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ヒコーキ

   ヒコーキ

古の琉球・
  
美ら競馬史上最強


ちゅら海の彼方へ
 消え去った幻の伝説馬



父 ???
母 ???
母父 ???

生年:???
性別:牡
毛色:芦毛
調教国:日本・沖縄
生涯成績:???(琉球古式競馬・全戦全勝)

沖縄に競馬という民俗概念は存在していない…というのが世間一般の通論であり、殷賑に浮遊し続ける夢想理念に過ぎないものであろう。しかし、本島はもちろん、離島の末端・絶海の孤島である与那国島にまで、競馬の息吹は萌芽している。
小浜島や与那国島で催されていた古の浜競馬は知る人ぞ知る桃源郷の競馬エリア。また、宮古島には日本在来馬八種の一つに数えられる「宮古馬」が今ものんびりと草を食み、営みを送っている。
琉球王朝時代においても馬は貴重な存在であり、それは“権力”の象徴でもあり、神聖な存在意義を持つものであった。そんな馬たちが主役となる競馬は盤古の沖縄においては、アブシバレーを中心とした年中行事(祭祀行事)の折に開かれていた。
たとえば、北谷町の砂辺馬場では旧暦1月20日の二十日正月、佐敷町の屋比久兼久(馬場)では旧暦3月3日の浜下り、北中城村の瑞慶覧馬場では旧暦5月5日のグングヮチ・グニチ(男子の節句)、具志川村の新城馬場では旧暦5月15日のグングヮチ・ウマチー(稲の初穂祭)、読谷村の宇座馬場では旧暦6月25日のカシチーウーユミ(新米でカシチー=おこわを炊いて神仏に供える行事)、北中城村の和仁屋馬場では旧暦8月11日のヨーカビー(悪霊払い)。シヌグ(豊年祭)、ウンジャミ(豊漁祭)に開催したところも多いようだった。また一方で、旧盆であるウークイ(旧暦7月15日)の晩に祖先への御礼として行われる「エイサー」や、ユッカヌヒー(旧暦5月4日)の豊漁祈願「ハーリー」、旧暦6月26日などに催される農作の吉凶占い「綱引き」と同じように、競馬も時代とともに祭祀行事から娯楽に変化していったのである。
首里へ急報を届けた早馬の「ムルカキバイ」(全力疾走)ではなく、「イシバイ」というゆったりとした走りで華麗さを競った沖縄の競馬は猗ら競馬(ちゅらけいば)瓩噺鴇里気譴襦
そんな世界に類を見ない競走スタイルが出来上がったのは、もともと祭祀儀式だったからなのではないか。琉球独特の民俗文化が形成した世界唯一の競馬スタイルがここに造詣されていった。
本馬ヒコーキは、そんな沖縄競馬に忽然と降臨した無敵の最強馬であり、いまや琉球民俗誌の一端に宿る精霊のようなシンボルとなってたゆたう伝説的幻の神駒である。


   
▲〔王朝時代、ノロ(神女)が馬に乗って御獄を往復したことから、馬は「神の使い」と信じられていた。
馬の生産地として知られた伊平屋村の祭祀といえば、旧暦7月17日のウンジャミに神女たちが馬に乗って東の海岸へ神を見送りにいく「ヌイシジチ」(乗り連ね)。ここでも馬は神の使いだった〕


▲〔沖縄は女性の霊力を重んじた民俗信仰が各村落の中に深く息づいた土地柄である。『TRICK』の主人公・山田奈緒子も沖縄の離島で巫女の末裔という設定。そのモデルは新城島のようで…しかも演じる仲間由紀恵さんのご出身も沖縄…『功名が辻』で馬とも共演(?)してるし…沖縄の美女は馬と縁深いのかなぁ…〕

現代競馬とは対極に位置する、極限美を追求する琉球古式競馬。はたしてどのような規定で執り行われていたのであろうか。
現在、文献から汲査してゆくと、馬場の数は確認されているだけで沖縄本島153(北部24、中部44、南部85)、本島周辺離島19、先島6(宮古3、石垣3)の計178(「沖縄県における馬場跡の調査報告」より)。沖縄学の祖である、伊波普猷氏によれば、馬場を意味するウチナーグチ(沖縄言葉)として、ンマウィー=馬場、カニク=兼久、マージ=真地、ヂョー=門、ンマナー=馬庭などを挙げている。すなわち、上述の数字はこれらから推察したものであり、実際にはこれ以上の競馬場が存在していた可能性も十二分に推考できよう。
さて、現代を生きる常民たちにとってサラブレッドはとても簡単に手の出る存在ではないように、当時の沖縄においても、競走用馬は高嶺の花であった。当時の様子を綴った、こんな一節がある。
「(馬車で塩、石炭を運搬する仕事の)一日の収入は4円、馬(荷役用)の値段は最高で300円位でした。競馬用の馬になると2600円もした。30坪の瓦葺住宅がその位で建てられた時代だから大変な値段だった」…戦前の西原町における回顧録である。

またこの当世における競馬は賭けの対象とはなっておらず、お互いの家運と誇りを懸けた真剣勝負の理念を孕んでおり、必勝を期し、一家総出で参拝を行った話も残されている程である。


  
▲〔当時の競走馬と等身大のオブジェが建っている那覇・楚辺の古波蔵馬場(クファングヮ・ンマウィー)。城岳小学校の前に位置するこの馬場は往来の激しい道路に変わっているが、小学校時代に目の前が馬場跡だと判明している。古波蔵は真和志間切(間切=現在の市町村)の代表馬を決めた馬場でもある。間切の大会で勝った馬は群の大会へ、さらに全県大会へと進んだ。その全県大会の舞台が、那覇の塩田地帯で知られた潟原(現在の泊、前島周辺)と昭和初期、沖縄神社祭の奉納競馬で「爛茱疋衢親疥羮瓩劉爛劵魁璽瓠廚優勝した舞台、平良真地だった。馬場の数は那覇市内だけで18。那覇から西海岸を北上すると、浦添市で4つ、宜野湾市で1つ、北谷町で3つ、嘉手納町で3つ、読谷村で4つの馬場が確認されている(「沖縄県における馬場跡の調査報告」)。いずれの市町村史にも載っているのが名馬ヒコーキの名前である。〕

南国の楽園・琉球沖縄は名馬生誕の地でもある。
ナカダオーギ赤馬右流間…そしてカリユシドルフィン…。
爛劵魁璽瓩呂海譴蘚狙眦琉球名馬たちのさらに上を行く駿馬と妄察できる伝説的幻の名馬。
その走り、空を飛翔ぶがごとく。
ヒラリ優雅に翔舞し、流麗なるままに長き白尾を翻す。
颯爽と流動する肢体は、神歌に合わせて舞う神女の舞踊のようであったという。

  
▲〔皇太子殿下の乗用馬となった右流間と共に海を渡った宮古の名馬・珠盛(たまもり)〕


まるであのディープインパクトのようではないか。
いにしえの沖縄競馬に君臨せし、白き琉球のディープインパクト。
彼を所有していたのは与那嶺真宏氏。彼はヒコーキを駆り、村の競馬だけで無敵を翳すに飽き足らず、沖縄中の美ら競馬にヒコーキを参戦させ、凱歌を上げ続け勝利のカチャーシーを吟舞していたという。明治15年生まれの彼には一人、愛娘のミツさんがいた。現在100歳を迎えた彼女の証言をここに記しておく。

「ヒコーキというのはね、戦前に父の与那嶺真宏が飼っていた馬です。白い馬でした。白い宮古馬でした。尻尾が長くて、毛並みのとても美しい馬でした。私がまだ子供の時でしたから走り方までは記憶していませんが、姿形に気品があって他の馬とは雰囲気が全く違う馬でした。今の浦添市役所のあたりに昔は馬場(安波茶馬場)があって、ヒコーキが馬勝負(競馬)に出る時は家の者総出で見に行ったものです。でも、父はムラ(浦添)の競馬だけでは満足しませんでした。馬勝負が命という人だったので、県内のどこかで大きな馬勝負があると聞くと、じっとしていられません。ヒコーキを連れて県内を歩き回っていました。西原村から中頭の各村、山道を越えて遙かヤンバル(北部)にも行ったと思います。女学校に入学する前だから、昭和2、3年頃ですかね。

あの頃は競走馬の売り買いを辻(那覇の遊郭街)でやっていたようで、我が家にも何頭か出たり入ったりしていました。でも、ヒコーキは物心がついた時から女学校に入る(昭和3年)までずっと飼っていました。馬名がついているのもこの馬だけでした。当時は飛行機なんて沖縄に飛んでいませんから、いったい誰が名付けたのか…」


▲[異様だが息を呑むほどの絶世美の白い馬体…爛劵魁璽瓩箸いδ貳瓦韻北世襪ぁ弔靴し謎が謎を呼ぶ馬名…そして全戦楽勝無敗無敵というその幻惑的戦績…。そして沖縄という特異な環境が彼の神秘性に深みを与えている。これ程の隠れた幻の名馬がまだいようとは…]



▲〔晩年のヒコーキ。ミツさんが女学校卒業する昭和7年に消息を絶った。競馬が命だった与那嶺氏がヒコーキを手放したのは、生活のためだったのか。それとも、名馬の血を残そうとして去勢法が適用されない離島へ逃したのか。あるいは、もっと別の理由があったのか。その行方は覗い知れない。与那嶺真宏さんが病で亡くなったのは昭和19年。美ら競馬が消滅した翌年だった…〕


謎の馬名がさらなる幻想を喚起する――。
当時、飛行機を目にする島民はおらず、その名称のみ、ほんの一握りの者が脳裏の奥底にのみ浮動しているような狷端賤儻讚瓩任△辰燭里任△襦
まだ見ぬ近未来の高速船と、未知の能力を秘めた名馬を重ね合わせての命名だったのだろうか―――…・・・。

  

どこか遠くから聞こえてくるサンシンのメロディと馬たちの蹄音…

そして
潮風の音色が織り成すシンフォニーに、心の琴線が奏でられ、白き記憶がよみがえる――。

戦火の忍び寄る足音を聞き取ったかのように漸滅していった幻の名馬。
その正体は何者であったというのであろう。

「大海から上陸してくる馬を竜馬、あるいは神馬と称す―」

八重山の民族学者、喜舎場永旬は生前、そう述べていた。
宮古島では大地の神が白馬に姿を変え来訪するという言い伝えもある。
“ヒコーキ”はまさに沖縄近代競馬の終焉に流星のように走り抜けた神馬だったのかもしれない……――・・・
  


軍馬育成の圧政に終焉を告げられた「美ら競馬」。


自動車社会の波に飲まれ、消失していった農耕馬。


時代の空影で、きっと彼は自由きままに飛び回っている――永久なる夢空(エデン)をただ一途に目指して…――きっと。

  

今回の写真・
  イラスト提供・協力
    参考文献ほか

うみねこ、秋山由美子、Mr.woolhouzen、ちゅらさん大好き!さん、与那嶺エリカさん、日本の在来馬(日本馬事協会)、馬の雑誌 ホースメイト45号(日本馬事協会)、沖縄の在来家畜 その伝来と生活史 新城明久著(ボーダーインク)、富国強馬 武市銀治郎著(講談社)、続日本馬政史(神翁顕彰会)ほか


※冒頭の写真は与那嶺恵里香さんの曽祖父の方が馬勝負の際に撮影したという一枚。ヒコーキが最も優雅に舞った、全盛期の一枚と伝えられています。
真っ白な馬体と特徴あるタテガミ…隣の宮古馬と比較しても馬体は大きく、只ならぬ雰囲気を取り巻いていることが写像からも窺い知れます。与那国馬とのハーフだったのでしょうか?
その他の写真は「もしかしたらヒコーキ…かもしれない」という曖昧な証言の元お借りした写真で、真偽は不明不詳であります。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 06:08 * comments(1) * - *

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Comment

「ヒコーキ」に関しては、戦火で写真などはみな焼かれてしまったと聞きましたが、あったのですねぇ。アラブ種のような均整のとれた馬ですねぇ。どうみても在来馬のようには見えません。

にっしゃん * 2013/03/12 8:53 PM

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