<< 『黒潮』の未来 / main / キングジョージ裟&クイーンエリザベスDS >>

ダーリア

  ダーリア

 〜アスコットの名花〜

強い女の象徴として…
 世界を渡り歩いた女傑


 

父 ヴェイグリーノーブル
母 チャーミングアリバイ
母父 ハニーズアリバイ

生年:1970年
性別:牝
毛色:栗毛
国籍:フランス
生涯成績:48戦15勝[15-3-6-24]

スチュアート朝最後の君主で、ジェームス2世の末娘であるアン女王陛下は、スコットランドを併合し現在のグレートブリテン連合王国を建国した。
彼女は競馬好きで、ニューマーケットには厩舎も構えている程だった。そんな競馬愛好家である陛下が、とある荒れ地を馬車で通りかかった際、競馬場に非常に適した立地であることを察知したという。その土地こそ、かの「アスコット」という訳である。

女王陛下は早速その土地でレースを催すことにした。その第一回となったのが、1711年8月と記録に残っている。
当時は立派なスタンドやコースが設置されていた訳でなく、柵と標識が立ててある程度のものだったが、レースは好評を博し、ロイヤル・アスコット開催へと発展の道を歩んでゆく。
やがて時は流れ、このアスコットを舞台に大レースが次々と創造されてゆくと、その流れに沿うかのように名馬も誕生していった。本馬ダーリアもそんな馬の一頭で、アスコットで大きく花開き、世界の名花へと成長を遂げた。
それでは、フランスが誇る名花ダーリアの蹄跡をたどってゆくことにしよう。

ダーリアは石油や鉄鉱石で巨万の富を築いたテキサス州のネルスン・バンカー・ハント氏の手で生産された。生まれ故郷はアメリカ。ブルーグラス牧場だった。ダーリアはハント氏が信頼を寄せるフランスの調教師モーリス・ジルベル調教師の元へ送られた。
調教を進める内に、ダーリアは並々ならぬ素質を垣間見せるようになっていた。デビューは1972年8月6日のヤコウレフ賞(芝1,000m)。チャレンジという馬に2馬身差つけ楽勝。しかし、2歳戦は残る3戦とも凡戦で、わずか1勝に踏み止まることになってしまう。ダーリアの本領発揮は、年も変わって1歳年齢を重ねた1973年からであった。
その年明け緒戦はクラシック候補の集うラ・グロト賞(芝1,600m)。ここでダーリアは後方一気の末脚を爆発させ快勝。続く2戦目はプール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏1000ギニー、芝1,600m)だったのだが、ここでダーリアは宿命・因縁のライバルと対峙することになる。アレフランセである。完敗だった。アレフランセは後方から脚を伸ばし、ダーリアは3馬身差の3着と敗れてしまう。
アレフランセとの初対戦から一ヵ月後のサンタラリ賞(芝2,000m)、ダーリアの独壇場だった。強烈な末脚を炸裂させ、初となるGI制覇を成し遂げた。次ぎなる舞台はディアンヌ賞(仏オークス、芝2,100m)。ここではアレフランセとの2度目の対戦が待っていた。直線アレフランセが先頭に立つと、ダーリアはそれを目がけ猛然と追い込む。ところが、アレフランセとの差は縮まらず、最後はアレフランセが流しながら楽走していた。またも完敗だった。ダーリアはこの時、決定的な敗北に歯軋りしながら怒り続けていたという。

アレフランセには歯が立たなかったものの、他馬とはまるで能力の次元が違ったのがダーリアという馬の最大の特徴だった。
仏オークス後、ダーリアはアイルランド遠征を敢行。愛オークス(芝2,400m)へと駒を進めたのだが、ここには英1000ギニー、英オークスと無敗の快進撃を続けているミステリアスという牝馬が出走してきていた。ダーリアは後方待機の得意な戦法を取った。すると、ミステリアスも後ろからレースを進めた。直線に入り、ミステリアスが上がっていくのを確かめたかのように、一気にダーリアが進出開始。豪脚を爆発させ、瞬時に突き抜けるダーリア。結局、ミステリアスに3馬身差つける圧勝だった。そのわずか一週間後のことだった…アスコットでのキングジョージ。このレースでダーリアの秘められたポテンシャルが全開されることになる。4連勝中の最強古馬ラインゴールド、英ダービー馬ロベルト、仏ダービー馬ハードツービート、愛ダービー馬ウィーヴァーズホールなどが出走してきていたが、ダーリアは残り3ハロンを残しスパート。ロベルトをあっという間に抜き去ると、ゴールまで独走し、6馬身もの大差と2:30.4というレースレコードを叩き出してしまった。「フランスの名花ダーリア」が、「世界の名花ダーリア」へと変貌を遂げた瞬間だった。

ダーリアは再び競馬場に姿を見せたのはブルゴーニュの森が色付き始めた頃だった。ニエル賞(芝2,200m)を始動戦としたダーリアは、3歳最強牡馬と目されているテニスンを完膚なきまでに打ちのめしてしまう。これで弾みをつけたダーリアは、ヴェルメイユ賞(芝2,400m)へ出走。アレフランセとの3度目の対戦だった。はじめてライバルから1番人気を奪っての出走。しかし、不運なことにダーリアは他馬とぶつかり外傷を負ったばかりか、バランスを崩して走りのリズムが狂わされてしまう。そんなダーリアを尻目にアレフランセはゴール板を悠々と通過していた。不利さえなければ、もしかしたらアレフランセに勝つ事ができたかもしれない一戦であった。コンディションを崩したダーリアは凱旋門賞で26着と大敗。アレフランセは2着、1着はラインゴールドだった。

ズタボロになった自信と誇りを取り戻すため、ダーリアは生まれ故郷である米国遠征へ出発。ワシントンD.C.インターナショナル(芝2,400m)に出走すると、3・1/2馬身差付け大勝。またフランスの牝馬にも関わらず、英国の年度代表馬に選出されている。

4歳、古馬になってもアレフランセとの闘いは続いた。しかし、5度目の対戦では6馬身差の惨敗、6度目の対戦でも15馬身という屈辱的大差負けを喫してしまう。この大敗が尾を引いてしまっているのか、ダーリアは大スランプに陥ってしまう。ダーリアが復活のよすがとしたのが脚質転換だった。得意の追込みを捨て、先行したサンクルー大賞(芝2,500m)で、後続首差振り切って優勝。見事な復活を遂げた。この一戦で威厳と誇りを取り戻したダーリアは、2度目のキングジョージに出走。ここでは得意の追込みで臨み、最後方から行った。ダーリアは直線に入ると俊足を発揮して鋭進。2・1/2馬身差付け、楽勝。史上初めてキングジョージ連覇を達成した。
この後、凱旋門賞を目指すか米国遠征の道を歩むのか、オーナーと調教師が対立するが、ダーリアが凱旋門賞のステップレースで3着と敗退したことで、オーナーサイドの意向通りに2度目となる米国遠征へと出発した。まずマンノウォーS(芝2,200m)で楽勝すると、カナダへと足を延ばしカナディアン・インターナショナル・チャンピオンシップ(ダ 2,600m)に参戦。初ダートにも関わらず、なんとレコード勝ちを収めてしまう。
しかし、連覇を狙ったワシントンD.C.インターナショナルで3着敗退。さすがにタフなダーリアにも限界が近づいていた。

5歳を迎えたダーリアは明らかに衰えを見せていた。11戦してわずか1勝に止まってしまったのだ。しかしそれでも3連覇を懸けたキングジョージで3着と踏張ったのはさすがとしか言い様がない。6歳時は競走の舞台を故国アメリカへと移すが、13戦してたったの2勝と、明らかにダーリアの競走馬生は終焉を迎えていた。

ダーリアは引退し、繁殖に上がってからも優秀な産駒を次から次ぎへと輩出した。母としての成績では、完全にアレフランセを上回っていた。


フランスから芽吹いたダリアの花は、アスコットで大きく咲き誇り、世界の名花となった。
「アスコットの名花」…彼女の名は、“ダーリア”。


  



  ★彡追記メモ★彡

☆ダーリアはフランス、アイルランド、英国、アメリカ、カナダ、イタリアと6ケ国を旅し、GIを11勝も上げた。

☆ダーリアは体の線がなめらかで、いかにも牝馬らしい競走馬だった。
画文集『チャンピオンの時代』(画=R.ストーン・リーヴズ、文=P.ロビンソン)では、「ダーリアは磨かれた鋼が太陽に照らされたような美しい毛色をしていた。…この馬は酒場女のような腰をしていたが、それが驚異的なスピードの原動力となっていた」という記述が残されている。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 22:58 * - * - *

スポンサーサイト

- * 22:58 * - * - *