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神風ライダー(伝説のジョッキー列伝)

 
  神風ライダー
〜伝説のジョッキー列伝〜


ここは世界中に実在した伝説の騎手たちの記録を記したアーカイヴスです。
続々と更新・追加予定。ごゆっくりとご覧ください。
 

〜騎手になるためには?〜

騎手になるためには、騎手免許の試験に合格する必要がある。

騎手免許の試験を受けるには、競馬学校の騎手過程に入学して勉強しなければならない。

その騎手過程の入学条件は、中学卒業以上で、「20歳以下(地方競馬)」あるいは「20歳未満(中央競馬)」となっている。

しかし、18歳以上の合格者はほとんどいない。

実際、高校の卒業を待って入学試験を受けるのでは遅いといわれている。

できれば、15歳か、16歳、遅くとも17歳までに競馬学校の入学試験を受けなければ、騎手になるのは難しい。

ただし、競馬学校に入学できなくても、厩舎に就職し、調教や騎乗を習い、騎手免許試験を受けるという方法はあるが、

競馬関係の法律や馬に関する学問まで独学で勉強するのはかなり苦難を極める。

競馬学校は、中央競馬と地方競馬のそれぞれに設置されている。

中央競馬が「JRA競馬学校(千葉県白井市)」で、

地方競馬が「地方競馬教養センター(栃木県那須塩原町)」

JRA競馬学校は3年間、地方競馬教養センターは2年間通うことになる。

入試倍率は、どちらも10倍前後と狭き門。JRA競馬学校に合格する方が難しいといわれている。

 

《騎手になるための基本的条件》

年齢・学歴は中学卒業以上で20歳未満。
視力は裸眼左右0.8以上(眼鏡、コンタクトレンズの使用は不可)。
体重は46.5キロ〜44キロ以下(生年月日により異なる)。
これらの条件を満たした者だけが競馬学校騎手課程に入学できる。
騎手課程在籍期間中は年齢区分毎に上限体重が指定され、

いかなる理由であっても、この体重を超過することは認められていない。

なお、卒業時の上限体重(指定体重)は、全生徒一律47.5kgとなっている。

 


犖殿絅蹇璽泙凌正骸雖
●ディオクレス
ディオクレスは、イベリア半島生まれ。
24年間で4257回にも渡り戦車競走の御者として出走。優勝2900回、2着861回、3着576回、受賞4着1回、着外1351回、重賞競走92勝。
上記の成績を上げ、9頭を100勝馬へと導いた。


狄燭離皀鵐ー乗り
●サリー
三重県伊勢市有滝町にある、伊勢乗馬センターで飼われている猿の騎手。
当センターを管理する橋爪軍児氏の手で育てられた猿で、ほかにもキューピー、ハッピーと2頭の猿もいるという。


 

爛蹈椒薀ぅ澄辞
●エレクトリック・ジョッキー

米国はデビット・クマエ氏の発案品。特許も取得されたという。
遠隔操作を可能とし、本当に馬を操作する事も可能。
実際にレースでも使用され、票を投じられた事もあった。
作成したのはテネシー州のチャールズ・マクヴィノム氏。



狎こ最古の
  シマウマライダー

ロスチャイルド男爵

 
ヴィクトリア朝時代の高貴で、類まれなる技術を持っていたという。その技巧はシマウマすら掌握するほどだった。4頭のシマウマを手玉に取り、バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている。
シマウマで競馬もしたらしいが、公的記録として残されておらず、どんな競走記録だったのかは定かではない。また、その4頭のレーシング・ストライプたちがその後どんな経緯を辿ったかについても不明である。


鎌倉時代の不敗騎手
  こますけのぶ
狛助信
鎌倉時代の説話集。橘成季(たちばなのなりすえ)編。1254年(建長6)成立。20巻。
その巻の15・第481話に記されている幻の名手。
当時の競馬(くらべうま)にて無敗を誇っていたらしく、大変な名声を博した名手だったという。
ある日の競馬に勝利した直後、門の閂(かんぬき)に頸を引っ掛け、あえなく命を落とす。


2年で14,000マイルを走破
福島安正
  “バロン福島

これは『世界記録集』にも展示済みの偉大なるホースマンの記録である。
福島少将はベルリンから日本まで、約14,000マイルを走破したと伝えられている。
これは騎馬を通じての人類の走行距離としては史上最長距離を誇るもの。
マイナス60℃の環境時も耐え抜いての歴史的偉業であった。
その強靭なる精神と謙虚な立ち居振る舞いから爛汽爛薀ぁΕ蹈鵐哀薀ぅ澄辞瓩箸靴匿魄Δ気譴討い襦
ちなみに…走破した14,000マイルをキロ換算すると…

22,526Km!

メートル換算すると…

22,526,000m!!

信じ難い伝説の騎手がここ日本にいた…。
ちなみに騎乗した馬たちは、その後天皇家へと献納されたという。

 

 

狄拭ε狙發量昭雖
大野市太郎

横浜根岸に端を発する明治競馬における、日本人騎手の草分け的存在にして、

真の伝説の騎手と称えられる存在が彼、大野市太郎である。

「イチ」の愛称で親しまれ、44歳まで現役を続けた。

神奈川県出身で、1876年、明治9年のデビュー。

ちなみに、根岸競馬における日本人第1号は松村亀吉、もしくは久保田太郎とも言われている。

最大のライバルは神崎利木蔵。この二人が近代日本競馬の黎明期を引っ張った。

 

 

爛▲襯丱ぅ箸乃骸蠅鯡海瓩新抓鵜
ウォルター・ロクストン

明治初頭に来日。警官として神奈川県警に雇われの身となった彼は、

1880年(明治13年)〜1885年(明治18年)にかけて、

当時、春と秋に三日ずつ行われていた横浜競馬に騎手として出場している。
また1884年(明治17年)には、上野不忍池で行われた共同競馬に日本人騎手へまじり、

ただひとりの外国人騎手として出場したと、史実に残っている。
さらに、明治15年10月31日の横浜競馬では、全9レースのうち、合計5レースを彼が勝っている。
「春秋二回の競馬の時、職務を休んで競馬の騎手をしたい。

それを認めてくれるなら月給が今の2/3以下でも結構」と語っており、

余程の競馬好きであったことは間違いない。

 


犖習いのまま
リーディングジョッキー

村口繁一
わずか28年でその生涯を閉じた薄幸の伝説騎手。
村口騎手は大正4年5月2日に生を受け、小倉の坂本勇次郎厩舎に所属でデビュー。偉業達成は昭和16年のこと。平地で12勝・障害で30勝を上げ、なんと見習い騎手でリーディングに輝いてしまったのである。
しかし、翌年の10月4日、阪神競馬4日目第八競走に騎乗した彼は、2周目の第三障害で落馬し、昏睡状態に陥ってしまう。その10日後、彼は目を開くことなく、この世を去ってしまったのであった…。
JRA創設前の偉大なジョッキーの話である。



犁疎の騎手
高橋政治郎
彼、高橋騎手は富山の山村出身。小学校卒業と同時に上京し、馬術に明け暮れた。戦時中は乃木大将が騎乗する馬の調教に従事していたが、安田伊左衛門の呼びかけにより競馬の世界へと足を踏み込む。
片足を失ってしまったのは、大正4年7月に起きた落馬事故が原因と推考されている。
義足になってからの活躍は足を失う以上のもので、想像を絶する血の滲む努力が彼を支えていたものと思われる。全国にファンがおり、引退後も調教師として日本競馬に尽力した偉大な人物である。



猝声・大正時代
欧州で大躍進を遂げた
   日本人騎手

赤石孔
彼こそが欧州仕込みの伝説の日本人騎手であり、ヨーロッパ流モンキー乗りを日本へと持ち込んだジョッキーなのである。
赤石騎手は明治27年11月13日、福島市生まれ。福島中学2年時修学後、騎手募集に応募し、ヨーロッパへと単身乗り込んだ。英国、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコと、
競馬の本場の舞台に身を投じ、肌で当時最高レベルの競馬を体感。
昭和2年に帰国し、当時の根岸競馬へと新風を吹き込んだ。
鞭持ち替えの早業は「一鞭千両」と称えられたという。
昭和14年まで根岸で騎乗。300戦36勝、
2着35回、3着34回の成績を残した。



狆赦卒の米国
100勝以上上げた若者

仲村直己
彼は1944年に生まれ、米国へ留学。サンフランシスコに身を置いていたが、
当地の競馬に魅せられ、ついには騎手となってしまったという。
1970年から騎乗し、1975年の5年間で1435戦134勝という成績を上げた。
この134勝という記録は武騎手の記録をも遥かに凌駕するもの(武豊が本腰入れて5年アメリカにいれば十分に更新可能だろうが)。
しかし、その後の消息は不明ままである。


狹狙發里个鵑┐さ骸雖
中西関松
  

ばんえい競馬界の伝説の騎手・中西関松氏(故人)は、戦前から各地の草ばんばで手腕を発揮していた。競馬大会があると聞けば、馬を引き連れて出かけて行った。
昭和22(1947)年に旭川でばんえい競馬が始まったときには、これぞ自分の進む道と悟り、騎手の道を本格的に歩み出すが、しばらくは山仕事も続けていたという。
騎手専業になったのは昭和40年代(65年〜)ごろ。
中西氏のそもそもの仕事は運送業。騎手になってからも、レースのない期間は馬とともに山へ入り木材運びをしていた。当初はみな兼業騎手だったという。
その後、30年近くも名騎手としてばんえい競馬をもり立てた。初期の記録がないため定かではないが、通算2000勝は上げただろうといわれる。後継の育成にも力を注ぎ、教えを受けた騎手や調教師が今も現役で活躍する。



爛潺好拭爾个鵑┐き
金山明彦

史上初めてばんえい騎手として通算3000勝を挙げ、「ミスターばんえい」と呼ばれ、ファンに愛された。通算成績は19712戦3299勝うち重賞88勝。ばんえい競馬最高峰のレースである『ばんえい記念』を6勝した。1999年に調教師試験に合格し、同年末に騎手を引退した。


狷本競馬史上初となる
  初騎乗&初勝利
  &JRA初の外国人騎手


ロバート・アイアノッティ
JRA史上初となる外国人騎手かつ、史上初となる初騎乗初勝利の偉業を達成した幻の騎手が彼、アイアノッティである。
日本でのデビューは1955年。イタリア系のアメリカ人で当時21歳。
日本に来た理由は1953年に徴兵され、日本に駐留する部隊に配属されることになったため。
母国では16歳で見習い騎手となり、フロリダのとある競馬場を舞台に招聘されるまで、約4年の活躍。通算1200戦414勝の成績を収めていた。
日本在住の間に体重を7Kg以上も増やしてしまったことを受け、日本で騎乗することを決意。知り合いだった矢野幸夫調教師に相談し、矢野調教師の元に馬を預けている馬主たちが身元引受人となることを同意。日本中央競馬会も矢野調教師の申し出を受け、アメリカジョッキークラブ側へも話を通し、アメリカ領事館との間で3年の契約を結んだ。さらにJRAは農林水産省へと外国人騎手の出場を認めるよう省令の改正も申請した。
こうした働きかけを受け、無事免許皆伝。除隊後は矢野厩舎で住み込みながら働き、初騎乗の時を待った。
こうして迎えた1955年3月5日、東京競馬場の第一レース。騎乗馬タジマオーは1番人気。出遅れるものの、道中から早くも先頭を奪い、一気の加速。10馬身ほど引き離し、そのまま逃げ切り勝ちを収めた。
しかし…これが最初で最後の勝ち鞍となってしまう。JRA通算成績はわずか22戦1勝。どうしてこの一年のみのキャリアで身を引いたのか…いまとなっては謎のままである。


爛タツムリでも
     勝たせる男

フレッド・
   アーチャー
  

1857年1月11日、イングランド領チェルトナムのセントジョージ病院に生まれる。
1867年、後にセントサイモンも手懸けることになるマシュー・ドーソン調教師の下、騎乗訓練を積み、1868年12歳でデビューし、1870年障害競走で初勝利。
覚醒したのは1873年を迎えた頃で、17歳の若さでクラシック優勝。勢いそのままにリーディングジョキーの座まで勝ち取り、1876年には当時としては超常絶する200勝を達成し、若干20歳の若さでクラシック完全制覇を達成。
あまりに驚異的な勝率にThe Tinman(金の男)の異名で賞賛され、ついには「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」とまで吹聴されるほどになる。
1883年にはドーソン氏の姪・ヘレン夫人と結ばれ、幸せの絶頂に立つと、勝利数はさらにペースアップ。577戦241勝という、信じ難い数字まで叩き出す。ところが不幸にも長男が出産直後に亡くなり、長女出産の際にはヘレン夫人まで命を落としてしまう。これ以降、アーチャーには暗い影がついまわるようになるが、騎乗技術はなんら陰りなく1885年には年間246勝の金字塔を打ち立てる。英国三冠もオーモンドで成し遂げたが、178cmの長身がゆえ減量に煩悶し、ついには体調不良、腸チフスと様態を悪化させてしまう。苦難と幻覚との闘いの果て、拳銃を咥えて引き金を引いてしまうのだった。29歳の若さだった。



世紀の名手
史上唯一人の【ナイト】

ゴードン・
  リチャーズ

1904年5月5日、英国はシュロップシャーのドニントンウッドで生を受ける。幼少時より家で飼われていたポニーに跨り、7歳になる頃には家族をポニーで送迎するまでになっていたという。
15歳を迎えるとジミー・ホワイト氏の下、本格的に鍛錬を積み、1921年にレスター競馬場で初勝利し、1925年には118勝もの勝ち鞍を上げて自身初のリーディングを獲得。
1944年には英国競馬史上初の3,000勝騎手となったものの、どうしてもダービーが勝てない。それは世界の七不思議の一つと揶揄されるほどであった。その一方で、歴史的大活躍を評価され1953年、騎手として初めて【ナイト】の称号をエリザベス女王から授かった。これが幸運を呼び込んだのであろう。同年勲章授与の一週間後、はじめてダービーに優勝した。騎乗馬はピンザ。
通算で4,870勝し、26回リーディングジョッキーになった、史上最も偉大な騎手と断言していいだろう。



狹狙發量昭蝓
ダービー9の世界記録

レスター・
    ピゴット

英国バークシャー出身。調教師であた父の影響を受け4歳から乗馬をはじめ、12歳でデビュー。
身長173cm(騎手としてはかなりの長身)が災いし、減量で苦心するが、奇抜な騎乗スタイルを次々と披露し神懸かった騎乗を見せるものの、厳重注意を度々受けてしまっていた。
しかし、溢れる才能を全開に18歳でダービーを優勝すると、1964年から8年連続でリーディングに輝き、全盛期を迎えると、ダーリア、シャーガー、ニジンスキー、アレジッド、サーアイヴァーら歴史的名馬を駆り世界を股にかけて席巻した。
母国英国のザ・ダービー9勝をはじめ、英国クラシック30勝、フランスのクラシック8勝、アイルランドのクラシックを16勝。59歳まで現役で活躍し、4大陸、35カ国で勝利を挙げた伝説の騎手。冷静沈着かつ、正確無比の騎乗技術、完璧なまでに乗りこなす。
まさに20世紀英国最高のジョッキーである。
そんな彼も1985年には鞭を置き調教師へと転身。しかし脱税をしたがため3年の実刑判決を受けてしまうことに。ところが、ここからが驚異的で、1年の服役後、なんと騎手へと復帰し、わずか10日後にGI優勝という奇特な偉業を成してしまうのであった。



猜禿狙發量昭蠅砲靴董
 米国史上最高の騎手
アイザック・バーンズ・マーフィー

1861年4月16日生まれ。没年1896年2月12日。1955年、米国競馬の殿堂入り。
米国伝説の黒人騎手にして史上最高の名手と呼ばれる神格的ジョッキー。
ケンタッキー州フランクフォート出身。
11年間騎乗し、生涯成績1412戦628勝。史上最高の勝率44%を記録した。
この記録は全世界においていまだ更新されておらず、もはや破ることは不可能の記録の一つとされている。
ケンタッキーダービー三連覇、そしてケンタッキーオークス&ダービー&クラークHを
同一年に制覇した史上唯一の騎手である。
ニックネームは“Colored Archer”。これは同年に活躍した同じく英国のレジェンド騎手フレッドアーチャーに
端を発するものである。
肺炎により命を落とし、ケンタッキーホースパークのエントランスに亡骸は移された。
彼の隣には米国伝説の最強馬マンノウォーが眠る。
1995年には、年間最高勝率を誇った騎手へ表彰されるアイザック・マーフィー賞が創設され、
アーリントンパーク競馬場では彼の名を冠したアイザック・マーフィーハンデキャップが創設されている。


犹代に翻弄された伝説の
  アフリカ系黒人騎手
ジミー・ウィンクフィールド

1882年4月12日生まれ。没年1974年3月23日。2004年米国競馬の殿堂入り。
1898年16歳で騎手デビューするも4頭の発馬機による事故が原因で、
たった1戦で騎乗停止となってしまう。1900年に復帰し、
以後1903年まで米国で騎手を務め、1904年からはロシアで騎手となる。
ケンタッキーダービーを1901年1902年と連覇した他、
ロシアにおいて歴史的大活躍。ロシアダービー3回、ロシアオークス5回、
モスクワダービー2回、ワルシャワダービー2回、皇帝賞3回という
空前絶後の成績を極寒の地で上げ、生ける伝説となった。
ロシアにおいてリーディングジョッキーを3度獲得、
1917年にロシア革命が起きると今度はフランスへ拠点を移し、
サンクルー大賞、ドーヴィル大賞、ユージンアダム賞などを勝利。
2,500勝以上を上げ、50歳で引退。調教師としても成功を収め、
1974年に亡くなるまでパリ郊外のメゾンフィラットの農場で
余生を過ごしたという。


狷酳禿狙發旅人騎手
●イザベリーノ・
"ネグロ"・ディアス
 

1858年に隣国ウルグアイのビラデラウニオンで生まれ、15歳ごろにモンデヴィデオにて競馬界に入り長く騎手兼調教師として活動した。黒人奴隷の末裔であったが、彼の卓越した才能が身を助け、馬主からファンから絶大な支持を獲得し、歪んだ骨格から“リゴレット”の愛称で親しまれた。
1885年にアルゼンチンの有力馬主らに誘われてブエノスアイレスに渡ると、1889・1890年と2年連続で首位騎手を獲得。1891年には名馬カモスでアルゼンチン・ウルグアイ両国のインテルナシオナル大賞(現、カルロスペリェグリーニ大賞とホセペドロラミレス大賞)を制覇した。1892年にはその手腕を請われブラジルのリオデジャネイロでも活躍。翌1893年からはアルゼンチンに専念し、1893・1894・1898・1899年と首位騎手を獲得し多くの主要競走を制覇した。



犹望綵蕕1万勝騎手
ジョルジ・リカルド
  
1961年9月30日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。
競馬一家に生まれ、自身も騎手を志す。
アルゼンチンと地元ブラジルに拠点を置き、次々と勝ち星を量産。
2008年1月9日、アルゼンチンはサンイシドロ競馬場にて世界初となる10,000勝を達成。
デビューは1976年で、1982年にGI初制覇。そしてブラジル競馬における25年連続リーディングという大記録を打ちたて、現在も活躍中。

世界最多勝利の変遷
※≪≫内の年数は前記録を破った年代。

≪2006年12月1日≫
ラッセル・ベイズ(米国)
史上2人目の1万勝

≪2003年4月≫
ラフィット・ピンカイJr.
(パナマ)が9530勝

≪1970年9月≫
ウィリー・シューメイカー
(米国)が8,833勝

≪1956年≫
ジョニー・ロングデン
(米国)が6,032勝


4,870勝
ゴードン・リチャーズが記録。




琉球伝説名手たち


瀬名波のイリヤラ
屋良朝乗

読谷が生んだ天才騎手。紺色の着物と袴をまとい、二尺五寸(約76cm)の鞭を手に自在に馬を手繰ったという。


与那嶺ターリ
⇒北谷村、現在の嘉手納町で無敗を誇ったという。

幸地タンメー
⇒馬上から、しかも走らせた状態で地面のカンザシをすくい上げたという逸話を残す名手。
嘉手納町出身だったという。


上謝名ブッセーカナヤッチー
⇒今帰仁の豪傑。三国志に登場する関羽の生き写しと絶賛されていたらしい。



女性騎手の歴呈◆

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●ポール・カライ
ハンガリー出身。第78回ハンガリーダービー(芝2,400m)を67歳という高齢で制した。
かなり異色の経歴の持ち主で、プロボクサーになるがジョッキーへと転身。リーディングジョッキーの座に立ったかと思いきやハンガリー動乱のため米国へと亡命し、ダービージョッキーの夢は断たれたかに見えた…いや、それなら米国で騎手になっちまえと、米国のジョッキーに本当になり、1718勝を上げる大活躍!
ところが今度は八百長事件に巻き込まれ、罪無きまま服役することとなってしまう。不運にも米国競馬界から追放され、民主化された祖国へと帰還。
そんな波瀾万丈な騎手人生の果てに待っていた栄光は、夢にまで見た母国のダービー制覇だったのであった…。
ちなみに彼にダービーの栄冠をプレゼントしたのはロドリゴ。生涯成績38戦11勝、他にはハンガリーセントレジャー(芝2,800m)などを制した歴史的名馬。


 
〔世界史上最年長のダービー制覇ゴールの瞬間〕


〔参考記録〕
日本では明治9年生まれの坂東角太騎手が昭和9年春の札幌・騎乗速歩に騎乗。
地方競馬では昭和3年生まれの海方昭三騎手が平成4年の樹氷賞をティーボイスで勝利。
翌5年にはアラブの蔵王賞をルビーキャップで勝利。

日本最年長騎手
山中利夫


62歳2012年7月15日、第7回金沢競馬2日目第1競走の騎乗を最後に現役を引退した。
元春木競馬のリーディングジョッキー。金沢競馬所属。
2012年5月7日の第1レースにてブライアンズメテオ号に騎乗し見事勝利。これにより、最年長勝利記録を更新。


世界史上最年長騎乗記録
ハリー・ビーズリー


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アイルランドの障害戦コリティアン・プレートにて、モーリーという自分の持ち馬に自ら騎乗したという記録がある。

ビーズリー騎手はアイルランドでは名の知れた障害騎手4兄弟の一人で会った。
1891年にはグランドナショナルも優勝している。
そんな彼がこの記録を作ったのは1935年 6月10日。
自分の持ち馬であるモーリー(牝)に騎乗し、アマチュア騎手のためのレース、『コリンティアン・プレート』に出走。

結果、5頭立ての4着と健闘している。
 


【世界最長寿騎手記録】
騎手を務めた人物の史上最長寿者は英国の…

フォークナー
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102歳で馬に乗ったという記録も持つが、この時の落馬で大怪我を負ってしまう。驚くべきことに32人の子供がおり、皆競に関わる職に就いたというからすごい。英国のアップルフォートで静かに暮らしていた世界最長寿の騎手である

 

世界史上最年少競馬騎乗記録
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9

 

南アフリカにて記録される。

しかし、競馬ではなく馬に騎乗したという括りにするとさらに上があり…

 

世界史上最年少騎乗記録
 

2歳8ヶ月 
 

2013年8月9日、モンゴルにて世界最大の馬のパレードが

行われた際記録されたもの。

 

 

【世界4大ダービー優勝騎手】

◇世界四大ダービー◇

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▲吋鵐織奪ーダービー

フランスダービー

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スティーヴ・コーセン(米国)

英ダービー⇒1985年 スリップアンカーで優勝。

ケンタッキーダービー⇒1978年 アファームドで制覇。

愛ダービー・仏ダービー⇒1989年 オールドヴィックで勝利。

 

 

【三連勝&三連続レコード記録】
※騎乗したレースを三連勝、そしてその三戦すべてでレコード勝ちするという珍記録。

伊藤勝吉(日本)
※昭和4年10月6日に記録。

 


【見習い騎手で一日5連勝】

岡 潤一郎(日本)

◆1989年 6月18日札幌競馬場の4Rから8Rにかけて勝利。

ちなみに単勝転がしを元手100円で成功させた場合、配当が330万を超えていたという。
その将来を非常に期待されていたジョッキーだったが1993年1月30日、京都競馬7Rでオギジーニアスに騎乗した際に落馬。

意識不明の重体に陥り、同年の2月16日、帰らぬ人となった。享年24歳の若さだった。
 

【生涯1戦0勝の騎手】
◇「一生涯でわずか1戦、しかも大差のシンガリで1頭も馬を交わすことなく去っていったプロ騎手」◇

人生は上手くいくことばかりではない。狭き門を潜り抜けてプロにったとしても、そこには数々の試練が、巨壁となり立ちはだかる。
折角プロフェッショナルの騎手免許を手にしたにも関わらず、たった1戦で諦めてしまったジョッキーがいる。しかも稀少な女性騎手だったからこそ、なんとも口惜しい。

「もぅマジ無理ィ!勝てないから私やめるぅ〜!」

…なんて女子高生のような、あまりにも放擲な理由にも似た理由で辞職してしまった。

もちろん、上記のようなふざけた発言ではなかったのだが…。
その詳細を記そう。

この伝説(?)のジョッキーは、大井の三坂博厩舎に在籍していた澤江鮎美騎手がその人。

 

澤江鮎美騎手
生涯成績:1戦0勝


<1987年7月27日 大井第3競走 エドサンホマレ号 結果12着>
出遅れではなかったがいいスタートでも無く、無事にゲートを出た彼女であったが、1400という短距離戦だけに新人でダッシュをつけられなかったことは致命的だった。
ポジション取りの激しい最初のコーナーですでに最後方。勝負どころから徐々に離されてしまうものの、直線で懸命に追い始めた。しかし、馬を動かせるほど、自身に余力が無かったようで、殿り負けを喫してしまう。ほろ苦いデビュー戦となった。検量所前で下馬したときにすぐ”初騎乗”の印象を取材した記者のとったインタビューでは、次のように述べている。

「大井競馬場の直線が本当に”長いなあ”と実感しました。だって追っても追ってもゴールに辿り着かないんだから…」

息も絶え絶えに彼女は答えたという。

それから数ヶ月して彼女は忽然と姿を消してしまう。周囲からは「澤江が男と逃げた」という噂が立ったのだが、真相は、騎手はあきらめたが、馬が好きなので馬からは離れられないという理由で、
厩務員さんと、馬輸送をやっている東都輸送の社長の、宮城にある牧場に転職したというのが事の顛末であったという。
騎手生涯で一頭も馬を抜けなかった彼女。しかし、そんな彼女も現在、結婚して幸せに暮らしているという。

折角、騎手免許を取得したのにたったの一戦で自分に見切りをつけてしまった潔さ(?)…。
人生ってわからないもんだよなぁ…。



〔実は同じようなジョッキーがもう一人いる。37戦して0勝2着もたったの2回という成績で姿を消してしまった植谷美奈子騎手。…実にもったいない…。〕

 

しかし!

世界にはレースに出走する事無く、競馬直前で騎手の道を断たれてしまった騎手もいる。

 

◇「一生涯でわずか1戦、デビュー戦で落馬してしまい道を断たれた薄幸の騎手」◇

 

キャスパー・ハーウッド騎手

 

騎手としてのデビュー戦で落馬。それもレース中では無く、スタート前の輪乗りの時のに落馬。

1953年の5月16日、英国エプソム競馬場の第二レースの4歳馬による下級条件戦でそれは起こった。

メフィストフィリーズという牝馬に騎乗してのデビューとなったハーウッド騎手であったが、

この牝馬の名前通り(馬名の意味がゲーテのファウストに出てくる悪魔)の不運をもたらす。

雲の影に驚き、動転し前のめりになって暴れたところで、ハーウッド騎手は落馬。

骨盤を骨折し、騎手として絶対必須の前傾姿勢を取る事はおろか、歩く事さえままならぬ程の重傷を負う。

騎手人生は断たれるも、俳優として成功を収めたハーウッド氏。

1973年、映画『ウィークエンド・ラブ』で英国におけるアカデミー賞に当たるGBA賞の助演男優賞を受賞。

この記者会見を見たエプソムジョッキークラブが、彼へのお祝いとしてエプソム競馬場での騎乗機会をプレゼント。

1974年の6月19日、エプソム競馬場にて、メフィストフィリーズの曽孫に当たるブルートパーズという6歳の牡馬に跨り、向こう正面からスタートし、盛大な拍手に送られながらゴールイン。

「キャスパー・ハーウッド騎手、トップでゴールインしました。優勝タイムは20年と一ヶ月と3日でございます…」

という場内アナウンスが流れたという。

 

 

【死亡しながら優勝した騎手】

 

フランク・ヘイズ騎手

 

1923年2月、米国はNYはベルモント競馬場にて起きた事件。

スウィートキス号に騎乗したヘイズ騎手は、不幸にもレース中に心臓発作を起こし、死亡してしまう。

しかし、騎乗姿勢を変えず、手綱も握りしめたまま、死亡後も騎乗を続行。

スウィートキスは彼の魂が乗り移ったかのごとく激走し、見事優勝を果たす。

しかも、このレース障害レースだったのだから驚きである。

 

 

 

【1日で平地・繋駕速歩・障害の3鞍を勝った騎手】

 

稲葉幸夫騎手

 

これは昭和九年、12月1日、土曜日の中山競馬場で樹立された珍記録。
達成したのは稲葉幸夫(元騎手・調教師)氏。
記録の内容がまた凄まじく、第2競走の平場がアラブの競走(資料1参照、1,600m)で5馬身ぶっちぎり。
第5競走の繋駕速歩競走(資料2参照、5,000m)が圧倒的1番人気馬を大差、

2着馬を8馬身置き去りにしてのレコード勝ち。
そして最後の障害競走(資料3参照、2,600m)が、障害では非常に珍しい単走という、

現代競馬では到底なしえない境遇を取り巻いての記録達成。
アラブ競馬は現在、極限られた一部の競馬場でしか開催されておらず、繋駕速歩は完全に廃止。

これだけでも日本競馬では永遠に達成不可能な怪記録である訳であるが、全鞍5馬身以上ちぎり、

しかも障害が単走という舞台設定は、もう二度と起こりえない状況ではないだろうか。


[資料1]


[資料2]


[資料3]

 

 



勝負服

中央競馬
中央競馬JRA)では馬主ごとに服色が定められている。服色の登録は馬主が行い、勝負服そのものは、競走馬を預託している調教師が所有と管理を行う。一部の騎手の中には騎乗回数が多い馬主の勝負服を所有・管理しているケースもある。

勝負服の製作場所
制作メーカーは福島県福島市にある合資会社河野テーラー


 
▲〔河野テーラーで作られた勝負服たち〕

勝負服の登録
勝負服の登録は馬主登録と同時に行うか、所有馬が初めて出走する直前にJRAに登録する。使用できる色と柄は競馬施行規則に定められており、柄についてはその寸法について明記されている。

使用できる色
白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶13色で、胴と袖それぞれ地色と模様に1色ずつ、合計4色まで使用できる

使用できる胴の柄
無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・一文字・帯・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・山形一文字・山形帯・菱山形・襷・十字襷・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散の中から1種類を使用できる。
※帯と山形帯については最近ではほとんど使用されていない。

使用できる袖の柄
袖の部分は胴とは別の色を使用でき、柄も別に定められている。左右で同じ柄を使用する。「無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・菱山形・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散」の中から1種類を選択する。

 
特殊な柄
鋸歯形(胸から肩にかけて使われる柄であり、胴の柄はこれ以上使えず、袖の柄は「一本輪・二本輪・三本輪」しか使用できない)

   
▲〔鋸歯形の勝負服。ディープインパクトやキングカメハメハで有名な金子オーナーの勝負服として広く知られている〕

勝負服の変更
服色変更の申請があれば何度でも変更が可能である。過去には変更した翌週に元に戻した事例もある。

勝負服の抹消
馬主登録が抹消されると勝負服の登録についても抹消される。抹消された勝負服は抹消日から60日間は使用できないが、抹消馬主の相続人であれば同じ勝負服を使用することができる。

特殊な事例

勝負服が未登録のまま
     馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく1・2枠が薄紫、3-8枠が黒となる。

 
勝負服を用意できなかった場合
JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。競走馬の調教師に対して過怠金(1万円)が課せられる。競馬開催中に発覚した場合は、文字放送において告知を行う。

 
中央競馬馬主登録を
  受けていない馬主の
 競走馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色が白で枠番の色(1枠は水色)の四ツ割が入り、袖の色が白で枠番の色(1枠は水色)の一本輪が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。枠番の色が導入される以前の貸し出し用勝負服は、当時の写真を見ると、胴と袖の色が別々(色は不明)で、胴の右胸の部分に馬番が縫い付けられたものを使用していたようである。

海外馬が出走した場合
日本では登録が認められていない装飾の勝負服を着用して出走することができるが、帽子は枠の色の物を着用する。

地方競馬
地方競馬(NAR)ではホッカイドウ競馬の一部のケースを除き、騎手ごとに勝負服が定められている。これは騎手服と呼ばれるシステムで、所属競馬場やあるいは同じ地区の競馬場の他の騎手と同じものにならないように、騎手が色や柄を登録することになる。

デザインが騎手ごとのものであるため、基本的には騎手本人が色柄を選択する。他地区の有力騎手や中央競馬や海外の有力馬にあやかってその勝負服と同じデザインを登録している騎手や、一門で共通の柄を用いていたり、師匠である調教師が騎手時代に用いていた勝負服のデザインを弟子である騎手が受け継ぐなどということも見られる。

その他、中央競馬と地方競馬の勝負服で異なる点として、中央競馬では使えない色や柄が地方競馬では使えることもある。例えば、橙色は中央競馬で勝負服の色には使用できない(一部を除く)が、地方競馬では使用できる。

中央競馬の騎手が地方競馬場に指定交流戦のために遠征し、その遠征馬の他に一般戦などで地元所属の馬に騎乗する場合については、基本的には枠順に合わせた色の勝負服がJRA所属騎手用とし用意される。ただし、兵庫県競馬(園田、姫路)では、元兵庫所属のJRA騎手である岩田康誠が地元所属馬に騎乗する場合、馬券を購入する地元の競馬ファンの混乱防止の観点から、地方競馬時代に使用していた服色の勝負服を着用している。また、岩田康誠以外の元地方所属だったJRA騎手が騎乗する場合、地方所属時代の勝負服をイメージできる色の貸し服を着用する(小牧太:緑・内田博幸:青など)。武豊はこれらに該当しないが、ゴールデンジョッキーカップに招待されることが多いということもあり、ピンク色の勝負服を着用する。

   
▲〔武豊騎手オリジナルデザインの勝負服〕

同様に南関東地方競馬でも、2008年3月より騎手の取り扱いについて変更を行い、中央競馬に移籍した元南関東地区所属の騎手について、中央所属馬に騎乗する時以外は地方競馬当時の服色での騎乗が可能となった。これは大井競馬場のトップジョッキーであった内田博幸が中央競馬に移籍したことに伴って行われた変更である。また川崎競馬場では、2011年から「一定の基準」を満たしたJRA所属騎手については、各自がデザインした勝負服の着用を認めることとした

海外
日本の中央競馬と同じく、馬主ごとに勝負服が定められている。デザインについては日本より自由度が高く、日本で認められていない色や柄、装飾などが用いることができる。また、文字の挿入を認めている国もある。


ベージュ・ダークブルー・ダークグリーン・エメラルドグリーン・ライトグリーン・ガーネット・オレンジ・白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶 ほか


無地・エポレッツ(肩章)・ストライプ(縦一本)・ブレセス(縦二本)・ストライプス(縦縞)・ホローボックス(枠)・ホープ(一本輪)・ホープス(三本輪)・シェブロン(V字一本)・シェブロンズ(逆V字三本)・シームス(縫目)・サッシュ(襷)・クロスベルツ(十字襷)・クロスオブロレーヌ(ロレーヌ十字)・チェック(元禄)・ディアブロ(鼓輪)・ディスク(円盤)・サークル(輪)・クォータード(四ツ割)・ハァヴ(胴左半分・右袖)・スター(星)・スターズ(星散)・ダイヤモンド(ダイヤモンド一つ)・ダイヤモンズ(ダイヤモンド散)・トリプルダイヤモンド(菱山形)・スポッツ(玉霰)・ラージスポッツ(玉襷)・トライアングル(逆三角形)ほか

上記の柄の他に馬主独自の意匠が認められる場合もある(主にアメリカ競馬)。


帽子


日本競馬において競走時に装着する帽子は、1957年以前、勝負服同様、登録する義務があった。帽子がヘルメット仕様に替わったのは、1957年のこと。その前年にダービーにてエンメイ号の落馬事故あり、その際に阿部正太郎騎手が重傷を負ったことがきっかけと言われている。また1953年の国営競馬時代に年間に4人もの騎手が尊い命を落としていることが発端とも言われている。中央競馬会の関係者は騎手を守る為の打開策を検討し、米国の競馬雑誌『サラブレッドレコード』にヘルメットの記事を見て導入に踏み切ったという。
ここで、出走馬の識別を容易にするために連勝式の枠番別に帽色を決めようということに。
この時に決められた帽色は以下の通り。


1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 水色


※(当時は6枠制)

一方、地方競馬では一足早くヘルメットを導入。1953年1月27日に東京、神奈川、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、長野、山梨の1都8件で構成する関東地方競馬組合が、騎手服の導入とともに枠番別の帽色を決定した。この6枠制の色は、1枠から白、黒、赤、青、黄、緑。つまり地方競馬では6枠制のときから現行の色だったのだ。これが地方競馬に浸透していった。

1963年 8枠連勝複式制導入

中央競馬では1〜6枠は以前と同色で…
新たに7枠=茶色。8枠=黒と決定された。
この8枠制、当初は東京・中山・京都・阪神のみでの採用だった。ほかのローカルでは平均出走頭数が6頭を下回る状況だった為で、8枠にする意味がなかったのである。
(全競馬場での8枠制が実施されたのは1969年。)

 

これに対し、地方競馬側は8枠連複制を導入した際、中央競馬会との間で帽色の統一について話し合いをしようと歩み寄り、会議を行っている。中央競馬会からは理事2名、地方競馬側からは1名の計3名が出席してのものだった。このときに中央競馬会が強く反対したのが"黒"の使用だった。縁起が悪いという理由からだったそうだ。しかし地方側の代表は、「スタンドから一番遠い位置からでも、容易に色を識別できることが最重要。そのためには一目で識別できる黒は絶対に外せない」と真っ向から対立。代案を提示できなかった中央側に対し、地方競馬側は3ヶ月の準備期間を取り、色彩学の専門家に話を聞き、欧米に専門家を派遣したりするなど研究を重ねた。

その結果、従来地方競馬で使用していた6枠の色に、7枠は橙、8枠は桃というのを足して会議に出した。その結論は67年1月の「優駿」に記載されている。

「正月の中山、京都の両競馬から従来の連勝番号別色別帽を地方競馬と統一し、ファンの便宜をはかるため次のように変更になった。なお、第2色、第3色は従来通り四つ割、八つ割の染分帽を使用する。
1白、2黒、3赤、4青、5黄、6緑、7橙、8桃。」

こうして現在の帽色が決められた。

現行の帽色

1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 

7枠 

8枠 桃



帽色配色の起源
帽色の配列の由来・起源は競輪にあるという。
昭和23年に競輪が小倉で初めて行われたときのこと、自転車に番号札を付けただけではどうも判別がしにくいので、当時の小倉市役所(現在は北九州市)の職員が良い工夫を考えていた。
たまたま暦を見て「一白、二黒……」という陰陽五行説にヒントを得たのだという。ただし、それをアレンジして決めたために陰陽五行説と微妙に一致しない。他の競技はこれに倣って色を付けたため必然的に同じ色になった。
当初、競輪は6枠までで、7枠と8枠は後に競輪が他の競技に合わせて、色を決めたとのこと。ちなみに9枠は紫になる。

 

染め分け帽

同じ枠に同馬主の馬が入った場合は、帽子の色も勝負服も同じことになる。それでは見分けが付かない場合もあるため、大きい数字側の馬に騎乗する騎手が染め分け帽と呼ばれる色が2色に分かれた帽子を着用することになっている。また17頭か18頭立てで行われるレースは7枠および8枠に3頭ずつ入るようになっているが、もし3頭全て同じ馬主の馬が入った場合は、最も大きい番号の馬の騎手が交互8つに色が分かれた帽子を着用することになっている。また、2番目に大きい番号の騎手は前述した4つ分けの染め分け帽を着用する。ただ8つ分け染め分け帽は滅多に見られず、2013年8月10日の第2回新潟競馬5日目第11競走で8枠制になってから初めて使用されている。

 


レコード
      あ
 

史上最多勝、世界最多勝はお分かり頂けたと思うので、その他の記録をご紹介!


通算最多騎乗数
※日本記録



  40201

桑島孝春
船橋の生んだ、地方競馬史に残る名ジョッキー。
ロッキータイガーと臨んだジャパンカップでは、世界の皇帝シンボリルドルフの2着と奮起。
その際に見せた風車ムチは今でもファンの語り草だ。
晩年は“くわじい”の愛称で親しまれ、多くのファンに愛された。


通算勝利数※日本記録


  7153

佐々木竹見
地方競馬が世界に誇る伝説の“鉄人”。
川崎競馬所属で数々の名勝負を繰り広げた。
この記録は今後そう破られそうにない。
写真は7,000勝のゴール写真。
そして…


デビュー当初の貴重な写真がこれである。


  年間最多勝利数

日本記録
524勝

この記録は2006年にウチパクこと内田博幸騎手がマークしたもの。
その内訳は地方463勝、中央61勝。

世界記録
598勝

こちらも日本では馴染み深い豪腕ケント・デザーモ騎手が記録。
米国にて1989年に打ち立てたものだ。ちなみに2312鞍に騎乗。


 世界史上最多勝率

.440
4割4分。
すなわち勝率44%。


米国伝説の騎手アイザック・バーンズ・マーフィー騎手が記録。
1412戦628勝。
現在米国の最高勝率騎手に与えられるアイザック・マーフィー賞は、
彼の名を取ってのもの。
日本のレジェンド、武豊の全盛時の記録を持ってしても2割4分。
この記録がいかに凄まじいものかが、窺い知れよう。




  障害最多勝利数


  428

本田昌雄
1933年〜1960年の、わずか27年間の間で記録された。
障害レースの現在の数から見ても、ほぼ更新不能な記録と言える…のかもしれない。


  障害世界最多勝利数

 4,106

トニー・マッコイ(イギリス)

1992年3月26日から2014年4月26日までの12年間で達成。
なお障害における年間史上最多勝記録289勝(2001〜2002年に記録)、最優秀障害騎手最多受賞(1996年の創設から2014年まで19回連続)もマークした英国が誇る、伝説にして史上最高の障害ジョッキーである。


  女性最多勝利数

日本記録
626勝

宮下瞳
騎手が地方・名古屋競馬を中心として紡ぎ上げた金字塔。
公営競馬のみで、海外での勝利は含んでいない。


▲〔宮下瞳騎手〕

世界記録
3,158

ジュリー・クローン騎手が1980年〜1996年にかけて記録した女性史上最多勝記録。
この記録が破られた時は、それはそのまま歴史的女性騎手の登場を意味している。






  1日最多勝利数


   

これは日本が世界へ誇る天才騎手・武豊がマーク。
全盛期の彼の神懸り的騎乗ぶりはもはや狹狙皚瓩澄

しかし…
上には上がいる!


世界記録

  9勝

この偉大なる記録は、デットーリ…ではない!
米国のクリス・アントリー騎手によって1987年10月31日に記録されたもの。
この日、アントリー騎手はアケダクト競馬場で午後に一気の4勝を上げ、意気揚々と競馬場を後にすると、ナイトレース開催のメドウランズ競馬場へと乗り込み、5勝をかっさらう。
1日に2場で騎乗するという荒業…ある意味反則的(笑)なアグレッシヴ精神を発揮したことにより、ここに偉大な記録が生まれたのであった。

ちなみに…騎手の最高身長騎手は、ばんえい競馬の林義直騎手の191cm
最低身長は、黒澤愛斗騎手の135cm
二人が並んだら親子のようでしょうね(笑)。

参考記録
1日全レース優勝・
    11戦11勝


この幻の記録はなんと日本で達成されている。
大正時代の佐賀競馬で活躍していた川田若彌騎手が、戦前の春木競馬にて達成したものとされている。


  1日最多騎乗数

 18鞍

この記録は2007年の7月30日、アルゼンチンはサン・イシドロ競馬場にて達成された。
この日は通常より多い開催ははじめて試みられ、グスタボ・カルベンテ騎手が全レースに騎乗する快挙を達成した。
残念ながら未勝利に終わってしまったが、今後破られることのない記録の一つとなりそうだ。
この金字塔が打ち立てられた件に関し、世界一の名手ランフランコ・デットーリも「信じられない。ロボットのようだ」と感嘆の声を上げている。

 



   世界最多連勝記録

 

14連勝

ティム・モッカシン騎手 (カナダ)

2001年8月24日、カナダ中西部サスカチュワン州のマーキスダウンズ競馬場(サスカトゥーン市郊外)にて三連勝。

翌25日には全7レース完勝。その後6日間の開催休みを経て、9月1日のナイトレースで第1R〜第3Rを勝利。

第4レースを出走取り消しで欠場し、第5Rを本命のイントリケートスティッチ号で逃げ切り勝ちを収め、

世界最多、14連勝の世界新記録を打ち立てた。

 

それまでの世界記録は1933年に英国のG.リチャーズ、1958年にローデシアのP.ストローベルらが記録した12連勝。

 

 



その他記録一覧

項目 騎手名 記録 備考
通算最多騎乗数 桑島孝春 40223回 地方通算40201回
通算勝利数 佐々木竹見 7153勝 中央2勝
障害最多勝利数 本田昌雄 428勝 1933年 - 1960年
女性最多勝利数 宮下瞳 682勝 地方626勝、韓国56勝
年間最多勝利数 内田博幸 524勝 2006年 地方463、中央61
重賞最多勝利数 武豊 394勝 現役、JRA287勝、地方87勝、海外20勝
(GI 100勝、GII 115勝、GIII 179勝)
障害重賞最多勝利数 白浜雄造 17勝 現役、JGI 2勝、JGII 7勝、JGIII 8勝
年間重賞最多勝利数 武豊 23勝 2005年達成 GI6勝・GII6勝・GIII11勝
1日の最多勝利数 武豊 8勝 現役(2002年12月7日記録)
複数日の連続勝利数 鮫島克也 10連勝 現役(2007年3月3,4,10日記録)
1日の騎乗全機会勝利数 渡辺博文 7戦7勝 2001年5月28日福山競馬場
赤岡修次 2009年12月20日高知競馬場
最多連敗数 折笠豊和 810連敗 2005年10月21日 - 2013年5月20日
年間最多獲得賞金額 武豊 44億1404万2000円 2005年
通算最多獲得賞金額 武豊 730億2624万5500円 2013年12月20日現在
最年長GI級競走勝利 岡部幸雄 53歳361日 2002年10月27日 天皇賞・秋
最年少GI級競走勝利 武豊 19歳236日 1988年11月6日 菊花賞
最年長重賞競走勝利 岡部幸雄 54歳30日 2002年11月30日 ステイヤーズステークス
最年少重賞競走勝利 川島正太郎 17歳297日 2008年8月18日 クラスターカップ 交流重賞競走
連続年度JRAGI競走勝利 武豊 23年連続 1988年 - 2010年
連続年度GI級競走勝利 武豊 26年連続 1988年 - 2013年
最高齢出走 山中利夫 63歳4日 2012年7月15日 金沢競馬場第1競走


鞭の使用に関するガイドライン

JRAでの規定では鞭の長さは77cm未満とされている。

「競馬と生産に関する国際条約」に明文化されている、鞭に関する禁止条項

  • 馬が怪我をする程(過度に強く)鞭を使用すること。
  • 肩より上方に腕を上げて鞭を振り下ろすこと。
  • 反応(脚勢)の無い馬に対し、必要以上に鞭を使用すること。
  • 明らかに着順の大勢が決した後に、必要以上に鞭を使用すること。
  • 入線後に鞭を使用すること。
  • ひばら(脇腹)へ鞭を使用すること。
  • 鞭を過度に頻発して使用すること。
  • 頭部若しくはその付近に対して鞭を使用すること。
  • 原則として鞍より前方に逆鞭で鞭を使用すること。

鞭や鞍などの馬具は、ソメスサドル株式会社、鈴木馬具舗にて作成されている。

 

 

【ソメスサドル株式会社】

明治以来、北海道の開拓を支えてきた馬、そして馬具づくりの技術。
「この技を守り、受け継ぎ、世界のマーケットに通用する馬具をつくろう。」
そうした熱意・情熱・信条の馬具職人が北海道は歌志内に集まり、

頂点を目指すべく立ち上げられた企業である。

炭鉱で栄え、人口5万人に迫る街であったが、石油へのエネルギー転換がすすむにつれて人口が減少。
そうした中、新しい企業誘致の一環として1964年にソメスサドルは誕生している。

武豊やミルコデムーロなど、あらゆる超一流騎手から頼りにされている名店である。

 

 

【鈴木馬具舗】

1925年(大正14年)創業。現在の代表である鈴木修氏は、祖父、父に続く三代目で、

製作所43年のキャリアを有する。中央・地方問わず全国の騎手から注文を受ける他、

皇室の乗馬用や宮内省の鞍も製作している。

“折れにくい鞭の追求”をモットーとし、東京は世田谷にて日夜研究を続けている。

 

 

The Legendary horseman(世界ホースマン列伝) * 12:05 * comments(0) * - *

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