていたという。

  
〔サイテーションの墓標〕

☆6歳時、1950年の6月24日、ゴールデンゲート競馬場のゴールデンゲートH(ダ2,000m)で、デビュー以来の38連続連対を達成するが、明らかに全盛期の能力は失っていた。
その後ベイメドウのパースで3着に敗れ、ついに連続連対記録は途絶えてしまった。その後、ハリウッド・プレミアハンデキャップでは生涯最悪の着順5着(それでも2馬身ほどの小差)にまで落ちてしまう。しかし、アーゴノーハンデキャップで7戦ぶりに勝利すると、アメリカンハンデキャップでビウイッチに2歳時の雪辱を果たし、ハリウッドゴールドカップではもう一度ビウィッチを圧倒。4馬身差で快勝し有終の美を飾った。この競走に優勝したことで獲得賞金が108万ドルに到達。史上初の100万ドルホースの頂へと登り詰めた。

☆900m〜3,200mまでの幅広い距離適性を示し、全ての距離で圧勝している

 
〔全距離においてレコード級の時計を叩き出した。レコードは5回記録している〕

☆シスオンバイマイル(ダ1,600m)を走った僅か3日後、ハリウッドゴールドカップ(ダ3,200m)へと出走し、7馬身差の圧勝。驚嘆すべきタフネスぶりと距離への順応性を見せている。

  
 〔サイテーションの彫像〕


   

奇跡の名馬 (アメリカ合衆国・カナダの名馬) * 01:20 * - * - *

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