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タケシバオー



 〜過去にいた未来

犖義帖Σ物
     距離条件
    完全
    スーパーホース―
 
父 チャイナロック
母 タカツナミ
母父 ヤシママンナ

生年:1965年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:日本
生涯成績:29戦16勝[16-10-1-2]
主な勝鞍:天皇賞(春)、京都記念(春)、朝日盃3歳S、毎日王冠、ジュライS、東京4歳S、東京新聞杯、英国フェア開催記念(スプリンターズS)、3歳S(福島)ほか


その剛力猛々しい走りと豪風なるままのスピードは、その「昭和」という時代にどこかミスマッチな、アンビバレンスな感触さえも見つめる人々に抱懐させていた。
上手く表現しきれぬ無限の可能性と強さに、当時を生きたファンは牴物瓩箸いΠ豸譴砲修里垢戮討鮟弧鵑気刺集修靴った。
「元祖怪物」。それがタケシバオーを召喚する最大の讃辞にして爛ーワード瓩任△襦

さて、タケシバオーがなぜ「怪物」と称されるに至ったか。それはどんな競走条件も天候も馬場も斤量さえもいとわず、圧勝楽勝の連続で数々のレコードタイムを刻印していったことに他ならない。一流スプリンターから一流のステイヤーとまで鎬を削り圧倒しつづけた豪烈なる日々。その生涯を見つめ解いていくことにしよう。

野武士として生きる道
北海道は新冠町に生まれたタケシバオーは、決して期待のかけられていた存在などではなかった。
見栄えが悪く、後に手がける三井末太郎調教師のファーストインプレッションも「これが馬なのだろうかと思った」と語っているほど。
デビューの舞台となったのが1967年6月18日の新潟競馬場の新馬戦…ではなく、なんとオープン特別の芝1,000m戦。なんということかそこで2着とすると、2戦目でもチューリップS(芝1,000m)へと出陣し2着。その後、函館へと舞台を移し、同じく1,000m戦を6馬身差の大楽勝で待望の初勝利。この時手綱を握っていた中野渡清一騎手が以降主戦としてタケシバオーの背中に跨ることとなる。タケシバオーは初勝利を上げるやさらに旭日昇天の勢いで休む暇もなく闘い続ける。札幌から福島、福島から中山と転戦。5馬身…2馬身…3馬身半と圧勝の連続で3歳(現2歳)チャンピオン決定戦である朝日盃3歳Sへと駒を進める。ここには、初顔合わせとなるエリートホースであるアサカオーが出走してきていた。父ヒンドスタンはシンザンを送った大種牡馬。近親には英ダービー馬ピンザという当時選りすぐりの、煌びやかな光をまとった、いわゆる「良血馬」だった。対するタケシバオーは血統がパッとせず、当時のチャイナロックは活躍馬を出せず辛酸を舐める時代。母タカツナミも大井競馬で未勝利だった馬なのだから、お世辞にも血統を褒められるような存在でなかったことは、容易に想像できよう。
「エリート」対「野武士」。まさにそんな構図の中、火花を散らした対決が、木枯らしふきさぶ中山を舞台に展開されたが、蓋を開ければタケシバオーのワンサイド勝ち。7馬身差の圧勝だった。

元祖・三強
新たな一年の1ページが捲られてからも、タケシバオーに陰りは見られず、むしろその勢いは急速的に加速度を上げているかのようだった。
年明け初戦を5馬身。つづく東京4歳S(芝1,800m。この年はダート変更になりダート1,700mで開催された。現共同通信杯)を8馬身差も引き離し、レコードのオマケ付き。鬼神のごときあまりの強さにクラシック確実…の声も上がりそうなものだったが、この年タケシバオーに匹敵する大物が関西にも君臨していたのである。それがマーチスである。「タニノ」の冠号でお馴染みカントリー牧場出生の栗毛馬で、暮れのもう一つの3歳チャンピオン決定戦・阪神3歳S(芝1,600m。現・阪神ジェベナイルフィリーズ。当時は関西の2歳王者決定戦で、牝馬限定戦ではなかった)を鮮やかな差し切り勝ちを決めていた。そしてアサカオーも朝日盃後に巻き返し、エリートホースらしい輝きを取り戻していた。
こうして3頭が初めて顔を揃えることになったのがクラシック登竜門・弥生賞(芝2,000m)であった。初の三強対決となった一戦はアサカオーが優勝。2着タケシバオー、3着マーチス。最終トライアルのスプリングS(芝1,800m)ではマーチスが優勝をもぎとり、2着タケシバオー、3着アサカオー。そうして迎えた本番・皐月賞(芝2,000m)ではマーチスが戴冠。タケシバオーは三度目の2着、アサカオーは3着に敗れるが、4着はなんと3頭からさらに5馬身も引き離されてしまっていた。完全な3強時代の到来。きっとダービーも菊花賞も、そしてその先の未来も、この3頭の時代がつづくのではないか…そんな淡い幻が中山の中空をおぼろげながらに浮遊していた。

  
▲〔マーチス。31戦14勝。阪神3歳Sと皐月賞を制するも、古馬になってからは大きなタイトルと取ることなく引退していった。〕


▲〔アサカオー。24戦8勝。菊花賞を勝ち、1968年の年度代表馬にも選ばれる。しかしマーチスに同じく古馬としてビッグタイトルを手にすることはなかった〕

犲畦璽澄璽咫辞瓠なんとこの年のダービーは7月7日に開催されていた。東京競馬場の改修工事に伴う日程変更によるものである。三強の強さはもはや誰しもが知っていた。それゆえか、各三強陣営は執拗に3頭のみに意識を向け過ぎていたようにも見て取れる。結果牽制し過ぎたことで、伏兵タニノハローモアの逃げ切りを許してしまったのである。
この時、またしてもタケシバオーは2着。3着アサカオー、マーチスは4着と、それぞれ苦杯を舐める結果と終わった。

  
▲〔タニノハローモア〕

タケシバオーは秋風がススキをなびかせる頃、大衆の期待を背に海を渡ることとなる。
遠征先は米国ローレル競馬場。ワシントンDC国際(芝2,400m)へと出走することになったのである。過去の遠征馬とは違い、まだまだ未知の可能性を秘めた牴物瓩粒こ葦鸚。「この馬ならもしかしたら…」が心の片隅、否が応にも囁きかける。しかし、体調を崩し、とても万全の態勢ではないまま本番を迎えることになってしまう。体調難を押して出走するも、勝ち馬サーアイヴァーにトモを引っ掛けられるアクシデントに見舞われ、心折れたのか最下位へと転落していまう。アウェーの洗礼を受け踵を返す他なかったタケシバオーの瞳には、エナジーの炎が滾り立ちつつあった。


覚醒の1:41.9。
タケシバオー不在の菊花賞は、アサカオーが最後の一冠を奪取。2着ダテホーライ。マーチスは3強と皐月賞馬のプライドを見せ、なんとか3着に食い込んだ。
有馬記念が呼ぶ心のざわめきと、クリスマスソングが街角を賑わす頃、帰国したタケシバオーは翌年への糧とすべく調整が進められていた。これまでの先行策を捨て、差し追い込みに転じてみよう…という試行錯誤が練られていたのである。これがタケシバオーの本格化の時期とも重なった為か、1969年のタケシバオーは無敵の巨獣へと変貌を遂げることになる。
年始の一戦は2着と甘んじるが、東京新聞杯(ダ2,100m)でその巨神のポテンシャルがついに開放される――…持ったまま6馬身差の大差勝ち。しかもタイムは驚異的レコード。当時ダートの2,100で10秒台を切る馬が現れようなど、誰も想像していなかった。
つづいてのオープン特別(ダ1,700m)は伝説の一戦となった。タケシバオーは暴走気味に掛り、グングンと猛加速。直線に入ってもリードは広がる一方で、大差の大楽勝。この時記録したレコードタイムは、なんと1:41.9!しかも60圓箸い酷量を背負っての、掛かり通しでマークしたものなのだから開いた口が塞がらない。


各競馬場の
   ダート
1,700m
  レコード一覧表


【札幌】 1分41秒7(不良)
=マチカネニホンバレ(55キロ)
<平成21年記録>

【中山】 1分43秒1(重)
=エルフォルク(53キロ)
<昭和51年年記録>

【函館】1分43秒1(やや重)
=ランフォルセ(57キロ)
<平成23年記録>

【小倉】 1分41秒8(不良)
=サンライズキング(56キロ)
<平成18年記録>

【福島】 1分43秒3(良)
=ゼンノストライカー(57キロ)
<平成18年記録>

【新潟】 1分46秒6(良)
=マカリオス(57キロ)
<平成23年記録>

…施工回数のほぼゼロに等しい中山を除いてみると、すべて平成に入ってからのレコードで、現役ダート界の一線級で活躍するランフォルセの全盛時のタイムとタケシバオーのタイムを比較してみれば、タケシバオーのモンスターぶりを嫌と言う程実感できよう。41秒台を出したマチカネニホンバレとサンライズキングは、確かに凄い。しかし、タケシバオーが背負っていた斤量は5kg近く多かったことを思えば、戦慄が走り、背中にゾクっと震えが来る。

さて、話を俎上に戻そう。その驚異的パフォーマンスから約2週間後、今度は京都競馬場で天皇賞の試走を兼ねた京都記念(春)へ出陣。今度は62kgを背負い、重馬場をものともせず勝利。さらには阪神のマイルのオープン特別へ矛先を向け、なんということか9馬身も千切り捨ててのレコード勝ち。その直後、2マイルの天皇賞を34秒9という当時では考えられないような尋常ならざる3Fでアサカオーを葬り去った。もはや、アサカオーもマーチスも、ライバルとして成り立たず、ただの引き立て役すら精一杯だった。

  
▲〔天皇賞勝利後のタケシバオー。獲得賞金は初の1憶円を突破した〕

天皇賞後、タケシバオーはジュライS(芝1,800m)へと出走。この時、馬場は最悪のコンディションでドロドロの不良。その上65kgという拷問にも近い斤量がタケシバオーの肩にのせられた。それにもかかわらず、涼しい顔で軽斤量馬を交わし去り、千切ってゆくタケシバオー。
国内敵無しは当たり前、この頃になるとタケシバオーは…
「斤量100Kgが妥当」だとか
「横綱・大鵬が乗っても勝てる」…
…とまで持て囃される存在へと昇華していた。



▲〔横綱・大鵬。幕内優勝回数32回。内全勝優勝8回。45連勝、そして生涯勝率.827。不滅の大横綱だ。〕


▲〔69年秋の始動戦となったダート2,100mの毎日王冠。クロフネのような雄大かつ幽玄なる足取りで楽々と3馬身半差持ったまま圧勝のタケシバオー〕

毎日王冠で始動。そしてこの後、スプリンターズS(芝1,200m)へと出走したのである。天皇賞を勝った馬が…である!当年のこのレースは英国フェア開催記念と銘打たれていた。当時はまだGI級の扱いではなかったものの(グレード制導入は84年)、出走馬のレベルは高く、この年も皐月賞と有馬記念を勝ったリュウズキも出走してきていたのである。タケシバオーはここでも62kgという重量と闘い、見事勝利。なんとなんと、ここでもレコード…!たしかに、これほどのレースぶりで怪物と呼ばれない方がどうかしている。

無敵の狂龍と化したタケシバオーは騎獣の勢い駆って再度の海外遠征を試みた。昨年の忘れ物を取りに、向かうはローレル競馬場。今回なら、覚醒したタケシバオーならきっと勝てる…ファンはそう祈望を膨らましていたに違いない。しかし…天意はタケシバオーに辛く当たった。熱を出し、呻らされるタケシバオー。フラフラになりながらも、陣営はタケシバオーのポテンシャルに賭けた――。
「折角ここまで来たのだから…」と送り出されたタケシバオーは、またも屈辱の最下位。さすがの怪物も疾病を患ったまま海外の強豪相手に伍する程甘くはなかったのか…。

忸怩たる失意のレースを最後に、タケシバオーはターフを去った。
彼は種牡馬としても怪物ぶりを発揮し、活躍馬を次々と送った。海外からの種牡馬の活躍には及ばぬものの、決して劣らぬ成績を残し続けていったのだから立派だ。



▲[南関東三冠馬ハツシバオーもタケシバオーの代表産駒の一頭だ。他には東西金杯制覇という快挙も成し遂げたドウカンヤシマなどが有名]


内国産種牡馬たちが冷遇な扱いを受けていた受難の時代の活躍だからこそ、その光輝は映えよう。


〜過去にいた再来〜
後にオグリキャップ、ナリタブライアン、グラスワンダーらが牴物瓩半里気譴覲萍をすることになる訳だが、怪物の異名が最もふさわしいのはタケシバオーなのかもしれない。犖義牒瓩許される唯一の存在だからこその感覚なのかもしれないが。
もし…もしもタケシバオーが現代競馬に降臨し、一から競走馬として生涯を歩くとしたら、一体どれほどの活躍ができるだろうか。調教技術、交通手段が遙かに進化し、騎乗レベルも上がった現代。タケシバオーの真120%を解放したその雄姿が、一目見たくて夢想する――

  

クロフネ再来を夢見るいまも、その存在はひょっとしたら過去、昭和の時代に犖義腸物瓩箸靴瞳臨していたのかもしれない。
競走生活晩年、主戦として手綱を握った古山良司氏は後年、次のように語っている。
「タケシバオーが、現代の競走体系で走っていたらダート交流戦を使うでしょうね。最大目標はジャパンカップダート。いまのトップホースたちに敵うかって?当然勝てるでしょう」

いつの日か、また犖義腸物瓩醗える日を心待ちに今宵も甘い夢を見るとしよう――…・・・。

奇跡の名馬 (日本の名馬) * 05:56 * comments(1) * - *

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菊花賞飛ばして挑んだ、ワシントンDC、当時テレビでOAしたそうです。4角先頭で出た途端、いきなり後退して行ったそうです。理由は、勝ち馬のSir Ivorに後ろ足踏まれての落鉄。蹄鉄は、グニャリと変形してた。との事。
翌年は、熱発でアウトでしたが、現地で馬主と大川慶次郎氏が出走の是非で言い争いをした。と・・・・・・・・

鷹野晴信 * 2015/03/17 9:09 PM

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