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キンツェム ―Kincsem―

〜いつの世までも…〜

 

5454勝・奇跡の名馬



父 カンバスカン
母 ウォーターニンフ
母父 コツォルド

生年:1874年
性別:牝
毛色:栗毛(栃栗毛)
国籍:ハンガリー
生涯成績:54戦54勝

主な勝鞍:バーデン大賞3連覇、グッドウッドカップ、ドーヴィル大賞、オーストリアダービー、ネムゼティ賞(ハンガリー2000ギニー)、ハザフィ賞(ハンガリー1000ギニー)、カンツァ・ディーユ(ハンガリーオークス)三連覇、ハンガリーセントレジャー、ハノーヴァー大賞、アーラム・ディーユ11回、カイザー賞3回ほ
 

奇跡を起こす三つの猝鸞

千年の時を超えても変わらない思いがある。
万年の時が流れても紅潮するほどの滾る想いがある。

 

永久不変・未来永劫に紡ぎたい記録と記憶。

400年という宇宙のごとき厖大なる歴譜の中、万民との邂逅と逢瀬を重ねた幾千もの瞑妃たち。幽艶なる女傑・女帝・女王たちの愛吟せしゴスペルの中、そよぐ我々の記憶。
果たして「史上最高究極の名牝」、その桜冠・称号が相応しい姫君は、一体全体、どの馬になるというのだろうか。
あらゆる書肆へと足を運び、典籍・珍書のドアを叩き、姿無き語りべの神話を傾聴し続けた。そうした葦編三絶を重ね、沈思・潜思の果てに咫尺(しせき)することの出来た瞑王妃たち。その探求の旅路は、暗漠たる夜の大海で探海灯を燈し、人魚を探すような苦心惨憺たる奇行であった――。

競馬開催国には必ずと言っていい程、常識や科学的見識から説明のつかないような牝馬が、数十年の間隔を置いて降誕している。これについては何度となく舒懐させて頂いているが、まずそのポイントが…

1)牡馬(当時の最強クラス)をものともしない。

2)距離が不問である。

3)タイトルを総なめ。

…という3つの条件を満たしている馬が、超絶的能力を包容した奇跡の名牝と言えよう。

 

 

 

世界の名牝を訪ねて

英国には複数頭そういった神姫が闊歩していた。

1838年に生まれたアリスホーソーンが生涯に上げた戦績が6851勝という驚異的な記録。また19世紀の英国史上最強牝馬として語られているのがヴィラーゴ。彼女は無敗の英国三冠馬オーモンド以上の評価を獲得した実績を持つ聖女で、1000ギニーから超長距離のグッドウッドC、ドンカスターCに至るまで、距離不問の無敵の強さを見せ続けた。

1000ギニー、2000ギニー、オークスそしてセントレジャーと、牝馬三冠を成し遂げた歴史的ヒロインも、ラフレシやサンチャリオットなど、多数存在しているが群を抜いているのがプリティポリーだ。2422勝、英国牝馬三冠の栄誉もさることながら、1,000m4,000m級のレースで一線級の牡馬と互角以上に渡り合い、20世紀英国最強牝馬の評価もある名妃である。

 

クラシックレース挑戦と言えば、英国の1000ギニー、2000ギニー、オークス、ダービー、セントレジャー、全戦に挑戦し、ダービーのみ4着と敗れてしまったのがセプターである。ダービーの敗因が度重なる連闘による疲労と騎手の騎乗ミスらしく、古馬になってもGI級競走で三冠馬ロックサンドを降すなどまさに狃傑瓩噺世┐襪曚匹梁膽嵶悗粒萍。馬主シービア氏の破天荒ぶり(愛馬セプターに全財産を賭け金につぎ込み破産)とともに世界競馬史に名を残し続けている。

 

牝馬のダービー挑戦…2007年、ここ日本でもウオッカが牝馬として64年ぶりのダービー馬に輝き、「牝馬のダービー馬」という称号に脚光が集まったが、世界にはとんでもない馬がいるもので、ダービー・オークスどちらも勝つ…というまるでゲームのようなローテーションを見事完遂した馬たちが存在している。 そういった脅威的女帝を数頭紹介しよう。

 

北欧はデンマーク…史上最強牝馬にして史上最強馬というロスアードは、なんとデンマーク1000ギニー、オークス、ダービー、セントレジャーすべて制圧し、それだけでは飽きたらず(?)隣国スウェーデンへと殴り込みをかけ、スウェーデンオークス、スウェーデンダービーまで勝利してしまった。いわゆる北欧六冠を成し遂げた訳である。まさに北欧神話。

一方、スペインのトカラは1959年に生まれ、史上初となるスペイン三冠馬に輝いた。いまだに史上最強牝馬と呼ばれる怪牝である。

 

南半球へ目を向けてみると、やはり忘れてはならない存在がニュージーランドのデザートゴールドであろう。生涯成績5936勝、グレートノーザンダービー、ニュージーランドオークス&ダービー、さらにはARCオークス、ARCセントレジャーまで鯨飲し、19連勝を記録した伝説の名牝。近年のオセアニアでは、やはりマカイビーディーヴァであろう。オセアニア競馬の象徴とも言われるメルボルンカップを3連覇もした146年に1頭の絶世の名牝だ。

アフリカ大陸からはイピドンベを抜擢。ジンバブウェ馬としてダーバンジュライを勝ち、さらにはドバイデューティーフリーにおいても世界の強豪たちを圧倒した。ジンバブウェ史上最強の名馬である。

 

南米にも知られざる名王妃たちが綺羅星のごとく輝いている。

アルゼンチンのラミッションはアルゼンチン四冠完全制覇。またミスグリージョはダービー馬に輝き、米国へと遠征。1948年のピムリコカップというダート4,000mのレースでは2着馬を100mもチギリ捨て、世界レコードを樹立した。他方、ペルーのパンプローナはペルー四冠を達成し、母として英ダービー馬エンペリーを送った。また同国のフロールデロートは7454勝という信じ難い成績を残したスプリンターで、同馬の勝利数はいまだ南米大陸史上最多勝利数として記録されている。チリのドラマはチリ牝馬三冠を達成し、エルダービー(チリダービー)も突き抜けていった。

凄まじい人気と名声を獲得したのがヴェネズエラのトリニカロール。牝馬の収得賞金額の世界記録を打ち立て、渡米前の壮行レースが行われた1983年の7月5日は、「国民の休日」にまでなったという。

それまでの牝馬の賞金レコード保持馬は、フランスの豪牝ダリア。彼女は3歳にしてキングジョージを6馬身差というレース史上最大着差で圧勝し、翌年も連覇。世界を行脚し、勝ち重ねたGIの数は11にも上った。そして彼女を語る上で切手も切り離せない宿運のライバルがアレフランセである。アレは2113勝。対ダリアに対しては8戦全勝。フランス牝馬三冠を達成し、凱旋門賞も勝った歴史的女傑である。

フランスが送った歴史的2大ヒロインらは、奇しくも最後のレースを米国で迎えているが、その米国にも信じられないほどの名牝がいた。

 

米国競馬の草創期である1800年代、この時代に生を受けた馬の中にアリエルという牝馬がいた。彼女は1822年生まれ。5742勝。4着以下1回もなし。生涯を通しての走破距離が、なんと549mを越えていたという。ダートの6,400m級を走りまくり、大勝を続けていたというのだから、溜息が漏れる。

続いて現れたのがファッション。1837年生まれ。3632勝の豪牝で、歴史的名馬ボストンにも快勝。この馬も牝馬に不利とされる超長距離戦を楽勝しまくっている。
つづくはミスウッドフォード。1880年生まれ。4837勝。当時の最強クラスの牡馬たちを大レースで軽く一捻り。
途方も無くレース数を重ねた恐ろしくタフな牝馬も出現しており、1894年生まれのインプは17162勝。距離不問。30馬身差クラスの大差勝ち&レコードを連発していた。

1884年に生を授かったフィレンツェは、実は真の米国史上最強牝馬なのではないかとの想いを抱懐させられる。残した戦績は8247221回。ハノーヴァーやキングストンといった19世紀の最強馬を相手にあらゆる距離で完勝した女傑中の女傑。隠れた名王妃はここにもいた。

1910年に降誕したパンザレタもすごい。151戦 76231321回という凄まじい戦績を誇る怪牝で、63Kg以上の酷量を背負いながら、レコードを11回も短距離戦で計時した。

近年の米国で取り上げるなら、ミス・パーフェクトと呼ばれたパーソナルエンスン。13戦全勝、GI8勝、無敗でBC制覇を果たした史上唯一頭の名牝である。

そして…ラフィアンの再来と称されたゴーフォーワンドを語らない訳にはいかない。

超絶的スピードを武器に連戦大勝。圧倒的1番人気で迎えたBCディスタフで残り100m地点で突然の故障…そして落馬…最後は奇しくもラフィアンが天へと昇ったベルモント競馬場で同じ末路を辿ることとなってしまった。

 

日本へと目を向けよう。

まず記しておかねばならないのは史上初の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌだろうか。トライアルまで完全制覇。恐らくもう二度と見られない記録だろう。

テスコガビーのスピードも驚愕のものだった。現代競馬でも普通に通用したであろうその逃走力と勝負根性…ダイワスカーレットとどちらが上だろうか?桜花賞大差勝ちは永遠に輝き続ける…。

ヒシアマゾンの豪脚も何度見ても魅惑的だった。クリスタルCの直線一気は今だ語り草。全盛時のナリタブライアンに食って掛かった最強マル外牝馬だ。

エアグルーヴも日本競馬史に残る名牝だ。伝説のいちょうSから天皇賞秋でのバブルガムフェローとの叩き合い…まさに日本を代表する最強牝馬の代表格。

近年ではシーザリオ。日米のオークスを圧勝したことで知られるが、彼女の強さの深淵の底はまったく見えない。もしかしたら、ディープインパクト同世代にして、2番目に強かったのは彼女だったのかもしれないし、あるいはディープが初黒星を喫した有馬記念、あの場に彼女がいたら、ディープを倒していたのはハーツクライではなく彼女だったかもしれない。

 

史上最強マイラーと称賛されるミエスク(1612勝。BCマイル連覇)は母としても優秀であったが、その牝馬第二の馬生、繁殖牝馬として…母として伝説の存在へと昇華した馬も数多くいる…ポカホンタス、レディジョセフィン、ムムタツマハル…。

 

 

奇跡の名馬キンツェム

随分と前置きが長くなってしまったが、ここまで数多の女傑・名牝を紹介したのは、いかにキンツェムという牝馬が偉大な存在かを感知して頂きたいためであり、またその一方では本書にて紹介しきれなかった名牝馬たちを補完補記する上で、便宜・詳論を促すためにも最善の場と考えてのものである。

概して、キンツェムは冒頭の三つの条件を満たし(むしろ溢れ返っているが…)、さらには不敗神話を生涯守り抜き、なおかつ後世にまで血統的影響を天与している。奇跡的なほどに完璧な競走馬である。

 

 

世界競馬史上さんざめいた如何なる偉大な名妃たちもが霞み、その神々しいまでの威光に平伏すしかない究極の存在…神話的競走能力を地球という星に刻印した史上最強牝馬、それがキンツェム号である。
キンツェムは54戦54勝。空前絶後、不滅の大記録を残した名牝。

ハンガリーに生まれ、ハンガリーに育ち、ハンガリーから欧州を行脚。ハンガリーの奇跡とも言われ、まさにハンガリー競馬の結晶体のような存在。その偉功はハンガリー競馬のみならず、競馬や世界の歴史上でも、そのまばゆい輝きの一端を放っている。あまりにも偉大な名馬である。

 


キンツェムは胴がスラリと長く、ステイヤータイプの馬体をしており、首を下げ地を這うような独特の走り方をしていたという。体高は165.1僂如19世紀の馬としてはかなりの大型。また、腰から後ろ足の部分にかけて大きな褐色の斑点が数点あったという。


キンツェムの最大の特徴にして、驚愕驚嘆する点は、とてつもないタフさを兼ね備えていたというところであろう。中二日で、立て続けにGI級のレースに出走した経歴もあるくらいだし、一ヶ月間だけで9連勝したこともある。しかも当時は、飛行機などあるはずもなく、当然鉄道や船での超長距離輸送となる。しかし、それをも物ともしなかった訳である。
まさに神の領域。鋼や鉄はおろか、オリハルコンの女…オリハルコンの精神力と賛謳すべきか。

 

それではこの奇跡の女神が歩んだ54の物語を、琴線を奏でるように甘目かしく語ってゆくこととしよう。

歴史的デビューは1876年の621日、ベルリン競馬場。芝1,000mの第一クリテリウムを4馬身差の圧勝。2戦目は7月2日ハノーファー競馬場フェアグレイヒス賞(1,000m)を1馬身差快勝。3戦目、7月9日ハンブルクにてクリテリウム(950m)1馬身半差、4戦目729日ドベランにてエリネルンクスレネン(947m)1馬身半差快勝。

すでに只ならぬオーラを迸らせていたキンツェムであったが、5戦目からは覚醒したかのように戦慄の強さを見せ付ける。

5戦目ツークンフツレネン(1,000m)10馬身差、67戦目では馬身差換算不能の大差勝ちを芝1,000m1,200mという短距離戦で()記録している。その後、秋風が煉瓦を愛撫し、落穂を揺らす頃の1022日、オーストリアはウィーン競馬場で迎えた初のマイル戦であるグラッドルーバー賞ではまたも10馬身。そして数日後、今度はチェコのプラハへと移動し、絵本のような中世の街並みを背景に、芝1,400mのグラッドルーバークリテリウムへ襲来。ここでまたも馬身差換算不可能となる大差勝ち。この後続を地の果てまでも突き離す大勝で2歳戦を締め括った。

 

いやはや…まだ2歳戦のみにも関わらず…なんだこの常軌を逸した成績は。

名だたる名馬の中でもさらに突出した、神々の聖域に住まう幻想名馬のような強さである。続けよう。

 

3歳になり、漸進成長を遂げてゆくキンツェム。始動戦は427日、ポズホニ競馬場のトライアルS(1,800m)へ出陣。軽くながしてクラシックレースへの弾みをつけると、ネムゼティ賞(ハンガリー2000ギニー、日本で言えば皐月賞。芝1,600m)へ出走し、牡馬たちを絶望の底へと敲きつける、容赦なしの大差勝ち(馬身差不明。そのわずか2日後には今度はハンガリー1000ギニー、日本で言うなれば桜花賞の位置付けに当たるハザフィ賞へと赴き、手綱を握り締められたまま1馬身半差で大楽勝。もはやハンガリークラシックに敵無しと、オーストリアのダービーへと矛先を向けると、ジョッケクルブ賞(オーストリアダービー、芝2,400m)で星槍が天空から突き下ろされるがごとく、凄絶な加速をみせ、なんと大差勝ちを収めてしまうのであった。このダービーは当時の中央ヨーロッパの最強級3歳が結集しており、キンツェムは世代最強を証明する決定的勝利をおさめることとなった。その3日後、今度は1,600m戦に出走し、持ったままの勝利。さらにその3日後の527日、生涯初となる芝の3,200m、カイザー賞という長距離戦に挑戦することとなった。長距離においてもキンツェムの神懸かった競走能力は微塵もかわらずいやむしろさらに凄まじく、馬なりのまま10馬身差の大差をつける、ワンサイド勝ちになってしまった。今度はドイツへ脚を向けると、初の古馬相手(しかも最強級)となるハノーヴァー大賞(3,000m)を涼しい顔で流し勝ちすると、ドイツ最高峰・バーデン大賞(2,500m※当時の距離)においても3馬身差つける圧勝を演じている。

キンツェムは誇らしく凱旋帰国を果たすや、アーラム・ディーユ(国家賞・芝2,400m)に姿を現し、59kgの斤量を背負うも、3馬身差の圧勝を果たす。翌日もアーラム・ディーユに出走。ここも楽な手応えで快勝すると、10月7日、ブダブスト競馬場へと乗り込み、ハンガリーセントレジャー(2,800m)戦へと出走し、10馬身差、無人の荒野を行くがごとくの大楽勝。その2日後、当時はまだ古牝馬も参戦可能だったカンツァディーユ(ハンガリーオークス、芝2,400m)へ向かった。しかし、なんとここでは60.5kgもの酷量が背負わされたが、何食わぬ顔で3馬身差の完勝。ハンガリー四冠達成である。

不敗の四冠馬出現。それもすべて本気で追われぬまま大差引き離す超怪物の出現に震懾(しんしょう)し、次走となったフロイデンナウアー賞(2,400m)では、回避馬が続出。ついには対戦相手がいなくなり、初となる単走となってしまった。

チェコへと旅してのカイザー賞(2,400m)では61圓鯒愽蕕ぃ叡紂このあたりからキンツェムは常軌を逸脱したを通り越した絶量たる重斤に艱難されることとなる。

しかし…実際にキンツェムはそんな困難にも懊悩、煩悶することなく、むしろ若葉をささやぐ春風のように、颯爽と翔動するのであった。

 

1878年の成績を列挙しておく。

 

422日・エレフネンクスレネン(1,600m)65.5kgを背負い2馬身差快勝。

 

425日・プラーター公園賞(2,000m)67kgを背負って3馬身差圧勝。

 

54日・スロヴァキアへ遠征。

アーラム・ディーユ(2,400m)へ出走し、69kgを背負って5馬身差の楽勝。

 

514日、ハンガリーへ戻り、アーラム・ディーユ参戦。芝3,200mという超距離で67Kgという斤量を背負うも5馬身差圧勝。

 

516日、同じくハンガリーはブダベスト。キシュベル賞(2,000m)へ参じ、69.5Kgで3馬身差圧勝。

 

519日、同じくハンガリー同競馬場にてアーラム・ディーユ(2,400m)へ向かい、69.5Kgの斤量で馬身差計測不能の大差勝ち。

 

526日、オーストリアはウィーン競馬場へ遠征。シュタット賞(2,800m)69.5Kgの斤量で1馬身差の勝利。

 

528日、同国・同競馬場にてトライアルS(1,600m)へ出走。65kgの斤量で馬身差換算不可能となる超大差勝ちで大楽勝。

 

530日、同国・同競馬場にてシュタット賞(1,600m)へ出陣。69.5kgの斤量で5馬身差の圧勝。

 

もはや東欧では国士無双の名馬となったキンツェムにとって、目標となるのは西ヨーロッパへの侵攻であった。目指す地は競馬発祥の地・英国――。

当時のハンガリー競馬は今とは比べようがないほどの超ハイレベルで、その水準は英国のそれをも凌駕せんほどのものがあった。そんな中での英国遠征。競馬の母国の名誉に懸け、ハンガリーからやってきた牝馬などに負ける訳にはいかない。皆そう息込んでいたものの、レースが近づくとキンツェムの存在に竦懼し、尻尾を巻いてハンプトンなどの有力馬が立ち去ってしまった。こうした戦況の中、3頭立てで催されたグッドウッドC(4,224m)は、キンツェムが快勝。歴史的勝利をおさめたのである。

返す刀、今度はフランスへと立ち寄ると、すでにキンツェムの噂は広まっていたものの、フランス・ホースマンたちのプライドがそれを許すはずもなく、徹底した圧力がかけられた中の61kgを背負ってのドーヴィル大賞(2,400m)を迎えるも、半馬身差他馬を圧制。

最後に立ち寄ったドイツでは、バーデン大賞(3,200m※この年は3,200m)連覇をかけて出走したものの、主戦のマイケル・マデン騎手が慢心に溺れ、大酒をかっくらい泥酔したままの一戦となってしまう。キンツェムはありえないほどの後方からレースを進め、直線ではもはや交わす事は物理的に不可能な位置取りも、奇跡的に並びかけたところがゴール。なんとか同着にこぎつけたキンツェムとマデン騎手は、優勝決定戦となった再レースに挑んだ。ところが今度は野良犬が執拗にキンツェムに絡んでくる。この隙にと、対戦馬は見る見るうちにリードを広げていった。キンツェムは聳動的に犬を蹴り飛ばし、追撃態勢に入ると、猛然と加速し瞬時に先頭を奪い返した。そうして並ぶ間もなく交わし去り、6馬身差の大差をつけ事無きを得たという嘘のようなホンとの逸話も残されている。

 

929日、西ヨーロッパ遠征から舞い戻ったキンツェムはアーラム・ディーユ(3,200)への出走を選択。69kgを背負い、後続が霞んで見えなくなるほどの歴史的超大差勝ち。

 

1020日、リター・ディーユ(2,800m)ではまたも対戦相手が全馬回避してしまい、単走となってしまった。

 

1022日、カンツァ・ディーユ(2,400m)に出走し67kg

キンツェム号の追記メモです。

・わずか一ヵ月の間に、9連勝したことがあった。また、5歳時のアーラム・ディーユ(国家賞・2400m)というレースでは、なんと76.5Kという超酷量を背負わされ勝っている。

・5歳時のバーデン大賞にて、一着同着という生涯唯一の大苦戦をしいられる。当時の規定により、再レースとなるが、これを5馬身差ぶっちぎり、事なきをえた。主戦騎手マイル・マドン騎手が酒に酔ったまま騎乗したことが苦戦の主因。
・その大苦戦をしたバーデンバーデン競馬場の内馬場には、キンツェムがのどの乾きを癒した古井戸があり、“キンツェムの泉”と名付けられ名所となっている。

・『キンツェム』とは、ハンガリー語で“私の宝物”という意味。
恋人や夫婦の間では、“あなた”としての意でも使われる。

・キンツェムは地を這うように首を下げて走る走法をしていた。

・ハンガリー、ブダペストの農業博物館には彼女の骨格やゆかりの品々が展示されている。

・ブダペスト競馬場は生誕100年を機にキンツェム競馬場と改称され、その場内には彼女の銅像がスクッと立っている。

◆“愛”と“友情”を知る馬・キンツェム◆

キンツェムが残した逸話は数知れません。
彼女は馬主や調教師、フランキーという廐務員、そしていつも一緒に旅した猫に強い愛情をしめしており、それに関する微笑ましいエピソードは尽きることを知りません。
それらの内、いくつかをご紹介します。


☆ある寒い夜、フランキー氏が毛布なしで眠っていると、キンツェムは自分の馬衣を口先でくわえてフランキー氏にかけてあげた。
その日からキンツェムは馬衣を着けなくなり、例えフランキー氏が毛布を被って寝ていても、自分の馬衣をかけてあげたという。


☆フランキー氏もキンツェムを尋常でなく愛し、署名や兵役の際、フランキー・キンツェムとしか名乗らず、やがてはこの名の下埋葬される。


☆キンツェムが優勝すると、馬主はいつも花束を持ってきて彼女を祝福した。
彼女はそれを愛情のしるしと理解していた。ある時、馬主が花を持ってくるのが遅れると、その間自分の鞍を外させようとしなかったという。


☆英国遠征の際、船から貨車に乗り換える時に、いつも一緒にいる猫が行方不明になってしまう。
どうやら船内で迷ってしまったらしい。それに気付いたキンツェムは、声を枯らしていななき続けた。
そして2時間後、キンツェムの声をたよりに猫はやってきた。
すると、キンツェムはみんな揃ったとばかりに悠々と貨車に乗り込んで行くのだった。

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