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トリニカロル ―Trinicarol―

 【トリニカロル

 〜ヴェネズエラ奇跡

世界最高賞金獲得…
  国民の休日すら
     設けられた
 歴史的スーパーヒロイン




父 ヴェルヴェットキャップ
母 オルメラ
母父 ファレルノ

生年:1978年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍: ヴェネズエラ
生涯成績:24戦18勝[18-3-1-2]
主な勝鞍:シモンボリーヴァル大賞(現シモンボリーヴァル国際大賞)、共和国大統領賞、ヴェネズエラゴールドC、ヴェネズエラ変則三冠[クリアナシオナル賞(ヴェネズエラダービー)、ラリンコナーダ競馬場大賞(ヴェネズエラ1000ギニー)、ヨハンキン・クレスポ将軍大賞(ヴェネズエラ牝馬三冠目)]、ペリオディスタス・ヒピコス賞、軍事賞、ラ・リンコナーダ競馬場開設記念、ほか

『奇跡の名馬』に収録予定だったが、惜しくも選からもれてしまった伝説の名馬(しかし、とある馬の話の中で微細ではありますが取り上げております)。爛凜Д優坤┘蕕寮犬鵑栖饑廰瓠悒肇螢縫ロル号』の目くるめく千紫万紅ストーリー。紅と紺碧の海図に鏤められし珊角の想漣を、いまここで綴り、汝のココロウナバラへ…爪弾くこととしよう。


南米における競馬の歴史録は、記憶もかすれるほど万古の古い時代から、その現状を伝え重ねてきている。それはまるで、ブリキのロボットが入り込んだ玩具箱のような趣を呈すほど古く、その揺濫がうねりを上げた、競馬涵養エリアはアルゼンチン、ブラジル、チリ、ペルーなどの国と地域が挙げられる。これらの国々はすべてパート1の評価を受けている上に、国際競走も充実しており、欧米に引けをとらないものを含有している。その他の南米国家はパート2、3に属するわけだが、忘れてはならない、奇跡の名競走馬を送り出した国がある。その国こそヴェネズエラである。

ヴェネズエラは1830年に独立。石油の発見により経済は活性化し、中南米の中では、飛び抜けて裕福な国家と言えるかもしれない。この国は北半球に属し、気候は熱帯性気候となっている。しかし、首都カラカスは標高960mという高原地帯にあるため、一年を通じ摂氏20度前後という快適な都市となっている。その人口は、有に約400万近くにまで上る程の大都市で、現代的な景観が広がっている。
この大都会の喧騒を避けるかのように、ラ・リンコナダ競馬場がそびえ立っている。左回りで一周1,600mのダートコースを擁し、開催は日本と同じ土曜・日曜開催となっている。

ここで少々、ヴェネズエラの競馬史について触れておきたい。
ヴェネズエラにおける英国式競馬の発祥は1882年。時が経ち、1935年にようやくジョッキークラブが設立。その翌年、血統書第一巻が刊行され、1958年前出のジョッキークラブがヴェネズエラ競馬場組合へと改組された。

そして1983年―…。ヴェネズエラのみならず、世界競馬史に残る偉大なる記録が、ここヴェネズエラで誕生する。牝馬によるGI10勝。さらには収得賞金の世界記録を新たに樹立。ヴェネズエラで生まれ、ヴェネズエラで育った一頭の牝馬がその歴史的バベルの塔を完成させ、見事も巨大なる天花のレコードを更新してみせたのである。

  
▲トリニカロルを描いた絵画

彼女の名はトリニカロル。1979年の2月18日、ヴェネズエラの牧場で呱々の声を上げ、大自然を背景に幼少を過ごした。競走馬としてのトレーニングも、すべてヴェネズエラ国内で施された。まるでヴェネズエラから天与の恵みを授けられ、愛育されたかのような馬だった。
トリニカロルが記録したのは184万ドル。それまでの世界記録は英国の名花ダリアの153万5443ドル。ダリアはKジョージ2連覇を含む、高賞金レースのGIを11勝もした名牝である。その記録を、国内でのみ走り、大幅に記録を塗り替えてしまったこの馬の偉大さは計り知れないものがある。賞金の高い日本、北米、UAE、そしてヨーロッパ諸国以外の第三国から、賞金王・女王に輝く馬が出現するのは奇跡にも等しい。

トリニカロールはまず2歳GIのシウダッド・デ・カラカス(ダ1,600m)にて凱歌を上げると、3歳時はクラシック路線を驀進。3月28日のダート1,600m戦をステップに、ラ・リンコナーダ競馬場大賞(ダ1,600m)を圧勝。クラシック牝馬一冠目を颯爽と走破すると、ヨハンキン・クレスポ将軍大賞、古馬も交えたヴェネズエラ金杯(ダ2,400m)、そして国内最大のレース・シモンボリーヴァル大賞典(3歳上、ダ2400m)と、突撃ラッパを吹き鳴らすがごとく、怒涛の連勝・楽勝劇を展開。そして最大の目標でもあった牝馬としてのダービー優勝を夢に見て、11月21日のクリアナシオナル(ヴェネズエラダービー、ダ2,400m)へ出陣。まるで約束を果たすかのように、一歩一歩を着実に踏みしめ、ゴールラインを過ぎてゆくトリニカロル。勝利の聖歌を吟唱し、誇らしげに口取り式を行う彼女は、近寄りがたいほどの恍惚の光炎を放ち、その艶姿は光の羽衣で肢体を包む天女のようだった。
こうして一度きりしかないクラシックという名の青いページへ“変則三冠”という歴史的栞(しおり)を挟み、国民一人一人の心のフィルムへと、自らの写像を焼印し、彼女は伝説となった。
しかし、これで終わった訳ではない。このシーズンのラストはラ・リンコナーダ競馬場開設記念。ここでも目覚しいほどの“滑る脚”で踏破。翌年へとつづく夕空のオレンジグラデェーションに、未来の飛行計画をすでに彼女は描いていた。

  
▲勝利の美酒を噛み締めるトリニカロルと陣営

伝説が神話へと昇華する1983年。まずジョン・ボルトン賞(ダ1,800m)で口火を切ると、ホセ・マリア・ヴェルガス賞(ダ2,000m)を圧勝。その約二週間後の3月27日、ペリオディスタス・ヒピコス賞(ダ2,400m)を軽くグイッと一飲みにしてしまうと、G兇猟控離戦アンドレ・ベロ賞(ダ2,800m)で驚愕的モーションで大きく引き離しての大勝を収めると、国内最終戦と位置づけられるフェルザス・アルマダス賞(ダ3,200m)へ歩を向け始めた。

そう、トリニカロルにとって、もはや国内で走ることは意味を持たないに等しいものだった。全戦楽勝圧勝。国民は世界に通用するこの宝駒を、祝讃のシャワーの中、送り出すことを決めたのだった。
彼女は歴史的女王であると同時に、世界賞金女王にまで上り詰めた国民万民のヒロインとでも褒賞褒美するほどの歴史的女傑の地位を築き上げていた。そのあまりに凄まじい彼女の人気ぶりを印象付ける指針となるのが、「1982年・7月5日」の国民の休日。これはトリニカロルの動向に起源を発すものであり、渡米前の壮行レースが行われた7月5日、その日が国民の休日に制定されてしまったのである。競馬を見るためにと、レース当日が休日になるのはオーストラリアのメルボルンCが有名だが、たった一頭のために国民の休日が設けられた話など、世界競馬史における全史を振り返ってみても、前例を見ない異常事態である。

その日――…老若男女、少年から少女までもが円らな瞳を輝かせ、拍手喝采でトリニカロル最後の馬場入りを見送った。トリニカロルは悠々と周回を重ね、集まった民衆一人一人に別れを語り囁くかのように、慄然としかし激情に任せるかのように、捲り上げ躍動すると、あとはいつものように魔法の絨毯に乗った魔法使いの美少女のままだった。人々のココロの片隅へ希望の灯火を点け、ウイニングポストへ吸い込まれてゆくトリニカロルの後ろ姿に、集結した国民たちは、大いなる輿望と、されど何処か侘しい凋落の陽光とを垣間見た。



万雷の祝円を滑走路に、米国へと渡ったトリニカロルだったが、米国の風も土も、そして人までも、彼女には冷徹で、偉大なるヒロインは歴史の中、転げ落ち時間の潮流の中、沈み埋もれていった。


澄み切った青空…トロピカルフロートの似合う、カリブ海を臨む海岸線…太陽のキスを頂く白い雲…。故国ヴェネズエラが生んだ「奇跡」…それは凍てつく美冬の候、星降る夜気の静寂(しじま)が空をつつむ中、そっと降り立った一頭のヒロインによりもたらされた永遠のタカラモノ…。

  

奇跡の名馬 (南米諸国の名馬) * 03:10 * - * trackbacks(0) *

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