〜マリンスノーに抱かれ眠る、
白き神話の大女帝〜
ースペイン競馬に降臨せし
幽玄なる歴史的大女傑ー
父 フィルベルトディサヴォワ(ヘロド系)
母 オーガスタ
母父 メンテノン(ヘロド系)
生年:1926年
性別:牝
毛色:芦毛
調教国:スペイン
生涯成績:43戦27勝[27-(13)-3]
主な勝ち鞍:マドリッド大賞(芝2,500m)連覇(1931・1932)、サンバスティアン金杯(芝2,400m)3連覇(1930・1931・1932)、トレド記念連覇(1931・1932)、🇫🇷ビアリッツ大賞、オトーニョ大賞連覇(1930・1931)、グラディアテュール賞3連覇(1930・1931・1932)、フォメント大賞、他
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
■謎のアトランティス文明
瑤杳たるハルカカナタの遠き遠き神話の時代。何処かに存在したという伝説の大陸文明アトランティス。
ムー大陸、レムリア大陸など、謎に満ちた超古代文明の浪漫譚は、今も神秘のヴェールに包まれ、我々の好奇心と探究心を扇情的に擽って止まない。現代文明をはるかに凌ぐ超古代文明が、一日一夜で銷沈するという物語。
果たしてそれらは実在したのであろうか。
アトランティスとは、古代ギリシャの哲学者プラトンが自身の著書『ティマイオス』および『クリティアス』の中で述べたもので、その規模感は島でありながらも、大陸のような大きさであったという。リビュア(北西アフリカのナイル川より西側の地区)とアジアをあわせた大きさよりも、さらに大きな島であった記伝されている。加え、アトランティス人たちは現代人をもはるかに凌ぐ文明を持っていたとも伝えられ、テレパシーを使っての会話ができたとも記されている。しかし、約1万2000年以上前も前にそのような高度な文明を持ちながら、一夜にして、大地震と津波によって海の底へと沈み、滅亡したという。
アトランティスの痕跡、候補地としては様々な諸説が挙げられている。
マルタ共和国ゴゾ島に数多く残る巨石神殿の遺跡、バハマのビミニ島沖にある「ビミニ・ロード」、アフリカ北西部モーリタニアの「サハラの目」などが有力とされているが、いずれも判然としていない。
しかし、明らかとなっていない謎めいた神秘性があるからこそ、その魅惑は大きなうねりを持って我々の心を煽動し続けるのであろう。その神話的コードネーム?アトランティス?の名を拝授した伝説の名馬が、太陽の沈まぬ国スペインに降誕している。
その馬は、他の馬とは全く様相が異なっており、幽玄でミステリアスな雰囲気を身にまとい、神威的能力を宿していた。
アトランティダ。その偉大なる白き神話の大女帝へ今回は迫っていきたい。
その白き神話の女帝を育んだスペイン競馬の濫觴と歴譜にルーペをあてて見ていこう。
■スペイン競馬の淵源と歴逓
情熱の国スペイン。その燃え激る炎熱の国における競馬の淵源、始まりは、1835年、マドリード市北東部、現在のバラハス空港近くのアラメダ・デ・オスナとして知られるマドリッドの農場で開催されたレースであったとされている。
当時は施設のようなものがあった訳では無く、貴族階級、上流階級のハイソサエティな人々が娯楽として楽しんでいたものであった。競馬場には観客席も無く、参戦する貴族たちも自身の所有する馬に乗って観戦に訪れたという。
1841年4月23日には、馬を用いた競走を?競馬?という新たな概念に置き換え、その発展と促進、競走馬の保護と繁殖を担うべく、ソシエダ・デ・フォメント・デラクリアカバラル・デ・エスパーニャ(SFCCE)が設立された。この創設にあたったオスナ公爵は同組織の議長も務め、その馬へと傾ける情熱と、功績から?スペイン競馬の父?と言われている。
「馬種の改良、競馬等による馬種の育成促進及び普及」を目的」として、協会の設立から1年後、競馬規則が作成され、マドリッドのカサ・デ・カンポ邸にスペイン史上最初となる洋式競馬場が設立され、1843年4月20日に最初のスペインの公営レースが開催され、3,000mの距離が行われたという。その記念すべき史上最初のレースの勝者は、マルケス・デ・グアダルカサル厩舎の馬パプーラ号であったという。
▲〔社交場の様な華やかな装いを呈していた古のスペイン競馬〕
競馬に携わった騎手も、貴族や軍人など、当時は一部の者に限られていた。その後、王宮のバックヤードにあたるカサ・デ・カンポや、市北部のカステリャーナなどに競馬場が設けられたが、いずれも現存してしない。カステリャーナ競馬場跡地には官公庁の建物が建設されている。
王室の御用地であるマドリード南方約50km にある町アランフエスでも、スペイン内戦直前までレースが行われていたという。また、パセオデラスデリシアスという場所でも競馬が行われたという記録がある。
スペイン競馬が大いなる発展を遂げたのは1970年代に入ってからで、1971年にスターティングゲートが導入され、バリヤー式スタートに取って変わった。1971年にはスティープルチェイスコースの整備が進み、本格的に障害戦が熱を帯びていく。1974年にはトータリゼータシステムが確立され、賭け方に大きな変革がもたらされている。
黎明期におけるスペイン競馬には、
?三大名馬?とされる存在がある。
ヌーヴェルアン、コリンドレス、アトランティダの3頭がそれである。
本項の主役アトランティダを除く2頭の簡易プロフィールは以下の通りであるが、3頭とも現在のスペイン競馬におけるレース名にその名を残す偉大なる名馬である。
〜スペイン古の三大名馬〜
ヌーヴェルアン
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔ヌーヴェルアン。1915年生まれ。マドリッド大賞ことグランプレミオ・デ・マドリッドを1919年から三連覇。フランスでも活躍し、モーリスドニュイユ賞(芝3,100m)、ケルゴルレイ賞(芝3,000m)も優勝。栄えある第一回凱旋門賞に出走したたった2頭の外国馬(もう1頭は勝ち馬のカムラッド、英国。)にしてスペイン競馬唯一の出走馬。〕
コリンドレス
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔コリンドレス:1924年生。父ラリキン(タッチストン系) 母パニエルフレウリ 母父ニュリセカンダス(セントサイモン系)、鹿毛。スペイン競馬古の名馬。マドリッド大賞を1927年、1928年、1929年と三連覇を果たす。他にアランフェスダービー、サンセバスティアンダービー、サンセバスティアン金杯、アルフォンソ13世賞など〕
そして
アトランティダ。
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
これら、いにしえの3大名馬のオーナーは共通しており、それがスペイン競馬における歴史的巨人、ドン・ビセンテ・メネンデス・サン・フアン・シメラ伯爵(シメラヴァレンティン・メネンデス・イ・サン・ファン・シメラ伯爵。※以下、シメラ伯爵)である。
彼はスペイン競馬における偉大なるホースマンの一人であり、スペイン競馬へ寄与した功績とその実績は計り知れないものがある。
〔ドン・ビセンテ・メネンデス・サン・フアン・シメラ伯爵(1874-1944)〕
(El Excmo. Sr. Conde de la Cimera. Propietario de admirables caballos de carreras.—Fot. Kaulak)
シメラ伯爵は1847年7月2日、マドリードのブエナビスタ地区で生を受けた。1903年に第6代のシメラ伯爵の称号を拝受され、1912年11月にはスペインオリンピック委員会の創設メンバーの一人として活躍。1914年から15年の間には、保守派所属のウエルバ県の維新コルテス上院議員を務める。さらに、晩年においては1930年7月4日より、第二共和制宣言の日まで、ファン・アントニオ・グエル・イ・ロペス氏の後任として、国家観光局の会長も務められている。
第6代シメラ伯爵ことサンファン氏はこよなく馬を愛し、乗馬に生涯を捧げ、また競馬にも多大な寵愛を狂熱的に注いだ。
そんなシメラ伯爵は、1918年11月に、シモン・アルトゥナ氏が所有していた、ガァルニソの美しく広大な土地を買収する。
当時の価格で、約8万4000ドルで購買を済ませたものと伝えられている。
夢の一つであったサラブレッドの生産と育成。
その壮大なる大志を成就させるべく動いたのであった。
その翌月となる12月、建築家のリアンチョ氏と共にその地へ往訪。邸宅となる予定地の視認調査と確認を行い、この地におけるサラブレッド生産の夢絵図を思い描くのであった。
▲〔ガァルニソのフエンガ牧場で営みを送る長閑な馬たちの様子〕
(写真引用:Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?)
ガァルニソにおけるサラブレッド育成厩舎兼繁殖牧場の管理責任は、シメラ伯爵が最も信頼を置いたというアレハンドロ・アモール・デ・フェレイラ氏が担当する事となった。メキシコ出身の紳士で、生涯を馬に捧げたフェレイラ氏が牧場経営の舵取り担ったことも、馬産成功における大きな好因の一助であり、シメラ伯爵の幸運でもあったことだろう。彼はサラブレッド繁殖の専門知識を持ち、「真の馬愛好家」とも呼ばれたホースマンの一人であった。
〔アレハンドロ・アモール・デ・フェレイラ氏〕
(写真引用:Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?)
シメラ伯爵は次々と計画の進行を進め、ガァルニソの小さな町にあるフエンガ牧場を拠点として、1919年には15頭の繁殖牝馬をここに迎え、サラブレッドビジネスを推進させていった。同年、キュピドンという種牡馬も導入し、1920年には当牧場における、最初の産駒が誕生。この年、フランスからもラリキンというサラブレッド種牡馬も購入し、スタッドイン。その翌年にもビリーコックという種牡馬も参画してきた。フランスより招かれたラリキンは大きな成功を収め、フエンガ牧場の主軸となって牧場の発展に尽くす。
シメラ伯爵の熱情を血に、めざましく発展を遂げていくフエンガ牧場は、手を緩めることなく次の手を次々に展開。1926年に英国からプレモントという種牡馬も導入し、テコ入れを図ってより牧場の繁栄を強固なものとしていく。ラリキンとプレモントが中心となって大車輪の活躍。次から次へと、綿飴式のように優秀な競走馬が生産されていったが、その中でも、シメラ伯爵が関わった名馬たちの中でも特筆すべきが?スペインいにしえの3大名馬?の3頭なのである。
ヌーヴェルアンのみ、伯爵の単独所有馬ではなく、マルトレル公爵ことペドロ・デ・アルカンタラ・アルバレス・デ・トレド・イ・サマニエゴ氏(1867-1925)との共同所有馬であった。
〔マルトレル公爵。ペドロ・デ・アルカンタラ・アルバレス・デ・トレド・イ・サマニエゴ氏(1867-1925)〕
※写真中央の人物。(写真引用:equijar 2.0「Marqués de Martorell」)
侯爵もまた、スペイン競馬史に大きな功績を残したホースマンの一人。傑出した軍歴を持ち、当時最も観光客が多い軍事目的地の一つであった王女の軽騎兵隊の騎兵大佐にまで上り詰め、アルフォンソ13世の部屋の紳士、王立馬術協会の創設者、王立奨励協会の書記でもあった。スペインの競馬界の権威であり、アントワープオリンピックのスペイン代表団の馬術指導者であったが、晩婚で子供がいなかった。熟練した騎乗者でもあった彼は、馬術スポーツ界で頭角を現し、ジェントルマンライダーとしてレースにも出場。長年にわたりスペインの馬術スポーツ界の第一人者を務めた。
偉大なるスペイン競馬黎明期の2大ホースマンが育てた結晶がヌーヴェルアンであり、さらにその上をいったであろう伝説の名馬こそがコリンドレスであった。コリンドレスは伯爵が目を掛けて導入したラリキンの産駒で最高傑作と言える存在。
シメラ伯爵の馬産、サラブレッドビジネスにおける一つの到達点となるような名馬であった。
そして、アトランティダはシメラ伯爵晩年の最高傑作であり、能力はヌーヴェルアン、コリンドレスと匹敵・・・
いや…上回っていたであろう、異質かつエキゾチックなオーラを纏う、ミステリアスな名馬であった。
シメラ伯爵はアトランティダの強さと速さ、その特異性、そしてその愛くるしい容姿から特別な慕情を傾慕し、アトランティダを寵愛した。
〔伯爵の愛馬たちが重ねた無数のタイトル、栄光の歴史を証明するトロフィーの数々。その数と眩い輝きを放つ優勝杯にただただ感嘆の溜息が漏れる〕
(写真引用:equijar 2.0「Conde de la Cimera」)
▲〔シメラ伯爵が用いた勝負服のデザイン。有名なのはブラウン地に水玉模様の勝負服である〕
そんなスペイン競馬史にも、日本や欧米、豪州に負けず劣らずの名牝が降誕していっている。
アトランティダの栄華を語る前に、簡単にはなるが、この場を少しお借りして、スペイン競馬にガラスの靴音を残していった名牝たちを紹介していきたい。
〜スペインの歴史的名牝たち〜
唯一の三冠牝馬
トカラ
〔トカラ:1959年生まれ。スペイン競馬唯一の牝馬三冠達成馬。1962 Premio Beamonte (Spanish Oaks);1962 Premio Valderas (Spanish 1,000 Guineas).1962 Premio Villapadierna (St. leger),SPAIN TRIPLE CROWN WINNER〕(写真引用:Sports horse data)
唯一の変則トリプルティアラ
エウレカ
〔エウレカ:父ゴヤス(トワルビヨン系) 母メイドインイングランド 母父グレンリヴェット(ハイペリオン系)、栗毛。 スペイン競馬唯一頭となる二冠牝馬。ヴァルデラス賞(スペイン1000ギニー)、ビーモンテ賞(スペインオークス)、ナシオナル大賞、これら3つのGI級タイトルを獲得した唯一の牝馬である〕(写真引用:Sports horse data)
牡馬二冠を制圧した女傑
トゥーランドット
〔トゥーランドット:1948年生、父リチェーチェ(スウィンフォード系) 母スティルウォーター 母父フェアトライアル(フェアウェー系)、鹿毛、スペインのダービー格競走は1951年までは現セントレジャー格のヴィラメジャー賞となっており、トゥーランドットはシメラ賞、そしてこのスペインセントレジャーであるヴィラメジャーを制し牝馬ながら牡馬二冠を制してしまった。さらにはマドリッドグランプリ(マドリッド大賞)も勝った女傑である。生涯成績27戦15勝〕(写真引用:pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?)
スペイン競馬史上最強世代の女帝
フォリー
〔フォリー:1958年生。スペイン競馬史上最強馬と言われるカポラルと同世代である牝馬で、ヴァルデラス賞、ビーモンテ賞の牝馬二冠に加え、トレドメモリアルにも勝利した最強女王である〕(写真引用:Sports horse data)
スペイン競馬至高の女王
テレサ
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔テレサ:1984年生。父レフィッシモ(ハイペリオン系) 母タカラ 母父タカウォーク(ネイティヴダンサー系)、生涯成績16戦9勝[9-2-1-4]、2歳時にグランクリテリムを勝ち、牝馬ながら2歳チャンピオンに輝き、クラシックロードではヴァルデラス賞、ビーモンテ賞を勝ちスペイン牝馬二冠馬となった。日本で繁殖入りしアドマイヤテレサなどを送る。1999年には日本からフランスへ渡り繁殖生活を送っているという〕
スペインに出現した数多の名馬たち・・・
バルセロナの英雄アパノイ、西国史上最強マイラーのシャーマン、史上最強馬カポラル、奇跡の名馬レフィッシモ、マドリード大賞3連覇のエルパ、12戦11勝で西ダービー・サンセバスティアン金杯・マドリード大賞など主要競走総なめの天才チャカル、香港ヴァーズ優勝のパルツィパァル、最強三冠馬アルカイツ、カドラン賞馬バナビー、史上最強スプリンターのヌーゾーカナリアスなどなど…
万斛、巨多、万恒河沙の名馬犇めく中、一際の異彩を放つのがやはり本項紹介のアトランティダである。
▲〔アトランティダの貴重なカラー写真〕(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
真っ白な馬体に青い瞳を持っていたというアトランティダ。
その走り方もまた独特で、首を高く、引っ掛かるように走っていたという。
戦法としては、後方からスタートし徐々にポジションを上げていき、最後の直線で一気に前を行く馬たちを飲み込んで抜き去っていく…という戦法が主だったものであったようである。
レースでは常に人気を集め、ほとんどのレースで1番人気、それも1.1倍や1.3倍など突出した絶大な人気を誇っていた。
アトランティダの調教を務めたのは、シメラ伯爵御用達のG.フリーマン調教師。
そしてその手綱を任されたのは、偉大なるレジェンド、ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手であった。
■スペイン競馬の大レジェンド
▲〔ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手〕
(写真引用:Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?)
ヴィクトリア−ノ・ヒメネス騎手はスペイン競馬における最も偉大な名手の一人に数えられる偉人である。
彼は並々ならぬ鉄の意志で、わずか40kg近辺の体重をキープし続け、常に高みを目指し続けた。
誠実で真面目一筋、それでいて礼節を重んじる紳士の中の紳士であったという。
1911年にデビューすると、サンルーカルのビーチ競馬にて、ペパという牝馬で初勝利を上げた。
そこから47年間の現役生活を続け、64歳まで騎乗を続けた。シーズンを通して活躍し、シーズンオフとなるやエジプトへと戦場を移し、騎乗を通年を通して休ませることがなかった。このシーズンオフ中のエジプト遠征は、1924年から1929年まで行っており、その際には1日に9勝を上げるという、世界記録の偉業もカンパメント・デ・ラ・リネア・デ・ラ・コンセプシオン競馬場にて成し得ている。ヒメネスは、スペインのリーディングジョッキーには6回輝き、多くのビッグタイトルを獲得している。最たる勲章はマドリード大賞9勝であり、それを筆頭にサンセバスティアン金杯8回、ビアリッツグランプリ、アレクサンドリアダービー、ヘリオポリスグランプリ、サンセバスティアン大賞2回、エジプトのコパ・デル・レイ・フアドを3回、そして、フランス・メゾン・ラフィットのラ・タミセ・ハンディキャップで優勝している。このラ・タミセ・ハンディキャップは、スペイン2000ギニー馬キャップポローニアとのコンビで芝1,800m戦のこのレースに出走。38頭もの出走馬があったことから、なんと2列になってのバリヤースタートが成され、2列目のインコースからすり抜けて優勝を手にした。
ブラウンの下地に白い水玉模様が散らされた勝負服はスペインの競馬場で眩い輝きを放ち、競馬場で躍動した。
その勝負服とヒメネスのライディングパフォーマンスは、神話的白き女神を共鳴させる一つのコードサインのようである。
ヒメネス騎手は多くの名馬に騎乗したが、アトランティダへの信頼は絶対であり、絶大な信愛を持って手綱を握った。
自身が手綱を取って跨った中では最も崇高で最高の名馬であることは間違いなく、彼のアトランティダへの信念は何があっても揺るぎない物であった。
■?白き神話?の濫觴は?
さて、アトランティダというとやはり印象深く、最もインプレッションが強烈なのはその馬体の色であろう。
真っ白な馬体だが、白毛ではなく芦毛である。彼女の芦毛は父フィルベルトディサヴォワから受け継ぎし物であるのだが、その源泉はどこなのだろう。
血統表を遡求していくと、とある3頭の芦毛馬に行き着く。
〔アトランティダの父、フィルベルトディサヴォワ。1920年生。芦毛。フランスで11戦7勝2着2回3着2回のほぼパーフェクトな成績でパリ大賞、ロワイヤルオーク賞、カドラン賞、フランス三大長距離レースを勝った〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父イザー。1910年生。芦毛。フランスでドーヴィル大賞など制覇。〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父父ルサンーマーティン。1895年生。芦毛。生涯成績28戦9勝。ドーヴィル大賞、ギシュ賞、ダリュー賞などを制覇〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父父父ルサンシー。1884年生。芦毛。生涯成績43戦27勝。ドーヴィル大賞2回、ダリュー賞、サブロン賞、ボワルセル賞など重賞級レースを多数勝ちまくる。〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔ルサンシーの母、ジェムオブジェムズ。すなわち…アトランティダの父父父父母。〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
さらに遡ると・・・
【スコットランドの白い英雄】
シャンティクリーア
〔シャンティクリーア:1843年生。父バードキャッチャー 母フィム 母父ドローン、芦毛、生涯成績32戦19勝。ドンカスターカップなどに優勝。スコットランド調教馬として最上級の成績を残した。首回りから胸前、体駆の造りまで何から何までが頑強に屈強さを折り重ねた様な鋼鉄の馬体を誇っていたが、その気性は手に負えないほど荒いものだったという。ジェムオブジェムズの父母父。すなわち、アトランティダの父父父父母父母父〕(写真引用:Sports horse data)
シャンティクリーアの芦毛は、シャンティクリーアの母父父母であるスピンスターから受け継いできた物である。
ここからさらに血統の絲を辿っていくと…
スピンスターの父系の芦毛は、父母父母のケードメアーから流れを汲むものであり、その源泉にいるのはフェンウィックバーブである。この馬は、1670年に生まれたとされるアラブ馬であり、第2代準男爵ウィリアム・フェンウィック卿(1617-1676)によって輸入された。先代であり、初代フェンウィック卿であるサー・ジョン・フェンウィック (1579-1658) 氏は、初代ノーサンバーランド男爵であり、ロイヤルスタッドのマスターでもあり、そしてチャールズ1世の王族レースの測量士でもあった。彼の馬はフェンウィック品種と呼ばれ、初代ニューカッスル公爵によれば、彼は「イングランド全土を見渡して見ても、傑出して多くの希少な出走馬を所有しており、イングランドのすべての有名な出走馬のほとんどは、彼の所有馬の血を引いている」とまで述べている。
スピンスターの母系の芦毛は、1663年に生まれたとされるダーシーズホワイトタークと1700年生まれのハニーウッズアラビアンに行き着く。
フェンウィックバルブ、ダーシーズホワイトターク、ハニーウッズアラビアン。
これら3頭がアトランティダの芦毛の始源的ルーツになるであるが、?芦毛の祖?と呼ばれる神話的名馬の血もアトランティダは引いている。それがオルコックアラビアンである。
〔オルコックアラビアン:1712年生まれ(諸説あり)、芦毛の祖ともされているサラブレッドの開祖の1頭。フェアファックスモロッコバルブが世界最古の芦毛馬であるが、芦毛を後世へと残した馬は間違いなくこの馬。オスマン帝国に生まれ、英国に渡りチャンピオンサイアーとなる。残した最高傑作のクラブが、芦毛を遺伝させ流大きな役割を担った。競馬ゲームにも登場するが、競走歴はなかったとされている〕(写真引用:Wikipedia『オルコックアラビアン』)
?白い蟹?
クラブ
〔クラブ:1722年生。父オルコックアラビアン。生涯成績9戦6勝。オルコックアラビアンの毛色を受け継ぎ、類稀なる競走能力と種牡馬実績を見せたいにしえの名馬。同時代を生きたヴィクトリアス、クレオパトラ、サンダーボルトといった強豪を軒並み負かしている。サラブレッドに?芦毛?という毛色を定着させた功績はこの馬にあると言って良い程で、三代始祖以外の父系に属す種牡馬としては最大級の成功を収めた。〕(写真引用:Sports horse data)
〔今回のアトランティダのお話、またよく見つけてきたなぁ海猫さん・・・って思いながら夜通し読み耽ってしまいました!by美空〕
芦毛の源潮は上述のようにクラブらにある訳であるが、最もアトランティダに似ているのは、アトランティダの父父父父ルサンシーであるように感じる。生涯成績まで、偶然ではあるものの、ルサンシーとアトランティダは一致する。
■スペインの女ネイティヴダンサー
芦毛の世界的な名馬とすると、すぐさま思いつくのはネイティヴダンサーである。
本馬アトランティダはまさにスペインにおける女ネイティヴダンサー的存在であった。
もっとも、ネイティヴダンサーはアトランティダ誕生の約30年後に活躍した馬であるのだから、
本来なら米国の男アトランティダがネイティヴダンサーとすべき所なのかもしれない。
2頭の共通点は、芦毛というだけでなく超絶的な人気にもあった。
ネイティヴダンサーの人気を物語る逸話として、競馬場が赤字になることを憂い、馬券発売を取りやめたという話がある。
これはネイティヴダンサーのラストランともなったオネオンタハンデ(ダ1,400m)へ出走した時の実話で、NY州では単勝オッズの最低配当が1.05倍が取り決められており、ネイティヴダンサーが出走するとほぼ赤字確定である事を鑑み、馬券発売なしのレースとなったという。これと似たような逸話が、アトランティダにもあり、アトランティダは毎回1.1倍〜1.3倍という絶大な信頼が置かれた1番人気で出走し、ほとんどを勝利した訳だが、単勝馬券を買い、わずかな利幅で得たペセタ、ペニーといった当時のスペイン通貨をドルに交換して儲けようとした輩が現れたこともあったという。
▲〔1930年6月15日付のスペインの新聞紙?クロニカ?のスポーツ面の一面。サッカーの名門レアル・マドリードvsバレンシアの一戦とアトランティダvsフラスカティ(スペイン2000ギニー馬)の対決を同時に報じている貴重な一面。「白い巨人」と謳われるレアルは白い女帝アトランティダに。フラスカティはバレンシアに準えているようである〕(写真引用:Revista "Crónica" 15 de junio de 1930)
脚質や戦法も似ており、先行して2・3番手、もしくは中団に構えながら徐々に進出し、直線でいつの間にか先頭に立つというレースぶり。ネイティヴダンサーもアトランティダも跳びが大きく、アトランティダに至っては、前述の通り頭を高くして引っ掛かって見えるような独特の走り方を見せていたという。
アトランティダは1930年頃、つまり4歳、古馬になってから無敵の覚醒を遂げ、タイトルを積み重ねていった。
サンバスティアン金杯(芝2,400m)を3連覇(1930・1931・1932)。
トレド記念も連覇(1931・1932)し、フランスの西端にあるビアリッツにも遠征。
ビアリッツ大賞を圧勝したヴィクトリアーノ・ヒメネスとのパフォーマンスは、フランスのファン、ホースマンらに大きな衝撃を与えた。
アトランティダが積み上げた数多のタイトルの中で最も特筆すべき凱歌はサンバスティアンゴールドカップ3連覇とマドリッド大賞連覇の2つが双璧を成す。
中でも、克明な資料の残るマドリッド大賞連覇の詳細を綴らせて頂く。
■マドリッド大賞での
2度に渡る驚愕のパフォーマンス
スペイン語では?グラン・プレミオ・デ・マドリッド?と呼ばれるマドリッド大賞は、スペイン競馬の最高峰レースであり、最大級の勲章となっている。創設は1919年、初代王者はスペイン競馬の偉大なる名馬ヌーベルアン。
6月最終週にマドリードに佇むサルスエラ競馬場を舞台に、芝の2,500mで行われる。
レース創始から1933年までは、カステッラーナ競馬場(1878年1月31日開場)で開催されていたが、同競馬場の取り壊しが決まり、その解体年においてのみレアル競馬場(アランフェス競馬場、1852年開場、1934年閉場)で開催され、1934年、35年に関してはレアル競馬場も解体されたことを受け、サンセバスティアン市営競馬場の芝2,400mで開催されている。1936年から1940年まではスペイン内戦を受け、中止を余儀なくされるも1941年に復活。以降は現在の舞台、サルスエラ競馬場にてスペイン最強馬決定戦の役割を担う最大のレースとして運営されている。しかし、1994年から2005年までサルスエラ競馬場は閉鎖を余儀なくされ、同競走は沈黙することとなってしまうが、2006年に2,400mで再開。2009年からは2,500mに戻り、現在に至る。
🔲マドリッド大賞(1931年)
日曜日に開催を予定されているマドリッド大賞は、この年、悪天候にたたられ、どんよりとした曇天が空を覆っていた。
このレースを心待ちにしているファンらの住む街へポツリポツリと雨音が聞こえ始めると、レース開催当日まで雨は延々と降り続いた。カステッラーナ競馬場の馬場を相当に水分を含んでおり、非常にタフで時計を要す、パワーのない牝馬にとってはかなり酷な舞台設定となっていた。例年ならば、立錐の余地もない程の観衆でごった返す競馬場であるはずが、大雨の影響で人もまばらとなってしまった。レース当日も雨は降り続き、2レース、3レースの雨は上がらず、激しい雨中の中行われたが、午後になると漸く、啜り泣くのを止めてくれたようだった。
アトランティダは60kgもの斤量が背負わされ、極悪の不良馬場と強烈な雨風が吹きさぶ過酷を極める舞台設定もあり、不安視される声も多くあったが、断然ダントツの1番人気に支持され、送り出された。アトランティダは稀有なステイヤーと陣営からは判断され、古馬になって以降は、重賞では全て2,400以上の長距離をセレクトされ競走している。クラシックディスタンスから長距離では既に歴史的名馬級の評価がされており、ここも大本命となっていた。
雨が上がるも、まだ客足は遠く、マドリッド大賞の時間を間近に控えても数百人程しか競馬場にはファンが見掛けられなかったという。それ程に激しい風雨に見舞われていたということであろう。
シメラ伯爵と彼のお抱え調教師ジョルジュ・フラットマンに見送られ、レースのスタートを切ったアトランティダはゆっくりと走り出し、最後方にも近いポジションを取った。馬場の悪さ、強い雨風を考えると逃げ先行馬に、状況は圧倒的優位は明白で、出走馬の半数以上が騎手が叱咤、鼓舞し、半狂乱で前を争って、ペースは激しさを増した。
しかし、ヒメネス騎手は微塵も動じる事なく、アトランティダを信じきってじっくりと脚を溜めた。
スタンド前を通過した際、先頭を行く馬からアトランティダまで、およそ目視でも15馬身以上は離された後方を進んでおり、これにはファンたちも不安を覚え、数百人という寂寥感に満ちた観客たちからも「まさか」の事態を危惧して、騒然となっていた。
ところがである。アトランティダはいつの間にかポジションを上げ、3コーナーから4コーナーを周回するまでに3番手にまで上がってきており、最終コーナーを回る時点で先頭に立った。
ここからがさらに圧巻で、全くの楽な手応え、ノーステッキどころかほぼ追わずのキャンターで後続を振り切ってしまったのである。
〔キャップポローニオ:1928年生。父プレモントレ(タッチストン系)母グナト 母父メンテノン(ヘロド系)、黒鹿毛、1931年のプレミオ・シメラ(西2000ギニー)を勝利。フランスへ遠征し、メゾンラフィット競馬場にて、ラ・タミゼハンデキャップ(芝1,800m)も制覇。なんとこのレースは38頭立ての超多頭数で行われ、バリアースタートで圧倒的な不利な2列目でのスタートとなるが、強烈な末脚を発揮して勝利。フランスでも結果を残した〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
2着の同厩舎の3歳馬のエース、キャップポローニオ(斤量51kg。アトランティダと9kg差!)が全力を振り絞り追走してきたが、流して楽走するアトランティダとの差は3馬身差もあった。キャップポローニオは、スペイン2000ギニーに当たるシメラ賞を勝っており、この年の最強格の3歳馬。フランスでのレースもヒメネス騎手とのコンビで勝っている名馬である。それに10kg近いハンデを与え、馬なりで圧倒してしまうアトランティダの異常性。キャップポローニオも3着馬ソレントに5馬身差をつけているので、アトランティダが強過ぎたとしか言いようがない。(ソレントはキャップポローニオと同世代で、ポローニオのライバル。ここでポローニオに決定的着差をつけられてしまい、同世代最強をポローニオ譲る印象を与えてしまった。この時、ソレントが背負っていた斤量はポローニオと同じ51kg)ちなみに4着には軽量44kg…アトランティダと16kg差もの斤量差の最軽量馬であった、最軽量というか・・・もはや本当に裸同然のヴェロスという馬が入着している。
勝ちタイムは2:56.8と、いかに苛烈な環境下でのレースであったかを物語る記録が残されている。(日本の芝2,500mと比較して20〜25秒近い差がある)
〔1931年グラン・プレミオ・デ・マドリッド(マドリッド大賞)の直線、ゴール前の写真。カメラ目線で楽々と欣喜雀躍たる様相で後続を突き放していくアトランティダ〕(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1931 Atlantida)
🔲マドリッド大賞(1932年)
1932年6月26日の日曜日に行われたスペイン最高峰のマドリッド大賞(芝2,500m)は前年とは違い晴天に恵まれ、初夏の陽気漂う中、13頭が出走し行われた。この年もまた、アトランティダは60kgの斤量を背負っている。
ちなみに、この当時のマドリッド大賞は3歳で50kg。4歳59kg。5歳以上が61kgで、牝馬は-1kgという斤量設定であった。
好天に恵まれたこと、前年があまりにも荒天に祟られたこと、そしてアトランティダの存在により、これまでに見たことも無いほどの観衆が詰めかけた。
レースはスタートでアトランティダが立ち遅れ、ほぼ最下位からのスタートとなった。
穴馬を支持し、大波乱で一攫千金を狙う穴党ギャンブラーたちは色めきたったが、アトランティダにとっては日常茶飯事の通常運転であり、夏めく薄暑の競馬場をそよぐ薫風を楽しむかのようにステップを踏んだ。
パナマという先行馬が一頭抜け出し、後続を引き離してハイペースの逃げに持ち込むと、馬群は大きく縦に広がった隊列となり、アコーディオンのように伸びた。アトランティダは悠然と最後尾付近に構え周回を続ける。
▲〔1932年マドリード大賞の最初のコーナーを写したと思しき写真。アトランティダは最後方付近からレースを進めているのが見てとれる〕
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
4コーナーを迎える頃、いつの間にか白い馬体は前方を射程圏に収め、最終コーナーをカーブし終える頃には先頭から4番手につけ、直線を向くとすでに3番手に上がってきていた。ヒメネス騎手が追うといつもの独特の頭を高くして走るモーションで颯爽と前を交わし去り、2馬身差の快勝でレースを締め括った。
勝ちタイム2:40.6はレコードタイムで、前年のタイム2:56.8と比較すると16秒以上も速いタイムとなる。
全世界を見ても、前年と16秒以上の時計差を記録してレコード勝ちの連覇を果たした例は他に無く、これだけでも彼女の途方もない巨夢のポテンシャルを物語る一つの指針となるであろう。(その連覇どちらもほぼ馬なりで流して成し遂げていることも留意されたい)
いかに前年が極悪なコンディション、条件で行われていたかを物語ると同時に、良馬場でも劣悪な不良馬場かつ雨や強風の悪天候に見舞われた悪条件であっても、アトランティダはどちらの環境下であろうと変わらぬ能力を発揮出来るという、証明にもなる記録である。そしてこのタイムは、ヌーヴェルアンが1920年のマドリッド大賞にてマークした2:42.6を12年ぶりに塗り替え、そして2秒も更新する大レコードとなった。
▲〔先頭に躍り出て楽な手応え、持ったままで突き放していくアトランティダ〕
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
▲〔ファンから祝福を受けるアトランティダとヒメネス騎手〕
(写真引用:Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?)
レースを終え、ファンの前に戻ってくると、観衆は皆スタンディングオベーションで白き女帝と偉大なる名手を讃え、賛美、賛称を送った。
白き神話の大女帝を間近で見ようと、感極まったファンたちが祝福と讃美の言葉を、アトランティダとヒメネスへ花束を渡すかのように掛け続ける。主役の二人を包む観衆の祝辞、祝砲の宴は、しばらくカステッラーナ競馬場を包み、その熱情と熱気は、夏を加速させるかのように周囲へと残響を風に乗せ、夕陽が照らす街へと吹き抜けていくのであった。
(写真引用:HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932)
■珊瑚に抱かれ眠る?白き神話?
〔アトランティダが某人気育成アプリゲームの娘化がされたら…こんな雰囲気なのかもしれない〕
アトランティダは、距離が延びれば伸びる程に神化し、真価発揮する馬だった。
白き白銀の馬体と青空のような碧眼を持ち合わせていた美麗な容姿に加え、人懐っこい愛くるしい性格もあいまり、多くのファンから絶大な支持と人気を博した。
前述のように、レースではその独特の走法とモーションで他を圧倒し、凱歌を重ねた。
スペイン競馬のレジェンドジョッキーであったヴィクトリアス・ヒメネス氏も最も信頼し、特別な心愛と崇愛を寄せたパートナーであった。オーナーのシメラ伯爵もまたそれは同じで、アトランティダへの慕情は計り知れないものがあった。
▲〔現役時代最晩年の一枚。白光の馬体とキラキラと輝く瞳。堂々たる振る舞いでレースへと臨むアトランティダ〕
(写真引用:Hippodromo ?REVISTA DEPORTIVA IL USTRADA?《ATLANTIDA》momentos antes de su triunfal reaparición. —(Foto Legorgeu.))
しかし・・・
運命とは残酷なもので、アトランティダの牝系は途絶えてしまっている。
少なくとも筆者の調査では、彼女の子孫を現代競馬で発見することは叶っていない。
一日にして海の底へ沈んでしまったという伝説のアトランティス・・・
白き伝説の名牝もまた、その名に宿った天命になぞらうかのように、渺茫たる歴史という大海の中、音もなく沈降し、マリンスノー降り積もる深海の底、珊瑚の手に抱かれ永遠なる眠りに就いた。
沈心黙考、黙想・瞑想に浸透滅却させ、ココロを歴海へと沈潜させ、思いを馳せる・・・
太陽沈まぬ情熱の大地、偉大なるホースマンたちと手を取り歩んだ、白き神話の大女帝。
綿津見の彼方へ消えた、彼女が描いた心絵は、果たしてどのような景色であったのだろうか。
マリンブルーの青炎なるその瞳に映った色はきっと幸運多福溢れる幸せの色だったと信じたい。
「あなたをひとりにしない。
心はずっとそばにいる!」
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
【参考文献】
・Hace cincuenta años.
・Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?
・Hipódromo de La Zarzuela
・世界名馬列伝集「ネイティヴダンサー」
・Wikipedia「ネイティヴダンサー」
・うみねこ博物館「ネイティヴダンサー」
・Wikipedia 「アトランティス」
・Wikipedia?Valentín Menéndez San Juan?
・wikiwand「アトランティス」
・カラパイア 不思議と謎の大冒険「サハラの目と呼ばれるミステリアスなリシャット構造が、「アトランティス」の遺跡であるとする新説が発表される」
・TABIZINE 「アトランティス、ムーなど超古代文明は本当に存在したのか?【世界の謎】」2017年12月2日
・meteorologiaenred「アトランティスはどこか」
・Youtube Naokiman show「アトランティス大発見か?!」(都市伝説)
・Youtube Naokiman show「アトランティス文明はやはり存在していた?!」(新発見)
・Youtube TOLAND VLOG「日本の大部分が沈没する!?ディズニーが描いたアトランティス大陸の真実がヤバすぎる。」
・Youtube コヤッキースタジオ「超古代文明アトランティス大陸の正体がついに判明。地球の地下に見つかった【 都市伝説 アトランティス 地底 地下都市 古代遺跡 】」
・pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?
・equijar 2.0
・equijar 2.0「Marqués de Martorell」
・equijar 2.0「Conde de la Cimera」
・Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?
・desanlucar.blogspot
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・EL IMPARCIAL, martes 23 de junio de 1931
・HERALDO DE MADRID, lunes 22 de junio de 1931
・HOJA OFICIAL DEL LUNES, lunes 22 de junio de 1931
・LA VOZ, lunes 22 de junio de 1931
・HERALDO DEPORTIVO, domingo 5 de julio 1931
・ABC, martes 28 de junio de 1932
・EL IMPARCIAL, martes 28 de junio de 1932
・EL SIGLO FUTURO, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932
・LA EPOCA, lunes 27 de junio de 1932
・LA LUZ, lunes 27 de junio de 1932
・LA VOZ, lunes 27 de junio de 1932
【引用写真・イラスト元】
・Thoroughbred pedigree
・Sports horse data
・Hace cincuenta años.
・Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?
・Hipódromo de La Zarzuela
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・equijar 2.0
・Wikipedia 「アトランティス」
・Wikipedia?Valentín Menéndez San Juan?
・wikiwand「アトランティス」
・meteorologiaenred「アトランティスはどこか」
・pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?
・Revista "Crónica" 15 de junio de 1930
・Hippodromo ?REVISTA DEPORTIVA IL USTRADA?《ATLANTIDA》momentos antes de su triunfal reaparición. —(Foto Legorgeu.)
・無料イラストAC
・フリー素材「ブルーグリーン」
・ちちぷいさんイラスト「深海のあの子」
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・EL SIGLO FUTURO, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932
・Besthdwallpaper.com「アニメ 学校生活」
・freepik.com「白い髪と青い目をした美しいアニメの女の子」
]]>
(写真引用:Club Social y Campo de Pato)
■はじめに
2024年2月12日(日)、世田谷の馬事公苑にて行われた
『ホースメッセ2024』。
今開催の中で行われた講習会の一つ、「乗馬界の秘密兵器『ホースボール』と競馬界の切り込み隊長おさむとなべの危険な!?コラボ講習会」に参加させて頂きました。
その際、目の前で、初めて生で見たホースボールにいたく感銘と感動を受け、記事に起こしてみました!
貴重なお時間を頂きました西島隆史様、そして有意義で素敵な講習会を催して下さった関係者の皆様にこの場をお借りして感謝申し上げます!🙇♂️
この記事を目を通して下さった方、皆様が、ホースボールに興味を抱いて頂けたら、記事冥利に尽きます😭
ホースボールの益々の発展と日本代表の活躍を、心より祈念致しております❗️🙏
■ホースボールとは!?
まさにその名称の如く、馬の球技!
「乗馬しながら行う球技」であり、その様はラグビーのように映る激しいモーションから、「ケンタウロスのラグビー」と表現されることも。
そのラグビーや、サッカー、バスケットボール、野球のように1点でもより多くの点を取ったチームが勝利したとみなされます。
ポロ、ラグビー、ネットボール、バスケが組み合わさったスポーツというとイメージしやすいのかもしれません。
(逆に混乱する!?😅)
【ホースボールの基本ルール】
・1チーム4騎、4騎vs4騎
・前半10分、後半10分の20分勝負。
・前後半の間に5分のインターバルが設けられる。
・落馬してしまった者が出た場合、再騎乗してスタート。
・使用するボールは、サッカーボールの四号球のもので、
皮の取っ手のついた特殊なボールを用いる。
・ドリブルとパスを繋いでゴールを目指すが、得点する前には、
3人の異なるプレーヤーの間で最低3回パスを交わさなければならない。
・タックルあり。
・交代要員として2名が控えていて、プレー中断時にいつでも交代することが可能。
・ボールを10秒以上持つと反則。
・馬が静止した状態でボールを拾うとペナルティ。
・ボールが地面に落ちたときは、プレーヤーは馬から降りたりペースを変えたりせずに
動きながらボールを拾わなければならない。
・ゴールは、3.5mの高さに設置された直径1mのフープにボールを投げ入れることで
点を得ることができる。
・ゴールが決まったら1点。バスケの3ポイントシュートのような物はない。
・ピッチのサイズは、約65メートル x 25メートル
(約215フィート x 80フィート) の長方形。
■ホースボールの誕生と原点
ホースボールの誕生は、障害飛越世界チャンピオンであるフランス陸軍大尉クラーベの発案から。
そのアイデアは、「馬と騎乗者のパートナーシップを改善し、標準的な乗馬馬術でプレイでき、何より楽しくプレイできる競技を作ることであった。この技術は、ボルドー地方の乗馬インストラクター兼ラグビー選手であるジャン・ポール・デポンを会長とする委員会を設立したフランス人たちによってさらに発展を遂げていく。フランスでホースボールのルールを規定したのは彼らであり、1970年代後半、フランス馬術連盟 (FFE) はホースボールを競技として認め、とりわけプロヴァンス、ミディ、ロワール渓谷の地域で急速に人気を高めていく。現在のルールは1978年にフランスで制定されましたが、国際的な進展が進んだのは、90年代初頭になってからで、1992 年にフランス、ベルギー、ドイツ、イギリス、イタリア、ポルトガルで国際競馬委員会が設立、最初のヨーロッパカップが開催される運びとなりました。同年12月には、パリでサロン・ド・シュヴァルが開催。その直後、オーストリアもこの連盟に加わっている。
フランスで誕生した、この馬に乗りながら行う球技は、「 いつかホースボールがオリンピック競技になって、世界中の人と一緒に楽しめるように 」という想いを込めて、英語で?Horse Ball?と名付けられたのです。
★ホースボールの原点?パト?
(写真引用:El Juego del Pato – Ángel Della Valle – Óleo Sobre Tela – MNBA)
そのホースボールの原点とされるのが、アルゼンチンの国技にもなっている”パト/PATO”という、ガウチョ(アルゼンチン版のカウボーイ)達の遊び。ガウチョたちは1610年頃にこの遊びを発明したとされ、1953年9月16日、当時の大統領だったフアン・ドミンゴ・ペロン将軍により、パトは正式にアルゼンチンの国技に認可され、サッカーが絶大な人気を博す前までは、パトがその地位を持っていたとまで言われている。ちなみにアルゼンチンにおける初となるサッカーの試合は1867年6月20日に行われているが、その当時はパトの方が市民権も掌握していたようである。
ちなみに?パト?とはアヒルという意味らしいのだが、この由来は当初、ガウチョたちがアヒルを殺してボールを作っていたことに起因していると口伝される。
黎明期のパトは非常に暴力的なスポーツであり、その上、ルールが正確性を欠いていたため、数年間禁止となった時代も。
時が経ち、1937年から38 年にかけて、パトの最初のルールが文書化される。時をえる中で、制限は徐々に解除されていき、このスポーツは再び脚光を浴びるようになる。1941年にはアルゼンチンパト連盟も設立し、ホースボールへと姿と変えていくこととなる。
現在、アルゼンチンで行われているパトのチャンピオンシップ、最多の優勝を誇る最強のチームは、バランカス・デル・サラドで15回のタイトルを獲得。2021年4月に行われたアルゼンチンパト連盟80周年記念カップでも優勝したのはバランカス・デル・サラドであった。
〔パト最強のチーム、アルゼンチンのバランカス・デル・サラドの試合風景〕(写真引用:testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?)
■日本におけるホースボールの歴史
日本でも2008年前後からホースボールを導入しようとする乗馬クラブや施設がいくつかあったと聞いている。
しかし、日本は乗馬文化が乏しく、馬の技術面や安全面で問題があり継続、発展にはらなかった。
そんな中、2012年に一般社団法人日本ホースボール協会が発足。一筋の光明が差した。
全く平坦ではなく、苦難・患難を乗り越え、2022年にはホースボールワールドカップへ初出場。
結果は10/10位も、SNSやインターネットを通し、その活躍は多くの人に知れ渡ることとなった。
大きな大きな意味と意義を成すワールドカップ初出場であったことは間違いない。
■日本ホースボール界の
?レジェンド?西島隆史さん
(写真提供:日本ホースボール協会)
そんな日本ホースボール界のレジェンドたる存在が西島隆史氏である。
日本ホースボール協会の代表理事も務められている西島さんは、2018年の7月ポルトガルのリスボンで行われたFIHBの公式戦、HCC SUMMER SESSIONS 2018において、キャプテンを務めたチームで優勝。さらには個人でも大会MVPに相当する、「最優秀人馬賞」のタイトルまで獲得されたのである。
ホースボール界を牽引する最大の功労人であり、最もホースボールの魅力を知り、ホースボールに生涯を捧げるレジェンドプレイヤー。彼なくして、日本のホースボールの発展は無かったかもしれない。それ程に大きな影響力を持ち、熱い情熱と馬への愛を抱かれている方である。
西島さんがホースボールを知ったのは、2009年暮れ。当時はまだホテルマンをされており、信じ難い話だが、乗馬も未経験。
ホースボールフランス代表の写真を見て、一目惚れ。衝撃を受けた西島さんは乗馬クラブで無給の研修生からスタートを切ったという。西島さんは?引退馬(引退競走馬)に新たな活躍の場を作ること?。このスポーツを通して?日本と世界との親交を深めていくこと?。そして?ホースボールの魅力を多くの人へ普及させていくため?という大志を持って粉骨砕身の努力を続けられ、現在のカタチを築き上げられている。
(写真提供:日本ホースボール協会)
しかし、まだまだとその瞳は常に未来へと向けられ、一層の努力を欠かす事なく、ホースボール発展のため、日々馬と共に歩まれている。まずは2025年3月のホースボールWC、アルゼンチン大会へ。その楽しみは尽きない。
〔ホースボール日本代表の皆様(2022年フランス大会出場時)〕(写真引用:日本ホースボール協会・公式twitterより)
◎ホースボールに挑戦しよう!体験してみよう!
ホースボールの体験ができます!
体験レッスンとして、
初回のみ8,000円※(税込)で体験頂けるそうです!
【レッスン場】
〒286-0222 千葉県富里市中沢1810-1
https://goo.gl/maps/2z3B5Q5dJYXsS9ZG6
そしてホースボールの魅力として・・・
競技人口が少ない=チャンス❗️
まだまだ知られていないからこそ、日本代表になり、世界で活躍することも夢ではない!
強い意志と大きな想いが強ければ、
夢は形に出来ることを既に西島さんが実証済み。
来れ!未来の日本代表!
サッカーWC優勝、日本馬の凱旋門賞勝利より先に、
ホースボール世界一を見せてくれ!!
《公式SNS一覧》
《参考文献・引用写真》
(ホースメッセ2024の講習シーンより。撮影:海猫)
【参考文献】
・日本ホースボール協会・公式ホームページ
・日本ホースボール協会・公式X(旧:twitter)
・日本ホースボール協会・公式Facebook
・日本ホースボール協会・公式instagram
・日本ホースボール協会・公式Youtubeチャンネル
・Wikipedia 「ホースボール」
・Wikipedia「Horse Ball」
・Sport2 for social「【3分解説】ホースボールとは?そのルールや魅力をわかりやすく紹介!」
・Loveuma「仕事を辞めて未経験者が競技の道へ!?心を突き動かした「ホースボール」by 西島 隆史さん」
・スポスル「ホースボールの歴史・ルール・大会【スポーツ辞典】」
・testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?
・notaalpie?70 años del pato como Deporte Nacional argentino?
【引用写真・イラスト元】
・Club Social y Campo de Pato
・testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?
・notaalpie?70 años del pato como Deporte Nacional argentino?
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(写真引用:『OKINA PROJECT』)
神聖極めし特別なる存在「翁」
「能」に使われる面、翁の面には馬の尾の毛が使われている。
その「翁の面」は特別な面である。
能の歴史は杳遠なるまでに古く、能が大成してからおよそ650年の瀝譜を辿ったという。
しかし、「翁」の濫觴は、それよりもはるか古くまで遡求されるのだと伝えられる。
「翁」の深淵に滔々と流れる信念、理念は、時間として縄文時代にまで至る幽玄性や、地理的地概的側面からはユーラシア大陸一帯にまで広がる広大性の浪漫が秘められている。
能は神に捧げるものであり、その演目は200前後にも上る中、特に神聖視されている特別な能が「翁」なのである。
能の主人公の役柄は神・男・女・狂・鬼のいずれかに該当するものの、「翁」はこのいずれにも属さない。
正式な上演の際には、一日の最初に必ず「翁」が舞われ、その後に様々な能や狂言が演じられているという、特別視がされている他、新年など限られた時にしか「翁」の面は使われず、加え、演目「翁」を演じる時にのみ使われるのが「翁」の面なのである。
それが「翁」は「能にして能にあらず」と言われる由縁であり、正に格別別格の神聖的演目なのである。
翁の面は、満面の笑みをたたえた、能面でも珍しい「笑顔」の面であるが、演目「翁」では、そこに物語めいたものはなく、終始一貫として「祈り」として行われる神聖な儀式であり、演者は神となって天下泰平、国土安穏を祈祷する舞を披露する。
その所作、仔細一つ一つの意味する所には、多くの謎と神秘性に包まれている。
(写真引用:『OKINA PROJECT』)
〔「翁」の演目を演じる際は、翁を舞うシテ(能を舞う主人公)となる者は、舞う1週間ほど前から禁欲的な生活に入る。「潔斎精進(けっさいしょうじん)」といい、肉食と飲酒を断つ。さらに、それに加え、前日と当日は「別火(べっか)」といい、食事やお風呂に家族とは別の火を使うことになる。別火とは、むかし穢れ(けがれ)は火から広がっていくと考えられていたため、神となるために火を別にして心身を清める意味があります。多少簡素になっているとはいえ、今でもこの慣習は受け継がれている。当日は鏡の間(演者が舞台に出る前の部屋)に翁の能面をお供えし、御神酒(おみき)を頂いてから舞台に上がる。神になって舞うために禊を行い、心身を清めるのだという〕
(写真引用:《翁図》赤星閑意 江戸〜明治時代(19世紀)永青文庫蔵)
〔(左)黒式尉と(右)白式尉:「翁」に翁役の役者が着用する仮面。目じりを下げ、笑みをたたえた老人の相貌で、眉にはウサギの毛が、髭には馬の毛が施されている。さらに、切り離された下顎が上顎と紐で結ばれている切顎式の造形は能面以前の古態を留めるものとされている〕
■演目「翁」と演目「絵馬」
演目「翁」には、【白い翁】と【黒い翁】が登場する。
白い翁は国土安泰を祈り舞い、黒い翁は五穀豊穣を祈り舞う。
白い翁は、国土安寧(こくどあんねい)を祈る神であり、
黒い翁は田の神様と言われている。黒い面は農作業で日焼けした老人を表したものなのだという。
白い翁は能役者が、黒い翁は狂言役者が演じると決められている。
白と黒には民俗学的にはどういった位置的概念にあるのであろうか。
もう一つ、「白」と「黒」の織りなす演目がある。
それが「絵馬」である。あらすじは以下のような話である。
ある年の暮れ、時の帝(大炊帝)の臣下が、宝物を捧げる勅使として伊勢神宮に遣わされ、斎宮に参拝した。
節分(昔の大晦日)の夜、絵馬が掛けられる行事があるというので、勅使はそれを見物してから帰京しようと時を待った。
すると夜更けに、老翁と老媼が参詣に現れる。老翁は「白い馬」の描かれた絵馬を持ち、老媼は「黒い馬」の描かれた絵馬を携えている。
絵馬には、それぞれの意味があり、白い絵馬は晴れを、黒い絵馬が雨を占うもので、掛けられる絵馬により、翌年の天の恵みがわかるというもので、毎年どちらかの絵馬が掛けられていたという背景がある。
二人は、「白い絵馬を掛けよう」「黒い絵馬を掛けましょう」とそれぞれ自分の絵馬を掛けることを主張し、意見がまとまらない。
一つに決まらず、言い争いに発展してしまうものの、最後には、お互いの絵馬を並べて掛けることで解決。
晴雨がうまく合わさって、万民が楽しむ世にしようと祈願することにしたのであった。
そして二人は、自分たちは伊勢の二柱の神(伊勢二柱の神に仕える神)であると明かし、夜明けにまた逢おうと言い、闇にまぎれて勅使の前から姿を消す。
…という内容の演目であるのであるが、この物語の舞台となる伊勢神宮には、白と黒の神馬像が奉られている。
この神馬像は、現在は伊勢神宮の分社である、富山県の十社大神に現在は移されているのであるが、
「晴乞いは白馬に、雨乞いは黒馬に祈るとよい」という伝承が伝わっている。
〔十社大神の白と黒の神馬像〕(写真引用:小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3))
これら、演目「翁」、演目「絵馬」、伊勢神宮の神馬像。
3者の白と黒の存在は同位的存在と見做すことは出来ないだろうか。
白い翁(白式尉)=白馬の絵馬=白の神馬像
黒い翁(黒式尉)=黒馬の絵馬=黒の神馬像
次に、「白」と「黒」の民俗学的見地、立ち位置から考察を深めてみたい。
【白】
生命を象徴する神聖な色。白は「しるし」であり、純潔、無垢、清潔を象徴する存在。
「神の色」とされ、その由来となるのは古代の神々、神話中の神々が白い衣服を纏っており、神の使いも白色であることから、白は神を顕す神聖なものと考えられているのである。
また「白」は時代すらも変える神聖な色とも考えられてきている。
白馬や白蛇など、白い動物は神聖化されるが、これは日本に限ったことではなく、世界共通の概念であり、思念思想である。
事実(本当にあった事かどうかは別として)、『日本書紀』孝徳天皇、白雉元年(654年)の条では、穴戸(長門)の国司である「草壁連醜経」という人物が白い雉を献じた時に、「公卿より始めて、百官等に及るまでに清白けき意を以て、神祇に敬奉りて、並に休祥を受けて天下を栄えしめよ」と言って年号を「白雉」と改めたことが記されている。
他方、光仁天皇も、即位にあわせて肥後国から白い亀が献上されたことで、ただちに年号を「宝亀」と改めたともされる。
こうしたことから、時代を変える力さえも「白色」にはあったと考えられるようになっていく。
加え、白色は「誠」あるいは「内に含むことのない」?心のしるし?を表す色ともされ、平和を願う色ともされる。
白は平和の象徴であり、平和のシンボルを顕す色。その代表例と言えるのは白い鳩であり、白旗は停戦を意味する。
降伏の?しるし?に白旗を掲げた最初の事例としては、『日本書紀』に記されたものが最も古く、推古天皇の8年(600年)の条に、戦場で新羅王が白旗を上げたと伝わっている。
神話の神々に倣って純粋無垢、純潔・誠実を示し、時代を変える、平和を願う、生命の象徴的神聖な色。それが「白」なのである。
それは、白き翁、「白式尉」の舞、その存在そのものではなかろうか。
【黒】
人類が一番初めに得た色が、「黒」の「墨」の色だと
考えられている。
領域の境、境界線を意味し、絶対的不変を顕す色。
それが黒である。
また黒は、「夜」を現す色ともされ、対をなす色は「白」と思いきや「赤」である。
「黒」は「暗い」から、「赤」は「明るい」から起因するという謂れがあるのであるが、真の対位は「白」であると私は考える。
「しろ」と「くろ」、語尾が同じである唯ニの色であり、「黒と白」は、明暗のコントラスト、昼と夜、男性と女性、善悪を象徴する符号であり、それを示す思念の発端と思われる道教では、宇宙の2つの補完的性質、「陰と陽」は、しばしば黒と白で象徴され流ことからも二者が相反する相対的位置づけとなっている事は明白である。
「太極図」は正にそれで、陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。
〔太極図〕(写真引用:Wikipedia「太極図」)
いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。
碁やチェスのようなゲームも、「白と黒」を使って両面を表現している。
特に、囲碁は黒と白の碁石を、361ある升目の碁盤の上を舞台に遊技される。361の升目は旧暦の1年を表しており、碁石の白は昼を。碁石の黒は夜を表すものだという。実のところ、囲碁は古代中国において天文と易の道具として発生した物と伝わっており、囲碁は暦を理解する道具でもあったのだという。
「白」=「昼」=「太陽の時間」=「太陽の神」=「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
「黒」=「夜」=「月の時間」=「月の神」=「月読命(つくよみのみこと)」。
全て相反する符号が形成される。
ツクヨミは農業・農耕の神ともされ、ここから「田の神」としての役割を担う「黒い翁」「黒式尉」にもリンクしてくる。
加え、もう一つ、黒を語る上で重要なファクターに「畦」がある。
「くろ」は田圃の畦に関係しており、日本各地にその謂れ、由緒は残されている。
新潟県南魚沼郡では畦を固めるクロカチと畦塗りを?クロヌリ?と称している。
また畦に豆や小豆を作ることを?クロサク?といい, 静岡県浜名郡では苗代の四辺に成長した苗を?クロナエ?(畦苗)と呼び,新潟県西蒲原 郡では?クロボコナエ?と称している。 関東,東海,北陸,近畿,東北の一部にかけて土方のことを?クロクワ?と称するが, 一部では石垣作業者を指す場合もある。佐渡ではクロクワ(黒鍬)は土方の使う鍬のことを指しているが,能登では溜池の堤を修復するやや厚みのある鍬を黒鍬と称しており,田圃と関係した池や用水の土手に使われる専用の鍬をいうのであろう。
いずれにしろ,黒は畦とか堤といった境界を象徴しているもので,苗代のシロ(白) を囲む畦のクロ(黒)が対比されるのである。
田圃=「田の神」が通じてくる。「黒式尉」は田の神を顕す存在とされるが、黒式尉の黒色は、正にこの「畦」の概念が反映されてのものと考えられよう。
神聖なる白き翁、生命の象徴的「白」と対を成し、かつ「生と死」「昼と夜」「太陽と月」の境界となる、
絶対的不変の色が「黒」なのである。
かつて、喪服は「白」であった。
「日本書紀」をはじめとする古代の文献に喪服は白であったという記録が残っている。
実は、喪服が黒という定義が生まれたのは、比較的最近のことで、明治時代に政府が欧化政策の一つとして西洋の葬祭儀礼を広めたことが切っ掛けとなっている。
具体的には、明治30年の皇室葬儀のとき、列強の国賓の目を気にして黒色での統一が決定したらしい。
その後、皇室の喪服が正式に黒と規定され、庶民もそれに従って徐々に広まっていった。
とは言え、黒色が喪服の色として広まった背景には、「不浄」を意味する黒と「死」と関連する葬儀が、イメージとして違和感なく結びついたことも関係しているのではないだろうか。
白は神の色であり、純潔、清廉潔白を意味し、生命的象徴を表す。
死装束が白である理由は、来世に再生して成仏する資格があるとして、身の潔白を証明するためだ。
神仏への従順な心の潔白を示す意味で、白が用いられてきた。人は生まれた時、白い布で包まれ、白に包まれ旅立っていく。
そんな神聖的生命の白と明確な区別、領界線を設けるべく、黒が使われるのである。
■「白色尉」「黒色尉」の舞と白黒神馬の心念
神聖なる白馬の尾毛が使われる、特別な面「翁」。
永遠なる平和と、生命への尊き祈りを祈念する、
白き翁の神聖なる舞。
それは、黒き翁が五穀豊穣を祈る舞を披露する事で、
完璧な形となる。
国土安寧を祈り、天に輝く太陽の舞。地に足を着け、人類の努力・農作を鼓舞する夜に輝く月の舞。
二者が織り成す演舞により、そこに無限不変の神威的祈念が生まれ、天寿が結ばれるのかもしれない。
《参考文献・引用写真イラスト》
【参考文献】
・『OKINA PROJECT』
・『能・狂言を観に行こう!』「能面 翁に隠された意味と祈りの心、黒い翁と白い翁の違いとは?」
・『The 能.com』「演目辞典:「翁」」
・『The 能.com』「演目辞典:「絵馬(えま/えんま)」」
・『enpaku早稲田大学坪内博士記念演劇博物館』「「白色尉」(翁面)(はく しき じょう おきな めん)」
・『HANA-MEIWA』「【2023.11.4】斎宮奉納薪能〜斎宮・竹神社ゆかりの地で繰り広げられる、五穀豊穣への祈りの舞〜」(2023年10月12日)
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・きららか射水観光NAVI
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
・「古代日本の「白色信仰」白い色は〇〇の色…?日本人と白色の浅からぬ関係」(歴史好き太郎、2021/3/20)
・Youtube【民俗学 / 解説】白い色は尊さの証?白色にまつわる民俗学の解説【VTuber/ 諸星めぐる 】
・民俗学ラボ「どうして葬式には「黒装束」で参列するのか?」
・Wikipedia「白」
・Wikipedia「黒」
・The culture of black(株式会社 京都紋付)
・Wikipedia「太極図」
【引用写真・イラスト元】
・『OKINA PROJECT』
・《翁図》赤星閑意 江戸〜明治時代(19世紀)永青文庫蔵
・国立能楽堂提供:『能舞之図』より「翁」
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
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【ユニコーン関連追加調査レポート続秘話】
(イラスト元:Yuri Arcurs Peopleimages/PIXTA)
新宿・歌舞伎町のとある街角に
ユニコーンの像があるのを
ご存知だろうか。
この像は非常にユニークで、男の子と女の子、
その子供たちの間に割って入る形で
ブリキの(?)ロボットが乗っている
一角獣像なのである。
この像、名前が付いており、
『ユニコニコーン』という。
1993年に中野滋氏の手で作られた作品で、
新宿区新大久保病院正面玄関横、
隣接する東京都健康プラザハイジアと共に
超高層ビル群の合間、そっと佇んでいる。
【ユニコニコーン】
(写真引用:Craig Randridge)
彫刻家・中野滋先生の作品(制作1993年)。
中野先生は何を想い、
何を願ってこの大都会の真ん中、
新宿の街角にこの一角獣像を創られたのでしょうか。
子供が無邪気に笑い、ロボットも関係なく、幻獣と
戯れる夢の一幕から彫像となってここへ
鎮座させられたかのような、そんな心持ちになって
ユニコーンを眺めてしまう。
〔ユニコニコーンの台座に記された銘板には作品名、製作年、作者名に加え、タイトルの上、頭には小さな角のデザインが〕
実は、広島県呉市にも『ユニコニコーン』はあり、
こちらも中野先生が作られた作品である。
〔広島県呉市のユニコニコーン。(写真引用:ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日)〕
実は、この新宿・中野界隈には角や翼が生えた像が他にもある。
それが【守護神】と【ペガサス】。
〔「守護神」(左)と「ペガサス」(右)(写真引用:Googlemap)〕
「守護神」は、1963年(昭和38年)の制作で、不死鳥をイメージして造られた彫刻であるという。
一見、正面から向き合うとフクロウ?とも思えるが、猛禽類を思わせる風貌をしている。
不死鳥をイメージして創られたという。「光る瞳を持つ頭に角の生えた鳥」とされる。
(中野区立図書館・中野の彫刻にまつわる話より)
〔高層ビルの谷間にひっそりと佇むユニコニコーン(写真引用:Googlemap)〕
さて。ここからが本題です。
一角獣、角のある馬についての奇妙な話・・・
今回は3つご紹介させて頂きましょう。
大都会のどこか
摩天楼聳える
風の通り道のような隙間・・・
街路樹の影、小道の暗渠…
どこかに一角獣はいるのかも・・・しれない。
?一角獣奇譚夜話??
【角のある馬「グヌー」】
1920年代初頭、ドイツ・ベルリンを中心に、
欧州中を行脚し、動物に芸をさせる興行を行なって、
大きな話題と集客を集めていた曲芸集団があった。
ドイツ人のカール・クローネ夫妻が統率し、率いた大曲馬團。
ヨーロッパ中を移り巡って興行を展開し、
ベルリンにも大抵毎年1年毎に来て、
1ヶ月くらい滞在し、街の話題の的に
なっていたという。
クローネサーカス団がやってくると、街は湧き立ち、
子供たちは大喜びであったそうです。
このクローネ夫妻の曲芸集団は、動物が400種類も
おり、使用人が700人もいる大集団であった
とのこと。
獣使いを務める黒人スタッフだけでも100人以上
雇用していたとされており、この大集団は
自家用列車の中で生活し、巡業を行なっていたそうです。
このクローネサーカス団の中に、
「角のある馬」として注目を集めた特異な
存在がありました。
この動物は名前を「グヌー」と呼ばれ、
皆から愛されたそうです。
これがその写真なのですが、皆様はどう思いますか?
正直どう見ても別な生き物にしか思えないのですが・・・
これ、ヌーではないですかね…
ヌーは英語で「Gnu」と書きますよね。
・・・あっ・・・
もうこれ以上は黙ります(笑)😅
?一角獣奇譚夜話??
【「馬の角」裁判】
これは、大正時代の日本で実際に起きた裁判事件の話である。
大正3年3月、鹿児島県鹿児島市金生町の
山形屋呉服店で、桜島爆発記念陳列会が
開催された。
山形屋は、鹿児島を代表するデパートとして有名な百貨店であった。
この陳列会に「馬の角」が出品されたが、
行方知れずとなり、返却は結局されませんでした。
これを受け、持ち主は出品を勧誘した山形屋主人と
幾度となく交渉を試みたものの決着せず、
現品返却出来ないなら、五千円を支払うようにと訴えました。
被告となった山形屋は、そもそも「馬の角」を
預かったことはないと、訴えの棄却を求め争うことに。
これが「馬の角裁判」のあらましであり、
これは実際に『鹿児島新聞』が報じている。
鹿児島地方裁判所にて答弁、喚問、尋問は行われ、
論争は大混乱を呈した。
裁判では「馬の角」のそもそもの存在の真偽も焦点となり、被告代理の弁護士は原告に対し、
「果たして行方不明となった品が馬の角と信じているのか?」と問い、
それに対して、原告側の代理弁護人は
「由来書があったが今は紛失しており、口伝もあるが明らかではない」
と答えたという。
被告代理弁護人は追随し、
「「馬の角」は学理上果たして存在するものかどうかを確かめるため、その道の専門家の鑑定人を上げてもらいたい」と希望を述べ、次回は鑑定人を連れてくるととして閉廷したようである。
結局、この裁判は山形屋側が勝訴し、
原告側は長崎控訴院にも控訴したが、
大正十年八月、棄却されて敗訴が決定したそうです。
この事件、皆様はどう感じますか。
私には、原告側が金欲しさに行なったでっち上げ・・・
のように感じざるを得ない部分が多々あるのですが…
真実は闇の中です。
?一角獣奇譚夜話??
【黄金の鬣を持つユニコーンの写真】
こちらのお話は、米国で起きた出来事。
1983年の11月5日(土)、バージニア州にあるシェナンドー国立公園にて、ハイカーのスティーヴ・エヴァンスさんとケイス・ハラムさん2名が散策中にユニコーンと思しき未知の動物に遭遇し、写真に収めることに成功。
獣は白い体に、黄金にも思える鬣をと、額から突き出る鋭い角を持っており、蹲って卵を守っているかのように鎮座していたという。
2名は新聞社にこの写真を持って駆け込み、大きく各紙が紙面を割いて報じました。
〔こちらが実際の新聞の内容。『The Shreveport Journal』の11月9日(水)の一面〕
そして、こちらの写真が二人が撮影したという、
金色のタテガミを持つ、ユニコーンの写真になります。
(写真引用:Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49))
真偽は定かではありませんが、一説では二人、
もしくは全く関係のない第3者が公園内に
住む動物に悪戯し、タテガミと角の付いた
ウィッグのようなものをつけたのではないか…
などと言わました。
どうも新聞の取材を受ける二人の様子も、
写真の表情が仕草からの邪推になってしまいますが、「してやったり」のような、ネッシーを筆頭にUMAの衝撃的写真を撮影した方々のように、有名になれる…
名が売れる…そんな潜めいた裏にひそむ野心のようなものを感じてしまう部分も…。
しかし、この国立公園は広大で、197,000エカーもの面積があり、多くの動植物たちの楽園ではあるものの、写真のような野生馬の棲息は報告されておらず、謎は深まります。
公園に乗馬施設はあるものの、そこから逃げた馬なのでしょうか。
それとも、二人が運んだものだったのか・・・
写真を撮影したキース氏はユニコーンは信じておらず、
それまで存在には否定的であったと語っており、
「写真に撮っていなかったら今でも信じていないよ」
と述べている。
新聞は、とある動物学者の一語でこの記事を締め括った。
「その存在はあり得ないことではない。ユニコーンと比較して、これまでキリンはあり得ない動物であり、カバは悪夢であり、アリクイやアルマジロは信じられない動物だったのだから」
いかがでしたでしょうか。
今回の一角獣、ユニコーン絡みの追加調査のまとめは
以上となります。
引き続き、ユニコーン・一角獣・角が生えた馬の
調査・研究は継続して参ります。
続報、また面白い話が調達出来れば、お伝えさせて頂きます。
それでは、また!
〜美空より〜
「海猫さんのアシスタント、美空(みそら)です!ユニコーン、一角獣、角が生えた馬の情報をお持ちの方、些細な情報でも構いませんので、当コラムのコメント欄、海猫さんのtwitterのDM、海猫さんのメール(kk815421830@yahoo.co.jp)へぜひぜひ情報をお寄せくださーい!」
《参考文献・写真イラスト引用元》
【参考文献】
・『神使像めぐり「東京近辺の動物のオブジェ」』(福田博通)
・ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日
・『中野駅、千光前通りにある3つの彫刻─守護神・ペガサス・プロメテウス像を訪問』(渋谷獏 note, 2022年9月16日)
・『奄美大島の「馬の角」』町 健次郎
・『鹿児島新聞』(大正八年三月二十二日付、大正八年七月四日付、大正十年九月三十日付)
・The Shreveport Journal(Shreveport, Louisiana · Wednesday, November 09, 1983・page9)
・The Times(Munster, Indiana, Thu, Nov 24, 1983 · Page 29)
・Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49)
【引用写真・イラスト元】
・Googlemap「ユニコニコーン」
・Craig Dandridge
・ダイヤモンド・オンライン
・uckyStep48/PIXTA
・Yuri Arcurs Peopleimages/PIXTA
・ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日
・「赤い鳥」(赤い鳥社, 1927-02)
・The Shreveport Journal(Shreveport, Louisiana · Wednesday, November 09, 1983・page9)
・The Times(Munster, Indiana, Thu, Nov 24, 1983 · Page 29)
・Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49)
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〜とある麒麟の物語〜
ーフランス初代三冠馬を
馬なりであしらった
首の長い異形異質の歴史的名馬ー
父 フラジョレ(タッチストン系)
母 アローキャリア
母父 アンブローズ(タッチストン系)
生年:1876年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:フランス(英国)
生涯成績:25戦17勝[17-3-4-1]
主な勝ち鞍:英セントレジャー(英・芝2,937m)、英チャンピオンS(英・芝2,000m)、プリンスオブウェールズS(英・芝)、カドラン賞(仏・芝4,200m)、レインボー賞(仏・芝5,000m)、ロウス記念S(英・芝1,600m)、グレートフォールS(英・芝2,000m)、チャレンジS(英・芝1,200m)他
■最強馬候補になるに
クラシック三冠のタイトルは必要なのか
2024年1月、イクイノックスが国際レーティング135という、エルコンドルパサーを上回る日本馬として史上最高評価を受けた。そんな世界最強の頂きに君臨し続けたイクイノックスをも、「最強」とは認めないという一部の方の意見としては「クラシックのタイトルを取れていない」というものがある。最強馬の持つタイトルとしてクラシックのタイトルの有無はそこまで決定的なものであるのだろうか。
史上最強馬候補として挙げられる名馬は…シンザン、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、アーモンドアイ…世界的に見てもオーモンド、セクレタリアト…ちょっとマニアックにはなるがアルゼンチンのヤタスト、ルーマニアのゾリデヅィやトルコのカライエルなどは全部三冠馬である。
しかし、クラシックを取れていない、挑戦する事さえ叶わなかった馬たちの中にも史上最強馬候補は多く存在している。日本で言うなれば、マルゼンスキー、エルコンドルパサー、古くはミラクルユートピアなど。世界的に見ても、セントサイモン、リボー、ネアルコ、ハリーオン、ファリス…などなど。こうして見ると、必要なのはタイトルの数ではなく、現役中に示したパフォーマンスこそが史上最強馬候補としてノミネートされる最大の条件であろう。
獲得しているタイトルに難癖をつけるのはナンセンスでしかないと私は思う。
本項にて紹介するレヨンドールも、クラシック競走での獲得タイトルは英セントレジャーのみであるが、示したパフォーマンスは史上最強馬候補に挙げられるべき、異質な存在感を示した名馬であると如実に感じる馬なのである。
馬なりで三冠馬を圧倒してしまった、気難しく?キリン?と呼ばれた伝説的名馬の生涯。
とある麒麟の物語をここに綴っていこう。
▲〔レヨンドールの騎手を乗せた立ち姿〕
■グラディアテュールの牧場で
レヨンドールはフランスのダンギュ牧場で生を受ける。生産を手掛けたのはフレデリック・ラグランジュ伯爵で、彼はフランスの伝説的英雄となった英国三冠馬グラディアテュールの育成も手懸けていた。
父フラジョレ、母アラウキャリアという血統で、父フラジョレもまたラグランジュ伯爵の生産馬であり、フランスで競走生活を送った。しかし、所有権はヨアヒム・ルフェーブル氏へ譲り、リースされて走った。これは普仏戦争の影響を受けてのことであったが、2歳時は現モルニ賞などを制し、英国においてもホープフルSなどを制した。3歳時には同期にフランスの歴史的名ステイヤーの1頭であるボイアールがいた事で主要競走での2着続きが常となるも、英国のグッドウッドカップでは、クレモーン、フォヴォニウスという2頭の英ダービー馬を30馬身も千切って優勝している。それでもボイアールに敵わず2着続きだったという事は、もはやボイアールを褒め称える他無く、フラジョレも十分に名馬クラスの能力を有していたと評価して良いと思う。
母アラウキャリアは現役時に7戦1勝、目立たない牝馬であったが、英1000ギニー馬に先着するなど、類稀なる競走能力は秘めていたようであったが、繁殖牝馬としてその血統的評価は絶大で、競馬史上に残る歴史的大繁殖牝馬ポカホンタスの最後の子であった。ストックウェル、ラタプラン、キングトムの妹という事になり、英国クラシックホースを、レヨンドールを含め3頭も送り出した優秀な繁殖馬であった。
ラグランジュ伯爵の方針としては、所有馬を英国とフランスに分けて育成を行うルールがあり、その判別からグラディアテュール然り、本馬レヨンドールもフランスではなく英国を主戦場とすることになる。レヨンドールは生産や幼駒時代の馴致のみならず、競走馬としての育成過程までグラディアテュールと同じ道が用意されることになり、トム・ジェニングス調教師の袂へ渡ることに。
2歳を迎え、レヨンドールは週に2〜3回の調教を受けて鍛え上げられていくが、当時の記者たちはレヨンドールは晩成タイプと見ており、2歳時から(当時としては)ハードトレーニングを課すジェニングス調教師に対して懐疑的目線を向けていた。
しかし、レヨンドールはその深淵に秘めし巨大なるポテンシャルを既に2歳シーンから垣間見せ、6戦4勝。ラヴァントS、クリアウェルSなどを制した。
3歳を迎え、クラシック競走へ登録を済ませると英2000ギニー(芝1,609m)にぶっつけで挑戦。
2歳時にシャンペンS(芝1,200m)で先着されていたライバル2騎カリベルト、カドガンに先着を許し、レヨンドールは2頭から離された3着に敗れた。続いて出走したのは英ダービー(芝2,440m)。この年のダービーは天候に祟られ、当日は相当に酷い不良馬場での競走となってしまった。レヨンドールは躍起になって先団に取り付き、掛かり気味に先行し、かなり積極的にレースを進めた。これは陣営からの指示、作戦であったとも言われるが、判然とはしていない。そのはやる気持からの無理な先行策と極悪不良馬場の巧拙が如実に顕てしまったらしく、良いところ無く着外での大敗となった。レヨンドールの生涯において最大にして最後の大敗である。
勝ったのはサーベヴィズで、勝ちタイムは3:02.0という、英ダービー史上最遅のタイムが記録されている。いかにこの年のダービーが最悪の馬場で行われたかを物語る一つの指標と言えよう。
■最大のライバル・ルッペラと
歴史的名牝ホイールオブフォーチュン
ダービー後、レヨンドールのエンジンがようやく温まってきたようで、動きも良くなりアスコット開催へと駒を進める。
セントジェームズパレスS(芝1,600m)を快勝し、プリンスオブウェールズSへ参戦。
この時代のプリンスオブウェールズSはまだ2,600mの長距離戦(当時の認識としては2,600でも中距離というイメージ。4,000や5,000のレースも多々あったため)であった。ここには同世代で圧倒的な存在感を放つカリスマ的存在、ホイールオブフォーチュンが参戦してきた。ホイールオブフォーチュンはここまで英牝馬二冠の1000ギニー、オークスをはじめ神懸った強さで無敗の8連勝中であった。ホイールオブフォーチュンは英国の歴史的名手であるフレッド・アーチャーが鞍上を務めていたが、数多の名馬、名牝の背中を知るアーチャーをして「自分が騎乗した中で最高の名牝」と語っている。アーチャーは無敗の英国三冠馬オーモンド、そして世紀の大種牡馬セントサイモンの主戦としても知られるが、セントサイモンを生涯の特別な史上最高の名馬として称え、唯一の対抗馬として挙げているのがこのホイールオブフォーチュンなのである。レヨンドールにとって過去最強の相手が立ちはだかった。
〔ホイールオブフォーチュン。1876年生まれ。11戦10勝2着1回。英1000ギニー、英オークス、ヨークシャーオークス、プリンスオブウェールズS(当時芝2,400m)にて全戦大楽勝の大圧勝。本気を出すことなく、牡馬よりも思い斤量を背負わされ続け勝ち続けた。しかし、ヨークシャーオークスのわずか2日後にレースに使われるという、陣営の謎の愚行が祟り、足を痛め、セントレジャー回避のみならず、引退に追い込まれてしまった。セントサイモン、オーモンドといった英国史上最強最高の2頭を知る伝説の名手フレッド・アーチャーが「2頭よりも上かもしれない」と語った程のポテンシャルを持っていた。怪我が無ければどれ程の馬になっていただろうか〕
レヨンドールは、125ポンド(約56.5kg)、ホイールオブフォーチュンは126ポンド(約57kg)というほぼ同斤量となったが、レヨンドールはホイールオブフォーチュンに跳ね返され、彼女を徹底マークしたことも仇になったか、軽斤量(110ポンド、約49.8kg)で英オークス3着馬のアドベンチャーにも先着を許してしまった。
再度、仕切り直しでサセックスS(芝1,600m)を使うと、ここには2歳時にジュライSにてレヨンドールが敗れた最大の好敵手ルッペラが出走してきた。レヨンドールは2歳時から大幅にパワーアップを果たしており、もはやルッペラは敵では無く、2歳時の借りを返すように快勝。セントジェームズパレスSに続くこの年の2勝目を上げた。
ここまでを見ると、レヨンドールの得意距離はマイル戦のようにも思えるが、陣営の評価は全く違っており、長距離戦でこその馬と捉えていた。春のクラシック2戦、2000ギニーとダービーを落としてしまったレヨンドール陣営の最大目標は、必然とセントレジャーとなっていた。ホイールオブフォーチュンもまたこのレースを目標に置いており、この神威的強さを誇る女帝をいかに攻略するかをジェニングス調教師も頭を悩ませていた。
ところがである。事態は急変する。
ホイールオブフォーチュンの陣営は愚行を犯してしまい、彼女の英セントレジャー回避が急遽決定したのである。
ヨークシャーオークス圧勝後、脚に腫れが生じていたのだが、その僅か2日後にグレートヨークシャーSへ強行出走。
脚を痛めている状態かつ、調子落ちの万全でないデキで、レヨンドールを本気にさせるような強豪であるルッペラに楽に勝てるはずもなく、ついに無敗の連勝が途絶えたばかりか、この無理を祟った1戦が大きく尾を引くことになり、このダメージが誘因となり、後に引退にまで追い込まれてしまうことに。
難敵の思わぬ離脱を他所に、レヨンドールは早めに直線先頭に立つと、リードを大きく広げ、ルッペラに5馬身差をつけ圧勝。ついにクラシックタイトルの奪取に成功するのであった。レヨンドールはこの大勝で着実に本格化を迎えつつあり、順調に勝ち星を量産してゆく。ゼトランドS、グレイトフォールSと2連勝しニューマーケットセントレジャーで2着後、距離を厭わず連戦。セレクトS(芝2,000m)を快勝し、再度勢い付くと、英チャンピオンS(芝2,000m)では2年前の英オークス馬プラシダを6馬身差も突き放して全く相手にせず圧勝。さらには一気に距離を短縮させてのさせてのスプリン戦となるチャレンジS(芝1,200m)へ出走。ここでも他馬を問題にせず快勝してみせた。
■天の果てまで突き抜けてーー
フランス三冠馬との激突
3歳時は最終戦としてニューマーケットフリーH(芝2,000m)へ出走。連戦に次ぐ連戦の疲れもあったか、ここは3着に敗れ、シーズンを締め括った。レヨンドールが英国クラシック戦線に身を投じている間、フランスではジュットが無敵の快進撃でその名をフランス競馬界へ轟かせていた。ジュットはレヨンドールと同世代馬であり、レヨンドールと同じオーナー(ラグランジェ伯爵)、同じ調教師(ジェニングス調教師)、そして同じ父(フラジョレ)という背景を持っていた。母は英オークス馬レガリアという血統で、母馬の現役時の実績は対極を成すものであったが、血統背景としては両者共に超一流のものであった。英国のクラシックを獲得した遅咲きのレヨンドールとフランスで無双無敵を地でゆくジュット。使い分けで両者が合間見えることはないと思われていたが、1880年のシーズンが始まると共に、オープニングからクライマックス。この2頭の夢の対決が実現することになる。
フランスにおける史上初となる三冠馬となったジュット。英国クラシックレースを圧勝、英チャンピオンSも6馬身差で覚醒を遂げたレヨンドール。フランス…いや当時の欧州最強中の最強の2大巨頭が火花を散らす事となった。
〔ジュット。1876年生。フランス初代三冠馬〕
天下分け目の超決戦の舞台となるはフランス、ロンシャン競馬場。レヨンドールはこの年の始動戦を長距離戦のカドラン賞(芝4,200m ※現在では4,000m)に選び、全くの馬なりのまま大圧勝し、ジュットとの決戦となるレインボー賞(芝5,000m)に臨んでいった。激しい一騎討ちになるかに思われた一戦であったが、覚醒を遂げ本格化を迎えたレヨンドールの能力は三冠馬の力をも遥かに凌駕しており、レヨンドールは全くの馬なりのままジュットを圧倒。フランス初代三冠馬をいとも簡単にあしらって歴史的圧勝を飾ってしまった。フランス最強を完膚なきまでに証明すると、英国へ戻りアスコット競馬場で開催されるロウス記念S(芝1,600m)へ出走。132ポンド(59.8kg)ものハンデを背負わされ、さらには一気の距離短縮であったが、全く意にも介さず、なんとここでも馬なりのまま他馬を相手にもせず、馬なりのままウインバイキャンター。粉骨砕身、必死に追いまくる2着馬を見ながら1馬身差の着差をキープさせたままゴールイン。絶望の淵のさらに絶望の谷底へ蹴落とすかのような、残酷なまでの能力差を見せつけての勝利となった。この後のレースも馬なりで楽々と勝ち続け、ハードウィックS(芝2,400m)へ出走。ハンデは136ポンド(61.7kg)が課せられた。このハンデが響いたか、レヨンドールは抜群の手応えで馬なりのまま先頭馬のエクセターに迫るも、なかなか交わしきれず、最後は追われるも頭差で敗れてしまった。能力で負けたというよりは、余りにも能力が違いすぎるゆえの油断、心の隙が生んだ敗戦と言えるような内容であった。ハンデ差が11.8kgもあった3着馬ジアボッド(ハンデ約50kg)には4馬身差の決定的着差をつけており、先頭馬を余りにも楽に行かせ、仕掛けが遅過ぎたとしか思えない内容であった。
空を駆けるが如くの翔天無双の1880年のシーズン、6戦5勝2着1回のほぼ完璧な成績で終えると、レヨンドールはこの一戦を最後にターフを去った。
■幸せを運ぶ聖獣
引退したレヨンドールはダンギュ牧場で種牡馬入り。時代は大きな畝りを持って、変化を遂げていっていた。
普仏戦争などの影響により、ラグランジュ伯爵公の栄光は斜陽を迎え始めており、馬産家としての栄光はもはや過去の物となってしまっていた。衰勢はボールが坂道を転がっていくように止まらず、優秀で質の良い繁殖牝馬はラグランジュ伯爵の手元から離れ、不運にも交配される繁殖牝馬の質には恵まれなかった。ラグランジュ伯爵が財政難に陥っていたため、ダンギュ牧場に繋養されていた馬はあらかた、1882年11月にタタソールズ社により競売にかけられてしまった為である。
そんな中、当時6歳を迎えていたレヨンドールも例に漏れず、米国の富豪の元へと渡ることとなってしまう。石炭業・鉄鋼業・銀行業・鉄道業などで成功を収めた米国の元下院議員でもあったウィリアム・L・スコット氏が手を上げ、15万フラン(3万ドル)で購入され、米国に渡った。これは、米国に輸入された種牡馬としては当時の史上最高額であった。
▲〔米国へと渡った際のレヨンドールを描いた絵画〕
スコット氏が所有するペンシルヴァニア州アルジェリアスタッドで種牡馬入りした本馬は次々に活躍馬を送り出し、1889年に北米首位種牡馬に輝くなど成功を収めた。
しかし、1892年にスコット氏が死去するとアルジェリアスタッドは解散。
その後、レヨンドールはオーガスト・ベルモント・ジュニア氏に引き取られ、ケンタッキー州ナーサリースタッドに移動。1896年7月に静かに息を引き取り、この世を去った。馬齢20歳の時の事であった。
レヨンドールは容姿が非常に独特で、首が非常に長く、走る際にも首をかなり高くして走っていたという。
その為か「キリン」と呼ばれ、神獣のような異様な雰囲気を見せていた。体高は17ハンド(172cm)は優にあり、かなりの巨体であったことも写真から窺い知れる。
▲〔レヨンドールの首差しの長さと体高の高さが見て取れる写真〕
距離関係なく、別格の能力を振り翳し、脅威的な能力を燦々と当世を生きる万民へと見せつけた走獣のレヨンドール。
麒麟は幸せを運ぶ聖獣と呼ばれているが、レヨンドールもまたそんな奇跡の名馬であったのかもしれない。
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『奇跡の名馬』?グラディアテュール?2010年 パレード
・Thoroughbred Heritage
・世界の名馬列伝集?レヨンドール?
・馬の高さを図る単位 ハンドー センチメートル計算機と換算表(hands)
[写真イラスト]
・Hagen History Center「エリーの競馬とアルジェリア牧場とのつながり」
・Springfield Museum
・Thoroughbred Heritage
・Sports horse data
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〜イニシエの哥に棲まう伝説の白神妃駒〜
今日も歌が聞こえてくる・・・
あの歌が。
どこかで聞いたのかも知れない。
懐かしさをどこか感じるあの歌が。
でも、初めて聞いたかのような
異質で不可思議な心模様にさせられる。
秋山由美子は、もう10年以上も前に関西圏に移り住んだ。
時折、以前にブログ運営を手伝っていた海猫氏や
一昨年に結婚したばかりという美空と連絡を取っていた。
「灰色の牝馬かぁ・・・」
偶然にもYoutubeで?The Gray Old Mare?という米国の童謡を耳してから
夢にこの歌が流れてくるのである。
どうして毎晩、毎晩、床に臥す度にどこからともなく夢枕にメロディーが流れてくる。
「海猫さんや美空ちゃんに聞いてみようかな・・・ちょっとググったけど、この歌って・・・」
「はぁい美空です!由美子さん、お久でえす!どうしたんですか?」
愛も変わらず人懐こい声である。
10年以上も前、まだディープインパクトが躍動し、ウオッカがカリスマ性も持って
日本競馬を牽引していた時代、それは由美子が『うみねこ博物館』の運営手伝いをしていた時代でもあった。
使う画像を用意し、アップロードなどの雑用を担当していた。
文章は海猫氏が綴るので、あとはそれをコピペして・・・という編集作業を行なっていた。
東京を離れる際、自分の行っていた作業方法の手順は海猫へ全て引き継いでいた。
以降、海猫氏が一人で全て文章の執筆も編集作業も、そして調査も。
「こんな歌、初めて聞くんですけど…ちょっと調べてみますね!」
美空「由美子さんの言う通り、この歌って、やっぱり大昔の競走馬を歌った歌ですよ!」
由美子「そうだよね、でもなんでこの歌が頭から離れないんだろう…」
美空「海猫さんにも繋いで聞いてみましょう!」
海猫「二人揃ってどうしたんよ?有馬記念の動画作成と秘書業務で忙しいから要件はパパッと!」
美空「由美子さんが、変な歌が夢の中でずっと聞こえてくるって!耳から離れないらしいんですよ」
由美子「その歌、大昔の芦毛の牝馬を歌った唄みたいなんですけど・・・どうにも大昔から聞いているような懐かしい思いに駆られて・・・不思議な気持ちなんです」
海猫「『The Gray Old Mare』ね・・・そりゃ耳から離れないよ。この歌、絶対みんな聞いたことあるはず。日本語の歌詞、知ってるよ絶対」
美空・由美子「うそ!?ど、どんな歌詞なんですか?」
♫ オンマはみんな パッパカ走る
パッパカ走る パッパカ走る
どうしてなのか
誰も知らない
だけどおんまはみんな パッパカ走る
パッパカ走る
おもしろいね ♬
海猫「この歌、聞いたことあるでしょ?懐かしい訳だよ。耳から離れないのも頷ける。保育園や幼稚園、テレビで3チャンネルの『お母さんといっしょ』とか『みんなのうた』で絶対に1回は聞いた事があるはず。美空は最近の子だからな・・・小さい時聞いてなくとも不思議ないかも。」
由美子「この歌、日本語の歌詞にすると全然変わっちゃうんですね・・・灰色の牝馬なんて1フレーズも出てこない」
美空「2番なんて馬ですらなくなっちゃってますもんね・・・※」
※『おんまは走る』の2番はブタのしっぽについて歌っている。
海猫「この歌は、実はとんでもない歴史的名馬、伝説的名馬が封印されている」
美空「封印?」
海猫「ちょっと大袈裟だったかな?この歌は、伝説的白い名牝を讃えた歌なんよ。その名も・・・」
?レディ・サフォーク?
父 ヤングエンジニア
母 ジェミー
生年:1838年
性別:牝
毛色:芦毛
生涯成績:161戦88勝
米国繋駕速歩競走の歴史に君臨する歴史的・伝説的白き名牝。
1833年にロングアイランド州サフォーク郡のスミスタウンで生まれる。
1835年にデビッド・ブライアント氏がこの牝馬を購入し、1851年まで暮らしを共にした。
彼女は1838年にハイラム・ウッドラフの騎乗で最初のレースに出走。
レディサフォークは1838年から1854年にかけて161のレースに出場し、内88勝を上げ、35,000ドル以上の賞金を稼いだと伝えられている。全盛期は、ボストンからニューオーリンズまで主要都市を旅し、競走生活を送り、凱歌を上げ続けた。
しかし、彼女のキャリアの最後の6年間で、彼女がレースに出場したのはわずか7回と減少してしまう。
これには訳があり、ハーネスレースがサドル速歩に人気を取って代わられ始める過渡期にあったため。
1843年、アルバート コンクリン氏が騎乗し、レディサフォークは1マイルを2分30秒未満で走った史上最初のトロッターとなる。
この偉業を成したことにより、「ターフの女王」と彼女は奉崇されることとなった。
1834年に打ち立てられたレコード記録は5秒近くも短縮され、2分26秒5の記録を樹立。
彼女の時代、速歩レースはヒートで行われ、1838年から彼女は2マイル、3マイル、4マイルのヒートを1レースあたり2 ヒートまたは3 ヒートでレースし勝利を上げ、果ては20歳までレースを続けた。
「シーズン中もシーズン外も、5マイル、4マイル、3マイル、2マイル、1マイルのレースを無差別に駆け抜け、ひどい管理と運転でも、彼女にとって距離が長すぎるとは思わなかったし、努力が大きすぎるとは思わなかった」と彼女と生涯を共にしたホースマンは淡々と語る。
レディサフォークは1855年、22歳の時にバーモント州にて生涯の幕を閉じる。
誕生から130年以上の時が流れた頃、1967年ハーネスレーシングの殿堂入りを果たす。
彼女は永遠なる存在へと昇華したのであった。
〔レディサフォークは繋駕速歩競走のみでなく、ヒート競走や草競馬での成績も全て加えると通算で405戦178勝の成績を残しているとも伝えられる〕
由美子「小さい時から聞いていた童謡に、こんなすごい名馬が隠れていたなんて・・・」
海猫「『おんまは走る』・・・
日本人なら誰もが知る子供の歌に、
競馬史上に残る白き伝説の名牝の記憶が
秘められている・・・なんて、
誰も想像だに出来ないよ」
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『The Gray Old Mare』Wikipedia
・granitestatecarriage.org
・losttrottingparks.blogspot.com
・INNATIONAL MUSEUM OF AMERICAN HISTORY
[写真イラスト]
・granitestatecarriage.org
・losttrottingparks.blogspot.com
・INNATIONAL MUSEUM OF AMERICAN HISTORY
・エリアブルー
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【 ヤ タ ス ト 】
〜 絶影の冥王 〜
―南米大陸史上最強
南半球究極の神駒―
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
父 セリムハッサン
母 ユッカ
母父 コングリーヴ
生年:1948年
性別:牡
毛色:黒鹿毛
国籍:アルゼンチン
生涯成績:24戦22勝[21-0-1-1]
主な勝ち鞍:アルゼンチン四冠{ポーラデポトリジョス・ジョッキークラブ大賞・ナシオナル大賞・カルロスペリグリーニ国際大賞典}、カルロスペリグリーニ国際大賞典、オノール大賞、ムニシパル大賞、サンイシドロ大賞ほか
■南米大陸史上最強馬
戦後のアルゼンチン競馬に出現したスーパーグレートホース。その力・その理力・そして速力から内在する潜在能力まで…何もかもが異次元世界のものであった。絶対的神威を闘輝として全身から放光し、無敵の競走馬として躍動。その破壊神を想起連想さする轟烈なるモーションに見た者誰しもが震撼と戦慄に身震いする以外の挙動を瞬時に禁じられ、混沌の海麟に身を委ねるしかなかった。
アルゼンチン史上最強馬はフォルリというのが日本に流布している定説だが、彼、ヤタストは「何のヤタストこそアルゼンチンはもちろん、南米大陸史上最強馬だ」…と間違いなく豪語できる程の名馬である。私がフォルリよりヤタストを上位と考えるのは、距離適性からである。確かに、フォルリのスピードは史上屈指のものがある。しかし、フォルリはスタミナ面に欠落を抱えていた。その点、ヤタストは距離万能。距離が延びれば延びる程、その真価を発揮する馬だった。おおよそのところ、1,000から1,800までならフォルリ、それ以上の距離ならばヤタストに軍配が上がるだろうと考えられる。
…とまあ考察を呈して見たのだが、いや…間違いなくヤタストは、アルゼンチンはおろか、南米大陸に屹立する史上最強馬であると確信しているし、南半球全土を見渡して見ても、ファーラップ、カーバイン、メルア、メインブレースといったオーストラリアやニュージーランドが生んだ英雄たちから、南アフリカ史上最強のシーコテージ、東アフリカを支配したケニア史上最強馬ジェラバブ、インド競馬史上最強馬イルーシヴピムパーネル、環太平洋エリアの怪物クシピアース、そしてフィリピン競馬の伝説・フェアアンドスクウェア…といった史上最強級の伝説の名馬たちをも圧倒してしまうことだろう。ホームであるアルゼンチンにディープインパクトが乗り込んだとしても、この馬はディープの?空飛ぶ走り?の天鎚をも封じ、返り討ちにしてしまう可能性が高い。
古代中国に自らの影が追いつけないほど速く走る?絶影?という名馬がいたらしいが、ヤタストはまさにそれ。それほどのとんでもない無限にして夢幻大のポテンシャルを抱擁していた神駒だったのである。
真・伝説の究極馬ヤタスト。それでは、その偉大なる蹄跡を、少しずつ廻航してゆくこととしよう。
デビューから颯爽と駆け抜け、赤子の手を捻るより簡単楽々と、亜三冠であるポージャデポトリージョス(ダ1,600m)、ジョッキークラブ大賞典(ダ2,000m)、ナシオナル大賞典(ダ2,500m,アルゼンチンダービー)を無敗で達成。返す刀でカルロスペレグリーニ国際大賞典(ダ3,000m、現在は芝2400m)も圧勝し、なんと不敗のまま四冠馬となってしまった。この年、当然ではあるが、ヤタストは年度代表馬に選出されている。
▲〔ポーリャデポトリロスでの直線。雄々しく抜け出し突き放すヤタスト〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔ナシオナル大賞翌日のヤタストの圧勝を伝える新聞紙の一面。実際の写真の上に風刺画の漫画が添えられた貴重な紙面の1ページ。飛行機に乗った漫画のキャラの吹き出しには、「ジェット機で到着しました!ジェット機でも追い付けない!」と述べていて、ヤタストの圧倒的能力を当時をいく最高の利器に準えて称える内容になっている。(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)〕
▲〔カルロスペリグリー二国際大賞の圧勝を報じる当時の紙面の記事。ナシオナル大賞に続きゴール前の写真を使ってヤタストの圧勝を伝えている〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔カルロスペリグリー二国際大賞の直線、ゴール前。内馬場のゴール付近から撮影された一枚で、すでに手綱を抑えられながらゴールを迎えるヤタストの様子を捉えている〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
こう短絡的に書いて見ると、無敗の四冠馬な訳であるから相当強いことは簡単に窺い知れる。しかし、この馬のとんでもない能力は詳細かつ丹念に書けば書くほど浮き彫りになってくる。
まずデビューしたのが1951年の3月4日で芝の1,000mで3馬身差の楽勝。ほぼ馬なりだったことは言うまでもない。その2週後のオレンジ賞(ダ1,000m)で楽々と10馬身差の大差勝ち。このあとは快進撃で三冠を鯨飲してゆく訳であるが、その全てが本気で追われることのない、大楽勝。2馬身半差が最小着差で、それ以外は全戦3馬身〜6馬身の圧勝。
(写真:Podotroclear.com)
■蝕まれる馬体の運命、歴史的アップセット。
シーズンが替わっても、ヤタストの怪躍進に歯止めがかかることはない?はず?であった。
ところが、ヤタストは漫然たる脚部不安を抱えており、間近に控えたブラジル遠征に陣営は躊躇していた。結局、星を戴きながら国境を越え、乗り込んだはブラジル・サンパウロ。異国の地へもアルゼンチン不敗の四冠馬の名声は轟き渡っており、ブラジルのジョッキークラブはこの名馬を売りにサンパウロ大賞(芝3,000m)のアピールを大々的に敢行していた。
しかし、レース直前、ヤタストを取り巻く事情は一変する。脚部不安が頭を擡げ、レースどころではなくなってしまったのである。陣営は当然ながら回避を表明したのだが、ジョッキークラブ側はこれを易々とは承諾しなかった。ここで今年最大の目玉に帰られてしまっては、ファンの落胆の大きさは計り知れず、売り上げにも甚大な凋落を与えることは明白。ヤタストなくしてのサンパウロ大賞など、レースの意義が無いも同じ…と扇情的かつ熱心に訴えたが、ついにはブエノスアイレスから獣医が駆けつけ、協議は大揉め。混線鼎談した喧々諤々たる議論の末、結局陣営側が折れることとなり、しぶしぶ出走。脚部不安のまま、全能力の半分も発揮できない最悪の状態で出走。ジョッキーも追うに追えず、苦渋と悔恨の残る敗戦(4着。この状態で4着とは…)を喫してしまう。これがヤタスト初の敗戦であるが、まともに走ったらどれだけ強いのか、それは誰の目から見ても明らかだった。その証拠に勝ち馬の馬主が、「私の馬はヤタストに絶対に勝てない…ヤタストが四本の脚ではなく、三本の脚で走り、三本の脚で敗戦してしまったことは、明白だ」と述懐しているのである。
ちなみに、余談だが、サンパウロ大賞の調教後に左前の脚を負傷してしまっていたらしい。その調教の時のタイムが空前絶後のもので、シダージ・ジャルジン競馬場の1,200mのレコードで颯爽と走ってしまった。その場に居合わせ、その光景を目撃してしまったブラジルの競馬関係者は絶対的敗戦を覚悟していたのだという。しかし、その絶望的殲滅の事態は、ヤタストの故障により救われることとなった…。
失意の帰国後、ヤタストはじっくりと身を休め全快。さらに禍々しいオーラを迸らせ、7月20日の復帰戦・チャカブコ賞(ダ3,000m)を15馬身差の大差勝ちで派手に飾ると、続くジェネラル・ピュレドン賞(芝4,000m)では馬身差換算不可能・後続が霞むほどの超・超絶大差大勝(成績表では「道路一本分の長さ」とあり、凄まじい着差であったことが偲ばれる)。
一説によれば、この時の着差は100メートルはあったとも記されている。
この一戦後、ヤタストは肩甲骨を痛めたとも、関係者によれば報じられている。
[まさに超絶の一語。「道路一本分の長さ」の意味が分かる気がする]
南米のアスコット・ゴールドCと呼ばれるオノール大賞典(ダ3,500m、現在は2,500m)では、初となる苦戦。プレテクストという馬を相手に、執拗に絡まれ、先頭を直線明け渡してしまう。しかし、そこは無敗の四冠馬。最後の最後、100mで差し返し、2馬身突き放して事無きを得た。
ところがである。この年の連覇を狙ったカルロスペレグリーニ国際大賞典でレース中に脚部不安を発症し、レースどころではなくなってしまう。しかし、ヤタストは信じ難い強靭なる精神力で耐え抜き、3着入線。負ける要素など、微塵もないハズだった…それゆえ調教師をはじめとした陣営への非難・讒謗は極限的ものとなった。ヤタストをここまで手懸けてきた名伯楽は、それまで拍手喝采と栄光の道を往くヒーローの地位を堅守してきたものの、急転直下、ヒールへと転落し、取り巻く境遇は180度世界を変えた。浴びせられる暴言・峻烈極まる侮蔑と苦言…最後は解雇通知が投石のごとく放擲され、失脚を命ぜられてしまった。彼は、今でもこの敗戦を悔やみ続けているという。
〔種牡馬時代の勇姿〕
■ヤタスト神話1953
そして神話となる1953年シーズンが幕を開ける。
あってはならない敗戦、悪夢の1日を大いなる糧に。
この敗戦があったからこそ今がある。
そう馬が、ヤタストを取り巻く人々へ、
そう訴え掛けるような、伝説的一年が展開されていくことになるのであった。
【ヤタスト神話1953】
まずこの年はウルグアイへと足を伸ばし…
■第一戦
ムニシパル大賞(ダ3,000m)
ウルグアイへと遠征。なんと10馬身差の大差勝ち(ちなみにこのレース、現在で言う国際GI級)。ほぼ馬なり。
■第ニ戦
オトノ賞(芝2,000m)
ほぼ馬なりで、相手を覗いつつ1馬身キッチリ先着。
〔オトーニョ賞での大楽勝シーン。馬なりでゆったり走っているのが写真からも窺い知れる〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
■第三戦
ジェネラル・ベルグラノ賞(芝2,200m)
全くの馬なり、キャンターで流しながら、手綱も微動だにしないまま大圧勝。
■第四戦
サン・イシドロ大賞(芝3,000m)
GI格レースを大差勝ち(馬身換算不可能)。
■第五戦
L.カサレス・ヴィンセンテ賞(ダ2,500m)
馬なりで大差勝ち(20馬身差)
■第六戦
チャカブコ賞(ダ3,000m)
大楽勝で本気で追われることなく大差勝ち(馬身差換算不可能)。
しかも、?3:04.0?というアルゼンチンレコード。
しかも驚くべきことに、この時ヤタストは62Kもの斤量を背負っていたというのである。この前年、ウルグアイ四冠馬のビザンシオが3:04.0というレコードを出しているためタイ記録ということになるが…にわかには信じがたい話である。
▲(ウルグアイ四冠馬のビザンシオ号。1948年生。生涯成績10戦9勝2着1回。芦毛の牡馬で、ブランドフォード系。母型はアルゼンチン初代四冠馬のオールドマンの血を引いている。ちなみに世界記録は翌1954年アウレコ号がホセペドロラミレス大賞の計時することになる“3:03.0”。なんとセイウンスカイが菊花賞でマークする1998年時の芝3,000m世界レコードをも凌駕しているという凄まじさ)
■第七戦
パレルモ賞(ダ1,600m)
?1:34.0?という現在の東京ダート1,600mのレコードをも
遥かに凌駕する驚異の時計で3馬身差圧勝。
■第八戦
オノール大賞(芝3,500m)
名馬シデラルを相手に、馬なりで10馬身差の大差勝ち。
▲〔シデラル:1948年生。父セダクター(フェアウェー系)母スターリング 母父ノーブルスター(セントサイモン系)、鹿毛、生涯成績14戦9勝[9-4-1-0]、コンパラシオン賞、アメリカ賞、ブラジル賞などを勝利。種牡馬としてアルゼンチンリーディング3回、エルセンタウロなどを送って名種牡馬となる〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
この直後、生涯四度目の大きな脚部不安を発症し、引退に追い込まれてしまう…
しかし、何と言う強さなのだろう…。
ヤタストのオーナーである、アウグスト・スバルバロ氏は
「ヤタストは多くの人々にとって史上最高のアルゼンチン馬であることは間違いない」と称え、
主戦を務めた名手レギザーモ騎手も当時のマスコミの取材に対して「私が騎乗した馬の中で最高の名馬である」と称えている。
――…・・・もはや何も言うまい。
戦後もまもない時代、日本からちょうど地球の裏側に当たる国で、これほどの馬が走っていようとは、誰も想像できなかったことだろう。
黄昏が来て闇がすべてを飲み込もうとも、胸の奥瞬き続ける星干たちが俤を映し出す――…
馬生をまっとうした漆黒の名馬は、経済難に陥るアルゼンチンの未来を象徴するが如く、影をパンパへと潜め、冥王星のような深々たる光を南米競馬史へ照射し続けるのであった―――…・・・。
■絶影の冥王
現役生活から身を引いたヤタストは、当然として種牡馬としても手厚い歓迎を受け、新たな生活が始まることに。
活躍馬を出し、順風満帆に行っていた種牡馬生活であるように見えたが、ここから周囲の関係者の謎めいた動きが蟠を巻き始める。
アルゼンチンで種牡馬生活を4年間送った後、米国のカリフォルニアへ渡り、スタッドインすることが急遽決まる。
水面下で話は進んでいた物と思われるが、アルゼンチンの至宝、南米大陸史上最高の名馬が米国へと渡ることになろうとは、寝耳に水だったのではなかろうか。
〔ヤタスト産駒の活躍馬ヤウガリ。ウルグアイで活躍し、ブラジルで種牡馬入りした〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
1958年の1月13日、飛行機の貨物車に乗せられ、戊今日から旅立ったヤタストは無事にカリフォルニアのマイアミ空港へ到着。
米国の競馬関係者、ファン、ホースマンらもこれには色めきたち、「オーモンド以来となる国外では最も優秀なサラブレッドが上陸を果たした」と高く評価して報道を伝えた。
トーマス・サラブレッドファームにて種牡馬生活を送り、牧場主と、ファンから愛されて余生を過ごすも・・・
行方が知れず、どこでこの世から旅立ったのかも、これほどの名馬であるに関わらず謎に包まれたままなのである。
2011年にヤタストファンの有志で行われた調査により、1965年まではトーマス・サラブレッドファームにて種牡馬として生存していたことが掴めている。しかし、トーマスサラブレッドファームは経営難から、1965年の10月に持ち馬をオークションに掛けて全て売却していた事が明るみに出る。そのオークションにはヤタストもいた事が判っており、ヤタストは1965年の11月からはセブンシーズファームという牧場で余生を過ごしているようであった。もしくはミュラーブラザーズ牧場に渡ったという説もあるが、どうやら1977年3月〜6月にヤタストはこの世を去ったのではないかと言われている。
これだけの名馬の最後が判然とせず、墓も無く、母国アルゼンチンのファンの記憶から風化していくというのはあまりにも悲しすぎはしないだろうか。
▲〔ヤタストのカリフォルニア入りを伝える米国紙の一面〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔米国には?ヤタストストリート?という道路が存在している。この道はヤタストと何らかの関係はないのだろうか…〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
米国に渡った後、種牡馬としての活躍の報すらアルゼンチンに暮らすファンの耳には届かず、いつしか巨星は、遥か悠遠なる果ての世界で虚ろに幽光放つ矮星となって、その姿形、果てにはその星影すらも、減衰していき、星芒はわずかなる残光すらも残さず冥王の帷に身を隠ししてまった。
史上最強馬の答えの1ピースを握っていたであろう、南米大陸に降誕した神王なる名馬は、愛されたファンに別れを告げることすら許されず、愛してくれた人々に感謝の一瞥も下げることを許されずに絶命の悲運に暮れた。
?絶影の冥王?。彼は今どこで眠りにつき、この宇宙(そら)に輝いているのであろうか。
50年経った今もその2戦の敗戦は謎のままとされるヤタスト。
その最期すらもまた、永遠の謎とされ、今日もヤタストはファンの冥空に歪曲なる輝きを放っている。
■ヤタスト全成績表
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『奇跡の名馬』?ヤタスト?2019年 パレード
・『コンドルは飛んでいく』
・『アナログ文庫』(大岡賢一郎氏ブログ)
・『Yatasto Tras la huella del Campeon』
[写真イラスト]
・『奇跡の名馬』?ヤタスト?2019年 パレード
・『アナログ文庫』(大岡賢一郎氏ブログ)
・大岡賢一郎氏提供写真
・『Yatasto Tras la huella del Campeon』
・Podotroclear.com
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〜🔥冀琞の火鑽火🔥〜
(きぼうのひきりび)
ー南アフリカでセンセーショナルに活躍し、
英国アスコット開催で優勝した
史上唯一の歴史的南アフリカ産馬ー
父 パールダイヴァー(エクリプス系)
母 ウォールフラワー
母父 ワッカム(エクリプス系)
生年:1900年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:南アフリカ共和国(ケープ植民地)
生涯成績:34戦10勝[10-8-6-10]
主な勝ち鞍:キングズスタンドS(現・英GI芝1,000m)、ポートエリザベスダービー(南ア・芝1,800m)、ソーハムプレート(英・芝1,100m、斤量67.5kgで勝利)、ウインザーキャッスルハンデ(英・芝1,000m)、フライングハンデ(英・芝1,000m)、フライングハンデ(南ア・芝1,000m)、フェアウェルハンデ(南ア・芝1,200m)、クライテリオンハンデ(南ア・芝1,200m)他
■生まれた時から戦火の中で
南アフリカにおける歴史は、「争い」「植民地」「奴隷」「人種差別」・・・人類が想像しえる、あらゆる負の遺産の坩堝とも言える程に、災禍災厄と隣り合わせの環境が作り上げられてきた忌み地と言っても過言ではない。
1652年、オランダ東会社のヤン・ファン・リーベックがこの南アフリカの大地の土を踏むと、まず喜望峰を中継基地とした。
喜望峰は、気候条件等が比較的ヨーロッパに似通っている部分も多く、さらには航海上の重要な拠点として考えられていた背景も相まり、移民たちに活用されたことで、オランダ系移民が増加の一途を辿り、その結果、ケープ植民地が成立する。
この植民地にて形成されたボーア人は勢力拡大と共に、先住アフリカ人との争いも絶えなくなっていく。
18世紀末を迎えると、アフリカの大地は金やダイヤモンドといった資源の宝庫となっている事が周知されていき、その鉱脈の発掘を狙って多くの英国人が押し寄せて到来。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年、英国はケープタウンを占領。
英国の支配下であることを甘受する他なかったケープ植民地は、オランダからイギリスへと正式に譲渡され、その結果、英国人が多数移住していき、完全な英国の植民地となり果てた。それは言葉まで侵食をはじめ、やがては英語が公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなど、「英国」という概念そのものが、この地に絶大な影響をもたらした。
南アフリカにおける競馬の創始、始原濫觴もこの時代にあり、1797年にアフリカ大陸最古となる洋式競馬が行われている。
同地にて結成された競馬クラブにより、競馬は本格的に施行開始され、1844年にダーバンで行われた最初の常設競馬場における洋式競馬は、グレイヴィル競馬場付近であったという。
しかし、そんな英国の支配を、いつまでも甘んじて受け続けることに痺れを切らしたボーア人たちは、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始。そうしたムーブメントをえて、ナタール共和国(1839年建国)、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などが産声を上げていった。
そんな状況を英国側が指を咥えて看過している訳もなく、セシル・ローズに代表されるように、南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から、2度に渡る大戦争、いわゆるボーア戦争に発展していった。
▲〔左は第一次ボーア戦争の様子を描いた絵画(1881年)。右は第二次ボーア戦争を描いたもの。(Anglo-Boer War program sold at the 1904 World's Fair in St. Louis, Mo.)当時においては、戦力として馬が重宝されていたことが、絵画からも容易に窺い知れる。競走馬用、乗馬・馬車用、戦争用の戦馬と馬の活躍の場ははっきりとカテゴライズされていた〕
第二次ボーア戦争の戦火の渦中、1900年に、東ケープ州ミデルバーグ近くにあるチャールズ・サウジー氏が営むカルムストック・スタッドで1頭のサラブレッドが降誕した。父はパールダイヴァー、母はウォールフラワー、その父ワッカムという血統。
父のパールダイヴァーは、母を凱旋門賞馬パールキャップとして、フランス調教馬で英ダービーを勝ち、日本でも種牡馬入りした馬と同名の、全く異なる馬である。父も母もエクリプス系であり、父はエクリプス〜ポテイトウズ〜ホエールボーン〜バードキャッチャー〜ストックウェル…‥の流れを汲む系統であり、母側はエクリプス〜ポテイトウズ〜ホエールボーン〜ウィスカー〜エコノミスト〜ハーカウェイ〜キングトム…というラインを連ねたエクリプス系であった。
【父パールダイヴァーのプロフィール】
▲〔キャンプファイアの父、パールダイヴァー。1882年生。英国で競走して3勝を挙げ、1888年から1893年まで同国の種牡馬として活躍した。英国では注目すべき競走馬を産まなかったが、南アフリカへ輸送されると、南アフリカのチャンピオンサイアーに4度も輝き、1894年から1906年まで種牡馬として活躍した。キャンプファイアの母、ウォールフラワーと共に、所有者であるチャールズ・サウジーの農場経営者2人によって意図的に毒殺され、悲劇的な最期を迎える事になる〕
【母ウォールフラワーのプロフィール】
▲〔キャンプファイアの母、ウォールフラワーは1886年生まれの鹿毛。キャンプファイア以外では、スカーレットランナー (1893生。 父スポーツマン) 、パッションフラワー (1901年生。 父シャスール) を送った。またベラドンナ2世(1909年生。父クイックマーチ – 11 勝) は偉大な牝馬ディグニティ (1909生 – 15勝) に次ぐ、この時代を生きた名牝であり、2頭はライバル関係にあって何度も競い合ったが、スプリントではディグニティが優れ、長距離ではベラドンナが優れていた。ベラドンナとディグニティの2頭はフラッシュオブドーン、そしてララージュと並び、20世紀最初の50年間に南アフリカで出走したベスト牝馬トップ5には入ろうという存在。そして、ウォールフラワーは、ダリウス2世((1910年生。クイックマーチ産駒)は、236戦41勝という成績を上げ、南アフリカ史上最多出走馬ともなっている)、そして名牝トップジェスを産むタランチュラの母、ザスパイダーも産み落としている。これだけの名馬たちを送り出したウォールフラワーは南アフリカにおける名牝中の名牝といえよう。※写真はダリウス2世〕
🔺【上記3頭フラッシュオブドーン、ララージュ、ダリウス2世の詳細】
▲〔ララージュ:1939年生。父サティール(ザテトラーク系)母ハリダン 母父ケラソス(エクリプス系)、南アフリカオークス優勝〕
▲〔フラッシュオブドーン:1915年生。父サンイーガー(エクリプス系)母サンショット 母父カーバイン(エクリプス系)、栗毛、生涯成績105戦22勝[22-15-11-57]。非常に小柄もタフネスかつ屈強な牝馬で、南アフリカを代表する歴史的名スプリンターの1頭〕
ダリウス2世
236戦41勝[41-37-30-128]
〔1910年生。父クイックマーチ(ストックウェル系)母パッションフラワー 母父チェッスール(ヴォルティジュール系)、主な勝ち鞍としては、ヨハネスブルグサマーハンデなど。2歳から18歳まで競走を続けたというダリウス2世。栗毛で真っ赤に近い馬体であったという〕
この血統馬は、当時の鉱山王エイブ・ベイリー氏が買取り、オーナーとなった。
英国ヨークシャー州出身の父と、スコットランド人の母との間に生まれた、エイブ・ベイリー氏は、英国人であったでものの、生を受けた地は南アフリカのミューゼンバーグであり、英国系移民の子であった。エイブ・ベイリー氏が7歳を迎えると、英国へと送られ、キースリーとクルーワーハウスで学生生活を送った。その後、南アフリカへ戻ると、ボーア戦争の騎馬歩兵師団の中尉に任命を受けて活躍。その最中に訪れたカルムストック・スタッドにてキャンプファイアと邂逅を果たし、自身の持ち馬としたのであった。
▲〔キャンプファイアのオーナーとなるエイブ・ベイリー氏。(1864年11月6日 - 1940年8月10日)南アフリカのダイヤモンドと金の鉱脈を発見し?鉱山王?の異名で博される。政治家兼金融家でもあり、クリケット選手としても活躍した。セシル・ローズとの繋がりにより、ベイリー氏は旧ローデシアの多くの鉱山および土地資産を取得。1930年代までに、彼は世界で最も裕福な男の一人になった〕
■デビューから2歳女王との激突〜たった2頭のダービー決戦。
キャンプファイアが競馬場へと初めて姿を見せたのは、1903年4月4日からのヨハネスブルグオータムミーティング開催での事となった。同年4月8日、ターフフォンテン競馬場のナーザリーH(芝1,000m)へ登場すると、J.ホワイト騎手の手綱で快勝。2着はアレクサンドラという牝馬で、この馬は後の2歳女王となる存在であった。初勝利から3日後の4月11日、ターフフォンテン競馬場のジュヴェナイルH(芝1,200m)に出走し、着外とよもやの大敗を喫してしまう。勝ったのは初戦で下していたこの世代の最強牝馬アレクサンドラ。力をしっかり出し切っていれば連勝出来ていた可能性もあったが、掛かってしまったことと、アレクサンドラより重い斤量を背負っていたことが敗因であろうと思われた。2歳の3戦目は6月24日のナーザリーH(芝1,000m)となったが、ここは62.5kgもの重量を背負わされ、惜しくも2着と敗れる。勝った馬は斤量わずか49kgであり、13kg以上ものハンデ差があったことを考慮すれば、全く悲観するような内容でもなかった。
南半球にあたる南アフリカの競馬は、新たなシーズンは9月から始まる。馬齢は9月から3歳となる。
3歳初戦は、引き続き舞台がターフフォンテン競馬場でクライテリオンH(芝1,200m)となった。
ここでもキャンプファイアの斤量は62.5kgという酷量を背負わされた。前走で苦杯を舐めさせられたレギア号は、またしても軽量で52.5kgの斤量。そのハンデ差は縮まったものの、10kgもの大きな差があった。
しかし、今回のキャンプファイアはピタリと折り合い、レギアを2着に従えて圧勝。3歳シーズンスタートを最高の形で切った。
3歳2戦目は大一番のダービー。この年の南アフリカダービーは、ボーア戦争の影響からフェアヴュー競馬場の芝1,800mを舞台に行われた。今回の舞台設定、1,800mはキャンプファイアが生涯において走った最も長い距離であり、その能力と後に記録する生涯成績からもかなり長く、本質的にはスプリンターであったと思われるキャンプファイアにとっては試練の距離となった。
ところが、戦火の影響は色濃く、出走馬はたったの2頭。キャンプファイアとロードボブズという2頭の一騎討ちとなった。ホワイト騎手は慎重にレースを進め、折り合い重視でロードボブズの事は考えず、キャンプファイアとの対話に重視した。斤量も前走から7kg減となって身軽になっていたことも受けてか、非常に従順に鞍上の操縦とサインに応じ、前を行っていたロードボブズを悠然と追い越して、3馬身差の差を着け圧勝。1,800mの距離だが2分11秒というゆったりとした時計で勝利。ポートエリザベスダービーを制し、この世代の頂点に立つのであった。
■酷量との闘い。そして英国へ…
ダービー馬となったキャンプファイアに早くも試練が訪れる。
ダービー後の1戦となったのは、なんとダービーの翌日!10月19日のフェアヴュー競馬場の芝1,400m、ライセンスドヴィクチュアラーズHへ、153ポンド(約69kg)もの酷量を背負い出走。56.5kgの通常のハンデを背負ったヌンサッチという馬に惜しくも2着に敗れ惜敗。
しかし、背負ったあまりにも法外な斤量ハンデとダービーの翌日という事を考慮すると、途轍もない馬である。
この一戦を最後にキャンプファイアはオーバーホール、長期休養が与えられ、次にキャンプファイアが競馬場へ頭を擡げるのは、翌春の3月末の一戦であった。ここからは斤量との闘いになり、6着、2着、3着と惜敗を繰り返し、連勝するのもままならない状況が続いた。転換期となったのは、オーナーであるエイブ・ベイリー氏の決断であった。
「英国で競馬をさせてみたい」
このまま南アフリカで競馬をさせていても一介のダービーホースで終わってしまう…なんらかのカンフル剤を打ち、さらに一つステップを上げさせ、歴史的名馬としての絶対的な地位を築き上げさせてやりたいという親心もあった。
南アフリカで生まれ育った馬が、競馬の母郷であり、当時世界最高峰である英国で凱歌を上げることが叶えば、それすなわち即、歴史的名馬として世界競馬史にその名を刻むことになると同時に、世界最強級の名馬の玉座に鎮座することまで叶う。
まさに英断であった。この時代の輸送である。船を使った長期輸送となり、馬が多大なダメージを受け、ダメになってしまう可能性もある。英国へ無事渡ったとて、世界最高峰の舞台。全く通じない可能性さえあった。
それでも、エイブ・ベイリー氏は自身の生涯に準え、愛馬の秘めたるポテンシャルを信じた。
■ニューマーケット、エプソム、そしてアスコットでの歴史的勝利
南アフリカでの最後のレースは、1904年4月24日のターフフォンテン競馬場、芝1,165mのマーチャンツHとなった。
このレースで136ポンド(約61.5kg)の重ハンデを背負い、宿命のライバル牝馬アレクサンドラと対峙。
アレクサンドラはわずか95ポンド(約43kg)のハンデで出走してきていた。やはり、18.5kg差ものハンデの開きは重く辛く、キャンプファイアは2着と敗れた。勝ったのはアレクサンドラ号であった。
1905年5月、キャンプファイア号は慣れ親しんだアフリカの大地へ暇乞いし、船舶へと乗り込んでいった。
英国の地を踏んで、競馬場にその勇姿を見せたのは、なんと一年後となる1906年4月20日のニューマーケット競馬場であった。
フライングH(芝1,000m)へ出走し、124ポンド(約56kg)を背負い、アーリーバードという馬を2着に102ポンド(約46kg)の10kgものハンデをもろともせず圧勝!最高の英国デビューを飾ったのであった。
この歴史的一戦、歴史的一勝の手綱を取ったのは、H.ランドール騎手。この年のキャンプファイアの主戦騎手を務めた。
しかし、あまりに鮮烈な勝利で新たなる門出を飾ったものの、英国で勝ち続けるというのはかなりのハードルであり、惜敗、大敗を繰り返し、この年は1勝で終わった。とはいえ、一年の超長距離輸送で全く万全に仕上げられておらず、英国においても常にハンデ差を設けられて、簡単な一戦など一つたりともない苦境に置かれた立場であり、圧倒的なレベル差があろうと思われていた南アフリカ馬と英国馬の溝を考えると、キャンプファイアは相当に健闘している部類に入るのは間違いなかった。
1906年の12月6日のマンチェスター競馬場での出走を最後に休養に入り、1907年、7歳のシーズンに全てを賭ける事とした。
一つ歳を重ね、7歳となった1907年4月23日。ダービーの中のダービー、全てのダービーの原点である、?ザ・ダービー?こと英ダービーの舞台であるエプソム競馬場に、キャンプファイアはその姿を悠然と現した。グレートサリーH(芝1,000m)に出走し、南アフリカ産馬史上初にして史上唯一となるエプソム競馬場での優勝馬となり、ニューマーケットに続いての歴史的勝利を収める事となった。
キャンプファイアは間違いなく前シーズンより調子が上向いており、体調も万全の状態に整いつつあった。
1907年6月4日、エプソム競馬場のエグモントプレート(芝1,000m)へ出走し3着とすると、これを足掛かりにさらに調子を上昇曲線へ乗せていった。この4日後にケンプトン競馬場のウィンザーキャッスルH(芝1,000m)を半馬身差で制し、ロイヤルアスコット開催のキングズスタンドS(芝1,000m)へと矛先を向けた。ウィンザーキャッスルHの際にコンビを組んだのは、D.マハー騎手で、彼は最後の主戦騎手となった。
豪華絢爛、英国競馬の粋、ロイヤルアスコットミーティングにキャンプファイアは威風堂々たる立ち居振る舞いで登場。
自信漲る眼力と、ハリと光輝を放つパンとした馬体で登場してきた。対して、ここに参戦したのは、かつてなき迄の難敵となる存在であった。無敗のリトルフラッター号がそれで、2歳馬であるということが、さらに厄介な点だった。古馬とこの時期の2歳馬の対戦ゆえ、ハンデ設定は相当な開きが予想された。その憶測は正しく、キャンプファイアの斤量には142ポンド(約64.5kg)、リトルフラッターには43.5kgの軽ハンデ。なんと、そのハンデ差は21kg!キャンプファイアは7歳を迎えていたが、覚醒期に入り、調子も上向きということもあって、20kg以上の斤量ハンデがあろうと全く意にも介せず、リトルフラッター以下を圧倒した。
唸るような手応えで突き放し、リトルフラッターに2馬身差、3着馬には6馬身差の短距離1,000mともすれば大差にも近い完璧なまでの大勝、楽勝でアスコットでの大金星を上げる事に成功したのであった。南アフリカ産馬として史上初、そしていまだ史上唯一となる歴史的な金字塔を打ち立てた。なお、南アフリカ産馬で英国において勝利を上げた馬は、実はもう1頭いて、パールローバーという馬(英国で2勝。英国で勝利を上げた南アフリカ産馬として史上初はこちらの馬)がその馬なのであるが、ニューマーケット・エプソム、そしてアスコット。これら3つの英国競馬場で勝利を上げた南アフリカ産馬というのは史上唯一頭、キャンプファイアのみである。
キングススタンドSで圧倒したリトルフラッターのその後は、5連勝して2歳戦を締め括り、キングススタンドSの直後のレースでは、名馬ダークロナルドを3馬身差に斥けてしまっている。2歳時の唯一の敗戦がキングススタンドSのキャンプファイアに負けたレースとなっていて、やはりキャンプファイアの7歳時の強さは際立っていたと言って良いだろう。
キングススタンドSから2週間後となる7月3日のニューマーケットで行われたソーハムプレート(芝1,100m)ではなんと149ポンド、67.5kgもの酷量を背負い、2馬身差の圧勝。2着のデスポワールは、斤量51kgでそのハンデ差は16.5kg差もあった。
この勝利がキャンプファイア最後の勝利となるが、常に60kg以上の酷な重量を背負わされ続け、圧倒的なハンデ差がある中走り続けることとなったがゆえの惜敗ばかり。ロイヤルアスコットでの眩きばかりの活躍の前後1ヶ月が競走生活においてピークタイムであったことは間違いなく、この時点では英国最強級=当時における世界最強のスプリンターであったという称号は、偽りなきものであったと思う。
キャンプファイアは1907年10月3日でのレースを最後に、ターフへと惜別を告げ、英国で種牡馬入り。
1908年から1915年まで英国ティックフォードパークにスタッドイン。
手厚いサポートを受け、何頭かのステークスウイナーを輩出したが、自身の距離適性を証明するかのように、ほとんどが短距離での勝利数が積み重なっていく事となった。彼の産駒の英国での戦績は70戦中26勝で、ホームファイアー(13勝)、ゴンドリー(9勝)、プスインザブーツ(6勝)、タン(6勝)という内訳であった。
キャンプファイアは、1915年に売却され、生まれ故郷への南アフリカへと帰国を果たすと、ウィンバーグのE.シュネハーゲ博士の農場にて種牡馬として繋養され、1922年にこの世を去った。南アフリカでは種牡馬としてはお世辞にも成功したとは言えず、ついに自身と同等かそれ以上の産駒を送り出すことは叶わず、絶命する事となった。
■希望の燧火(ひきりび)
エイブ・ベイリー氏の一世一代の大英断によって、キャンプファイアは歴史的名馬となる事が叶った馬であった。
前述の通り、英国において、エプソム、ニューマーケット、そしてロイヤルアスコット。
世界競馬において最重要な意義と意味を持つこの英国の3場で勝ち鞍を上げた南アフリカ産馬というのは、キャンプファイアが史上初にして史上唯一の馬である。当時、世界最高峰の地位にあった英国競馬において、短距離界で頂点に立ったキャンプファイアは、その瞬間、世界最高の短距離馬となった事を意味している。
当時、英国が支配下において徹底的に蹂躙した南アフリカの大地から、絶対帝国を揺るがすような存在が出現し、その帝国のエリートホースを薙ぎ倒す・・・そんな構図、図式は当世を生きた南アフリカ先住の民たちの魂を揺るがし、鼓舞したに違いない。戦争後の荒んだ心、打ち拉がれた閉塞感ある世の中、とてつもなく大きな勇気の炎を心へ灯し、支え続けてくれた偉大なる存在、それがキャンプファイアであったことは間違いない。
ベイリー氏は、自身の半生を顧みて、自身が南アフリカから英国へと渡った事、英国から南アフリカへと舞い戻り、世界の頂点に立った自身の成功(セシル・ローズとの繋がりにより、ベイリー氏は旧ローデシアの多くの鉱山および土地資産を取得。後に、彼は世界で最も裕福な男の一人になる)を鑑みて、それを…同じようなサクセスストーリーを、キャンプファイアにも託したのではなかろうか。
それは、希望の燧火。
一心不乱、我武者羅に起こす小さな火種。
戦争、奴隷、差別…明日見えぬ鬱屈たる暗漠たる世を命懸けで生き抜いて、灯した希望の灯火。
英国と南アフリカ。二国間の戦禍の運命に抗った、一人と一頭の灯した奇跡の炎。
それは、南アフリカの地に生きた人々の喜望の火鑽火となって明日を照らしたに違いない。
【キャンプファイア成績表】
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
・うみねこ博物館?ムーンリット?
・うみねこ博物館?ミスティックスノー?
・Wikipedia「南アフリカ」
・Wikipedia「ボーア戦争」
[写真イラスト]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
・うみねこ博物館?ムーンリット?
・うみねこ博物館?ミスティックスノー?
・Wikipedia「南アフリカ」
・Wikipedia「ボーア戦争」
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【1】徳島・阿波市にあった浦庄村の農閑期秘競馬
徳島県の阿波市にかつて存在した浦庄村では、
農閑期における唯一の娯楽としてひっそりと
競馬が楽しまれていた。
この地域の競馬は駈馬(かけうま)と言われ、神社の前にある直線を馬場として行われていた。
この直線馬場は400〜500mあり、競馬専用に飼養され出走させる者もいたが、大多数は農家の耕馬の優秀な馬が主力として競われていた。
この浦庄駈馬が行われていたのは明治初期からで、明治20年代最後期から明治30年初期においては、
円形馬場となり、乗用馬で馬券も売られ公認の勝負事として栄えた。
“阿波の秘競馬”と言えるのが、直線競馬で行っていた時代の競馬で、他県の競馬とは全く異なる様相を呈していた。
▲〔浦庄村にある神社の境内前にある直線道路。この道がかつての農閑期競馬の舞台となった〕
豪家程、騎手の衣装を派手に着飾らせ、馬具も当時としては貴重な鋼鉄製の轡(くつわ)で光沢を放ち、
手綱も麻製で阿波の青藍で染められた物が使われ、馬服として左右に「家の馬印」を金文字で刺繍した「よぎぬ」という物を着せて上帯をする。競馬を行う馬場に向かうまでの、家からの道中においては、木綿の市松模様に馬印を染め抜いた「松右衛門」という物を着せる。馬が駆ける際には、馬の背に一尺四方(四方が30.3cm)の小さな蒲団を載せ、その上から腹帯を締めて、騎手は騎乗した。
二尺程の竹の鞭を持って馬を叱咤する。
騎手は12〜15歳の子供が務める。その服装、装備は独特であり、頭に「馬印」のある頭巾を被り、袖なしまたは陣羽織様の物を着て、腰の両脇には「花」という五色の紙を引き絞って端を括った飾りを身に付ける。競馬に勝つとこれを腰から取って振り回し、勝利を誇示する。五色のものでなく、赤藍のものもあったという。
当日、対戦する馬の組み合わせは、馬裁判と言われる審判の者と馬主がうち寄って話し合い、駈脚の速い馬と遅い馬、同じ位の2頭、合計4頭を組み合わせ、当日の馬割を定める。馬の出番、出走の際には、二間(3.6m)程の竹の先に赤色の麾(さしずばた)を付けたものを振り、今から馬が駈ける事を馬場中央の観衆へ知らせたという。
【阿波市浦庄村の農閑期秘競馬】
馬場:神社の前の直線道路(400〜500m)
騎手:12〜15歳の少年
装備品:
[馬]
・鋼鉄製の轡
・麻製で阿波の青藍で染められた手綱
・「家の馬印」を金文字で刺繍した「よぎぬ」という馬服
・一尺四方の小さな蒲団+腹帯
・飼養地から馬場までに着る「松右衛門」という馬服(木綿の市松模様に馬印を染め抜いた着物)
[騎手]
・「馬印」のある頭巾
・袖なしまたは陣羽織様の着物
・「花」(五色の紙を引き絞って端を括った飾り)
・二尺程の竹鞭
▲〔騎手の装備。左は正面。右は背面から〕
【当時の番付を示した「馬印」】
〔浦庄村には上浦、下浦、そして訪諏地区と大きく3つのエリアに分かれる〕
浦庄村は、今はもう存在していない村である。
1955年3月31日、石井町、藍畑村、高原村、高川原村と合併し、石井町として生まれ変わった。
今はもう、村のキヲクは昔日の日々に揺蕩う、はるか彼方の記憶の向こう。
農閑期の競馬の記憶さえも、今を生きる人々の心の中にはもうない。
【2】群馬・伊勢崎のノッキリ競馬
群馬県の伊勢崎市にて、“ノッキリ馬場”と言われた3つの直線馬場にて行われている競馬がかつて存在した。
《三大ノッキリ馬場》
?石山観音堂の南口にあった南北200m・幅10mの直線道路
明治12、13年頃に開催されていた。南が出発地点で北は坂に掛かったところが決勝点だった。
1回に3頭位を走らせて、見物客はコースの両側から観戦。
昭和初年には、両側に大きな松の木が生え、その中に細い一本道があり、あとは雑草と茅で覆われていた。
時折として農耕馬をここで競走させることは、昭和初年まで続けられていたという。
?本村の堀下宿・南北500m・幅25m・中央に2m位の堀あり道路
江戸時代においては伊勢崎を結ぶ宿場で、
大変賑わった地であるという。
現在では堀も、道路も全て姿を消し、アスファルトの道に
変わっているという。
?曲沢の薬師廻りから天神林に向かう
約450m・幅5.6mの直線馬場
円形馬場へと姿を変えてからは、野村(1回)、間野谷(2回)、今井南原(1回)、北原(1回)、下触石山(1回)、香林(1回)、三百石(1回)、計8回程あった。
これらの開催も「ノッキリ馬場」と呼ばれていた。
《ノッキリ競馬の名馬たち》
🌟石野谷
群馬のあらゆる競馬場を渡り歩き、最後は大関にまで上り詰めたという。
🌟新栄
今井に住まう大森啓司氏の所有馬であり、大変有名な馬であったという。
青毛で五尺七寸もあり、関脇、小結、大関と昇進していった。
🌟カネイチ
ノッキリ競馬における最強馬。磯の金子一市氏の所有馬で鹿毛馬で、五尺八寸もある大型馬であった。
かなりの大きなハンデがあっても、全く関係なく勝ちまくった。
高崎競馬にも参戦し、レコードを記録したこともあったと伝えられている。
今井競馬や鹿島競馬にも参戦し、10年間近く一線級で活躍を続けた名馬であったという。
白毛の名馬・「桃太郎」
〔須藤家にて飼われていたという白毛の名馬。その名の如く勇敢で強い馬であったという。クラスは小結まで上り詰めたそうだ。須藤家の厩には、直径2mもある大きな桶が戦後まであり、出場の朝早くに桃太郎号をはじめとして、馬たちを洗ったり、帰ってきては洗ったそうである。桃太郎が優勝した時には、村ちゅうが大騒ぎになり、酒肴の酒盛りが開かれ、農閑期の最大の楽しみであり、娯楽となっていた。桃太郎号はその最たる希望の駿馬であったのだろう〕
《その他の名馬と開催地》
・植木のカワラケ沼の競馬
・波志江
・深津
・大室
・増田(年中行事のように毎年行われていたという)
《その他・群馬県の秘競馬》
【トビキリ競馬】
群馬県甘楽郡妙義町菅原の馬頭観音祭りの当日、寺の山際で開催されていたという直線競馬。一直線に真っ直ぐ飛び抜けることからこの名称がついたという。
その後、トビキリではつまらないと、山の木を切り出し即席の馬場が田に設けられ、大掛かりな競馬大会が開かれるようになると、村内は元より近在の町や村のアチラ此方へと招待状が出されるようになったという。招待された者は花を包んだり、お祝いの品を当日持参した。また馬を出走させる馬主たちも金一封をしたため、来場。祝い品を持って来た者は、特別席へと案内され、酒やご馳走が振舞われたという。
出走馬は約50〜60頭ほどで、陽雲寺の和尚が馬頭観音のご本尊を持ってきて、拝んでから始めた。横綱・大関・小結など、相撲のように階級が分けられており、クラスごとの競走が催されていた。優勝馬の帰りの行列は、それは賑やかなものだったという。
【ノリッキリ競馬】
群馬県の千代田村・舞木という村落でのみ開催されたかなり珍奇な競馬。
この村に立つ円福寺には馬頭観音があり、1月18日に縁日が設けられていた。その祭日の当日、この寺の堤防の上にて競馬が行われていたとのこと。その距離、約300m(文献には「仁木の前から小西屋?前まで」と記されている)で、途中には両側に竹が立てられており、その竹には二本を繋ぐように縄が結ばれている。その縄には何本も手ぬぐいが吊り下げられており、競走する者はその手拭いを騎乗しながら掴み取る。馬に自信のあるものでないと、中々成功しなかったという。
《参考文献・写真引用》
【参考文献】
・Wikipedia 「浦庄村」
・浦庄村史(浦庄村史編纂委員会 編 浦庄村史出版委員会, 1965)
・群馬県史(群馬県史編さん委員会 編 群馬県, 1984.3)
【引用写真・イラスト元】
・浦庄村史(浦庄村史編纂委員会 編 浦庄村史出版委員会, 1965)
・群馬県史(群馬県史編さん委員会 編 群馬県, 1984.3)
・雪が降る日に(GANREF)
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富山県は、射水(いずみ)市、射水平野が広がる農耕文化の根付くこの地に伝わる不思議な神馬像がある。
かつて、この白き天駒の像は、天保年間(1830年〜1844年)に作られ、
昭和2年に合祀された伊勢領神明社が伊勢神宮の分社として建立された際、
伊勢神宮より渡ってきたものであるという。
かの地へと渡った後、黒塗りの木馬像は、白馬に対を成す雌馬として作られたとされる。
2頭ともヒノキの寄せ木造りであるという。
大型の木造神馬であり、この2頭の存在は、後世での「絵馬」の起源を髣髴とさせる貴重な価値を包含しているとされる。
射水市指定文化財。
上が昭和初期に撮影された写真。
下が令和となってから映された一枚。
十社大神の御祭神は、天照大御神様であり、太陽の女神。
神道では、稲作農耕の発展とともに作られてきたと考えられている。
古来より多くの人々が、日照りやその反対の日照り不足を心配し、
太陽の神に祈りを捧げてきた。そうした背景からこの神馬像は
この地に鎮座しているのではなかろうか。
地元では、「晴乞いは白馬に、雨乞いは黒馬に祈るとよい」など、
多くの伝承が残る。
主な供物としては、お神酒と黒豆、そして、「人参」が供えられるという。
絵馬堂には、鏝絵の絵馬が11枚保存されている。
《参考文献・資料、引用写真》
【参考文献】
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・きららか射水観光NAVI
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
【引用写真・イラスト元】
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
・Free pick「夕日を眺める女の子の絵」
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伝説の名手
?ラルフ・ネヴェス?の
世にも奇妙な物語
かつて古の米国競馬に、?ピメンテイロ・ポルトゥゲス?
「ポルトガルのペッパーメーカー」と呼ばれた名騎手がいたことを
貴方はご存知であろうか。
史上唯一、2度死んだ騎手であり、
本当に1度死んで復活を果たして伝説となった名騎手である。
死んだというのは、比喩表現でも誇張表現でもなく、本当に「医学的に死亡と判断」されてから、蘇った騎手であり、彼の死亡記録はしっかりと残されているのである。
しかも、死亡から数時間後に蘇り、立ち上がるやすぐにそのまま競馬場に引き返して競馬を再開しようとしたのである。
▲〔在りし日のラルフ・ネヴェス騎手。身長150cm、体重48kgであった〕
信じ難い奇跡が数十年前に起きていたのである。
それでは、伝説の名騎手、ラルフ・ネヴェスの生涯を辿って参ろう。
🔵物語は絶海の孤島から
1916年、ラルフ・ネヴェスはポルトガルから遠く離れた絶海の群島、アゾレス諸島に生を受けた。
ラルフ・ネヴェスが物心付いた時、彼の両親はすでに移民であり、アゾレス諸島を出てアメリカに向かう船の中であった。
最初にケープコッドを通過し、その後サンフランシスコに定住した。
現在、米国にて営みを送る「ポルトガル・ペッパーメーカー」のご遺族方は、自分たちの父がアゾレス諸島のどの島から渡って来たのか?さえ知らず、祖父、つまりはラルフの父親の名前さえ正確に知らないという。
父のラルフからは、「ラファエル」と聞いており、それが祖父の名だと信じている。
ラルフの父親はロブスター捕りの仕事をしていたが、その仕事は長くは続かず、統合失調症を患ってしまう。
ラルフ・ネーブスの孫であるジェイソン・トゥーゴーは、1930年代のある日、ラファエロが服を脱いでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジまで歩いたと自身のブログ「カリフォルニア」で語っている。彼は全裸で道路の真ん中に立ち、ポルトガル語で「止まれ」「進め」などと言いながら、車に停止または前進を交互に紛らわしく合図しながら交通整理を始めた。彼の奇行の目的は、すべての車をそこから追い出すことだったという。彼の心の中では、橋が「黒アリでいっぱいになっているように見えた」のであった。
こうした気が触れた行動により、ラファエルは病院で半永久的に隔離されてしまう。
彼の妻であり、ラルフの母である、アゾレス人フランシスさんは、家の貧しさに主人の社会的失脚から、3人の子供を養っていく事ができないと判断し、ラルフを修道学校であるセントビンセント男子校に入れた。
🟡馬との出会い、ラルフの夢
ラルフは、孤児や未成年の非行少年と過ごすようになり、12歳の時には既にそのグループの中のリーダーとなっており、噛みタバコの習慣があったという。ある日、サイコロをしているラルフを捕まえた修道女の一人が彼を罰したため、ラルフは学校から脱走する事を決意する。
その日の夜、彼は窓から飛び降り、壁をよじ登り、ためらうことなく学校を囲む森へと走った。
その森の中、朽ちた小屋を見つけ、彼はそこを最大限に活用し、寝床と生活の拠点として使い、警察が捜索を断念するまで、6日間をそこで過ごした。隠れ場所から出ても安全だと分かると、彼は行く宛もなくただただ歩みを進めた。運命に導かれるように、辿り着いた先は、オレゴン州にあるとある牧場だった。そこで彼は馬に乗ることを学び、お金を稼ぎ始める。
ラルフの馬との運命の出会いであった。
ひょんなことからラルフはその牧場で仕事をさせて欲しいと懇願した。しかし、何の経験もないラルフに最初から馬に跨らせて貰えるはずもなく、駆け出しはロバに乗る仕事から始めた。
それは、ロデオショーの仕事であった。ラルフは、その才があったのか。急速に腕を上げ、騎乗技術を自分ものとしていった。
1934年、その腕が映画監督のフランク・キャプラ氏の耳に入り、俳優の替え玉…つまりは今で言うスタントマンとして白羽の矢が立った。このアメリカ人監督は、義父の会社を辞めて競馬に専念する男の物語を描いた『ブロードウェイ・ビル』を公開し、映画『ある夜の出来事』でアカデミー賞6部門を受賞したばかりの、時の人であった。ラルフは撮影日ごとに10ドルの報酬を受け取り、これに映画の中で最も困難で危険なシーンの一つと想定された場面、「落馬」のシーンを颯爽とこなすと、200ドルのボーナスを監督から受け取ったという。
▲〔フランク・キャプラ監督『ブロードウェイ・ビル』。ラルフはこの作品の馬上スタントとして活躍し、スターダムにのし上がっていった〕
このハリウッドにおける馬に乗るスタントマン生活が、彼に大きく影響したことは間違いないようで、いつしか彼は一つの夢を掲げて生きるようになっていた。それは・・・
「騎手になること」。
🟣壮絶な減量生活
しかし、騎手は体重が制限がある現実と直面し、ラルフは騎手となるべく、激しい減量を開始するのだった。
この時、ラルフの体重は60kg超。少なくとも12kgを絞らなければならい。
1930年代の主力騎手の一人は、丸1年間 (誇張ではなく、実際に12ヶ月) 卵だけを食べて過ごした (これも誇張ではなく、本当に実在した)。また別の者は、レース前夜にレタスの葉を2枚だけ食べたが、その食事すら気に病み、日光浴を行なって水分を飛ばすという予防策を取る程に入念な対策を施していたという。
減量生活の中、食事制限が運動をしても上手くいかない場合、彼らは下剤に頼った。そして、下剤ですらまだ不十分という場合、なんと言うことか。サナダムシが入ったカプセルを闇市場で購入して摂取し、寄生虫にまで縋る?寄生虫ダイエット?まで敢行する者も少なくはなかったという。
想像を絶する減量を潜り抜け、ラルフは夢を叶えることに成功する。
1934年、念願の騎手となり、初勝利を上げることに成功する。後の未来、1960年には、彼は米国競馬の殿堂入りを果たし、正式に史上最高の騎手の一人と認められることとなり、生涯で3,772レースに勝利する記録を打ち立てることになる。
しかし、そのキャリアは決して真っ平で真っ白な物ではなかった。勝つ為なら多少のリスク、他馬と他騎手への攻撃的騎乗も厭わず、「西海岸で最も罰金を科せられた騎手の一人」となった。6ヶ月の騎乗停止処分を受けたこともある。
そんなアグレッシブ過ぎる騎乗が祟ってか、ラルフは長年にわたって沢山の部分を骨折したり、押し潰されたり、時としては引き裂かれたり、損傷したりした事も多々。「腰から下が麻痺」し、頭部に損傷を負い、2時間半に及ぶ手術を受けなければならない程の重傷に瀕した時には、医師たちすらも絶望する程のダメージを負っており、生存の可能性は60%しかないとまで言われた。
騎手のキャリア中で、彼は「二度とレースには戻れない」と6回も言われたが、その言葉を全て乗り越えて復活してきた。
▲〔タンフォラン競馬場にて愛馬ブリークス号で勝利してオーナー・調教師との口取りに臨むラルフ・ネヴェス〕
その超越した事故の一つにもなっているのが、死亡事故となった、一件も含まれる。
その余りのタフネスさと強靭な精神力から、「骨折王子」という愛称が付けられ、ファンにも他の騎手からも一目置かれる存在となったラルフ。いつしか彼は、ジャーナリストやファンから?ピメンテイロ・ポルトゥゲス?「ポルトガルのペッパーメーカー」と異称で呼ばれ、畏敬の念を持って親しまれることとなっていく。彼がポルトガル移民の血を引いており、それでいて彼の荒々しく猛々しい騎乗パフォーマンスが、その二つ名の由来だ。
🔴1度目の「死」
1936年5月8日、ラルフはベイメドウズ競馬場で騎乗していた。その時、まだ弱冠19歳。
その週のレース(翌9日のレース)では、騎乗した全レースの総合順位がポイント制で出され、総合優勝者には賞金500ドルと賞品として金時計が用意されているとラルフは聞いていた。
また、その賞を贈呈するプレゼンターとして、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた歌手であり、俳優でもあるビング・クロスビー氏であった(後にビング・クロスビー氏は馬主に)ことも、ラルフを昂らせているようだった。
悲劇は第4レース、その日のラルフの騎乗鞍3鞍目で起きた。
このレース、ラルフは中団につけ前を行く3頭目掛けてスパートを掛けていたが、先行集団の1頭が故障を発生し、転倒。そこへスパートを掛けていたラルフの騎乗馬が猛スピードで疾駆。
前方の馬が転倒した事に動転し、混乱したラルフの騎乗馬は急停止。その反動によりラルフは空中へと投げ出され落馬した。
地面に激しく打ち付けられ、横たわるラルフ。そこへ後続の馬たちが急追して押し寄せ、最悪なことに、後ろから追い上げてきていた馬たちにラルフは踏みつけられてしまった。競馬場に控えていたドクター3名がラルフの元へと走った。
事態は最悪…絶望的な状況であった。ラルフはピクリとも微動だにせず、肺で呼吸をしておらず、心臓も止まっていた。
そこから15分間、3名の医師により懸命な応急措置が繰り返された。心臓マッサージ、人工呼吸を必死に続けた…しかし・・・
ラルフが息を吹き返す事は無かった。
▲〔心臓停止から15分が経過して何もしないと、助かる見込みはほぼゼロに近づく。救命措置を行っていたとしても、20分が経過すると、10%以下となる。ましてやラルフは病院搬送後までを見ると30分は悠に超過している。これを見てもラルフが助かる可能性はほぼゼロ%に近かったことが頷けよう〕
「死」を認知した3人の医師たちは競馬場の医務室へとラルフを運び、ベッドの上に寝かせた。
遺体となったラルフを病院へと搬送すべく、救急車が呼ばれる。
すでに事故発生から30分近くの時間が過ぎようとしていた。
病院へとラルフが運ばれ、「死亡」確認が取られたことで、競馬場のアナウンスからは
「ラルフ・ネーヴス騎手の死亡が告げられました。彼を偲んで黙祷を捧げます」
と放送がされ、競馬場で生還を願っていた、調教師や友人騎手たち、そして競馬場に詰めかけていたファンや記者たち全員が絶句して天を仰ぎ、またある者は首を横に振り、十字を切る者。中にはショックで悲泣、欷歔(ききょ)する者もいた。
その頃、病院では死体に施される処置が執り行われていた。看護師らはブーツを片方脱がせ、つま先に身分証明書を置き、体をシートで覆った。そうして、物言わぬラルフはある部屋に静かに運ばれた。遺体安置所であった。看護師たちは最後に神への祈りを捧げ、部屋を後にしていった。
🟠復活のアドレナリン注射
時同じくして、その日の夜、一緒に夕食を取る予定であったラルフの友人の医師ホレス・ウォルドさんはラルフの騎乗するメインレースを見届け、すべてのレース終了後に一緒にレストランへ向かう考えであった。
競馬場に到着し、これまで起きた事態を把握すると、ホレス氏はすぐに彼が運ばれた病院へと車を飛ばしていた。
目的地に到着するや否や、病院内へと駆け込み、遺体安置所を目指した。
ラルフとまさかの無言の対面。
死体を目の前にしても、今だに信じられなかった。ホレス氏は何を思ったか、鞄に手を入れると注射器を取り出し、ラルフの心臓へ直接アドレナリンを注射。
すると、信じ難い奇跡が起きた。
ラルフはカッと目を見開くと、立ち上がって走り出したのである。
ラルフ自身もここがどこか分かっていなかったが、ブーツは片足履いていて、上半身は裸も下はズボンを履いている。
「競馬場に向かわなくては」という強烈な焦燥感と強迫観念に襲われ、彼は走り続けた。
そのシーンはまさにコメディーシーンそのままであったという。
医師や看護師は、その現実に信じられれずも彼を必死に追いかけて行った。
ラルフは病院を抜け出し、駅を目指して走り続けた。走り続ける最中、彼の友人であるタクシードライバーの車が偶然にも通り掛かり、ラルフは友人を呼び止めて車へと乗り込み、競馬場を目指した。
ラルフの死に、悲哀に暮れるベイメドウズ競馬場へ死んだご本人が到着。ラルフは友人への礼も一言、猛スピードで車を降り、競馬場の扉を駆け抜けた。その頃、競馬場では騎手仲間たちが、彼の死を悼み、遺族への寄付金を募っている所であった。そんな中、死んだはずのラルフが猛然と駆け抜け、トラックへと飛び出していった。本気で「幽霊」と思った者もいたというが、当然だと思う。
ラルフは自身が落馬した位置まで辿り着くと、全てを察したかのようにその周囲を見つめ、気を失った。
医務室で意識を取り戻したラルフは、すぐにでもレースに乗りたいと医師たちに懇願した。
医師たちは彼の体を検査し、骨折などが無いことを確認。信じ難い事に、彼の身体は正常な状態に戻っており、レースに臨むにあたり問題ない事を確認出来たという。最終レースを残していたが、流石にその日の騎乗は取りやめるようラルフを諭した。
しかし、翌朝、土曜日のレースには臨んでも問題ないとゴーサインを出したのである。
そうして、次の日のレースに、彼は一度「死んだ」と医学的に宣告されたに関わらず、翌日のレースに出走したのであった。
たとえ死んでいなかったとしても、激しく地面へと叩きつけられ、複数頭の馬たちに叩き蹴られた直後というのに、普通に騎乗して彼は総合優勝を果たしてしまった。この日のラルフは1着になることは出来なかったものの、全レースで2着か3着に好走し、総合ポイントで首位に立ったのであった。ラルフは、ビング・クロスビーから優勝賞金の500ドルと金時計を授与され、憧れのプレゼンターと固く握手するのであった。
▲〔1936年、5月11日の新聞の一部記事。ラルフの死亡事故から翌日の騎乗を、“Back to Life”と上手い表現で綴られている〕
▲〔こちらは1936年5月10日の新聞の一部記事。その見出しは“Dead Jockey still rides”「死んだジョッキー乗り続ける」〕
▲〔競馬場にて二人の息子と語らうラルフ・ネヴェス〕
🟡幸運仕掛けのNEVESナンバー
俄には信じ難い信じられない、死からの「奇跡」の復活劇。
彼は一度死んで蘇ってからというもの、
よくこんな事を言っていたという。
「私の名前を反対から読むと何か分かりますか?NEVES・・・?7?セブンですよ」
「私にとって幸運の数字です。神ですら私を殺すことはできません。神様はすでに「それ」を試しました。結果どうです?」
その1度目の死亡から数十年の時が流れ、1995年7月7日、彼が崇愛したお気に入りの数字が重なった日、“ポルトガルのペッパーメーカー”はカリフォルニアにある老人ホームで亡くなった。肺がんと深刻な心臓疾患を患っていたという。
2度目となる死亡。1度目の死が宣告されてから、実に59年もの月日が経過していた。
死亡したに関わらず、奇跡的に蘇った彼をそこまで競馬場へと突き動かしたの「もの」は、果たして何だったのであろうか。
彼の1度目の死から90年近く、2度目の死から30年近くが過ぎた今もそれは謎のままである。
とある「2度死んだ」騎手の世にも奇妙な物語。
【参考文献】
・The Courier-Journal Louisville, Kentucky · Monday, May 11, 1936
・Lubbock Avalanche-Journal, Texas · Sunday, May 10, 1936
・https://observador.pt/especiais/o-pimenteiro-portugues-morreu-duas-vezes-e-ressuscitou-uma/
・ Interview with Jason Tougaw, grandson of Ralph Neves.
・Jason Tougaw, “The Golden Gate”, published on the “Californica” blog on January 21, 2012; “My grandpa was a tiny party. The photos prove it”, published on February 17, 2012; and “You Can't Kill the Portuguese Pepper Pot”, published on May 21, 2012.
・Laura Hillenbrand, “Seabiscuit”, Harper Perennial, London, 2007.
・Barbara Mikkelson, “Jockey Shorted”, published on the Snopes website a April 19, 2009.
・Bill Christine, “Long Ride Over for Jockey Neves: Horse racing: Declared dead after a race, he dies of cancer 59 years later”, published in the “Los Angeles Times” on July 8, 2005 .
・Brian Cronin, “Did jockey Ralph Neves die in a race accident and come back to life?”, published in the “Los Angeles Times” on June 6, 2012.
・Dwight Chapin, “A Resurrection”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on April 29, 1999.
・Mike Brunker, “Portuguese Pepper Pot defied death to ride on”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on January 22, 1995.
・Ryan Whirty, “Jockey Ralph Neves ' strange tale”, published on the ESPN website on May 5, 2011.
・“Neves Remembered For Brush With Death”, published in the “San Francisco Chronicle” on July 10, 1995.
・“Ralph Neves”, published on website of the National Museum of Racing and Hall of Fame.
・“The Portuguese Pepperpot”, published on the Washington Racing Hall of Fame website”.
・“Neves Undergoes Brain Operation”, published in “The New York Times” on May 31, 1959.
・“Ralph Neves, 78, Hall of Fame Jockey”, published in “The New York Times” on July 10 1995.
【引用写真・イラスト元】
・The Courier-Journal Louisville, Kentucky · Monday, May 11, 1936
・Lubbock Avalanche-Journal, Texas · Sunday, May 10, 1936
・https://observador.pt/especiais/o-pimenteiro-portugues-morreu-duas-vezes-e-ressuscitou-uma/
・ Interview with Jason Tougaw, grandson of Ralph Neves.
・Jason Tougaw, “The Golden Gate”, published on the “Californica” blog on January 21, 2012; “My grandpa was a tiny party. The photos prove it”, published on February 17, 2012; and “You Can't Kill the Portuguese Pepper Pot”, published on May 21, 2012.
・Laura Hillenbrand, “Seabiscuit”, Harper Perennial, London, 2007.
・Barbara Mikkelson, “Jockey Shorted”, published on the Snopes website a April 19, 2009.
・Bill Christine, “Long Ride Over for Jockey Neves: Horse racing: Declared dead after a race, he dies of cancer 59 years later”, published in the “Los Angeles Times” on July 8, 2005 .
・Brian Cronin, “Did jockey Ralph Neves die in a race accident and come back to life?”, published in the “Los Angeles Times” on June 6, 2012.
・Dwight Chapin, “A Resurrection”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on April 29, 1999.
・Mike Brunker, “Portuguese Pepper Pot defied death to ride on”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on January 22, 1995.
・Ryan Whirty, “Jockey Ralph Neves ' strange tale”, published on the ESPN website on May 5, 2011.
・“Neves Remembered For Brush With Death”, published in the “San Francisco Chronicle” on July 10, 1995.
・“Ralph Neves”, published on website of the National Museum of Racing and Hall of Fame.
・“The Portuguese Pepperpot”, published on the Washington Racing Hall of Fame website”.
・“Neves Undergoes Brain Operation”, published in “The New York Times” on May 31, 1959.
・“Ralph Neves, 78, Hall of Fame Jockey”, published in “The New York Times” on July 10 1995.
・パブリックドメインQ「遺体のある死体安置所」
・Adobe stock「Faint hazy glow passing through a window onto a mortuary examining table. Generative AI」
・バイスタンダー(居合わせた人・発見者・同伴者)による心肺蘇生とAEDによる救命処置の重要性(多度津町ホームページ)
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〜月の降る街を翔けるニューオリンズ発
メロウナイト・ジャズR&B〜
ージャマイカの音楽と競馬を融合させた歴史的女帝ー
(写真提供:Heather Auguty)
父 マウンテンミュージック(ハイペリオン系)
母 ギルツ
母父 マヌチェフェル(フェアウェイ系)
生年:1963年
性別:牝
毛色:黒鹿毛(赤み掛かった褐色模様あり)
調教国:ジャマイカ
生涯成績:37戦14勝[14-8-6-9]
主な勝ち鞍:ジャマイカダービー、ジャマイカオークス、プレジデンツカップ、ノーフォークカップ他
■?Ska?と?スカ?
白昼の炎陽がジリジリとアスファルトを焦がし、陽炎となって都会の空気は焼け尽くされれていく。
どうしてそこまで怒りの放熱を延々と毎日続けられるというのか。
炎空には「ジリジリ」と歯軋りを立てるような、意地の悪い険悪な顰めっ面をした太陽が、人間たちを睥睨として浮かんでいる。
太陽氏がようやく怒りを鎮めて去っていく頃、彼にも優秀なアシスタントがいるらしい。
執事か秘書がいるのであろう。彼らは上手くタイミングを見計らって、まだ火照る吐息が絶えない地上へと、夜の帳を下ろしてくる。
熱射により灼け尽くされた都会の夜は、逃げ場を失くした風たちが街全体を包み、宵闇と共に重くのしかかっているような蒸し暑さが立ち込める。月の船も熱さから逃れるように、大きな三日月型となって高層ビルやタワーマンションの影に息を潜めているようだ。
とろけるような夜、高速道の喧騒の中、カリビアンなメロディーが流れてくる。メロウナイトジャズ。
ジャマイカンバー、高層ビルのジャズバー、そういった所から奏でられる旋律は、都会の夏の夜がよく似合う。
しっぽりと飲む酒と、心の銀線に触れるジャズのメロディーは、深い深い常闇の世界と融合するためのパスポート。
R&Bの独特なリズムが鼓動し、耳奥へと新世界をスプロールさせていく。
?Ska?の律動である。
Ska -スカとは、ジャマイカ発祥の音楽で、1950年代後半の米国のR&Bに影響を大きく受けたアップテンポな「シャッフルブルース」。有名なレゲエの前身となるミュージックスタイルであり、1小節につき8分音符の3連符(1拍に3つ音を鳴らす3連)で成り立っているリズムで、ギターチョップとオフビートが特徴的。
瞬く間にジャマイカンヤングの心を鷲掴みにしたSkaの流行はとどまる所を知らず、1960年代前半には競馬界にまでその余波は轟いた。
ジャック・デシャン氏(J. Deschamps)はジャマイカンミュージックをこよなく愛し、自身の所有馬で「これだ」と直感で感知した1頭の牝馬に?Ska?と命名した。この馬がまさか、音楽文化のSkaに同じくジャマイカの人々の心を掴み、鼓舞するカリスマへと成長を遂げようとは、まだ誰一人としてそのイマジネーションを五線譜へと落とす事は出来ようもなく、日々のメロディーは忙しくストリームして行った。
■?Ska?の成り立ち。?スカ?の生い立ち。
1950年代後半、世界を二分に分けた大戦の幕引き後、ジャマイカの人々はラジオから流れるニューオリンズ発のR&Bを聞き入り、心を震わせるその音色、旋律を自分たちの音楽で表現した。まさに魂のゴールデンメロディー。?今までにない音楽?を希求し、自分たちの独自のスタイルでR&Bを改良させ、?Ska?は生まれた。
ジャマイカンミュージックの成り立ちは近代になってからだが、ジャマイカにおける競馬の濫觴はそれよりもはるかに古い。
1718年、ジャマイカ総督の認可により最初の競馬開催が実現し、1783年には初の常設競馬場である公営キングトン競馬場が開場。
当時の競走馬の主体はサラブレッドの血が混ざったポロポニー。次第にサラブレッドの生産もはじまり、血統書の第1巻は1892年に刊行されている。そうして、1905年。競馬統括機関としてジャマイカジョッキークラブが創設。
各競馬場はジョッキークラブから認可を受けた法人組織によって開催されるようになっていく。
その各地の競馬施行団体の中で、最も有力となったのは、ナッツフォードパーク競馬場(1905年にキングストン競馬場から移転)の開催権を得たナッツフォードパーク社であったが、後発のジャマイカターフクラブ社が1934年にナッツフォードパーク競馬場の開催権を得ると、2社が競合する時代が続き、その過程の中で国内競馬の淘汰は進んでいき、6つあった競馬場も1960年代にはケイマナスパーク競馬場(1959年にナッツフォードパーク競馬場から移転)とリトルアスコット競馬場の2つに集約されていった。
1962年にジャマイカがイギリスから独立を果たすと、政府は競馬関連の法整備を進め、国内競馬の再編が一気に加速。
1967年にナッツフォードパーク社とジャマイカターフクラブ社が合併してケイマナスパーク社(現在のケイマナス・トラック社)が設立され、競馬場はケイマナスパーク競馬場の一ヶ所に集約。
そして1972年、ジャマイカ競馬委員会が設立され、ジャマイカジョッキークラブが担ってきた競馬統括機能がすべて移譲された。
【ジャマイカ三冠】
?ジャマイカ2000ギニー(ダ 1,600m)ケイマナスパーク競馬場
?ジャマイカダービー(ダ2,400m)ケイマナスパーク競馬場
?ジャマイカセントレジャー(ダ2,000m)ケイマナスパーク競馬場
【三冠馬】16頭
★モンクレアー(1924年)
★サラバンド(1926年)
★バイジョーヴ(1929年)
★マネームーン(1937年)※牝馬によるクラシック三冠馬。
★ジョージメタクサ(1939年)
★マークトゥエイン(1950年)
★ロイヤルダッド(1981年)※史上7頭目の三冠馬にして史上初の無敗三冠馬。
★マンデーモーニング(1987年)
★ルイチェープー(1988年)
★ザヴィセロイ(1989年)
★ミリグラム(1992年)
★ウォーゾーン(1996年)
★アイムサティスファイド(2000年)
★マークマイワーズ(2010年)
★シュプリームソウル(2019年)
〔ロイヤルダッド:1978年生。父バグダッド(テディ系) 母ロイヤルスノッブ 母父ロイヤルファーマー(ロイヤルチャージャー系)、牡馬、青鹿毛、生涯成績17戦13勝。ジャマイカ競馬史上初にして唯一となる無敗の三冠馬。ジャマイカ競馬の誇る伝説的名馬。無敗の11連勝を記録。レース直後の心臓麻痺により命を落とす。〕(写真元:Jamaica Observer)
〔マンデーモーニング:1984年生。父ポルナチェリー(ナスルーラ系)母ジェダル 母父ブルーフォーボーイズ(リボー系)、牡馬、鹿毛、史上8頭目となるジャマイカ三冠馬〕(写真元:Jamaica Observer)
〔ミリグラム:1989年生。父エキゾチックトラベラー(ボールドルーラー系)母ミルブルック 母父ミルフォード(ネヴァーベンド系)、ジャマイカ競馬史上11頭目の三冠馬〕(写真元:Jamaica Observer)
1987年、1988年、1989年と三年連続でクラシック三冠馬が誕生。
これは他ではフィリピン、ケニア、ノルウェー、ドミニカ共和国で記録されている。
【ジャマイカの偉大な名馬たち】
この場を借りて、ジャマイカ競馬の誇る、三冠馬以外の名馬たちを紹介しておきたい。
?Legend Legacy?
ノンサッチ
[ノンサッチ:1963年生。栗毛。父バリープレシャス、母ベリンダ、母父アベンジャー。ジャマイカ競馬が見た史上最強の騸馬であり、史上最強馬の一頭にも論考される名馬である。ジャマイカ土着の血統馬でありながら強力無比な輸入馬たちを圧倒し続けた。生涯成績82戦28勝。2歳時からその異才を発揮し、8戦8勝。2歳チャンピオンとなり、3歳時もその強さに陰りなくクラシックチャンピオンともなった。騸馬というと遅咲き、古豪のイメージもあるが、この馬は最初からそのポテンシャルを全開させていた。](写真元:Jamaica Observer)
レーガルライト
[レーガルライト:1974年生。栗毛。父エレメント、母ポリティア、母父バーバー。生涯成績53戦27勝。ノンサッチと並んで称え崇愛されし伝説の名馬。1978年、1979年と2年連続で年度代表馬に選出され、1982年に引退する際には全てのステークス競走を制していたという。その主な勝ち鞍としては、ジャマイカダービー、ジャマイカセントレジャー、レッドストライプスーパーS(2回)、プライムミニスターS(3回)、ジャマイカエクリプスS、レオデリッサー・メモリアルカップ(2回)他。](写真元:Jamaica Observer)
ジャマイカ競馬史上最強スプリンターマイラー
アキングイズボーン
[アキングイズボーン:2000年生。生涯成績27戦21勝。“エクセレントスプリンター”と呼ばれ、年度代表馬はもちろん、チャンピオンマイラー、チャンピオンスプリンター、最優秀古馬にも選出されている。しかし、距離適応の万能性が非常に高く、中長距離戦もこなした歴史的名馬である。主な勝ち鞍として、ジャマイカダービー、ディジC、シーズオンホイールズトロフィ、レゲートロフィ、ロットスプリントトロフィ、チェアマンズトロフィ、レッドストライプスプリント、200ギニー、クレードルSなど。](写真元:Jamaica Observer)
【ジャマイカ競馬真史上最強?2歳馬】
プリンセスポップスター
〔2011年生。生涯成績4戦4勝。ジャマイカ競馬へと降誕したスーパーアイドルスター。類稀なる身体能力と神懸かったスピードに全てのファンが見惚れ崇愛した程の名馬。ジャマイカ競馬で史上唯一2歳で年度代表馬に輝く。2歳で年度代表馬になったのは世界でもあのセクレタリアトと英国のプロヴィデオ。ポーランド無敗の三冠馬ヴァバンク、そしてこのプリンセスポップスターの、4頭のみ。全戦ぶっちぎりの大楽勝で持ったまま直線だけで手綱が微動だにせぬまま超加速し大差引き離してのパファーマンスは刮目、驚愕に値する。言わば「ジャマイカ版・女トキノミノル」と言ったところか。故障でクラシックを棒に振るも、トリニダードへ渡りオークスに圧勝。その後、再び休養に入るも、疝痛のため絶命する〕(写真元:Jamaica Observer)
Skaの再来?
魔法少女
シンプリィーマジック
〔シンプリィーマジック。1999年生まれ。ジャマイカクラシック史上最高のパフォーマンスを残した歴史的名牝にして、西インド諸島史上最強級牝馬。12戦9勝。オーナーブリーダーであるデヴィッド=ヴィラー氏の目に掛かり、ジャマイカの地にて愛育を施され、フィリップ・ファーニー調教師に愛鞭を振るわれ鍛えられた。ジャマイカ2000ギニーを除くクラシックを完全制覇。ジャマイカ1000ギニー、ジャマイカオークス、ジャマイカダービー、ジャマイカセントレジャーすべて圧勝、楽勝、快勝の連続であった〕(写真元:Jamaica Observer)
★★【ジャマイカ最多勝馬】★★
1位 ナサトール
生涯成績123戦36勝[36-13-21-53]
(写真提供:Facebook 「Nasatol」)
2位 マスターブラスター
生涯成績121戦34勝[34-34-11-42]
3位 エロス
生涯成績42戦29勝[29-5-5-3]
ジャマイカ競馬史上最強
最速・最高の短距離馬
エロス
[エロス。1988年生。生涯成績41戦29勝。2着4回、3着2回。ジャマイカ競馬が見た歴代最高の短距離馬と言われるのがこの馬である。CTLカリビアンスプリントチャンピオンシップ5勝(1991〜1994年まで四連覇。1996年に競走生活復帰後にも優勝)はダントツの史上最多勝であり、レッドストライプスプリントも4勝、ベンソン&ヘッジスゴールドカップ、チェアマントロフィ2回と実績でも史上最高の勲章を重ね上げた。そのスピードもすさまじく、5Fで56秒4、6Fで1:08.4というトラックレコードをマーク。驚くべきことに1,000m、1,200m、1,300m、1,400mすべてでレコードを保持していた。完全なスプリンター特化という訳でなく、1,800m近辺の距離までならカバーしており、1,830mの1:50.0という、強烈なレコードタイムも記録している。ジャマイカ競馬の殿堂入りも果たしており、ジャマイカ競馬の関係者、評論家、ファンが一同にこれまでに見た最高のスプリンターはエロスという結論は揺るぐことの無い、不変の解答となっている。しかし、不運にもエロスは去勢されてしまっており、その類稀なる天性のスピードを後世へと継承することは叶わなかった]
(写真元:Jamaica Observer)
4位 パックストカム
生涯成績105戦28勝[28-25-18-34]
5位 リトルドラゴン
生涯成績149戦28勝[28-19-11-91]
6位 ホログラムシャドウ
生涯成績108戦28勝[28-13-18-49]
7位 サティスフィアー
生涯成績128戦27勝[27-19-19-63]
8位 レーガルライト
生涯成績53戦27勝[27-12-7-7]
(写真元:Jamaica Observer)
9位 アンブレーカブル
生涯成績105戦26勝[26-20-14-47]
10位 ダブルドキャッシュ
生涯成績109戦25勝[25-24-16-44]
【ジャマイカ史上最多出走馬】
?203戦?ロングショット
生涯成績203戦[14-31-19-139]
〔ロングショット:1958年生。父ヘアアパレント(ゲインズボロー系)母ショットオーヴァー、ロングショット号は1969年のとある土曜日。Eクラス6ハロン戦に出走した際、コンバットという馬と衝突し、肩骨を粉砕骨折し命を落とした。11歳まで走り、203戦のレースでのことだった。ジャマイカ史上最多出走記録を打ち立てた名馬であった。パイオニアズのSkaの名曲「Longshot Kick De Bucket」のモデル、本馬であり、ロングショットトロフィーというレース名でその名を現世へと残している〕(写真提供:Heather Auguty)
次位
?165戦?ラッカス
生涯成績165戦[23-35-28-79]
Skaの到来、流行の最盛期に同じくは最盛期を迎える事になるスカは、1963年に生まれる。
1960年初頭は、全世界で史上最強最高クラスの、その国を代表する歴史的名馬が誕生していった年代でもある。
フランスではシーバード、リライアンス、ダイアトム。
日本でシンザン。カナダでノーザンダンサー。
米国でトムロルフ、バックパサー、ドクターフェイガー、レイズアネイティヴ、ダマスカス。
南アフリカはシーコテージ、ハワイ。
ソヴィエトでアニリン。
ハンガリーでインペリアル。
パキスタンでモントルー。
ニュージーランドでライトフィンガーズ。
アルゼンチンでフォルリ。
その滔々と流れし名馬の潮流に乗って、ジャマイカへと降誕したのがスカだった。
父マウンテンミュージックは、英国産馬で34戦9勝の成績を英国で上げた。
英国競走馬としては、一介の実力馬…GIには手が届かないが能力を秘めた重賞級馬。
そんなお世辞には一流とは言えない評価の馬ではあったが、ジャマイカへと渡り、その秘めたポテンシャルがジャマイカにおける風土、競馬にマッチングし、1961, 1963, 1967, 1968年と4年間のリーディングサイアーに輝き、ジャマイカにおけるギニー勝ち馬であるカンダハール、ロンズデール、ジャマイカオークス勝ち馬のクレスタラン、シンフォニーといった活躍馬を続々と送り出し、ジャマイカ競馬の殿堂入りまで果たしたのである。
その決定打となったのが、本馬スカの存在であった。
スカは1963年、ジャマイカに降誕。母ギルツはオーナーであるジャック・デシャン氏が英国から輸入した牝馬であり、デシャン氏の経営する牧場にやってきて、先にジャマイカへ渡っていたマウンテンミュージックと交配させることでスカは誕生した。デシャン氏期待の牝馬であった。
明らかに、これまでデシャン氏が手懸けてきた馬とは異なる才能の煌きを、スカは度々垣間見せていた。
デシャン氏は大の音楽好きであり、母国ジャマイカの魂を揺さぶるソウルミュージックであるSkaを取り分け愛聴した。心沸き踊るリズムと旋律。その存在そのものと捉えられたのがスカであった訳である。
もはや一点の迷いもなく、デシャン氏は大望を寄せる愛娘であるこの馬に、?スカ?と命名した。
■月の降る街
スカは毛色は黒鹿毛であったが、褐色掛かった特殊な毛色であったという。
青鹿毛のようにも映る馬体は、夜の競馬場の光を浴びると、炎熱の紅色の燐光を放った。
ナイトレースで圧巻楽勝の3連勝。キャンターでぶっちぎりの3連勝で、「これはとんでもない馬が現れた」と競馬場界隈では彼女の話題がひっきりなしに続いていた。
スカの調教に携わったのは、新進気鋭の調教師ボビー・ヘイル氏。
この馬を送り出すに当たっては特に自信を持って競馬場へ連れてきていたという。
深い暗闇の天海に浮かぶ月が、ムーンライトでカンテラのように街を照らす頃、スカが競馬場へと姿を見せる。
月光の降る街を通り抜け、淡い闇が風となって吹き抜けていくようにゴール板を疾駆する。
ナイター開催の3連勝は魔法仕掛けのように時を進ませ、スカは生まれ育つその国に流れる最盛期を迎えようかという流行曲と共に、人々の記憶に刻まれる存在へとストリームしていく。
そうして迎えたボクシングデー12月26日、祝日の夜、開催となったこの年の最後の競馬開催。
ナーザリーH(ダ1,600m)にスカはエントリーしていた。今回も相手になるような存在は皆無で、キャンターで3馬身差突き放し、大楽勝。ジャマイカの2歳王者としては絶対的不動の存在になった事をそのモーションで高らかに宣言した。
競馬場へと詰めかけた2万人をも超えるファンは、Skaのビートで手を叩き、競馬場は祝筵のようなムードに包まれた。
後日、スカは無敗の2歳王者として文句なしに選出を受けている。
その当時のSkaミュージックの火勢、盛況ぶりは競馬界にも大きな影響をもたらしている。
スカの命名に始まり、ジャマイカ競走馬調教師協会 (JRTA)の当時の会長を務めたヴィンセント・エドワーズ氏は、政治家と調教師を49年間も兼任した偉人でもあるのであるが、?キング・エドワーズ?の名でジャマイカ音楽に精通し、一大レーベルを築いている。
また、ランキング・ロジャーによってカヴァーされたレオン・ウィントの「Race Horse Touter」や、デリック・モーガンとネビル・ブラウンの「Horse Race」など、馬や競馬に言及したSKaの名曲は長年にわたり数多く存在している。
中でも、競走馬についての最もよく知られた曲は、パイオニアズの名曲「Longshot Kick De Bucket」、「かわいそうなラメセス」の2曲であるとされている。
〔パイオニアズの名曲「かわいそうなラメセス」のモデルとなった馬、ラメセス。ラメセスは1968年の年度代表馬。ジャマイカ2000ギニーとダービーを勝った名馬であり、ジャマイカ競馬の殿堂入りも果たしている。1969年の9ハロンのレースに大本命で出走時、71.6kg(9ストーン71ポンド)もの酷量を背負い、2着入線後、突然死してしまう。生涯成績25戦9勝であった〕(写真提供:Heather Auguty)
■Skaと共に。ファンの記憶の五線譜に。
3歳を迎えると、スカのカリスマ性はより神格化されたものとなっていき、ジャマイカダービー、ジャマイカオークスを圧勝で締め括ったパフォーマンスを持って絶頂を迎える。時同じくSkaはジャマイカのソウルサウンドと表現しなければ場違いである程にジャマイカへと浸透し、彼らのほとんどが耳にして虜になった。
1962年、英国からの独立を祝福する気運と共に広まり、ジャマイカの人々の心に共鳴、フュージョンしていったSkaは、国民的ポピュラーミュージックの座を不動のものとし、レゲエへと進化していく。
スカもまた同じく、Skaと共にあった。英国で生まれた両親から独立し、ジャマイカ競馬ファンの心へと溶け込み、ラジオから流れる中継は、ニューオリンズ発のR&Bのようにファンの心を惹き寄せた。
古馬も含めた最高峰のプレジデントカップも制し、文句なしに1966年の年度代表馬にも選出された。
やがて、今誰しもがジャマイカと聞いてイメージするレゲエへと、進化を果たしていくSka。
やがて、誰しもが忘却の彼方へと追いやられてしまった女帝スカの記憶。
あまりにも対照的2者のコントラストにしぐれる邯鄲の夢枕。
熱心な競馬ファンの心の譜面には彼女の記憶はさんざめいている。
月の降る街を翔けた、溶けるようなニューオリンズ発メロウナイト・ジャズR&B。
スカの記憶よ、旋律よ、宙の彼方の五線譜に貴方のキオク(メロディー)よ永遠にーー。
【参考文献・イラスト写真引用元】
・Diezfurlongs.com
・Jamaica Observer ?All-time leaders number of races won?
・Jamaica gleaner
・Skabook.com?A horse named Ska?
・『奇跡の名馬2』「ロイヤルダッド」(2019年、大岡賢一郎)
・『奇跡の名馬2』「ブルースオンザルース」(2019年、兼目和明)
・『Mizonote』「【ラテン音楽】スカ(Ska)とは?」(Mizon)
・Illust AC イラレア様
・イラストフリー素材集
・Facebook 「Nasatol」
・Chichipui なつのとびら様
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〜「いのち」の為に?命?を賭した人と馬たち〜
貴方はこの写真を見て何を思うだろうか。
高く聳える飛び込み台から眼下に広がる大海原へと
ダイビングしていく馬。
その馬には人がしがみ付いている…
これはかつて本当に行われていた、人を集めるための興行
?ハイダイビングホース?。
実際には海ではなく、プールへと飛び込んでいくのだが、どちらにせよ常軌を逸した挑戦である。
現代では決して認可、理解をされないようなエキセントリックなエンターテインメント。
その裏には生きるためにダイビングに挑み続けた人と馬の知られざる人生と馬生、そして尊き想いがあった。
■?ダイビングホース?の始まり
「人が飛び込むだけではつまらない」
そんな突拍子もない考えからこの企画は立ち上げられた訳ではないことを最初にお伝えしておく。
切っ掛けはひょんなことからであった。
「人馬の飛び込み挑戦」の発案、創始者となったのは、ウィリアム・フランク・ドク・カーバー氏。
カーバー氏は1881年ある日、ネブラスカ州プラット川に掛かる橋を馬に乗って渡っている際に、橋が朽ちていたためか崩落、半壊してしまい、橋から馬と共に川へと落ちてしまう。その際、このシーンが深く脳裏に焼き付いた彼は、人馬による飛び込みをインスピレーションさせ閃いたという。
〔ダイビングホース発案・創始者であるウィリアム・フランク・ドク・カーバー氏。狙撃の名手でもあった。1851年5月7日 - 1927年8月31日。〕
〔ネブラスカ州を流れるプラット川〕
カーバー氏は、馬を調教し、飛び込みの芸を覚えさせていく。
最初の舞台となったのは、カーバーの自伝によれば、1894年8月、ミズーリ州カンザスシティにおけるショーで初の試みとなるダイビングホースを行ったと記されている。これが大盛況を呼び、カーバー氏は2つのダイビングチームを立ち上げ、各地を練り歩いてショーを展開させていく。その後、カナダはトロントのハイランズポイント遊園地を最初のメッカとして興行を行っている。
この時代、1800年代はまだホースダイビングショーが問題視されるようなことはなく、カーバー氏の働きかけでメジャーなショートして人々に認識されていた。
〔カーバー氏主催のダイビングホースショーの広告〕
まだこの時、人は乗って飛び込みをしていなかった。飛び込み台を組み立てたのは、彼の息子であるアル・フロイド・カーバー氏。
最初のダイビングホースライダーとなったのは、ロレーナ・カバー(カーバー氏の娘)であったという。
〔カナダ・トロントで行われていたダイビングホース。1907年の写真と言われる〕
〔飛び込むロレーナ・カバー(カーバー氏の娘)女史。この頃はまだヘルメットの装備もなく、服装も普段着で、水着でもなかった〕
▲〔こちらの風刺画をクリックするとダイビングホースの映像へ飛びます!〕
■スーパースター・ダイビングガール
?ソノラ・ウェブスター?
人も馬も、当然危険がない訳ではなかった。
1907年の2月17日には18歳の若者、オスカー・スミスがダイビングホースにチャレンジし、死亡。
この時、馬は無事であったが、決して馬にもリスクは小さいものではなく、1927年の夏には、カーバー氏の愛馬がオマハにて太平洋へ飛び込み溺死してしまっている。
この愛馬の死が余程ショックであったらしく、1927年8月31日、カリフォルニア州サクラメントにて生涯を閉じている。
カーバー氏の死後、ダイビングホースの主導、指揮を取ったのは息子のアルバート(アル)・フロイド・カーバー氏。
そして、ダイビングホースのメインとなるダイビングジョッキーとなったソノラ・ウェブスター女史。
ソノラは、ダイビングホースのスタッフとして参加していたのだが、アルと恋に落ち、結婚。
その後はダイビングガールとして、ダイビングホースの顔となって活躍した。
〔ソノラ・ウェブスター・カーバーと愛馬レッドリップス〕
飛び込み興行の最盛期、最も人気を博した舞台となった地は、
米国はニュージャージー州アトランティックシティーのスティールピアーという海沿いの遊園地であった。
飛び込み台の高さは15mのものが設けられた。
プールの深さは11フィート(約335cm)であったという。
〔スティールピアー遊園地〕
ソノラは15歳で初めてダイビングホースを経験し、
19歳からスティールピアーでのダイビングガールを務めた。
その後、7年間飛び続け、このスティールピアーでのダイビングホースは大変な人気を博し、
人をアトランティックシティへと集める呼び水となっていた。
いつしか、?スティールピアーと言えばダイビングホース!?
と呼ばれる程になっていた。
ショーはなんと週7日、1日に4回〜6回のペースで行われていたという。
廃止までの全開催年において、馬の怪我は1件も無かったが、
騎乗者の怪我は1年で平均2件、打撲や骨折が報告されている。
見た目以上に怪我が少ないと言えるが、それはしっかりと
準備と練習を行い、馬を熟知信頼していたがゆえの少なさと思う。
順風満帆にも思えたソノラとダイビングホース興行であったが、1931年に思わぬ悲劇に見舞われる。
愛馬レッドリップスといつものようにダイビングホースに臨んだソノラであったが、ジャンプ後に体勢を崩してしまい、顔面から目を開けたまま水面に衝突。網膜剥離となってしまい、最悪なことにソノラの目は光を失ってしまった。
失明してしまったソノラであったが、なんとそれにも関わらず馬と共に飛び続けたというのである。
ソノラは盲目のままダイビングホースを続け、その後20年間も飛んでいたという。
にわかには信じられない精神力である。
〔スティールピアーにてダイブするソノラとレッドリップス号のカラー写真〕
〔無事にダイビングショーを終えた後、観客にアピールするソノラ〕
〔大抵の人間は普通にこの高さから飛び降りるだけでも、恐怖で耐え切れない。想像してみてほしい。しかも馬に乗ったまま飛ぶのだ。空中での姿勢維持も難しい。着水の瞬間の受け身も大事。しかし、その恐怖の向こうにある爽快な光景は、飛んだ者にしか得られないものであろう〕
〔着水の瞬間を映した1枚。〕
ダイビングホースのスーパースターガールであるソノラも1942年、38歳の時に引退。
さらには、第二次大戦後、動物愛護団体が動物虐待の懸念がある行為であると、ダイビングホースへ矛先を向け、意見、否定、揶揄し、廃止を呼び掛けたことにより、徐々に飛び込み興行の人気は後退していく翳りを見せ始めた。
しかし、そんな中でも『スティールピアーハイダイビングホース』は、1970年代後半、スティールピアー遊園地が閉鎖となるその日まで継続された。もはや、ダイビングホースはスティールピアーの日常的光景の一つになっていたのだった。
▲〔こちらの画像をクリックすると伝説のソノラ・ウェブスターのDiving horseの映像へ!〕
■Diving for?Life
1994年、スティールピアーの地にてダイビングホースが復活。
この時は動物愛護団体の目を意識してか、人が騎乗せず、飛び込み台の高さが12mに低くされ、
プールも122cmの小規模なものとなって蘇った。
しかし、すぐに廃止に追い込まれる。
〔1994年に再開されたスティールピアーダイビングホース。ポニー、ラバが小さな飛び込み台からジャンプする〕
復活前…最後のスティールピアーダイビングホースの開催を支えた名馬2頭がいる。
黒い馬体のガマル号と白い馬体のパウダーフェイス号である。
飛び込み上手で大変な人気を博した2頭であった。
〔スティールピアー最後のダイビングホースの名馬として知られるガマル号。光り輝く黒鹿毛の馬体であったという〕
〔同じくスティールピアー最後のダイビングホースの名馬パウダーフェイス号。白い馬体で多くのファンから愛された。〕
廃止が決まると、人は職を失い、馬も廃用となる。
飛び込み業を生業としていた馬、競走馬としては当然として、年齢も重ねていたことから乗馬に回すのも難しい。
噂としては犬の餌として屠殺へ回されたという話がある。
どこかで聞いた話である。
競馬も同じではなかろうか。
今も記憶に新しい、地方競馬場の廃止。
人が職を無くし、馬は屠殺場へ回される。
ソノラも、創始者のカーバー氏も、それを恐れていた。
仕事を失っては多くの命が失われることを。
命を支えるために、ソノラは飛び続けていた。
それが盲目でも飛び込み続けた最大の理由…
だったのではなかろうか。
ソノラは自身の綴った著書の中でもこう語っている。
「カーバーは馬を愛していました。寡黙で厳格な人でしたが、誰よりも馬を愛しており、馬には最大限の敬意を払うよう教えられました」
またこうも語っている。
「馬たちは決して強制的に飛び込まされていたのではく、飛び込むことを楽しんでいました」
(馬も本当に嫌なことは必死で拒否するので、これは単なる言い逃れではないと思う)
〔ガマル号は1980年、彼のファンに引き取られ一命を取り留めていた。1989年に虹の橋を渡る〕
光を失ったソノラ・ウェブスターは、ダイビングガール引退後、72年間も盲目で生きた。
2003年9月20日、99歳でその生涯を閉じる。
彼女は自伝として『少女と5頭の勇敢な馬たち』という本を書き、1991年には彼女の生涯をモデルとした『ワイルド・ハーツ・キャント・ビーブロークン』という映画が作られている。
そして、ダイビングの舞台となったスティールピアーは、大統領も務めた渦中の不動産王ドナルド・トランプ所有の遊園地として栄え、過去のダイビングホースを知る由もない観光客で賑わっている。
ソノラ・ウェブスターは偉大なダイビングガールである。
光を失っても、心の中の希望の灯火は決して消さなかった。
ダイビングホースという興行を取り巻く人々…ダイビングガール、調教師、スタッフ、
そして携わってくれた馬たちの生活を守るため、命のために命を賭して飛び続けたのである。
ダイビングホースは失われてしまったが、競馬を取り巻く環境も同じことが言えなくはなかろうか。
命を賭して走り続ける馬と騎手に、我々ファンも敬意を払い、生きていかなくてはいけないと思う。
ソノラ・ウェブスターがダイビングを続けることで訴え続けていた笑顔の裏にある真のメッセージを後世に伝えていくためにも。
✨オ・マ・ケ✨
【参考文献・写真引用元】
・Amusing Planet「The Diving Horses of Atlantic City」
・SRBIJA DANAS「背中に女の子を乗せた馬が15メートルの高さから小さなプールに飛び降りた」
・Vidette-Messenger of Porter County Valparaiso, Indiana, Wed, Jan 09, 1980 · Page 31
・Courier-Post Camden, New Jersey, Fri, Apr 27, 1990 · Page 77
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Wed, May 23, 1990 · Page 20
・Tampa Bay Times St. Petersburg, Florida, Mon, Jun 03, 1991 · Page 48
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Thu, Jun 20, 1991 · Page 58
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Tue, Jul 30, 1991 · Page 15
・The Billings Gazette Billings, Montana, Sat, Jun 26, 1993 · Page 5
・Port Charlotte Sun Port Charlotte, Florida, Sun, Sep 12, 2021 · Page D9
・Wikipedia「Diving horse」
・Wikipedia「Sonora Webster Carver」
・Wikipedia「William Frank Carver」
・Youtube 『The Bizarre History of Horse Diving』
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【銀座ヴァーミリオン】
(写真・イラスト引用:銀座ヴァーミリオン様。店長様のご許可を頂いて使わせて頂いております)
7月某日、銀座にある競馬バー、『GINZAヴァーミリオン』様へお邪魔させせて頂きました❗️
今回はこちらのバーのご紹介コラムとさせて頂きます✨
上記画像をクリックで、各種お店のSNSへアクセスできます!
【店舗コンセプト】
〜「どんなお店なの?」〜
東京23区でも最も華やか夜を彩る中央区・銀座にある、
「大人の競馬バー」。
『ウマ娘』を意識した可愛い女の子の接客で盛り上がるお店・・・という系統のお店ではなく、
正統派のバーで、お洒落で大人の雰囲気ある、落ち着いたムードで競馬好きの方同士がゆっくりと語り合える「隠れ家」的バーです。
都会の夜、しっぽりと競馬を、名馬を、乗馬を馬を語り合いたい…そんな方にぴったりのバーです❗️
店長はイケメンのバーテンダーで、
好きな馬はダイワスカーレット。
元々はダイワスカーレットをモチーフにお店の名前も決めたかったそうなんですが、彼女の名前がどうにも競馬バーにしっくり来る馬名ではなく、同じスカーレットインクの系統を継ぐ、
ヴァーミリアンにスポットライトが!
ヴァーミリアンの父は店長様が最強馬と信じるエルコンドルパサーでもあり、これも何かの縁と、少し馬名を捩り、?ヴァーミリオン?とした…というのが、店名秘話。
〔店長様の大好きな愛馬ダイワスカーレット。12戦8勝2着4回。連対率100%のまま引退した日本競馬史上最強級牝馬の1頭。ウオッカの、最大にして最強の宿命のライバル。2頭が牽引した2007年クラシック世代は?史上最強牝馬世代?として広く知られる。『ウマ娘』により、2頭の人気も再燃。2頭が火花を散らした2008年の天皇賞・秋は日本競馬を代表する伝説の名勝負の1つとして今も競馬ファンの間で語り継がれている〕
私の競馬への切っ掛けは、『ダビスタ』でした。
なんと店長様も切っ掛けが一緒!とのことで意気投合。
色々と話し込ませて頂いてしまいました😅
【アクセス・店舗入口】
(上記、ヴァーミリオン様のインスタグラムより引用)
↓この油そば屋さんの右隣のビルがバーのあるビルです!
【店内の様子】
〔メインカウンター。テーブル席も2つ。〕
(全て筆者撮影。お店、店長様のご許可を頂いて撮影しております)
〔お店に入ってすぐのお店の名刺・アルコール置きの装飾台〕
〔こんなに沢山のお酒がっ!お酒好きな方には堪らんのではないでしょうか…😅〕
〔拙著『奇跡の名馬』『奇跡の名馬2』も店長様のご好意で店内に置かせて頂きました!〕
〔テーブル席と壁に掛けられた馬の写真の数々。カップル、ご夫婦での来店もテーブル席でゆっくりと。もちろんカウンターでも楽しめそうですね✨〕
〔馬の関係あるボトルも多く見受けられました。馬好きにはたまりませんね✨〕
【🍹注目のメニュー!🍷】
このお店の最大の売りは、?カクテルホース?。
英雄ディープインパクト、カリスマ女帝ウオッカ…といった伝説の名馬から『ウマ娘』でも大活躍のあの名馬まで!
もちろん店長の愛するダイワスカーレット、ヴァーミリアンらもスペシャルカクテル名で登場❗️
大好きな名馬のお酒で楽しく酔いましょう❗️😊
(楽し過ぎての飲み過ぎ注意!!)
名馬の名前のカクテル数はかなり多かったです。
私が今まで訪れた競馬カフェバーの中でもダントツかつハイクオリティなお酒の数々とお見受けしました!
(筆者、下戸なので説得力皆無wwすいません🙇♂️でも、豊富な種類は間違いなく必見!)
そして、な、なんと!
「お好きな馬をご指定頂ければ、その馬をモチーフに
貴方だけの特別な一杯をご提供」
とあるのです!
つまり、メニューに自分の推しウマが残念ながらいなかった・・・という場合、オーダーして飲めちゃうんです!!
これはお酒好きな競馬ファンには最高の贅沢なのでは⁉️😅
意外な競馬関係者の方とも偶然ばったりなんて事もあるかも⁉️
ぜひぜひ皆様、遊びに行ってみてくださぁ〜い❗️😆
(Tokio de noche | ©Takashi Miyazaki)
【店舗データ&アクセス】
〜モノモウタアパの神仏混淆〜
ージンバブエ競馬史上最強最高、
超神速の駿天スプリンターー
父 ディヴァインキング(プリンスリーギフト系)
母 クリサンセマム
母父 ロンバード(テディ系)
生年:1980年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:ジンバブエ共和国
生涯成績:17戦15勝[15-2-0-0]
主な勝ち鞍:BAセールスS、オーナーズ&トレーナーズチャンピオンジュヴェナイルS、ナーサリーS、グレンライアートロフィ、ギニートライアルS、シェルコンサーベーションギニー、BPコンサーベーションギニー、ボロウデールSなど
【血統表】
■?八幡スプリント?
まだまだ夏は遠い先だと言うのに、ミンミンゼミやらツクツクボーシやらが、街を曙光が照らし出す前から、けたたましく演奏会を開いている。かつて世界名馬研究・馬民俗学研究家と自称する海猫の助手を務めていた秋山美空は、茹だるような初夏の暑さからか、まだ6時前だと言うのに目を覚ました。
「…う、う〜ん・・・あつい・・今日は休みだからもっと寝たいのにぃ…あぁもう汗だく…」
日本の夏は確実にその暑さを、年々と増している。
残酷にもそれに比例するかのように、電気代は値上げされ、全国民は灼熱の暑さと財布の紐とのジレンマに板挟みさせられている。
すでに30度を超える炎熱の朝に、完全に眠気を奪われてしまった美空は、苦肉の策でスイッチを入れた扇風機の傍ら、ネットサーフィンで気を紛らわせ始めた。
「あ…海猫さんからメールが来てる」
メールの中身は奇妙なレース名が一つ、超極太明朝体で書かれ、
「奇妙なレースを見つけた。なぜ南アフリカ大陸のジンバブエのレースに和名が組み込まれたレースがあるのか?調査してみる」
と記されていた。
「?ハチマンスプリント?…?」
文面はまだ続いていた。
「おそらく、ハチマンとは八幡のことと思われる。なぜ八幡なのか?非常に興味深い」
大学時代、民俗学を専攻していた美空にとってみても、明らかに違和感を抱く内容だった。
日本から遥か彼方、南アフリカ、ジンバブエの地に?八幡?。
なぜどうしてこの沸熱たる陽炎立つアフリカの大地に、「はちまん」「やわた」の名称が付けられているのか?
異質な疑問、疑念ばかりが胸中を駆け巡った。
「八幡」とは、日本で信仰される神であり、一般によく聞かれる呼称としては、「八幡大菩薩」で知られる、あの「八幡」である。清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされている。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩様として、神社内に神宮寺が作られた。
「八幡」の文字が初めて書物で見られるのは、『続日本紀』からであり、その記述は天平9年(737年)の部分にあるという。
読み方は「ヤハタ」と読み、「八幡」は訓読であったのだが、のちに神仏習合して仏者の読み、「ハチマン」と、音読に転化したと考えられているという。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り白(憑代、よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉と解釈される。
八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は新羅出征の往復路で対馬に寄った際、祭壇に八つの旗を祀ったとされている。また、応神天皇が降誕した際にも家屋の上に八つの旗がひらめいたという記述、記録が残されている。
「ジンバブエと日本て…何か繋がりはあるのかな?」
海猫の調査結果の報告を待つにせよ、何か自分でも調べてみたいという、かつて民俗学を専攻した学生時代の探究心がいつの間にか小さい炎ではあったが、美空の中に再燃していた。
■2つの競馬クラブ
調べてみると、ジンバブエと日本の関係、関連は意外な程、最近のものが殆どで、「八幡」が何の事由からジンバブエの地、それも競馬場の重賞レースとして名を刻んでいるのか、ますます彼女の中で混迷を極めていった。
ジンバブエは遥遠なる、彼方の時代、?グレート・ジンバブエ?と呼ばれた王国として栄え、後の世に金細工、鉄製スプーン、ガラスビーズ、明代の中国製の陶器、キルワ金貨などの出土品が数多く発見されるなど、当時の大国間での交易が盛んであったことが窺い知れる。その地に、白人の侵略が頭を擡げ、侵攻を甘受したのが、19世紀後半。
その地はイギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名を取って、英領南ローデシアと名付けられた。
このローデシアでの最初の競馬は1891年、マショナランドのソールズベリー(現ジンバブエの首都)にて開催された。
また1892年1月には植民地統治官リーンダー・ジェームソンを初代会長とし、マショナランド・ターフ・クラブが設立。
本格的な開催が始まりをみる。
その後、1894年にはブラワヨにマタベレランドターフクラブが設立。これら2つの競馬クラブは1910年、南アフリカの管轄下に置かれ、1923年に南ローデシアの地(現ジンバブエのエリア)に自治政府が成立しても、南アフリカ競馬との関係は密接に続き、発展を遂げてゆく。しかし、半世紀近くの時が流れても、南アフリカ競馬に大きな影響をもたらすことは無かった。南ローデシア産馬が南アフリカの地で歴史的勝利を上げるのは、1950年に生まれる伝説の名馬スプイブリッジの出現まで待たなくてはならない。
▲〔スペイブリッジ:1950年生。父フリッパー(ブランドフォード系)母テイブリッジ 母父フライングスコッツマン(ロックサンド系)、牡馬、黒鹿毛、生涯成績22戦11勝、主な勝ち鞍:ジュライハンデ、チャンピオンS、クラウッド・ウィンターH、クレアウッド・マーチャントH、アスコットS他。父は愛国三冠馬ウィンザースリッパー産駒。ジンバブエ産馬として南アフリカで初勝利を上げたばかりか、当時のトップクラスの南アフリカ調教馬相手に互角以上の走りを見せ、ジュライハンデをはじめとするビッグレースを続々と制覇〕
(写真元:Sports horse data)
スプイブリッジはジンバブエ競馬がはじめて南アフリカ、そして世界へと送り出した最高傑作の名馬で、革命的活躍を果たした。
現在でも、ジンバブエ競馬における年度表彰の名称にその名を残し、自身の栄光、その残光を現世へと届けている。
■モノモウタアパの神仏混淆
ようやく美空が日本とジンバブエとが絡み合った最古の事実に辿り着いた頃、日差しは傾き、西日による斜陽が部屋の中へと差し込んでいた。陽が陰り始めていると言うのに、外はまだ蒸せ返るような暑さ見せている。
「これが…多分、日本人が関わった最古のジンバブエの人…」
江戸時代の絵師・蘭学者であった司馬江漢(しばこうかん)が長崎の出島に赴いた際、「此黒坊と云は…ヤハ嶋(ジャワ島)の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」と、オランダ人の召使いとして住んでいた東南アジア人やアフリカ人の記録を「西遊日記(1788年)」に残している。
その時、メールフォルダに新着の赤丸印が灯った。海猫からのメールだった。
「全て分かった。?ハチマンスプリント?の名称の?ハチマン?はやはり?八幡?で間違いはなさそうだ。でも、ハチマンはジンバブエの偉大な名馬だった。彼の名の由来が?八幡?だったんだ」
「えっ…どういうことなんだろう・・・」
美空は夢中になって文字先を追い掛けた。
※以下より、ハチマンの名馬紹介ストーリー本題に入ります。
ハチマンは1980年、ジンバブエ競馬・伝説のスーパーヒーローであるスプイブリッジ生誕からちょうど30年の時を経て降誕した。
父はプリンスリーギフトの流れを汲むディヴァインキング。
ディヴァインキングはアイルランドに生まれ、26戦4勝[4-4-2-16]の戦績を残した。
ネアルコ〜ナスルーラ〜プリンスリーギフトの流れを汲むスプリンターで、ネアルコの4×4×5の多重クロスを持っている。
現役時代は5ハロンから6ハロン戦を中心に活躍。ジョニーウォーカーH(芝1,200m)など4勝を上げ、タイムフォームレーティングで121を獲得するなど、中々の短距離馬であった。種牡馬入りし、南アフリカへと渡る。
▲〔ハチマンの父、ディヴァインキング〕
(写真元:Sports horse data)
母クリサンセマムは、父がドイツの歴史的名馬ロンバルド。ロンバルドは1967年にドイツの超名門シュレンダーハン牧場に生まれ、エウロパ賞3回、ヘンケルレネン、独セントレジャー、ノルトライン・ヴェストファーレン大賞(2回)、デュッセルドルフ大賞などステークス競走を18勝、生涯成績28戦20勝[20-3-2-3]という戦績を収め、1971年、72年と2年連続年度代表馬に選出された名馬。
クリセサンセマム(Chrysanthemum)は英語で「菊」を意味する言葉であり、その端緒はギリシャ語で黄金という意味を持つ“chrysos”と、花を意味する“anthemon”に由来するという。
▲〔ハチマンの母父、ドイツの歴史的名馬ロンバルド〕
(写真元:Sports horse data)
ハチマンを生産したのは、ブラス・ロビン氏。ドイツの歴史的名馬の娘であるクリサンセマムを見初め、フランスから輸出。
その胎内には、ディヴァインキングの仔を宿していた。クリサンセマムはハイペリオンの4×3×4、ハイペリオンの娘トロピカルサンの4×4という特殊なクロスが施された血統を持っていた。最高神と真夏の太陽…その血を受け継ぐ?菊?。
菊は日本の国花。特別な意味を持つ花であり、ロビン・ブラス氏はその意味すらも理解していたようだ。
親日家であった節もあり、日本文化、日本の信念を独学していたのかもしれない。
?菊?の娘と結ばれたディヴァインキング…?神王?は?天皇?を連想させる。
?天皇?と?菊?。
この2者の掛け合わせから導き出した命名が?八幡(ハチマン)?だったのである。
しかも、ブラス・ロビン氏は、?八幡?が?武神?を意味することすら理解していたことから、やはり日本人の信仰理念まで学んでいた人物であった事が窺い知れる。
かつて「黄金の国」と謳われたモノモタパ王国(ジンバブエ)とジパング(日本 ※異説多々あり)。
日本の民俗文化を鑑みて命名された、すばらしいネーミングセンスを持った馬主の知的センスには感嘆のため息が漏れるほど。
日本産馬でも欧州産馬でもない。ましてや南アフリカ生産でもなく、純粋なジンバブエ生産馬でこの命名で国を代表する規模の歴史的名馬が誕生するのだから、競馬は解らない…永遠に謎が解けない、真実に到達しないミステリー小説や神秘的な現象に邂逅を果たした瞬間が不定間隔で永続する凛音の中にいるような想いだ。
日本と縁深き?天皇?とその紋章である?菊?が、日本から遥か彼方先にある黄金の国で神仏混淆、融合を果たし、同国最強の?武神?を誕生さするに至ったという経緯は、もはや奇跡以外の何物でもないと思う。
クリサンセマムは、大変に優秀な繁殖牝馬であり、ハチマン以降も名馬、名牝を次々と輩出。
ディーヴァシュライン(ジンバブエチャンピオンスプリンター女王)、ルパン、ディプロマット、ミトラ、そして南アフリカの歴史的名スプリンター女王のヴァルデラ。さらにはテヴェス、パラディウム、キューザミュージックと10頭の子馬を残し、1983/84 年のブルードメア オブ ザ イヤーにも選ばれるまでに。余程、ジンバブエの水が合い、当地において彼女に携わった人の相性も最高であったのであろう。
■武神の快進撃
ハチマンは、2歳を迎えるとロビン氏の息子であるニール・ブラス氏の袂に預けられ、神王の子息たる素質を剥き出しにしていく。
もはや誰から見ても特別な才能を宿していることは明らかなモーションと俊敏性を見せており、その動きそのままに、TBAセールスステークス、オーナーズ&トレーナーズチャンピオンジュベナイルステークス、ナーサリーステークスと圧勝楽勝の連続でスプイブリッジ2歳チャンピオンに輝き、3歳を迎えてもその太陽の輝きは、ますます燦々と煌めき、グレンレアトロフィー、ギニートライアルステークス、シェルといったビッグレースを鯨飲。短距離のみでなく、その膨大な素質から長距離戦までこなしてしまった。
コンサベーションギニー、BPコンサベーションギニー、ボローデールステークスでも優勝。しかし、当時の最大のレースの一つであったシュウェップスゴールドカップでは、惜しくも2年連続の2着に敗れ、ビッグレース総なめ完全制覇はならずと終わっている。
鮮やかな真っ赤な栗毛の馬体で、真のチャンピオンと謳われしジンブウェ競馬史上最強スプリンターにして、スプイブリッジやイピトンベとも並ぶ程の伝説的サラブレッド。
引退後はケニアへと移り、ジャネット・ミルズ女史とジョー・ミルズ氏が営む種牡馬牧場で種牡馬として活躍した。
武神の威光を現世へと伝える?ハチマンスプリント?は、毎年1月最終週、ボローズデールパーク競馬場、芝1,100mにて今年もまた行われる。
日出づる国より遙けし、黄金の国モノモウタアパの焦熱たる大地を舞台にーー。
【参考文献・写真イラスト元】
・Zimbabwe Equine News
・Zimbabwe Racing.com
・Racing at Borrowdale Park in Harare - Zimbabwe
・Sports horse data ?Spey bridge?、?Devine king?、?Rombard?
・Pedigreequery.com ?Hachiman?
・『奇跡の名馬2 -Fターフメモリー-』「スプイブリッジ」文:大岡賢一郎(2019年、パレード)
・Wikipedia「ジンバブエ」
・Wikipedia「八幡神」
・Pixivision ダーリン・イン・ザ・フランキス いちご様
・wallpaperbetter
・amanaimages.com, Emi Komagata様
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