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Gladiateur

【 グラディアテュール 】

  〜伝説の剣闘士〜



父 モナルク
母 ミスグラディエイター
母父 グラディエイター

生年:1862年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:フランス
競走成績:19戦16勝[16-0-1-2]
主な勝ち鞍:英国三冠{英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー}、パリ大賞、アスコットゴールドカップ、ラ・クープ、アンペラトリス大賞、ドンカスターS、ニューマーケットダービー

フランスには、100年の間隔をおいて究極のサラブレッドが降誕している。一頭が1962年生まれのシーバード(紹介済み)、そしてもう一頭が本馬グラディアテュールということになる。

2頭には共通する部分が幾つもある。まず血統がとても一流とは言えない貧相なものであったことだ。
シーバードの母系は5代前まで遡っても平地競走での勝ち馬が見当たらず、グラディアテュールの場合近親にほとんど活躍馬の出ていない無名血統だった。
2点目は国際的大活躍をしたという点。シーバードは英ダービー、凱旋門賞という2大レースを大楽勝。グラディアテュールもイギリスではじめての外国産馬による英ダービー制覇という歴史的快挙を成し遂げている。
そして最後の3点目は、両馬とも痛ましい悲劇の最期を迎えているという点である。シーバードはあろうことか食肉工場へ売り飛ばされ、グラディアテュールは…。あまりにも酷い歴史的英雄の最期は、本編の最後に記したい。

1862年、フランスはダンギュ牧場に大きく脚が湾曲したみすぼらしい牝馬から1頭の巨大な子馬が生まれ落ちた。母の名前ミスグラディエイターからの連想で、“グラディアテュール”(「剣闘士」)と命名されたこの子馬は、血統相応の気品に乏しい馬で、未成熟なまま身体だけが発達したかのような、巨体を持て余し、胴の長い貧相な外観をしていた。
誰からも期待など寄せられなかったこの馬に、突然の災難が舞い込む。ある日、母ミスグラディエイターがグラディアテュールと馬房で和んでいる時のことだった。ミスグラディエイターは誤って愛くるしい子供の右前脚を踏んでしまう。この惨事により、グラディアテュールは一生を跛行で悩まされることになってしまい、十分な調教を消化することもままならぬことになってしまうのであった。

そんな災禍の下、1歳を迎えたグラディアテュールは、コンピェーニュの森で調教を施される。4〜5頭で森の中を併走するという調教がクリスマス前まで続けられる。この森林調教により、グラディアテュールは颯爽かつ闊達とした動きを示すようになり、馬主であるコフレデリック・ド・ラグランジェ伯爵と調教師のトム・ジェニングス調教師が行う最終選定調教にまで残るまでの目覚ましい成長を遂げていたのだった。




1864年、グラディアテュールは慎重に調教を施され、10月11日のニューマーケット競馬場へと姿を見せる。クリアウェルS(芝1,200m)を大きなモーションから繰り出される圧倒的パワーを見せ付け、ジョーカーという馬に1馬身差つけ楽勝で初陣を飾った。2走目となったのが初出走からわずか3日後のプレンダーガストS(芝1,200m)となったが、体調不良のため3着と惜敗。3戦目は10日後のクライテリオンS(芝1,164m)だった。この時、グラディアテュールは体調が整わなかったことに加え、跛行の悪化で歩く事もままならなかったという。そのためレースでも全く良い所無しの着外に大敗している。
しかしまだこの時、グラディアテュールは自身に眠らせている巨大なるポテンシャルをまだ1ミリも使いこなせていなかった。それはグラディアテュールが成長期に差し掛かる時期にあったことや、その使用距離により、超神的能力に蓋がされていたと考えるのが妥当なところだろう。


春風の訪れと共に、グラディアテュールは六ヵ月間の冬休みを終え、厩舎へと戻ってきた。休み明けのグラディアテュールに、ジェニングス調教師は過酷な試練を与える。厩舎ナンバー1と目されているルマンダリンとの併せ馬調教がそれだった。しかも、グラディアテュールには8kg以上ものハンデが背負わされていたという。しかし、グラディアテュールは馬なりのままグングンと猛進し、10馬身差もの大差をつけルマンダリンを置き去りにしてしまった。この衝撃のシーンを目の当たりにしたジェニングス調教師は、トライアルを使わずクラシック第1弾の2000ギニーへ向かわせることを決意したという。

5月2日、久々にニューマーケットの馬場を踏んだグラディアテュールは、誤算に苛まれていた。十分な調教が全く行えず、さらにその上、またも体調が完調まで仕上がらない。こうした苦況に加えて跛行もひどかったため、ゴール前で息が上がってしまうとジェニングス師は読んでいた。この大ピンチをジェニングス調教師はとんでもない機転を利かし、乗りきってしまう。現在では門前払いとなりそうな話だが、ジェニングス師は「とてもみっともない馬なので、とてもパドックでは見せられません」と主催者側に申請し、パドックに姿を見せず、スタンドから遥かに離れたコース上で装鞍が行われ、グラディアテュールはスタミナの浪費を抑えることに成功。レースは薄氷を踏むかのようなクビ差の辛勝だったが、最後の最後、師の機転を利かせた秘策が功と出た結果が勝利を呼び込んだのであろう。この歴史的勝利の瞬間、グラディアテュールはフランスの英雄となった。フランス産馬史上初の英クラシック優勝という、歴史的快挙の達成。フランス人は歓喜の渦へと飲み込まれた。この勝利を祝い、街は夜を撤した宴に暮れたという。

グラディアテュールがエプソム競馬場へ降臨。圧倒的1番人気の支持を受けての英ダービーとなった。後方から悠然たる脚取りでレースを進めると、直線コースで神懸かった超然たる末脚を爆発させ、クリスマスキャロルに2馬身差で優勝。英ダービーにおける、史上初となる外国産馬による快挙達成だった。

   

ウイニングランを経て、メインスタンドへ戻ってきたグラディアテュールを迎えたのは、万感万雷の拍手喝采と称賛と賛辞の嵐だった―。厳重な警備体制が敷かれていたが、フランス産馬である事など誰しもが忘れ、全観客がスタンディングオベーションで迎え入れたのである―。故国フランスでは、イギリス競馬の象徴とも言えるダービーに勝利したことで、国を上げての盛大な宴が、何日にも渡って催されたという。民衆がここまで歓喜乱舞した背景には、当時の政治的情勢の敵国だったイギリスへの情念がちらついている。
またオーナーのラグランジェ伯爵がナポレオンの将軍の子息で、ナポレオン3世国王陛下の親友でもあったことから、この勝利をフランスの新聞社が「ワーテルローの復讐」と書き立て、半世紀前の溜飲を下げた。ワーテルローの戦い―…1815年、ナポレオンが英を中心とする同盟軍に大敗したあの無念を晴らしたというのだ。

グラディアテュールの注目の次走がパリ大賞(芝3,000m)と発表された。これにフランス国民は熱狂。なんと15万を超える大衆がロンシャン競馬場へと詰め掛けた。お目当てはもちろんただ1頭、究極英雄グラディアテュールだ。レースではグラディアテュールが4コーナーで8馬身差も離された後方から一気に突き抜け、ゴール前では8馬身の大差を突き付けていた。これに感極まった観客が同馬の勝利を祝福しようと柵を押し倒し馬場へと傾れ込み、グラディアテュールを取り囲むように祝辞と称賛の言葉を並べた―。フランス革命以来の熱狂と興奮がそこにはあった――。その荘厳なる光景は、秉燭が訪れ、夕闇がブルゴーニュの森を包み込むまで続いたと伝えられている。

その二ヵ月後、7月25日のドローイング・ルームS(芝2,000m)では宇宙まで突き抜けてゆくかのような、猛烈なスピードで駆け抜け、40馬身差という超大差勝ちを記録。これを目撃した他陣営は震え上がり、翌日に出走したヴェンデイングメモリアルS(芝2,400m)では全馬が回避してしまい、単走となってしまう。
しかしこの時、グラディアテュールの右前脚は悲鳴を上げはじめていたのである…。歩く事もままならないまま出走を迎えた三冠最終戦のセントレジャー(芝2,920m)。英オークス馬のレガリアが挑んできたが、グラディアテュールの敵は爆弾を抱えた自分自身の右前脚だった。その脚をかばうかのように馬なりで終始レースを進め、レガリアを3馬身差に沈める。フランス産史上初、史上2頭目の三冠馬誕生だった。

脚が極限の限界状態を迎えていたにも関わらず、グラディアテュールは三冠達成から僅か2日後のドンカスターS(芝2,400m)へ出走した。ジェニングス調教師は、「単走になるだろう。それならゆっくり走って賞金を稼げる」…こう読んでいたようなのだが、大誤算が発生する。なんとレガリアが再戦を叩き突けてきたのである。今度ばかりは出走回避をジェニングス師も考えたが、グラディアテュールは闘気のオーラを全身から発散させ、気合いに満ち、競走意欲に溢れていたという。この強固な意志を尊重し、レースへ向かわせると、キャンターでレガリアをちぎり捨て舞い戻って来た。すると不思議な事に、脚の腫れが嘘のように引いていたという。そんな逸話が残されている。

三冠馬としてフランスへ凱旋すると、プランス・アンペリアル大賞(芝3,200m)へ出走。当然のごとく楽走でレースを終え、ニューマーケット・ダービー(芝2,400m)へ参戦すると40馬身差の超圧勝で締括る。続くケンブリッジャーS(芝1,816m)で謎の敗戦を喫することになる。おそらくその敗因は主戦ジョッキーであるH.グリムショー騎手の近眼にあったものと思われる。彼は自らの近視からペース判断を見誤ることがあった。1,800mという距離で大差離されて追走していては、さすがに厳しいだろう。これが最後の敗戦となった。

4歳を迎えたグラディアテュールは、ダービー・トライアルS(芝2,400m)とクラレットS(芝、距離不明)で脚を慣らし、アンペラトリス大賞(芝5,000m)とラ・クープ(芝3,200m)を大勝。その勢いを風に乗せ、最強古馬決定戦のゴールドC(芝4,000m)へ。
このレースがグラディアテュール神話の究極の一戦として語り継がれることとなる――。

グラディアテュールは先頭をゆくブレッダルベーンから離され続けてゆく…その差40馬身。坂の下りで抑えられた時には100馬身もの差が開いてしまっていたという…。さらに差は広がる一方で、一番差がついた時にはもはや馬身差には換算できず、約300m以上の差があったという。しかし、グラディアテュールは仕掛けられると、もはや生き物とは思えない敏捷なモーションで軽快なフットワークを刻み、見る間に差が詰まってゆくと、直線へ入る前に全馬を飲み込んだ――。グラディアテュールが「光の剣」をかざす―。剣閃はアスコットを貫き、ゴール板へ剣が突き刺された―…40馬身差の超大差勝ち。俄かには信じがたいパフォーマンスである。
光と影。競馬史に残る燦然たる栄光の後、大きな不幸が陣営を襲う。主戦のグリムショー騎手が、このレースの帰り道に馬車で転倒し、25歳のあまりに短い生涯を閉じることとなってしまったのである。

しかし、歴史的英雄に悲涙に暮れる時間は与えられない。彼には大いなる未来へとはば立つための、最後のレースが眼前に迫っていたのであるから――。
1866年10月7日、ラストランにしてグリムショー騎手の弔い戦にして引退レースとなったアンペルール大賞(芝6,400m)を3馬身差の快勝で締め括り、見事有終の美を飾ったのだった。


しかし―――……

…―ターフを去ったグラディアテュールに、華やかな種牡馬生活が訪れることはなかった。産駒は全くと言っていい程結果を残せず、別の馬主へと盥回しされ、挙げ句の果てには馬車馬として奴隷のように酷使された…生涯悩まされていた脚の腫れが悪化していたにも関わらず…である。そして1876年、余りのひどい扱いについに最期は立つこともできなくなり、同馬の最後の所有者関係者の手により、安楽死処分が取られた…フランス史上最高の英雄は、誰にも看取られることもなく、闇の彼方へと去ってゆき、伝説は神話となっていまへと語り紡がれている…――。




  ★彡追記メモ★彡

☆1865年の仏ダービーは、グラディアテュールに調教で大敗したルマンダリンが圧勝。2、3着馬もグラディアテュールとともに最終調教選定に残った2頭であった。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 05:51 * - * - *

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