〜マリンスノーに抱かれ眠る、
白き神話の大女帝〜
ースペイン競馬に降臨せし
幽玄なる歴史的大女傑ー
父 フィルベルトディサヴォワ(ヘロド系)
母 オーガスタ
母父 メンテノン(ヘロド系)
生年:1926年
性別:牝
毛色:芦毛
調教国:スペイン
生涯成績:43戦27勝[27-(13)-3]
主な勝ち鞍:マドリッド大賞(芝2,500m)連覇(1931・1932)、サンバスティアン金杯(芝2,400m)3連覇(1930・1931・1932)、トレド記念連覇(1931・1932)、🇫🇷ビアリッツ大賞、オトーニョ大賞連覇(1930・1931)、グラディアテュール賞3連覇(1930・1931・1932)、フォメント大賞、他
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
■謎のアトランティス文明
瑤杳たるハルカカナタの遠き遠き神話の時代。何処かに存在したという伝説の大陸文明アトランティス。
ムー大陸、レムリア大陸など、謎に満ちた超古代文明の浪漫譚は、今も神秘のヴェールに包まれ、我々の好奇心と探究心を扇情的に擽って止まない。現代文明をはるかに凌ぐ超古代文明が、一日一夜で銷沈するという物語。
果たしてそれらは実在したのであろうか。
アトランティスとは、古代ギリシャの哲学者プラトンが自身の著書『ティマイオス』および『クリティアス』の中で述べたもので、その規模感は島でありながらも、大陸のような大きさであったという。リビュア(北西アフリカのナイル川より西側の地区)とアジアをあわせた大きさよりも、さらに大きな島であった記伝されている。加え、アトランティス人たちは現代人をもはるかに凌ぐ文明を持っていたとも伝えられ、テレパシーを使っての会話ができたとも記されている。しかし、約1万2000年以上前も前にそのような高度な文明を持ちながら、一夜にして、大地震と津波によって海の底へと沈み、滅亡したという。
アトランティスの痕跡、候補地としては様々な諸説が挙げられている。
マルタ共和国ゴゾ島に数多く残る巨石神殿の遺跡、バハマのビミニ島沖にある「ビミニ・ロード」、アフリカ北西部モーリタニアの「サハラの目」などが有力とされているが、いずれも判然としていない。
しかし、明らかとなっていない謎めいた神秘性があるからこそ、その魅惑は大きなうねりを持って我々の心を煽動し続けるのであろう。その神話的コードネーム?アトランティス?の名を拝授した伝説の名馬が、太陽の沈まぬ国スペインに降誕している。
その馬は、他の馬とは全く様相が異なっており、幽玄でミステリアスな雰囲気を身にまとい、神威的能力を宿していた。
アトランティダ。その偉大なる白き神話の大女帝へ今回は迫っていきたい。
その白き神話の女帝を育んだスペイン競馬の濫觴と歴譜にルーペをあてて見ていこう。
■スペイン競馬の淵源と歴逓
情熱の国スペイン。その燃え激る炎熱の国における競馬の淵源、始まりは、1835年、マドリード市北東部、現在のバラハス空港近くのアラメダ・デ・オスナとして知られるマドリッドの農場で開催されたレースであったとされている。
当時は施設のようなものがあった訳では無く、貴族階級、上流階級のハイソサエティな人々が娯楽として楽しんでいたものであった。競馬場には観客席も無く、参戦する貴族たちも自身の所有する馬に乗って観戦に訪れたという。
1841年4月23日には、馬を用いた競走を?競馬?という新たな概念に置き換え、その発展と促進、競走馬の保護と繁殖を担うべく、ソシエダ・デ・フォメント・デラクリアカバラル・デ・エスパーニャ(SFCCE)が設立された。この創設にあたったオスナ公爵は同組織の議長も務め、その馬へと傾ける情熱と、功績から?スペイン競馬の父?と言われている。
「馬種の改良、競馬等による馬種の育成促進及び普及」を目的」として、協会の設立から1年後、競馬規則が作成され、マドリッドのカサ・デ・カンポ邸にスペイン史上最初となる洋式競馬場が設立され、1843年4月20日に最初のスペインの公営レースが開催され、3,000mの距離が行われたという。その記念すべき史上最初のレースの勝者は、マルケス・デ・グアダルカサル厩舎の馬パプーラ号であったという。
▲〔社交場の様な華やかな装いを呈していた古のスペイン競馬〕
競馬に携わった騎手も、貴族や軍人など、当時は一部の者に限られていた。その後、王宮のバックヤードにあたるカサ・デ・カンポや、市北部のカステリャーナなどに競馬場が設けられたが、いずれも現存してしない。カステリャーナ競馬場跡地には官公庁の建物が建設されている。
王室の御用地であるマドリード南方約50km にある町アランフエスでも、スペイン内戦直前までレースが行われていたという。また、パセオデラスデリシアスという場所でも競馬が行われたという記録がある。
スペイン競馬が大いなる発展を遂げたのは1970年代に入ってからで、1971年にスターティングゲートが導入され、バリヤー式スタートに取って変わった。1971年にはスティープルチェイスコースの整備が進み、本格的に障害戦が熱を帯びていく。1974年にはトータリゼータシステムが確立され、賭け方に大きな変革がもたらされている。
黎明期におけるスペイン競馬には、
?三大名馬?とされる存在がある。
ヌーヴェルアン、コリンドレス、アトランティダの3頭がそれである。
本項の主役アトランティダを除く2頭の簡易プロフィールは以下の通りであるが、3頭とも現在のスペイン競馬におけるレース名にその名を残す偉大なる名馬である。
〜スペイン古の三大名馬〜
ヌーヴェルアン
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔ヌーヴェルアン。1915年生まれ。マドリッド大賞ことグランプレミオ・デ・マドリッドを1919年から三連覇。フランスでも活躍し、モーリスドニュイユ賞(芝3,100m)、ケルゴルレイ賞(芝3,000m)も優勝。栄えある第一回凱旋門賞に出走したたった2頭の外国馬(もう1頭は勝ち馬のカムラッド、英国。)にしてスペイン競馬唯一の出走馬。〕
コリンドレス
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔コリンドレス:1924年生。父ラリキン(タッチストン系) 母パニエルフレウリ 母父ニュリセカンダス(セントサイモン系)、鹿毛。スペイン競馬古の名馬。マドリッド大賞を1927年、1928年、1929年と三連覇を果たす。他にアランフェスダービー、サンセバスティアンダービー、サンセバスティアン金杯、アルフォンソ13世賞など〕
そして
アトランティダ。
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
これら、いにしえの3大名馬のオーナーは共通しており、それがスペイン競馬における歴史的巨人、ドン・ビセンテ・メネンデス・サン・フアン・シメラ伯爵(シメラヴァレンティン・メネンデス・イ・サン・ファン・シメラ伯爵。※以下、シメラ伯爵)である。
彼はスペイン競馬における偉大なるホースマンの一人であり、スペイン競馬へ寄与した功績とその実績は計り知れないものがある。
〔ドン・ビセンテ・メネンデス・サン・フアン・シメラ伯爵(1874-1944)〕
(El Excmo. Sr. Conde de la Cimera. Propietario de admirables caballos de carreras.—Fot. Kaulak)
シメラ伯爵は1847年7月2日、マドリードのブエナビスタ地区で生を受けた。1903年に第6代のシメラ伯爵の称号を拝受され、1912年11月にはスペインオリンピック委員会の創設メンバーの一人として活躍。1914年から15年の間には、保守派所属のウエルバ県の維新コルテス上院議員を務める。さらに、晩年においては1930年7月4日より、第二共和制宣言の日まで、ファン・アントニオ・グエル・イ・ロペス氏の後任として、国家観光局の会長も務められている。
第6代シメラ伯爵ことサンファン氏はこよなく馬を愛し、乗馬に生涯を捧げ、また競馬にも多大な寵愛を狂熱的に注いだ。
そんなシメラ伯爵は、1918年11月に、シモン・アルトゥナ氏が所有していた、ガァルニソの美しく広大な土地を買収する。
当時の価格で、約8万4000ドルで購買を済ませたものと伝えられている。
夢の一つであったサラブレッドの生産と育成。
その壮大なる大志を成就させるべく動いたのであった。
その翌月となる12月、建築家のリアンチョ氏と共にその地へ往訪。邸宅となる予定地の視認調査と確認を行い、この地におけるサラブレッド生産の夢絵図を思い描くのであった。
▲〔ガァルニソのフエンガ牧場で営みを送る長閑な馬たちの様子〕
(写真引用:Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?)
ガァルニソにおけるサラブレッド育成厩舎兼繁殖牧場の管理責任は、シメラ伯爵が最も信頼を置いたというアレハンドロ・アモール・デ・フェレイラ氏が担当する事となった。メキシコ出身の紳士で、生涯を馬に捧げたフェレイラ氏が牧場経営の舵取り担ったことも、馬産成功における大きな好因の一助であり、シメラ伯爵の幸運でもあったことだろう。彼はサラブレッド繁殖の専門知識を持ち、「真の馬愛好家」とも呼ばれたホースマンの一人であった。
〔アレハンドロ・アモール・デ・フェレイラ氏〕
(写真引用:Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?)
シメラ伯爵は次々と計画の進行を進め、ガァルニソの小さな町にあるフエンガ牧場を拠点として、1919年には15頭の繁殖牝馬をここに迎え、サラブレッドビジネスを推進させていった。同年、キュピドンという種牡馬も導入し、1920年には当牧場における、最初の産駒が誕生。この年、フランスからもラリキンというサラブレッド種牡馬も購入し、スタッドイン。その翌年にもビリーコックという種牡馬も参画してきた。フランスより招かれたラリキンは大きな成功を収め、フエンガ牧場の主軸となって牧場の発展に尽くす。
シメラ伯爵の熱情を血に、めざましく発展を遂げていくフエンガ牧場は、手を緩めることなく次の手を次々に展開。1926年に英国からプレモントという種牡馬も導入し、テコ入れを図ってより牧場の繁栄を強固なものとしていく。ラリキンとプレモントが中心となって大車輪の活躍。次から次へと、綿飴式のように優秀な競走馬が生産されていったが、その中でも、シメラ伯爵が関わった名馬たちの中でも特筆すべきが?スペインいにしえの3大名馬?の3頭なのである。
ヌーヴェルアンのみ、伯爵の単独所有馬ではなく、マルトレル公爵ことペドロ・デ・アルカンタラ・アルバレス・デ・トレド・イ・サマニエゴ氏(1867-1925)との共同所有馬であった。
〔マルトレル公爵。ペドロ・デ・アルカンタラ・アルバレス・デ・トレド・イ・サマニエゴ氏(1867-1925)〕
※写真中央の人物。(写真引用:equijar 2.0「Marqués de Martorell」)
侯爵もまた、スペイン競馬史に大きな功績を残したホースマンの一人。傑出した軍歴を持ち、当時最も観光客が多い軍事目的地の一つであった王女の軽騎兵隊の騎兵大佐にまで上り詰め、アルフォンソ13世の部屋の紳士、王立馬術協会の創設者、王立奨励協会の書記でもあった。スペインの競馬界の権威であり、アントワープオリンピックのスペイン代表団の馬術指導者であったが、晩婚で子供がいなかった。熟練した騎乗者でもあった彼は、馬術スポーツ界で頭角を現し、ジェントルマンライダーとしてレースにも出場。長年にわたりスペインの馬術スポーツ界の第一人者を務めた。
偉大なるスペイン競馬黎明期の2大ホースマンが育てた結晶がヌーヴェルアンであり、さらにその上をいったであろう伝説の名馬こそがコリンドレスであった。コリンドレスは伯爵が目を掛けて導入したラリキンの産駒で最高傑作と言える存在。
シメラ伯爵の馬産、サラブレッドビジネスにおける一つの到達点となるような名馬であった。
そして、アトランティダはシメラ伯爵晩年の最高傑作であり、能力はヌーヴェルアン、コリンドレスと匹敵・・・
いや…上回っていたであろう、異質かつエキゾチックなオーラを纏う、ミステリアスな名馬であった。
シメラ伯爵はアトランティダの強さと速さ、その特異性、そしてその愛くるしい容姿から特別な慕情を傾慕し、アトランティダを寵愛した。
〔伯爵の愛馬たちが重ねた無数のタイトル、栄光の歴史を証明するトロフィーの数々。その数と眩い輝きを放つ優勝杯にただただ感嘆の溜息が漏れる〕
(写真引用:equijar 2.0「Conde de la Cimera」)
▲〔シメラ伯爵が用いた勝負服のデザイン。有名なのはブラウン地に水玉模様の勝負服である〕
そんなスペイン競馬史にも、日本や欧米、豪州に負けず劣らずの名牝が降誕していっている。
アトランティダの栄華を語る前に、簡単にはなるが、この場を少しお借りして、スペイン競馬にガラスの靴音を残していった名牝たちを紹介していきたい。
〜スペインの歴史的名牝たち〜
唯一の三冠牝馬
トカラ
〔トカラ:1959年生まれ。スペイン競馬唯一の牝馬三冠達成馬。1962 Premio Beamonte (Spanish Oaks);1962 Premio Valderas (Spanish 1,000 Guineas).1962 Premio Villapadierna (St. leger),SPAIN TRIPLE CROWN WINNER〕(写真引用:Sports horse data)
唯一の変則トリプルティアラ
エウレカ
〔エウレカ:父ゴヤス(トワルビヨン系) 母メイドインイングランド 母父グレンリヴェット(ハイペリオン系)、栗毛。 スペイン競馬唯一頭となる二冠牝馬。ヴァルデラス賞(スペイン1000ギニー)、ビーモンテ賞(スペインオークス)、ナシオナル大賞、これら3つのGI級タイトルを獲得した唯一の牝馬である〕(写真引用:Sports horse data)
牡馬二冠を制圧した女傑
トゥーランドット
〔トゥーランドット:1948年生、父リチェーチェ(スウィンフォード系) 母スティルウォーター 母父フェアトライアル(フェアウェー系)、鹿毛、スペインのダービー格競走は1951年までは現セントレジャー格のヴィラメジャー賞となっており、トゥーランドットはシメラ賞、そしてこのスペインセントレジャーであるヴィラメジャーを制し牝馬ながら牡馬二冠を制してしまった。さらにはマドリッドグランプリ(マドリッド大賞)も勝った女傑である。生涯成績27戦15勝〕(写真引用:pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?)
スペイン競馬史上最強世代の女帝
フォリー
〔フォリー:1958年生。スペイン競馬史上最強馬と言われるカポラルと同世代である牝馬で、ヴァルデラス賞、ビーモンテ賞の牝馬二冠に加え、トレドメモリアルにも勝利した最強女王である〕(写真引用:Sports horse data)
スペイン競馬至高の女王
テレサ
(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
〔テレサ:1984年生。父レフィッシモ(ハイペリオン系) 母タカラ 母父タカウォーク(ネイティヴダンサー系)、生涯成績16戦9勝[9-2-1-4]、2歳時にグランクリテリムを勝ち、牝馬ながら2歳チャンピオンに輝き、クラシックロードではヴァルデラス賞、ビーモンテ賞を勝ちスペイン牝馬二冠馬となった。日本で繁殖入りしアドマイヤテレサなどを送る。1999年には日本からフランスへ渡り繁殖生活を送っているという〕
スペインに出現した数多の名馬たち・・・
バルセロナの英雄アパノイ、西国史上最強マイラーのシャーマン、史上最強馬カポラル、奇跡の名馬レフィッシモ、マドリード大賞3連覇のエルパ、12戦11勝で西ダービー・サンセバスティアン金杯・マドリード大賞など主要競走総なめの天才チャカル、香港ヴァーズ優勝のパルツィパァル、最強三冠馬アルカイツ、カドラン賞馬バナビー、史上最強スプリンターのヌーゾーカナリアスなどなど…
万斛、巨多、万恒河沙の名馬犇めく中、一際の異彩を放つのがやはり本項紹介のアトランティダである。
▲〔アトランティダの貴重なカラー写真〕(写真引用:Hipódromo de La Zarzuela)
真っ白な馬体に青い瞳を持っていたというアトランティダ。
その走り方もまた独特で、首を高く、引っ掛かるように走っていたという。
戦法としては、後方からスタートし徐々にポジションを上げていき、最後の直線で一気に前を行く馬たちを飲み込んで抜き去っていく…という戦法が主だったものであったようである。
レースでは常に人気を集め、ほとんどのレースで1番人気、それも1.1倍や1.3倍など突出した絶大な人気を誇っていた。
アトランティダの調教を務めたのは、シメラ伯爵御用達のG.フリーマン調教師。
そしてその手綱を任されたのは、偉大なるレジェンド、ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手であった。
■スペイン競馬の大レジェンド
▲〔ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手〕
(写真引用:Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?)
ヴィクトリア−ノ・ヒメネス騎手はスペイン競馬における最も偉大な名手の一人に数えられる偉人である。
彼は並々ならぬ鉄の意志で、わずか40kg近辺の体重をキープし続け、常に高みを目指し続けた。
誠実で真面目一筋、それでいて礼節を重んじる紳士の中の紳士であったという。
1911年にデビューすると、サンルーカルのビーチ競馬にて、ペパという牝馬で初勝利を上げた。
そこから47年間の現役生活を続け、64歳まで騎乗を続けた。シーズンを通して活躍し、シーズンオフとなるやエジプトへと戦場を移し、騎乗を通年を通して休ませることがなかった。このシーズンオフ中のエジプト遠征は、1924年から1929年まで行っており、その際には1日に9勝を上げるという、世界記録の偉業もカンパメント・デ・ラ・リネア・デ・ラ・コンセプシオン競馬場にて成し得ている。ヒメネスは、スペインのリーディングジョッキーには6回輝き、多くのビッグタイトルを獲得している。最たる勲章はマドリード大賞9勝であり、それを筆頭にサンセバスティアン金杯8回、ビアリッツグランプリ、アレクサンドリアダービー、ヘリオポリスグランプリ、サンセバスティアン大賞2回、エジプトのコパ・デル・レイ・フアドを3回、そして、フランス・メゾン・ラフィットのラ・タミセ・ハンディキャップで優勝している。このラ・タミセ・ハンディキャップは、スペイン2000ギニー馬キャップポローニアとのコンビで芝1,800m戦のこのレースに出走。38頭もの出走馬があったことから、なんと2列になってのバリヤースタートが成され、2列目のインコースからすり抜けて優勝を手にした。
ブラウンの下地に白い水玉模様が散らされた勝負服はスペインの競馬場で眩い輝きを放ち、競馬場で躍動した。
その勝負服とヒメネスのライディングパフォーマンスは、神話的白き女神を共鳴させる一つのコードサインのようである。
ヒメネス騎手は多くの名馬に騎乗したが、アトランティダへの信頼は絶対であり、絶大な信愛を持って手綱を握った。
自身が手綱を取って跨った中では最も崇高で最高の名馬であることは間違いなく、彼のアトランティダへの信念は何があっても揺るぎない物であった。
■?白き神話?の濫觴は?
さて、アトランティダというとやはり印象深く、最もインプレッションが強烈なのはその馬体の色であろう。
真っ白な馬体だが、白毛ではなく芦毛である。彼女の芦毛は父フィルベルトディサヴォワから受け継ぎし物であるのだが、その源泉はどこなのだろう。
血統表を遡求していくと、とある3頭の芦毛馬に行き着く。
〔アトランティダの父、フィルベルトディサヴォワ。1920年生。芦毛。フランスで11戦7勝2着2回3着2回のほぼパーフェクトな成績でパリ大賞、ロワイヤルオーク賞、カドラン賞、フランス三大長距離レースを勝った〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父イザー。1910年生。芦毛。フランスでドーヴィル大賞など制覇。〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父父ルサンーマーティン。1895年生。芦毛。生涯成績28戦9勝。ドーヴィル大賞、ギシュ賞、ダリュー賞などを制覇〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔アトランティダの父父父父ルサンシー。1884年生。芦毛。生涯成績43戦27勝。ドーヴィル大賞2回、ダリュー賞、サブロン賞、ボワルセル賞など重賞級レースを多数勝ちまくる。〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
〔ルサンシーの母、ジェムオブジェムズ。すなわち…アトランティダの父父父父母。〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
さらに遡ると・・・
【スコットランドの白い英雄】
シャンティクリーア
〔シャンティクリーア:1843年生。父バードキャッチャー 母フィム 母父ドローン、芦毛、生涯成績32戦19勝。ドンカスターカップなどに優勝。スコットランド調教馬として最上級の成績を残した。首回りから胸前、体駆の造りまで何から何までが頑強に屈強さを折り重ねた様な鋼鉄の馬体を誇っていたが、その気性は手に負えないほど荒いものだったという。ジェムオブジェムズの父母父。すなわち、アトランティダの父父父父母父母父〕(写真引用:Sports horse data)
シャンティクリーアの芦毛は、シャンティクリーアの母父父母であるスピンスターから受け継いできた物である。
ここからさらに血統の絲を辿っていくと…
スピンスターの父系の芦毛は、父母父母のケードメアーから流れを汲むものであり、その源泉にいるのはフェンウィックバーブである。この馬は、1670年に生まれたとされるアラブ馬であり、第2代準男爵ウィリアム・フェンウィック卿(1617-1676)によって輸入された。先代であり、初代フェンウィック卿であるサー・ジョン・フェンウィック (1579-1658) 氏は、初代ノーサンバーランド男爵であり、ロイヤルスタッドのマスターでもあり、そしてチャールズ1世の王族レースの測量士でもあった。彼の馬はフェンウィック品種と呼ばれ、初代ニューカッスル公爵によれば、彼は「イングランド全土を見渡して見ても、傑出して多くの希少な出走馬を所有しており、イングランドのすべての有名な出走馬のほとんどは、彼の所有馬の血を引いている」とまで述べている。
スピンスターの母系の芦毛は、1663年に生まれたとされるダーシーズホワイトタークと1700年生まれのハニーウッズアラビアンに行き着く。
フェンウィックバルブ、ダーシーズホワイトターク、ハニーウッズアラビアン。
これら3頭がアトランティダの芦毛の始源的ルーツになるであるが、?芦毛の祖?と呼ばれる神話的名馬の血もアトランティダは引いている。それがオルコックアラビアンである。
〔オルコックアラビアン:1712年生まれ(諸説あり)、芦毛の祖ともされているサラブレッドの開祖の1頭。フェアファックスモロッコバルブが世界最古の芦毛馬であるが、芦毛を後世へと残した馬は間違いなくこの馬。オスマン帝国に生まれ、英国に渡りチャンピオンサイアーとなる。残した最高傑作のクラブが、芦毛を遺伝させ流大きな役割を担った。競馬ゲームにも登場するが、競走歴はなかったとされている〕(写真引用:Wikipedia『オルコックアラビアン』)
?白い蟹?
クラブ
〔クラブ:1722年生。父オルコックアラビアン。生涯成績9戦6勝。オルコックアラビアンの毛色を受け継ぎ、類稀なる競走能力と種牡馬実績を見せたいにしえの名馬。同時代を生きたヴィクトリアス、クレオパトラ、サンダーボルトといった強豪を軒並み負かしている。サラブレッドに?芦毛?という毛色を定着させた功績はこの馬にあると言って良い程で、三代始祖以外の父系に属す種牡馬としては最大級の成功を収めた。〕(写真引用:Sports horse data)
〔今回のアトランティダのお話、またよく見つけてきたなぁ海猫さん・・・って思いながら夜通し読み耽ってしまいました!by美空〕
芦毛の源潮は上述のようにクラブらにある訳であるが、最もアトランティダに似ているのは、アトランティダの父父父父ルサンシーであるように感じる。生涯成績まで、偶然ではあるものの、ルサンシーとアトランティダは一致する。
■スペインの女ネイティヴダンサー
芦毛の世界的な名馬とすると、すぐさま思いつくのはネイティヴダンサーである。
本馬アトランティダはまさにスペインにおける女ネイティヴダンサー的存在であった。
もっとも、ネイティヴダンサーはアトランティダ誕生の約30年後に活躍した馬であるのだから、
本来なら米国の男アトランティダがネイティヴダンサーとすべき所なのかもしれない。
2頭の共通点は、芦毛というだけでなく超絶的な人気にもあった。
ネイティヴダンサーの人気を物語る逸話として、競馬場が赤字になることを憂い、馬券発売を取りやめたという話がある。
これはネイティヴダンサーのラストランともなったオネオンタハンデ(ダ1,400m)へ出走した時の実話で、NY州では単勝オッズの最低配当が1.05倍が取り決められており、ネイティヴダンサーが出走するとほぼ赤字確定である事を鑑み、馬券発売なしのレースとなったという。これと似たような逸話が、アトランティダにもあり、アトランティダは毎回1.1倍〜1.3倍という絶大な信頼が置かれた1番人気で出走し、ほとんどを勝利した訳だが、単勝馬券を買い、わずかな利幅で得たペセタ、ペニーといった当時のスペイン通貨をドルに交換して儲けようとした輩が現れたこともあったという。
▲〔1930年6月15日付のスペインの新聞紙?クロニカ?のスポーツ面の一面。サッカーの名門レアル・マドリードvsバレンシアの一戦とアトランティダvsフラスカティ(スペイン2000ギニー馬)の対決を同時に報じている貴重な一面。「白い巨人」と謳われるレアルは白い女帝アトランティダに。フラスカティはバレンシアに準えているようである〕(写真引用:Revista "Crónica" 15 de junio de 1930)
脚質や戦法も似ており、先行して2・3番手、もしくは中団に構えながら徐々に進出し、直線でいつの間にか先頭に立つというレースぶり。ネイティヴダンサーもアトランティダも跳びが大きく、アトランティダに至っては、前述の通り頭を高くして引っ掛かって見えるような独特の走り方を見せていたという。
アトランティダは1930年頃、つまり4歳、古馬になってから無敵の覚醒を遂げ、タイトルを積み重ねていった。
サンバスティアン金杯(芝2,400m)を3連覇(1930・1931・1932)。
トレド記念も連覇(1931・1932)し、フランスの西端にあるビアリッツにも遠征。
ビアリッツ大賞を圧勝したヴィクトリアーノ・ヒメネスとのパフォーマンスは、フランスのファン、ホースマンらに大きな衝撃を与えた。
アトランティダが積み上げた数多のタイトルの中で最も特筆すべき凱歌はサンバスティアンゴールドカップ3連覇とマドリッド大賞連覇の2つが双璧を成す。
中でも、克明な資料の残るマドリッド大賞連覇の詳細を綴らせて頂く。
■マドリッド大賞での
2度に渡る驚愕のパフォーマンス
スペイン語では?グラン・プレミオ・デ・マドリッド?と呼ばれるマドリッド大賞は、スペイン競馬の最高峰レースであり、最大級の勲章となっている。創設は1919年、初代王者はスペイン競馬の偉大なる名馬ヌーベルアン。
6月最終週にマドリードに佇むサルスエラ競馬場を舞台に、芝の2,500mで行われる。
レース創始から1933年までは、カステッラーナ競馬場(1878年1月31日開場)で開催されていたが、同競馬場の取り壊しが決まり、その解体年においてのみレアル競馬場(アランフェス競馬場、1852年開場、1934年閉場)で開催され、1934年、35年に関してはレアル競馬場も解体されたことを受け、サンセバスティアン市営競馬場の芝2,400mで開催されている。1936年から1940年まではスペイン内戦を受け、中止を余儀なくされるも1941年に復活。以降は現在の舞台、サルスエラ競馬場にてスペイン最強馬決定戦の役割を担う最大のレースとして運営されている。しかし、1994年から2005年までサルスエラ競馬場は閉鎖を余儀なくされ、同競走は沈黙することとなってしまうが、2006年に2,400mで再開。2009年からは2,500mに戻り、現在に至る。
🔲マドリッド大賞(1931年)
日曜日に開催を予定されているマドリッド大賞は、この年、悪天候にたたられ、どんよりとした曇天が空を覆っていた。
このレースを心待ちにしているファンらの住む街へポツリポツリと雨音が聞こえ始めると、レース開催当日まで雨は延々と降り続いた。カステッラーナ競馬場の馬場を相当に水分を含んでおり、非常にタフで時計を要す、パワーのない牝馬にとってはかなり酷な舞台設定となっていた。例年ならば、立錐の余地もない程の観衆でごった返す競馬場であるはずが、大雨の影響で人もまばらとなってしまった。レース当日も雨は降り続き、2レース、3レースの雨は上がらず、激しい雨中の中行われたが、午後になると漸く、啜り泣くのを止めてくれたようだった。
アトランティダは60kgもの斤量が背負わされ、極悪の不良馬場と強烈な雨風が吹きさぶ過酷を極める舞台設定もあり、不安視される声も多くあったが、断然ダントツの1番人気に支持され、送り出された。アトランティダは稀有なステイヤーと陣営からは判断され、古馬になって以降は、重賞では全て2,400以上の長距離をセレクトされ競走している。クラシックディスタンスから長距離では既に歴史的名馬級の評価がされており、ここも大本命となっていた。
雨が上がるも、まだ客足は遠く、マドリッド大賞の時間を間近に控えても数百人程しか競馬場にはファンが見掛けられなかったという。それ程に激しい風雨に見舞われていたということであろう。
シメラ伯爵と彼のお抱え調教師ジョルジュ・フラットマンに見送られ、レースのスタートを切ったアトランティダはゆっくりと走り出し、最後方にも近いポジションを取った。馬場の悪さ、強い雨風を考えると逃げ先行馬に、状況は圧倒的優位は明白で、出走馬の半数以上が騎手が叱咤、鼓舞し、半狂乱で前を争って、ペースは激しさを増した。
しかし、ヒメネス騎手は微塵も動じる事なく、アトランティダを信じきってじっくりと脚を溜めた。
スタンド前を通過した際、先頭を行く馬からアトランティダまで、およそ目視でも15馬身以上は離された後方を進んでおり、これにはファンたちも不安を覚え、数百人という寂寥感に満ちた観客たちからも「まさか」の事態を危惧して、騒然となっていた。
ところがである。アトランティダはいつの間にかポジションを上げ、3コーナーから4コーナーを周回するまでに3番手にまで上がってきており、最終コーナーを回る時点で先頭に立った。
ここからがさらに圧巻で、全くの楽な手応え、ノーステッキどころかほぼ追わずのキャンターで後続を振り切ってしまったのである。
〔キャップポローニオ:1928年生。父プレモントレ(タッチストン系)母グナト 母父メンテノン(ヘロド系)、黒鹿毛、1931年のプレミオ・シメラ(西2000ギニー)を勝利。フランスへ遠征し、メゾンラフィット競馬場にて、ラ・タミゼハンデキャップ(芝1,800m)も制覇。なんとこのレースは38頭立ての超多頭数で行われ、バリアースタートで圧倒的な不利な2列目でのスタートとなるが、強烈な末脚を発揮して勝利。フランスでも結果を残した〕(写真引用:Thoroughbred pedigree)
2着の同厩舎の3歳馬のエース、キャップポローニオ(斤量51kg。アトランティダと9kg差!)が全力を振り絞り追走してきたが、流して楽走するアトランティダとの差は3馬身差もあった。キャップポローニオは、スペイン2000ギニーに当たるシメラ賞を勝っており、この年の最強格の3歳馬。フランスでのレースもヒメネス騎手とのコンビで勝っている名馬である。それに10kg近いハンデを与え、馬なりで圧倒してしまうアトランティダの異常性。キャップポローニオも3着馬ソレントに5馬身差をつけているので、アトランティダが強過ぎたとしか言いようがない。(ソレントはキャップポローニオと同世代で、ポローニオのライバル。ここでポローニオに決定的着差をつけられてしまい、同世代最強をポローニオ譲る印象を与えてしまった。この時、ソレントが背負っていた斤量はポローニオと同じ51kg)ちなみに4着には軽量44kg…アトランティダと16kg差もの斤量差の最軽量馬であった、最軽量というか・・・もはや本当に裸同然のヴェロスという馬が入着している。
勝ちタイムは2:56.8と、いかに苛烈な環境下でのレースであったかを物語る記録が残されている。(日本の芝2,500mと比較して20〜25秒近い差がある)
〔1931年グラン・プレミオ・デ・マドリッド(マドリッド大賞)の直線、ゴール前の写真。カメラ目線で楽々と欣喜雀躍たる様相で後続を突き放していくアトランティダ〕(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1931 Atlantida)
🔲マドリッド大賞(1932年)
1932年6月26日の日曜日に行われたスペイン最高峰のマドリッド大賞(芝2,500m)は前年とは違い晴天に恵まれ、初夏の陽気漂う中、13頭が出走し行われた。この年もまた、アトランティダは60kgの斤量を背負っている。
ちなみに、この当時のマドリッド大賞は3歳で50kg。4歳59kg。5歳以上が61kgで、牝馬は-1kgという斤量設定であった。
好天に恵まれたこと、前年があまりにも荒天に祟られたこと、そしてアトランティダの存在により、これまでに見たことも無いほどの観衆が詰めかけた。
レースはスタートでアトランティダが立ち遅れ、ほぼ最下位からのスタートとなった。
穴馬を支持し、大波乱で一攫千金を狙う穴党ギャンブラーたちは色めきたったが、アトランティダにとっては日常茶飯事の通常運転であり、夏めく薄暑の競馬場をそよぐ薫風を楽しむかのようにステップを踏んだ。
パナマという先行馬が一頭抜け出し、後続を引き離してハイペースの逃げに持ち込むと、馬群は大きく縦に広がった隊列となり、アコーディオンのように伸びた。アトランティダは悠然と最後尾付近に構え周回を続ける。
▲〔1932年マドリード大賞の最初のコーナーを写したと思しき写真。アトランティダは最後方付近からレースを進めているのが見てとれる〕
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
4コーナーを迎える頃、いつの間にか白い馬体は前方を射程圏に収め、最終コーナーをカーブし終える頃には先頭から4番手につけ、直線を向くとすでに3番手に上がってきていた。ヒメネス騎手が追うといつもの独特の頭を高くして走るモーションで颯爽と前を交わし去り、2馬身差の快勝でレースを締め括った。
勝ちタイム2:40.6はレコードタイムで、前年のタイム2:56.8と比較すると16秒以上も速いタイムとなる。
全世界を見ても、前年と16秒以上の時計差を記録してレコード勝ちの連覇を果たした例は他に無く、これだけでも彼女の途方もない巨夢のポテンシャルを物語る一つの指針となるであろう。(その連覇どちらもほぼ馬なりで流して成し遂げていることも留意されたい)
いかに前年が極悪なコンディション、条件で行われていたかを物語ると同時に、良馬場でも劣悪な不良馬場かつ雨や強風の悪天候に見舞われた悪条件であっても、アトランティダはどちらの環境下であろうと変わらぬ能力を発揮出来るという、証明にもなる記録である。そしてこのタイムは、ヌーヴェルアンが1920年のマドリッド大賞にてマークした2:42.6を12年ぶりに塗り替え、そして2秒も更新する大レコードとなった。
▲〔先頭に躍り出て楽な手応え、持ったままで突き放していくアトランティダ〕
(写真引用:pduerogpm.blogspot?LA HISTORIA DEL GRAN PREMIO DE MADRID?1932 Atlantida)
▲〔ファンから祝福を受けるアトランティダとヒメネス騎手〕
(写真引用:Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?)
レースを終え、ファンの前に戻ってくると、観衆は皆スタンディングオベーションで白き女帝と偉大なる名手を讃え、賛美、賛称を送った。
白き神話の大女帝を間近で見ようと、感極まったファンたちが祝福と讃美の言葉を、アトランティダとヒメネスへ花束を渡すかのように掛け続ける。主役の二人を包む観衆の祝辞、祝砲の宴は、しばらくカステッラーナ競馬場を包み、その熱情と熱気は、夏を加速させるかのように周囲へと残響を風に乗せ、夕陽が照らす街へと吹き抜けていくのであった。
(写真引用:HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932)
■珊瑚に抱かれ眠る?白き神話?
〔アトランティダが某人気育成アプリゲームの娘化がされたら…こんな雰囲気なのかもしれない〕
アトランティダは、距離が延びれば伸びる程に神化し、真価発揮する馬だった。
白き白銀の馬体と青空のような碧眼を持ち合わせていた美麗な容姿に加え、人懐っこい愛くるしい性格もあいまり、多くのファンから絶大な支持と人気を博した。
前述のように、レースではその独特の走法とモーションで他を圧倒し、凱歌を重ねた。
スペイン競馬のレジェンドジョッキーであったヴィクトリアス・ヒメネス氏も最も信頼し、特別な心愛と崇愛を寄せたパートナーであった。オーナーのシメラ伯爵もまたそれは同じで、アトランティダへの慕情は計り知れないものがあった。
▲〔現役時代最晩年の一枚。白光の馬体とキラキラと輝く瞳。堂々たる振る舞いでレースへと臨むアトランティダ〕
(写真引用:Hippodromo ?REVISTA DEPORTIVA IL USTRADA?《ATLANTIDA》momentos antes de su triunfal reaparición. —(Foto Legorgeu.))
しかし・・・
運命とは残酷なもので、アトランティダの牝系は途絶えてしまっている。
少なくとも筆者の調査では、彼女の子孫を現代競馬で発見することは叶っていない。
一日にして海の底へ沈んでしまったという伝説のアトランティス・・・
白き伝説の名牝もまた、その名に宿った天命になぞらうかのように、渺茫たる歴史という大海の中、音もなく沈降し、マリンスノー降り積もる深海の底、珊瑚の手に抱かれ永遠なる眠りに就いた。
沈心黙考、黙想・瞑想に浸透滅却させ、ココロを歴海へと沈潜させ、思いを馳せる・・・
太陽沈まぬ情熱の大地、偉大なるホースマンたちと手を取り歩んだ、白き神話の大女帝。
綿津見の彼方へ消えた、彼女が描いた心絵は、果たしてどのような景色であったのだろうか。
マリンブルーの青炎なるその瞳に映った色はきっと幸運多福溢れる幸せの色だったと信じたい。
「あなたをひとりにしない。
心はずっとそばにいる!」
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
【参考文献】
・Hace cincuenta años.
・Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?
・Hipódromo de La Zarzuela
・世界名馬列伝集「ネイティヴダンサー」
・Wikipedia「ネイティヴダンサー」
・うみねこ博物館「ネイティヴダンサー」
・Wikipedia 「アトランティス」
・Wikipedia?Valentín Menéndez San Juan?
・wikiwand「アトランティス」
・カラパイア 不思議と謎の大冒険「サハラの目と呼ばれるミステリアスなリシャット構造が、「アトランティス」の遺跡であるとする新説が発表される」
・TABIZINE 「アトランティス、ムーなど超古代文明は本当に存在したのか?【世界の謎】」2017年12月2日
・meteorologiaenred「アトランティスはどこか」
・Youtube Naokiman show「アトランティス大発見か?!」(都市伝説)
・Youtube Naokiman show「アトランティス文明はやはり存在していた?!」(新発見)
・Youtube TOLAND VLOG「日本の大部分が沈没する!?ディズニーが描いたアトランティス大陸の真実がヤバすぎる。」
・Youtube コヤッキースタジオ「超古代文明アトランティス大陸の正体がついに判明。地球の地下に見つかった【 都市伝説 アトランティス 地底 地下都市 古代遺跡 】」
・pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?
・equijar 2.0
・equijar 2.0「Marqués de Martorell」
・equijar 2.0「Conde de la Cimera」
・Mis años en Astillero 1947-1961?CONDE DE LA CIMERA Finca de Juenga en Guarnizo?
・desanlucar.blogspot
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・EL IMPARCIAL, martes 23 de junio de 1931
・HERALDO DE MADRID, lunes 22 de junio de 1931
・HOJA OFICIAL DEL LUNES, lunes 22 de junio de 1931
・LA VOZ, lunes 22 de junio de 1931
・HERALDO DEPORTIVO, domingo 5 de julio 1931
・ABC, martes 28 de junio de 1932
・EL IMPARCIAL, martes 28 de junio de 1932
・EL SIGLO FUTURO, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932
・LA EPOCA, lunes 27 de junio de 1932
・LA LUZ, lunes 27 de junio de 1932
・LA VOZ, lunes 27 de junio de 1932
【引用写真・イラスト元】
・Thoroughbred pedigree
・Sports horse data
・Hace cincuenta años.
・Caballos y Caballeros ?viernes, 7 de mayo de 2010 Biblioteca C&C (y1): "Victoriano Jiménez, el internacional", por Héctor Licudi?
・Hipódromo de La Zarzuela
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・equijar 2.0
・Wikipedia 「アトランティス」
・Wikipedia?Valentín Menéndez San Juan?
・wikiwand「アトランティス」
・meteorologiaenred「アトランティスはどこか」
・pduerogpm.blogspot.com?マドリードGPの歴史?
・Revista "Crónica" 15 de junio de 1930
・Hippodromo ?REVISTA DEPORTIVA IL USTRADA?《ATLANTIDA》momentos antes de su triunfal reaparición. —(Foto Legorgeu.)
・無料イラストAC
・フリー素材「ブルーグリーン」
・ちちぷいさんイラスト「深海のあの子」
・ABC, martes 23 de junio de 1931
・EL SIGLO FUTURO, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, lunes 27 de junio de 1932
・HERALDO DE MADRID, martes 28 de junio de 1932
・Besthdwallpaper.com「アニメ 学校生活」
・freepik.com「白い髪と青い目をした美しいアニメの女の子」
]]>
(写真引用:Club Social y Campo de Pato)
■はじめに
2024年2月12日(日)、世田谷の馬事公苑にて行われた
『ホースメッセ2024』。
今開催の中で行われた講習会の一つ、「乗馬界の秘密兵器『ホースボール』と競馬界の切り込み隊長おさむとなべの危険な!?コラボ講習会」に参加させて頂きました。
その際、目の前で、初めて生で見たホースボールにいたく感銘と感動を受け、記事に起こしてみました!
貴重なお時間を頂きました西島隆史様、そして有意義で素敵な講習会を催して下さった関係者の皆様にこの場をお借りして感謝申し上げます!🙇♂️
この記事を目を通して下さった方、皆様が、ホースボールに興味を抱いて頂けたら、記事冥利に尽きます😭
ホースボールの益々の発展と日本代表の活躍を、心より祈念致しております❗️🙏
■ホースボールとは!?
まさにその名称の如く、馬の球技!
「乗馬しながら行う球技」であり、その様はラグビーのように映る激しいモーションから、「ケンタウロスのラグビー」と表現されることも。
そのラグビーや、サッカー、バスケットボール、野球のように1点でもより多くの点を取ったチームが勝利したとみなされます。
ポロ、ラグビー、ネットボール、バスケが組み合わさったスポーツというとイメージしやすいのかもしれません。
(逆に混乱する!?😅)
【ホースボールの基本ルール】
・1チーム4騎、4騎vs4騎
・前半10分、後半10分の20分勝負。
・前後半の間に5分のインターバルが設けられる。
・落馬してしまった者が出た場合、再騎乗してスタート。
・使用するボールは、サッカーボールの四号球のもので、
皮の取っ手のついた特殊なボールを用いる。
・ドリブルとパスを繋いでゴールを目指すが、得点する前には、
3人の異なるプレーヤーの間で最低3回パスを交わさなければならない。
・タックルあり。
・交代要員として2名が控えていて、プレー中断時にいつでも交代することが可能。
・ボールを10秒以上持つと反則。
・馬が静止した状態でボールを拾うとペナルティ。
・ボールが地面に落ちたときは、プレーヤーは馬から降りたりペースを変えたりせずに
動きながらボールを拾わなければならない。
・ゴールは、3.5mの高さに設置された直径1mのフープにボールを投げ入れることで
点を得ることができる。
・ゴールが決まったら1点。バスケの3ポイントシュートのような物はない。
・ピッチのサイズは、約65メートル x 25メートル
(約215フィート x 80フィート) の長方形。
■ホースボールの誕生と原点
ホースボールの誕生は、障害飛越世界チャンピオンであるフランス陸軍大尉クラーベの発案から。
そのアイデアは、「馬と騎乗者のパートナーシップを改善し、標準的な乗馬馬術でプレイでき、何より楽しくプレイできる競技を作ることであった。この技術は、ボルドー地方の乗馬インストラクター兼ラグビー選手であるジャン・ポール・デポンを会長とする委員会を設立したフランス人たちによってさらに発展を遂げていく。フランスでホースボールのルールを規定したのは彼らであり、1970年代後半、フランス馬術連盟 (FFE) はホースボールを競技として認め、とりわけプロヴァンス、ミディ、ロワール渓谷の地域で急速に人気を高めていく。現在のルールは1978年にフランスで制定されましたが、国際的な進展が進んだのは、90年代初頭になってからで、1992 年にフランス、ベルギー、ドイツ、イギリス、イタリア、ポルトガルで国際競馬委員会が設立、最初のヨーロッパカップが開催される運びとなりました。同年12月には、パリでサロン・ド・シュヴァルが開催。その直後、オーストリアもこの連盟に加わっている。
フランスで誕生した、この馬に乗りながら行う球技は、「 いつかホースボールがオリンピック競技になって、世界中の人と一緒に楽しめるように 」という想いを込めて、英語で?Horse Ball?と名付けられたのです。
★ホースボールの原点?パト?
(写真引用:El Juego del Pato – Ángel Della Valle – Óleo Sobre Tela – MNBA)
そのホースボールの原点とされるのが、アルゼンチンの国技にもなっている”パト/PATO”という、ガウチョ(アルゼンチン版のカウボーイ)達の遊び。ガウチョたちは1610年頃にこの遊びを発明したとされ、1953年9月16日、当時の大統領だったフアン・ドミンゴ・ペロン将軍により、パトは正式にアルゼンチンの国技に認可され、サッカーが絶大な人気を博す前までは、パトがその地位を持っていたとまで言われている。ちなみにアルゼンチンにおける初となるサッカーの試合は1867年6月20日に行われているが、その当時はパトの方が市民権も掌握していたようである。
ちなみに?パト?とはアヒルという意味らしいのだが、この由来は当初、ガウチョたちがアヒルを殺してボールを作っていたことに起因していると口伝される。
黎明期のパトは非常に暴力的なスポーツであり、その上、ルールが正確性を欠いていたため、数年間禁止となった時代も。
時が経ち、1937年から38 年にかけて、パトの最初のルールが文書化される。時をえる中で、制限は徐々に解除されていき、このスポーツは再び脚光を浴びるようになる。1941年にはアルゼンチンパト連盟も設立し、ホースボールへと姿と変えていくこととなる。
現在、アルゼンチンで行われているパトのチャンピオンシップ、最多の優勝を誇る最強のチームは、バランカス・デル・サラドで15回のタイトルを獲得。2021年4月に行われたアルゼンチンパト連盟80周年記念カップでも優勝したのはバランカス・デル・サラドであった。
〔パト最強のチーム、アルゼンチンのバランカス・デル・サラドの試合風景〕(写真引用:testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?)
■日本におけるホースボールの歴史
日本でも2008年前後からホースボールを導入しようとする乗馬クラブや施設がいくつかあったと聞いている。
しかし、日本は乗馬文化が乏しく、馬の技術面や安全面で問題があり継続、発展にはらなかった。
そんな中、2012年に一般社団法人日本ホースボール協会が発足。一筋の光明が差した。
全く平坦ではなく、苦難・患難を乗り越え、2022年にはホースボールワールドカップへ初出場。
結果は10/10位も、SNSやインターネットを通し、その活躍は多くの人に知れ渡ることとなった。
大きな大きな意味と意義を成すワールドカップ初出場であったことは間違いない。
■日本ホースボール界の
?レジェンド?西島隆史さん
(写真提供:日本ホースボール協会)
そんな日本ホースボール界のレジェンドたる存在が西島隆史氏である。
日本ホースボール協会の代表理事も務められている西島さんは、2018年の7月ポルトガルのリスボンで行われたFIHBの公式戦、HCC SUMMER SESSIONS 2018において、キャプテンを務めたチームで優勝。さらには個人でも大会MVPに相当する、「最優秀人馬賞」のタイトルまで獲得されたのである。
ホースボール界を牽引する最大の功労人であり、最もホースボールの魅力を知り、ホースボールに生涯を捧げるレジェンドプレイヤー。彼なくして、日本のホースボールの発展は無かったかもしれない。それ程に大きな影響力を持ち、熱い情熱と馬への愛を抱かれている方である。
西島さんがホースボールを知ったのは、2009年暮れ。当時はまだホテルマンをされており、信じ難い話だが、乗馬も未経験。
ホースボールフランス代表の写真を見て、一目惚れ。衝撃を受けた西島さんは乗馬クラブで無給の研修生からスタートを切ったという。西島さんは?引退馬(引退競走馬)に新たな活躍の場を作ること?。このスポーツを通して?日本と世界との親交を深めていくこと?。そして?ホースボールの魅力を多くの人へ普及させていくため?という大志を持って粉骨砕身の努力を続けられ、現在のカタチを築き上げられている。
(写真提供:日本ホースボール協会)
しかし、まだまだとその瞳は常に未来へと向けられ、一層の努力を欠かす事なく、ホースボール発展のため、日々馬と共に歩まれている。まずは2025年3月のホースボールWC、アルゼンチン大会へ。その楽しみは尽きない。
〔ホースボール日本代表の皆様(2022年フランス大会出場時)〕(写真引用:日本ホースボール協会・公式twitterより)
◎ホースボールに挑戦しよう!体験してみよう!
ホースボールの体験ができます!
体験レッスンとして、
初回のみ8,000円※(税込)で体験頂けるそうです!
【レッスン場】
〒286-0222 千葉県富里市中沢1810-1
https://goo.gl/maps/2z3B5Q5dJYXsS9ZG6
そしてホースボールの魅力として・・・
競技人口が少ない=チャンス❗️
まだまだ知られていないからこそ、日本代表になり、世界で活躍することも夢ではない!
強い意志と大きな想いが強ければ、
夢は形に出来ることを既に西島さんが実証済み。
来れ!未来の日本代表!
サッカーWC優勝、日本馬の凱旋門賞勝利より先に、
ホースボール世界一を見せてくれ!!
《公式SNS一覧》
《参考文献・引用写真》
(ホースメッセ2024の講習シーンより。撮影:海猫)
【参考文献】
・日本ホースボール協会・公式ホームページ
・日本ホースボール協会・公式X(旧:twitter)
・日本ホースボール協会・公式Facebook
・日本ホースボール協会・公式instagram
・日本ホースボール協会・公式Youtubeチャンネル
・Wikipedia 「ホースボール」
・Wikipedia「Horse Ball」
・Sport2 for social「【3分解説】ホースボールとは?そのルールや魅力をわかりやすく紹介!」
・Loveuma「仕事を辞めて未経験者が競技の道へ!?心を突き動かした「ホースボール」by 西島 隆史さん」
・スポスル「ホースボールの歴史・ルール・大会【スポーツ辞典】」
・testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?
・notaalpie?70 años del pato como Deporte Nacional argentino?
【引用写真・イラスト元】
・Club Social y Campo de Pato
・testimoniosba?¡La Argentinidad…al Pato!?
・notaalpie?70 años del pato como Deporte Nacional argentino?
]]>
(写真引用:『OKINA PROJECT』)
神聖極めし特別なる存在「翁」
「能」に使われる面、翁の面には馬の尾の毛が使われている。
その「翁の面」は特別な面である。
能の歴史は杳遠なるまでに古く、能が大成してからおよそ650年の瀝譜を辿ったという。
しかし、「翁」の濫觴は、それよりもはるか古くまで遡求されるのだと伝えられる。
「翁」の深淵に滔々と流れる信念、理念は、時間として縄文時代にまで至る幽玄性や、地理的地概的側面からはユーラシア大陸一帯にまで広がる広大性の浪漫が秘められている。
能は神に捧げるものであり、その演目は200前後にも上る中、特に神聖視されている特別な能が「翁」なのである。
能の主人公の役柄は神・男・女・狂・鬼のいずれかに該当するものの、「翁」はこのいずれにも属さない。
正式な上演の際には、一日の最初に必ず「翁」が舞われ、その後に様々な能や狂言が演じられているという、特別視がされている他、新年など限られた時にしか「翁」の面は使われず、加え、演目「翁」を演じる時にのみ使われるのが「翁」の面なのである。
それが「翁」は「能にして能にあらず」と言われる由縁であり、正に格別別格の神聖的演目なのである。
翁の面は、満面の笑みをたたえた、能面でも珍しい「笑顔」の面であるが、演目「翁」では、そこに物語めいたものはなく、終始一貫として「祈り」として行われる神聖な儀式であり、演者は神となって天下泰平、国土安穏を祈祷する舞を披露する。
その所作、仔細一つ一つの意味する所には、多くの謎と神秘性に包まれている。
(写真引用:『OKINA PROJECT』)
〔「翁」の演目を演じる際は、翁を舞うシテ(能を舞う主人公)となる者は、舞う1週間ほど前から禁欲的な生活に入る。「潔斎精進(けっさいしょうじん)」といい、肉食と飲酒を断つ。さらに、それに加え、前日と当日は「別火(べっか)」といい、食事やお風呂に家族とは別の火を使うことになる。別火とは、むかし穢れ(けがれ)は火から広がっていくと考えられていたため、神となるために火を別にして心身を清める意味があります。多少簡素になっているとはいえ、今でもこの慣習は受け継がれている。当日は鏡の間(演者が舞台に出る前の部屋)に翁の能面をお供えし、御神酒(おみき)を頂いてから舞台に上がる。神になって舞うために禊を行い、心身を清めるのだという〕
(写真引用:《翁図》赤星閑意 江戸〜明治時代(19世紀)永青文庫蔵)
〔(左)黒式尉と(右)白式尉:「翁」に翁役の役者が着用する仮面。目じりを下げ、笑みをたたえた老人の相貌で、眉にはウサギの毛が、髭には馬の毛が施されている。さらに、切り離された下顎が上顎と紐で結ばれている切顎式の造形は能面以前の古態を留めるものとされている〕
■演目「翁」と演目「絵馬」
演目「翁」には、【白い翁】と【黒い翁】が登場する。
白い翁は国土安泰を祈り舞い、黒い翁は五穀豊穣を祈り舞う。
白い翁は、国土安寧(こくどあんねい)を祈る神であり、
黒い翁は田の神様と言われている。黒い面は農作業で日焼けした老人を表したものなのだという。
白い翁は能役者が、黒い翁は狂言役者が演じると決められている。
白と黒には民俗学的にはどういった位置的概念にあるのであろうか。
もう一つ、「白」と「黒」の織りなす演目がある。
それが「絵馬」である。あらすじは以下のような話である。
ある年の暮れ、時の帝(大炊帝)の臣下が、宝物を捧げる勅使として伊勢神宮に遣わされ、斎宮に参拝した。
節分(昔の大晦日)の夜、絵馬が掛けられる行事があるというので、勅使はそれを見物してから帰京しようと時を待った。
すると夜更けに、老翁と老媼が参詣に現れる。老翁は「白い馬」の描かれた絵馬を持ち、老媼は「黒い馬」の描かれた絵馬を携えている。
絵馬には、それぞれの意味があり、白い絵馬は晴れを、黒い絵馬が雨を占うもので、掛けられる絵馬により、翌年の天の恵みがわかるというもので、毎年どちらかの絵馬が掛けられていたという背景がある。
二人は、「白い絵馬を掛けよう」「黒い絵馬を掛けましょう」とそれぞれ自分の絵馬を掛けることを主張し、意見がまとまらない。
一つに決まらず、言い争いに発展してしまうものの、最後には、お互いの絵馬を並べて掛けることで解決。
晴雨がうまく合わさって、万民が楽しむ世にしようと祈願することにしたのであった。
そして二人は、自分たちは伊勢の二柱の神(伊勢二柱の神に仕える神)であると明かし、夜明けにまた逢おうと言い、闇にまぎれて勅使の前から姿を消す。
…という内容の演目であるのであるが、この物語の舞台となる伊勢神宮には、白と黒の神馬像が奉られている。
この神馬像は、現在は伊勢神宮の分社である、富山県の十社大神に現在は移されているのであるが、
「晴乞いは白馬に、雨乞いは黒馬に祈るとよい」という伝承が伝わっている。
〔十社大神の白と黒の神馬像〕(写真引用:小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3))
これら、演目「翁」、演目「絵馬」、伊勢神宮の神馬像。
3者の白と黒の存在は同位的存在と見做すことは出来ないだろうか。
白い翁(白式尉)=白馬の絵馬=白の神馬像
黒い翁(黒式尉)=黒馬の絵馬=黒の神馬像
次に、「白」と「黒」の民俗学的見地、立ち位置から考察を深めてみたい。
【白】
生命を象徴する神聖な色。白は「しるし」であり、純潔、無垢、清潔を象徴する存在。
「神の色」とされ、その由来となるのは古代の神々、神話中の神々が白い衣服を纏っており、神の使いも白色であることから、白は神を顕す神聖なものと考えられているのである。
また「白」は時代すらも変える神聖な色とも考えられてきている。
白馬や白蛇など、白い動物は神聖化されるが、これは日本に限ったことではなく、世界共通の概念であり、思念思想である。
事実(本当にあった事かどうかは別として)、『日本書紀』孝徳天皇、白雉元年(654年)の条では、穴戸(長門)の国司である「草壁連醜経」という人物が白い雉を献じた時に、「公卿より始めて、百官等に及るまでに清白けき意を以て、神祇に敬奉りて、並に休祥を受けて天下を栄えしめよ」と言って年号を「白雉」と改めたことが記されている。
他方、光仁天皇も、即位にあわせて肥後国から白い亀が献上されたことで、ただちに年号を「宝亀」と改めたともされる。
こうしたことから、時代を変える力さえも「白色」にはあったと考えられるようになっていく。
加え、白色は「誠」あるいは「内に含むことのない」?心のしるし?を表す色ともされ、平和を願う色ともされる。
白は平和の象徴であり、平和のシンボルを顕す色。その代表例と言えるのは白い鳩であり、白旗は停戦を意味する。
降伏の?しるし?に白旗を掲げた最初の事例としては、『日本書紀』に記されたものが最も古く、推古天皇の8年(600年)の条に、戦場で新羅王が白旗を上げたと伝わっている。
神話の神々に倣って純粋無垢、純潔・誠実を示し、時代を変える、平和を願う、生命の象徴的神聖な色。それが「白」なのである。
それは、白き翁、「白式尉」の舞、その存在そのものではなかろうか。
【黒】
人類が一番初めに得た色が、「黒」の「墨」の色だと
考えられている。
領域の境、境界線を意味し、絶対的不変を顕す色。
それが黒である。
また黒は、「夜」を現す色ともされ、対をなす色は「白」と思いきや「赤」である。
「黒」は「暗い」から、「赤」は「明るい」から起因するという謂れがあるのであるが、真の対位は「白」であると私は考える。
「しろ」と「くろ」、語尾が同じである唯ニの色であり、「黒と白」は、明暗のコントラスト、昼と夜、男性と女性、善悪を象徴する符号であり、それを示す思念の発端と思われる道教では、宇宙の2つの補完的性質、「陰と陽」は、しばしば黒と白で象徴され流ことからも二者が相反する相対的位置づけとなっている事は明白である。
「太極図」は正にそれで、陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。
〔太極図〕(写真引用:Wikipedia「太極図」)
いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。
碁やチェスのようなゲームも、「白と黒」を使って両面を表現している。
特に、囲碁は黒と白の碁石を、361ある升目の碁盤の上を舞台に遊技される。361の升目は旧暦の1年を表しており、碁石の白は昼を。碁石の黒は夜を表すものだという。実のところ、囲碁は古代中国において天文と易の道具として発生した物と伝わっており、囲碁は暦を理解する道具でもあったのだという。
「白」=「昼」=「太陽の時間」=「太陽の神」=「天照大神(あまてらすおおみかみ)」。
「黒」=「夜」=「月の時間」=「月の神」=「月読命(つくよみのみこと)」。
全て相反する符号が形成される。
ツクヨミは農業・農耕の神ともされ、ここから「田の神」としての役割を担う「黒い翁」「黒式尉」にもリンクしてくる。
加え、もう一つ、黒を語る上で重要なファクターに「畦」がある。
「くろ」は田圃の畦に関係しており、日本各地にその謂れ、由緒は残されている。
新潟県南魚沼郡では畦を固めるクロカチと畦塗りを?クロヌリ?と称している。
また畦に豆や小豆を作ることを?クロサク?といい, 静岡県浜名郡では苗代の四辺に成長した苗を?クロナエ?(畦苗)と呼び,新潟県西蒲原 郡では?クロボコナエ?と称している。 関東,東海,北陸,近畿,東北の一部にかけて土方のことを?クロクワ?と称するが, 一部では石垣作業者を指す場合もある。佐渡ではクロクワ(黒鍬)は土方の使う鍬のことを指しているが,能登では溜池の堤を修復するやや厚みのある鍬を黒鍬と称しており,田圃と関係した池や用水の土手に使われる専用の鍬をいうのであろう。
いずれにしろ,黒は畦とか堤といった境界を象徴しているもので,苗代のシロ(白) を囲む畦のクロ(黒)が対比されるのである。
田圃=「田の神」が通じてくる。「黒式尉」は田の神を顕す存在とされるが、黒式尉の黒色は、正にこの「畦」の概念が反映されてのものと考えられよう。
神聖なる白き翁、生命の象徴的「白」と対を成し、かつ「生と死」「昼と夜」「太陽と月」の境界となる、
絶対的不変の色が「黒」なのである。
かつて、喪服は「白」であった。
「日本書紀」をはじめとする古代の文献に喪服は白であったという記録が残っている。
実は、喪服が黒という定義が生まれたのは、比較的最近のことで、明治時代に政府が欧化政策の一つとして西洋の葬祭儀礼を広めたことが切っ掛けとなっている。
具体的には、明治30年の皇室葬儀のとき、列強の国賓の目を気にして黒色での統一が決定したらしい。
その後、皇室の喪服が正式に黒と規定され、庶民もそれに従って徐々に広まっていった。
とは言え、黒色が喪服の色として広まった背景には、「不浄」を意味する黒と「死」と関連する葬儀が、イメージとして違和感なく結びついたことも関係しているのではないだろうか。
白は神の色であり、純潔、清廉潔白を意味し、生命的象徴を表す。
死装束が白である理由は、来世に再生して成仏する資格があるとして、身の潔白を証明するためだ。
神仏への従順な心の潔白を示す意味で、白が用いられてきた。人は生まれた時、白い布で包まれ、白に包まれ旅立っていく。
そんな神聖的生命の白と明確な区別、領界線を設けるべく、黒が使われるのである。
■「白色尉」「黒色尉」の舞と白黒神馬の心念
神聖なる白馬の尾毛が使われる、特別な面「翁」。
永遠なる平和と、生命への尊き祈りを祈念する、
白き翁の神聖なる舞。
それは、黒き翁が五穀豊穣を祈る舞を披露する事で、
完璧な形となる。
国土安寧を祈り、天に輝く太陽の舞。地に足を着け、人類の努力・農作を鼓舞する夜に輝く月の舞。
二者が織り成す演舞により、そこに無限不変の神威的祈念が生まれ、天寿が結ばれるのかもしれない。
《参考文献・引用写真イラスト》
【参考文献】
・『OKINA PROJECT』
・『能・狂言を観に行こう!』「能面 翁に隠された意味と祈りの心、黒い翁と白い翁の違いとは?」
・『The 能.com』「演目辞典:「翁」」
・『The 能.com』「演目辞典:「絵馬(えま/えんま)」」
・『enpaku早稲田大学坪内博士記念演劇博物館』「「白色尉」(翁面)(はく しき じょう おきな めん)」
・『HANA-MEIWA』「【2023.11.4】斎宮奉納薪能〜斎宮・竹神社ゆかりの地で繰り広げられる、五穀豊穣への祈りの舞〜」(2023年10月12日)
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・きららか射水観光NAVI
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
・「古代日本の「白色信仰」白い色は〇〇の色…?日本人と白色の浅からぬ関係」(歴史好き太郎、2021/3/20)
・Youtube【民俗学 / 解説】白い色は尊さの証?白色にまつわる民俗学の解説【VTuber/ 諸星めぐる 】
・民俗学ラボ「どうして葬式には「黒装束」で参列するのか?」
・Wikipedia「白」
・Wikipedia「黒」
・The culture of black(株式会社 京都紋付)
・Wikipedia「太極図」
【引用写真・イラスト元】
・『OKINA PROJECT』
・《翁図》赤星閑意 江戸〜明治時代(19世紀)永青文庫蔵
・国立能楽堂提供:『能舞之図』より「翁」
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
]]>
【ユニコーン関連追加調査レポート続秘話】
(イラスト元:Yuri Arcurs Peopleimages/PIXTA)
新宿・歌舞伎町のとある街角に
ユニコーンの像があるのを
ご存知だろうか。
この像は非常にユニークで、男の子と女の子、
その子供たちの間に割って入る形で
ブリキの(?)ロボットが乗っている
一角獣像なのである。
この像、名前が付いており、
『ユニコニコーン』という。
1993年に中野滋氏の手で作られた作品で、
新宿区新大久保病院正面玄関横、
隣接する東京都健康プラザハイジアと共に
超高層ビル群の合間、そっと佇んでいる。
【ユニコニコーン】
(写真引用:Craig Randridge)
彫刻家・中野滋先生の作品(制作1993年)。
中野先生は何を想い、
何を願ってこの大都会の真ん中、
新宿の街角にこの一角獣像を創られたのでしょうか。
子供が無邪気に笑い、ロボットも関係なく、幻獣と
戯れる夢の一幕から彫像となってここへ
鎮座させられたかのような、そんな心持ちになって
ユニコーンを眺めてしまう。
〔ユニコニコーンの台座に記された銘板には作品名、製作年、作者名に加え、タイトルの上、頭には小さな角のデザインが〕
実は、広島県呉市にも『ユニコニコーン』はあり、
こちらも中野先生が作られた作品である。
〔広島県呉市のユニコニコーン。(写真引用:ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日)〕
実は、この新宿・中野界隈には角や翼が生えた像が他にもある。
それが【守護神】と【ペガサス】。
〔「守護神」(左)と「ペガサス」(右)(写真引用:Googlemap)〕
「守護神」は、1963年(昭和38年)の制作で、不死鳥をイメージして造られた彫刻であるという。
一見、正面から向き合うとフクロウ?とも思えるが、猛禽類を思わせる風貌をしている。
不死鳥をイメージして創られたという。「光る瞳を持つ頭に角の生えた鳥」とされる。
(中野区立図書館・中野の彫刻にまつわる話より)
〔高層ビルの谷間にひっそりと佇むユニコニコーン(写真引用:Googlemap)〕
さて。ここからが本題です。
一角獣、角のある馬についての奇妙な話・・・
今回は3つご紹介させて頂きましょう。
大都会のどこか
摩天楼聳える
風の通り道のような隙間・・・
街路樹の影、小道の暗渠…
どこかに一角獣はいるのかも・・・しれない。
?一角獣奇譚夜話??
【角のある馬「グヌー」】
1920年代初頭、ドイツ・ベルリンを中心に、
欧州中を行脚し、動物に芸をさせる興行を行なって、
大きな話題と集客を集めていた曲芸集団があった。
ドイツ人のカール・クローネ夫妻が統率し、率いた大曲馬團。
ヨーロッパ中を移り巡って興行を展開し、
ベルリンにも大抵毎年1年毎に来て、
1ヶ月くらい滞在し、街の話題の的に
なっていたという。
クローネサーカス団がやってくると、街は湧き立ち、
子供たちは大喜びであったそうです。
このクローネ夫妻の曲芸集団は、動物が400種類も
おり、使用人が700人もいる大集団であった
とのこと。
獣使いを務める黒人スタッフだけでも100人以上
雇用していたとされており、この大集団は
自家用列車の中で生活し、巡業を行なっていたそうです。
このクローネサーカス団の中に、
「角のある馬」として注目を集めた特異な
存在がありました。
この動物は名前を「グヌー」と呼ばれ、
皆から愛されたそうです。
これがその写真なのですが、皆様はどう思いますか?
正直どう見ても別な生き物にしか思えないのですが・・・
これ、ヌーではないですかね…
ヌーは英語で「Gnu」と書きますよね。
・・・あっ・・・
もうこれ以上は黙ります(笑)😅
?一角獣奇譚夜話??
【「馬の角」裁判】
これは、大正時代の日本で実際に起きた裁判事件の話である。
大正3年3月、鹿児島県鹿児島市金生町の
山形屋呉服店で、桜島爆発記念陳列会が
開催された。
山形屋は、鹿児島を代表するデパートとして有名な百貨店であった。
この陳列会に「馬の角」が出品されたが、
行方知れずとなり、返却は結局されませんでした。
これを受け、持ち主は出品を勧誘した山形屋主人と
幾度となく交渉を試みたものの決着せず、
現品返却出来ないなら、五千円を支払うようにと訴えました。
被告となった山形屋は、そもそも「馬の角」を
預かったことはないと、訴えの棄却を求め争うことに。
これが「馬の角裁判」のあらましであり、
これは実際に『鹿児島新聞』が報じている。
鹿児島地方裁判所にて答弁、喚問、尋問は行われ、
論争は大混乱を呈した。
裁判では「馬の角」のそもそもの存在の真偽も焦点となり、被告代理の弁護士は原告に対し、
「果たして行方不明となった品が馬の角と信じているのか?」と問い、
それに対して、原告側の代理弁護人は
「由来書があったが今は紛失しており、口伝もあるが明らかではない」
と答えたという。
被告代理弁護人は追随し、
「「馬の角」は学理上果たして存在するものかどうかを確かめるため、その道の専門家の鑑定人を上げてもらいたい」と希望を述べ、次回は鑑定人を連れてくるととして閉廷したようである。
結局、この裁判は山形屋側が勝訴し、
原告側は長崎控訴院にも控訴したが、
大正十年八月、棄却されて敗訴が決定したそうです。
この事件、皆様はどう感じますか。
私には、原告側が金欲しさに行なったでっち上げ・・・
のように感じざるを得ない部分が多々あるのですが…
真実は闇の中です。
?一角獣奇譚夜話??
【黄金の鬣を持つユニコーンの写真】
こちらのお話は、米国で起きた出来事。
1983年の11月5日(土)、バージニア州にあるシェナンドー国立公園にて、ハイカーのスティーヴ・エヴァンスさんとケイス・ハラムさん2名が散策中にユニコーンと思しき未知の動物に遭遇し、写真に収めることに成功。
獣は白い体に、黄金にも思える鬣をと、額から突き出る鋭い角を持っており、蹲って卵を守っているかのように鎮座していたという。
2名は新聞社にこの写真を持って駆け込み、大きく各紙が紙面を割いて報じました。
〔こちらが実際の新聞の内容。『The Shreveport Journal』の11月9日(水)の一面〕
そして、こちらの写真が二人が撮影したという、
金色のタテガミを持つ、ユニコーンの写真になります。
(写真引用:Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49))
真偽は定かではありませんが、一説では二人、
もしくは全く関係のない第3者が公園内に
住む動物に悪戯し、タテガミと角の付いた
ウィッグのようなものをつけたのではないか…
などと言わました。
どうも新聞の取材を受ける二人の様子も、
写真の表情が仕草からの邪推になってしまいますが、「してやったり」のような、ネッシーを筆頭にUMAの衝撃的写真を撮影した方々のように、有名になれる…
名が売れる…そんな潜めいた裏にひそむ野心のようなものを感じてしまう部分も…。
しかし、この国立公園は広大で、197,000エカーもの面積があり、多くの動植物たちの楽園ではあるものの、写真のような野生馬の棲息は報告されておらず、謎は深まります。
公園に乗馬施設はあるものの、そこから逃げた馬なのでしょうか。
それとも、二人が運んだものだったのか・・・
写真を撮影したキース氏はユニコーンは信じておらず、
それまで存在には否定的であったと語っており、
「写真に撮っていなかったら今でも信じていないよ」
と述べている。
新聞は、とある動物学者の一語でこの記事を締め括った。
「その存在はあり得ないことではない。ユニコーンと比較して、これまでキリンはあり得ない動物であり、カバは悪夢であり、アリクイやアルマジロは信じられない動物だったのだから」
いかがでしたでしょうか。
今回の一角獣、ユニコーン絡みの追加調査のまとめは
以上となります。
引き続き、ユニコーン・一角獣・角が生えた馬の
調査・研究は継続して参ります。
続報、また面白い話が調達出来れば、お伝えさせて頂きます。
それでは、また!
〜美空より〜
「海猫さんのアシスタント、美空(みそら)です!ユニコーン、一角獣、角が生えた馬の情報をお持ちの方、些細な情報でも構いませんので、当コラムのコメント欄、海猫さんのtwitterのDM、海猫さんのメール(kk815421830@yahoo.co.jp)へぜひぜひ情報をお寄せくださーい!」
《参考文献・写真イラスト引用元》
【参考文献】
・『神使像めぐり「東京近辺の動物のオブジェ」』(福田博通)
・ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日
・『中野駅、千光前通りにある3つの彫刻─守護神・ペガサス・プロメテウス像を訪問』(渋谷獏 note, 2022年9月16日)
・『奄美大島の「馬の角」』町 健次郎
・『鹿児島新聞』(大正八年三月二十二日付、大正八年七月四日付、大正十年九月三十日付)
・The Shreveport Journal(Shreveport, Louisiana · Wednesday, November 09, 1983・page9)
・The Times(Munster, Indiana, Thu, Nov 24, 1983 · Page 29)
・Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49)
【引用写真・イラスト元】
・Googlemap「ユニコニコーン」
・Craig Dandridge
・ダイヤモンド・オンライン
・uckyStep48/PIXTA
・Yuri Arcurs Peopleimages/PIXTA
・ブログ『歴史さんぽ』「呉市街角の彫刻(2)」2013年5月13日月曜日
・「赤い鳥」(赤い鳥社, 1927-02)
・The Shreveport Journal(Shreveport, Louisiana · Wednesday, November 09, 1983・page9)
・The Times(Munster, Indiana, Thu, Nov 24, 1983 · Page 29)
・Tucson Citizen(Tucson, Arizona, Thu, Nov 10, 1983 · Page 49)
]]>
〜とある麒麟の物語〜
ーフランス初代三冠馬を
馬なりであしらった
首の長い異形異質の歴史的名馬ー
父 フラジョレ(タッチストン系)
母 アローキャリア
母父 アンブローズ(タッチストン系)
生年:1876年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:フランス(英国)
生涯成績:25戦17勝[17-3-4-1]
主な勝ち鞍:英セントレジャー(英・芝2,937m)、英チャンピオンS(英・芝2,000m)、プリンスオブウェールズS(英・芝)、カドラン賞(仏・芝4,200m)、レインボー賞(仏・芝5,000m)、ロウス記念S(英・芝1,600m)、グレートフォールS(英・芝2,000m)、チャレンジS(英・芝1,200m)他
■最強馬候補になるに
クラシック三冠のタイトルは必要なのか
2024年1月、イクイノックスが国際レーティング135という、エルコンドルパサーを上回る日本馬として史上最高評価を受けた。そんな世界最強の頂きに君臨し続けたイクイノックスをも、「最強」とは認めないという一部の方の意見としては「クラシックのタイトルを取れていない」というものがある。最強馬の持つタイトルとしてクラシックのタイトルの有無はそこまで決定的なものであるのだろうか。
史上最強馬候補として挙げられる名馬は…シンザン、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、ディープインパクト、オルフェーヴル、アーモンドアイ…世界的に見てもオーモンド、セクレタリアト…ちょっとマニアックにはなるがアルゼンチンのヤタスト、ルーマニアのゾリデヅィやトルコのカライエルなどは全部三冠馬である。
しかし、クラシックを取れていない、挑戦する事さえ叶わなかった馬たちの中にも史上最強馬候補は多く存在している。日本で言うなれば、マルゼンスキー、エルコンドルパサー、古くはミラクルユートピアなど。世界的に見ても、セントサイモン、リボー、ネアルコ、ハリーオン、ファリス…などなど。こうして見ると、必要なのはタイトルの数ではなく、現役中に示したパフォーマンスこそが史上最強馬候補としてノミネートされる最大の条件であろう。
獲得しているタイトルに難癖をつけるのはナンセンスでしかないと私は思う。
本項にて紹介するレヨンドールも、クラシック競走での獲得タイトルは英セントレジャーのみであるが、示したパフォーマンスは史上最強馬候補に挙げられるべき、異質な存在感を示した名馬であると如実に感じる馬なのである。
馬なりで三冠馬を圧倒してしまった、気難しく?キリン?と呼ばれた伝説的名馬の生涯。
とある麒麟の物語をここに綴っていこう。
▲〔レヨンドールの騎手を乗せた立ち姿〕
■グラディアテュールの牧場で
レヨンドールはフランスのダンギュ牧場で生を受ける。生産を手掛けたのはフレデリック・ラグランジュ伯爵で、彼はフランスの伝説的英雄となった英国三冠馬グラディアテュールの育成も手懸けていた。
父フラジョレ、母アラウキャリアという血統で、父フラジョレもまたラグランジュ伯爵の生産馬であり、フランスで競走生活を送った。しかし、所有権はヨアヒム・ルフェーブル氏へ譲り、リースされて走った。これは普仏戦争の影響を受けてのことであったが、2歳時は現モルニ賞などを制し、英国においてもホープフルSなどを制した。3歳時には同期にフランスの歴史的名ステイヤーの1頭であるボイアールがいた事で主要競走での2着続きが常となるも、英国のグッドウッドカップでは、クレモーン、フォヴォニウスという2頭の英ダービー馬を30馬身も千切って優勝している。それでもボイアールに敵わず2着続きだったという事は、もはやボイアールを褒め称える他無く、フラジョレも十分に名馬クラスの能力を有していたと評価して良いと思う。
母アラウキャリアは現役時に7戦1勝、目立たない牝馬であったが、英1000ギニー馬に先着するなど、類稀なる競走能力は秘めていたようであったが、繁殖牝馬としてその血統的評価は絶大で、競馬史上に残る歴史的大繁殖牝馬ポカホンタスの最後の子であった。ストックウェル、ラタプラン、キングトムの妹という事になり、英国クラシックホースを、レヨンドールを含め3頭も送り出した優秀な繁殖馬であった。
ラグランジュ伯爵の方針としては、所有馬を英国とフランスに分けて育成を行うルールがあり、その判別からグラディアテュール然り、本馬レヨンドールもフランスではなく英国を主戦場とすることになる。レヨンドールは生産や幼駒時代の馴致のみならず、競走馬としての育成過程までグラディアテュールと同じ道が用意されることになり、トム・ジェニングス調教師の袂へ渡ることに。
2歳を迎え、レヨンドールは週に2〜3回の調教を受けて鍛え上げられていくが、当時の記者たちはレヨンドールは晩成タイプと見ており、2歳時から(当時としては)ハードトレーニングを課すジェニングス調教師に対して懐疑的目線を向けていた。
しかし、レヨンドールはその深淵に秘めし巨大なるポテンシャルを既に2歳シーンから垣間見せ、6戦4勝。ラヴァントS、クリアウェルSなどを制した。
3歳を迎え、クラシック競走へ登録を済ませると英2000ギニー(芝1,609m)にぶっつけで挑戦。
2歳時にシャンペンS(芝1,200m)で先着されていたライバル2騎カリベルト、カドガンに先着を許し、レヨンドールは2頭から離された3着に敗れた。続いて出走したのは英ダービー(芝2,440m)。この年のダービーは天候に祟られ、当日は相当に酷い不良馬場での競走となってしまった。レヨンドールは躍起になって先団に取り付き、掛かり気味に先行し、かなり積極的にレースを進めた。これは陣営からの指示、作戦であったとも言われるが、判然とはしていない。そのはやる気持からの無理な先行策と極悪不良馬場の巧拙が如実に顕てしまったらしく、良いところ無く着外での大敗となった。レヨンドールの生涯において最大にして最後の大敗である。
勝ったのはサーベヴィズで、勝ちタイムは3:02.0という、英ダービー史上最遅のタイムが記録されている。いかにこの年のダービーが最悪の馬場で行われたかを物語る一つの指標と言えよう。
■最大のライバル・ルッペラと
歴史的名牝ホイールオブフォーチュン
ダービー後、レヨンドールのエンジンがようやく温まってきたようで、動きも良くなりアスコット開催へと駒を進める。
セントジェームズパレスS(芝1,600m)を快勝し、プリンスオブウェールズSへ参戦。
この時代のプリンスオブウェールズSはまだ2,600mの長距離戦(当時の認識としては2,600でも中距離というイメージ。4,000や5,000のレースも多々あったため)であった。ここには同世代で圧倒的な存在感を放つカリスマ的存在、ホイールオブフォーチュンが参戦してきた。ホイールオブフォーチュンはここまで英牝馬二冠の1000ギニー、オークスをはじめ神懸った強さで無敗の8連勝中であった。ホイールオブフォーチュンは英国の歴史的名手であるフレッド・アーチャーが鞍上を務めていたが、数多の名馬、名牝の背中を知るアーチャーをして「自分が騎乗した中で最高の名牝」と語っている。アーチャーは無敗の英国三冠馬オーモンド、そして世紀の大種牡馬セントサイモンの主戦としても知られるが、セントサイモンを生涯の特別な史上最高の名馬として称え、唯一の対抗馬として挙げているのがこのホイールオブフォーチュンなのである。レヨンドールにとって過去最強の相手が立ちはだかった。
〔ホイールオブフォーチュン。1876年生まれ。11戦10勝2着1回。英1000ギニー、英オークス、ヨークシャーオークス、プリンスオブウェールズS(当時芝2,400m)にて全戦大楽勝の大圧勝。本気を出すことなく、牡馬よりも思い斤量を背負わされ続け勝ち続けた。しかし、ヨークシャーオークスのわずか2日後にレースに使われるという、陣営の謎の愚行が祟り、足を痛め、セントレジャー回避のみならず、引退に追い込まれてしまった。セントサイモン、オーモンドといった英国史上最強最高の2頭を知る伝説の名手フレッド・アーチャーが「2頭よりも上かもしれない」と語った程のポテンシャルを持っていた。怪我が無ければどれ程の馬になっていただろうか〕
レヨンドールは、125ポンド(約56.5kg)、ホイールオブフォーチュンは126ポンド(約57kg)というほぼ同斤量となったが、レヨンドールはホイールオブフォーチュンに跳ね返され、彼女を徹底マークしたことも仇になったか、軽斤量(110ポンド、約49.8kg)で英オークス3着馬のアドベンチャーにも先着を許してしまった。
再度、仕切り直しでサセックスS(芝1,600m)を使うと、ここには2歳時にジュライSにてレヨンドールが敗れた最大の好敵手ルッペラが出走してきた。レヨンドールは2歳時から大幅にパワーアップを果たしており、もはやルッペラは敵では無く、2歳時の借りを返すように快勝。セントジェームズパレスSに続くこの年の2勝目を上げた。
ここまでを見ると、レヨンドールの得意距離はマイル戦のようにも思えるが、陣営の評価は全く違っており、長距離戦でこその馬と捉えていた。春のクラシック2戦、2000ギニーとダービーを落としてしまったレヨンドール陣営の最大目標は、必然とセントレジャーとなっていた。ホイールオブフォーチュンもまたこのレースを目標に置いており、この神威的強さを誇る女帝をいかに攻略するかをジェニングス調教師も頭を悩ませていた。
ところがである。事態は急変する。
ホイールオブフォーチュンの陣営は愚行を犯してしまい、彼女の英セントレジャー回避が急遽決定したのである。
ヨークシャーオークス圧勝後、脚に腫れが生じていたのだが、その僅か2日後にグレートヨークシャーSへ強行出走。
脚を痛めている状態かつ、調子落ちの万全でないデキで、レヨンドールを本気にさせるような強豪であるルッペラに楽に勝てるはずもなく、ついに無敗の連勝が途絶えたばかりか、この無理を祟った1戦が大きく尾を引くことになり、このダメージが誘因となり、後に引退にまで追い込まれてしまうことに。
難敵の思わぬ離脱を他所に、レヨンドールは早めに直線先頭に立つと、リードを大きく広げ、ルッペラに5馬身差をつけ圧勝。ついにクラシックタイトルの奪取に成功するのであった。レヨンドールはこの大勝で着実に本格化を迎えつつあり、順調に勝ち星を量産してゆく。ゼトランドS、グレイトフォールSと2連勝しニューマーケットセントレジャーで2着後、距離を厭わず連戦。セレクトS(芝2,000m)を快勝し、再度勢い付くと、英チャンピオンS(芝2,000m)では2年前の英オークス馬プラシダを6馬身差も突き放して全く相手にせず圧勝。さらには一気に距離を短縮させてのさせてのスプリン戦となるチャレンジS(芝1,200m)へ出走。ここでも他馬を問題にせず快勝してみせた。
■天の果てまで突き抜けてーー
フランス三冠馬との激突
3歳時は最終戦としてニューマーケットフリーH(芝2,000m)へ出走。連戦に次ぐ連戦の疲れもあったか、ここは3着に敗れ、シーズンを締め括った。レヨンドールが英国クラシック戦線に身を投じている間、フランスではジュットが無敵の快進撃でその名をフランス競馬界へ轟かせていた。ジュットはレヨンドールと同世代馬であり、レヨンドールと同じオーナー(ラグランジェ伯爵)、同じ調教師(ジェニングス調教師)、そして同じ父(フラジョレ)という背景を持っていた。母は英オークス馬レガリアという血統で、母馬の現役時の実績は対極を成すものであったが、血統背景としては両者共に超一流のものであった。英国のクラシックを獲得した遅咲きのレヨンドールとフランスで無双無敵を地でゆくジュット。使い分けで両者が合間見えることはないと思われていたが、1880年のシーズンが始まると共に、オープニングからクライマックス。この2頭の夢の対決が実現することになる。
フランスにおける史上初となる三冠馬となったジュット。英国クラシックレースを圧勝、英チャンピオンSも6馬身差で覚醒を遂げたレヨンドール。フランス…いや当時の欧州最強中の最強の2大巨頭が火花を散らす事となった。
〔ジュット。1876年生。フランス初代三冠馬〕
天下分け目の超決戦の舞台となるはフランス、ロンシャン競馬場。レヨンドールはこの年の始動戦を長距離戦のカドラン賞(芝4,200m ※現在では4,000m)に選び、全くの馬なりのまま大圧勝し、ジュットとの決戦となるレインボー賞(芝5,000m)に臨んでいった。激しい一騎討ちになるかに思われた一戦であったが、覚醒を遂げ本格化を迎えたレヨンドールの能力は三冠馬の力をも遥かに凌駕しており、レヨンドールは全くの馬なりのままジュットを圧倒。フランス初代三冠馬をいとも簡単にあしらって歴史的圧勝を飾ってしまった。フランス最強を完膚なきまでに証明すると、英国へ戻りアスコット競馬場で開催されるロウス記念S(芝1,600m)へ出走。132ポンド(59.8kg)ものハンデを背負わされ、さらには一気の距離短縮であったが、全く意にも介さず、なんとここでも馬なりのまま他馬を相手にもせず、馬なりのままウインバイキャンター。粉骨砕身、必死に追いまくる2着馬を見ながら1馬身差の着差をキープさせたままゴールイン。絶望の淵のさらに絶望の谷底へ蹴落とすかのような、残酷なまでの能力差を見せつけての勝利となった。この後のレースも馬なりで楽々と勝ち続け、ハードウィックS(芝2,400m)へ出走。ハンデは136ポンド(61.7kg)が課せられた。このハンデが響いたか、レヨンドールは抜群の手応えで馬なりのまま先頭馬のエクセターに迫るも、なかなか交わしきれず、最後は追われるも頭差で敗れてしまった。能力で負けたというよりは、余りにも能力が違いすぎるゆえの油断、心の隙が生んだ敗戦と言えるような内容であった。ハンデ差が11.8kgもあった3着馬ジアボッド(ハンデ約50kg)には4馬身差の決定的着差をつけており、先頭馬を余りにも楽に行かせ、仕掛けが遅過ぎたとしか思えない内容であった。
空を駆けるが如くの翔天無双の1880年のシーズン、6戦5勝2着1回のほぼ完璧な成績で終えると、レヨンドールはこの一戦を最後にターフを去った。
■幸せを運ぶ聖獣
引退したレヨンドールはダンギュ牧場で種牡馬入り。時代は大きな畝りを持って、変化を遂げていっていた。
普仏戦争などの影響により、ラグランジュ伯爵公の栄光は斜陽を迎え始めており、馬産家としての栄光はもはや過去の物となってしまっていた。衰勢はボールが坂道を転がっていくように止まらず、優秀で質の良い繁殖牝馬はラグランジュ伯爵の手元から離れ、不運にも交配される繁殖牝馬の質には恵まれなかった。ラグランジュ伯爵が財政難に陥っていたため、ダンギュ牧場に繋養されていた馬はあらかた、1882年11月にタタソールズ社により競売にかけられてしまった為である。
そんな中、当時6歳を迎えていたレヨンドールも例に漏れず、米国の富豪の元へと渡ることとなってしまう。石炭業・鉄鋼業・銀行業・鉄道業などで成功を収めた米国の元下院議員でもあったウィリアム・L・スコット氏が手を上げ、15万フラン(3万ドル)で購入され、米国に渡った。これは、米国に輸入された種牡馬としては当時の史上最高額であった。
▲〔米国へと渡った際のレヨンドールを描いた絵画〕
スコット氏が所有するペンシルヴァニア州アルジェリアスタッドで種牡馬入りした本馬は次々に活躍馬を送り出し、1889年に北米首位種牡馬に輝くなど成功を収めた。
しかし、1892年にスコット氏が死去するとアルジェリアスタッドは解散。
その後、レヨンドールはオーガスト・ベルモント・ジュニア氏に引き取られ、ケンタッキー州ナーサリースタッドに移動。1896年7月に静かに息を引き取り、この世を去った。馬齢20歳の時の事であった。
レヨンドールは容姿が非常に独特で、首が非常に長く、走る際にも首をかなり高くして走っていたという。
その為か「キリン」と呼ばれ、神獣のような異様な雰囲気を見せていた。体高は17ハンド(172cm)は優にあり、かなりの巨体であったことも写真から窺い知れる。
▲〔レヨンドールの首差しの長さと体高の高さが見て取れる写真〕
距離関係なく、別格の能力を振り翳し、脅威的な能力を燦々と当世を生きる万民へと見せつけた走獣のレヨンドール。
麒麟は幸せを運ぶ聖獣と呼ばれているが、レヨンドールもまたそんな奇跡の名馬であったのかもしれない。
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『奇跡の名馬』?グラディアテュール?2010年 パレード
・Thoroughbred Heritage
・世界の名馬列伝集?レヨンドール?
・馬の高さを図る単位 ハンドー センチメートル計算機と換算表(hands)
[写真イラスト]
・Hagen History Center「エリーの競馬とアルジェリア牧場とのつながり」
・Springfield Museum
・Thoroughbred Heritage
・Sports horse data
]]>
〜イニシエの哥に棲まう伝説の白神妃駒〜
今日も歌が聞こえてくる・・・
あの歌が。
どこかで聞いたのかも知れない。
懐かしさをどこか感じるあの歌が。
でも、初めて聞いたかのような
異質で不可思議な心模様にさせられる。
秋山由美子は、もう10年以上も前に関西圏に移り住んだ。
時折、以前にブログ運営を手伝っていた海猫氏や
一昨年に結婚したばかりという美空と連絡を取っていた。
「灰色の牝馬かぁ・・・」
偶然にもYoutubeで?The Gray Old Mare?という米国の童謡を耳してから
夢にこの歌が流れてくるのである。
どうして毎晩、毎晩、床に臥す度にどこからともなく夢枕にメロディーが流れてくる。
「海猫さんや美空ちゃんに聞いてみようかな・・・ちょっとググったけど、この歌って・・・」
「はぁい美空です!由美子さん、お久でえす!どうしたんですか?」
愛も変わらず人懐こい声である。
10年以上も前、まだディープインパクトが躍動し、ウオッカがカリスマ性も持って
日本競馬を牽引していた時代、それは由美子が『うみねこ博物館』の運営手伝いをしていた時代でもあった。
使う画像を用意し、アップロードなどの雑用を担当していた。
文章は海猫氏が綴るので、あとはそれをコピペして・・・という編集作業を行なっていた。
東京を離れる際、自分の行っていた作業方法の手順は海猫へ全て引き継いでいた。
以降、海猫氏が一人で全て文章の執筆も編集作業も、そして調査も。
「こんな歌、初めて聞くんですけど…ちょっと調べてみますね!」
美空「由美子さんの言う通り、この歌って、やっぱり大昔の競走馬を歌った歌ですよ!」
由美子「そうだよね、でもなんでこの歌が頭から離れないんだろう…」
美空「海猫さんにも繋いで聞いてみましょう!」
海猫「二人揃ってどうしたんよ?有馬記念の動画作成と秘書業務で忙しいから要件はパパッと!」
美空「由美子さんが、変な歌が夢の中でずっと聞こえてくるって!耳から離れないらしいんですよ」
由美子「その歌、大昔の芦毛の牝馬を歌った唄みたいなんですけど・・・どうにも大昔から聞いているような懐かしい思いに駆られて・・・不思議な気持ちなんです」
海猫「『The Gray Old Mare』ね・・・そりゃ耳から離れないよ。この歌、絶対みんな聞いたことあるはず。日本語の歌詞、知ってるよ絶対」
美空・由美子「うそ!?ど、どんな歌詞なんですか?」
♫ オンマはみんな パッパカ走る
パッパカ走る パッパカ走る
どうしてなのか
誰も知らない
だけどおんまはみんな パッパカ走る
パッパカ走る
おもしろいね ♬
海猫「この歌、聞いたことあるでしょ?懐かしい訳だよ。耳から離れないのも頷ける。保育園や幼稚園、テレビで3チャンネルの『お母さんといっしょ』とか『みんなのうた』で絶対に1回は聞いた事があるはず。美空は最近の子だからな・・・小さい時聞いてなくとも不思議ないかも。」
由美子「この歌、日本語の歌詞にすると全然変わっちゃうんですね・・・灰色の牝馬なんて1フレーズも出てこない」
美空「2番なんて馬ですらなくなっちゃってますもんね・・・※」
※『おんまは走る』の2番はブタのしっぽについて歌っている。
海猫「この歌は、実はとんでもない歴史的名馬、伝説的名馬が封印されている」
美空「封印?」
海猫「ちょっと大袈裟だったかな?この歌は、伝説的白い名牝を讃えた歌なんよ。その名も・・・」
?レディ・サフォーク?
父 ヤングエンジニア
母 ジェミー
生年:1838年
性別:牝
毛色:芦毛
生涯成績:161戦88勝
米国繋駕速歩競走の歴史に君臨する歴史的・伝説的白き名牝。
1833年にロングアイランド州サフォーク郡のスミスタウンで生まれる。
1835年にデビッド・ブライアント氏がこの牝馬を購入し、1851年まで暮らしを共にした。
彼女は1838年にハイラム・ウッドラフの騎乗で最初のレースに出走。
レディサフォークは1838年から1854年にかけて161のレースに出場し、内88勝を上げ、35,000ドル以上の賞金を稼いだと伝えられている。全盛期は、ボストンからニューオーリンズまで主要都市を旅し、競走生活を送り、凱歌を上げ続けた。
しかし、彼女のキャリアの最後の6年間で、彼女がレースに出場したのはわずか7回と減少してしまう。
これには訳があり、ハーネスレースがサドル速歩に人気を取って代わられ始める過渡期にあったため。
1843年、アルバート コンクリン氏が騎乗し、レディサフォークは1マイルを2分30秒未満で走った史上最初のトロッターとなる。
この偉業を成したことにより、「ターフの女王」と彼女は奉崇されることとなった。
1834年に打ち立てられたレコード記録は5秒近くも短縮され、2分26秒5の記録を樹立。
彼女の時代、速歩レースはヒートで行われ、1838年から彼女は2マイル、3マイル、4マイルのヒートを1レースあたり2 ヒートまたは3 ヒートでレースし勝利を上げ、果ては20歳までレースを続けた。
「シーズン中もシーズン外も、5マイル、4マイル、3マイル、2マイル、1マイルのレースを無差別に駆け抜け、ひどい管理と運転でも、彼女にとって距離が長すぎるとは思わなかったし、努力が大きすぎるとは思わなかった」と彼女と生涯を共にしたホースマンは淡々と語る。
レディサフォークは1855年、22歳の時にバーモント州にて生涯の幕を閉じる。
誕生から130年以上の時が流れた頃、1967年ハーネスレーシングの殿堂入りを果たす。
彼女は永遠なる存在へと昇華したのであった。
〔レディサフォークは繋駕速歩競走のみでなく、ヒート競走や草競馬での成績も全て加えると通算で405戦178勝の成績を残しているとも伝えられる〕
由美子「小さい時から聞いていた童謡に、こんなすごい名馬が隠れていたなんて・・・」
海猫「『おんまは走る』・・・
日本人なら誰もが知る子供の歌に、
競馬史上に残る白き伝説の名牝の記憶が
秘められている・・・なんて、
誰も想像だに出来ないよ」
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『The Gray Old Mare』Wikipedia
・granitestatecarriage.org
・losttrottingparks.blogspot.com
・INNATIONAL MUSEUM OF AMERICAN HISTORY
[写真イラスト]
・granitestatecarriage.org
・losttrottingparks.blogspot.com
・INNATIONAL MUSEUM OF AMERICAN HISTORY
・エリアブルー
]]>
【 ヤ タ ス ト 】
〜 絶影の冥王 〜
―南米大陸史上最強
南半球究極の神駒―
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
父 セリムハッサン
母 ユッカ
母父 コングリーヴ
生年:1948年
性別:牡
毛色:黒鹿毛
国籍:アルゼンチン
生涯成績:24戦22勝[21-0-1-1]
主な勝ち鞍:アルゼンチン四冠{ポーラデポトリジョス・ジョッキークラブ大賞・ナシオナル大賞・カルロスペリグリーニ国際大賞典}、カルロスペリグリーニ国際大賞典、オノール大賞、ムニシパル大賞、サンイシドロ大賞ほか
■南米大陸史上最強馬
戦後のアルゼンチン競馬に出現したスーパーグレートホース。その力・その理力・そして速力から内在する潜在能力まで…何もかもが異次元世界のものであった。絶対的神威を闘輝として全身から放光し、無敵の競走馬として躍動。その破壊神を想起連想さする轟烈なるモーションに見た者誰しもが震撼と戦慄に身震いする以外の挙動を瞬時に禁じられ、混沌の海麟に身を委ねるしかなかった。
アルゼンチン史上最強馬はフォルリというのが日本に流布している定説だが、彼、ヤタストは「何のヤタストこそアルゼンチンはもちろん、南米大陸史上最強馬だ」…と間違いなく豪語できる程の名馬である。私がフォルリよりヤタストを上位と考えるのは、距離適性からである。確かに、フォルリのスピードは史上屈指のものがある。しかし、フォルリはスタミナ面に欠落を抱えていた。その点、ヤタストは距離万能。距離が延びれば延びる程、その真価を発揮する馬だった。おおよそのところ、1,000から1,800までならフォルリ、それ以上の距離ならばヤタストに軍配が上がるだろうと考えられる。
…とまあ考察を呈して見たのだが、いや…間違いなくヤタストは、アルゼンチンはおろか、南米大陸に屹立する史上最強馬であると確信しているし、南半球全土を見渡して見ても、ファーラップ、カーバイン、メルア、メインブレースといったオーストラリアやニュージーランドが生んだ英雄たちから、南アフリカ史上最強のシーコテージ、東アフリカを支配したケニア史上最強馬ジェラバブ、インド競馬史上最強馬イルーシヴピムパーネル、環太平洋エリアの怪物クシピアース、そしてフィリピン競馬の伝説・フェアアンドスクウェア…といった史上最強級の伝説の名馬たちをも圧倒してしまうことだろう。ホームであるアルゼンチンにディープインパクトが乗り込んだとしても、この馬はディープの?空飛ぶ走り?の天鎚をも封じ、返り討ちにしてしまう可能性が高い。
古代中国に自らの影が追いつけないほど速く走る?絶影?という名馬がいたらしいが、ヤタストはまさにそれ。それほどのとんでもない無限にして夢幻大のポテンシャルを抱擁していた神駒だったのである。
真・伝説の究極馬ヤタスト。それでは、その偉大なる蹄跡を、少しずつ廻航してゆくこととしよう。
デビューから颯爽と駆け抜け、赤子の手を捻るより簡単楽々と、亜三冠であるポージャデポトリージョス(ダ1,600m)、ジョッキークラブ大賞典(ダ2,000m)、ナシオナル大賞典(ダ2,500m,アルゼンチンダービー)を無敗で達成。返す刀でカルロスペレグリーニ国際大賞典(ダ3,000m、現在は芝2400m)も圧勝し、なんと不敗のまま四冠馬となってしまった。この年、当然ではあるが、ヤタストは年度代表馬に選出されている。
▲〔ポーリャデポトリロスでの直線。雄々しく抜け出し突き放すヤタスト〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔ナシオナル大賞翌日のヤタストの圧勝を伝える新聞紙の一面。実際の写真の上に風刺画の漫画が添えられた貴重な紙面の1ページ。飛行機に乗った漫画のキャラの吹き出しには、「ジェット機で到着しました!ジェット機でも追い付けない!」と述べていて、ヤタストの圧倒的能力を当時をいく最高の利器に準えて称える内容になっている。(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)〕
▲〔カルロスペリグリー二国際大賞の圧勝を報じる当時の紙面の記事。ナシオナル大賞に続きゴール前の写真を使ってヤタストの圧勝を伝えている〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔カルロスペリグリー二国際大賞の直線、ゴール前。内馬場のゴール付近から撮影された一枚で、すでに手綱を抑えられながらゴールを迎えるヤタストの様子を捉えている〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
こう短絡的に書いて見ると、無敗の四冠馬な訳であるから相当強いことは簡単に窺い知れる。しかし、この馬のとんでもない能力は詳細かつ丹念に書けば書くほど浮き彫りになってくる。
まずデビューしたのが1951年の3月4日で芝の1,000mで3馬身差の楽勝。ほぼ馬なりだったことは言うまでもない。その2週後のオレンジ賞(ダ1,000m)で楽々と10馬身差の大差勝ち。このあとは快進撃で三冠を鯨飲してゆく訳であるが、その全てが本気で追われることのない、大楽勝。2馬身半差が最小着差で、それ以外は全戦3馬身〜6馬身の圧勝。
(写真:Podotroclear.com)
■蝕まれる馬体の運命、歴史的アップセット。
シーズンが替わっても、ヤタストの怪躍進に歯止めがかかることはない?はず?であった。
ところが、ヤタストは漫然たる脚部不安を抱えており、間近に控えたブラジル遠征に陣営は躊躇していた。結局、星を戴きながら国境を越え、乗り込んだはブラジル・サンパウロ。異国の地へもアルゼンチン不敗の四冠馬の名声は轟き渡っており、ブラジルのジョッキークラブはこの名馬を売りにサンパウロ大賞(芝3,000m)のアピールを大々的に敢行していた。
しかし、レース直前、ヤタストを取り巻く事情は一変する。脚部不安が頭を擡げ、レースどころではなくなってしまったのである。陣営は当然ながら回避を表明したのだが、ジョッキークラブ側はこれを易々とは承諾しなかった。ここで今年最大の目玉に帰られてしまっては、ファンの落胆の大きさは計り知れず、売り上げにも甚大な凋落を与えることは明白。ヤタストなくしてのサンパウロ大賞など、レースの意義が無いも同じ…と扇情的かつ熱心に訴えたが、ついにはブエノスアイレスから獣医が駆けつけ、協議は大揉め。混線鼎談した喧々諤々たる議論の末、結局陣営側が折れることとなり、しぶしぶ出走。脚部不安のまま、全能力の半分も発揮できない最悪の状態で出走。ジョッキーも追うに追えず、苦渋と悔恨の残る敗戦(4着。この状態で4着とは…)を喫してしまう。これがヤタスト初の敗戦であるが、まともに走ったらどれだけ強いのか、それは誰の目から見ても明らかだった。その証拠に勝ち馬の馬主が、「私の馬はヤタストに絶対に勝てない…ヤタストが四本の脚ではなく、三本の脚で走り、三本の脚で敗戦してしまったことは、明白だ」と述懐しているのである。
ちなみに、余談だが、サンパウロ大賞の調教後に左前の脚を負傷してしまっていたらしい。その調教の時のタイムが空前絶後のもので、シダージ・ジャルジン競馬場の1,200mのレコードで颯爽と走ってしまった。その場に居合わせ、その光景を目撃してしまったブラジルの競馬関係者は絶対的敗戦を覚悟していたのだという。しかし、その絶望的殲滅の事態は、ヤタストの故障により救われることとなった…。
失意の帰国後、ヤタストはじっくりと身を休め全快。さらに禍々しいオーラを迸らせ、7月20日の復帰戦・チャカブコ賞(ダ3,000m)を15馬身差の大差勝ちで派手に飾ると、続くジェネラル・ピュレドン賞(芝4,000m)では馬身差換算不可能・後続が霞むほどの超・超絶大差大勝(成績表では「道路一本分の長さ」とあり、凄まじい着差であったことが偲ばれる)。
一説によれば、この時の着差は100メートルはあったとも記されている。
この一戦後、ヤタストは肩甲骨を痛めたとも、関係者によれば報じられている。
[まさに超絶の一語。「道路一本分の長さ」の意味が分かる気がする]
南米のアスコット・ゴールドCと呼ばれるオノール大賞典(ダ3,500m、現在は2,500m)では、初となる苦戦。プレテクストという馬を相手に、執拗に絡まれ、先頭を直線明け渡してしまう。しかし、そこは無敗の四冠馬。最後の最後、100mで差し返し、2馬身突き放して事無きを得た。
ところがである。この年の連覇を狙ったカルロスペレグリーニ国際大賞典でレース中に脚部不安を発症し、レースどころではなくなってしまう。しかし、ヤタストは信じ難い強靭なる精神力で耐え抜き、3着入線。負ける要素など、微塵もないハズだった…それゆえ調教師をはじめとした陣営への非難・讒謗は極限的ものとなった。ヤタストをここまで手懸けてきた名伯楽は、それまで拍手喝采と栄光の道を往くヒーローの地位を堅守してきたものの、急転直下、ヒールへと転落し、取り巻く境遇は180度世界を変えた。浴びせられる暴言・峻烈極まる侮蔑と苦言…最後は解雇通知が投石のごとく放擲され、失脚を命ぜられてしまった。彼は、今でもこの敗戦を悔やみ続けているという。
〔種牡馬時代の勇姿〕
■ヤタスト神話1953
そして神話となる1953年シーズンが幕を開ける。
あってはならない敗戦、悪夢の1日を大いなる糧に。
この敗戦があったからこそ今がある。
そう馬が、ヤタストを取り巻く人々へ、
そう訴え掛けるような、伝説的一年が展開されていくことになるのであった。
【ヤタスト神話1953】
まずこの年はウルグアイへと足を伸ばし…
■第一戦
ムニシパル大賞(ダ3,000m)
ウルグアイへと遠征。なんと10馬身差の大差勝ち(ちなみにこのレース、現在で言う国際GI級)。ほぼ馬なり。
■第ニ戦
オトノ賞(芝2,000m)
ほぼ馬なりで、相手を覗いつつ1馬身キッチリ先着。
〔オトーニョ賞での大楽勝シーン。馬なりでゆったり走っているのが写真からも窺い知れる〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
■第三戦
ジェネラル・ベルグラノ賞(芝2,200m)
全くの馬なり、キャンターで流しながら、手綱も微動だにしないまま大圧勝。
■第四戦
サン・イシドロ大賞(芝3,000m)
GI格レースを大差勝ち(馬身換算不可能)。
■第五戦
L.カサレス・ヴィンセンテ賞(ダ2,500m)
馬なりで大差勝ち(20馬身差)
■第六戦
チャカブコ賞(ダ3,000m)
大楽勝で本気で追われることなく大差勝ち(馬身差換算不可能)。
しかも、?3:04.0?というアルゼンチンレコード。
しかも驚くべきことに、この時ヤタストは62Kもの斤量を背負っていたというのである。この前年、ウルグアイ四冠馬のビザンシオが3:04.0というレコードを出しているためタイ記録ということになるが…にわかには信じがたい話である。
▲(ウルグアイ四冠馬のビザンシオ号。1948年生。生涯成績10戦9勝2着1回。芦毛の牡馬で、ブランドフォード系。母型はアルゼンチン初代四冠馬のオールドマンの血を引いている。ちなみに世界記録は翌1954年アウレコ号がホセペドロラミレス大賞の計時することになる“3:03.0”。なんとセイウンスカイが菊花賞でマークする1998年時の芝3,000m世界レコードをも凌駕しているという凄まじさ)
■第七戦
パレルモ賞(ダ1,600m)
?1:34.0?という現在の東京ダート1,600mのレコードをも
遥かに凌駕する驚異の時計で3馬身差圧勝。
■第八戦
オノール大賞(芝3,500m)
名馬シデラルを相手に、馬なりで10馬身差の大差勝ち。
▲〔シデラル:1948年生。父セダクター(フェアウェー系)母スターリング 母父ノーブルスター(セントサイモン系)、鹿毛、生涯成績14戦9勝[9-4-1-0]、コンパラシオン賞、アメリカ賞、ブラジル賞などを勝利。種牡馬としてアルゼンチンリーディング3回、エルセンタウロなどを送って名種牡馬となる〕
(写真引用:Thoroughbred pedigree)
この直後、生涯四度目の大きな脚部不安を発症し、引退に追い込まれてしまう…
しかし、何と言う強さなのだろう…。
ヤタストのオーナーである、アウグスト・スバルバロ氏は
「ヤタストは多くの人々にとって史上最高のアルゼンチン馬であることは間違いない」と称え、
主戦を務めた名手レギザーモ騎手も当時のマスコミの取材に対して「私が騎乗した馬の中で最高の名馬である」と称えている。
――…・・・もはや何も言うまい。
戦後もまもない時代、日本からちょうど地球の裏側に当たる国で、これほどの馬が走っていようとは、誰も想像できなかったことだろう。
黄昏が来て闇がすべてを飲み込もうとも、胸の奥瞬き続ける星干たちが俤を映し出す――…
馬生をまっとうした漆黒の名馬は、経済難に陥るアルゼンチンの未来を象徴するが如く、影をパンパへと潜め、冥王星のような深々たる光を南米競馬史へ照射し続けるのであった―――…・・・。
■絶影の冥王
現役生活から身を引いたヤタストは、当然として種牡馬としても手厚い歓迎を受け、新たな生活が始まることに。
活躍馬を出し、順風満帆に行っていた種牡馬生活であるように見えたが、ここから周囲の関係者の謎めいた動きが蟠を巻き始める。
アルゼンチンで種牡馬生活を4年間送った後、米国のカリフォルニアへ渡り、スタッドインすることが急遽決まる。
水面下で話は進んでいた物と思われるが、アルゼンチンの至宝、南米大陸史上最高の名馬が米国へと渡ることになろうとは、寝耳に水だったのではなかろうか。
〔ヤタスト産駒の活躍馬ヤウガリ。ウルグアイで活躍し、ブラジルで種牡馬入りした〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
1958年の1月13日、飛行機の貨物車に乗せられ、戊今日から旅立ったヤタストは無事にカリフォルニアのマイアミ空港へ到着。
米国の競馬関係者、ファン、ホースマンらもこれには色めきたち、「オーモンド以来となる国外では最も優秀なサラブレッドが上陸を果たした」と高く評価して報道を伝えた。
トーマス・サラブレッドファームにて種牡馬生活を送り、牧場主と、ファンから愛されて余生を過ごすも・・・
行方が知れず、どこでこの世から旅立ったのかも、これほどの名馬であるに関わらず謎に包まれたままなのである。
2011年にヤタストファンの有志で行われた調査により、1965年まではトーマス・サラブレッドファームにて種牡馬として生存していたことが掴めている。しかし、トーマスサラブレッドファームは経営難から、1965年の10月に持ち馬をオークションに掛けて全て売却していた事が明るみに出る。そのオークションにはヤタストもいた事が判っており、ヤタストは1965年の11月からはセブンシーズファームという牧場で余生を過ごしているようであった。もしくはミュラーブラザーズ牧場に渡ったという説もあるが、どうやら1977年3月〜6月にヤタストはこの世を去ったのではないかと言われている。
これだけの名馬の最後が判然とせず、墓も無く、母国アルゼンチンのファンの記憶から風化していくというのはあまりにも悲しすぎはしないだろうか。
▲〔ヤタストのカリフォルニア入りを伝える米国紙の一面〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
▲〔米国には?ヤタストストリート?という道路が存在している。この道はヤタストと何らかの関係はないのだろうか…〕
(写真引用:Yatasto Tras la huella del Campeon)
米国に渡った後、種牡馬としての活躍の報すらアルゼンチンに暮らすファンの耳には届かず、いつしか巨星は、遥か悠遠なる果ての世界で虚ろに幽光放つ矮星となって、その姿形、果てにはその星影すらも、減衰していき、星芒はわずかなる残光すらも残さず冥王の帷に身を隠ししてまった。
史上最強馬の答えの1ピースを握っていたであろう、南米大陸に降誕した神王なる名馬は、愛されたファンに別れを告げることすら許されず、愛してくれた人々に感謝の一瞥も下げることを許されずに絶命の悲運に暮れた。
?絶影の冥王?。彼は今どこで眠りにつき、この宇宙(そら)に輝いているのであろうか。
50年経った今もその2戦の敗戦は謎のままとされるヤタスト。
その最期すらもまた、永遠の謎とされ、今日もヤタストはファンの冥空に歪曲なる輝きを放っている。
■ヤタスト全成績表
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・『奇跡の名馬』?ヤタスト?2019年 パレード
・『コンドルは飛んでいく』
・『アナログ文庫』(大岡賢一郎氏ブログ)
・『Yatasto Tras la huella del Campeon』
[写真イラスト]
・『奇跡の名馬』?ヤタスト?2019年 パレード
・『アナログ文庫』(大岡賢一郎氏ブログ)
・大岡賢一郎氏提供写真
・『Yatasto Tras la huella del Campeon』
・Podotroclear.com
]]>
〜🔥冀琞の火鑽火🔥〜
(きぼうのひきりび)
ー南アフリカでセンセーショナルに活躍し、
英国アスコット開催で優勝した
史上唯一の歴史的南アフリカ産馬ー
父 パールダイヴァー(エクリプス系)
母 ウォールフラワー
母父 ワッカム(エクリプス系)
生年:1900年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:南アフリカ共和国(ケープ植民地)
生涯成績:34戦10勝[10-8-6-10]
主な勝ち鞍:キングズスタンドS(現・英GI芝1,000m)、ポートエリザベスダービー(南ア・芝1,800m)、ソーハムプレート(英・芝1,100m、斤量67.5kgで勝利)、ウインザーキャッスルハンデ(英・芝1,000m)、フライングハンデ(英・芝1,000m)、フライングハンデ(南ア・芝1,000m)、フェアウェルハンデ(南ア・芝1,200m)、クライテリオンハンデ(南ア・芝1,200m)他
■生まれた時から戦火の中で
南アフリカにおける歴史は、「争い」「植民地」「奴隷」「人種差別」・・・人類が想像しえる、あらゆる負の遺産の坩堝とも言える程に、災禍災厄と隣り合わせの環境が作り上げられてきた忌み地と言っても過言ではない。
1652年、オランダ東会社のヤン・ファン・リーベックがこの南アフリカの大地の土を踏むと、まず喜望峰を中継基地とした。
喜望峰は、気候条件等が比較的ヨーロッパに似通っている部分も多く、さらには航海上の重要な拠点として考えられていた背景も相まり、移民たちに活用されたことで、オランダ系移民が増加の一途を辿り、その結果、ケープ植民地が成立する。
この植民地にて形成されたボーア人は勢力拡大と共に、先住アフリカ人との争いも絶えなくなっていく。
18世紀末を迎えると、アフリカの大地は金やダイヤモンドといった資源の宝庫となっている事が周知されていき、その鉱脈の発掘を狙って多くの英国人が押し寄せて到来。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年、英国はケープタウンを占領。
英国の支配下であることを甘受する他なかったケープ植民地は、オランダからイギリスへと正式に譲渡され、その結果、英国人が多数移住していき、完全な英国の植民地となり果てた。それは言葉まで侵食をはじめ、やがては英語が公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなど、「英国」という概念そのものが、この地に絶大な影響をもたらした。
南アフリカにおける競馬の創始、始原濫觴もこの時代にあり、1797年にアフリカ大陸最古となる洋式競馬が行われている。
同地にて結成された競馬クラブにより、競馬は本格的に施行開始され、1844年にダーバンで行われた最初の常設競馬場における洋式競馬は、グレイヴィル競馬場付近であったという。
しかし、そんな英国の支配を、いつまでも甘んじて受け続けることに痺れを切らしたボーア人たちは、1830年代から1840年代にかけてイギリスの統治が及ばない北東部の奥地へ大移動を開始。そうしたムーブメントをえて、ナタール共和国(1839年建国)、トランスヴァール共和国(1852年建国)、オレンジ自由国(1854年建国)などが産声を上げていった。
そんな状況を英国側が指を咥えて看過している訳もなく、セシル・ローズに代表されるように、南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から、2度に渡る大戦争、いわゆるボーア戦争に発展していった。
▲〔左は第一次ボーア戦争の様子を描いた絵画(1881年)。右は第二次ボーア戦争を描いたもの。(Anglo-Boer War program sold at the 1904 World's Fair in St. Louis, Mo.)当時においては、戦力として馬が重宝されていたことが、絵画からも容易に窺い知れる。競走馬用、乗馬・馬車用、戦争用の戦馬と馬の活躍の場ははっきりとカテゴライズされていた〕
第二次ボーア戦争の戦火の渦中、1900年に、東ケープ州ミデルバーグ近くにあるチャールズ・サウジー氏が営むカルムストック・スタッドで1頭のサラブレッドが降誕した。父はパールダイヴァー、母はウォールフラワー、その父ワッカムという血統。
父のパールダイヴァーは、母を凱旋門賞馬パールキャップとして、フランス調教馬で英ダービーを勝ち、日本でも種牡馬入りした馬と同名の、全く異なる馬である。父も母もエクリプス系であり、父はエクリプス〜ポテイトウズ〜ホエールボーン〜バードキャッチャー〜ストックウェル…‥の流れを汲む系統であり、母側はエクリプス〜ポテイトウズ〜ホエールボーン〜ウィスカー〜エコノミスト〜ハーカウェイ〜キングトム…というラインを連ねたエクリプス系であった。
【父パールダイヴァーのプロフィール】
▲〔キャンプファイアの父、パールダイヴァー。1882年生。英国で競走して3勝を挙げ、1888年から1893年まで同国の種牡馬として活躍した。英国では注目すべき競走馬を産まなかったが、南アフリカへ輸送されると、南アフリカのチャンピオンサイアーに4度も輝き、1894年から1906年まで種牡馬として活躍した。キャンプファイアの母、ウォールフラワーと共に、所有者であるチャールズ・サウジーの農場経営者2人によって意図的に毒殺され、悲劇的な最期を迎える事になる〕
【母ウォールフラワーのプロフィール】
▲〔キャンプファイアの母、ウォールフラワーは1886年生まれの鹿毛。キャンプファイア以外では、スカーレットランナー (1893生。 父スポーツマン) 、パッションフラワー (1901年生。 父シャスール) を送った。またベラドンナ2世(1909年生。父クイックマーチ – 11 勝) は偉大な牝馬ディグニティ (1909生 – 15勝) に次ぐ、この時代を生きた名牝であり、2頭はライバル関係にあって何度も競い合ったが、スプリントではディグニティが優れ、長距離ではベラドンナが優れていた。ベラドンナとディグニティの2頭はフラッシュオブドーン、そしてララージュと並び、20世紀最初の50年間に南アフリカで出走したベスト牝馬トップ5には入ろうという存在。そして、ウォールフラワーは、ダリウス2世((1910年生。クイックマーチ産駒)は、236戦41勝という成績を上げ、南アフリカ史上最多出走馬ともなっている)、そして名牝トップジェスを産むタランチュラの母、ザスパイダーも産み落としている。これだけの名馬たちを送り出したウォールフラワーは南アフリカにおける名牝中の名牝といえよう。※写真はダリウス2世〕
🔺【上記3頭フラッシュオブドーン、ララージュ、ダリウス2世の詳細】
▲〔ララージュ:1939年生。父サティール(ザテトラーク系)母ハリダン 母父ケラソス(エクリプス系)、南アフリカオークス優勝〕
▲〔フラッシュオブドーン:1915年生。父サンイーガー(エクリプス系)母サンショット 母父カーバイン(エクリプス系)、栗毛、生涯成績105戦22勝[22-15-11-57]。非常に小柄もタフネスかつ屈強な牝馬で、南アフリカを代表する歴史的名スプリンターの1頭〕
ダリウス2世
236戦41勝[41-37-30-128]
〔1910年生。父クイックマーチ(ストックウェル系)母パッションフラワー 母父チェッスール(ヴォルティジュール系)、主な勝ち鞍としては、ヨハネスブルグサマーハンデなど。2歳から18歳まで競走を続けたというダリウス2世。栗毛で真っ赤に近い馬体であったという〕
この血統馬は、当時の鉱山王エイブ・ベイリー氏が買取り、オーナーとなった。
英国ヨークシャー州出身の父と、スコットランド人の母との間に生まれた、エイブ・ベイリー氏は、英国人であったでものの、生を受けた地は南アフリカのミューゼンバーグであり、英国系移民の子であった。エイブ・ベイリー氏が7歳を迎えると、英国へと送られ、キースリーとクルーワーハウスで学生生活を送った。その後、南アフリカへ戻ると、ボーア戦争の騎馬歩兵師団の中尉に任命を受けて活躍。その最中に訪れたカルムストック・スタッドにてキャンプファイアと邂逅を果たし、自身の持ち馬としたのであった。
▲〔キャンプファイアのオーナーとなるエイブ・ベイリー氏。(1864年11月6日 - 1940年8月10日)南アフリカのダイヤモンドと金の鉱脈を発見し?鉱山王?の異名で博される。政治家兼金融家でもあり、クリケット選手としても活躍した。セシル・ローズとの繋がりにより、ベイリー氏は旧ローデシアの多くの鉱山および土地資産を取得。1930年代までに、彼は世界で最も裕福な男の一人になった〕
■デビューから2歳女王との激突〜たった2頭のダービー決戦。
キャンプファイアが競馬場へと初めて姿を見せたのは、1903年4月4日からのヨハネスブルグオータムミーティング開催での事となった。同年4月8日、ターフフォンテン競馬場のナーザリーH(芝1,000m)へ登場すると、J.ホワイト騎手の手綱で快勝。2着はアレクサンドラという牝馬で、この馬は後の2歳女王となる存在であった。初勝利から3日後の4月11日、ターフフォンテン競馬場のジュヴェナイルH(芝1,200m)に出走し、着外とよもやの大敗を喫してしまう。勝ったのは初戦で下していたこの世代の最強牝馬アレクサンドラ。力をしっかり出し切っていれば連勝出来ていた可能性もあったが、掛かってしまったことと、アレクサンドラより重い斤量を背負っていたことが敗因であろうと思われた。2歳の3戦目は6月24日のナーザリーH(芝1,000m)となったが、ここは62.5kgもの重量を背負わされ、惜しくも2着と敗れる。勝った馬は斤量わずか49kgであり、13kg以上ものハンデ差があったことを考慮すれば、全く悲観するような内容でもなかった。
南半球にあたる南アフリカの競馬は、新たなシーズンは9月から始まる。馬齢は9月から3歳となる。
3歳初戦は、引き続き舞台がターフフォンテン競馬場でクライテリオンH(芝1,200m)となった。
ここでもキャンプファイアの斤量は62.5kgという酷量を背負わされた。前走で苦杯を舐めさせられたレギア号は、またしても軽量で52.5kgの斤量。そのハンデ差は縮まったものの、10kgもの大きな差があった。
しかし、今回のキャンプファイアはピタリと折り合い、レギアを2着に従えて圧勝。3歳シーズンスタートを最高の形で切った。
3歳2戦目は大一番のダービー。この年の南アフリカダービーは、ボーア戦争の影響からフェアヴュー競馬場の芝1,800mを舞台に行われた。今回の舞台設定、1,800mはキャンプファイアが生涯において走った最も長い距離であり、その能力と後に記録する生涯成績からもかなり長く、本質的にはスプリンターであったと思われるキャンプファイアにとっては試練の距離となった。
ところが、戦火の影響は色濃く、出走馬はたったの2頭。キャンプファイアとロードボブズという2頭の一騎討ちとなった。ホワイト騎手は慎重にレースを進め、折り合い重視でロードボブズの事は考えず、キャンプファイアとの対話に重視した。斤量も前走から7kg減となって身軽になっていたことも受けてか、非常に従順に鞍上の操縦とサインに応じ、前を行っていたロードボブズを悠然と追い越して、3馬身差の差を着け圧勝。1,800mの距離だが2分11秒というゆったりとした時計で勝利。ポートエリザベスダービーを制し、この世代の頂点に立つのであった。
■酷量との闘い。そして英国へ…
ダービー馬となったキャンプファイアに早くも試練が訪れる。
ダービー後の1戦となったのは、なんとダービーの翌日!10月19日のフェアヴュー競馬場の芝1,400m、ライセンスドヴィクチュアラーズHへ、153ポンド(約69kg)もの酷量を背負い出走。56.5kgの通常のハンデを背負ったヌンサッチという馬に惜しくも2着に敗れ惜敗。
しかし、背負ったあまりにも法外な斤量ハンデとダービーの翌日という事を考慮すると、途轍もない馬である。
この一戦を最後にキャンプファイアはオーバーホール、長期休養が与えられ、次にキャンプファイアが競馬場へ頭を擡げるのは、翌春の3月末の一戦であった。ここからは斤量との闘いになり、6着、2着、3着と惜敗を繰り返し、連勝するのもままならない状況が続いた。転換期となったのは、オーナーであるエイブ・ベイリー氏の決断であった。
「英国で競馬をさせてみたい」
このまま南アフリカで競馬をさせていても一介のダービーホースで終わってしまう…なんらかのカンフル剤を打ち、さらに一つステップを上げさせ、歴史的名馬としての絶対的な地位を築き上げさせてやりたいという親心もあった。
南アフリカで生まれ育った馬が、競馬の母郷であり、当時世界最高峰である英国で凱歌を上げることが叶えば、それすなわち即、歴史的名馬として世界競馬史にその名を刻むことになると同時に、世界最強級の名馬の玉座に鎮座することまで叶う。
まさに英断であった。この時代の輸送である。船を使った長期輸送となり、馬が多大なダメージを受け、ダメになってしまう可能性もある。英国へ無事渡ったとて、世界最高峰の舞台。全く通じない可能性さえあった。
それでも、エイブ・ベイリー氏は自身の生涯に準え、愛馬の秘めたるポテンシャルを信じた。
■ニューマーケット、エプソム、そしてアスコットでの歴史的勝利
南アフリカでの最後のレースは、1904年4月24日のターフフォンテン競馬場、芝1,165mのマーチャンツHとなった。
このレースで136ポンド(約61.5kg)の重ハンデを背負い、宿命のライバル牝馬アレクサンドラと対峙。
アレクサンドラはわずか95ポンド(約43kg)のハンデで出走してきていた。やはり、18.5kg差ものハンデの開きは重く辛く、キャンプファイアは2着と敗れた。勝ったのはアレクサンドラ号であった。
1905年5月、キャンプファイア号は慣れ親しんだアフリカの大地へ暇乞いし、船舶へと乗り込んでいった。
英国の地を踏んで、競馬場にその勇姿を見せたのは、なんと一年後となる1906年4月20日のニューマーケット競馬場であった。
フライングH(芝1,000m)へ出走し、124ポンド(約56kg)を背負い、アーリーバードという馬を2着に102ポンド(約46kg)の10kgものハンデをもろともせず圧勝!最高の英国デビューを飾ったのであった。
この歴史的一戦、歴史的一勝の手綱を取ったのは、H.ランドール騎手。この年のキャンプファイアの主戦騎手を務めた。
しかし、あまりに鮮烈な勝利で新たなる門出を飾ったものの、英国で勝ち続けるというのはかなりのハードルであり、惜敗、大敗を繰り返し、この年は1勝で終わった。とはいえ、一年の超長距離輸送で全く万全に仕上げられておらず、英国においても常にハンデ差を設けられて、簡単な一戦など一つたりともない苦境に置かれた立場であり、圧倒的なレベル差があろうと思われていた南アフリカ馬と英国馬の溝を考えると、キャンプファイアは相当に健闘している部類に入るのは間違いなかった。
1906年の12月6日のマンチェスター競馬場での出走を最後に休養に入り、1907年、7歳のシーズンに全てを賭ける事とした。
一つ歳を重ね、7歳となった1907年4月23日。ダービーの中のダービー、全てのダービーの原点である、?ザ・ダービー?こと英ダービーの舞台であるエプソム競馬場に、キャンプファイアはその姿を悠然と現した。グレートサリーH(芝1,000m)に出走し、南アフリカ産馬史上初にして史上唯一となるエプソム競馬場での優勝馬となり、ニューマーケットに続いての歴史的勝利を収める事となった。
キャンプファイアは間違いなく前シーズンより調子が上向いており、体調も万全の状態に整いつつあった。
1907年6月4日、エプソム競馬場のエグモントプレート(芝1,000m)へ出走し3着とすると、これを足掛かりにさらに調子を上昇曲線へ乗せていった。この4日後にケンプトン競馬場のウィンザーキャッスルH(芝1,000m)を半馬身差で制し、ロイヤルアスコット開催のキングズスタンドS(芝1,000m)へと矛先を向けた。ウィンザーキャッスルHの際にコンビを組んだのは、D.マハー騎手で、彼は最後の主戦騎手となった。
豪華絢爛、英国競馬の粋、ロイヤルアスコットミーティングにキャンプファイアは威風堂々たる立ち居振る舞いで登場。
自信漲る眼力と、ハリと光輝を放つパンとした馬体で登場してきた。対して、ここに参戦したのは、かつてなき迄の難敵となる存在であった。無敗のリトルフラッター号がそれで、2歳馬であるということが、さらに厄介な点だった。古馬とこの時期の2歳馬の対戦ゆえ、ハンデ設定は相当な開きが予想された。その憶測は正しく、キャンプファイアの斤量には142ポンド(約64.5kg)、リトルフラッターには43.5kgの軽ハンデ。なんと、そのハンデ差は21kg!キャンプファイアは7歳を迎えていたが、覚醒期に入り、調子も上向きということもあって、20kg以上の斤量ハンデがあろうと全く意にも介せず、リトルフラッター以下を圧倒した。
唸るような手応えで突き放し、リトルフラッターに2馬身差、3着馬には6馬身差の短距離1,000mともすれば大差にも近い完璧なまでの大勝、楽勝でアスコットでの大金星を上げる事に成功したのであった。南アフリカ産馬として史上初、そしていまだ史上唯一となる歴史的な金字塔を打ち立てた。なお、南アフリカ産馬で英国において勝利を上げた馬は、実はもう1頭いて、パールローバーという馬(英国で2勝。英国で勝利を上げた南アフリカ産馬として史上初はこちらの馬)がその馬なのであるが、ニューマーケット・エプソム、そしてアスコット。これら3つの英国競馬場で勝利を上げた南アフリカ産馬というのは史上唯一頭、キャンプファイアのみである。
キングススタンドSで圧倒したリトルフラッターのその後は、5連勝して2歳戦を締め括り、キングススタンドSの直後のレースでは、名馬ダークロナルドを3馬身差に斥けてしまっている。2歳時の唯一の敗戦がキングススタンドSのキャンプファイアに負けたレースとなっていて、やはりキャンプファイアの7歳時の強さは際立っていたと言って良いだろう。
キングススタンドSから2週間後となる7月3日のニューマーケットで行われたソーハムプレート(芝1,100m)ではなんと149ポンド、67.5kgもの酷量を背負い、2馬身差の圧勝。2着のデスポワールは、斤量51kgでそのハンデ差は16.5kg差もあった。
この勝利がキャンプファイア最後の勝利となるが、常に60kg以上の酷な重量を背負わされ続け、圧倒的なハンデ差がある中走り続けることとなったがゆえの惜敗ばかり。ロイヤルアスコットでの眩きばかりの活躍の前後1ヶ月が競走生活においてピークタイムであったことは間違いなく、この時点では英国最強級=当時における世界最強のスプリンターであったという称号は、偽りなきものであったと思う。
キャンプファイアは1907年10月3日でのレースを最後に、ターフへと惜別を告げ、英国で種牡馬入り。
1908年から1915年まで英国ティックフォードパークにスタッドイン。
手厚いサポートを受け、何頭かのステークスウイナーを輩出したが、自身の距離適性を証明するかのように、ほとんどが短距離での勝利数が積み重なっていく事となった。彼の産駒の英国での戦績は70戦中26勝で、ホームファイアー(13勝)、ゴンドリー(9勝)、プスインザブーツ(6勝)、タン(6勝)という内訳であった。
キャンプファイアは、1915年に売却され、生まれ故郷への南アフリカへと帰国を果たすと、ウィンバーグのE.シュネハーゲ博士の農場にて種牡馬として繋養され、1922年にこの世を去った。南アフリカでは種牡馬としてはお世辞にも成功したとは言えず、ついに自身と同等かそれ以上の産駒を送り出すことは叶わず、絶命する事となった。
■希望の燧火(ひきりび)
エイブ・ベイリー氏の一世一代の大英断によって、キャンプファイアは歴史的名馬となる事が叶った馬であった。
前述の通り、英国において、エプソム、ニューマーケット、そしてロイヤルアスコット。
世界競馬において最重要な意義と意味を持つこの英国の3場で勝ち鞍を上げた南アフリカ産馬というのは、キャンプファイアが史上初にして史上唯一の馬である。当時、世界最高峰の地位にあった英国競馬において、短距離界で頂点に立ったキャンプファイアは、その瞬間、世界最高の短距離馬となった事を意味している。
当時、英国が支配下において徹底的に蹂躙した南アフリカの大地から、絶対帝国を揺るがすような存在が出現し、その帝国のエリートホースを薙ぎ倒す・・・そんな構図、図式は当世を生きた南アフリカ先住の民たちの魂を揺るがし、鼓舞したに違いない。戦争後の荒んだ心、打ち拉がれた閉塞感ある世の中、とてつもなく大きな勇気の炎を心へ灯し、支え続けてくれた偉大なる存在、それがキャンプファイアであったことは間違いない。
ベイリー氏は、自身の半生を顧みて、自身が南アフリカから英国へと渡った事、英国から南アフリカへと舞い戻り、世界の頂点に立った自身の成功(セシル・ローズとの繋がりにより、ベイリー氏は旧ローデシアの多くの鉱山および土地資産を取得。後に、彼は世界で最も裕福な男の一人になる)を鑑みて、それを…同じようなサクセスストーリーを、キャンプファイアにも託したのではなかろうか。
それは、希望の燧火。
一心不乱、我武者羅に起こす小さな火種。
戦争、奴隷、差別…明日見えぬ鬱屈たる暗漠たる世を命懸けで生き抜いて、灯した希望の灯火。
英国と南アフリカ。二国間の戦禍の運命に抗った、一人と一頭の灯した奇跡の炎。
それは、南アフリカの地に生きた人々の喜望の火鑽火となって明日を照らしたに違いない。
【キャンプファイア成績表】
《参考文献と写真引用・引用イラスト》
[参考文献]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
・うみねこ博物館?ムーンリット?
・うみねこ博物館?ミスティックスノー?
・Wikipedia「南アフリカ」
・Wikipedia「ボーア戦争」
[写真イラスト]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
・うみねこ博物館?ムーンリット?
・うみねこ博物館?ミスティックスノー?
・Wikipedia「南アフリカ」
・Wikipedia「ボーア戦争」
]]>
【1】徳島・阿波市にあった浦庄村の農閑期秘競馬
徳島県の阿波市にかつて存在した浦庄村では、
農閑期における唯一の娯楽としてひっそりと
競馬が楽しまれていた。
この地域の競馬は駈馬(かけうま)と言われ、神社の前にある直線を馬場として行われていた。
この直線馬場は400〜500mあり、競馬専用に飼養され出走させる者もいたが、大多数は農家の耕馬の優秀な馬が主力として競われていた。
この浦庄駈馬が行われていたのは明治初期からで、明治20年代最後期から明治30年初期においては、
円形馬場となり、乗用馬で馬券も売られ公認の勝負事として栄えた。
“阿波の秘競馬”と言えるのが、直線競馬で行っていた時代の競馬で、他県の競馬とは全く異なる様相を呈していた。
▲〔浦庄村にある神社の境内前にある直線道路。この道がかつての農閑期競馬の舞台となった〕
豪家程、騎手の衣装を派手に着飾らせ、馬具も当時としては貴重な鋼鉄製の轡(くつわ)で光沢を放ち、
手綱も麻製で阿波の青藍で染められた物が使われ、馬服として左右に「家の馬印」を金文字で刺繍した「よぎぬ」という物を着せて上帯をする。競馬を行う馬場に向かうまでの、家からの道中においては、木綿の市松模様に馬印を染め抜いた「松右衛門」という物を着せる。馬が駆ける際には、馬の背に一尺四方(四方が30.3cm)の小さな蒲団を載せ、その上から腹帯を締めて、騎手は騎乗した。
二尺程の竹の鞭を持って馬を叱咤する。
騎手は12〜15歳の子供が務める。その服装、装備は独特であり、頭に「馬印」のある頭巾を被り、袖なしまたは陣羽織様の物を着て、腰の両脇には「花」という五色の紙を引き絞って端を括った飾りを身に付ける。競馬に勝つとこれを腰から取って振り回し、勝利を誇示する。五色のものでなく、赤藍のものもあったという。
当日、対戦する馬の組み合わせは、馬裁判と言われる審判の者と馬主がうち寄って話し合い、駈脚の速い馬と遅い馬、同じ位の2頭、合計4頭を組み合わせ、当日の馬割を定める。馬の出番、出走の際には、二間(3.6m)程の竹の先に赤色の麾(さしずばた)を付けたものを振り、今から馬が駈ける事を馬場中央の観衆へ知らせたという。
【阿波市浦庄村の農閑期秘競馬】
馬場:神社の前の直線道路(400〜500m)
騎手:12〜15歳の少年
装備品:
[馬]
・鋼鉄製の轡
・麻製で阿波の青藍で染められた手綱
・「家の馬印」を金文字で刺繍した「よぎぬ」という馬服
・一尺四方の小さな蒲団+腹帯
・飼養地から馬場までに着る「松右衛門」という馬服(木綿の市松模様に馬印を染め抜いた着物)
[騎手]
・「馬印」のある頭巾
・袖なしまたは陣羽織様の着物
・「花」(五色の紙を引き絞って端を括った飾り)
・二尺程の竹鞭
▲〔騎手の装備。左は正面。右は背面から〕
【当時の番付を示した「馬印」】
〔浦庄村には上浦、下浦、そして訪諏地区と大きく3つのエリアに分かれる〕
浦庄村は、今はもう存在していない村である。
1955年3月31日、石井町、藍畑村、高原村、高川原村と合併し、石井町として生まれ変わった。
今はもう、村のキヲクは昔日の日々に揺蕩う、はるか彼方の記憶の向こう。
農閑期の競馬の記憶さえも、今を生きる人々の心の中にはもうない。
【2】群馬・伊勢崎のノッキリ競馬
群馬県の伊勢崎市にて、“ノッキリ馬場”と言われた3つの直線馬場にて行われている競馬がかつて存在した。
《三大ノッキリ馬場》
?石山観音堂の南口にあった南北200m・幅10mの直線道路
明治12、13年頃に開催されていた。南が出発地点で北は坂に掛かったところが決勝点だった。
1回に3頭位を走らせて、見物客はコースの両側から観戦。
昭和初年には、両側に大きな松の木が生え、その中に細い一本道があり、あとは雑草と茅で覆われていた。
時折として農耕馬をここで競走させることは、昭和初年まで続けられていたという。
?本村の堀下宿・南北500m・幅25m・中央に2m位の堀あり道路
江戸時代においては伊勢崎を結ぶ宿場で、
大変賑わった地であるという。
現在では堀も、道路も全て姿を消し、アスファルトの道に
変わっているという。
?曲沢の薬師廻りから天神林に向かう
約450m・幅5.6mの直線馬場
円形馬場へと姿を変えてからは、野村(1回)、間野谷(2回)、今井南原(1回)、北原(1回)、下触石山(1回)、香林(1回)、三百石(1回)、計8回程あった。
これらの開催も「ノッキリ馬場」と呼ばれていた。
《ノッキリ競馬の名馬たち》
🌟石野谷
群馬のあらゆる競馬場を渡り歩き、最後は大関にまで上り詰めたという。
🌟新栄
今井に住まう大森啓司氏の所有馬であり、大変有名な馬であったという。
青毛で五尺七寸もあり、関脇、小結、大関と昇進していった。
🌟カネイチ
ノッキリ競馬における最強馬。磯の金子一市氏の所有馬で鹿毛馬で、五尺八寸もある大型馬であった。
かなりの大きなハンデがあっても、全く関係なく勝ちまくった。
高崎競馬にも参戦し、レコードを記録したこともあったと伝えられている。
今井競馬や鹿島競馬にも参戦し、10年間近く一線級で活躍を続けた名馬であったという。
白毛の名馬・「桃太郎」
〔須藤家にて飼われていたという白毛の名馬。その名の如く勇敢で強い馬であったという。クラスは小結まで上り詰めたそうだ。須藤家の厩には、直径2mもある大きな桶が戦後まであり、出場の朝早くに桃太郎号をはじめとして、馬たちを洗ったり、帰ってきては洗ったそうである。桃太郎が優勝した時には、村ちゅうが大騒ぎになり、酒肴の酒盛りが開かれ、農閑期の最大の楽しみであり、娯楽となっていた。桃太郎号はその最たる希望の駿馬であったのだろう〕
《その他の名馬と開催地》
・植木のカワラケ沼の競馬
・波志江
・深津
・大室
・増田(年中行事のように毎年行われていたという)
《その他・群馬県の秘競馬》
【トビキリ競馬】
群馬県甘楽郡妙義町菅原の馬頭観音祭りの当日、寺の山際で開催されていたという直線競馬。一直線に真っ直ぐ飛び抜けることからこの名称がついたという。
その後、トビキリではつまらないと、山の木を切り出し即席の馬場が田に設けられ、大掛かりな競馬大会が開かれるようになると、村内は元より近在の町や村のアチラ此方へと招待状が出されるようになったという。招待された者は花を包んだり、お祝いの品を当日持参した。また馬を出走させる馬主たちも金一封をしたため、来場。祝い品を持って来た者は、特別席へと案内され、酒やご馳走が振舞われたという。
出走馬は約50〜60頭ほどで、陽雲寺の和尚が馬頭観音のご本尊を持ってきて、拝んでから始めた。横綱・大関・小結など、相撲のように階級が分けられており、クラスごとの競走が催されていた。優勝馬の帰りの行列は、それは賑やかなものだったという。
【ノリッキリ競馬】
群馬県の千代田村・舞木という村落でのみ開催されたかなり珍奇な競馬。
この村に立つ円福寺には馬頭観音があり、1月18日に縁日が設けられていた。その祭日の当日、この寺の堤防の上にて競馬が行われていたとのこと。その距離、約300m(文献には「仁木の前から小西屋?前まで」と記されている)で、途中には両側に竹が立てられており、その竹には二本を繋ぐように縄が結ばれている。その縄には何本も手ぬぐいが吊り下げられており、競走する者はその手拭いを騎乗しながら掴み取る。馬に自信のあるものでないと、中々成功しなかったという。
《参考文献・写真引用》
【参考文献】
・Wikipedia 「浦庄村」
・浦庄村史(浦庄村史編纂委員会 編 浦庄村史出版委員会, 1965)
・群馬県史(群馬県史編さん委員会 編 群馬県, 1984.3)
【引用写真・イラスト元】
・浦庄村史(浦庄村史編纂委員会 編 浦庄村史出版委員会, 1965)
・群馬県史(群馬県史編さん委員会 編 群馬県, 1984.3)
・雪が降る日に(GANREF)
]]>
富山県は、射水(いずみ)市、射水平野が広がる農耕文化の根付くこの地に伝わる不思議な神馬像がある。
かつて、この白き天駒の像は、天保年間(1830年〜1844年)に作られ、
昭和2年に合祀された伊勢領神明社が伊勢神宮の分社として建立された際、
伊勢神宮より渡ってきたものであるという。
かの地へと渡った後、黒塗りの木馬像は、白馬に対を成す雌馬として作られたとされる。
2頭ともヒノキの寄せ木造りであるという。
大型の木造神馬であり、この2頭の存在は、後世での「絵馬」の起源を髣髴とさせる貴重な価値を包含しているとされる。
射水市指定文化財。
上が昭和初期に撮影された写真。
下が令和となってから映された一枚。
十社大神の御祭神は、天照大御神様であり、太陽の女神。
神道では、稲作農耕の発展とともに作られてきたと考えられている。
古来より多くの人々が、日照りやその反対の日照り不足を心配し、
太陽の神に祈りを捧げてきた。そうした背景からこの神馬像は
この地に鎮座しているのではなかろうか。
地元では、「晴乞いは白馬に、雨乞いは黒馬に祈るとよい」など、
多くの伝承が残る。
主な供物としては、お神酒と黒豆、そして、「人参」が供えられるという。
絵馬堂には、鏝絵の絵馬が11枚保存されている。
《参考文献・資料、引用写真》
【参考文献】
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・きららか射水観光NAVI
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
【引用写真・イラスト元】
・伊勢神宮分社 十社大神ホームページ
・小杉町史(小杉町史編纂委員会 編 新興出版社, 1983.3)
・十社大神からのお知らせブログ
・Free pick「夕日を眺める女の子の絵」
]]>
伝説の名手
?ラルフ・ネヴェス?の
世にも奇妙な物語
かつて古の米国競馬に、?ピメンテイロ・ポルトゥゲス?
「ポルトガルのペッパーメーカー」と呼ばれた名騎手がいたことを
貴方はご存知であろうか。
史上唯一、2度死んだ騎手であり、
本当に1度死んで復活を果たして伝説となった名騎手である。
死んだというのは、比喩表現でも誇張表現でもなく、本当に「医学的に死亡と判断」されてから、蘇った騎手であり、彼の死亡記録はしっかりと残されているのである。
しかも、死亡から数時間後に蘇り、立ち上がるやすぐにそのまま競馬場に引き返して競馬を再開しようとしたのである。
▲〔在りし日のラルフ・ネヴェス騎手。身長150cm、体重48kgであった〕
信じ難い奇跡が数十年前に起きていたのである。
それでは、伝説の名騎手、ラルフ・ネヴェスの生涯を辿って参ろう。
🔵物語は絶海の孤島から
1916年、ラルフ・ネヴェスはポルトガルから遠く離れた絶海の群島、アゾレス諸島に生を受けた。
ラルフ・ネヴェスが物心付いた時、彼の両親はすでに移民であり、アゾレス諸島を出てアメリカに向かう船の中であった。
最初にケープコッドを通過し、その後サンフランシスコに定住した。
現在、米国にて営みを送る「ポルトガル・ペッパーメーカー」のご遺族方は、自分たちの父がアゾレス諸島のどの島から渡って来たのか?さえ知らず、祖父、つまりはラルフの父親の名前さえ正確に知らないという。
父のラルフからは、「ラファエル」と聞いており、それが祖父の名だと信じている。
ラルフの父親はロブスター捕りの仕事をしていたが、その仕事は長くは続かず、統合失調症を患ってしまう。
ラルフ・ネーブスの孫であるジェイソン・トゥーゴーは、1930年代のある日、ラファエロが服を脱いでサンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジまで歩いたと自身のブログ「カリフォルニア」で語っている。彼は全裸で道路の真ん中に立ち、ポルトガル語で「止まれ」「進め」などと言いながら、車に停止または前進を交互に紛らわしく合図しながら交通整理を始めた。彼の奇行の目的は、すべての車をそこから追い出すことだったという。彼の心の中では、橋が「黒アリでいっぱいになっているように見えた」のであった。
こうした気が触れた行動により、ラファエルは病院で半永久的に隔離されてしまう。
彼の妻であり、ラルフの母である、アゾレス人フランシスさんは、家の貧しさに主人の社会的失脚から、3人の子供を養っていく事ができないと判断し、ラルフを修道学校であるセントビンセント男子校に入れた。
🟡馬との出会い、ラルフの夢
ラルフは、孤児や未成年の非行少年と過ごすようになり、12歳の時には既にそのグループの中のリーダーとなっており、噛みタバコの習慣があったという。ある日、サイコロをしているラルフを捕まえた修道女の一人が彼を罰したため、ラルフは学校から脱走する事を決意する。
その日の夜、彼は窓から飛び降り、壁をよじ登り、ためらうことなく学校を囲む森へと走った。
その森の中、朽ちた小屋を見つけ、彼はそこを最大限に活用し、寝床と生活の拠点として使い、警察が捜索を断念するまで、6日間をそこで過ごした。隠れ場所から出ても安全だと分かると、彼は行く宛もなくただただ歩みを進めた。運命に導かれるように、辿り着いた先は、オレゴン州にあるとある牧場だった。そこで彼は馬に乗ることを学び、お金を稼ぎ始める。
ラルフの馬との運命の出会いであった。
ひょんなことからラルフはその牧場で仕事をさせて欲しいと懇願した。しかし、何の経験もないラルフに最初から馬に跨らせて貰えるはずもなく、駆け出しはロバに乗る仕事から始めた。
それは、ロデオショーの仕事であった。ラルフは、その才があったのか。急速に腕を上げ、騎乗技術を自分ものとしていった。
1934年、その腕が映画監督のフランク・キャプラ氏の耳に入り、俳優の替え玉…つまりは今で言うスタントマンとして白羽の矢が立った。このアメリカ人監督は、義父の会社を辞めて競馬に専念する男の物語を描いた『ブロードウェイ・ビル』を公開し、映画『ある夜の出来事』でアカデミー賞6部門を受賞したばかりの、時の人であった。ラルフは撮影日ごとに10ドルの報酬を受け取り、これに映画の中で最も困難で危険なシーンの一つと想定された場面、「落馬」のシーンを颯爽とこなすと、200ドルのボーナスを監督から受け取ったという。
▲〔フランク・キャプラ監督『ブロードウェイ・ビル』。ラルフはこの作品の馬上スタントとして活躍し、スターダムにのし上がっていった〕
このハリウッドにおける馬に乗るスタントマン生活が、彼に大きく影響したことは間違いないようで、いつしか彼は一つの夢を掲げて生きるようになっていた。それは・・・
「騎手になること」。
🟣壮絶な減量生活
しかし、騎手は体重が制限がある現実と直面し、ラルフは騎手となるべく、激しい減量を開始するのだった。
この時、ラルフの体重は60kg超。少なくとも12kgを絞らなければならい。
1930年代の主力騎手の一人は、丸1年間 (誇張ではなく、実際に12ヶ月) 卵だけを食べて過ごした (これも誇張ではなく、本当に実在した)。また別の者は、レース前夜にレタスの葉を2枚だけ食べたが、その食事すら気に病み、日光浴を行なって水分を飛ばすという予防策を取る程に入念な対策を施していたという。
減量生活の中、食事制限が運動をしても上手くいかない場合、彼らは下剤に頼った。そして、下剤ですらまだ不十分という場合、なんと言うことか。サナダムシが入ったカプセルを闇市場で購入して摂取し、寄生虫にまで縋る?寄生虫ダイエット?まで敢行する者も少なくはなかったという。
想像を絶する減量を潜り抜け、ラルフは夢を叶えることに成功する。
1934年、念願の騎手となり、初勝利を上げることに成功する。後の未来、1960年には、彼は米国競馬の殿堂入りを果たし、正式に史上最高の騎手の一人と認められることとなり、生涯で3,772レースに勝利する記録を打ち立てることになる。
しかし、そのキャリアは決して真っ平で真っ白な物ではなかった。勝つ為なら多少のリスク、他馬と他騎手への攻撃的騎乗も厭わず、「西海岸で最も罰金を科せられた騎手の一人」となった。6ヶ月の騎乗停止処分を受けたこともある。
そんなアグレッシブ過ぎる騎乗が祟ってか、ラルフは長年にわたって沢山の部分を骨折したり、押し潰されたり、時としては引き裂かれたり、損傷したりした事も多々。「腰から下が麻痺」し、頭部に損傷を負い、2時間半に及ぶ手術を受けなければならない程の重傷に瀕した時には、医師たちすらも絶望する程のダメージを負っており、生存の可能性は60%しかないとまで言われた。
騎手のキャリア中で、彼は「二度とレースには戻れない」と6回も言われたが、その言葉を全て乗り越えて復活してきた。
▲〔タンフォラン競馬場にて愛馬ブリークス号で勝利してオーナー・調教師との口取りに臨むラルフ・ネヴェス〕
その超越した事故の一つにもなっているのが、死亡事故となった、一件も含まれる。
その余りのタフネスさと強靭な精神力から、「骨折王子」という愛称が付けられ、ファンにも他の騎手からも一目置かれる存在となったラルフ。いつしか彼は、ジャーナリストやファンから?ピメンテイロ・ポルトゥゲス?「ポルトガルのペッパーメーカー」と異称で呼ばれ、畏敬の念を持って親しまれることとなっていく。彼がポルトガル移民の血を引いており、それでいて彼の荒々しく猛々しい騎乗パフォーマンスが、その二つ名の由来だ。
🔴1度目の「死」
1936年5月8日、ラルフはベイメドウズ競馬場で騎乗していた。その時、まだ弱冠19歳。
その週のレース(翌9日のレース)では、騎乗した全レースの総合順位がポイント制で出され、総合優勝者には賞金500ドルと賞品として金時計が用意されているとラルフは聞いていた。
また、その賞を贈呈するプレゼンターとして、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた歌手であり、俳優でもあるビング・クロスビー氏であった(後にビング・クロスビー氏は馬主に)ことも、ラルフを昂らせているようだった。
悲劇は第4レース、その日のラルフの騎乗鞍3鞍目で起きた。
このレース、ラルフは中団につけ前を行く3頭目掛けてスパートを掛けていたが、先行集団の1頭が故障を発生し、転倒。そこへスパートを掛けていたラルフの騎乗馬が猛スピードで疾駆。
前方の馬が転倒した事に動転し、混乱したラルフの騎乗馬は急停止。その反動によりラルフは空中へと投げ出され落馬した。
地面に激しく打ち付けられ、横たわるラルフ。そこへ後続の馬たちが急追して押し寄せ、最悪なことに、後ろから追い上げてきていた馬たちにラルフは踏みつけられてしまった。競馬場に控えていたドクター3名がラルフの元へと走った。
事態は最悪…絶望的な状況であった。ラルフはピクリとも微動だにせず、肺で呼吸をしておらず、心臓も止まっていた。
そこから15分間、3名の医師により懸命な応急措置が繰り返された。心臓マッサージ、人工呼吸を必死に続けた…しかし・・・
ラルフが息を吹き返す事は無かった。
▲〔心臓停止から15分が経過して何もしないと、助かる見込みはほぼゼロに近づく。救命措置を行っていたとしても、20分が経過すると、10%以下となる。ましてやラルフは病院搬送後までを見ると30分は悠に超過している。これを見てもラルフが助かる可能性はほぼゼロ%に近かったことが頷けよう〕
「死」を認知した3人の医師たちは競馬場の医務室へとラルフを運び、ベッドの上に寝かせた。
遺体となったラルフを病院へと搬送すべく、救急車が呼ばれる。
すでに事故発生から30分近くの時間が過ぎようとしていた。
病院へとラルフが運ばれ、「死亡」確認が取られたことで、競馬場のアナウンスからは
「ラルフ・ネーヴス騎手の死亡が告げられました。彼を偲んで黙祷を捧げます」
と放送がされ、競馬場で生還を願っていた、調教師や友人騎手たち、そして競馬場に詰めかけていたファンや記者たち全員が絶句して天を仰ぎ、またある者は首を横に振り、十字を切る者。中にはショックで悲泣、欷歔(ききょ)する者もいた。
その頃、病院では死体に施される処置が執り行われていた。看護師らはブーツを片方脱がせ、つま先に身分証明書を置き、体をシートで覆った。そうして、物言わぬラルフはある部屋に静かに運ばれた。遺体安置所であった。看護師たちは最後に神への祈りを捧げ、部屋を後にしていった。
🟠復活のアドレナリン注射
時同じくして、その日の夜、一緒に夕食を取る予定であったラルフの友人の医師ホレス・ウォルドさんはラルフの騎乗するメインレースを見届け、すべてのレース終了後に一緒にレストランへ向かう考えであった。
競馬場に到着し、これまで起きた事態を把握すると、ホレス氏はすぐに彼が運ばれた病院へと車を飛ばしていた。
目的地に到着するや否や、病院内へと駆け込み、遺体安置所を目指した。
ラルフとまさかの無言の対面。
死体を目の前にしても、今だに信じられなかった。ホレス氏は何を思ったか、鞄に手を入れると注射器を取り出し、ラルフの心臓へ直接アドレナリンを注射。
すると、信じ難い奇跡が起きた。
ラルフはカッと目を見開くと、立ち上がって走り出したのである。
ラルフ自身もここがどこか分かっていなかったが、ブーツは片足履いていて、上半身は裸も下はズボンを履いている。
「競馬場に向かわなくては」という強烈な焦燥感と強迫観念に襲われ、彼は走り続けた。
そのシーンはまさにコメディーシーンそのままであったという。
医師や看護師は、その現実に信じられれずも彼を必死に追いかけて行った。
ラルフは病院を抜け出し、駅を目指して走り続けた。走り続ける最中、彼の友人であるタクシードライバーの車が偶然にも通り掛かり、ラルフは友人を呼び止めて車へと乗り込み、競馬場を目指した。
ラルフの死に、悲哀に暮れるベイメドウズ競馬場へ死んだご本人が到着。ラルフは友人への礼も一言、猛スピードで車を降り、競馬場の扉を駆け抜けた。その頃、競馬場では騎手仲間たちが、彼の死を悼み、遺族への寄付金を募っている所であった。そんな中、死んだはずのラルフが猛然と駆け抜け、トラックへと飛び出していった。本気で「幽霊」と思った者もいたというが、当然だと思う。
ラルフは自身が落馬した位置まで辿り着くと、全てを察したかのようにその周囲を見つめ、気を失った。
医務室で意識を取り戻したラルフは、すぐにでもレースに乗りたいと医師たちに懇願した。
医師たちは彼の体を検査し、骨折などが無いことを確認。信じ難い事に、彼の身体は正常な状態に戻っており、レースに臨むにあたり問題ない事を確認出来たという。最終レースを残していたが、流石にその日の騎乗は取りやめるようラルフを諭した。
しかし、翌朝、土曜日のレースには臨んでも問題ないとゴーサインを出したのである。
そうして、次の日のレースに、彼は一度「死んだ」と医学的に宣告されたに関わらず、翌日のレースに出走したのであった。
たとえ死んでいなかったとしても、激しく地面へと叩きつけられ、複数頭の馬たちに叩き蹴られた直後というのに、普通に騎乗して彼は総合優勝を果たしてしまった。この日のラルフは1着になることは出来なかったものの、全レースで2着か3着に好走し、総合ポイントで首位に立ったのであった。ラルフは、ビング・クロスビーから優勝賞金の500ドルと金時計を授与され、憧れのプレゼンターと固く握手するのであった。
▲〔1936年、5月11日の新聞の一部記事。ラルフの死亡事故から翌日の騎乗を、“Back to Life”と上手い表現で綴られている〕
▲〔こちらは1936年5月10日の新聞の一部記事。その見出しは“Dead Jockey still rides”「死んだジョッキー乗り続ける」〕
▲〔競馬場にて二人の息子と語らうラルフ・ネヴェス〕
🟡幸運仕掛けのNEVESナンバー
俄には信じ難い信じられない、死からの「奇跡」の復活劇。
彼は一度死んで蘇ってからというもの、
よくこんな事を言っていたという。
「私の名前を反対から読むと何か分かりますか?NEVES・・・?7?セブンですよ」
「私にとって幸運の数字です。神ですら私を殺すことはできません。神様はすでに「それ」を試しました。結果どうです?」
その1度目の死亡から数十年の時が流れ、1995年7月7日、彼が崇愛したお気に入りの数字が重なった日、“ポルトガルのペッパーメーカー”はカリフォルニアにある老人ホームで亡くなった。肺がんと深刻な心臓疾患を患っていたという。
2度目となる死亡。1度目の死が宣告されてから、実に59年もの月日が経過していた。
死亡したに関わらず、奇跡的に蘇った彼をそこまで競馬場へと突き動かしたの「もの」は、果たして何だったのであろうか。
彼の1度目の死から90年近く、2度目の死から30年近くが過ぎた今もそれは謎のままである。
とある「2度死んだ」騎手の世にも奇妙な物語。
【参考文献】
・The Courier-Journal Louisville, Kentucky · Monday, May 11, 1936
・Lubbock Avalanche-Journal, Texas · Sunday, May 10, 1936
・https://observador.pt/especiais/o-pimenteiro-portugues-morreu-duas-vezes-e-ressuscitou-uma/
・ Interview with Jason Tougaw, grandson of Ralph Neves.
・Jason Tougaw, “The Golden Gate”, published on the “Californica” blog on January 21, 2012; “My grandpa was a tiny party. The photos prove it”, published on February 17, 2012; and “You Can't Kill the Portuguese Pepper Pot”, published on May 21, 2012.
・Laura Hillenbrand, “Seabiscuit”, Harper Perennial, London, 2007.
・Barbara Mikkelson, “Jockey Shorted”, published on the Snopes website a April 19, 2009.
・Bill Christine, “Long Ride Over for Jockey Neves: Horse racing: Declared dead after a race, he dies of cancer 59 years later”, published in the “Los Angeles Times” on July 8, 2005 .
・Brian Cronin, “Did jockey Ralph Neves die in a race accident and come back to life?”, published in the “Los Angeles Times” on June 6, 2012.
・Dwight Chapin, “A Resurrection”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on April 29, 1999.
・Mike Brunker, “Portuguese Pepper Pot defied death to ride on”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on January 22, 1995.
・Ryan Whirty, “Jockey Ralph Neves ' strange tale”, published on the ESPN website on May 5, 2011.
・“Neves Remembered For Brush With Death”, published in the “San Francisco Chronicle” on July 10, 1995.
・“Ralph Neves”, published on website of the National Museum of Racing and Hall of Fame.
・“The Portuguese Pepperpot”, published on the Washington Racing Hall of Fame website”.
・“Neves Undergoes Brain Operation”, published in “The New York Times” on May 31, 1959.
・“Ralph Neves, 78, Hall of Fame Jockey”, published in “The New York Times” on July 10 1995.
【引用写真・イラスト元】
・The Courier-Journal Louisville, Kentucky · Monday, May 11, 1936
・Lubbock Avalanche-Journal, Texas · Sunday, May 10, 1936
・https://observador.pt/especiais/o-pimenteiro-portugues-morreu-duas-vezes-e-ressuscitou-uma/
・ Interview with Jason Tougaw, grandson of Ralph Neves.
・Jason Tougaw, “The Golden Gate”, published on the “Californica” blog on January 21, 2012; “My grandpa was a tiny party. The photos prove it”, published on February 17, 2012; and “You Can't Kill the Portuguese Pepper Pot”, published on May 21, 2012.
・Laura Hillenbrand, “Seabiscuit”, Harper Perennial, London, 2007.
・Barbara Mikkelson, “Jockey Shorted”, published on the Snopes website a April 19, 2009.
・Bill Christine, “Long Ride Over for Jockey Neves: Horse racing: Declared dead after a race, he dies of cancer 59 years later”, published in the “Los Angeles Times” on July 8, 2005 .
・Brian Cronin, “Did jockey Ralph Neves die in a race accident and come back to life?”, published in the “Los Angeles Times” on June 6, 2012.
・Dwight Chapin, “A Resurrection”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on April 29, 1999.
・Mike Brunker, “Portuguese Pepper Pot defied death to ride on”, published in the newspaper “San Francisco Examiner” on January 22, 1995.
・Ryan Whirty, “Jockey Ralph Neves ' strange tale”, published on the ESPN website on May 5, 2011.
・“Neves Remembered For Brush With Death”, published in the “San Francisco Chronicle” on July 10, 1995.
・“Ralph Neves”, published on website of the National Museum of Racing and Hall of Fame.
・“The Portuguese Pepperpot”, published on the Washington Racing Hall of Fame website”.
・“Neves Undergoes Brain Operation”, published in “The New York Times” on May 31, 1959.
・“Ralph Neves, 78, Hall of Fame Jockey”, published in “The New York Times” on July 10 1995.
・パブリックドメインQ「遺体のある死体安置所」
・Adobe stock「Faint hazy glow passing through a window onto a mortuary examining table. Generative AI」
・バイスタンダー(居合わせた人・発見者・同伴者)による心肺蘇生とAEDによる救命処置の重要性(多度津町ホームページ)
]]>
〜月の降る街を翔けるニューオリンズ発
メロウナイト・ジャズR&B〜
ージャマイカの音楽と競馬を融合させた歴史的女帝ー
(写真提供:Heather Auguty)
父 マウンテンミュージック(ハイペリオン系)
母 ギルツ
母父 マヌチェフェル(フェアウェイ系)
生年:1963年
性別:牝
毛色:黒鹿毛(赤み掛かった褐色模様あり)
調教国:ジャマイカ
生涯成績:37戦14勝[14-8-6-9]
主な勝ち鞍:ジャマイカダービー、ジャマイカオークス、プレジデンツカップ、ノーフォークカップ他
■?Ska?と?スカ?
白昼の炎陽がジリジリとアスファルトを焦がし、陽炎となって都会の空気は焼け尽くされれていく。
どうしてそこまで怒りの放熱を延々と毎日続けられるというのか。
炎空には「ジリジリ」と歯軋りを立てるような、意地の悪い険悪な顰めっ面をした太陽が、人間たちを睥睨として浮かんでいる。
太陽氏がようやく怒りを鎮めて去っていく頃、彼にも優秀なアシスタントがいるらしい。
執事か秘書がいるのであろう。彼らは上手くタイミングを見計らって、まだ火照る吐息が絶えない地上へと、夜の帳を下ろしてくる。
熱射により灼け尽くされた都会の夜は、逃げ場を失くした風たちが街全体を包み、宵闇と共に重くのしかかっているような蒸し暑さが立ち込める。月の船も熱さから逃れるように、大きな三日月型となって高層ビルやタワーマンションの影に息を潜めているようだ。
とろけるような夜、高速道の喧騒の中、カリビアンなメロディーが流れてくる。メロウナイトジャズ。
ジャマイカンバー、高層ビルのジャズバー、そういった所から奏でられる旋律は、都会の夏の夜がよく似合う。
しっぽりと飲む酒と、心の銀線に触れるジャズのメロディーは、深い深い常闇の世界と融合するためのパスポート。
R&Bの独特なリズムが鼓動し、耳奥へと新世界をスプロールさせていく。
?Ska?の律動である。
Ska -スカとは、ジャマイカ発祥の音楽で、1950年代後半の米国のR&Bに影響を大きく受けたアップテンポな「シャッフルブルース」。有名なレゲエの前身となるミュージックスタイルであり、1小節につき8分音符の3連符(1拍に3つ音を鳴らす3連)で成り立っているリズムで、ギターチョップとオフビートが特徴的。
瞬く間にジャマイカンヤングの心を鷲掴みにしたSkaの流行はとどまる所を知らず、1960年代前半には競馬界にまでその余波は轟いた。
ジャック・デシャン氏(J. Deschamps)はジャマイカンミュージックをこよなく愛し、自身の所有馬で「これだ」と直感で感知した1頭の牝馬に?Ska?と命名した。この馬がまさか、音楽文化のSkaに同じくジャマイカの人々の心を掴み、鼓舞するカリスマへと成長を遂げようとは、まだ誰一人としてそのイマジネーションを五線譜へと落とす事は出来ようもなく、日々のメロディーは忙しくストリームして行った。
■?Ska?の成り立ち。?スカ?の生い立ち。
1950年代後半、世界を二分に分けた大戦の幕引き後、ジャマイカの人々はラジオから流れるニューオリンズ発のR&Bを聞き入り、心を震わせるその音色、旋律を自分たちの音楽で表現した。まさに魂のゴールデンメロディー。?今までにない音楽?を希求し、自分たちの独自のスタイルでR&Bを改良させ、?Ska?は生まれた。
ジャマイカンミュージックの成り立ちは近代になってからだが、ジャマイカにおける競馬の濫觴はそれよりもはるかに古い。
1718年、ジャマイカ総督の認可により最初の競馬開催が実現し、1783年には初の常設競馬場である公営キングトン競馬場が開場。
当時の競走馬の主体はサラブレッドの血が混ざったポロポニー。次第にサラブレッドの生産もはじまり、血統書の第1巻は1892年に刊行されている。そうして、1905年。競馬統括機関としてジャマイカジョッキークラブが創設。
各競馬場はジョッキークラブから認可を受けた法人組織によって開催されるようになっていく。
その各地の競馬施行団体の中で、最も有力となったのは、ナッツフォードパーク競馬場(1905年にキングストン競馬場から移転)の開催権を得たナッツフォードパーク社であったが、後発のジャマイカターフクラブ社が1934年にナッツフォードパーク競馬場の開催権を得ると、2社が競合する時代が続き、その過程の中で国内競馬の淘汰は進んでいき、6つあった競馬場も1960年代にはケイマナスパーク競馬場(1959年にナッツフォードパーク競馬場から移転)とリトルアスコット競馬場の2つに集約されていった。
1962年にジャマイカがイギリスから独立を果たすと、政府は競馬関連の法整備を進め、国内競馬の再編が一気に加速。
1967年にナッツフォードパーク社とジャマイカターフクラブ社が合併してケイマナスパーク社(現在のケイマナス・トラック社)が設立され、競馬場はケイマナスパーク競馬場の一ヶ所に集約。
そして1972年、ジャマイカ競馬委員会が設立され、ジャマイカジョッキークラブが担ってきた競馬統括機能がすべて移譲された。
【ジャマイカ三冠】
?ジャマイカ2000ギニー(ダ 1,600m)ケイマナスパーク競馬場
?ジャマイカダービー(ダ2,400m)ケイマナスパーク競馬場
?ジャマイカセントレジャー(ダ2,000m)ケイマナスパーク競馬場
【三冠馬】16頭
★モンクレアー(1924年)
★サラバンド(1926年)
★バイジョーヴ(1929年)
★マネームーン(1937年)※牝馬によるクラシック三冠馬。
★ジョージメタクサ(1939年)
★マークトゥエイン(1950年)
★ロイヤルダッド(1981年)※史上7頭目の三冠馬にして史上初の無敗三冠馬。
★マンデーモーニング(1987年)
★ルイチェープー(1988年)
★ザヴィセロイ(1989年)
★ミリグラム(1992年)
★ウォーゾーン(1996年)
★アイムサティスファイド(2000年)
★マークマイワーズ(2010年)
★シュプリームソウル(2019年)
〔ロイヤルダッド:1978年生。父バグダッド(テディ系) 母ロイヤルスノッブ 母父ロイヤルファーマー(ロイヤルチャージャー系)、牡馬、青鹿毛、生涯成績17戦13勝。ジャマイカ競馬史上初にして唯一となる無敗の三冠馬。ジャマイカ競馬の誇る伝説的名馬。無敗の11連勝を記録。レース直後の心臓麻痺により命を落とす。〕(写真元:Jamaica Observer)
〔マンデーモーニング:1984年生。父ポルナチェリー(ナスルーラ系)母ジェダル 母父ブルーフォーボーイズ(リボー系)、牡馬、鹿毛、史上8頭目となるジャマイカ三冠馬〕(写真元:Jamaica Observer)
〔ミリグラム:1989年生。父エキゾチックトラベラー(ボールドルーラー系)母ミルブルック 母父ミルフォード(ネヴァーベンド系)、ジャマイカ競馬史上11頭目の三冠馬〕(写真元:Jamaica Observer)
1987年、1988年、1989年と三年連続でクラシック三冠馬が誕生。
これは他ではフィリピン、ケニア、ノルウェー、ドミニカ共和国で記録されている。
【ジャマイカの偉大な名馬たち】
この場を借りて、ジャマイカ競馬の誇る、三冠馬以外の名馬たちを紹介しておきたい。
?Legend Legacy?
ノンサッチ
[ノンサッチ:1963年生。栗毛。父バリープレシャス、母ベリンダ、母父アベンジャー。ジャマイカ競馬が見た史上最強の騸馬であり、史上最強馬の一頭にも論考される名馬である。ジャマイカ土着の血統馬でありながら強力無比な輸入馬たちを圧倒し続けた。生涯成績82戦28勝。2歳時からその異才を発揮し、8戦8勝。2歳チャンピオンとなり、3歳時もその強さに陰りなくクラシックチャンピオンともなった。騸馬というと遅咲き、古豪のイメージもあるが、この馬は最初からそのポテンシャルを全開させていた。](写真元:Jamaica Observer)
レーガルライト
[レーガルライト:1974年生。栗毛。父エレメント、母ポリティア、母父バーバー。生涯成績53戦27勝。ノンサッチと並んで称え崇愛されし伝説の名馬。1978年、1979年と2年連続で年度代表馬に選出され、1982年に引退する際には全てのステークス競走を制していたという。その主な勝ち鞍としては、ジャマイカダービー、ジャマイカセントレジャー、レッドストライプスーパーS(2回)、プライムミニスターS(3回)、ジャマイカエクリプスS、レオデリッサー・メモリアルカップ(2回)他。](写真元:Jamaica Observer)
ジャマイカ競馬史上最強スプリンターマイラー
アキングイズボーン
[アキングイズボーン:2000年生。生涯成績27戦21勝。“エクセレントスプリンター”と呼ばれ、年度代表馬はもちろん、チャンピオンマイラー、チャンピオンスプリンター、最優秀古馬にも選出されている。しかし、距離適応の万能性が非常に高く、中長距離戦もこなした歴史的名馬である。主な勝ち鞍として、ジャマイカダービー、ディジC、シーズオンホイールズトロフィ、レゲートロフィ、ロットスプリントトロフィ、チェアマンズトロフィ、レッドストライプスプリント、200ギニー、クレードルSなど。](写真元:Jamaica Observer)
【ジャマイカ競馬真史上最強?2歳馬】
プリンセスポップスター
〔2011年生。生涯成績4戦4勝。ジャマイカ競馬へと降誕したスーパーアイドルスター。類稀なる身体能力と神懸かったスピードに全てのファンが見惚れ崇愛した程の名馬。ジャマイカ競馬で史上唯一2歳で年度代表馬に輝く。2歳で年度代表馬になったのは世界でもあのセクレタリアトと英国のプロヴィデオ。ポーランド無敗の三冠馬ヴァバンク、そしてこのプリンセスポップスターの、4頭のみ。全戦ぶっちぎりの大楽勝で持ったまま直線だけで手綱が微動だにせぬまま超加速し大差引き離してのパファーマンスは刮目、驚愕に値する。言わば「ジャマイカ版・女トキノミノル」と言ったところか。故障でクラシックを棒に振るも、トリニダードへ渡りオークスに圧勝。その後、再び休養に入るも、疝痛のため絶命する〕(写真元:Jamaica Observer)
Skaの再来?
魔法少女
シンプリィーマジック
〔シンプリィーマジック。1999年生まれ。ジャマイカクラシック史上最高のパフォーマンスを残した歴史的名牝にして、西インド諸島史上最強級牝馬。12戦9勝。オーナーブリーダーであるデヴィッド=ヴィラー氏の目に掛かり、ジャマイカの地にて愛育を施され、フィリップ・ファーニー調教師に愛鞭を振るわれ鍛えられた。ジャマイカ2000ギニーを除くクラシックを完全制覇。ジャマイカ1000ギニー、ジャマイカオークス、ジャマイカダービー、ジャマイカセントレジャーすべて圧勝、楽勝、快勝の連続であった〕(写真元:Jamaica Observer)
★★【ジャマイカ最多勝馬】★★
1位 ナサトール
生涯成績123戦36勝[36-13-21-53]
(写真提供:Facebook 「Nasatol」)
2位 マスターブラスター
生涯成績121戦34勝[34-34-11-42]
3位 エロス
生涯成績42戦29勝[29-5-5-3]
ジャマイカ競馬史上最強
最速・最高の短距離馬
エロス
[エロス。1988年生。生涯成績41戦29勝。2着4回、3着2回。ジャマイカ競馬が見た歴代最高の短距離馬と言われるのがこの馬である。CTLカリビアンスプリントチャンピオンシップ5勝(1991〜1994年まで四連覇。1996年に競走生活復帰後にも優勝)はダントツの史上最多勝であり、レッドストライプスプリントも4勝、ベンソン&ヘッジスゴールドカップ、チェアマントロフィ2回と実績でも史上最高の勲章を重ね上げた。そのスピードもすさまじく、5Fで56秒4、6Fで1:08.4というトラックレコードをマーク。驚くべきことに1,000m、1,200m、1,300m、1,400mすべてでレコードを保持していた。完全なスプリンター特化という訳でなく、1,800m近辺の距離までならカバーしており、1,830mの1:50.0という、強烈なレコードタイムも記録している。ジャマイカ競馬の殿堂入りも果たしており、ジャマイカ競馬の関係者、評論家、ファンが一同にこれまでに見た最高のスプリンターはエロスという結論は揺るぐことの無い、不変の解答となっている。しかし、不運にもエロスは去勢されてしまっており、その類稀なる天性のスピードを後世へと継承することは叶わなかった]
(写真元:Jamaica Observer)
4位 パックストカム
生涯成績105戦28勝[28-25-18-34]
5位 リトルドラゴン
生涯成績149戦28勝[28-19-11-91]
6位 ホログラムシャドウ
生涯成績108戦28勝[28-13-18-49]
7位 サティスフィアー
生涯成績128戦27勝[27-19-19-63]
8位 レーガルライト
生涯成績53戦27勝[27-12-7-7]
(写真元:Jamaica Observer)
9位 アンブレーカブル
生涯成績105戦26勝[26-20-14-47]
10位 ダブルドキャッシュ
生涯成績109戦25勝[25-24-16-44]
【ジャマイカ史上最多出走馬】
?203戦?ロングショット
生涯成績203戦[14-31-19-139]
〔ロングショット:1958年生。父ヘアアパレント(ゲインズボロー系)母ショットオーヴァー、ロングショット号は1969年のとある土曜日。Eクラス6ハロン戦に出走した際、コンバットという馬と衝突し、肩骨を粉砕骨折し命を落とした。11歳まで走り、203戦のレースでのことだった。ジャマイカ史上最多出走記録を打ち立てた名馬であった。パイオニアズのSkaの名曲「Longshot Kick De Bucket」のモデル、本馬であり、ロングショットトロフィーというレース名でその名を現世へと残している〕(写真提供:Heather Auguty)
次位
?165戦?ラッカス
生涯成績165戦[23-35-28-79]
Skaの到来、流行の最盛期に同じくは最盛期を迎える事になるスカは、1963年に生まれる。
1960年初頭は、全世界で史上最強最高クラスの、その国を代表する歴史的名馬が誕生していった年代でもある。
フランスではシーバード、リライアンス、ダイアトム。
日本でシンザン。カナダでノーザンダンサー。
米国でトムロルフ、バックパサー、ドクターフェイガー、レイズアネイティヴ、ダマスカス。
南アフリカはシーコテージ、ハワイ。
ソヴィエトでアニリン。
ハンガリーでインペリアル。
パキスタンでモントルー。
ニュージーランドでライトフィンガーズ。
アルゼンチンでフォルリ。
その滔々と流れし名馬の潮流に乗って、ジャマイカへと降誕したのがスカだった。
父マウンテンミュージックは、英国産馬で34戦9勝の成績を英国で上げた。
英国競走馬としては、一介の実力馬…GIには手が届かないが能力を秘めた重賞級馬。
そんなお世辞には一流とは言えない評価の馬ではあったが、ジャマイカへと渡り、その秘めたポテンシャルがジャマイカにおける風土、競馬にマッチングし、1961, 1963, 1967, 1968年と4年間のリーディングサイアーに輝き、ジャマイカにおけるギニー勝ち馬であるカンダハール、ロンズデール、ジャマイカオークス勝ち馬のクレスタラン、シンフォニーといった活躍馬を続々と送り出し、ジャマイカ競馬の殿堂入りまで果たしたのである。
その決定打となったのが、本馬スカの存在であった。
スカは1963年、ジャマイカに降誕。母ギルツはオーナーであるジャック・デシャン氏が英国から輸入した牝馬であり、デシャン氏の経営する牧場にやってきて、先にジャマイカへ渡っていたマウンテンミュージックと交配させることでスカは誕生した。デシャン氏期待の牝馬であった。
明らかに、これまでデシャン氏が手懸けてきた馬とは異なる才能の煌きを、スカは度々垣間見せていた。
デシャン氏は大の音楽好きであり、母国ジャマイカの魂を揺さぶるソウルミュージックであるSkaを取り分け愛聴した。心沸き踊るリズムと旋律。その存在そのものと捉えられたのがスカであった訳である。
もはや一点の迷いもなく、デシャン氏は大望を寄せる愛娘であるこの馬に、?スカ?と命名した。
■月の降る街
スカは毛色は黒鹿毛であったが、褐色掛かった特殊な毛色であったという。
青鹿毛のようにも映る馬体は、夜の競馬場の光を浴びると、炎熱の紅色の燐光を放った。
ナイトレースで圧巻楽勝の3連勝。キャンターでぶっちぎりの3連勝で、「これはとんでもない馬が現れた」と競馬場界隈では彼女の話題がひっきりなしに続いていた。
スカの調教に携わったのは、新進気鋭の調教師ボビー・ヘイル氏。
この馬を送り出すに当たっては特に自信を持って競馬場へ連れてきていたという。
深い暗闇の天海に浮かぶ月が、ムーンライトでカンテラのように街を照らす頃、スカが競馬場へと姿を見せる。
月光の降る街を通り抜け、淡い闇が風となって吹き抜けていくようにゴール板を疾駆する。
ナイター開催の3連勝は魔法仕掛けのように時を進ませ、スカは生まれ育つその国に流れる最盛期を迎えようかという流行曲と共に、人々の記憶に刻まれる存在へとストリームしていく。
そうして迎えたボクシングデー12月26日、祝日の夜、開催となったこの年の最後の競馬開催。
ナーザリーH(ダ1,600m)にスカはエントリーしていた。今回も相手になるような存在は皆無で、キャンターで3馬身差突き放し、大楽勝。ジャマイカの2歳王者としては絶対的不動の存在になった事をそのモーションで高らかに宣言した。
競馬場へと詰めかけた2万人をも超えるファンは、Skaのビートで手を叩き、競馬場は祝筵のようなムードに包まれた。
後日、スカは無敗の2歳王者として文句なしに選出を受けている。
その当時のSkaミュージックの火勢、盛況ぶりは競馬界にも大きな影響をもたらしている。
スカの命名に始まり、ジャマイカ競走馬調教師協会 (JRTA)の当時の会長を務めたヴィンセント・エドワーズ氏は、政治家と調教師を49年間も兼任した偉人でもあるのであるが、?キング・エドワーズ?の名でジャマイカ音楽に精通し、一大レーベルを築いている。
また、ランキング・ロジャーによってカヴァーされたレオン・ウィントの「Race Horse Touter」や、デリック・モーガンとネビル・ブラウンの「Horse Race」など、馬や競馬に言及したSKaの名曲は長年にわたり数多く存在している。
中でも、競走馬についての最もよく知られた曲は、パイオニアズの名曲「Longshot Kick De Bucket」、「かわいそうなラメセス」の2曲であるとされている。
〔パイオニアズの名曲「かわいそうなラメセス」のモデルとなった馬、ラメセス。ラメセスは1968年の年度代表馬。ジャマイカ2000ギニーとダービーを勝った名馬であり、ジャマイカ競馬の殿堂入りも果たしている。1969年の9ハロンのレースに大本命で出走時、71.6kg(9ストーン71ポンド)もの酷量を背負い、2着入線後、突然死してしまう。生涯成績25戦9勝であった〕(写真提供:Heather Auguty)
■Skaと共に。ファンの記憶の五線譜に。
3歳を迎えると、スカのカリスマ性はより神格化されたものとなっていき、ジャマイカダービー、ジャマイカオークスを圧勝で締め括ったパフォーマンスを持って絶頂を迎える。時同じくSkaはジャマイカのソウルサウンドと表現しなければ場違いである程にジャマイカへと浸透し、彼らのほとんどが耳にして虜になった。
1962年、英国からの独立を祝福する気運と共に広まり、ジャマイカの人々の心に共鳴、フュージョンしていったSkaは、国民的ポピュラーミュージックの座を不動のものとし、レゲエへと進化していく。
スカもまた同じく、Skaと共にあった。英国で生まれた両親から独立し、ジャマイカ競馬ファンの心へと溶け込み、ラジオから流れる中継は、ニューオリンズ発のR&Bのようにファンの心を惹き寄せた。
古馬も含めた最高峰のプレジデントカップも制し、文句なしに1966年の年度代表馬にも選出された。
やがて、今誰しもがジャマイカと聞いてイメージするレゲエへと、進化を果たしていくSka。
やがて、誰しもが忘却の彼方へと追いやられてしまった女帝スカの記憶。
あまりにも対照的2者のコントラストにしぐれる邯鄲の夢枕。
熱心な競馬ファンの心の譜面には彼女の記憶はさんざめいている。
月の降る街を翔けた、溶けるようなニューオリンズ発メロウナイト・ジャズR&B。
スカの記憶よ、旋律よ、宙の彼方の五線譜に貴方のキオク(メロディー)よ永遠にーー。
【参考文献・イラスト写真引用元】
・Diezfurlongs.com
・Jamaica Observer ?All-time leaders number of races won?
・Jamaica gleaner
・Skabook.com?A horse named Ska?
・『奇跡の名馬2』「ロイヤルダッド」(2019年、大岡賢一郎)
・『奇跡の名馬2』「ブルースオンザルース」(2019年、兼目和明)
・『Mizonote』「【ラテン音楽】スカ(Ska)とは?」(Mizon)
・Illust AC イラレア様
・イラストフリー素材集
・Facebook 「Nasatol」
・Chichipui なつのとびら様
]]>
〜「いのち」の為に?命?を賭した人と馬たち〜
貴方はこの写真を見て何を思うだろうか。
高く聳える飛び込み台から眼下に広がる大海原へと
ダイビングしていく馬。
その馬には人がしがみ付いている…
これはかつて本当に行われていた、人を集めるための興行
?ハイダイビングホース?。
実際には海ではなく、プールへと飛び込んでいくのだが、どちらにせよ常軌を逸した挑戦である。
現代では決して認可、理解をされないようなエキセントリックなエンターテインメント。
その裏には生きるためにダイビングに挑み続けた人と馬の知られざる人生と馬生、そして尊き想いがあった。
■?ダイビングホース?の始まり
「人が飛び込むだけではつまらない」
そんな突拍子もない考えからこの企画は立ち上げられた訳ではないことを最初にお伝えしておく。
切っ掛けはひょんなことからであった。
「人馬の飛び込み挑戦」の発案、創始者となったのは、ウィリアム・フランク・ドク・カーバー氏。
カーバー氏は1881年ある日、ネブラスカ州プラット川に掛かる橋を馬に乗って渡っている際に、橋が朽ちていたためか崩落、半壊してしまい、橋から馬と共に川へと落ちてしまう。その際、このシーンが深く脳裏に焼き付いた彼は、人馬による飛び込みをインスピレーションさせ閃いたという。
〔ダイビングホース発案・創始者であるウィリアム・フランク・ドク・カーバー氏。狙撃の名手でもあった。1851年5月7日 - 1927年8月31日。〕
〔ネブラスカ州を流れるプラット川〕
カーバー氏は、馬を調教し、飛び込みの芸を覚えさせていく。
最初の舞台となったのは、カーバーの自伝によれば、1894年8月、ミズーリ州カンザスシティにおけるショーで初の試みとなるダイビングホースを行ったと記されている。これが大盛況を呼び、カーバー氏は2つのダイビングチームを立ち上げ、各地を練り歩いてショーを展開させていく。その後、カナダはトロントのハイランズポイント遊園地を最初のメッカとして興行を行っている。
この時代、1800年代はまだホースダイビングショーが問題視されるようなことはなく、カーバー氏の働きかけでメジャーなショートして人々に認識されていた。
〔カーバー氏主催のダイビングホースショーの広告〕
まだこの時、人は乗って飛び込みをしていなかった。飛び込み台を組み立てたのは、彼の息子であるアル・フロイド・カーバー氏。
最初のダイビングホースライダーとなったのは、ロレーナ・カバー(カーバー氏の娘)であったという。
〔カナダ・トロントで行われていたダイビングホース。1907年の写真と言われる〕
〔飛び込むロレーナ・カバー(カーバー氏の娘)女史。この頃はまだヘルメットの装備もなく、服装も普段着で、水着でもなかった〕
▲〔こちらの風刺画をクリックするとダイビングホースの映像へ飛びます!〕
■スーパースター・ダイビングガール
?ソノラ・ウェブスター?
人も馬も、当然危険がない訳ではなかった。
1907年の2月17日には18歳の若者、オスカー・スミスがダイビングホースにチャレンジし、死亡。
この時、馬は無事であったが、決して馬にもリスクは小さいものではなく、1927年の夏には、カーバー氏の愛馬がオマハにて太平洋へ飛び込み溺死してしまっている。
この愛馬の死が余程ショックであったらしく、1927年8月31日、カリフォルニア州サクラメントにて生涯を閉じている。
カーバー氏の死後、ダイビングホースの主導、指揮を取ったのは息子のアルバート(アル)・フロイド・カーバー氏。
そして、ダイビングホースのメインとなるダイビングジョッキーとなったソノラ・ウェブスター女史。
ソノラは、ダイビングホースのスタッフとして参加していたのだが、アルと恋に落ち、結婚。
その後はダイビングガールとして、ダイビングホースの顔となって活躍した。
〔ソノラ・ウェブスター・カーバーと愛馬レッドリップス〕
飛び込み興行の最盛期、最も人気を博した舞台となった地は、
米国はニュージャージー州アトランティックシティーのスティールピアーという海沿いの遊園地であった。
飛び込み台の高さは15mのものが設けられた。
プールの深さは11フィート(約335cm)であったという。
〔スティールピアー遊園地〕
ソノラは15歳で初めてダイビングホースを経験し、
19歳からスティールピアーでのダイビングガールを務めた。
その後、7年間飛び続け、このスティールピアーでのダイビングホースは大変な人気を博し、
人をアトランティックシティへと集める呼び水となっていた。
いつしか、?スティールピアーと言えばダイビングホース!?
と呼ばれる程になっていた。
ショーはなんと週7日、1日に4回〜6回のペースで行われていたという。
廃止までの全開催年において、馬の怪我は1件も無かったが、
騎乗者の怪我は1年で平均2件、打撲や骨折が報告されている。
見た目以上に怪我が少ないと言えるが、それはしっかりと
準備と練習を行い、馬を熟知信頼していたがゆえの少なさと思う。
順風満帆にも思えたソノラとダイビングホース興行であったが、1931年に思わぬ悲劇に見舞われる。
愛馬レッドリップスといつものようにダイビングホースに臨んだソノラであったが、ジャンプ後に体勢を崩してしまい、顔面から目を開けたまま水面に衝突。網膜剥離となってしまい、最悪なことにソノラの目は光を失ってしまった。
失明してしまったソノラであったが、なんとそれにも関わらず馬と共に飛び続けたというのである。
ソノラは盲目のままダイビングホースを続け、その後20年間も飛んでいたという。
にわかには信じられない精神力である。
〔スティールピアーにてダイブするソノラとレッドリップス号のカラー写真〕
〔無事にダイビングショーを終えた後、観客にアピールするソノラ〕
〔大抵の人間は普通にこの高さから飛び降りるだけでも、恐怖で耐え切れない。想像してみてほしい。しかも馬に乗ったまま飛ぶのだ。空中での姿勢維持も難しい。着水の瞬間の受け身も大事。しかし、その恐怖の向こうにある爽快な光景は、飛んだ者にしか得られないものであろう〕
〔着水の瞬間を映した1枚。〕
ダイビングホースのスーパースターガールであるソノラも1942年、38歳の時に引退。
さらには、第二次大戦後、動物愛護団体が動物虐待の懸念がある行為であると、ダイビングホースへ矛先を向け、意見、否定、揶揄し、廃止を呼び掛けたことにより、徐々に飛び込み興行の人気は後退していく翳りを見せ始めた。
しかし、そんな中でも『スティールピアーハイダイビングホース』は、1970年代後半、スティールピアー遊園地が閉鎖となるその日まで継続された。もはや、ダイビングホースはスティールピアーの日常的光景の一つになっていたのだった。
▲〔こちらの画像をクリックすると伝説のソノラ・ウェブスターのDiving horseの映像へ!〕
■Diving for?Life
1994年、スティールピアーの地にてダイビングホースが復活。
この時は動物愛護団体の目を意識してか、人が騎乗せず、飛び込み台の高さが12mに低くされ、
プールも122cmの小規模なものとなって蘇った。
しかし、すぐに廃止に追い込まれる。
〔1994年に再開されたスティールピアーダイビングホース。ポニー、ラバが小さな飛び込み台からジャンプする〕
復活前…最後のスティールピアーダイビングホースの開催を支えた名馬2頭がいる。
黒い馬体のガマル号と白い馬体のパウダーフェイス号である。
飛び込み上手で大変な人気を博した2頭であった。
〔スティールピアー最後のダイビングホースの名馬として知られるガマル号。光り輝く黒鹿毛の馬体であったという〕
〔同じくスティールピアー最後のダイビングホースの名馬パウダーフェイス号。白い馬体で多くのファンから愛された。〕
廃止が決まると、人は職を失い、馬も廃用となる。
飛び込み業を生業としていた馬、競走馬としては当然として、年齢も重ねていたことから乗馬に回すのも難しい。
噂としては犬の餌として屠殺へ回されたという話がある。
どこかで聞いた話である。
競馬も同じではなかろうか。
今も記憶に新しい、地方競馬場の廃止。
人が職を無くし、馬は屠殺場へ回される。
ソノラも、創始者のカーバー氏も、それを恐れていた。
仕事を失っては多くの命が失われることを。
命を支えるために、ソノラは飛び続けていた。
それが盲目でも飛び込み続けた最大の理由…
だったのではなかろうか。
ソノラは自身の綴った著書の中でもこう語っている。
「カーバーは馬を愛していました。寡黙で厳格な人でしたが、誰よりも馬を愛しており、馬には最大限の敬意を払うよう教えられました」
またこうも語っている。
「馬たちは決して強制的に飛び込まされていたのではく、飛び込むことを楽しんでいました」
(馬も本当に嫌なことは必死で拒否するので、これは単なる言い逃れではないと思う)
〔ガマル号は1980年、彼のファンに引き取られ一命を取り留めていた。1989年に虹の橋を渡る〕
光を失ったソノラ・ウェブスターは、ダイビングガール引退後、72年間も盲目で生きた。
2003年9月20日、99歳でその生涯を閉じる。
彼女は自伝として『少女と5頭の勇敢な馬たち』という本を書き、1991年には彼女の生涯をモデルとした『ワイルド・ハーツ・キャント・ビーブロークン』という映画が作られている。
そして、ダイビングの舞台となったスティールピアーは、大統領も務めた渦中の不動産王ドナルド・トランプ所有の遊園地として栄え、過去のダイビングホースを知る由もない観光客で賑わっている。
ソノラ・ウェブスターは偉大なダイビングガールである。
光を失っても、心の中の希望の灯火は決して消さなかった。
ダイビングホースという興行を取り巻く人々…ダイビングガール、調教師、スタッフ、
そして携わってくれた馬たちの生活を守るため、命のために命を賭して飛び続けたのである。
ダイビングホースは失われてしまったが、競馬を取り巻く環境も同じことが言えなくはなかろうか。
命を賭して走り続ける馬と騎手に、我々ファンも敬意を払い、生きていかなくてはいけないと思う。
ソノラ・ウェブスターがダイビングを続けることで訴え続けていた笑顔の裏にある真のメッセージを後世に伝えていくためにも。
✨オ・マ・ケ✨
【参考文献・写真引用元】
・Amusing Planet「The Diving Horses of Atlantic City」
・SRBIJA DANAS「背中に女の子を乗せた馬が15メートルの高さから小さなプールに飛び降りた」
・Vidette-Messenger of Porter County Valparaiso, Indiana, Wed, Jan 09, 1980 · Page 31
・Courier-Post Camden, New Jersey, Fri, Apr 27, 1990 · Page 77
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Wed, May 23, 1990 · Page 20
・Tampa Bay Times St. Petersburg, Florida, Mon, Jun 03, 1991 · Page 48
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Thu, Jun 20, 1991 · Page 58
・Asbury Park Press Asbury Park, New Jersey, Tue, Jul 30, 1991 · Page 15
・The Billings Gazette Billings, Montana, Sat, Jun 26, 1993 · Page 5
・Port Charlotte Sun Port Charlotte, Florida, Sun, Sep 12, 2021 · Page D9
・Wikipedia「Diving horse」
・Wikipedia「Sonora Webster Carver」
・Wikipedia「William Frank Carver」
・Youtube 『The Bizarre History of Horse Diving』
]]>
【銀座ヴァーミリオン】
(写真・イラスト引用:銀座ヴァーミリオン様。店長様のご許可を頂いて使わせて頂いております)
7月某日、銀座にある競馬バー、『GINZAヴァーミリオン』様へお邪魔させせて頂きました❗️
今回はこちらのバーのご紹介コラムとさせて頂きます✨
上記画像をクリックで、各種お店のSNSへアクセスできます!
【店舗コンセプト】
〜「どんなお店なの?」〜
東京23区でも最も華やか夜を彩る中央区・銀座にある、
「大人の競馬バー」。
『ウマ娘』を意識した可愛い女の子の接客で盛り上がるお店・・・という系統のお店ではなく、
正統派のバーで、お洒落で大人の雰囲気ある、落ち着いたムードで競馬好きの方同士がゆっくりと語り合える「隠れ家」的バーです。
都会の夜、しっぽりと競馬を、名馬を、乗馬を馬を語り合いたい…そんな方にぴったりのバーです❗️
店長はイケメンのバーテンダーで、
好きな馬はダイワスカーレット。
元々はダイワスカーレットをモチーフにお店の名前も決めたかったそうなんですが、彼女の名前がどうにも競馬バーにしっくり来る馬名ではなく、同じスカーレットインクの系統を継ぐ、
ヴァーミリアンにスポットライトが!
ヴァーミリアンの父は店長様が最強馬と信じるエルコンドルパサーでもあり、これも何かの縁と、少し馬名を捩り、?ヴァーミリオン?とした…というのが、店名秘話。
〔店長様の大好きな愛馬ダイワスカーレット。12戦8勝2着4回。連対率100%のまま引退した日本競馬史上最強級牝馬の1頭。ウオッカの、最大にして最強の宿命のライバル。2頭が牽引した2007年クラシック世代は?史上最強牝馬世代?として広く知られる。『ウマ娘』により、2頭の人気も再燃。2頭が火花を散らした2008年の天皇賞・秋は日本競馬を代表する伝説の名勝負の1つとして今も競馬ファンの間で語り継がれている〕
私の競馬への切っ掛けは、『ダビスタ』でした。
なんと店長様も切っ掛けが一緒!とのことで意気投合。
色々と話し込ませて頂いてしまいました😅
【アクセス・店舗入口】
(上記、ヴァーミリオン様のインスタグラムより引用)
↓この油そば屋さんの右隣のビルがバーのあるビルです!
【店内の様子】
〔メインカウンター。テーブル席も2つ。〕
(全て筆者撮影。お店、店長様のご許可を頂いて撮影しております)
〔お店に入ってすぐのお店の名刺・アルコール置きの装飾台〕
〔こんなに沢山のお酒がっ!お酒好きな方には堪らんのではないでしょうか…😅〕
〔拙著『奇跡の名馬』『奇跡の名馬2』も店長様のご好意で店内に置かせて頂きました!〕
〔テーブル席と壁に掛けられた馬の写真の数々。カップル、ご夫婦での来店もテーブル席でゆっくりと。もちろんカウンターでも楽しめそうですね✨〕
〔馬の関係あるボトルも多く見受けられました。馬好きにはたまりませんね✨〕
【🍹注目のメニュー!🍷】
このお店の最大の売りは、?カクテルホース?。
英雄ディープインパクト、カリスマ女帝ウオッカ…といった伝説の名馬から『ウマ娘』でも大活躍のあの名馬まで!
もちろん店長の愛するダイワスカーレット、ヴァーミリアンらもスペシャルカクテル名で登場❗️
大好きな名馬のお酒で楽しく酔いましょう❗️😊
(楽し過ぎての飲み過ぎ注意!!)
名馬の名前のカクテル数はかなり多かったです。
私が今まで訪れた競馬カフェバーの中でもダントツかつハイクオリティなお酒の数々とお見受けしました!
(筆者、下戸なので説得力皆無wwすいません🙇♂️でも、豊富な種類は間違いなく必見!)
そして、な、なんと!
「お好きな馬をご指定頂ければ、その馬をモチーフに
貴方だけの特別な一杯をご提供」
とあるのです!
つまり、メニューに自分の推しウマが残念ながらいなかった・・・という場合、オーダーして飲めちゃうんです!!
これはお酒好きな競馬ファンには最高の贅沢なのでは⁉️😅
意外な競馬関係者の方とも偶然ばったりなんて事もあるかも⁉️
ぜひぜひ皆様、遊びに行ってみてくださぁ〜い❗️😆
(Tokio de noche | ©Takashi Miyazaki)
【店舗データ&アクセス】
〜モノモウタアパの神仏混淆〜
ージンバブエ競馬史上最強最高、
超神速の駿天スプリンターー
父 ディヴァインキング(プリンスリーギフト系)
母 クリサンセマム
母父 ロンバード(テディ系)
生年:1980年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:ジンバブエ共和国
生涯成績:17戦15勝[15-2-0-0]
主な勝ち鞍:BAセールスS、オーナーズ&トレーナーズチャンピオンジュヴェナイルS、ナーサリーS、グレンライアートロフィ、ギニートライアルS、シェルコンサーベーションギニー、BPコンサーベーションギニー、ボロウデールSなど
【血統表】
■?八幡スプリント?
まだまだ夏は遠い先だと言うのに、ミンミンゼミやらツクツクボーシやらが、街を曙光が照らし出す前から、けたたましく演奏会を開いている。かつて世界名馬研究・馬民俗学研究家と自称する海猫の助手を務めていた秋山美空は、茹だるような初夏の暑さからか、まだ6時前だと言うのに目を覚ました。
「…う、う〜ん・・・あつい・・今日は休みだからもっと寝たいのにぃ…あぁもう汗だく…」
日本の夏は確実にその暑さを、年々と増している。
残酷にもそれに比例するかのように、電気代は値上げされ、全国民は灼熱の暑さと財布の紐とのジレンマに板挟みさせられている。
すでに30度を超える炎熱の朝に、完全に眠気を奪われてしまった美空は、苦肉の策でスイッチを入れた扇風機の傍ら、ネットサーフィンで気を紛らわせ始めた。
「あ…海猫さんからメールが来てる」
メールの中身は奇妙なレース名が一つ、超極太明朝体で書かれ、
「奇妙なレースを見つけた。なぜ南アフリカ大陸のジンバブエのレースに和名が組み込まれたレースがあるのか?調査してみる」
と記されていた。
「?ハチマンスプリント?…?」
文面はまだ続いていた。
「おそらく、ハチマンとは八幡のことと思われる。なぜ八幡なのか?非常に興味深い」
大学時代、民俗学を専攻していた美空にとってみても、明らかに違和感を抱く内容だった。
日本から遥か彼方、南アフリカ、ジンバブエの地に?八幡?。
なぜどうしてこの沸熱たる陽炎立つアフリカの大地に、「はちまん」「やわた」の名称が付けられているのか?
異質な疑問、疑念ばかりが胸中を駆け巡った。
「八幡」とは、日本で信仰される神であり、一般によく聞かれる呼称としては、「八幡大菩薩」で知られる、あの「八幡」である。清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされている。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩様として、神社内に神宮寺が作られた。
「八幡」の文字が初めて書物で見られるのは、『続日本紀』からであり、その記述は天平9年(737年)の部分にあるという。
読み方は「ヤハタ」と読み、「八幡」は訓読であったのだが、のちに神仏習合して仏者の読み、「ハチマン」と、音読に転化したと考えられているという。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り白(憑代、よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉と解釈される。
八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は新羅出征の往復路で対馬に寄った際、祭壇に八つの旗を祀ったとされている。また、応神天皇が降誕した際にも家屋の上に八つの旗がひらめいたという記述、記録が残されている。
「ジンバブエと日本て…何か繋がりはあるのかな?」
海猫の調査結果の報告を待つにせよ、何か自分でも調べてみたいという、かつて民俗学を専攻した学生時代の探究心がいつの間にか小さい炎ではあったが、美空の中に再燃していた。
■2つの競馬クラブ
調べてみると、ジンバブエと日本の関係、関連は意外な程、最近のものが殆どで、「八幡」が何の事由からジンバブエの地、それも競馬場の重賞レースとして名を刻んでいるのか、ますます彼女の中で混迷を極めていった。
ジンバブエは遥遠なる、彼方の時代、?グレート・ジンバブエ?と呼ばれた王国として栄え、後の世に金細工、鉄製スプーン、ガラスビーズ、明代の中国製の陶器、キルワ金貨などの出土品が数多く発見されるなど、当時の大国間での交易が盛んであったことが窺い知れる。その地に、白人の侵略が頭を擡げ、侵攻を甘受したのが、19世紀後半。
その地はイギリス南アフリカ会社設立者でジンバブエのマトボに葬られたケープ植民地首相のセシル・ローズの名を取って、英領南ローデシアと名付けられた。
このローデシアでの最初の競馬は1891年、マショナランドのソールズベリー(現ジンバブエの首都)にて開催された。
また1892年1月には植民地統治官リーンダー・ジェームソンを初代会長とし、マショナランド・ターフ・クラブが設立。
本格的な開催が始まりをみる。
その後、1894年にはブラワヨにマタベレランドターフクラブが設立。これら2つの競馬クラブは1910年、南アフリカの管轄下に置かれ、1923年に南ローデシアの地(現ジンバブエのエリア)に自治政府が成立しても、南アフリカ競馬との関係は密接に続き、発展を遂げてゆく。しかし、半世紀近くの時が流れても、南アフリカ競馬に大きな影響をもたらすことは無かった。南ローデシア産馬が南アフリカの地で歴史的勝利を上げるのは、1950年に生まれる伝説の名馬スプイブリッジの出現まで待たなくてはならない。
▲〔スペイブリッジ:1950年生。父フリッパー(ブランドフォード系)母テイブリッジ 母父フライングスコッツマン(ロックサンド系)、牡馬、黒鹿毛、生涯成績22戦11勝、主な勝ち鞍:ジュライハンデ、チャンピオンS、クラウッド・ウィンターH、クレアウッド・マーチャントH、アスコットS他。父は愛国三冠馬ウィンザースリッパー産駒。ジンバブエ産馬として南アフリカで初勝利を上げたばかりか、当時のトップクラスの南アフリカ調教馬相手に互角以上の走りを見せ、ジュライハンデをはじめとするビッグレースを続々と制覇〕
(写真元:Sports horse data)
スプイブリッジはジンバブエ競馬がはじめて南アフリカ、そして世界へと送り出した最高傑作の名馬で、革命的活躍を果たした。
現在でも、ジンバブエ競馬における年度表彰の名称にその名を残し、自身の栄光、その残光を現世へと届けている。
■モノモウタアパの神仏混淆
ようやく美空が日本とジンバブエとが絡み合った最古の事実に辿り着いた頃、日差しは傾き、西日による斜陽が部屋の中へと差し込んでいた。陽が陰り始めていると言うのに、外はまだ蒸せ返るような暑さ見せている。
「これが…多分、日本人が関わった最古のジンバブエの人…」
江戸時代の絵師・蘭学者であった司馬江漢(しばこうかん)が長崎の出島に赴いた際、「此黒坊と云は…ヤハ嶋(ジャワ島)の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」と、オランダ人の召使いとして住んでいた東南アジア人やアフリカ人の記録を「西遊日記(1788年)」に残している。
その時、メールフォルダに新着の赤丸印が灯った。海猫からのメールだった。
「全て分かった。?ハチマンスプリント?の名称の?ハチマン?はやはり?八幡?で間違いはなさそうだ。でも、ハチマンはジンバブエの偉大な名馬だった。彼の名の由来が?八幡?だったんだ」
「えっ…どういうことなんだろう・・・」
美空は夢中になって文字先を追い掛けた。
※以下より、ハチマンの名馬紹介ストーリー本題に入ります。
ハチマンは1980年、ジンバブエ競馬・伝説のスーパーヒーローであるスプイブリッジ生誕からちょうど30年の時を経て降誕した。
父はプリンスリーギフトの流れを汲むディヴァインキング。
ディヴァインキングはアイルランドに生まれ、26戦4勝[4-4-2-16]の戦績を残した。
ネアルコ〜ナスルーラ〜プリンスリーギフトの流れを汲むスプリンターで、ネアルコの4×4×5の多重クロスを持っている。
現役時代は5ハロンから6ハロン戦を中心に活躍。ジョニーウォーカーH(芝1,200m)など4勝を上げ、タイムフォームレーティングで121を獲得するなど、中々の短距離馬であった。種牡馬入りし、南アフリカへと渡る。
▲〔ハチマンの父、ディヴァインキング〕
(写真元:Sports horse data)
母クリサンセマムは、父がドイツの歴史的名馬ロンバルド。ロンバルドは1967年にドイツの超名門シュレンダーハン牧場に生まれ、エウロパ賞3回、ヘンケルレネン、独セントレジャー、ノルトライン・ヴェストファーレン大賞(2回)、デュッセルドルフ大賞などステークス競走を18勝、生涯成績28戦20勝[20-3-2-3]という戦績を収め、1971年、72年と2年連続年度代表馬に選出された名馬。
クリセサンセマム(Chrysanthemum)は英語で「菊」を意味する言葉であり、その端緒はギリシャ語で黄金という意味を持つ“chrysos”と、花を意味する“anthemon”に由来するという。
▲〔ハチマンの母父、ドイツの歴史的名馬ロンバルド〕
(写真元:Sports horse data)
ハチマンを生産したのは、ブラス・ロビン氏。ドイツの歴史的名馬の娘であるクリサンセマムを見初め、フランスから輸出。
その胎内には、ディヴァインキングの仔を宿していた。クリサンセマムはハイペリオンの4×3×4、ハイペリオンの娘トロピカルサンの4×4という特殊なクロスが施された血統を持っていた。最高神と真夏の太陽…その血を受け継ぐ?菊?。
菊は日本の国花。特別な意味を持つ花であり、ロビン・ブラス氏はその意味すらも理解していたようだ。
親日家であった節もあり、日本文化、日本の信念を独学していたのかもしれない。
?菊?の娘と結ばれたディヴァインキング…?神王?は?天皇?を連想させる。
?天皇?と?菊?。
この2者の掛け合わせから導き出した命名が?八幡(ハチマン)?だったのである。
しかも、ブラス・ロビン氏は、?八幡?が?武神?を意味することすら理解していたことから、やはり日本人の信仰理念まで学んでいた人物であった事が窺い知れる。
かつて「黄金の国」と謳われたモノモタパ王国(ジンバブエ)とジパング(日本 ※異説多々あり)。
日本の民俗文化を鑑みて命名された、すばらしいネーミングセンスを持った馬主の知的センスには感嘆のため息が漏れるほど。
日本産馬でも欧州産馬でもない。ましてや南アフリカ生産でもなく、純粋なジンバブエ生産馬でこの命名で国を代表する規模の歴史的名馬が誕生するのだから、競馬は解らない…永遠に謎が解けない、真実に到達しないミステリー小説や神秘的な現象に邂逅を果たした瞬間が不定間隔で永続する凛音の中にいるような想いだ。
日本と縁深き?天皇?とその紋章である?菊?が、日本から遥か彼方先にある黄金の国で神仏混淆、融合を果たし、同国最強の?武神?を誕生さするに至ったという経緯は、もはや奇跡以外の何物でもないと思う。
クリサンセマムは、大変に優秀な繁殖牝馬であり、ハチマン以降も名馬、名牝を次々と輩出。
ディーヴァシュライン(ジンバブエチャンピオンスプリンター女王)、ルパン、ディプロマット、ミトラ、そして南アフリカの歴史的名スプリンター女王のヴァルデラ。さらにはテヴェス、パラディウム、キューザミュージックと10頭の子馬を残し、1983/84 年のブルードメア オブ ザ イヤーにも選ばれるまでに。余程、ジンバブエの水が合い、当地において彼女に携わった人の相性も最高であったのであろう。
■武神の快進撃
ハチマンは、2歳を迎えるとロビン氏の息子であるニール・ブラス氏の袂に預けられ、神王の子息たる素質を剥き出しにしていく。
もはや誰から見ても特別な才能を宿していることは明らかなモーションと俊敏性を見せており、その動きそのままに、TBAセールスステークス、オーナーズ&トレーナーズチャンピオンジュベナイルステークス、ナーサリーステークスと圧勝楽勝の連続でスプイブリッジ2歳チャンピオンに輝き、3歳を迎えてもその太陽の輝きは、ますます燦々と煌めき、グレンレアトロフィー、ギニートライアルステークス、シェルといったビッグレースを鯨飲。短距離のみでなく、その膨大な素質から長距離戦までこなしてしまった。
コンサベーションギニー、BPコンサベーションギニー、ボローデールステークスでも優勝。しかし、当時の最大のレースの一つであったシュウェップスゴールドカップでは、惜しくも2年連続の2着に敗れ、ビッグレース総なめ完全制覇はならずと終わっている。
鮮やかな真っ赤な栗毛の馬体で、真のチャンピオンと謳われしジンブウェ競馬史上最強スプリンターにして、スプイブリッジやイピトンベとも並ぶ程の伝説的サラブレッド。
引退後はケニアへと移り、ジャネット・ミルズ女史とジョー・ミルズ氏が営む種牡馬牧場で種牡馬として活躍した。
武神の威光を現世へと伝える?ハチマンスプリント?は、毎年1月最終週、ボローズデールパーク競馬場、芝1,100mにて今年もまた行われる。
日出づる国より遙けし、黄金の国モノモウタアパの焦熱たる大地を舞台にーー。
【参考文献・写真イラスト元】
・Zimbabwe Equine News
・Zimbabwe Racing.com
・Racing at Borrowdale Park in Harare - Zimbabwe
・Sports horse data ?Spey bridge?、?Devine king?、?Rombard?
・Pedigreequery.com ?Hachiman?
・『奇跡の名馬2 -Fターフメモリー-』「スプイブリッジ」文:大岡賢一郎(2019年、パレード)
・Wikipedia「ジンバブエ」
・Wikipedia「八幡神」
・Pixivision ダーリン・イン・ザ・フランキス いちご様
・wallpaperbetter
・amanaimages.com, Emi Komagata様
]]>
マダガスカル競馬
今蘇る偉大なる
?マグニフィック・レゲンデ?
マダガスカルに競馬があることをご存知の日本人、
日本の競馬ファンは少ないのではなかろうか。
もし競馬があることを知ってはいても、どんな競馬場で、
どんなレースがあって、そしてそこにどんな名馬がいたのか?
今回はそんな知られざるマダガスカル競馬の真実と、
かつてマダガスカルに君臨した伝説の名馬について…
調査のカンテラを灯し、グッと迫って、話していきたいと思う。
【マダガスカルについて】
マダガスカルの競馬について話していく前に、
マダガスカルとはどんな国?どんな場所か?
触れていきたいと思います。
マダガスカルは、アフリカ大陸の南東約400kmに位置する、
世界でも4番目に大きな島。
ここには手つかずの大自然がそのまま残され、
童話『星の王子様』でお馴染みの美しいバオバブ並木や、
この島にしか生息しない、珍しい動植物が日本の国土面積の
約1.6倍の広さを持つ島にて営みを送っている。
そんな恵まれた大自然のハーモニーに育まれる一方、経済的には
世界で最も貧しい国の1つともされている。
人口の約90%が1日2ドル未満での生活を強いられているのだ。
マダガスカルの主な産業は天然資源に恵まれているため、
宝飾用の原石などの鉱物やクローブ、バニラ、そして石油製品。
また、マダガスカルには世界最大級のチタン鉱山や
巨大な重質油鉱床の開発プロジェクトが進められている面から、
世界的にもマダガスカル経済の加速が期待されている。
【マダガスカル馬文化の濫觴】
アフリカの東海岸沖にある、かつてのフランス植民地であった
マダガスカルには1817年に初めて馬が当地の土を踏んだ。
当時マダガスカルを治めていたラダマ国王は、モーリシャスより
6頭の馬を贈答として貰い受け、乗馬に熱を注ぎ、
毎日2時間の練習を行っていたという。
ラダマ国王の馬へ傾けるこの情熱無くしては、この国の馬文化が
根付くことは無かったかもしれない。
植民地化の間に、多くのエリアから馬の輸入が行われていった。
インドからのポニー、東アフリカ、中東諸国からアラブ馬、
オーストラリア、フランスからサラブレッド、そしていくつかの
珍しい品種が島へと上陸。
マダガスカルで現在の馬の基盤となったのが、これらすべての
品種の交配によって誕生した馬たちである。
植民地政権は、首都から馬の繁殖地まで、乗馬ステーションを
設置。マダガスカルへへ騎馬文化の浸透を推進していった。
アンタナナリボ奨励協会が1900年代初頭に設立され、この機関がマダガスカルでのレースの組織機関として統括を行なっていく。
マダガスカル最初の競馬場となったのは、マハマシナ競馬場。
現在ではサッカーや野球などの競技が行われるスタジアムへ
姿を変えている。
現存するマダガスカルの競馬場は2場。最も歴史があり、競馬の中心地となっているのが郊外の都市アンバトランピに創設されたマハジナ競馬場。左回りで芝コース。
もう一場が後年に首都アンタナナリボに新設された
ベバララ競馬場。こちらはダート(土)コースの右回りでレースが施行されている。
【マハマシナ競馬場】
〔マダガスカル最古の競馬場〕(写真提供:『France Sire』)
【マハジナ競馬場】
〔施行される最大の競走は、ミモザ大賞。多くの競走はハンデキャップレースで行われているが、このレースだけは年齢、性別も関係無く、同斤量にて開催される〕
(写真提供:『France Sire』)
■ベバララ競馬場
〔首都アンタナナリボォに構えるベバララ競馬場〕
(写真提供:『France Sire』)
〔マダガスカル競馬に参戦し地元馬に騎乗するイヴ・サンマルタン騎手〕
(写真提供:『France Sire』)
1968年に三連勝式馬券が導入され、競馬の盛り上がりは
隆盛を極めた。
その背景には、競馬以外、国民が参加出来る賭博が無かったという側面もあったことは確かだが、当時の競馬人気は絶頂に。
その当時、フランスの名手イヴ・サンマルタンも騎乗し、70年代を迎えるとその趨勢は最盛期の絶頂に達し、かなりのレベルの高さを誇示した時代、瞬間も間違いなくそこには存在していた。
それを象徴する出来事の一つがフェジェントリへの参入。
Fegentriは、International Federation of Gentlemen and Lady Ridersの略で、1955年に設立された。
創設メンバーは、フランス、ドイツ、イタリア、スウェーデン、スイスの5カ国。
ここにマダガスカルも参加を果たしたのである。欧州以外の国では初めての参加国となった。
まさにマダガスカルにおける乗馬文化、競馬文化の栄華を極めつつある時代を、まさに象徴するような成果であった。
ところがである。1976年に社会主義の参入があり、政治が180度方針を変えたことで、賭け事は否定的な視線が注がれ、競馬は窮地へと追いやられる。
賭け事としてのエンターテインメントは、闘鶏やカードギャンブルに取って変わられ、産業として縮小化が図られた。
これにより。大多数の馬は農耕、乗馬として使われることとなっていった。
そうして国は前例のない景気低迷に突入し、通貨は急速にその価値を失い、輸入製品は高価ではないにしても不足しつつあり、その状況を誰も打開しようとはしなかった。
その結果…現在でも年間で40頭程の生産頭数があるが、最後の海外からの種牡馬の輸入があったのが2000年であり、
血統が完全な行き詰まりを見せている。
【マダガスカル史上最強最高の名馬】
?マグニフィック・レゲンデ?
ミ ア リ ン ボ ラ
〔マダガスカル競馬が誇る至高にして伝説の存在。同島における競馬最盛期、その黄金時代に降誕した最強の名馬であり、あらゆる距離、展開に問題無く、島のビッグレースから小規模なレースまで勝ちに勝ちまくった歴史的名馬である。比類なき無双の名馬であり、?マグニフィク・レゲンデ(壮大なる伝説)?と謳われし、島民の誰しもが認めるマダガスカル最高の名馬である。種牡馬としても活躍し、名牝トアーキャニオンなどを輩出した〕
(写真提供:Ecurie Life Madagasacar horse racing)
(写真提供:Ecurie Life Madagasacar horse racing)
唯一無二のアパルーサ・レジェンド
ララソア
〔1970年代後期から1980年代前期にかけて活躍したアパルーサの競走馬。サラブレッドと一緒に走り、目覚ましい活躍を果たした。アパルーサ種で競走馬としてサラブレッドやアングロアラブと対等以上に渡り合った馬はこの馬しかいない。伝説のアパルーサである。〕(写真提供:Ecurie Life Madagasacar horse racing)
〜マダガスカル近年の名馬〜
レクサビンハリハァ
〔2016年生。マダガスカル競馬史上、はじめて2年連続でGIレースを勝った牝馬。マダガスカル伝説の女帝。2歳にして同国最高峰のミモザ大賞を優勝。さらにはドーヴェンチャー大賞、ゲリノット賞、ザザケリー大賞2着、ユースクラック賞2着。マダガスカル最優秀2歳牝馬&ベスト2歳、そしてベストターフホースに選出されている〕
〔直線で独走するレクサビンハリファ。芝では特に頭抜けた能力を誇り、無敗を誇った〕
(写真提供:Ecurie Life Madagasacar horse racing)
【参考文献・写真・イラスト】
・France Sire 「MADAGASCAR RECHERCHE 3 ÉTALONS EN FRANCE」
・Ecurie Life Madagasacar horse racing
・ブログ「【アフリカ】マダガスカルの心が揺さぶられる絶景を見に行こう。」(トリドリ編集部、2019年8月28日)
]]>
現在、浦和競馬場を擁する埼玉県。
その遥かなる昔日、日本を代表する程の規模を有した大牧場が存在したことを知る者は少ない。
その地は、さいたま市緑区。「尾間木」という地にその牧場はあったという。
住宅地図を広げてみると、この地には?馬?にまつわる地名が多いことに気付かされる。
「大牧」「駒前」「駒形」「芝原」「大間木」(尾間木や大間木の?間木?は「牧」を意味しているのだろうか?)…
いにしえの大牧場があったとされるは、「尾間木」。
この地は、かつて尾間木村と呼ばれており、1940年(昭和15年)4月17日に浦和市に編入され、消滅。
旧村域は現在、「尾間木地区」と称されている。
大牧場があった時代は、奈良に都があった頃。
このエリアは牧場に適した斜面を有しており、小丘や低地が続いており、水草が多いことから馬を飼う面で最高の条件を揃えていた環境にあったという。
この牧場が開かれ、この地において営みを送っていくと、
周囲に住む住民、村民らも乗馬に慣れ、山野を駆ける妙技に達し、
中には戦場において優秀な戦果を上げる武人に育った者も少なくなかったという。
?日本最古級の大牧場「尾間木の大牧」?
▲〔かつて存在した?尾間木の大牧(おおまき)?跡地の貴重な写真。まだ多くの自然を残している。日本最古級の大牧場であり、失われた馬の楽園である〕(写真元:『県都浦和の歴史:史跡名勝と百年史』)
日本最古の馬牧場と言われているのが、5世紀頃の物と言われる大阪は「蔀屋」(しとみや)にある蔀屋北遺跡にあったと言われる馬牧場。ここから出土した朝鮮半島の形式の土器や馬具、馬の骨格から、蒙古系の馬である事が分かっており、朝鮮半島からの渡来人が馬を連れ立って日本へ渡った証ともされている牧場である。
5世紀の中国大陸と朝鮮半島は政情不安定であり、中国大陸では五胡十六国時代であり、日々戦いに明け暮れる世であったという。朝鮮半島は三国時代であり、伽耶、百済、新羅の覇権争いがあった。こうした惨状から、中国や朝鮮半島に住まう民たちが、安住の地を求めて日本に渡ってきた可能性があり、その縁となるのが蔀屋北遺跡の牧場なのだという。
国営、天皇勅使の最古の牧場は、668年、飛鳥時代に天智天皇が創らせたという賀茂大社の地にあったという牧場。
この地は「馬の聖地」とも褒称されし名地であり、馬の育成に最適な条件を備えていた。琵琶湖に近く、船での輸送にとって見ても利便性が高く、更には地形も高台になっているため、馬の飼養、育成に適した地であったのである。天智天皇は大陸(中国、朝鮮)の影響を受け、国内においても馬を育て増やし、強靭たる強い馬を育んでいくための牧場を建設することとなり、この地に日本初の国営牧場を築き、馬の調教と繁殖に傾注され、日本における馬文化の始原濫觴となった。
そして、本項の?尾間木の大牧(おおまき)?である。この牧は、純粋な日本人が開発、創成した、国営ではない民間の最古の牧場と推察されるのである。それも関東、東日本エリアでは間違いなく最古の馬の大牧場であると思われる。馬にとっての知られざる楽園が、この地に存在していたのである。
その古の馬の楽園の縁を現世へと伝える宝物、御神体がこの地にある神社に残されている。
三室地区の氷川女体神社には、宝物として「天暦古牧」と書かれた木札が安置されているとされ、また尾間木地区の駒形神社には、白馬像三頭が御神体として鎮座しているという。
【尾間木・駒形神社の白神馬像】
(写真元:『県都浦和の歴史:史跡名勝と百年史』)
この白き神聖なる神馬像は、いにしえの大牧の威光を今へと残す御神体。
3体あると伝えられている。像の体長は25cm、頭高18cm。
■御牧・官牧よりも古い!?日本最古の大牧場
天皇が勅使して解説させた牧場は、奈良時代後期に牧の管理を請け負ってきた兵部省から分離独立する形で、新たに設定されるようになったと考えられている。
『延喜式』によれば、勅旨牧は信濃(16ヶ所)・甲斐(穂坂牧、真衣野牧、柏前牧の3ヶ所)・上野(9ヶ所)・武蔵(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧の4ヶ所)の計4ヶ国に設置され、前2ヶ国は左馬寮、後2ヶ国は右馬寮の管轄下であったという
すなわち奈良時代後期に天皇の御光を宿した御牧・官牧が造られた背景から鑑みるに、尾間木の古牧は日本最古の大牧場であった可能性が高い。
【参考文献・イラスト・写真】
・『県都浦和の歴史:史跡名勝と百年史』小島煕 著(浦和郷土の会、1970)
・ブログ『咲いた万歩』「さいたま市緑区にあった尾間木村」
・Wikipedia「尾間木村」
・TOYOSEIKI Blog「日本最古の馬牧場があった蔀屋北遺跡。大阪府四條畷市」
・賀茂神社 公式HP
]]>
〜天つ雲、白き炎〜
ー四面楚歌、陰惨たる虐待を受け続けても屈せず
史上屈指の天賦の才を見せた幻の英国三冠馬ー
(写真引用:Charles Hunt & Son)
父 ストックウェル(バードキャッチャー系)
母 ブリンクボニー
母父 メルボルン(マッチェム系)
生年:1861年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:大英帝国
生涯成績:7戦5勝[5-2-0-0]
主な勝ち鞍:英ダービー、英セントレジャー、トリエンニアルステークス(現ジャージーS)、ゼットランドプレート、グラトウィックS
■命名は万民が愛する「門出のウイスキー」から
スコットランドはハイランド地域の玄関口であるパースシャー州の町、ピトロッホリーに1798年、蒸留所が創業を見た。
この蒸留所は町の南、グランピアン山脈の麓に構え、その敷地内にはオルトダワー川が流れを汲む。
仕込み水はこの川の水であり、オルトダワー川は蒸留所の背中に立つべン・ヴラッキー山の泉から流れ、「カワウソの小川」の異名も取る、大変清らかな川である。この清流から汲み上がる水から造られるシングルモルトのウイスキーが、カワウソのラベルで印象的な「ブレアアソール Blair Athol」という訳である。
その味は、ややオイリーでリッチな重めのニュアンスとライトさがあるそうで、広大なハイランドのなかでも一般的なフルーティーで甘い味わいに加えて、口に含んで時間を置くほどスパイシーさが現れてくるお酒なのだとか。
(推測のように…ネットの評判のように書くのは、筆者が下戸だからである)
ブレアアソールの蒸留所は、その敷地から?アルダワー?と呼ばれていた。ブレア・アソールという蒸留所名になったのは、1825年に政府の認可を受けてから。蒸留所名の由来は、アソール公爵の居城であるブレア城に因むが、実際には蒸留所と城とは18キロメートル程も離れているという。
ブレア・アソールは、多くの英国人から愛されている。蒸留所としても、お酒としても。
蒸留所は、最もビジターが多いとしても有名で、その数は年間9万人を超え、地元経済に大いに貢献している。
また、英国で一番飲まれているブレンデッドウイスキーであり、飲みやすい味わいが特徴と評判なのだとか。
名前から「門出のウイスキー」としても扱われているという。
▲〔ブレア・アソール蒸留所〕
競走馬のブレアアソールも、ひょっとしたらそんな皆から愛される馬になって欲しいとの、切なる想いを持って命名されたのかもしれない。彼の命名の由来はブレア・アソール蒸溜所であり、彼を見そめ手掛けたウィリアム・イアンソン氏もブレア・アソールを愛飲していたのかもしれない。
これは、19世紀世界最高峰の血統をバックボーンに生まれ、しかし最も不遇な扱いを水面下で受け続けるも、己の能力のみでその力を顕示した1頭の実話の物語。
■19世紀初頭・世界最高究極の血統馬へ、度重なる逆境
「種牡馬の皇帝」と謳われしストックウェル。
英ダービー・オークスをどちらも制した「世紀の名牝」ブリンクボニー。
この2頭を両親に持つ馬が、英国はヨークシャー州スプリングコテージに1861年、生誕した。
生産しオーナーとなるウィリアム・イアンソン氏は、驚くべき事に調教まで自分が兼業を行っており、この歴史的名血馬も当然自分の袂で鍛え上げる大望を抱く。
しかし、その血統からか、ルックスや動きの評判が風に乗ってか、幼少期からブレアアソールは噂になり、本馬への買いの手が上がり続ける。その中、一際この馬に惚れ込んだのが、有名ブックメーカーに勤めるジョン・ジャクソン氏。ジャクソン氏は7000ギニーでブレアアソールを譲って貰えないか?イアンソン氏に懇願、頼み込むも、これを拒否。峻拒して手放そうとはしなかった。
父【ストックウェル】〜種牡馬の皇帝〜
▲〔ストックウェル:1849年生。父ザバロン(エクリプス系)母ポカホンタス 母父グレンコー(ヘロド系)、栗毛(ベンドア斑)、生涯成績16戦11勝[11-3-0-2](異説・諸説あり)、主な勝ち鞍:英2000ギニー、英セントレジャー、ニューマーケットセントレジャー、ニューマーケットステークス、グレートヨークシャーステークス、ミシル大侯爵ステークス、フォールステークス、レーシングステークス、 300ソヴリンステークス、ナボブとのマッチレース、チャレンジフォーザホイップ他。競走馬としても一流であったが、種牡馬成績はそれ以上に遥かに優秀なもので、英国リーディングサイアーを計7回獲得。412頭の産駒のうち、209頭が勝ち上がり、1,147勝、総獲得賞金は362,451ポンドという。特に1866年の獲得賞金は特筆的で、この年の産駒の勝ち数は132にも及び、総獲得賞金61,340ポンドはその後68年間破られなかった。その実績を称え、「種牡馬の皇帝」と言われた歴史的大種牡馬である。〕
(写真元:Sports horse data)
母【ブリンクボニー】〜世紀の名牝〜
▲〔ブリンクボニー:1854年生。父メルボルン(マッチェム系) 母クイーンメアリー 母父グラディエイター(ヘロド系)、牝馬、鹿毛、生涯成績20戦14勝[14-1-2-3]、主な勝ち鞍:英ダービー、英オークス、ランカシャーオークス、べンティック記念S、パークヒルS他。全世界において初めて牝馬でダービーを制したエレノアから56年の歴史をえて出現した牝馬のダービー馬。ダービーは30頭立ての超多頭数の中、従来のレコードを3秒更新する超抜時計(2:45.0)で勝ち、その2日後にオークスを8馬身差で圧勝(3着馬にはさらに4馬身の差を着けていた)。クラシックディスタンス以上の距離で本領発揮のステイヤータイプの馬であったようで、英2000ギニーでは5着と破れている。その他、20馬身差勝ち、セントレジャーは謎の敗戦を喫するも、その後セントレジャー馬の勝ちタイムよりも2秒以上速い時計で圧勝するなど、強さを発揮する時は手の付けようのない強さをまざまざとみせつけた。ブレアアソールと同じく、生産、育成、調教を手掛けたのはウィリアム・イアンソン氏。〕
(写真元:Sports horse data)
子【ブレアアソール】〜幻の三冠馬〜
(写真元:Sports horse data)
ブレアアソールは好馬体であったが、顔のほとんどが真っ白で、それがより本馬を際立たせた。
世界的超名血馬で馬体の秀でたこの子馬に、多くの期待と願いが寄せられ、日々その想いは高まっていった。
しかし…2歳を迎え、調教を開始するも、異変が現れる。原因不明の跛行が相次ぎ、出走登録を行うも直前で回避…という事態が繰り返されたのである。
「なんということだ…これでは調教もままならない・・・」
途方に暮れるイアンソン氏を他所に、ブレアアソールの容態は悪化を見せていく。
跛行に次ぐ跛行が続き、出走回避を続けることなんと8回。
その状態はさらに坂道を転がっていく林檎のように朽ちていき、調教など論外、軽く歩くのもやっとという苦境に立たされてしまう。
イアンソン氏は早くからこの馬に大きな期待を寄せていたこともあり、クラシック登録は済ませていた。
その第一弾、2000ギニーも日和に迫ってきていたが、遅々としてブレアアソールの具合は快方へと向かうことがなかった。
「どうして強い調教もしていないのに、こうも怪我が続くのか…ダービーだけには何としても間に合わせなければ」
募る焦燥感を抑え、ダービーの前哨戦にと、ディーSへ登録。ここを脚馴らしに使い、ダービーへ…という青写真を描いた。
■「謎の怪我」驚愕の真実!間に合った英ダービー
奇々怪々たる混迷を極める跛行は、まだ続いていた。
「どう考えてもおかしい。このままではダービーにすら…」
焦りは禁物と長い目で見てきたイアンソン氏にももう余裕の色は消えていた。
これだけの血統馬を、多くの声が上がっていたに関わらず、自分の手元から離さず、ビッグレースを総なめにすることを夢見てきたというのに、現実はまだ1走すら走れていない。
もはや猶予は残されてはいなかった。叩き台、試走を予定していたディーSすら出走回避。
これで直前回避は9連続となってしまっていた。
さらに、ダービーの日は刻一刻と迫っていた。
そんなある日の事だった。イアンソン氏が厩舎のブレアアソールの様子を伺いに訪れた時、衝撃的な光景を目の当たりにする。
ブレアアソールの担当厩務員が、ブレアアソールに向かって何か暴言を吐いている。
「…おかしいな…こんな時間にあいつがいるなんて…給餌の時間もとうに過ぎているし・・・」
怪訝な想いを抱えつつ、馬房へと近付いていった時、その光景に目を疑った。
なんと、その厩務員はブレアアソールの脚へ蹴りを入れ、殴っているのである!
「!?」
その瞬間、イアンソン氏は相次ぐ怪我、跛行の真因を全て悟った。
全てはこの厩務員が日常的に暴力を奮い、ブレアアソールを痛めつけ、出走回避に至るまで追い詰めていたのである!
イアンソン氏は即、警察へ通報。厩務員の男は誤用となった。
そして驚愕の事実が明るみに出たのであった。
?虐待は日常的に行われ、この馬の男、
性器にまで危害を加えられていた?
さらに
?ブレアアソールの存在を脅威に感じた
他馬陣営が徒党を組み、厩務員の男を買収。
虐待を働くよう指示した?
というのである。
イアンソン氏は心底からマグマのように噴き上がる怒りと、傍にいながらここまで気づけなかった自身への忸怩たる悔恨で心模様は渾沌し、錯乱してしまう。しかし、目前に迫った英ダービーに向けて、もう時間はなく、心を必死の思いで切り替え、この馬への謝罪の気持ちを募らせるように調教へと転化させていった。
イアンソン氏の想いが天へと届いたのか、光明が差し始め、この事件発覚後は全てが上手く進み、奇跡的にダービー出走に間に合った。
しかし、ここまで順調に調教すらまともにこなせず、1走もしないままエプソムダウンズへとやってきたブレアアソールの評価は低く、穴馬の存在としての評価がほとんどであったが、この馬を信じるファンは少なくはなかった。ヨークシャーはスプリングコテージの近隣でブレアアソールの動きを具に見ていた者たちは、皆この馬の勝利を信じて疑わず、エプソムへと駆け付け、声援を送った。そのファンの中には、この馬を最後まで諦めずに買おうとしたジャクソン氏の姿もあった。
英ダービーには2000ギニーを制し、後にドンカスターCを勝つジェネラルピール。
さらにはこの後に3歳にして、当時最高権威を誇ったアスコットゴールドCを勝つスコティッシュチーフなどが出走してきていた。
スタートが難航し、フライングは8回にも及んだ。全てが初物尽くしで、おまけにそうした事態も絡んだことが影響したのだろう。
ブレアアソールは出遅れてしまい、後方から?初めて?となるレースを進めた。
しかし、鞍上のジェームズ・スノーデン騎手に焦りの色はなく、ドッシリと後方で脚を貯めた。
直前にイアンソン氏より後方待機策を指示され、想定通りにレースが展開されていったからである。
タテナムコーナーに差し掛かった時、一気に仕掛けられ、瞬く間にブレアアソールは先頭に躍り出た。
あまりの反応速度と瞬発力に、想像以上の段階で先頭に立ってしまったブレアアソールであったが、ジェネラルピールを2馬身差後方に従えてダービー馬の栄冠と栄光をイアンソン氏へと授けたのであった。
スノーデン騎手は全力で追っておらず、最後は手綱を緩めて抑えている。スノーデン騎手いわく、全力で追っていれば、優に10馬身以上の着差をつけていただろうと語っている。
半年以上の期間、虐待で酷い暴行を受け続け、ほとんど調教できなった状態で、大きく出遅れた馬がデビュー戦でダービーを楽々と勝ってしまったのである。
しかも…レコードタイムのおまけ付きであった。勝ちタイムは2:43.0。なんと従来のレコード2:45.0を2秒も更新してしまったのである(諸説あり、2:43.6とする説もあるが、いずれにしろ当時のダービーレコードであるのは間違いない事実である)。とんでもない?神の領域?のポテンシャルを、ブレアアソールが秘めている事を満天下に示し現した歴史的ダービーとなった。
このダービー、イアンソン氏はブレアアソールに大金を賭けており、15,000ポンドもの大金を手にしたという。
現在の価値で言うと、日本円にして4,050万円の払戻金受け取りになる。
さらにぶっとんでいるのは、ブレアアソールの大ファンであるジャクソン氏。
ブレアアソールに賭けに賭けまくり、4万ポンド(現在の価値の日本円換算で…なんと1億‼️)もの巨利を得たという。
単勝馬券で1億円超えの配当金を得た最古にして唯一の例ではなかろうか。
■四面楚歌のパリ遠征
ブレアアソールの歴史的ダービー優勝から数日後、ブレアアソールの次戦をパリ大賞に決めたことがイアンソン氏から明かされた。
英ダービーで全力で追っていれば10馬身差は着差をつけていたと、スノーデン騎手が述べたことも手伝ってか、フランス競馬ファンは戦々恐々としていた。当時はまだナポレオン戦争終結からわずか49年しか経過しておらず、戦争の忌まわしき記憶は色濃く残っていた。フランスは英国を敵国と見做し、その国から来る馬は「敵国の馬」だった。フランス競馬ファンが期待するのは、敵国の英オークスを勝ち、地元ディアヌ賞(仏オークス)も制したフィーユドレール。
ブレアアソールはフランスへ向かうも、ドーバー海峡を渡る際に船が荒波に揺られ、すっかり体調を崩してしまう。
船で揺られ続けて感覚が狂ってしまったブレアアソールが、ようやくフランスはロンシャン競馬場に到着したのは、なんとレースの前夜。
加えては、初めて英国を飛び出して慣れない環境下、精神面でも狂いを生じさせられ、レース前から暗雲が立ち込めた。
さらに、レース当日には、なんとフランス皇帝・ナポレオン3世も競馬場へ駆け付け、この1戦を観戦。これが愛国心により火をつけてしまったか、その時のロンシャン競馬場におけるムードは、現代におけるサッカーWCにおける、自国と相手国へ向ける激情そのままというのが、正に例えやすい最たる例と言えよう。こうした背景も相まり、敵国視の視線はより一層厳しいものとなった。
騎手はスノーデン騎手からトム・チョロナー騎手へと乗り替わっていたのだが、ロンシャンへ詰めかけたフランスのファンより、チョロナー騎手への容赦ない侮蔑、罵声が浴びせられ、これぞ四面楚歌という完全アウェーの中、パリ大賞(芝3,000m)のスタートが切られた。
[ナポレオン3世]
〔フィーユドレール:1861年生。父フォーガバラー(エクリプス系) 母ポーライン 母父ヴォルカノ(エクリプス系)、栗毛。
英仏オークスダブルを史上はじめて達成した名牝。その他主な勝ち鞍としては、バーデン大賞、ウッドコートS、モルコムSなど〕
(写真元:Sports horse data)
英ダービーと同じく後方待機策で臨み、捲って直線では先頭集団を射程圏に入れるも、キャリアたったの1戦。初の国外。輸送によるダメージ(現代とは比較にならない輸送の厳しさからダメージ大は明らか)、精神面の不安…これらが相まってダービーのような伸び脚が見られない。先頭で逃げ続けたヴェルムトを追い詰めるも、逃げ切りを許してしまう。このヴェルムトという馬は、後にバーデン大賞も勝つ馬で、決して弱い馬ではない。ブレアアソールは地元の期待を一身に背負うフィーユドレールに先着するも、目の敵にした敵国の馬が敗北した事を認知するや、拍手と大声援が競馬場を包んだ。
(傷心の?)ブレアアソールはロンシャンに踵を返して英国へと戻るや、スプリングコートで静養し、調整を整えられるとアスコット競馬場にてトリエニエルS(芝1,600m、現在のジャージーS)へ出走。初のマイル戦となるが、2馬身差快勝。さらにはグッドウッド競馬場にてグラトウィックS(芝2,400m)を全くの馬なりのまま大楽勝。この2戦のレースの強さがあまりにも強過ぎたからか、次戦となるゼトランドプレートではブレアアソールを恐れ、出走馬が本馬以外全て回避、出走自重し、単走勝ちをやってのけてしまう。
このまま連勝は続くかに見えたが、通算6戦目となったグレイトヨークシャーS(芝2,400m)では、これまでの後方待機策ではなく、なんと先行して直線早々と先頭に立つというレーススタイルを披露するも、最後は約7ポンド(約3kg)の斤量差を与えていたザマイナーという馬の強襲に屈し、わずかに差し切りを許してしまった。能力での敗戦というより、鞍上の心の隙、慢心より生まれた敗戦だったと言えよう。しかも、この1戦の時は体調を崩してしまっていたという。
■天穹へと突き抜けし白き炎
ブレアアソールは、最後のレースとして英セントレジャーへ矛先を定めた。
これまで対戦した好敵手、ジェネラルピール、エリー、ザマイナーらに加え、後に54戦全勝の奇跡の名牝キンツェムを送り出すカンバスカンも出走してきた。レース数日前から天候は崩れ、暴風雨が吹き荒れる超不良極悪馬場の中、セントレジャーはスタート。
ブレアアソールは前走のようには前に行かず、得意の後方待機策を取り、じっくりと脚を溜めた。直線に入るや、持ったまま、馬なりのまま後方から上がっていき、インコースを突いて進出。残り1ハロンを切った所で外へと持ち出し、一瞬の内に前方を走っていたカンバスカンとジェネラルピールを持ったまま馬なりで楽に抜き去ると、最後はジェネラルピールに2馬身差を付け、スノーデン騎手は愛馬を労い愛でる様に手綱をがっしりと抑え、ゆったりと走りゴールを迎えた。そのゴールは、ブレアアソールにとって一つの終着点を意味していた。レース中に膝をぶつけられるアクシデントがあり、レース後に馬体を検査した所、大きく痛々しく腫れ上がっており、腱も炎症を起こしてしまっていたという。これにより、次戦に予定していたドンカスターCを回避。結局、この怪我が祟り、引退を余儀なくされてしまった。ドンカスターCは、ダービー・セントレジャーで2着に下していたジェネラルピールが圧勝で締め括っている。
ブレアアソールの競走生活は、ほんの僅か…レースに出走して以降でカウントするならば、4ヶ月に満たない期間しか走れなかったことになる。イアンソン氏が本格的な調教を施し始めた2歳時から数えても、1年になるかならないかの本当に極限られた時間しか競走生活を送れなかった。しかも、その殆どはダービー出走の直前まで続いた心無い非道な虐待に虐げられ、競走能力をスポイルされてしまった。このダメージは後々まで響き、体調万全、調教万全で出走出来たレースなど3連勝した時のみ位なものであった。
常に四面楚歌、罵詈雑言の渦中の中心にありながら、英ダービー、パリ大賞を乗り越え、ブレアアソールを信じ寄り添い続けたイアンソン氏。彼を誰よりも熱烈に支持して声援を送ったジョン・ジャクソン氏。そしてヨークシャー州スプリングコテージで働く牧夫、厩務員、事務員、関係者、近隣の人々…そうした周囲の人々の信頼と信愛がブレアアソールを支え、一度蹂躙されたその素質が息を吹き返し、史上屈指の名馬の座を獲得するに至った。もし虐待がなく、順調に調整されて行ったのなら、まず間違いなく英国三冠馬の称号は手中に収めていたことであろう。ブレアアソール誕生の1年後に生まれたフランス産馬のグラディアテュールは、初の外国馬での英国三冠を成し遂げ、種牡馬としてブレアアソールと同じ牧場でスタッドインするのだが、運命の歯車が一つ違えば、英国三冠馬が2頭並び立っていた可能性もあったのである。
ブレアアソールを見た英国競馬関係者は、皆口を揃えて「私が見た中で最良の名馬」と本馬を称えた。
種牡馬としても、幼駒であった時と同じように引く手数多の状況で、多方面より声が掛かった。
オーストリア・ハンガリー帝国からも声が掛かったが、イアンソン氏は断固として拒否。
しかし、最大のファンであるジョン・ジャクソン氏がフェアフィールドスタッドでの種牡馬入りを5,000ギニーから7,000ギニーで持ち掛けると、イアンソン氏はすんなりとこれに応じ、同馬の種牡馬入りがフェアフィールドで確定した。
生まれ育ったスプリングコテージ、ヨークシャー州から旅立つ日、沿道には多くのファンや近隣の人々が駆け付け、ブレアアソールの門出を見送ったという。
母郷との最後の暇乞い。惜別を告げるブレアアソールの瞳には蒼穹の彼方、天つ雲が映えていた。
己の白面と重なる白き雲は、一点迷いもなく天穹へと昇る天馬の白炎。
英国の民が愛した「門出のウイスキー」?ブレアアソール?は、馬もまた同じ命運を准えたのであった。
多くの英国民から愛され、親しまれたブレア・アソールのウイスキーの様に、名馬ブレアアソールも走り続ける勇姿の影、多くの民からの愛と尊き想いを一心に束ねし存在へと羽翼をいつの間にか伸ばしていたのである。
絶望と失望が渦巻く絶念の檻の中、孤立無縁の四面楚歌あっても、堅忍不抜、不撓不屈の魂を持って立ち向かい、イアンソン、ジャクソン、2人の男が信じた己への熱き情念に応えて見せた、偉大なる?幻の三冠馬?。
門出を祝う祝讃のその名は、?ブレアアソール?といった。
☆ブレアアソールは種牡馬としても成功し、Silvio(英ダービー・英セントレジャー・アスコットダービー・ジョッキークラブC)、Prince Charlie(英2000ギニー・ミドルパークS・クイーンズスタンドプレート・オールエイジドS3回)、Craig Millar(英セントレジャー・ドンカスターC・モールコームS)、英1000ギニー馬Cecilia、Scottish Queenらのクラシック勝ち馬を輩出。1872年、1873年、1875年及び1877年の4度英愛リーディングサイアーに輝き、1878年には200ギニーに上がった種付料に対してボイコットが起こるほどであったという。
本馬の直系子孫は英国だけでなく米国でも一定の繁栄を示し、何代か続いたが、現在では途絶えている。しかし本馬の直系種牡馬を母系に有する活躍馬は多数出ている。
☆フランス世紀の名馬グラディアテュールは1歳年下の英国三冠馬で、19世紀における世界史上最強の評価もある伝説の名馬であるが、当時における評価はブレアアソールもほぼ互角の論評があった。しかし、現在の知名度では天と地程の差が生じてしまっている。
1860年代末の評価を裏付けるものとして、アンケート調査が出ている。1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては52票を獲得し、第5位にランクイン(1位は65票のグラディアテュール)。また、同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では6票を獲得し、これも第5位となった(こちらの投票でも1位は11票でグラディアテュール)であった。
☆1882年の9月、ブレアアソールは運動から戻ってきた数時間後に馬房内で突然倒れ、息を引き取った。享年21歳だった。
死因は肺炎で、既に片方の肺は6年前に肺炎に罹った際に機能を失っており、本馬はその後もう片方の肺だけで生きていたという驚愕の事実が判明した。亡骸は手厚く懇ろに、パウンドスタッドファームの一角へと埋葬されたという。
【参考文献・イラスト・写真引用元】
・『世界の名馬列伝集』「ブレアアソール」
・Wikipedia「ブレアアソール」
・Wikipedia「ナポレオン3世」
・「ブレアアソール蒸留所公式HP」
・『Dear Whisky』「ブレアアソール蒸留所」
・『Dear Whisky』「ブレアアソールの美味しい飲み方」
・『Yaffee’s Whisky Blog』「カワウソが印象的な「ベル」のキーモルト『ブレアアソール Blair Athol』!そのストーリーと特徴を解説」
・Illust AC
・イラストフリー素材集
]]>
ウェストオーストラリアンがはじめて2000ギニー、ダービー、セントレジャーを制した1853年当時には、「三冠(Triple Crown)」という概念はなかった。
19世紀末から20世紀初頭に、ラグビーから「三冠(Triple Crown)」という言葉が持ち込まれ使われるようになったのではないかという諸説がある。ただし完全に普及するのは後年、アメリカで使われるようになってからである。
初めて三冠(Triple Crown)という表現が用いられたのは、1930年のアメリカと考えられている。この年、ギャラントフォックスがケンタッキーダービー、プリークネスS、ベルモントSを勝つと、アメリカの競馬新聞「デイリーレーシングフォーム」のコラムニスト、チャールズ・ハットン(Charles Hatton)が記事中で「Triple Crown」と用いたのが、はっきりと判っている最初の例とされている。このとき、ハットンは19世紀のイギリスのウェストオーストラリアンを引き合いに出した。ウェストオーストラリアンは2000ギニー、イギリスダービー、セントレジャーを勝っており、現世における「初代の三冠馬」とされている。
一方、アメリカの新聞「ニューヨークタイムズ」はこの定説を認めながらも、これより早く、少なくとも1923年から「三冠(Triple Crown)」という語を使用していたと主張している。
全世界三冠馬の数
660頭以上
(平地競走、ダート三冠、地方競馬の三冠、ハンデキャップ三冠、障害競馬、ばんえい、繋駕速歩競走、アラブ、他馬種競走他、全ての馬の競走を含めての数。)
※正確な数は『奇跡の名馬3』にて公表致します!
【無敗の三冠馬一覧】全51頭
★オーモンド(1886年)【英国】※生涯無敗16戦全勝。
★アイシングラス(1893年)【英国】
★ゾルデヅィ(1913年)【ルーマニア】※25戦22勝連対率100%
★ベンツ(1917年)【ウルグアイ】
★サンジェンナーロ(1917年)【オーストリア】
★ボタフォゴ(1917年)【アルゼンチン】※無敗四冠
★リニエルス(1919年)【ウルグアイ】
★シスレイ(1923年)【ウルグアイ】※無敗四冠
★ランシア(1926年)【ウルグアイ】
★フレイレ(1930年)【チリ】※10戦10勝生涯無敗
★バーラム(1935年)【英国】
★エンブルッホ(1939年)【アルゼンチン】
★ウインザースリッパー(1942年)【愛国】
★エストゥヴァド(1944年)【ブラジル】
★ルゼイロ(1949年)【ウルグアイ】
★ヤタスト(1951年)【アルゼンチン】※無敗四冠
★カマレロ(1954年)【プエルトリコ】
★スクーター(1954年)【ウルグアイ】
★リオパリャンガ(1955年)【ペルー】
★ペリゴールド(1957年)【ペルー】
★マナンティアル(1958年)【アルゼンチン】※無敗四冠
★ファーウェル(1959年)【ブラジル】
★グラディスコ(1960年)【ベネズエラ】
★フォルリ(1966年)【アルゼンチン】※無敗四冠
★ニジンスキー(1970年)【英国】
★カライエル(1970年)【トルコ】※生涯無敗18戦全勝。
★チョコン(1971年)【ウルグアイ】
★ツェルキース(1974年)【ポーランド】
★シアトルスルー(1977年)【米国】
★エルグランカポ(1978年)【パナマ】
★メガトン(1978年)【コロンビア】
★ピコタゾー(1980年)【メキシコ】
★ロイヤルダッド(1981年)【ジャマイカ】
★シンボリルドルフ(1984年)【日本】
★イタジャラ(1987年)【ブラジル】
★ウォルフ(1990年)【チリ】
★グロズニー(1995年)【ペルー】
★ターミネーター(1997年)【エクアドル】※生涯無敗19戦全勝。三冠全戦単走(ウォークオーバー)。
★エクセレンシア(2005年)【ドミニカ共和国】
★ディープインパクト(2005年) 【日本】
★インヴァソール(2005年)【ウルグアイ】
★ウォータージェット(2010年)【ベネズエラ】
★サーフィーヴァー(2013年)【ウルグアイ】
★フィクサドール(2013年)【ブラジル】
★レアリーアップタウン(2013年)【英領ヴァージン諸島】
★ヴァバンク(2013年)【ポーランド】
★フラッテロマルティーノ(2015年)【ドミニカ共和国】
★ジャスティファイ(2018年)【米国】
★ククルカン(2018年)【メキシコ】
★シルヴァーストーンエアー(2019年)【ケニア】
★コントレイル (2020年)【日本】※史上初の父子無敗三冠達成。
世界競馬で無敗の三冠馬を2頭輩出したのは
英国、ブラジル、ペルー、ベネズエラ、メキシコ、
ドミニカ共和国そして日本の七ヶ国。
驚愕すべきはウルグアイ。
無敗の三冠馬を9頭も輩出している。
【無敗牝馬三冠馬一覧】全16頭
☆キンツェム(ハンガリー)
☆プリティポリー(英国)
☆ラフィアン(米国)
☆エメラルドヒル(ブラジル)
☆ヴィルジニー(ブラジル)
☆ザルカヴァ(フランス)
☆ワウキャット(チリ)
☆ニンファデルシエロ(ベネズエラ)
☆サマープリン(南アフリカ)
☆デアリングタクト(日本)
☆ジャネールモネイ(ブラジル)
☆サンドヴァレーラ(ベネズエラ)
☆リンダカーター(ベネズエラ)
☆ラエンペラトリ(パナマ)
☆ハニーベルオレンジ(ケニア)
☆インザヘッドライン(トリニダード・トバゴ)
※キンツェムは当時の競走形態から真の三冠馬とは言えないが、
三冠競走を全て勝利しているので敢えて加えさせて頂いています。
(ハンガリー・オーストリア2国間を股にかけての変則三冠。)
【世界の親子三冠馬】
※年数は三冠達成年
?🇬🇧英国三冠・🇺🇾ウルグアイ三冠
【父】1900年 ダイヤモンドジュビリー(13戦6勝)英国三冠
【子】1913年 リコート(47戦17勝2着9回3着8回)鵜国三冠
?🇦🇷アルゼンチン三冠(四冠)
【父】1904年 オールドマン(19戦18勝2着1回)
【子】1914年 ボタフォゴ(18戦17勝2着1回)※無敗で四冠達成。
?🇷🇴ルーマニア三冠
【父】1913年 ゾリデヅィ(25戦22勝2着3回)
【子】1928年 ギアール
?🇺🇸米国三冠
【父】1930年 ギャラントフォックス
【子】1935年 オマハ
?🇺🇾鵜国三冠(ウルグアイ三冠)
【父】1949年 ルゼイロ(9戦8勝2着1回)※無敗で三冠達成。
【子】1962年 ロコロコ
?🇹🇷トルコ三冠
【父】1973年 カライエル(無敗で達成。生涯成績18戦全勝)
【子】1983年 セレン1世
?🇵🇭フィリピン三冠
【父】1981年 フェアアンドスクウェア(23戦21勝2着1回3着1回)
【娘】1989年 サンダンサー※牝馬
?🇺🇸米国三冠・🇨🇦カナダ三冠
【父】1978年 アファームド(米国三冠)
【子】1993年 ピートスキー(カナダ三冠)
?🇵🇦パナマ三冠
【父】1998年 エヴァリスト
【子】2008年 オクサイ
?🇯🇵日本クラシック三冠
【父】2005年 ディープインパクト
※無敗で三冠達成。14戦12勝(2着1回失格1回)
【子】2020年 コントレイル
※無敗で三冠達成。11戦8勝(2着2回3着1回)
コントレイルが三冠を達成し、史上10組目の親子三冠馬達成となった。
さらに、無敗で親子三冠は、
全世界競馬史上初となる歴史的大偉業となる。
(もし、他にも例がありましたら、ぜひ教えてください。今現在、全世界の三冠馬と三冠系体を調査、編纂まとめている状況ですので、教えて頂けたら非常に助かります。)
オーモンド、ニジンスキー、セクレタリアト、ルドルフといった偉大な三冠馬たちも、セントサイモン、リボー、ノーザンダンサー、サンデー、ガリレオといった歴史的大種牡馬も出来なかった、為し得なかった、為しえれない、歴史的大記録。
2020年10月25日、ディープとコントレイル は全世界競馬史上唯一無二の存在となったのである。
【オマケ】
『三冠馬の出現確率』
JRAに生産資料が残る1947年以降のクラシックにおいて、3冠に挑戦可能だった馬は現3歳世代までで41万1188頭。うち3冠馬となったのがコントレイルを含め7頭(戦前のセントライト除く)。
3冠馬の出現率は0・0017%。5万8741頭に1頭の確率だ。
なお、3冠馬から3冠馬が生まれる確率はかなりざっくり計算して0・0017%×0・0017%=0・000003%。何とも現実味のない数字となる。
ちなみにジャンボ宝くじ1等の当せん確率は1000万分の1、つまり0・00001%とされる。
いかに「3冠馬から3冠馬」が難事業かが分かる。
しかも、今回は父子そろって無敗。さらには新型コロナウイルス禍という特殊な状況下であったことも踏まえると、もはや天文学的数字になっていくる。
【牡牝ダブル三冠馬輩出馬一覧】全8頭
■…牡馬
■…牝馬
🇬🇧セントサイモン
(英国クラシック三冠・英国クラシック牝馬三冠)
■ダイヤモンドジュビリー
■ラフレシ
🇹🇹プライドオブインディア(🇬🇧)
(トリニダード三冠)
■ダージリン
■シャリマー
🇵🇪ポスティン(🇦🇷)
(ペルー三冠・ペルー牝馬三冠)
■リオパリャンガ(無敗で達成)
■パンプローナ
🇯🇲エキゾチックエンペラー(🇺🇸)
(ジャマイカ三冠・ジャマイカ牝馬三冠)
■ミリグラム
■ヴェスティア
🇯🇵サンデーサイレンス(🇺🇸)
(日本クラシック三冠・日本牝馬三冠)
■ディープインパクト(無敗で達成)
■スティルインラブ
🇻🇪ウォーターポエット(🇮🇪)
(ベネズエラ三冠・ベネズエラ牝馬三冠)
■タコネオ
■バンベラ
■ウォータージェット(無敗で達成)
🇯🇵ディープインパクト
(日本クラシック三冠・日本牝馬三冠)
■コントレイル(無敗で達成)
■ジェンティルドンナ
🇲🇽ポイントディターミンド(🇬🇧)
(メキシコ三冠・メキシコ牝馬三冠)
■ククルカン(無敗で達成)
■クザマラ
三冠馬を最も出した国
ウルグアイ
【三冠馬】22頭
全世界史上最も無敗の三冠馬も輩出した国である。
★リカーテー(1913年)
★ベンツ(1917年)※無敗
★ヴェロナ(1915年)※唯一の牝馬。
★リニエルス(1919年)※無敗
★シスレイ(1923年)※無敗達成、四冠
★ランシア(1926年)※無敗
★マーキートー(1927年)
★ゾーザレロ(1932年)
★ロマンティコ(1938年)※四冠
★ロードコティ(1943年)
★ルゼイロ(1949年)※無敗
★ビザンシオ(1951年)
★スクーター(1954年)※無敗
★ザンバドー(1960年)
★ロコロコ(19662年)
★チョコン(1971年)※無敗
★ハンプステッド(1977年)
★モナシリオ(1980年)
★アモデオ(1988年)
★パルシファル(1994年)
★インヴァソール(2005年)※無敗
★サーフィーヴァー(2013年)※無敗
【過去の全世界三冠馬対決完全網羅】
三冠馬同士の対戦は過去の世界競馬全史を遡及して顧みてみると、
14例の三冠馬対決が記録されている。
?アイシングラス(英国無敗三冠馬)
vsラフレシ(英国牝馬三冠馬)
1893年 ランカシャープレート(芝1,600m)にて
↓
[結果]
アイシングラス 2着
ラフレシ 3着
?リニエルス(ウルグアイ無敗三冠馬)
vsベンツ(ウルグアイ無敗三冠馬)
1917年
同厩舎の無敗三冠馬対決。ベンツが先輩三冠馬。
対戦するこの時、ベンツは敗戦経験済みで無敗のままの激突ではなかった。
↓
[結果]
リニエルスが3着で先着。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsエスコリアル(ブラジル三冠馬)
vsパンプローナ(ペルー四冠牝馬)
1959年アルゼンチンで行われた5月25日大賞(芝2,400m)にて。
※ちなみにこのレースにはチリ二冠馬トルパン、コロンビア二冠馬のフライジョンも参戦していた。
↓
[結果]
エスコリアルが優勝。
ファーウェル2着。
パンプローナ着外。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsエスコリアル(ブラジル三冠馬)
1960年ブラジル大賞(芝3,000m)にて。
↓
[結果]
ファーウェル優勝。エスコリアル2着。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsズンバドール(ウルグアイ三冠馬)
1960年カルロス・ペリグリーニ国際大賞(芝3,000m)にて
※ちなみに欧州からイスパーン賞勝馬やイタリア共和国大統領賞勝ち馬も参戦していた。
↓
[結果]
ファーウェル2着。ズンバドール着外。
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
1984年ジャパンカップにて
↓
[結果]
シンボリルドルフ3着、ミスターシービー10着
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
1984年 有馬記念にて
↓
[結果]
ルドルフ優勝、シービー3着
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
↓
1985年 天皇賞・春
[結果]
ルドルフ優勝、シービー5着
?シアトルスルー(米国無敗三冠)vs
アファームド(米国三冠)
1978年 マールボロCHにて
↓
[結果]
シアトルスルー優勝、アファームド2着。
?シアトルスルー(米国無敗三冠)vs
アファームド(米国三冠)
1978年 ジョッキークラブ金杯にて
↓
[結果]
シアトルスルー2着、アファームド5着。
?シコティコ(ドミニカ無敗三冠)
vsオクサイ(パナマ三冠馬)
カリブ国際(ダ1,800m)にて
↓
[結果]
シコティコ優勝。
?ジェンティルドンナ(日本牝馬三冠)
vsオルフェーヴル(日本三冠馬)
2013年ジャパンカップにて
[結果]
↓
ジェンティルドンナ優勝、オルフェーヴル鼻差2着。
?インメンソ(ドミニカ三冠馬)
vsタンゴダンサー(ドミニカ三冠馬)
vsフレーテローマーティノー(無敗ドミニカ三冠馬)
2018年クラシコ・インデペンデンシア・ナシオナル(ダ2,000m)にて
↓
[結果]
インメンソ優勝、タンゴダンサー2着、フレーテロマーティノー4着
?アーモンドアイ(日本牝馬三冠馬)
vsコントレイル(無敗日本クラシック三冠馬)
vsデアリングタクト(無敗日本牝馬三冠馬)
2020年ジャパンカップ(芝2,400m)にて
↓
[結果]
アーモンドアイ優勝、コントレイル2着、デアリングタクト3着
]]>
芝山町の七夕民俗
千葉県北東部に位置し、山武郡に属する町、芝山町は、町域全体が丘陵地帯で、下総台地(北総台地)のほぼ中央に位置し、概ね平坦で東に高谷川、西に木戸川がその流れを組む。それゆえ、この流域は稲作地帯になっており、かつては牛馬が農作農耕に献身的に勤めてきた歴史の側面を持っている。また西北部の丘陵地では畑作も盛んである。いわゆる第1次産業が盛んなエリアなのである。
その他、埴輪が多く出土する事でも有名で、町域の殆どが成田空港を離着陸する航空機の航路の真下に位置することから、「ひこうきの丘」という観光公園が設けられたことでも有名。
【芝山町に根付く七夕の民俗風習】
日本全国に散見される七夕前後や旧暦の七夕(8月7日)に行われる
藁やマコモ、チガヤなどを用いて作製した馬を使った民族祭事。
これらは五穀豊穣、農作物の豊作祈願、もしくは神仏の迎え入れを
行うための依代として見立てた風習として行われてきた。
芝山町も牛馬と密接な繋がりを持った農業地帯の町
であったことから、この習俗は深く人々の生活に根差して
執り行われてきた背景がある。
芝山町のそれは、旧暦の七夕に行われてきている
ことから、お盆の行事であると思われる。
その行程を写真に沿って見ていきたい。
?牛馬を作る
乾燥した真菰(マコモ)を用いて馬を作る。
昔は各家々で作っていたが、少子高齢化が進み、作れる者は少なくなってしまった。
馬の鬣(たてがみ)には、荒神様に供えていた苗を使うという。
田植えが終わる時の最後の苗を荒神様へ供物として供える風習があるのだが、
その供物を使うこととなる。
完成した牛馬。馬には背中に米俵を模した物を括り付ける。
?七夕行事
8月7日(旧暦の7月7日)、古老や大人たちが
紡ぎ上げた藁馬を子供たちが引いて家を出る。
向かう先は最寄りの小川。
目的地の川へと到着すると、藁馬を抱えて川岸へと下りていく。
馬の背中に乗せていた俵を川へと流す。
その後、馬を川の水で清め、ヒエを馬の背中に巻き付け、
マコモ馬とマコモ牛を引いて家路への帰途に着く。
子供たちは帰宅すると、七夕飾りを付けた笹竹へとマコモ牛馬を繋ぎ留め、
七夕の祈りを捧げた。
最後に母屋の屋根へとマコモ牛馬を投げ、この七夕の民俗祭事は終わりとなる。
マコモの牛馬たちには、幾千幾万もの時間を共生し、
織り成してきた牛馬たちへの感謝と畏敬の念、
そして五穀豊登、豊年満作の祈りが込められている。
彼らは、いわば神天への使い、依代である。
七夕とお盆、人々が現世から遥かなる空、
常世へと願を掛ける限られた1日に尊き想いが
寄せられる。
この切なる心模様を写した民俗がずっとずっと
未来世まで繋がっていきますように。
【参考文献・写真元】
・『七夕馬』shimaworks様
・『千葉県の七夕馬 ー草で作ったウマとウシー』千葉県立房総のむら様
・四季彩 diary 様
・『ちちぷい』
柏野たいたん様
シロナガス様
]]>
〜双角獣モノガタリ〜
ー世界恐慌の時代、全米を駆けた
伝説のツノがあるサラブレッドー
父 ウィスカロング(エクリプス系)
母 ヘーゼルスピアーズ
母父 ドラスティック(マッチェム系)
生年:1930年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:アメリカ合衆国
生涯成績:61戦21勝
主な勝ち鞍:ウィルメットクレーミングS(ダ1,200m)、マウントクレメンスH(ダ1,200m)、インアーギュラルH、ベーカーパース(ダ1,200m)、リオ・ホンダH(ダ1,200m)、ジュニアリーグH(ダ1,200m)ほか
【血統表】
■ユニコーン飼育許可証
2022年11月30日、公式に一角獣の飼育許可証が発行された。
その許可の認可を受けたのロサンゼルスに住む6歳の少女マンデリンちゃん。
彼女は「ユニコーンを飼う」という夢を叶えるため、ロサンゼルス郡動物管理局に手紙を書くことにしたという。
手紙の内容は至ってシンプルで、「ユニコーンをもし見つけられれば、飼育を正式に許可してほしい」という切実で真っ直ぐな想いが綴られているものであった。もしユニコーンを見つけたら、裏庭で飼いたいというマンデリンちゃん。
この手紙が当局へ出されたのが、11月14日。その数週間後にマーシャ・マイエダ局長が「裏庭でユニコーンを飼う許可を求める手紙をありがとうございます」と、マンデリンちゃんへ返事を送った。その手紙には、ユニコーンを飼うに当たっての条件が明記されていた。
この条文に加え、もう一部、書類が添付されていた。
それが史上初となる「ユニコーン飼育許可証」であった。
▲〔実際のユニコーン飼育許可証〕
さらに重ねては、「ロサンゼルスでユニコーンを発見することは極めて難しい」として、同局は特別措置として、マデリンちゃんにユニコーンの縫いぐるみを進呈。首輪には「恒久ユニコーン免許」が結び付けられていたという。
しかし…ユニコーン、角が生えた馬は実在する。
いつの日か、マンデリンちゃんの夢も現実のものとなる日が来るかもしれない。
〔2007年にスコットランドで発見された一角獣の子供の化石とされるもの。その正体は、29,000年前にシベリアに生息していた巨大な一本角を額に生やした巨大獣エラスモテリウムの幼獣であったという。神話に残るユニコーンは、エラスモテリウムの幼獣であったのではなかろうか…〕
■角馬物語
一角獣との邂逅を夢みる少女の住まうロサンゼルスに、かつて角が生えた馬が競走馬として疾駆していた…と知ったら、マンデリンちゃんはタイムマシーンに乗って会いに行きたい!と言うかもしれない。
本日はそんな角が生えたサラブレッドを紹介したい。
〜角が生えた競走馬。伝説の二角獣馬〜
ベルマー
〔ベルマー:1892年生。父ヴェルビデール(エクリプス系) 母アデル 母父オーストラリアン(マッチェム系)、牡馬、芦毛。米国二冠馬ベルマー。鉄色芦毛のバイコーン。ベルマーは接戦で勝った時などは、「あれは角の差で勝ったのだ」などと言われた。絵画を見ても確かに額に突起が見受けられる〕
角が生えていた競走馬として最も有名かつ最強とされる存在はこの米国二冠馬のベルマーであろう。
しかし、角があるサラブレッドはベルマーのみにあらず。
世界恐慌の時代、ほとんど不休、安息を取らず走り続けていたセン馬の中に角が生えたサラブレッドがいた。
それがマルーニッドである。
マルーニッドはケンタッキー州のとある牧場にてモートン・L・シュワルツ氏が生産。
レキシントンに在住のレオ・J・マークス氏が所有し、主には短距離を得意として走りに走った。
2歳戦もかなり早くから使われ始め(4月にはデビューしていたものと推察される)、NYはベルモントパーク競馬場でデビューを飾るも、早々にして騒乱に巻き込まれることに。
同競馬にて行われた5月28日のレースにて、本命馬のアイディアリストとの激しい叩き合いの末、マルーニッドがインコースから差し返し優勝。しかし、この勝利は失格とされ、降着処分がマルーニッドに下されてしまう。直線にて他馬の進路をカットしてインコースへと潜り込んだ行為と、本命馬に馬体を寄せすぎて何度も激しくぶつかったことがその主因となった。この異議申立を行ったのが、ホーン騎手というのも何かの因縁か。まさか角が生えた馬が、ツノの意味を持つ騎手に厳正に言及されることになろうとは。
この時、騎乗していたギヴ・パトロンズ騎手はこの行為が引き金となったのか?その後のレースはマルーニッドを乗り替わりになっている。この後、7月ウィラメットパースではライト騎手が騎乗して5馬身差ぶっちぎり、あっさりと2,500ドルを手にしたと、当時の新聞(『The Kansas city times』 7月12日号)には記されている。
1934年、マルーニッドにとってはケンタッキーダービーやベルモントSといったビッグレースを目指す3歳シーズン。
この年のクラシックロードには華のある女傑が登場し、民衆を賑わしていた。伝説の?ビッグレッド?、国民的スーパーホースであったマンノウォーの孫娘であるマタハリである。
マンノウォーの孫娘
マタハリ
〔マタハリ:1931年生。父ピーターヘイスティングス 母ウォーウーマン 母父マンノウォー 生涯成績16戦7勝。全米史上最高の名馬マンノウォーの孫娘としてセンセーショナルな活躍を果たしたワンダーガール。馬名の由来は、フランス・パリを中心に活躍したマレー系オランダ人のストリップダンサー(諜報活動をしているとして第一次対戦中に処刑された伝説的ガールダンサー)。牡馬を相手に天賦のスピードを見せつけ、ブリーダーズフューチュリティではディスカヴァリーを相手にラトニアのトラックレコード1:09.5を記録。アーリントンラッシーS、ケンタッキージョッキークラブSを優勝。ケンタッキーダービーを目指すが惜しくも4着惜敗。しかし、イリノイダービー、イリノイオークスと連勝。オーロラダウンズ競馬場では再度牡馬を相手に1:49.16という驚異的レコードを記録。なんと3秒以上もレコードを更新していたという〕
〔馬名の効果もあってか、マンノウォーの孫娘という
血統背景もあってか、このように新聞紙でも
漫画風タッチで記事にされるなど、
大変人気の高い馬であったことが偲ばれる〕
このマタハリとマルーニッドが対戦。2頭の前走はお互いにロックシックスという馬を2馬身半差千切ってきており、どちらが強いのか?当時の紙面を賑わせていた。デトロイト州、フェアグラウンズ競馬場で2頭が顔合わせ、マルーニッドとロックシックスの2頭が大将格となり、マタハリを迎え撃つという形でレースが始まった。牡・セン馬2頭のコンビが先行して飛ばし、マタハリもこれを制すべく電光石火のダッシュを見せるが、2頭の快速は影を潜めず、そのままワンツーフィニッシュ。マタハリは3着に敗れた。これに納得がいかない彼女のオーナーであるチャールズ・T・フィッシャー氏は翌週にも再戦を叩きつけた。
再戦はジュニアリーグハンデキャップ(ダ1,200m)。ロックシックスも再出陣し、またもこの3頭による一騎打ちになるが、レースはマルーニッドがマタハリを上回る快速で銃弾のように飛ぶように逃げ、風を切って駆け抜けていき、1:11.1という当時としては相当に早いタイムで2馬身半差の圧勝。2着はロックシックスが入り、マタハリは3着に敗れた。今回は前回以上にマルーニッドが楽勝してしまったため、流石のフィッシャー氏も黙り込んで退散してしまった。レコードを叩き出しまくり、ケンタッキーダービーでも健闘するような当時の名牝を寄せ付けなかったという観点から見ても、マルーニッドはスプリンターとしてはかなりのレベルの馬であった事が窺い知れてくる。
■電撃の角馬
マルーニッドは1935年、古馬を迎えてからも走りに走り続けた。
まず年頭の2月16日、カリフォルニア州ロサンゼルスへと遠征。
リオ・ホンドH(ダ1,200m)で当時のカリフォルニアで活躍していたオカピと対戦。
オカピは後にカヴァルケードでケンタッキーダービーを勝つことになるイザベル・D・スローン女史の所有馬で、彼女は最も愛した馬がオカピと言う程に入れ込んだ名馬であった。生涯成績で71戦13勝[13-10-13-35]、主な勝ち鞍としてナーラガンセット招待H(ダ1,200m)、フラッシングH、サザンH、ボーウィーフィナーレH、ドボガンH2回、ヒアリーパークナーザリーS、カナルジーS、ブーケSなどのレースを勝ちまくった馬であった。
このレースでマルーニッドは完全アウェーの中でも涼しい顔で快速を飛ばし、先行4番手から徐々にスピードを上乗せし、直線入口で先頭に立ち、2着レッドワゴンに2馬身半差で圧勝。1:10.1という高速タイムのオマケ付きで、オカピには4馬身以上の差をつけてしまっていた。
▲〔カリフォルニア・ロサンゼルス、リオ・ホンドHで快勝するマルーニッド〕
3月28日には、アーリントンダウンズ競馬場の春季開催、オープニングプログラムとなっており、1万人を超えるファンが競馬場へと詰め掛け、声援を送った。目的はマルーニッドであった。
マルーニッドはテキサス州ヒューストンのアーリントンダウンズは特に得意コースとしていたようで、この地においては屈指の「トップスプリンター」かつ「ハンディキャップチャンピオン」として評価され、その名声が定着し、さらには「角が生えている」という噂も手伝って、人から人へとマルーニッドの評判は口伝され、大きな期待が寄せられる特異な存在になりつつあった。
▲〔当時の新聞等に描かれたマルーニッドの誇張した似顔絵イラスト(左)、右は忠実に近く描いたイラスト。常にブリンカーを装着しており、そう素顔や角を誰しもが目撃出来た訳ではなかった〕
この開催のメインイベントレースは、インアーギュラルH(ダ1,200m)で、2,000ドルもの賞金が優勝馬に用意された。マルーニッドの主戦騎手として地位を確立させ、最高の相棒となっていたヒルトン・ラビット・ダブソン騎手は、マルーニッドを駆ってこのメインレースを制し、前年はワイズドーターで制していることから史上初の連覇を成し遂げた騎手となった。
勝ちタイムは1:08.0という当時の時計としては超抜のもので、マルーニッドは2着に3/4馬身差という僅差であったが、内容は圧倒的な楽勝に映るものだった。マルーニッドは当時としては目を見張るような高速タイムを度々マークしていた。1933年の8月22日にはロッキンガムパーク競馬場のダート1,000mにおいて58.08というコースレコードも記録している。
▲〔インアーギュラルHのスタート時の様子。立錐の余地も無い程の大観衆が詰めかけていた事が視認出来る〕
マルーニッドは4月4日のアーリントンダウンズ競馬場の開催にても、ベーカーパース(ダ1,200m)に参戦し勝利。
このレースの賞金は1,000ドルで、この勝利により初となるインアーギュラルHとベーカーパースとの2レースを勝利した唯一の競走馬となった。
つづく4月29日には、ダラスにて4頭立ての競馬で120ポンド(約54kg)を背負い、小さな競馬場行われたフィーチャードH(ダ1,200m)を持ったままの大楽勝。
▲〔電光一閃、紫電一閃の如き、天翔一閃の韋駄天パワーで一気に疾駆して他馬を置き去りするマルーニッド。その強さに果たして額のツノは何らかの関係があったのであろうか…〕
休みなく走り続けるマルーニッド。屈強、頑強無比なその馬体は無限のパワーを宿しているかに見えた。
しかし…従来通り、汽車での移動中の事であった。輸送熱に喘ぎ、そのままマルーニッドが立ち上がることは無かった。
1932年4月から1935年夏にかけて、約3年間の競走生活で61戦。これは1年間に20戦近く走っている計算であり、当時の輸送手段、輸送時間を考えると、マルーニッドに掛けられた負担、ストレスは計り知れないものがある。
死亡の誘因となった一つに、休息無きローテーションと出走数、そして長時間輸送のダメージ蓄積が見出されてしまうのは不可思議な考えや邪推によるものでは無いと思う。
経済動物であるがゆえの宿命…と言ってしまえばそれまでだが…それが答えではあまりにも虚し過ぎる。
世界恐慌と戦争が横たわる時代、明日見えぬ暗漠たる世界の片隅を駆け抜けていった、知る人ぞ知る雷光轟雷の双角獣ホース。
せめて彼への淡い想いを胸に馳せ、いつの日か角を持つ競走馬にまた逢えるよう、流れ星に願掛けをーーー。
空漠なる宇宙(そら)には、冬の大三角形。
その三角形の中、一角獣座が一際瞬いて見えた。
《参考文献・写真イラスト元》
【参考文献】
・『The Brooklyn Daily Eagle』(1932年5月28日版)
・『The Kansas City Times』(1932年7月12日版)
・『St. Louis Globe-Democrat』(1934年8月21日版)
・『The Indianapolis Star』(1934年8月21日版)
・『The Los Angeles Times』(1935年2月17日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年3月29日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年4月5日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年4月30日版)
・Wikipedia「世界恐慌」
・CNNニュース
【写真・イラスト元】
・『The Brooklyn Daily Eagle』(1932年5月28日版)
・『The Kansas City Times』(1932年7月12日版)
・『St. Louis Globe-Democrat』(1934年8月21日版)
・『The Indianapolis Star』(1934年8月21日版)
・『The Los Angeles Times』(1935年2月17日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年3月29日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年4月5日版)
・『Fort Worth Star-Telegram』(1935年4月30日版)
・CNNニュース
・幻獣イラスト
・うにこーる
・一角屋さん
]]>
久米島 【浜川家の『馬の角』】
沖縄県は本島の西に浮かぶ久米島。
その久米島にかつて島主を務められていた浜川氏という地頭代が、
島民のために尽力したことにいたく感銘を受けた当時の
琉球王であった尚敬王(しょうけいおう)より、
殊勲を称える褒美の品として下賜されたものが、
この「馬の角」であったという。
桐箱の中、琉球紅型の絹布で保護され、中には防腐剤が何点か
同封されている様が写真からは伺える。
馬に生えてきたというこの角は、かつては1人あたり200円の
観覧料を払うことで、この角を見ることができたが、
今は浜川家の御子孫の皆様は沖縄本島へ移住され、
「馬の角」もその際に本島へ渡ったと推察される。
すなわち、今はもう、見ることはもう叶わない。
「馬の角」を管理していたという、おばぁが存命中は、
訪れると謂れなどを録音されたカセットテープを流してくれ、
色々と説明してくれたのだという。
〔久米島は沖縄本島から西に約100kmの位置に浮かぶ、小さな島。那覇から飛行機でわずか35分の久米島は、球美(くみ)の島とも呼ばれ、美しい自然と独特の文化が人々を魅了してやまない。沖縄の中でも群を抜く美しさの「ハテの浜」は、まさに楽園そのもの。海以外にも奥武島の畳石、ミーフガーなどの景勝地もあり多彩な魅力に溢れている。馬もいる。久米島馬牧場では体験乗馬も可能。与那国馬や宮古馬の血を引くポニーサイズの馬たちに乗って砂浜を散策出来る。(私は沖縄に行く度に立ち寄らせて頂いてお世話になっております)同牧場のシンノスケ号は久米島の誇るレジェンドホース。復活した琉球競馬で優勝の経験を持つチャンピオンである〕
▲〔「馬の角の家」こと濱川家。立派な看板は立てども、ここに「馬の角」はもうない〕
〔『馬の角』を浜川氏へ賜与したと伝えられる当時の琉球王・尚敬王。
多くの改革を行った。また教育や文化振興に力を入れ、琉球を
文化大国へ導くなどその手腕は近世の名君とうたわれた。〕
【『馬の角』が琉球へと渡った経緯】
尚敬王が琉球王朝の王位についていたのは1713年〜1751年であるから、
この期間内に浜川家へと『馬の角』が下賜された事は間違いない。
当時の琉球王国は、中国と活発に貿易を行なっていた。
中国の明(ミン)は、自国を中心とした国際秩序の構築を目指し、朝貢して
忠誠を誓う国に対してのみ交易を認めていた。
これを「冊封体制」といい、このシステムの輪に加わった
琉球は、優れた中国商品を大量に輸入して、それらを近隣諸国へ
輸出すると同時に中国へ持ち込むための商品を日本や東南アジアから
調達するなど、東アジアの中継貿易国として重要な役割を果たした。
記録によれば、明代270年間の歴史の中、琉球の貿易回数は
なんと171回。2位がベトナムの89回なのだから、特別な貿易国だった
事が分かる。
琉球からは馬や硫黄、日本産の刀剣、東南アジア産の胡椒や
象牙などを送っているが、『馬の角』という珍重品を
贈ったということは、交易で最大貢献を示し、
多くの優れた馬を中国へ送り続けたことに対しての
謝意の証の品としての一環ではなかったのではなかろうか。
【参考文献・写真元】
・『南島研究』(南島研究会編 南島研究会, 1965.1-)
・『久米島「琉歌・そぞろ歩き」』(宮城鷹夫 著 プロジェクト・オーガン出版局, 1982.10)
・うみねこ博物館『チュラウインドメモリー・.°・゜.球美島馬探訪記・。.゜・。°』
・Wikipedia『琉球貿易』
・Wikipedia『尚敬王』
・美ら島沖縄2018年9月
]]>
Blue Hawaii
Rainbow Memory
〜ハワイ競馬の記録と記憶〜
ハワイに競馬があったこと ご存じですか?
カメハメハ大王は競馬を愛しており、かつて彼の地では競馬が開催されていました。
太平洋に浮かぶ楽園には、競馬場が複数箇所あり、
そこでハワイ産の名馬が疾走し、晩年には日本人騎手、日本人馬主、
調教師も、日本人が主力となって活躍していたのです。
今回、私がこの記録書に記すのは、太陽が燦々と照り付け、
白い砂浜へ寄せては返す漣とビッグウェーブ、そして海から、
山から、街へと架かる虹のシンフォニーが組み合わされたアンサンブルが
織り成される…天国のようなこの島で紡がれていた、人と馬とが緤いだ絆の
記録と記録の物語・・・・
ハワイの競馬
ハワイ州における競馬の歴史は意外にも古い。
ハワイにおいて初めて馬が渡ったのは、1803年6月21日。
ウィリアム シェイラー船長のアメリカ船レリアバード号が
カメハメハ1世への贈り物であった2頭の牝馬と1頭の種牡馬を
乗せてケアラケクア湾に到着したのは、ハワイの馬の
歴史において重要な1日であった。
ハワイで最初の競馬がいつ行われたかははっきりとしていない。
1858年3月6日にポリネシア人により行われたレースが
ハワイ最古のものとされる。
カメハメハ5世は、偉大なるカメハメハ1世を称えるため、
1871年12月11日に競馬を催し、盛大に祝い、その翌年、
1872年6月11日の誕生日に祝賀会を開催した際にも競馬を催した。
その日は『カメハメハの日』として、カピオラニパークでの競馬が
祝祭として催され、祝福のムードに島は包まれた。
ジョッキークラブの立ち上げは1885年。
キャプテン・トリップ、アラン・ハーバート、F.S.プラット、キャプテン・マキーらの4名が立ち上げたとされる。
【ハワイ競馬の?メッカ(聖地)?カピオラニパーク】
▲〔カピオラニ競馬場。当時は大衆娯楽が乏しい時代で、競馬は大変な賑わいを見せた〕
カピオラニパーク競馬場は1883 年に開場し、長きに渡りハワイ競馬の社交場として中心地となっていた。
グランドスタンドとクラブハウスを擁し、ハワイ競馬史上において最も栄華を誇った競馬場の一つであった。
娯楽が増え、競馬への興味関心が薄れるまで、島で最たるホットスポットとして、人々の社交場としての役割を担った。
カピオラニ競馬場は 1920年代後期に開催終焉を迎え、ハワイにおける土着競馬は、1950年代までに完全に消滅してしまった。
現在、競馬は、ビッグアイランドのパーカーランチで毎年開催される7月4日開催、もしくは時折開催される一部地域でのロデオでのみ見ることが出来るのみとなっている。
▲〔カピオラニ競馬場の全体マップ。見取り図〕
◉最大のビッグレース?ロシタチャレンジカップ?
ハワイ競馬における最大のレースとされたのが、
ロシタカップ(ダ1,600m)である。
その起源を紐解くと、メイディーという馬とロシータという2頭のマッチレースであったとされる。
2頭のうち前者は、マウイ島のラハイナに住むハーリーファートン氏の持ち馬だった。
どうやら、ロシータという名牝に挑戦したことがレース名として残り、それが定着して大きなレースへと成長を遂げていったようだ。
そのロシータ号は、ハリー・アグニュー氏の持ち馬だったそうで、
対戦の賞金には500ドル(当時のレートで1,000万円近く)の
ハワイ競馬としては破格の賞金が用意されたという。
このレースは以降、ハワイアンターフクラブにおける
ブルーリボン(最高栄誉)としてハワイの競馬人にとっての目標となったのであった。
▲〔カピオラニ競馬場のスタンドから声援を送りレースを見つめる人々。英国、欧州競馬に同じく、競馬場は社交場としての役割も担っていたことが、人々のパーティーに出席するような出立ちの服装からも伺い知れる〕
▲〔現在のハワイ、パーカーランチにて7月4日に行われる競馬大会。〕
カラカウア王はギャンブルを愛好し、とりわけ競馬を深愛した。
1872年にはハワイアンジョッキークラブの設立を支援しており、
カピオラニパーク以外での競馬場設立を助勢する構想であった。
カピオラニパーク競馬場は 1926年に完全閉鎖されるに至るが、
これはハワイで唯一の競馬場ではなかった。
ハワイ競馬の歴史を紐解くと、他にも5ヶ所の競馬場の存在を確認出来る。
◆ワイポウリ競馬場
ゼファナイア・スポルディング大佐が、1880年頃にカウアイ島のワイポウリに建設した競馬場。
彼のポロ選手の息子、ジェームズ・スポルディングは、1915年頃に競馬場内にポロ競技場を設け、ワイポウリ競馬場での重要な1日となった。午前中は素晴らしいプログラムが用意された競馬が催され、午後には、プロチームによるポロの試合が開催された。
◆ココ・オ・ナモク競馬場
1800年代後半から1900年代前半にかけて、現在のカアナパリビーチホテルから現在のウェスティンマウイリゾートまでを舞台として、行われた競馬がカアナパリビーチ競馬であり、ココ・オ・ナモク競馬場と呼ばれた。 この地における競馬は1918年に終焉の幕が降ろされた。
◆カウンティフェア競馬場
マウイカウンティフェア&ホースレーシングアソシエーションは、カフルイのプウネネアベニューに恒久的なフェアグラウンドを開発。この開発地に設けられた競馬場がカウンティフェア競馬場であった。最初のカウンティフェア開催は1918年に催された。
◆ホオルルパーク競馬場
ホノルルに次ぐハワイ第二の都市と言われる、ハワイ島の政治・産業の中心地ヒロ。
ダウンタウンなど、古き良き情緒と趣を残すオールドタウンのあるこの街にあった競馬場がホオルルパーク競馬場である。
1903年の独立記念日が競馬場オープンデーとされている。
コハラ・ヒロ鉄道が開通したことを受け、大変な盛況ぶりを誇ったという。
▲〔1906年に行われた競馬の様子。このレースでは、写真最内の馬が勝ったという〕
▲〔現在のヒロの街並み。ヒロの名前の由来は様々な諸説あり、カメハメハ大王がこの地をカヌーで訪れ、船をティーの葉を編んでロープを作り、係留したことからハワイ語で「編む」という意味の「HILO」と、大王が名付けたという説、「ポリネシアからやってきた伝説の航海士の名前」という説や、「広島からの移民が大勢いたから」という説まである〕
◆カイルア競馬場
1939年、オアフジョッキークラブがウィンドワード側に創設させた競馬場がカイルア競馬場であった。
米本土ではシービスケットとウォーアドミラルが本土のスポーツ紙の見出しを飾っていた時代、真新しいカイルア競馬場での10レースには、6,000人以上のファンが集まったという。(Hogue, MidWeek) 伝えられるところによると、そこでのレースは 1952年まで続いた。カピオラニ競馬場以後では最も栄え、オアフ島に競馬の熱気を復活させたハワイ競馬史上に残る名競馬場であり、多くのビッグレース、パイナップルダービーなどのビッグレースが行われた。
〜ハワイ伝説の名馬たち〜
ハワイ競馬は大きく区分を分けると、3つのスパンに区分けできると考える。
最古期となるのが1800年初期からカメハメハ大王が催す競馬大会の?黎明期?。
ジョッキークラブ立ち上げから、カピオラニ競馬場を中心とする1920年手前までにおける?最盛期?。
そして、1930年後期から1950年代までにおける終焉期。
これら3つの時代に分けて、ハワイ競馬における歴史的名馬たちを語らせて頂こう。
ウクレレの優美と甘美が織りなすハワイアンメロディーに乗せて…
ブルーハワイでも片手に、心模様をかつてのハワイアンホースメモリーへと心域展開させて頂ければ思う。
🌺黎明期〜最盛期の名馬たち🌴
ハワイアンジョッキークラブ立ち上げ後、
多くのレースは障害レース、繋駕速歩競走が
主流であったようである。
障害戦と言ってもこの時代の障害戦は1,600mのマイル戦に6つの飛越障害を設けた、小規模なものであったようであった。
このレースで無敵を誇った、記録に残るもので
最古の名馬と考えられるのがジミー号である。
ジミー号は栗毛のセン馬で、ハワイ島生まれの馬であった。
ジェームス・I・ドウセット氏が所有した。長らく天下を誇り、
ベストジャンパーとして数年間活躍し続けていたが、
ハワイ産の若い馬たちに追いやられ行った。
▲〔ハワイで行われていた障害競争のシーン〕
その後、程なくして現れた名馬はビリーシーという馬であった。
ウィリム・H・コーンウェルズ少佐の持ち馬で、
芦毛のポニーサイズしかない小さな馬だったという。
しかし、競走に適した走法を見せ、どんな距離でもこなした馬であったという。
これぞ、ハワイ版リアル・マキバオーと言っていいだろう。
父ウォーターフォードは歴としたサラブレッドであり、エクリプス〜レギュラス〜エクスペディション…
と続く系統の馬で、1870年生まれ。1880年にハワイ島へと輸入され、種牡馬として活躍した。
ハワイ競馬における繋駕速歩競走の最古のレジェンドホースは、
レディフッカーである。鹿毛の美しい牝馬であり、800m走っただけで、後続を何メーターも離して圧勝を続けていたという。
しかし、その競走能力の高さゆえか、故障してしまい、
重傷を負ってワイキキの繋養先の地で生涯を閉じる。
そうして次に登場する2大名馬こそが、古のハワイ競馬のスーパーレジェンドホースである。
遙かなる昔日の日のハワイ競馬の最強馬、伝説の名馬を
語る上で、絶対に外せない2大名馬が
アマリノとアンティドーテである。
ハワイ伝説の最強馬
?Grandest Racer?
アマリノ
〔アマリノ:1892年生。父セナタースタンフォード、?Grandest Racer?と称えられたハワイ競馬史に残る偉大な名馬。ロシータチャレンジカップなど、当時のあらゆるレースを勝ちまくった。カウアイ島のケアリアで育成され、スポルディング大佐がオーナーであった。ロシータチャレンジカップでは、レコードタイムとなる1:45.05で圧勝したと言われているが、この時、ストップウォッチで計測していたファンの中では1:44.44を記録していたという。21歳まで馬生を全うし、ハワイの競馬ファンのヒーロー、アイドル的存在であり続けた〕
このアマリノの好敵手として、ハワイ競馬の究極のレジェンドホースとして屹立する存在。
それが常夏の楽園に君臨した聖白駒、アンチドーテである。
絶大な人気を博した名馬で、アマリノと双璧を成すハワイ競馬伝説の歴史的名馬である。
?King of the Turf?
アンティドーテ
〔アンティドーテ:1890年生。父セナタースタンフォード、母ポイズン。セン馬。?King of the Turf?「競馬場の王様」と言われた、ハワイ競馬史上最強馬の1頭。ハワイで生まれ育った土着のサラブレッドとしては、アマリノと並ぶ偉大な名馬であり、孤高の存在。人気ではアマリノを完全に上回るものがあり、?Great favorite?(大本命)と評価を受けること多々であった。いかなる距離であっても颯爽とこなし、重い斤量を背負ってもほとんどのレースで大きく引き離してリードをとっての勝利を積み重ねた。アマリノの最大のライバルであり、好敵手として名勝負を何度も何十回も繰り返し、ハワイの競馬ファンを魅惑した。アマリノとアンティドーテのレースは?One real horse race?(真の競馬)と称賛され、大いに島民たちを湧かせた。アンティドーテとアマリノの2頭の長期政権は長きに渡り、2頭の英雄がハワイ競馬を支配し続けた。アンティドーテはアマリノの引退後も、競馬を続け、デビューした時から数えて十数年以上もの間競走を続けた。そんな無敵の名馬も17歳でラストランを迎える。このレースはヒロのホオルル競馬場での1戦であったが、1マイル戦でなんと145ポンド(約65kg〜66kg)もの酷量を背負い、年下である若い馬を相手に大きな斤量差があったに関わらず圧勝で有終の美を飾って見せたのであった。この時の勝ちタイムは1:54.0であった。ダート1マイル戦のタイムとして見ると、昔日の感がある。現代競馬で言えば、1分35秒程が平均になるから一見「遅い」「レベルは??」と懐疑的になるであろうが、同じ時代を生きた日本の当時の明治期最強馬メルボルン2世(第二メルボルン)の勝ちタイムと比較すると、いかにアンティドーテやアマリノ、そして後述で紹介するサティスファックスが化け物であるかが分かる。メルボルン2世は、ほぼ同じ時代、芝の1マイル戦では1分48秒〜2分掛けて走っている。当時を生きた日本最強外国産馬のさらに上を行く怪物たちが、日本に馴染み深い楽園の島にいたのである。これを現在の整備された馬場、斤量を現代馬と同じような53kg〜58kg、さらには整えられた装備、ケアを受けた上で走らせたらどうなるか?相当にタイムを詰めてくる事は間違いなかろう。アンティドーテは1916年9月10日、カパパラ牧場にて多くの関係者とファンに看取られながら26歳の生涯を閉じた。〕
〔常夏の楽園ハワイに君臨した白き伝説の名馬。沖縄にヒコーキ、カリブ海プエルトリコにネヴァード、地中海の島国キプロスにツイストアンドシャウトが君臨したように、煌めく美しき海と珊瑚、白い砂浜が似合う島には白き伝説の名馬がよく似合う〕
「学生時代に海猫さんの助手をしていた美空です!海猫さんから「ヒコーキやツイストアンドシャウトみたいな小さな島に君臨した白い最強馬をまた見つけたぞ!」って興奮気味に連絡あって…アティドーテ号にはびっくりしました!大昔のハワイにこんなすごい馬がいたなんて…しっかし、よく海猫さんも見つけますよね…そう思いませんか??『解毒剤』の意味がある馬名みたいですね。お母さんがポイズンだからですね。」
二大巨頭の次にハワイ競馬を湧かしたのは、1頭の牝馬であった。
エジプシャンプリンセスはほぼ無敗を誇った馬で、全てのレースを勝った、負けたことがないと当時のハワイの新聞各紙でも報じられており、途轍もなく強く、レースを勝ちまくったことは間違いない牝馬である。
負けた時は信じられない光景と新聞にも綴られていることから、
ハワイ競馬史においても最も敗戦数の少ない名馬と言えるかもしれない。
▲〔1922年6月25日の、ホオルルパーク競馬場のイベントで子供を乗せた際のエジプシャンプリンセス〕
この時代、1900年代後期から1910年代において繋駕速歩競走の王者として君臨したのが、ディネルボ号であった。
ディネルボはエジプシャンプリンセスを所有したオウルーク氏が
オーナーで、長年に渡りハワイの繋駕速歩競走で王者として君臨し続けた名馬であった。
エローラ、ウェルカムボーイといった当時を生きた強豪ペーサー達を何度も打ち負かした。
1917年6月17日のカピオラニ競馬場でのレースでは、エローラを相手に、なんと100m以上エローラの後ろからスタートするというハンデが設けられたほど。エローラは当時の繋駕速歩競走で最強レベルの牝馬であり、その馬を相手に100mのハンデも与えられてしまう程強かったということである。
それもそのはず…なんと対戦相手を26秒差も付けて勝ったこともあるのである!
?Grand pacer??Great pacer?と称えられていたことからも
彼の崇高性は相当なものであったと推察される。
▲〔ハワイで行われていた繋駕速歩競走の様子。写真一番右端の馬が、ディネルボのライバルでもあった女王エローナ号である〕
当時のポロ競技における名馬も紹介しておきたい。
ヘレン号は、ハワイポロ競技における至高至宝の存在であり、
究極のポロ競技における名馬であった。
▲〔ヘレン号。ホノルルの新聞紙などでは、当時の評論家、記者らが「おそらくはポロ競技において世界で最も賢く、偉大なポロホース」と讃嘆、激賛を送った名馬である。馬の手綱を持って、ヘレンへと信頼の眼差しを送るは、ピーター・ハノン氏。ハワイのポロ競技においてポロホースたちを束ね、調教した偉大なホースマンの1人である〕
この時代、競馬とポロ、2足の草鞋を履いていた名馬もいた。
それが、インディゴ号である。
▲〔インディゴ号。ヒロのホオルルパーク競馬場にて〕
インディゴは、小柄な鹿毛のセン馬であった。
ハワイ土着の馬であり、数年間はポロ競技で
活躍してきた馬であった。
この1910年代手前の時期は、絶対王者のアンティドーテ、絶対女王エジプシャンプリンセスの2頭が去った後で、群雄割拠の時代。
オネオンタ、シーバド、ウンプクアなどの強豪が犇めくも、ハワイ競馬に革命的女傑が登場し、まとめてそれらのスター候補たちは一掃、抹消されてしまうこととなる。
その馬こそ、サティスファックスである。
?Revolution Queen?
サティスファックス
▲〔サティスファックス号とオーナーのキャプテンREDホイル氏。打ち立てたレコードは記録に散見されるものだけでも5つ以上。1開催で3つものハワイアンレコードを打ち立てた時は、レースの賞金とは別に150ドルがオーナーへと贈呈されたという〕
サティスファックスは、まさに流星の如きに現れたハワイアンスーパーホース。日本競馬史上に現れた名馬に準えるならアーモンドアイのような存在。
この時代にいた全ての最強クラスの馬を一瞬で葬った。
なんと、1週間のうちでハワイアンレコードを3つも打ちたてて快勝、圧勝してしまったのである。
コプラ号が持っていた800mのレコードを1秒02も更新。47秒01のレコード。
1,200mでもレコードを記録。1:13.01のレコードタイム。
さらには1,600mでも1:40.0という驚愕のタイムをマーク。
これが1916年の6月9日の開催のことで、1週間で3つのレコードを記録した。
この後、9月の開催でもレコードを打ち立てている。
とんでもない革命的な女帝ホースであった。
いかにこの記録されたタイムが凄まじいものであるかは、同年代の米国一流馬と比較することで如実となる。
▲〔1916年6月開催時に行われたオネオンタマイル(ダ1,600m)のレース後の掲示板。サティス主戦のキャロル騎手も「なんて牝馬だ!」と小峠並みの呆れぶりと、承太郎並みに「やれやれだぜ…」感漂うアンニュイな表情に思わず苦笑してしまう。レース名と同じ名前の競合馬が出走も、完全に子供扱いで3馬身差の圧勝。1分40秒フラット衝撃は、アーモンドアイの2,400m世界レコード更新時の衝撃に似た雰囲気であったことだろう。この日の競馬場には約3,500名もの大観衆が3,500名もの大観衆が詰めかけていたと言う。〕
【同年の米国一流馬タイム】
ダート1,200m→1:13.20(キャンプファイヤー)
ダート1,600m→1:38.2(ザフィン)
なお、1,200mはサラトガスペシャル(現GI)、ダート1,600mはメトロポリタンH(現GI)という超一流レースの勝ち時計。
この比較したレースの1年前後の時計や、この時代の米国本土の歴史的名馬、伝説的名馬たちとのタイム比較でもほとんど遜色ないのである。
例えば、真・全米史上最強牝馬候補にも上げらる程の名牝、リグレットや98戦39勝の戦績を残したローマー。
さらにはあの伝説のビッグレッド・マンノウォーもダート1,200mを1:13.0程のタイムで走っている他、
1917年や1918年のサラトガスペシャルを見ると、サティスファックスのタイムより1秒2秒以上も
遅い時計が記録されているのである。
また1,600mにおいても同様で、1906年のメトロポリタンHではあの世紀の名馬と謳われたシスオンバイでも1:41.60も掛かっている。やはり、このサティスファックスという牝馬、只者ではなかったのである。
実はとんでもない名馬が、ハワイにいたのかもしれない。
?Queen of Turf?
カワイラニ
〔カワイラニ:1916年生まれ。父レイヒンドゥー 母ラベラ、2歳時から無敵のスピードを誇り、7連勝。爆発的スピードと瞬発力で?ターフの女王?と崇愛された。4ハロンで49秒1という尋常ではないタイムで疾駆していた。カピオラニ競馬場が送った最後の名牝である〕
?ハワイ伝説のターフキング
“MIKADO”「Yosida」とは何者なのか??
この馬はレイレナという牝馬で、馬主は?帝?ヨシダという名前の日本人が所有していたという。
ハワイ競馬における王様のような存在であったようだが…
社台グループの吉田氏とは何らかの血縁関係があったのだろうか?
もし関係がなくとも、?Yoshida?という名前は、やはり競馬における頂点に君臨するためのパワーネームなのであろうか…
これに関しては引き続き調査を続け、何らかの情報が確認でき次第、追って報告したい。
🌺カピオラニ廃場後〜終焉期の名馬たち🌴
カピオラニパーク競馬場に斜陽が差して以降、
約13年近くの空白期を超えてカイルア競馬場が
創設を見ることとなり、カイルア競馬はカピオラニ競馬の
全盛期を彷彿とさせる程の盛り上がりを見せる。
そこでは、日系移民のホースマンたちが躍動していた。
ハワイにたどり着いた初めての西洋人は英国人のジェームズ・クックで、1778年。
カメハメハ1世(大王)がハワイ王国を建国したのは1795年。
そして日本人のハワイへの移民が始まったのが1885年。
ハワイ王国と日本政府が公認する集団労働移民「官約移民」がスタートを切った年である。
彼らは3年間の出稼ぎ労働者で、契約が終わると日本に戻る者がいる一方、ハワイに定住する者も少なくなかった。
時代が進むと、日本人移民の子孫が増加。
最盛期の1930年代には、ハワイ全体で日本人・日系人が占める割合が37.9%に到達。
3人に1人を超えるまで、日本人・日系人の存在感は高まりを見せていった。
ハワイ競馬のシーンにおいても、日本人の台頭が見られるようになるのは、そうした歴史的背景からも必然と言えたものであったのかもしれない。
〔ポロ競技馬であるプイイリ号の調教を付けるイシカワアキラ騎手。F.H.バルドウィン女史の所有馬。1941年5月2日。〕
〔イカイカ:1935年生まれ。セン馬で、巨体を持て余した名馬。オアフ島のフランク・ヴィヴェリロス氏の持ち馬。ハワイ競馬最晩年を彩った1頭であり、最後の最強馬にして最強の女帝アリスバードに力で唯一対抗出来た存在であった〕
〔アリスバード号を所有したF.H.バルドウィン女史。アキラ・イシカワ騎手、そしてケンジ・イケダ騎手ら日本人ホースマンらに絶大な信頼を置き、日本人チームの馬を扱うレベルの高い制御力、そして何より馬を何よりも大切に扱う心に感銘を受けて2名を主戦として使い続けた。〕
ハワイ最後の名馬
?ラスト・エンプレス?
アリスバード
〔アリスバード:1932年生。父バード(ヒムヤー系)母アリスフォスター 母父パトード(セントサイモン系)、鹿毛、牝馬、生涯成績129戦9勝[9-17-18-85]。6年間競走生活を続けた。米国で競走した後、ハワイへと渡った。ドミノの快速を受け継ぐ牝馬であったが、行くあてがなくF.H.バルドウィン女史が引き取ってハワイの土を踏むこととなった。カイルア競馬場へ詰めかけた6,000人から7,000人の大観衆の前でその力を満天下に示して見せた。〕
《アリスバード血統表》
〔圧勝のアリスバード。1940年9月2日、カイルア競馬場にて7,000名を超える観衆を前にしてのパフォーマンス〕
〔アキラ・イシカワ騎手とアリスバード〕
【ハワイ名馬の遷移早見一覧】
年代 | 平地競走 |
障害競走 ポロ競技 繋駕速歩競走 |
黎明期 1880〜90年代 |
ビリーシー |
ジミー(障) レディフッカー(繋) |
カピオラニ全盛期 1900年代〜1910年代 |
アマリノ アンティドーテ |
ディネルボ(繋) |
ハワイ競馬最興隆期 1910年代中期〜1920年代 |
エジプシャンプリンセス、インディゴ、オネオンタ、シーバド、ウンプクア、サティスファックス、カワイラニ |
ディネルボ(繋) エローナ(繋) ヘレン(ポ) |
カイルア競馬全盛期〜ハワイ競馬終焉 1940年代 |
イカイカ、アリスバード |
世界各地からさまざまな人が集まり、独特の社会が形成されていったハワイに激震が走るーーー
1941年12月7日(現地時間)。
日本軍による真珠湾奇襲攻撃であった。
戒厳令下におかれたハワイ。一部の日本人・日系人が拘束・拘留される一方で、全ての住民はアメリカ人としての生き方を求められることとなった。
いつまでも続くかに見えた楽園競馬は、突然として消滅を強制させられてしまったのである。
日本人ホーマンのみならず、日本からの移民やその子孫は、
さまざまな矛盾に苦しみながら、決断を強いられていった。
戦火のため、競馬は中止、そして競馬は、ハワイの地を疾駆した名馬たちも、競馬を愛したファンも、日本人騎手たちその姿を潜め、楽園の地から消失してしまった。
時は流れ…戦乱の世ははるか空の彼方。
命を謳歌できる時代を象徴するかのような、
澄んだブルースカイがどこまでも広がる楽園の
ラグーンに寄せては返す漣。
戦争の痛ましいキヲクも、移民への排他的行為・思想も、
人々の記憶から忘却曲線の一途を辿る中…
ハワイ競馬の輝かしきメモリー…アマリノ、アンティドーテ、ディネルボ、サティスファックス、アリスバード…
そして日本人ホースマンたち…
今や彼らの事を知る者は皆無に等しい。
忘れてはいけない、忘れられて欲しくない。
そんな大切な、大事な「キロクとキオク」が、
常夏の楽園ハワイには確かにあったのである。
【参考文献・写真イラスト元】
《参考文献》
・『Honolulu Star-Bulletin』(Tue, Oct 10, 1916 · Page 10)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Jun 11, 1917 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Jun 18, 1917 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Sep 02, 1918 · Page 5)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Sat, Jun 07, 1919 · Page 30)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Thu, Aug 28, 1919 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Tue, Sep 03, 1940 · Page 15)
・『The Honolulu Advertiser』(Wed, Jun 15, 1898 · Page 6)
・『The Honolulu Advertiser』(Thu, Jun 12, 1890 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, Jan 06, 1906 · Page 7)
・『The Honolulu Advertiser』(Tue, Dec 29, 1908 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, May 06, 1916 · Page 12)
・『The Honolulu Advertiser』(Wed, Jun 13, 1917 · Page 12)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, Jun 16, 1917 · Page 14)
・『The Honolulu Advertiser』(Thu, Aug 29, 1918 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Tue, Sep 03, 1940 · Page 1)
・『The Honolulu Advertiser』(Fri, Aug 03, 1945 · Page 6)
・『Keeping Score「When The Ponies Raced In Kailua」』By Senator Bob Hogue(Wednesday - September 07, 2005)
・『Hawaiian Time Machine VIEWS OF HAWAII THROUGH THE DISTORTING LENS OF TIME 〜When Horse Racing Fans Flocked to Kapiolani Park〜』(Posted 15th August 2012 by Island Expat)
・『Images of Old Hawaii ?Sport of Kings, the King of Sports?』(2012-2021 Peter T Young)
・『Ho'okuleana“Kapi‘olani Park”』(SATURDAY, AUGUST 11, 2012 Peter T Young)
・IMレポート「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」
・Wikipedia『真珠湾攻撃』
・Wikipedia『Metropolitan H』
・Wikipedia『Saratoga special』
・『優駿たちの蹄跡』(マンノウォー、リグレット)
《写真・イラスト》
・『Honolulu Star-Bulletin』(Tue, Oct 10, 1916 · Page 10)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Jun 11, 1917 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Jun 18, 1917 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Mon, Sep 02, 1918 · Page 5)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Sat, Jun 07, 1919 · Page 30)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Thu, Aug 28, 1919 · Page 8)
・『Honolulu Star-Bulletin』(Tue, Sep 03, 1940 · Page 15)
・『The Honolulu Advertiser』(Wed, Jun 15, 1898 · Page 6)
・『The Honolulu Advertiser』(Thu, Jun 12, 1890 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, Jan 06, 1906 · Page 7)
・『The Honolulu Advertiser』(Tue, Dec 29, 1908 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, May 06, 1916 · Page 12)
・『The Honolulu Advertiser』(Wed, Jun 13, 1917 · Page 12)
・『The Honolulu Advertiser』(Sat, Jun 16, 1917 · Page 14)
・『The Honolulu Advertiser』(Thu, Aug 29, 1918 · Page 3)
・『The Honolulu Advertiser』(Tue, Sep 03, 1940 · Page 1)
・『The Honolulu Advertiser』(Fri, Aug 03, 1945 · Page 6)
【Girl's Rule 。゚競馬cafe&bar】
競馬大好きな店長さんが立ち上げられた
競馬コンセプトのカフェ&バー。
店内はお店のお客様からプレゼントされた名馬の写真や
ウマ娘グッズ、馬のぬいぐるみが所狭しと並んでいます。
中には、ブラックスピネルの本物ゼッケンも飾られています。
これは一口オーナーの方が好意でお店にプレゼントしてくれたものなんですって。
可愛いくて接客抜群の女の子たちが楽しく会話してくれて
あっという間に時間が過ぎます😅
以前はミニスカポリスのコスチュームだったらしいですが、
店長が変わって一新❗️2021年の12月から競馬コンカフェに
生まれ変わったそうです。
〔ブラックスピネルの一口オーナーだった方も常連なんだとか…マカヒキ、サトノダイヤモンド、ディーマジェ、シルバーステートの世代の馬でしたねぇ…この世代のクラシックはめちゃくちゃレベル高くて面白かった😆〕
【お店は不忍池近く】
お店のある場所は、かつて不忍池競馬が行われた上野、
不忍池公園近く。
はるかいにしえの時代、明治初期の日本最強馬であった英(ハナブサ)や岩川、39戦28勝の戦績を残した墨染が駆けていた競馬場です。
忘却の彼方へ失われてしまった時代へと思いを馳せつつ、お酒を飲んで
競馬以外のお話でも楽しく女の子とお話が楽しめちゃうバーなんです✨
〔伊藤博文や西郷隆盛の弟で日本人馬主にして日本人騎乗勝利
第一号の西郷従道の所有馬もこの不忍池競馬場で走っていた〕
【料金体系とシステム】
料金は60分で男性3,000円。
女性が1,500円。
以降、延長30分毎に2,000円(男性)、1,500円(女性)。
女性に優しいです😍
特にウマ娘が好きな女性の方、競馬好きだけど
同性の馬友達がいない…なんて方は、
騙されたと思って行ってみて欲しいです。
絶対楽しい会話が出来ること間違いなし❗️です。
※この写真のみお店のtwitterよりお借りしました。
接客がすごいなと思った点は、ソフトドリンクしか飲めなくても
雰囲気を壊すことなく、楽しませてくれる点と、延長前に必ず教えてくれる点。
「奥さんには23時までには帰る予定と伝えてるんです」と
会話の中で言った何気ない一言をしっかり覚えてくれていて、
電車で帰ることも逆算想定して、退店ベスト時間にさりげなく
声を掛けてくれた点。
お店である以上、儲けを追求すべきですが…
また来てくれるお客様を大切に!という
お店の気概が感じれた一面でございました😊✨
仕事で疲れたなぁ〜って時…
競馬のこと、ウマ娘の話、
誰かとしたいなぁ〜って時…
そんな時にこそ、ここ❗️です👍
ぜひぜひ行ってみてくださぁ〜ーい❗️😆
【店舗データ&アクセス】
〜🌙月明かりの下で🌕〜
ーいにしえの南アフリカ競馬・三幻神の1頭。
史上最もハンデ差を与えて走った歴史的名馬ー
父 クロスボウ(ベイロナルド系)
母 オールムーンシャイン
母父 グレートレックス(エクリプス系)
生年:1932年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:南アフリカ共和国
生涯成績:29戦12勝[12-6-4-7]
主な勝ち鞍:南アフリカダービー(芝2,400m)、メトロポリタンH(芝1,800m、J&Bメット。現ケープタウンメット)2回、サバーバンH連覇(芝1,600m)、ロスミードH(芝2,000m)、マーチャンツH(芝1,200m)、トップディヴィジョンH(芝1,200m)※斤量147ポンド(約66.6kg)で勝利、トップディヴィジョンH(芝1,800m)※斤量148ポンド(約67kg)で勝利など
【血統表】
■南アフリカ古の名馬たち
南アフリカ共和国における競馬の濫觴は遥か古く、1797年にまで遡及されると言われている。
同地にて結成された競馬クラブにより施行開始され、1844年にダーバンで行われた最初の競馬はグレイヴィル競馬場付近であったと言われている。
この時の主催者はナタル・ターフクラブであったが、1884年に市議会から提供された現競馬場敷地をグランドスタンド・カンパニー社が買い取り、1897年、そのリース権はダーバン・ターフクラブに渡ったとされ、現在はゴールドサークル・レーシング社によってグレイヴィル競馬場は経営されている。
〔最初期のグレイヴィル競馬場〕
このグレイヴィル競馬場は、南アフリカ競馬黎明の主戦場であり、戦時中においては兵員を無料で招待した慣わしがあったのだという。この慣習はなんと現在まで続いており、特別な開催日を除いて兵士たちの入場料は無料となっている。
また、1996年からは南アフリカで始めてフラッドライト(投光照明)を導入し平日のナイトレースも行われるようになり、若者の人気を博し始めた。
この南アフリカ炎熱の大地に燃え滾る、万民の心を鼓舞した伝説の名馬たちを紹介しよう。
南アフリカ競馬最初期に君臨した絶大な存在と言えば、パンフレット号である。
その神威的かつ幻想的な強さはアフリカ大陸における史上最高の存在と言っても過言では無い程。
アフリカ大陸究極最強馬
パンフレット
〔1913年生まれ。与えられたレーティング145ポンドは世紀の名馬シーバードと並ぶ史上屈指の超絶的高評価。シーコテージをも超える真のアフリカ大陸史上最強馬。〕
〔短距離から長距離まで、酷量な斤量を背負っても問題にもせず圧勝を続けた。写真は競走生活晩年、1920年7月3日のダーバンジュライ。手綱を抑えられ、持ったままゴールラインを通過している〕
このパンフレットを原点にして頂点とし、1930年代までに降誕した名馬の中でも群を抜いていた3頭がいた。
ディグニタリー、レーニン、そして本項で紹介するムーンリットの3頭がそれである。
南アフリカ競馬の揺籃の時代。この3頭の凄まじきまでの強さと絶対的なカリスマ性から、私は彼らを南アフリカの?三幻神名馬?と呼んでいる。
三幻神名馬 ?
ディグニタリー
〔1918年生。父グレートレックス(タッチストン系) 母ディグニティー 母父マイナーフォレスト(ロードリオン系)、栗毛。生涯成績26戦15勝[15-1-1-9]。当時としては破格の9,613ポンドを獲得し種牡馬入り。800m〜2900mで勝利を上げ、伝説的女傑フラッシュオブドーンの全盛時に対戦し、通算成績9戦し内6戦で勝利。南アフリカにおける最強の女傑を物ともせず圧倒していた。フラッシュオブドーンは生涯成績105戦22勝[22-15-11-57]、チャンピオンS連覇など2歳から10歳までレースを続け、常に一線級に立ちビッグレースを勝ち続けた偉大な女王でもあり、1951年まで賞金王にもっていた女傑中の女傑である。その女王を簡単にねじ伏せていたのがディグニタリーである。主な勝ち鞍としてはサウスアフリカンダービー、ゴスフォースパークジュヴェナイルプレート、サウスアフリカンナーザリープレート、アフリカンブリーダーズS、ベノイギニー、ヨハネスブルグオータムハンデ、ジョッキークラブS、ベノイセントレジャー、ナタール・エクリプスS、スプリング・マーチャンツハンデ、チャンピオンS、スチュワーズカップハンデなど。偉大なるカービンの血の影響か、2,400mを超える距離では無敵で、3戦全勝。140ポンド(63.6kg)を背負い、24kgも軽い(39.6kg)のハンデのライバルたちを圧倒したこともあった。また前述のフラッシュオブドーンを相手に7kg以上のハンデ差を与えて圧勝したこともある〕
三幻神名馬 ?
レーニン
〔1937年生生まれ。父サンストーン(サンドリッジ系) 母ドロスキー 母父ポリホンテス(ベンドア系)性別:牡、毛色:青鹿毛、生涯成績:44戦18勝[18-6-4-16]フリーハンデ:141(タイムフォーム紙。シーコテージを上回る数値)。“ザ・ビッグトレイン”というニックネームが与えられ、脅威的絶世界を転舞した無敵の最強馬。主な勝ち鞍:ナーザリープレート GR. I (芝1,200m) 2½ 馬身差 1939年12月31日、アフリカンブリーダーズプレート(芝1,200m) 4馬身差、チャンピオンS GR. I (芝1800m) 4 馬身差 1940年8月3日、ナタールギニー GR.III (芝1600m) 5馬身差 1940年10月5日、ベノイギニー GR. I (芝1600m) 10馬身差 1940年11月2日、サウスアフリカンダービー GR. I (芝2400m) 6馬身差 1940年12月26日など。すべて2馬身以上の差を広げての楽勝・圧勝を連発。しかも、その距離幅も1,200〜2,400と短距離でもクラシックディスタンスでもその耀武なる強靭性は微塵も変わらなかった。なかでも1940年の秋に出走したベノイ・ギニーはこの世のものではない勝ち方だったという。その着差10馬身差!…1,600m、しかもGI競走のレベルで10馬身差という天地鳴動の大差勝ちをしてしまった。「レーニンはアフリカで生まれた最良の競走馬だ。たとえ他のいかなる国で生まれていても名馬になっていただろうね」と関係者より述べられている〕
これら2頭に並ぶ存在がムーンリットという訳であるが、パンフレット…ディグニタリー、ムーンリット、レーニンと続く最強馬の系譜は、ガンブット、モーグリ、コロラドキング、シーコテージ、ハワイ、ポリティシアン、ホースチェスナット…イググらへと滔々と繋がれていく。それでは、ムーンリットの生涯へカンテラの光を照らして見ていってみよう。
■月明かりの下で
ムーンリットは、ディグニタリーやレーニンとは異なり、早くからその競走能力を開花させていた訳ではなかった。
ディグニタリーもレーニンも圧倒的ポテンシャルを開眼させ、傍若無人の強さで無双乱舞のかぎりを尽くしているが、ムーンリットは少しずつ、ゆっくりとその才能を芽吹かせていったのであった。
これには彼を支えた牧場と厩舎、陣営の弛まぬ努力とムーンリットへと傾ける愛と慕情がその巨夢を育む揺籠となったのであろう。
月明かりの下、曙光を迎えると咲き誇る花のように、またムーンリットも眠れる獅子の才能を胎動させ、3歳以降でその潜在パワーを満月下に知らしめていく。
ムーンリットは、ドワルスフレイスタッドで誕生し、ヘンリー・ナース氏によって育成され、体高16.3ハンド(約165.6cm)まで育つ。
父クロスボウは、英国で生まれ育ち、英国で競走生活を送った馬で、18戦4勝(2着7回) で、1926年のロイヤルハントカップ優勝、1926年のエクリプスステークスで2着といった成績を残し、南アフリカへ渡り3回レースを消化して引退。お世辞にも一流とは言えない競走生活を送り、南半球の僻地へと渡ってきたサラブレッドであった。
クロスボウに白羽の矢を立て、南アフリカの地へと誘ったのは、ムーリットの育成に携わっていたヘンリー・ナース氏であり、彼は7000ギニーという当時としては破格の金額でこの馬を南アフリカへと導入した。
その金額は南アフリカで競走馬へと掛けられた、当時最高金額であったと言われている。
一方で、母オールムーンシャインは南アフリカの地で22戦4勝(2着8回)の成績を残し、母として多くの活躍馬を送った。オールムーンシャインの母、すなわちムーンリットの母母であるブルームーンも35戦8勝というタフな戦績を残している。ムーンリットの健気で頑強な資質は、母系から紡がれてきた気質であったようである。
■南アフリカダービー制覇。そして斤量との闘い
ムーンリットはオーナーであるシド・ギャレット氏自らが調教を行い、鍛錬を積んでいき、デビューは1935年の6月15日、ケニルワース競馬場の芝1,200mが初陣となった。ここはまだ体も出来ておらず、まずは使ってみて…というニュアンスの大きい1戦であった。全く勝負にならず、着外でのほろ苦デビューであったが、血統的にも悲観することは全く無く、次戦へ向けての調整がされていく。2歳戦はこの1戦のみであり、2戦目以降では馬が激変し、着実に進歩を遂げていった。2着、3着と惜しい競馬が続き、ついにメイデンハンデキャップ(芝1,400m)で初勝利。この後、3戦2勝2着1回の好調をキープしてダービーの舞台、ターフフォンテンへと乗り込んでいった。南アフリカダービーは芝2,400mの初距離かつ、ムーンリットには距離が若干長い様に受け取られたが、渋とく喰らい付き、インコースから差して僅差でダービー馬の栄光を手中に収めた。
▲〔1935年の南アフリカダービーゴール前。インコースから僅かにムーンリット抜け出し、混戦を制した〕
ムーンリットが本格化、覚醒を遂げるのは、1936年の年からであった。
メトロポリタンH(芝1,800m)を1・3/4馬身差、続くサバーバンH(芝1,600m)を6馬身差。さらにはロスミードH(芝1,800m)を2馬身半差。明らかに馬が変わり、充実期に入っていることは明白であった。
この3連勝は相当なインパクトを残したようで、これ以降、度を過ぎたようなハンデが、ムーンリットへ課せられていくこととなる。
酷量とも言える斤量を跳ね除け、凄まじい記録を打ち立てたのが3戦。
1937年のトップディヴィジョンH(芝1,200m)では147ポンド(約66.6kg)を背負い優勝。
2着馬のカルネリナは101ポンド(約46kg)だった。46ポンド、約20kgものハンデを与えての勝利。
さらに凄まじいのは1937年最終盤に出走したトップディヴィジョンH(芝1,800m)。
なんと148ポンド(約67kg)を背負い、1・1/4馬身差の快勝。2着馬のデニスローズは105ポンド(約48kg)でこの1戦でも20kg近いハンデ差をものともしない勝利を上げている。
そして…極め付けは、惜しくも勝利とはならなかったが、1937年の最後に臨んだ1戦、アスコットカップ(芝2,000m)。
ここでは152ポンド(約69kg)を背負い、僅かの差で2着惜敗。この時の1着馬ハウベルトは84ポンド(約38kg)もの超軽量ハンデ。
もはや裸同然と言うより、裸である(笑)。
その斤量差は68ポンド(約31kg)差❗️
これは最も斤量差が付いた世界記録である。
その昔、1865年のケンブリッジャーH(芝1,800m)にフランス伝説の名馬にして19世紀欧州史上最強とも称されるグラディアテュールが出走。この時グラディアテュールが背負わされたのは138ポンド(約62.6kg)。対して対戦相手馬には裸同然の軽量が宛行われた。
この時最軽量斤量となったヌーという馬は斤量が35kg(77ポンド)だったという。その斤量差27.6kg差。
ムーンリットが残した記録はそれをも上回る世界記録だったという事である。
■月明かりのムーンスノー
ムーンリットは1938年、メトロポリタンHの2勝目を手土産に生まれ故郷のドワルスフレイスタッドにてスタッドイン。
種牡馬として大成功とは行かなかったものの、その血を後世へと伝えていったが、自身に匹敵するような名馬を輩出することは叶わなかった。
その能力は南アフリカでは圧倒的に頭抜けたものであったが、当時世界最強クラスにあった英国競馬、フランス競馬、米国競馬の最強クラスと比較すると、分が悪かったのではなかろうか…と弱気な評価を当時の評論家は壊述してはいるものの、間違いなく歴史的名馬であり、ムーンリットが残した記録は今後もひっそりと、閑寂なる夜のしじまに架かる月虹のように、明日なる未来を照らしていくのだろう。
▲〔ラストランを圧勝で飾るムーンリット〕
▲〔ムーンリットの孫の代に現れた女傑ポリービスキ。10連勝を記録した時は誰も手が付けられない強さであったという〕
ムーンリットを取り巻く人々には笑顔が絶えなかった。
どの写真を見ても喜色満面の笑顔なのである。
彼が背負い続けた、患難極める斤量地獄とは対照的に、帰る場所のある、幸せな馬生を全う出来たことだけは、確信を持って写真から窺い知れる。
▲〔ムーンリットと彼を囲むスタッフ関係者一同。ムーンリットに手を添えたスーツの男性が主戦騎手を務めたクッキー・エイモス氏。写真でそのエイモス氏の右隣で柵に両手を掛けているのが、ムーンリットのオーナー兼調教師のシド・ギャレット氏〕
月明かりのムーンスノー…優美なる温もりが降りつぐシャワー…人の優しさ、愛情を心いっぱいに浴び続けてきたからこそ、ムーンリットは絶量なる斤量にも耐え、必死にゴールを目指したのかもしれない。
【ムーンリット成績表】
【参考文献・写真元】
[参考文献]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
[写真イラスト]
・The south african horse
・Giants of the South African Turf
・うみねこ博物館 ?レーニン?
・みふる様
・黄昏の星図絵 様
]]>
🐱ねこぶちさま🐱
(ねこぶっつぁま)
(ねこぶつさま)
東北みちのくは岩手県陸前高田市の梅木に立つ屋敷の裏山にある日月神社のすぐ傍にある「猫淵様」と呼ばれる社にて行われていたという民俗風習。養蚕を行なって生計を立てる農家が多く、そうした家々において、猫は養業の天敵となる鼠を取って駆逐してくれる、番人のような大切な存在であった。
しかし、猫が長生き出来る家庭ばかりではなく、猫の長寿と養蚕の成功と繁栄を祈り、非常に珍重な猫の絵馬が、この「猫淵様」と呼ばれるお堂に奉納されていたのである。
「猫淵様」の社は、前述の通り、岩手県陸前高田市の梅木に立つ屋敷の裏山にある。
裏山の日月神社のある丘の林の中、日月神社の右隣に八幡様と猫淵様が鎮座している。
▲〔梅木の農家の屋敷の裏山にある、日月神社と猫淵神社の立つ林丘〕
猫淵神社のお堂の中には、2体の猫の像がある。
1体は梅木から南方にある飯森沢の猫淵に祭られ、横田の不動尊のお使い猫と言われていたのを1927年頃、梅木の場所へ移したものらしく、眠っている猫(あるいは眠っていないのかもしれないが、眠っているように見える)の像。
もう1体の猫の像は前脚を立てて口を開いている猫の像。こちらは移転後の作とされているが、損傷が激しいという。
今では、眠り猫の像が本尊の座を占め、その背後の「明治四十年一月吉祥日」の木札には、「祭猫淵兵主大神社」と墨書きされている。
小さな堂内には、猫を思いおもいの形に描いた絵馬が乱雑に積まれ、幾枚かは正面の柱にも打ち付けられている。中学生の筆らしく、画用紙いっぱいに描いて板壁に貼り付けられたものもある。学生が描いたような画用紙の絵馬は数枚から数十枚あるのだが、その中でも異質な程に玄人が描いたように見える三毛猫3匹を描いたものは、墨と薄墨、さらには胡粉の白を用い、鈴も黄色に彩られていて、趣向が施されている。絵には「昭和14年旧3月吉日 菅野まつの」と書かれている。
▲〔猫渕神社のお堂。堆く絵馬が積まれているのが伺える〕
▲〔供えられている猫の絵馬〕
猫の育たない家では、猫淵様に参拝し、堂内の絵馬1枚を借りてきて、信心棚に掛けておき、猫が育ったならお礼参りをし、借りてきた絵馬に新しい絵馬を1枚添えて返す事にしていたという。
もし、春生まれの猫をもらったなら、借りてきた絵馬を秋に返し、その時無事に育った猫の姿を、もう1枚添える絵馬に描いて返すのだという。
祭日は5月の節句で、この日、柏餅を作り参拝して、柏餅を2つ供え、その内の一つは自分で食べる。
当時の子供たちはそれが楽しく、この行事を守ってきた。
ネット検索を掛けても全く情報が上がって来ていない現状を見ると、今ではこの民俗風習は途絶えてしまったものと思われる。
遥かなる夕日に昔日の想いを寄せる。
猫と人が絵馬に想いを託した、古き良き時代を心に描いて。
【参考文献・写真元】
・『民俗の四季』森口多里 著 1963年
]]>Horse Racing ?FIC?
〜Fraudulent Impersonation Case
file in horse racing〜
【 競馬における不正成りすまし事件簿 】
競馬は大きな金額が動くマネービジネスであり、
最たるギャンブルの象徴でもある。
巨額の富と名声を誰もが追求する裏では、
ドス黒く邪悪なマインドが人の心を狂わせる。
ここでは実際に世界で起きた不正事件、
その中でも競走馬をすり替えるという、
大胆不敵な犯罪例を紹介しよう。
❶【ダービー史上最大の汚名!馬齢詐称勝利事件】
第65回の英ダービーは、世界競馬史上最も悪名高く、異常を来した異質なレースとなった。
このレースで、4つも別方向での不正が行われ、勝ち馬は替え玉の馬が優勝してしまった。
(1)1つ目の不正。ランニングレイン・マカベウスすり替え
1843年、マカベウスという3歳馬が死亡したという情報がレーシングカレンダーに記載された。
しかし、実際には生きており、この馬が替え玉に使われることとなる。
2歳馬のランニングレインへ、心の腐った馬主の食指が動いた。
ランニングレイン号は匿われ、ランニングレインとして走ったのが、死亡したとされるマカベウス号。
悪徳馬主アンソニー・ウッド (Anthony Wood) は、レースの度に違和感を覚えた2着馬の馬主から
異議申し立てが行われたが、都度、これを棄却し、強引にレースを押し進めていた。
マカベウスをランニングレインに仕立てるため、あらゆる工作が塗り固められた。
白髪染めなどが使われたり、ランニングレインが持っていた体の傷跡まで似せて再現していった。
馬がどれだけ苦痛に顔を歪めたか…想像に難くない。
驚くべき事に、なんと2歳10月から馬のすり替えが行われ、それは栄えあるダービーデイ当日まで行われてしまう。
ランニングレイン(マカベウス)は英ダービーに優勝・・・
しかし、観客、ファンは疑いの眼差しを誰しもが向けており、不正の噂で持ちきりとなっていた下馬評から、ランニングレインと鞍上のサミュエル・マン騎手はブーイングで迎えられた。
史上唯一、ブーイングを受けた、祝福されなかったダービー馬は彼のことである。
▲〔1844年のダービーを勝ったランニングレイン。
実はマカベウスという古馬の4歳馬であった。
事件後、ランニングレインはザノニと名前を変え、
ロシアへと輸送され種牡馬となった〕
▲〔オーランド号。オーランドは生涯成績12戦10勝。
ダービーは歴史的不正事件により不運な結果になるが、
自身で己の強さを証明し、真のダービー馬である誇りを、
高らかに咆哮したのであった〕
ランニングレイン(ことマカベウス)は失格となり、真の勝者は2着のオーランドとされた。
当時は2着馬の馬主のみが異議申し立てが出来るというルールがあったため、訴訟はオーランドのオーナーであるジョナサン・ピール大佐のみが行ったという。これに対し、ランニングレイン陣営、ことアンソニー・ウッドは猛反発し、裁判となる。
アンソニー・ウッド氏の前のオーナーは、ランニングレインとマカベウス、両頭を所有していたことから、彼にも疑念が持たれた。
警察の鼻は鋭く、このすり替え事件にイブラハム・グッドマン・レヴィ (Abraham Goodman Levy) 氏はやはり後ろ手を引いており、証拠が次々と見つかり、ランニングレインの提出を求められる。すると、グッドマン氏と彼の共謀者、協力者たちは皆国外逃亡を図り、恐らくはフランスへと雲隠れしてしまったという。
(2)2つ目の不正。レアンデル号すり替え
しかし、このレースではさらに3つの不正行為が別個で行われていたことが、後から浮き彫りとなった。
出走馬の中の1頭、レアンデル号もすり替えをされていたというのである。
レアンデル号はランニングレイン号陣営とは関係なく、別個で替え玉出走していた。
レアンデルはランニングレインにレース中に衝突し、故障。
有力と見做されていたランニングレインを強引に潰しに行くも、自滅する羽目に陥る。
すり替えをしていた馬に、替え玉馬が削りに行く…という荒唐無稽な結果。
レアンデルは、この衝突による故障が原因で命を落としてしまう。
レース後の検死の結果、なんと6歳馬であったことが、歯型から明らかとなる。
(3)3つ目の不正。ゼアグリバック号の騎手の八百長騎乗
この年の英ダービーで1番人気に支持されたゼアグリバック (The Ugly Buck) 号のジョン・デイ・ジュニア騎手は、故意的にゼアグリバックに競走能力を発揮させないような騎乗を行い、意図的に敗退した。
(4)4つ目の不正。ラタン号の騎手の八百長騎乗
出走馬の中のもう1頭、ラタン号も八百長騎乗をされていた。
ラタン号はニューS、クリテリオンSを勝っている強豪であったが、騎乗者が意図して能力をスポイルするような悪質な騎乗を行い、惨敗を喫した。ランニングレインやレアンドル、ゼアグリバックらの不正とは別個で、関係なく行われた八百長であったという。
オーナーのウィリアム・クロックフォード氏は、この事実を知り、ショックで倒れ、レースの2日後にショック死してしまったという…。
❷世界競馬史上最大の替え玉詐欺事件
ピーター・クリスチャン・バリーの
?トリックアートなりすまし?
世界を股に架けた世紀のホーストリックアーティスト
日本産ディープインパクト産駒として英オークスを史上最大着差、愛オークスを2,400mに
なってから最大着差で勝ち、ヨークシャーオークスでオークスハットトリックを
成し遂げたスノーフォール。
彼女は2歳時に出走したフィリーズマイルにて同厩舎のマザーアースと
取り違えをされていたことでも、彼女を彩る逸話として取り沙汰される。
とは言え、これは意図的によるものでなく、悪意あるものでもない。
純粋な人為的ミスである。
しかし、しかしである・・・長い競馬の歴史上ではドス黒い金銭目的として
意図的に馬を入れ替えて出走させるという替え玉事件も起きている。
その中でも、最も多くの回数、馬を?変装?させ、強い馬を弱い馬に変え、
弱い馬を強い馬として成り済ませて出走させ、大金を掠め取り、膨大な数の関係者、
ファンを騙し続けたキング・オブ・チートがピーター・クリスチャン・バリーが
策謀、暗躍し続けた替え玉事件なのである。
■ピーター・クリスチャン・バリー
1888年英国スコットランドで肉屋の息子として生まれる。
成人後、動物の歯科医を営み、英海軍補助艦隊では馬の世話を
していたこともあったらしい。
その後オーストラリアへと渡り、1914年9月にオーストラリア帝国軍の
第6軽騎兵連隊に入隊。
感染症や下痢などで病院船にいる期間が長く、そうした背景も相まり、
結果的にはロンドンの陸軍省で運転手として過ごしたという。
第一次世界大戦が終結する前の1917年、出来心か魔が差し、
他人の財布を盗み逮捕されている。
バリーは1918年に結婚してロンドンに家を建て、この時、馬も購入している。
バリーは馬を愛していた。しかし、この馬への愛がゆえ、生活維持のために、
イカサマへと手を染めていってしまう。
■なりすまし競走馬変装イカサマの手口とカラクリ
? 「速い競走馬」と「遅い競走馬」を用意し、遅い競走馬の名前でレースへ登録。
↓
? レース当日、「遅い競走馬に見えるようにメイクアップした速い競走馬」を出走させる。
イカサマの仲間で結託したギャング、バリーと裏で繋がった仲間たちは
「人気のない遅い競走馬」に大金を賭ける。
↓
? レース。弱い別な馬に変装させた競走馬が、不人気馬の外見、名前で出走し、勝利。
そのまま厩務員やレース場の関係者、レースを見守る観客全員は騙され、共謀ギャングたちは大金を手に入れ、
バリーはその分け前をもらう。騙された人々は、レースに勝った競走馬について疑問にも思わず、
「遅い競走馬がこれまでで最高の走りをしただけ」と思い込まされる。
?のメイクアップは、バリー自身が行っていた。
「馬の見た目を変える」という点においてバリーは特異な才能を持っており、漂白剤・アンモニア・ばんそうこう・硝酸銀・ヘナといった道具を使い、馬の見た目を自由自在に変えることが出来たのだという。この事から、バリーは皮肉られ「競馬界最高の画家」などと揶揄して表現されていることもある(笑)。
まずは馬をシャンプーして目の上に保護テープを貼り、毛を漂白剤で脱色することから始めていたとのこと。
この漂白作業は非常に重要であり、程度を誤ると皮膚が傷ついて馬の能力を削いでしまう事にも成りかねないので
最も慎重に行っていた模様。
脱色してからヘンナを使って模倣したい競走馬の毛色に染色した後、白い斑点がある場合は対応する部分を再漂白。
この際、ばんそうこうをマスキングテープのように使って模倣したい競走馬にそっくりな模様を再現したほか、
硝酸銀で鼻をたたいて着色することもあったとバリーは述べている。
毛色以外の部分も似せる必要がある場合、バリーは耳の腱を切ったり尻尾の毛を抜いたり、
たてがみをカットしたりして、モデルの馬に寄せた。
また、去勢されてない馬を去勢されている馬に見せかけたい場合、なんという工夫か!
レース前に氷のブロックを睾丸に当てて収縮させ、去勢されているように見せかけることもあったという。
時にはかつて動物の歯科医として働いた経験を生かし、ナイフやドリルを使って歯を削ることもあったという。
(そこまでせんでも・・・口の中とかは流石に見ないであろうに…厩務員対策か?)
さらには、レースの勝率を高めるために馬にヘロインやコカインを注射することもあった。
■バリーのイカサマ歴
バリーは、まず地元イングランドの競馬界でイカサマを始めた。
仲間が購入したジャズという優秀な競走馬を、「コート・オブ・メール」という、一度もレースに出たことがない馬に見せかけ出走させ替え玉詐欺を実施。しかし、この一件が明るみに出て、3年の実刑が科された。
1923年に出所すると、バリーは妻と別れてアメリカへと渡る。
もうこの時、バリーは当初のイカサマの目的、詐欺を働かなければいけない理由を見失っていたと思われる。
愛する妻と愛馬との生活を守るため、なんとかお金を手にしたい・・・という切実な想いすら、
心の果て消失してしまっていたのではなかろうか。
渡米したバリー。今度はアメリカの競馬界を荒らし回ろうというのだった。
〔写真は、競馬詐欺を扱った映画『スティング(The Sting)』の一幕。1973年、米国にて公開。監督ジョージ・ロイ・ヒル。主演ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード。第46回アカデミー賞作品賞受賞映画〕
米国のギャングたちと徒党を組み、多種多様なレースに替え玉を出走させまくったバリーは、
1931年に?アクナトン?と?シェム?という馬の入れ替えを行った。
2頭はともに1907年にアメリカのリーディングサイアーになったコマンドを曽祖父に持ち、
外見が似ているという共通点はあったものの、競走能力には大きな差異があった。
シェムとしてメリーランド州ハバディグレイス競馬場で開催されたレースに出走したアクナトンは、
52:1(53倍)という大穴のオッズで勝利し波乱を演じる。
しかし、この一件で手を組んでいたギャンブラーの1人が、バリーの情報を漏らし、
競馬場関係者が雇った探偵会社に追われる身となってしまう。
〔シェムになりすまし、ハバディグレイス競馬場で勝利を上げるアクナトン号〕
〔アクナトン。写真は1932年にメキシコはティファナ競馬場にて?ゲイルモント?という偽名にて出走した際の立ち写真〕
バリーはアクナトンとシェムと共に、さまざまな隠れ家を転々とする生活を送る。
時に、アクナトンを別の馬に見せかけてレースに出走させたが、1932年にバリーを
追い続けていた探偵によって、居場所を突き止められてしまう。
警察も動き出し、バリーの身柄を確保しようとしたが、なんとバリーには
競馬のイカサマに関連して警察が起訴できる罪がなかったのである。
当時、ほとんどの州で「ある馬を別の馬に偽装して、偽名でレースに出走させること」を
禁じる法律がなかったため、バリーがやったことはイカサマではあったものの、
違法行為には当たらなかった。
何とかこの不届き者を処分しなければと考えた警察側も考え、結果的には
アメリカに不法入国したとして強制退去処分を通達。
しかしその後も何度かチャンスを見ては米国と英国を行き来して替え玉イカサマを続けた。
まさに「世界を股に架ける世紀のホーストリックアーティスト」
(聞こえは良いが完全に犯罪者www)。
バリーを完全にマークしていたピンカートン探偵社は、その都度、バリーの居場所を突き止めて強制送還し続けた。
■実際の比較
バリーが、どれほどの芸術的なホースメイクアップテクニックを誇っていたか。
実際に写真を見て確認してみたい。
写真左は本物のアクナトン号。
写真右はシェム号に変装させられたアクナトン号。
ブリンカーを付ければ全く印象も違うが、これはバリーの要望を調教師や厩務員に促して付けさせたのではなかろうか。
シェム号は前脚のソックスは履いていない。しかし、アクナトンは四白。
前脚の白い部分は全て染めたのであろう。
バリーは、染料等の材料はドイツから仕入れていたらしい。
バリーはイカサマにおいて重要な役割を担っていたものの、イカサマから得る利益の取り分のほとんどは
ギャングたちの手に渡っていた。
あくまでバリーは雇われの身であり、いつしか良いように使われる手駒と成り果てており、
大金を掴んではいないと伝えられている。
幸せな生活を守るための、最後の手段として選んだ手法は、愛する馬への冒涜に過ぎなかったのではないか?
なぜ彼ほどの技術と知識を持ち合わせながら、このような犯罪に手を染めてしまったのか・・・
事件を憎んで人を憎まず。今の徹底した管理社会、マイクロチップ埋め込みが進んだ今、
ド阿呆な取り違えはあっても、このような八百長は2度と行えないはずだ。
第二のバリーが現れるような悲哀な世界にしてはならいと、馬たちはきっと語っている。
❸【フロックトングレイ事件】
1982年のレスター競馬場で史上唯一にして最大の替え玉事件が起きた。
芦毛馬を使った、競走馬の差し替え事件である。
芦毛馬は体毛、体色により、他の毛色よりも各個が特徴的で、似せるのは非常に難しいとされる向きがあったが、それを逆手に取った犯罪行為が堂々と行われたのである。(上の写真を見ても2頭は特徴的で見分けがはっきりつく。左がグッドハンド号。右がフロックトングレイ号)
フロックトングレイという芦毛馬の馬主であるケン・リチャードソン氏と調教師のスティーブン・ワイルズ氏は共謀して計略を企てる。フロックトングレイにそっくりな芦毛馬のグッドハンドという馬を代わりに走らせ、馬券で一気に儲けてやろうと謀略する。
フロックトングレイ号であると偽られたグッドハンド号は、まんまとレスター競馬場へ登場。
リチャードソン氏らは、さまざまなブックメーカー、競馬場で合計2万ポンドものフロックトングレイの単勝を購入。
結果…フロックトングレイ…を装ったグッドハンド号は、年下の格下馬相手ゆえ圧倒的力差を見せつけ、20馬身差も引き千切り、超圧勝。配当金は20万ポンドにも上る。(当時のポンド円換算で約8740万円以上!)
ところが、「怪しい」と見たブックメーカー側が払い戻しを差し止めて警察へ連絡。
あっさりと2人は御用になり、ワイルズ氏は25年間の競馬禁止。
一方のリチャードソン氏は、45,000 ポンド(約15,000万円)の罰金と訴訟費用、および執行猶予付きの9か月の禁固刑が言い渡された。
どうやらリチャードソンは根っから腐った詐欺師であったようで、保険金を請求するためにドンカスターフットボールクラブを焼き払おうとした罪で 4 年の懲役刑を言い渡されている。
さらに、馬には罪がないだろうに…フロックトングレイは留置所で4年間を過ごすこととなる。彼が留置所から出た時、彼は年を取りすぎてレースをすることができず、ワークソップ厩舎で28歳まで生きたという。
❹【ファインコットン事件】
1984年のオーストラリア、クイーンズランド州にて起きた、豪州競馬最大の競走馬替え玉事件。
事件の発端はブラッドストックエージェントのジョン・ギレスビー氏が、ファインコットン号と瓜二つの馬を偶然にも競り市で邂逅を果たしたことから始まった。
「ファインコットンにそっくりだ。この馬をファインコットンだと言って走らせても、誰も気づかないだろう!」
この妄想を、現実に実行へと移そうと動き出し、集まった悪友たちと、リングイン(すり替え)をすることを決めたのだという。
もちろん、調教師まで抱え込み、共謀させたのである。
ファインコットンはカントリー競馬で惨敗を繰り返していたような馬で、とてもではないが一流の競馬場のオープン級と走らせたら勝負にもならない事は誰の目からも明らかだった。
しかし、しかし、だがしかし…
計画を実行に移そうとした矢先、ファインコットンの替え玉馬が故障。急遽代打で用意した馬がボールドパーソナリティという馬だった。この馬は、ファインコットンとは似てもにつかない馬であった。
ファインコットンは8歳の、黒鹿毛のせん馬で、後肢に白徴があるが、ボールドパーソナリティは、7歳の鹿毛のせん馬で白徴も有していなかった。ところが…すでに賽は投げられたと、ギレスビー氏らは引く事など微塵も考えておらず、信じられないことに、染毛剤を使い、ボールドパーソナリティを黒く塗り始め、白徴はペンキで再現しようと悪戦苦闘。
そうして来る計画実行日の8月18日、ブリスベンのイーグルファーム競馬場で開催されたレースに、ファインコットンに扮したボールドパーソナリティが出走。レースは、未勝利クラス。ファインコットンのオッズは、33倍。「なんと美味しいオッズだ!」と、ギレスビー氏らは、狂ったようにファインコットン絡みの馬券を買い漁った。これにより、オッズが大きく変動。ついにはオッズが4.5倍になっていた。どう見ても勝利は愚か、掲示板すらも望み薄と考えられるような馬が、一気にオッズが上がったのだから、誰の目から見ても異常であるのは判断できた。
想定では楽に勝てると見込んで買ったオープン馬(ボールドパーソナリティ)であったはずなのに、結果は大混戦。ファインコットンという羊の皮を被ったボールドパーソナリティは、他の馬にガンガンぶつかりながら、ゴール寸前でインコースから差し込んで、やっとこすっとこの鼻差で辛勝。
レースで汗をかいた為であろう…染色が落ち始め、明らかに馬がおかしいのは誰の目から見ても明白で、スタンドからは
「馬が違う!」「やっぱり!おかしいと思ったら、すり替えだ!」
と罵声が飛び交った。これを見たギレスビー氏ら悪党6名と共犯の調教師は、競馬場から逃亡するも、クイーンズランド州の競馬からの生涯にわたる禁止という厳罰の十字架を背負わされたのであった。
【参考文献・写真元】
[参考文献]
・Bethq「レース史上最大のスキャンダル」
・Wikipedia「第65回 英国ダービー」
・gigazine.net「競走馬の見た目を変えて「遅い馬の替え玉」として出走させるイカサマで大勢をだました男とは?」
・uma-jin.ne「【世界オモロイ競馬】ありえない! 豪競馬史に残る最大のスキャンダル!!」
[写真イラスト]
・Bethq「レース史上最大のスキャンダル」
・gigazine.net「競走馬の見た目を変えて「遅い馬の替え玉」として出走させるイカサマで大勢をだました男とは?」
]]>
【競馬BAR SHADOWROLL】
(お店の公式HPよりロゴ画像引用させて頂いています)
大井競馬場行きのバスの発着地の一つ、 大井町駅から徒歩約5分の位置にある競馬バー。
(セブンイレブンのすぐ隣!)
競馬関係者、一口オーナー、競馬Youtuberから
競馬初心者の方まで訪れる、 アットホームで
楽しく話せる交流の場です😊
今流行り?の『ウマ娘』の制服や衣装を着飾った可愛い女の子がお出迎え…
といったお店ではなく、
来店した方みんなでワイワイ語り合う感じのバー
となっており、馬が好き、競馬が好き、一口に興味がある、
一口馬主をバリバリやっている!
競馬Youtuberをやっている!
という方はめちゃくちゃ楽しく盛り上がれる場所です✨😆
〔店内の様子。2Fメインカウンターは4人掛けのバーカウンターで、TV画面にはグリーンチャンネルが流れています。コントレイルやデアリングタクトのゼッケンタオル、オリジナルの競馬コースター、ソダシなどの有名競走馬のぬいぐるみなどが飾られており、競馬一色のムード。色んなところから話の取っ掛かりがついて、話に花が咲くこと間違いナシ!メニューは、店長様が考えられた多彩なカクテルがずらり❗️馬名のみならず、『J.R.A』なんてものも⁉️😅お酒が苦手、下戸なの…この後仕事で…という方にもソフトドリンクも多数ありで安心。貴重なお酒もあるようですよ😎そして、店長が一流バーテンダーも顔負けのシャカシャカ見せてくれます!〕
※写真撮影筆者(お店と来店中の皆様にご許可頂いて撮影行っております)
〔お店の入り口のドア。昔、住居であった建物を改装された物件であるそうで、「あれ?ここで良いのかな??」って思う所にあります。お店の方のお言葉をお借りするなら「小屋みたいなお店」とのこと。でもそれが良いんですっ❗️〕
〔入り口のドアを開けると、急勾配の中山の坂を彷彿とさせる(?)階段が!転がらないように手すりを使ってメインカウンターの2階へお上がりください。階段の壁に掛けられた様々な競馬関連のアイテムたちが心躍らせてくれます!😆〕
※お店のホームページより引用の画像
私が突撃来店をしたのはサララボ代表で現役地方&海外馬主・
競馬ライターであられる【ジェイ】さんのご厚意で
予約をさせて頂いた4月某日。
その日、イベントでジェイさんは1日店長を務められ、
来店者、予約者の方を懸命におもてなしし、
研修なしのぶっつけ本番でシェイクにも
挑戦されておりました!
以下、ジェイさんのプロフィールです。
(サラブレッド研究所 / Thoroughbred Lab.記載のジェイさんのプロフィールより引用させて頂いています)
現役地方&海外馬主・競馬ライター
登録者4000人超え&累計再生200万回超えの元一口馬主YouTuber。社会人1年目から一口馬主を始め、キャロット・シルク・ノルマン・ロード・DMMバヌーシーの5クラブに入会。地方個人共有とRSS や中條厩舎の豪州共有に加え北米MRHでマイクロシェアを行う。血統の配合相性を重視していて代表馬はロードヴァレンチ、リレーションハート等。
https://sarala6.com/
(上の画像をクリックすると「サララボ」公式ページへジャンプします!)
【ジェイさんのYoutubeチャンネル】
【SHADOWROLLで知り合えたYoutuberの皆様】
【節約大全シーズン2☆目指せJRA馬主!】
チャンネル登録者数 9190人(R5.4月3日執筆時点)
毎週月〜金に動画アップ。
中央競馬JRAの馬主を目指されているトリオYoutuberの方々。
リーダーのこまちさんは、シルクレーシングの馬を中心に
100頭に出資されている大一口オーナー。
あの現役世界最強馬イクイノックスにも出資している方なのです!
イクイノックス関連の貴重な生のお話をいただけて光栄でした✨
編集が神懸っており、めちゃくちゃに見やすいし、面白い❗️
バラエティ感覚でサクサク見れて、見ていて飽きません。
一口馬主について、興味がある方なら誰しもが
気になるような情報を沢山発信してくださっております。
【PON HORSE CLUB 〜ポンホースクラブ〜】
チャンネル登録者数3万超を誇る予想家・江分輪太氏のお弟子さん。
中山記念では◎ヒシイグアス ○ラーグルフで完璧的中!!
高松宮記念では13番人気で絶望枠1枠に入った8歳馬トゥラヴェスーラを○で予想。
多角的で鋭い分析は必見の予想家さんです!
ハキハキと聞きやすいトーンとテンポも非常にGood👍と感じます✨😊
このような素敵な出会いもある競馬バー?SHADOWROLL?。
大井町の競馬ホットスポットで新たな馬ライフのスタートを❗️
ぜひぜひ行ってみてくださぁ〜ーい❗️😆
【店舗データ&アクセス】
〜黎明なる夜明け〜
ールーマニア競馬史上最強最高、究極の名馬。
世紀のホースマンの英知と愛の結晶体ー
父 カラー(セントサイモン系)
母 ミスデスパード
母父 アイシングラス(アイソノミー系)
生年:1910年
性別:牡
毛色:鹿毛
調教国:ルーマニア
生涯成績:25戦22勝[22-3-0-0]
主な勝ち鞍:ルーマニア三冠〔ルーマニアダービー(芝2,400m)、ジョッキークラブ大賞(芝2,300m)、王立賞(芝3,000m)〕、ルーマニア凱旋門賞(芝2,400m)、ジョッキークラブ大賞3連覇、グランクリテリウム(芝1,600m)、ゾリデヅィ賞(芝3,000m)他
【血統表】
■夜明け前
遙なる昔日、東欧における馬産、競馬のレベルは史上屈指のものがあった。
オーストリア・ハンガリー帝国の栄華を極めた時代…キンツェム(もはや説明不要の54戦全勝の神話的名馬)、キシェベル(英ダービー、パリ大賞勝利)、ペイシェンス(9戦全勝、ハンガリーオークス、オーストリアダービー、ドイツダービーをぶっちぎっての大楽勝)…英国より優秀な種牡馬、繁殖牝馬を導入し、馬産に徹底的に力を入れ、そのポテンシャルは世界一と言って良い瞬間が、間違いなくそこにあった。
東欧ハンガリーの奇跡、キンツェムらが去ってから20数年から30年の時を経て、同じく東欧はルーマニアに降誕した神話的名馬が、今回紹介させて頂くゾリデヅィである。
ルーマニアの首都ブカレストは現在では競馬場を唯一持たない欧州の首都である。
しかし、そのブカレストにも競馬が人と街とを緤ぎ、殷賑を湧かせた時代が確かに存在していた。
最古の記録としては1841年〜1845年にかけて競馬が行われたという記録がある。
仔細な記録、データで記録、編纂が取られる様になった公的ヨーロピアンスタイルの競馬は、1851年6月21日に行われたという。首都ブカレストにおける競馬は1865年に揺籃を見ている。そのブカレストにおける常設の洋式競馬の舞台となったのは、バネアサ競馬場。
1906年に大規模な改修工事を行なった際には、その設計はロンシャン競馬場をモデルにしたと思われる。
ブカレストが「リトル・パリ」と呼ばれたと同じ様に、その様相は正に「リトル・ロンシャン」だった。
▲〔新バネアサ競馬場は建築家のイオンD.ベリンディが設計。同氏はロンシャン競馬場に強く影響を受けていた。観覧席はそれほど広くはなく、5,000席しかなかったが、約20,000人が収容可能で、ビッグレース、特に偉大なダービーには、立錐の余地も無い程の観衆が集まった。面積は52ヘクタールの初期面積をカバーし、1915年からは、62ヘクタールへと拡張された。バネアサ競馬場には2つのランニングトラックがあり、イギリスとフランスのコースをモデルにレイアウトされていた。芝はパリから持ち込まれた物が使われていたという。右の写真はバネアサ競馬場を上空から撮影した一枚。牧歌的風景広がる中、広大な面積を有しているのが一望出来る〕
?ルーマニア競馬の父?にして東欧競馬の大偉人となる、アレクサンドル・マルギロマン氏は、馬を心からこよなく崇愛、敬愛、深愛し、人生そのものを全て馬産と育成に捧げた人物であった。キンツェムらを輩出したハンガリーに負けじと、世界最強馬を送り出すべく、日々研究と研鑽に傾倒する毎日であった。
マルギロマン氏は、ルーマニアはブザウに生を受け、幼い頃から馬と触れ合って過ごし、ブカレストの小中高と通った後、高校卒業後はパリで法律を学んだ。フランスでの法学中に競馬に出会い、その魅力に引き込まれて行くと、帰郷後には、まだルーマニアに根付いていなかった競馬の発展に人生を捧げた。
間違いなく、ルーマニアが生んだ最も偉大なホースマンであり、馬と競馬を人生を尽くして捧げ、史上最強の名馬を追求し続けた偉人である。ルーマニアにおける馬産を革新的に進化させたマルギロマン氏は、かつてハンガリーのホースマンらが英国より精鋭たる名種牡馬、繁殖牝馬を招集させたように、法と競馬を学んだ第二の故郷・フランスから良質な種牡馬を次々と導入し、ルーマニア競馬のレベルアップを飛躍的に向上させていった。初となるダービー制覇は、1881年3月2日のことで、当時27歳であった。これはダービーオーナーとして史上最年少となる記録。1899年から1908年の間に10年連続でダービー優勝。生涯を通してダービーを通算26勝も上げた。これは全世界競馬を通してもダービー史上最多勝となる偉大なる記録である。
▲〔Aマルギロマン氏。1854年生まれ。1925年永眠。政治家(ルーマニアの首相を1918年〜)。馬産家。弁護士も務めた〕
A.マルギロマン氏は1909年のある時、最も慕って信頼を寄せているアレクサンダー調教師の紹介でカラーという英国の種牡馬のオーナーと巡り合うことが叶った。ここで、マルギロマン氏は、このセントサイモンを父とする種牡馬に目を付けた。
カラー産駒はすでに1908年、1909年とルーマニアダービーを2勝していて、ルーマニアにおいて最も勢いを感じさせる新種牡馬であった。1908年のルーマニアダービーを勝ったウィグは自身の持ち馬でもあり、カラーに寄せる期待は大きかった。
▲〔ゾリデヅィの父カラー。1895年生まれ。ウェストミンスター卿の生産所有馬で、ハードウィックS、トライアルSなどを現役時は勝利。カラーの母オーナメントは16戦全勝の英国無敗の史上最強三冠馬オーモンドの全妹である。すなわち、19世紀の英国いや世界最強馬候補に挙げられるセントサイモンとオーモンド、2頭の無敗馬の血を継承している種牡馬こそ、このカラーだったのである。2頭の残影を宿すこの血統に、未来の史上最強馬のヴィジョンを見出していたのだろうか…〕
■夜明けと共に神話は生まれる
1910年の5月20日、曙光が風見鶏を照らし始める鶏鳴の刻…
1頭の馬が英国コブハムスタッドに降誕した。
日の出、夜明けと共に生まれ落ちたその馬は、マルギロマン氏にこう命名された…
?Zori de Zi?…「夜明け」と。
▲〔幼駒時代のゾリデヅィ(左)〕
生まれた後、その年の内に母親と共にルーマニアへと輸入され、ブカレストはマルギロマン氏の「城」であるアルバトロススタッドへとやってきた。アルバトロススタッドの由来は、マルギロマン氏が最初に愛した名馬の名前から取られている。
ルーマニアの地へと降り立った時からその取り巻く雰囲気は全くこれまでの馬とは別次元だったとされ、マルギロマン氏は初めてゾリデヅィと対面した際、「これが我が国における本当の最初のサラブレッドだ!」と言い放ったという。(※もちろんそれまでも、当然サラブレッドの優秀な血統馬は英仏等からの輸入馬で多くいた)
ゾリデヅィは、同厩舎のココナッシュ号と動きを共にしており、デビュー戦もバネアサ競馬場で同じレースでデビューした。古い文献や書籍等にも、この様子の詳細が綴られているものが少なく、何らかの理由があって追われまくるココナッシュを引っ張り切りで追走し、微差でゴールイン。デビュー戦は2着に敗れた・・・というより、2番手で入線を敢えて行なったというのが正しい表現かもしれない。ココナッシュを絶対に勝たせねばならない理由があったのか、ジョッキーのしくじりであったのか、マルギロマン氏の先を見据えた戦略であったのかは不明だが、一つだけ確かなのは能力では全く負けた訳ではないということである。
このデビュー戦後、ゾリデヅィは持ったまま・・・どころか引っ張り切りの手応えのまま、大差勝ち、ぶっちぎりの大楽勝、轟烈に突き抜けての圧勝を重ね、2歳チャンプ決定戦のグランクリテリウム(芝1,600m)も楽々と勝利。
結局、1912年の2戦目から1915年の暮れまで、無敵の無敗神話は続いていくこととなる。
▲〔クリテリムを足ならし?位の大楽勝で制すゾリデヅィ。パドックにて〕
ゾリデヅィはルーマニアダービー(ダービーローマン、芝2,400m)を迎える頃には、すでに「世紀の名馬」のオーラをまとっており、マスコミもこぞってゾリデヅィを大々的に取り上げるようになっていた。新聞の見出しにも、?最も人気があり、美しい最高の馬?とゾリデヅィを褒め称える文句が謳われていた。
ダービーではマルギロマン氏の所有馬が、ゾリデヅィを含め6頭も出走していた。そこにはデビュー戦でゾリデヅィに唯一先着していたココナッシュの名前もあったが、ダービーですら引っ張り切りでキャンターでゴールイン。2着はフォトという馬だった。
ちなみにルーマニアにおけるダービー格競走の創設は1875年のことであり、最初は2,000mであった。
ルーマニアにおける競馬の三冠競走は、ルーマニアダービー(芝2,000m。1886年から2,200m。2,400mへと変更がなされるのは1896年から。これは英国やフランスに影響を受けたものとされる)、ジョッキークラブ賞(芝3,000m)、ブカレスト賞(別称:プリンス賞、ロイヤル賞)となっている。
ここでルーマニアダービーの勝ち馬年表を載せておく。
【🇷🇴ルーマニアダービー勝ち馬年表】
開催年 | 馬名 | 性別 | オーナー | 騎手 |
---|---|---|---|---|
1875 |
ギゼルダ | 牝 | Alexandru Bals | Haycock |
1876 | コラ | 牝 | Constantin Blaremberg | |
1877 | 中止 | |||
1878 | 中止 | |||
1879 | ローランド | 牡 | Ion N. Lahovary | |
1880 | ヴェスタ | 牝 | Constantin Blaremberg | |
1881 | マーズ | 牡 | Alexandru Marghiloman | |
1882 | モナルク | 牡 | Constantin Blaremberg | |
1883 | メテオール | 牡 | Constantin Blaremberg | |
1884 | オーラガン | 牡 | Constantin Blaremberg | |
1885 | プリム | 牡 | Constantin Blaremberg | |
1886 | ロードバイロン | 牡 | Constantin Blaremberg | |
1887 | ヴィジェリア | 牝 | Constantin Blaremberg | Woodhouse |
1888 | ラゴンドラ | 牝 | Constantin Blaremberg | |
1889 | ロッテリア | 牝 | Alexandru Marghiloman | Coode |
1890 | カルタス | 牡 | Mihail Mărescu | |
1891 | サンシリエン | 牡 | Alexandru Marghiloman | |
1892 | サンシリエン | 牡 | Alexandru Marghiloman | A câștigat și la 4 ani |
1893 | パルチザン | 牡 | Alexandru Marghiloman | |
1894 | ダーリング | 牝 | Nicolae Vlădoianu | Cood |
1895 | オルツ | 牡 | Mihail Mărescu | |
1896 | パラドックス | 牡 | Alexandru Marghiloman | |
1897 | パジェラ | 牝 | Alexandru Marghiloman | |
1898 | エオール | 牡 | Mihail Mărescu | Barret |
1899 | メリンゲ | 牡 | Alexandru Marghiloman | Sanderson |
1900 | アーディール | 牡 | Alexandru Marghiloman | G. Phillips |
1901 | アルジェス | 牡 | Alexandru Marghiloman | Cole |
1902 | コブザール | 牡 | Alexandru Marghiloman | Cole |
1903 | エスキフ | 牡 | Alexandru Marghiloman | Wilson |
1904 | マラセシティ | 牡 | Alexandru Marghiloman | F. Rositter |
1905 | スタンカ | 牡 | Alexandru Marghiloman | Peake |
1906 | ティナ | 牝 | George Negropontes | T. French |
1907 | ヴァルヴァルテジ | 牡 | Alexandru Marghiloman | T. French |
1908 | ウィグ | 牡 | Alexandru Marghiloman | H. Buxton |
1909 | ラキャテリーナ | 牝 | George Negropontes | F. Rositter |
1910 | ヴィフォル | 牡 | Alexandru Marghiloman | H Buxton |
1911 | フレアマ | 牡 | Alexandru Marghiloman | Wilson |
1912 | ウィスキー | 牡 | Alexandru Marghiloman | Wilson |
1913 | ゾリデヅィ | 牡 | Alexandru Marghiloman | W. Wiley |
1914 | フレアッ | 牡 | Charles Durnell | Charles Durnell |
1915 | フラシン | 牡 | Alexandru Marghiloman | Taylor |
1916 | ドリストール | 牡 | Alexandru Marghiloman | Taylor |
1917 | 中止 | |||
1918 | 中止 | |||
1919 | フロイエラッシュ | 牡 | Costache Răzvan | |
1920 | ロシュコヴァ | 牝 | Alexandru Marghiloman | |
1921 | フラシュネタ | 牝 | Alexandru Marghiloman | |
1922 | ギッツィ? | 牡 | Alexandru Marghiloman | J. Gill |
1923 | タイフン | 牡 | Vasile Maltezeanu | Mac Intyre |
1924 | レフテル | 牡 | Alexandru Marghiloman | Mac Intyre |
1925 | ルリ | 牡 | George Negropontes | M. Csillag |
1926 | バヌマラチネ | 牡 | Simion Schwartz | J. Cokeram |
1927 | マルテジ | 牡 | Herghelia Sasca | J. Cokeram |
1928 | ギアール | 牡 | Grajdul Marghiloman | M. Csillag |
1929 | サトラップ | 牡 | Herghelia Balc | A. Philips |
1930 | コキン | 牡 | I. Schlesinger | F. Hofbauer |
1931 | バールレドゥク | 牡 | Constantin Diamantescu | J. Cokeram |
1932 | レウ | 牡 | George Negropontes | M. Csillag |
1933 | スクールバミカ | 牡 | Simon Schwartz | F. Keogh |
1934 | トーヤグ | 牡 | Gheorghe Moruzzi | M. Georges |
1935 | ピピコ | 牡 | George Negropontes | N. Ilinca |
1936 | ゴルゴス | 牡 | C. Dumitrescu | R. Vincent |
1937 | バスタード | 牡 | V. Moisescu | M. Mullot |
1938 | オーシュタン | 牡 | R. Polizu-Micşuneşti | R. Cristea |
1939 | ハルメイ | 牡 | Ion Vidrighin | R. Cristea |
1940 |
S.O.S. (セー・オー・セー) |
牡 | Simon Schwartz | Aristide Cucu |
1941 | ボアールビビ | 牡 | Herghelia Periș | Nicolae Ilinca |
1942 | フォイショール | 牡 | Herghelia Periș | Nicolae Ilinca |
1943 | ブールグン | 牡 | Grajdul Bucegi | Nicolae Ilinca |
1944 | ゴルフ | 牡 | A. Dumitraș | St. Simon |
1945 | モータン | 牡 | Emil Ottulescu | J. Gill |
1946 | モスキート | 牡 | Emil Ottulescu | J. Gill |
1947 | ファンタスティック | 牡 | Herghelia Periș | Ștefan Botescu |
1948 | ムシュケタール | 牡 | Ecaterina Guliano | W. Gill |
1949 | ポエジア | 牝 | Herghelia Scroviștea | C. Iorga |
1950 | エピゴン | 牡 | Herghelia Afumati | Aristide Cucu |
1951 | コマンドール | 牡 | Herghelia Cetina | I. Pall |
1952 | マタドール | 牡 | Herghelia Cislău | V. Pinciu |
1953 | ソリン | 牡 | Herghelia Cislău | V Huțuleag |
1954 | マック | 牡 | Herghelia Cislău | G. Stoian |
1955 | ペトリカ | 牡 | Herghelia Cislău | V. Huțuleag |
1956 | カプラ | 牝 | Herghelia Cislău | V. Huțuleag |
1957 | プシャ | 牝 | Herghelia Slobozia | M. Câmpeanu |
1958 | ガル | 牡 | Herghelia Cislău | Ștefan Botescu |
1959 |
パルドゥビツェ |
牡 | Herghelia Cislau | V. Huțuleag |
1960 | パルミラ | 牝 | Herghelia Balc | M. Câmpeanu |
※2000年に40年の空白をえて復活したルーマニアダービーは
牝馬のダティナが優勝している。
※2 馬名はカタカナ表記となっているが、全てルーマニア語の発音で
聞こえるカタカナ書きで表記している。
▲〔1906年のルーマニアダービーを勝った牝馬ティナ。フランス競馬においても結果を残しているが、その時は?フィナ?、?イエナ?の名前で記録が残っているという。ルーマニアダービーは牝馬の勝利が多く、17頭が勝利している〕
■沈む夕日を見つめて
ルーマニア三冠を成し遂げるべく、次なるターゲットは当然、ジョッキークラブ大賞ということになるが、このレースには当時の最強クラスである古馬陣も総結集。ハンデ戦の一戦、古馬最強格のルインビジブルが68kgのハンデ。マジョリエーが60kgのハンデ。ゾリデヅィは55.5kgと斤量面ではかなり楽であったが、流石に苦戦が予想される向きもあった。しかし、ゾリデヅィはマルギロマン氏やファンの期待に応え、これまでのように楽々とはいかず、揉まれて出し抜けるのに少々手こずってしまったが、結局は5馬身の差をつけ最後は抑えて大楽勝となった。2着馬マグネシウム号は、ハンデ51kgだった。ダービー2着のフォトには48.5kgのハンデを与えているが、ダービーからさらに着差は大きく開き、はるか彼方の後方に沈んでいる。
▲〔1913年ジョッキークラブ大賞のゴールシーン。写真でも引っ張り切りでゴール板を迎えることになるゾリデヅィの勇姿が見てとれる〕
▲〔ジョッキークラブ大賞圧勝後、悠々と涼しい顔で陣営に迎え入れられるゾリデヅィ〕
ゾリデヅィはルーマニア三冠を全て制圧。それもトライアル戦も全て楽勝しての完全制覇であり、ジョッキークラブ大賞は3連覇を成し遂げる。これは今だにゾリデヅィのみしか成し得ていない大偉業である。
ゾリデヅィは勝利数と獲得賞金記録の両面でルーマニア競馬史上の記録を塗り替えていき、216,125ルーマニアレイという当時としては破格の賞金記録を打ち建てる。もはやゾリデヅィがどこまで勝ち続けるのか?その点のみが焦点となっいた・・・
しかし、この世紀の名馬の進軍に暗い死神の影が頭を擡げる。
第一次世界大戦が激化。ルーマニアも競馬どころの状況ではなくなり、競馬場も爆撃を受ける。
競馬開催自体が中止となった。ゾリデヅィは半ば強制的に引退せざるを得なくなり、ターフを静かに去っていった。
■日はまた昇る
1918年11月、停戦となった第一次世界大戦の余波は大きく、未来永劫かにも見えたオーストリア=ハンガリー帝国も崩壊を迎えた。ハプスグルク家が君主の座を追われ、永遠の帝国は崩れ去っていった。それはまた、キンツェムたちを育んだ東欧の競走馬生産の完全終焉も意味していた。
ルーマニア競馬界は、1917年・18年と完全に競馬開催を中止していたが、1919年から再開させていた。
絶対君主のゾリデヅィが去ってから、はや4年もの時が流れようとしていた。
1919年の9月、衝撃的ニュースがルーマニア競馬界を駆け巡るーーー。
「ゾリデヅィ復帰」。
誰もが目を疑った。
それもそのはず。ゾリデヅィが戦火のためターフに踵を返してから時は4年も流れているのである。
今ではゾリデヅィは9歳…しかもまる4年もレースから離れている馬が復帰してくるなど誰もが想像だにしていなかった。
ルーマニア競馬界もゾリデヅィの伝説的強さを称え、1919年より?ゾリデヅィ賞?を創設。
表彰馬、殿堂馬であり、伝説や神話の中で生きる名馬として種牡馬入りもしていた馬が復帰しようというのである!
誰しもが半信半疑であったが、本当にゾリデヅィは競馬場へと戻ってきた。
絶対神王の帰還。
再始動の一戦は、1919年9月7日のソロン賞(芝1,600m)であった。
このレースのライバルとなったのは、同じマルギロマン氏の持ち馬フラウト。若きエース格であり、ゾリデヅィより圧倒的に若い馬だった。レースはフラウトの勝利で締められるも、ゾリデヅィは僅差の2着。もはやどちらが勝者なのか?全く分からない程の万雷の拍手と歓喜の声が、ゾリデヅィへと送られた。どうやら、4年ぶりのレースでレース感が全く戻っておらず、叩きのつもりでの1戦であったらしい。ゾリデヅィは血統的にもステイヤーであり、1,600mは得意の舞台ではなかった。4年ぶり…9歳…叩き仕上げ…それでいての小差の2着惜敗。ある意味、この1戦こそゾリデヅィのベストレースなのかもしれない。
4年も間隔が空いていきなり連対を果たした例は、このゾリデヅィの1例しかない。それも種牡馬入りしてからの復帰で9歳での快挙。この記録はもう永遠に更新不可能かもしれない。あのトウカイテイオーでも1年ぶり、タロックでも2年ぶりである。(もっとも、この2頭は復帰戦のGI級競走を勝利で飾ってはいるが…)
ゾリデヅィは復帰戦直後の2週間後、再度バネアサ競馬場へ登場。今度は確勝を期して(4年ぶりの実戦かつ9歳であるに関わらずw)の1戦となった。Gh.マヌ賞(芝3,000m)、何ということが、このレースを往年のレースのように振る舞い、圧勝してしまったのである。そうして、本当の引退戦に選んだのは、自身の名前を冠した【ゾリデヅィ賞】(芝3,000m)となった。ゼンヤッタやブラックキャヴィア、ウィンクスなども、自分の名前が配されたレースを勝っているが、ゾリデヅィの場合はちょっと訳が違う。引退して功績を称えられての創設レースへ出走したのである。言わば、シンザン記念にシンザンが、ディープインパクト記念にディープが、セントライト記念にセントライト出走してくるようなものである(これらは全て3再限定戦ゆえ、ちょっと例えには正確ではないが…)
10月12日のバネアサ競馬場、ゾリデヅィは最後のレースを楽しむかのように走り抜け、大楽勝で締め括った。
本当に引退したゾリデヅィは、種牡馬としても本当に優秀であった。
復帰戦前に種付けして送り出した牝馬のロッシュコヴァがルーマニアダービーを制覇。
その後も1922年にギッツィ?が、1924年にもレフテルがダービー馬となった。
そうして、1928年にダービーを勝つギアールはゾリデヅィ最高傑作となる存在で、?ラスト・ダイヤモンド?の異名も取った歴史的名馬となる。
〔ギアール:1925年生。ゾリデヅィの最良の代表産駒。最後の大物にして最高傑作。マルギロマンが生涯を閉じる前に「この馬は私にとって最後のダイヤモンドになるだろう」と当歳時のギアールを見て明言。それを言霊と取ったか、ギアールはマルギロマンの意志を継承したかのごとく、彼の発言その通りに大躍進。ルーマニア三冠を達成し、ゾリデヅィとの親子三冠の偉業を達成したのであった。マルギロマンの他界後は、妻のマリア・マルギロマンの名義で競走生活を続け、1929年にはルーマニア競馬の最高峰であるアーカル・デ・トライオンフ(ルーマニア凱旋門賞)に優勝。不動の王者として君臨した。フロレアスカ競馬場の砂馬場でのSNIC賞を三連覇。馬場も距離も不問なのも、父親譲りで、父の名を冠したゾリデヅィ賞をも勝利。父へと捧げる勝利は、偉大なるオーナーへの他向けでもあったのかもしれない。〕
ゾリデヅィは、ルーマニアにおいて史上最高最強の名馬とされている。
ルーマニアの地において生まれた史上最良のサラブレッドであり、
最高の血統で最高の成績を残した最高の名馬と称えられ続けている。
生涯成績25戦22勝2着3回。2回の敗戦は曰く付きのもので全く力負けなどではなかった。
そして、もう1つの敗戦も4年ぶりかつ、不適性な距離、状態で負けるべくして負けた2着。
無敗の名馬と謳われる由縁はまさにここにあるのだと思う。
ルーマニア三冠もトライアルも含めて完全制覇。そしてジョッキークラブ大賞3連覇。
父子揃っての三冠も全世界競馬史上たったの7組しか成し遂げていない。
ゾリデヅィは、キンツェムと並んで語らえれて良い、真の伝説の名馬だと私は確信する。
1932年の12月23日、クリスマスイヴの前日、ゾリデヅィはこの世を去った。
その時は、生まれた時と同じ様に、暁の光が浅葱色の牧地を照らす、眩しい夜明けの瞬間であったという。
▲▼〔ゾリデヅィの訃報を知らせる新聞記事〕
日はまた昇るーーー。
ルーマニア競馬界が生んだ馬を愛する歴史的巨匠と、
彼の愛した史上究極の名馬に最敬礼と乾杯!
「ありがとうゾリデヅィ。」
《参考文献・写真元》
【参考文献】
・hergelie
・Galopo.ro 『Zori de Zi』
・世界名馬列伝 「キンツェム」
・Wikipedia 「オーストリア=ハンガリー帝国」
・Wikipedia「第一次世界大戦」
【写真元】
・hergelie
・Galopo.ro 『Zori de Zi』
]]>
【Kuda Longkang】
マレーシアにて1960年代に始まり、1980年代後期まで
行われていたという、排水溝に玩具のようなボートを
一斉に流して行う興行を競馬に見立てたギャンブルの一つ。
街中や郊外、村中にある排水溝をコースとしており、
そこへ小さなボートのような楕円形の
プラスチックボード一列に並べ、
ゴーサインの合図で一斉に流し、競争させる。
各プラスチックボードは色と番号で分けられており、
レース前に観客は金銭を賭け合う。
?Kuda?は馬を意味し、?Longkang?はDrain、
つまりは排水溝を意味するマレー語である。
マレーシアにおいて競馬はお金持ちが行える
賭博であり、エンターテイメントであった。
しかし、この『クダ・ランカン』は貧富の差を
問わず、気軽に参加できる賭博行であった。
またの名を「ガターホース」、
「ドレンホース」とも呼ばれた。
この競技であれば、誰もが自分で低価格で
?馬?を用意できた。
それと言うのも、競馬は馬を1頭持つだけでも
相当の金額が発生し、その維持費も莫大なものとなる。
しかし、『クダ・ランカン』ではたった1枚の
プレートを用意するだけで、後は維持費も
必要とならない。
「プラスティック馬」を用意出来ずともレンタルできるシステムも当時存在していたという。
どの馬(プラスティック板)が最初にゴールへ到達するか?予想して後は賭けるだけという単純で分かりやすいルールも多くの民草に受け入れられた理由であろう。
『クダ・ランカン』は、1960年中期、マレーシアの首都クアラルンプールから萌芽し、濫觴の地となってマレーシア各地へと広まっていった。
【クダ・ランカンの実際のレース模様】
【クダ・ランカンのコース規定】
?清潔さ衛生面
排水溝は綺麗で瓦礫や緑の苔があってはならない。
排水溝は障害物コースではないため、レースの妨げとなるような
ゴミ、藻類、コケなどがあってはならない。
競争の主催者は実際に場所を選択する責任があるため、
排水路を清掃するか、開催するに相応しい綺麗なコースを見つける必要がある。
?用水路・排水路の水質
水質は綺麗でなければならない。
誰も臭い排水の隣で立ち往生したくない。
特に審判は、レースの最後、クダロンカンを
回収するために排水溝に手を浸さなければならないのだから。
また、水が濁りすぎると勝敗を逃してしまうこともあるので、その点も考慮する必要がある。
?水流の速さ
水の流れが遅すぎるとレースにならない。
遅いレースは退屈なレースであり、退屈なレースは
参加者や競争相手を惹きつけることはない。
オブザーバーが賭けをしない場合、
賭け金は低くなり、主催者は負けてしまう。
逆に、水流が乱れすぎたり速すぎたりすると、
審判員が実際に誰が勝ったかを
判断するのが難しくなる可能性がある。
その上、レースがあまりにも早く終わってしまうと、
クダロンカンがデッドヒートする興奮を
逃してしまうことになりかねない。
?水路の長さ
Kuda Longkang競馬場の理想的な長さは、
長さ約70フィートの直線である。
オブザーバーが排水溝の長さを多種多様に
設定出来るよう、排水溝の側面にも
アクセスできる場所がある必要がある。
審判はレースの最後にクダ・ロンカンを集め、
レースをジャッジするべく、排水溝の上に
しゃがむ必要があるため、排水溝は広すぎてもダメである。
【クダ・ランカン一連の流れ】
基本的に、審判Aはクダ・ロンカンをスターティングボードに一列に並べる。
これは、それらが同時にスタート出来るようににするため。
スタートの笛が吹かれるやいなや、このボードは水に沈められ、
クダ・ロンカンは流れに乗って流れ始める。
この後の主審Aの仕事は、基本的には、排水口の側にいる
オブザーバーやレーサーからの干渉や不正行為が
無いことを監視することである。
審判員Bはフィニッシュライン(ゴールライン)の近くに立ち、
レースの上位 3 人の勝者を大声でコールする。
彼らの発言は最終的決裁力がある絶対的なものであり、
結果に関するあらゆる論争を仲裁する権利が与えられている。
4着以下の残りのレーサーは敗者と見なされる。
審判員Bはまた、クダ・ロンカンを排水溝から
取り上げる仕事を受け持っている。
【クダ・ランカンの現在】
1960年台中期より、クアラルンプールから
派生したクダ・ランカン。
1980年台末期には既に姿を消していたという。
マレーシア政府が取り締まった訳ではなく、
(むしろ政府はその存在すら知らなかった可能性が高いという)
ギャンブルブームの熱が冷め、自然消滅してしまったようである。
クダ・ランカンがあることで、かつてのマレーシアの排水路、
排水溝、用水路は大変綺麗に保たれている所が多かったという。
しかし、今現在ではゴミが投げ込まれ、苔や藻が生え、
不衛生な状況となってしまっている場所がほぼだという。
どこかやるせない、やり切れない、
もう取り戻せない時代の移ろい。
清流の如き水路があった時代…
それは、まだ人の心に温もりがあった時代。
クダ・ランカンが走った時代…
それは、馬が街と人とを繋ぎ、自由に焦がれた時代。
Long Long ago, Kuda Longkang era.
排水溝が汚れ、クダ・ランカンが姿を消し、人々の心からも
「何か」が消えていったーー・・・
]]>
東京都調布市にある深大寺の参拝土産として、
まだ田畑が広がっていた時代より、
当地における農業の傍の副業の一環として
作られてきた藁製の馬。
作る前の晩から藁を叩いて伸ばし、
細かい仕分け作業をしてから、
接着剤を使用せずに各パーツを組み込んで作り上げる。
作り手が徐々に減り、一度は途絶えかけたが、
深大寺の門前に構える土産店「あめや」の女将さんが
最後の作り手から習い、継承した。
これにより、今でも参拝土産として
店頭で販売されているという。
その発祥は、万葉集の時代まで溯るという。
武蔵の国から九州沿岸防衛の防人として
向かう夫に向かって、妻が詠んだ歌で、
「赤駒を山野に放し とりかにて 多摩の横山 歩ゆか遣らむ」
に因むのだという。
召集される日に、夫が乗ってゆくはずの赤駒を
逃がしてしまって、とうとう徒歩で往かして
しまうことになったと嘆く歌なのだという。
]]>
〜黄金騎士神話〜
ーネアルコ、リボーすら超えた人気と
2頭にも匹敵する超絶的ポテンシャルを
潜在させたまま去ったイタリア伝説の名馬ー
父 ボールドラッド(ボールドルーラー系)
母 ソラグナ
母父 オルヴィエト(テディ系)
生年:1974年
性別:牡
毛色:栗毛
調教国:イタリア→米国
生涯成績:18戦11勝[11-3-1-3]
主な勝ち鞍:イタリアダービー(GI 芝2,400m 1977年)、ミラノ大賞(GI 芝2,400m 1977年)、伊グランクリテリウム(GI 芝1,600m)、サンセットH(米GI 芝2,400m 1979年)、ベルエアH(米G2 芝1,800m 1979年)、エマヌエーレフィリベルト賞(G3芝2,000m)、クリテリウムナツィオナーレ(G3 芝1,200m)ほか
【血統表】
■イタリアと日本の名馬の記憶から
イタリア競馬の英雄と言えば、史上最高の馬産家とイタリア国内からはもちろん、世界的に崇愛されてやまないフェデリコ・テシオ。そして彼が送り出した14戦無敗のネアルコ、16戦全勝のリボー。これら2頭が競馬を知る者なら手放しで全員が推奨することであろう。しかし、この2頭以上の人気を誇り、不幸に苛まれなければ、2頭と同等の成績を残したであろう伝説的サラブレッドがイタリアにいることを貴方はご存じだろうか。それが今回紹介するシルラドである。サーラッド、シルラッドとも日本語では呼ばれるが、ここでは「シルラド」に呼び方を統一させて頂く。
〔ノーステッキ完全馬なりで楽々と大差千切るネアルコ。14戦全勝。後世へ残した影響力も絶大。間違いなく歴史上最強クラスの名馬の1頭である〕
〔リボー。16戦全勝。イタリアクラシックは登録なしゆえ不参戦も、あらゆるビッグレースを大差勝ち。2歳時のグランクリテリウムはスタートから掛かり通しでゴールまで走り首差に止まるも、他のレースは全て大差ちぎりまくった。英国キングジョージも圧勝、凱旋門賞も史上屈指、凱旋門史上ベスト10に入る程の超豪傑結集のレースレベルも連覇。連覇時は6馬身も持ったままで独走した。世界史上最強馬に上げるファン、評論家も世界中で多い〕
イタリアの名馬と言えば、前述に挙げた2頭以外でも、テシオが送り出した名馬たちが名馬達がズラリと名を連ねる。
アペレ、ドナテッロ、三冠馬ニコロデラルカ、12戦無敗のブラック…
テシオが手掛けた以外の名馬では、凱旋門賞制覇の夢を成し遂げる2頭オルテルロ(19戦16勝)、モルヴェド(8戦7勝)…日本へと渡ってジャングルポケット、エアグルーヴ、ノースフライトやウイニングチケットら名馬を次々と送ることとなるトニービンもイタリアGIを勝ちまくり、凱旋門賞を制した名馬だった。近年イタリアの名馬と言えば、ジャパンカップを制したファルブラヴが最後となってしまうのかもしれない。
シルラドは、間違いなく、これら偉大な名馬達よりもさらに上の絶大な評価を獲得しており、人気では完全に圧倒する存在であった。シルラド以上の名馬と言えば、その素質でならネアルコ、リボーらテシオの誇る最高傑作の不敗神話を紡いだ二大巨神のみとしか言えない程の名馬だったのである。いや、シルラドが故障や気管支疾患が無ければ、ネアルコを超え、リボーにも並ぶ存在になっていたことは間違いない…と、イタリアのホースマン、ファン、関係者は断言しているのである。それも手掛けた騎手、調教師やオーナー陣営のみならず、イタリア競馬界全体からその評価を受けているのが驚愕であり、古いレース映像でレースぶりを視認する限りは確かに想像を絶する程のものを感知する部分はある。
日本馬に例えるなら…リボーはその馬体の小ささと種牡馬成績、圧倒的レースパフォーマンスからも、レース戦法は真逆だがディープインパクトに通ずるものがある。では、シルラドは?と言えば、その容姿はオルフェーヴルのような黄金の輝きを放つ栗毛であり、スタイリッシュな引き締まった馬体とバランスの取れたプロポーションとパワフルでダイナミックな叩きつけるような走法から他馬をぶっちぎって引きちぎる走りと白いシャドーロールは、ナリタブライアンを連想させる。そう、正に暴力的かつ狂烈無比なあの2頭を合わせたような馬だったのである。それでいて非常にクレバーで聡明、賢さも兼備した名馬であったという。
すなわち…日本馬に例えるならシンボリルドルフ+ナリタブライアン+オルフェーヴル。それを3で割ったような存在。
それがシルラドという神話的名馬であったのである。
それでは、黄金神話…シルラドの歩んだ蹄跡を照査、蹤跡してみていくこととしよう。
▲〔この比喩表現は分かりやすい例を取ったまでで、ルドルフ、ブライアン、オルフェと比較して果たしてどちらが強かったか?は、神のみぞ知る境地である。あくまで一つの、シルラドの凄さを分かり安く表現するために取った手法だということをご理解頂きたい〕
■黄金神話の始まり
シルラドは1974年1月1日、新年を迎えたばかりのアイルランドにて生を受け、イタリアへと渡った。
調教に携わったのはガエターノ・ベネッティ氏。
調教を始めるやすぐにこの馬の異質なものをヒシと感じとったベネッティ氏は、
早くも世界の舞台を意識し始めていた。
デビューから圧勝楽勝の連続。彼の光り輝く眩いばかりの金色の光輝を纏い、スタートから先行し電撃戦の如く疾走していくその様は稲妻の如くであった。主戦として鞍上に跨るのは、トニーノ・ディ・ナルド騎手。
無双無敵の快進撃は続き、迎えたるは2歳王者決定戦の伊グランクリテリム(GI芝1,600m)。
何ということか、ここまでのキャリアで電光烈火の如きスタートを切っていたシルラドであったが、スタートで失敗。
10馬身近くの大出遅れを喫してしまう。もはや絶望的な不利であったが、鞍上のトニーノ・ディ・ナルド騎手はこの馬を初めて本気で鼓舞し、直線に入る前から追いまくった。直線に入るとストライドを伸ばし、一完歩ごとに差を詰め、ゴール寸前、残り150m程の位置でようやく先頭馬に並びかけ、これを差し切り優勝をさらったのである。この時に先頭に立っていた馬はカポボンという馬なのだが、後にイタリア共和国大統領賞(GI芝2,400m)、プレミオ・エミリオ・トゥラティ(GI芝1,600m、現プレミオ・カルロ・ヴィッタディーニ)などを制した馬で決して弱い馬ではなく、GI級競走を複数勝てるような強い馬であったことを付言しておく。
〔伊グランクリテリウムのゴール前、決勝点シーン。シルラドは絶望的大出遅れを挽回し、カポボン(写真右)を撃破。カポボンは1974年生まれ。19戦7勝[7-4-4-4]の戦績を残し、主な勝ち鞍として本文にて前述したGIタイトル以外でもイタリアダービー2着、パリオリ賞(イタリアクラシック一冠目)、リボー賞、ピサ賞などを制した。シルラドと同世代に生まれていなければ、もっとタイトルを手にすることが出来たであろう。シルラド世代のナンバー2。〕
この絶望的状況をひっくり返した一戦でシルラドの神話は
始まりを迎えたと言っても過言ではなく、人気は一気に沸点へと達した。
■イタリア最強の玉座。そして英国遠征へ
シルラドの次に目指すレースは3歳馬の頂点、ダービーとなった。イタリアダービーは1884年に創設され、イタリア最古の競馬場であるカパネッレ競馬場を舞台として行われる。GIの舞台、芝2,400m(現在では芝2,200mのG2戦)。シルラドは父が米国の歴史的名馬兼名種牡馬でもあるボールドルーラーであるため、距離が不安視される声もあったが、陣営も、そしてファンのほとんども、その圧倒的能力で全くも問題にならない、取るに足らないことと考えていたようだった。
シルラドに大出遅れがあったとはいえ、今一歩の所まで追い詰めたカポボンは、シルラドとの対戦を避け、イタリアクラシック第一弾となるパリオリ賞(芝1,600m)へと向かった。一方のシルラドは、エマヌエレ・フィリベルト賞(G2芝2,000m)を使い、ダービーへと向かうこととなった。ここにはスタテフという同世代のもう1頭の強豪が参戦していたが、全く問題にせず大差千切って葬り去る。シルラドにぐうの音も出ない程の完敗を喫してしまったスタテフだが、この馬もかなり強いイタリア馬で、14戦7勝[7-5-2-0]という着外なしの安定感を生涯貫き通した上に、ジョッキークラブ大賞(GI芝2,400m)では、その後に凱旋門賞で2着にも入るNZの歴史的名馬バルメリノを返り討ちにもしている。その馬を全く相手にもせず、車窓から流れゆく景色を見送るかのように、涼しい面持ちでなんの苦労もなく圧勝してしまうのだから、やはりシルラドは本物の怪物なのである。無双無敵の黄金騎士シルラドにとって、ダービーはもはや勝ったも同然の空気となっていた。
ところがである。イタリアダービー時のシルラドの輸送が酷く手こずってしまい、
競馬場に到着するまでにかなりの時間を要してしまう。
レースでもその影響が出てしまったか、掛かり気味でチグハグとした道中を進んで行く…これはまさかの事態も…!?と誰しもが邪推心が過ぎった瞬間、直線を迎える前に先頭へ目がけて放たれた金色の猛獣の如きに疾駆。直線を迎えるや、先頭馬に舜天の刹那、並び掛けると後はもうノーステッキで他馬との距離をグングンと引き離していくのであった。ゴールを迎えた時、その着差は9馬身差にまで広がっていた。2着はカポボン。2歳王者決定戦に続き、3歳最強馬決定戦でも、No.2はカポボンとなった。シルラドは、グランクリテリウムでは大出遅の不利を抱えて僅差の勝利であったが、今回は輸送トラブルと掛かり気味であった状況を抱えながら、その差を絶望的なまでに広げてしまった。このレースぶりに、競馬場に詰め掛けたファンは心を大きく動かされた。「まるでリボーのようだ」と、ダービーでの歴史的大勝を、自国が誇る歴史的最強馬に準えて表現したのである。これはもう、シルラドにとって最高の評価を象徴する一語であろう。
〔イタリアダービーのゴールの瞬間。後続をあっという間に、それも楽々とそよ風が吹いていくように…9馬身差もつけてしまっての歴史的大勝となった〕
ダービー馬となったシルラドはミラノ大賞(GI芝2,400m)を次なるターゲットとして調整を進められた。
ミラノ大賞が催されるサンシーロ競馬場は、「真の競馬場」の異名を取るコースであり、真のステイヤー、名馬でないと特にビッグレースは勝てないとされている。先にリボーに例えられたが、そのリボーは当地において12勝も上げている。一周3,200mあり、直線コースは外回りが900m、内回りが700mもある。その上、直線は緩やかな坂となっていることが、その由縁なのだろう。
このミラノ大賞へフランスから美しき刺客が送り込まれていた。インフラグリーンという牝馬でその実力はガネー賞(仏GI芝2,100m)などGIレースやフランス重賞を複数制しており、イタリアにおいてもジョッキークラブ大賞(GI芝2,400m)も制している女傑である。
シルラドはこのインフラグリーンに執拗なまでのマークを受け、影のようにピタリ張り付かれ、常にプレッシャーを浴びせられながらの苦しい展開を余儀なくされる。彼女を振り払おうとデットーリ騎手も試みるが、粘着質に取り憑かれ、脚が溜まらない流れに持ち込まれてしまう。完全にインフラグリーンに支配されてレースは進行していった。直線を迎え、シルラドはエンジン全開。これまでのレースのように伸び続けるも、インフラグリーンも突き放されても、諦める事なく追い縋ってくる。3着馬は大きく離され、完全に2頭の一騎打ちとなった。外から襲い来るフランスの怪女を振り払い、何とかシルラドは1着でゴール板を経過した。インフラグリーンがシルラドに忍び寄ったかと思えば、シルラドが突き放し、再度、彼女が並び掛けようとするとまた突き放すという、デッドヒートがゴールまで続いていた。
▲〔ミラノ大賞のイタリア競馬史にも残るセンセーショナルな一戦。写真左がシルラド。右がインフラグリーン。ゴールまでこの2頭の激しい叩き合いが展開される〕
着差はほぼ3/4馬身差であったが、マーク殺法で徹底的にプレッシャーを浴びせられ続けた展開利を鑑みると、実質的な能力差は火を見るより明らかだった。ちなみに3着のルーデラパという馬には10馬身差も差をつけてしまっていた(が、この馬も重賞馬でレコード勝も経験あり、決して弱い馬では無かった)。タイムはレコードとなる2:26.3であった。この当時のイタリアの2,400mのタイムというと、2分30秒前半が大方のタイムで、速いと28秒台であったことを見ても、いかにこのタイムが突出したものであったかは容易に窺い知れよう。(ちなみにトニービンより圧倒的速く走破している)
▲〔シルラドが芝2,400mのイタリアレコードを記録する前の、レコードホルダーであったのは写真のティエルセロン。1969年生まれの栗毛の牡馬で10戦9勝[9-1-0-0]というほぼパーフェクトな戦績を残した。イタリア大賞、ジョッキークラブ大賞などのGIレース、ビッグレースを勝ちまくっており、この馬のレコードを3歳で塗り替えたというのは、驚愕すべきことで、やはりシルラドは只者ではない。〕
フランスからの刺客を振り払い、撃墜してみせたシルラドは、イタリア競馬界の至宝へと昇華した。
ゴール後、ウイニングランを行い、多くのファンが見つめるスタンドへと戻ってきた時、ファンも関係者も喜色満面の笑みを浮かべ、シルラドを囲んで祝福の声を掛けた。
そう、その光景は、かつてリボーやネアルコ、テシオが育てた幾多の名馬たちがイタリアの競馬場各地を闊歩していた耀(かがやかし)き時代、幾千万とも繰り広げられていたシーン。その栄華が二十数年ぶりにそこに蘇っていたのである。
この一戦は多くのファンの心を揺さぶった、「イタリア競馬史上屈指の美しき一戦」と称えられ、語り継がれている。
▲〔ミラノ大賞を制し、万民からの万雷の祝讃と称賛を浴びるシルラドとトニーノ・ディ・ナルド騎手〕
歴史的勝利を次々とモノにしていくシルラドに、英国アスコットへの遠征が計画された。
当時はまだ飛行機での輸送ではなく、船での輸送手段が取られていた。
乗船、下船にも時間を要し、検疫にも多くの時間が割かれ、馬の疲弊度は想像以上であったらしい。
それでも英国の地へと渡ったシルラドであったが、この頃を境に体調に異変が生じ始めていたという。
英国到着後の調教で脚元に異常が認められたシルラドはレントゲン検査の結果、右脚の脛部分にあたる骨にヒビが入っており、当然レースに使う訳にもいかず、イタリアへと無念の帰国、蜻蛉返りを余儀なくされたのだった。
この一年は残りの期間を治療、休養に充て、シルラドの1977年は幕を閉じる。
▲〔英国行きの船に積載され出発を待つシルラドとベネッティ調教師(写真左)〕
■異変・変調…そして新転地・米国へ
シルラドは怪我を癒し、1978年の始動戦を迎えた。復帰はサンシーロ競馬場の芝1,800mが選ばれた。
プレミオ・プリミ・パッシというレースで水曜日の平日に催された。それにも関わらず、イタリアの産んだリボーに続く英雄の姿を一眼見たい、復帰を祝いたいという大勢のファンで競馬場は立錐の余地が無い程にごった返した。シルラドはそうしたファンの期待に応えるかのように走り抜けた。スタートから先頭を奪うと、リードを広げ続け、ノーステッキはおろか、完全に持ったままで12馬身差もの大差を広げ、1:49.0のレコードタイムで大圧勝大楽勝。見事に鮮烈なまでの復帰戦大勝を飾ってみせた。
▲〔歴史に残る超圧勝劇、12馬身差の持ったまま馬なり大差勝ちを披露するシルラド〕
「やはりこの馬はリボーだ」
「復活してさらに強くなっている」
彼の復帰を心待ちにしていたファンも評論家らも、マスコミもシルラドを祝福し、待望は更なる期待となり、その期待は海外での勝利の気運の後押しとなった。
しかしその傍ら、大楽勝であったにも関わらず、ゼイゼイと息を乱すシルラドの姿があった。
偏重は明らかに足音を立てつつあった。競馬場に映える夕暉はどこか侘しく、そしてまた斜塔にかかる夕影は、どこか不気味な鈍色を陣営の心模様へと頭を擡げていた。
程なく、シルラドに再度の海外遠征が計画された。海外遠征とは言っても、隣国フランスへの遠征が実行へと移された。今回は船便ではなく、当然として陸路からの輸送であり、シルラドへの負担も圧倒的に軽くなった。
狙うレースはロンシャン競馬場の芝2,100m、ガネー賞であった。ライバルは、後に「鉄の女」と呼ばれる名牝トリプティクの母となるフランスの女傑トリリオン。リボーの孫であり、米国・英国・アイルランド、そしてフランスと渡り歩き、コンセイユドパリ賞、ムーランドロンシャン賞2着のあるモンセニユール。ニュージーランドの歴史的名馬であり、この後には凱旋門賞で2着となるバルメリーノなどが揃った。イタリアでの無敵のオーラが感じ取れず、レースでも不可解な程にあっさりとトリリオンに4馬身差の3着に、シルラドは敗れてしまう。最後はバルメリーノとの3着争いがやっとだった。(後の凱旋門賞2着馬に先着しているのだが…)
このレースにはイタリアのファンも多くロンシャンへの詰め掛けていたが、シルラドの敗戦にショックの色濃く、とても信じられないという面持ちだった。「何かおかしい。しかし、イタリアへ戻ればすぐまた息を吹き返す」そう誰もが信じてやまなかった。そう、イタリアのホースマン、ファンも、誰しもがそれを疑わなかった。
シルラドはイタリア帰還後にミラノ大賞の連覇を狙って調整を進めた。
しかし、シルラドは4着に敗退。嘘のように直線で伸びず、脚が止まってしまっていた。
信じられない敗戦であり、シルラドは連敗を続けてしまう。
突如として暗渠に落とされ、匍匐前進を強制させられたかのような屈辱。
着実にシルラドは疾患に体を蝕まれてしまっていた。
下喉頭神経の麻痺による馬の異常な呼吸音が厩舎にこだましていた。
暗鳴に喘ぐシルラドを救う手立てはないのか…
とある朝のことだった。2人のアメリカ人がシルラドの元を訪ねやってきた。
エイブラハム・S・ヒーウィット氏。後の米国移籍後にシルラドのオーナーとなる人物であった。
「7億リラでこの馬を譲って頂きたい。彼を助けられる手立てを私は持っている」
オーナーも、陣営もシルラドを救う手立てを探していた。
金額以上にシルラドの喉を蝕む病魔から救うための手段として止む無く最後の手段として英断を決めたものと信じたい。
■黄金の三冠馬vs黄金神話騎士
年が変わり…1979年、シルラドは米国はケンタッキー州へと渡っていた。
手術台に載せられたシルラドは麻酔によりピクリとも動こうとはしない。
喉頭手術を行った後、当時革新的だったシステム (気管切開なし)を採用され、治療が行われた。
果たして2、3歳時の、病魔に浸蝕される前のあの迸る程の黄金の眩き輝きを取り戻せるのだろうか…?
誰しもが疑問符に感じていた。米国はイタリアとは全てが異なる環境。競馬場も右回りではなく、左回りとなるし芝質も全く異なる。
ましてやダートなど走ることなど想像だにしていなかった。
しかし、黄金騎士は再臨した。
ベルエアH(米GI芝1,800m) を圧勝。タイムもレコードで1:46.0。
間違いなく、能力はスポイルされていて間違いなかった。
年齢を重ね衰えも当然あったはずである。
ところが、今まさに全盛期であるかのように燦然と瞬いて凱歌を唄うシルラド。
これならば…と米国においてシルラドを調教したチャールズ・E・ウィッティンガム氏は、最強中の最強の存在にシルラドをぶつけてみることを決断するのだった。
その最強の存在とは、米国三冠を圧勝した黄金の三冠馬アファームドである。
それも芝ではなく、アファームドの最も得意とするダート中距離の一戦。
ハリウッドゴールドCでシルラドをぶつけてみようというのである。
無謀過ぎる挑戦に思えた。しかし、シルラド自身が自分自身に打ち勝とうという闘気を激らせていた。
イタリアでの全盛時代を思い返すような、素晴らしい馬体を取り戻しつつあった。
ピークはすでに過ぎている…しかし、喉に取り憑いていた悪魔が去った今、かつての力が衰えようとも、それを精神と魂が支えている…そのような様に見えたのだった。
レースでは、アファームドが内枠を利して先頭を走り、「来れるものなら来てみろ!」と言わんばかりに猛然と飛ばして行く。
対するシルラドは苦しい展開になる。外枠発走から、不慣れなダート。
常に外外を回し、大外から先頭のアファームドを目指し先行。
最終コーナーへと入る前から猛チャージを掛け、少しでもアファームドに食らいつこうと並び掛けることを試みる。
直線を迎え、逃げ込みを図るアファームドに外から猛然とシルラドが襲い掛かる。
それでも絶対に抜かせまじと言う鬼神の如き気迫と勝負根性で先頭を譲らず、ついには首差シルラドの猛追を凌ぎ切って優勝。
しかし…三冠馬を本気の本気にさせ、追い詰めたシルラドへも大きな拍手と称賛の声が送られた。
特にイタリアのファン、かつてのシルラドの名パートナーであるベネッティ氏、トニーノ・ディ・ナルド騎手らも大きく胸を打たれたという。目頭を熱く滲ませたという。
この時に計時されたタイムは1:58.4❗️
いまだ同レース史上2位タイとなるタイムであり、あのスワップスやラウンドテーブルといった全米が誇る歴史的名馬らが1:58.6のタイムであった事から考えると、実戦でのダート経験ゼロに等しいシルラドがここまで突出したタイムをマークするというのは、彼の秘めたる膨大なるポテンシャルを示す、一つの指針と言えよう。
▲〔ハリウッドゴールドC1979の最後の直線。残り200m付近。押し切りを図るアファームドに外から襲いかかかるシルラド。一瞬交わすかにも思えた上に1/2馬身差程まで再接近時には近づくが、3/4馬身差届かなかった。しかし、シルラドが全盛時の力をそのままに完調に仕上げられていた上に、枠番も内枠であったら…差し切っている可能性は十二分にあった…そう思える内容であった〕
このセンセーショナルな一戦の後に、再度芝へと戻し、サンセットHへ参戦。轟烈に突き抜け快勝し、ついに米GI奪取を成し遂げる。
しかも、ここもレコードで2:24.0!
(このタイムは、クーガー、エクセラー、ジョンヘンリー、サンドピッドといった名馬たちよりも圧倒的に速く、2013年に開催地となったハリウッドパークが閉場となるその日まで、史上2位のタイムで残り続けていた。)
それならば、再度ダートでもGIを取ろう、三冠馬を追い詰めた力なら必ず勝てる!…
そう意気込んで乗り込んだウッドワードS(米GIダート1,800m)で嘘のように5着惨敗。
おそらくは…アファームドとの死闘、それに続いてのクラシックディスタンスでのGIレコード激走。
これらが重なったことによる心身への疲労が招いたものであろう。
この敗戦を最後に、シルラドはターフへ別れを告げ、スペンドスリフトファームにて種牡馬入り。
しかし…薄幸の黄金巨神に、最後まで神は冷徹だった。
謎の感染症に冒され、シルラドは命を奪われて虹の橋を渡っていった。
あまりにも報われない馬生をずっとずっとシルラドは歩み続けていた。
せめて最後だけでも、安らかに迎えさせて上げることも叶わなかったのか…
■イタリア競馬の凋落…〜夕映えに揺られて〜
シルラドがこの世を去ってから、イタリア競馬も大きく変わりつつある兆候を見せていく。
かつてフェデリコ・テシオの才能により、世界最強最高の競馬大国となったイタリア。
ネアルコ、リボーらの世界に示した史上最強馬の栄光。
しかし…その栄光の日々にも斜陽が差していった。
トニービン、ファルブラヴらの躍動は、シルラドが灯したイタリア競馬の篝火・・・
その最後の残り火であったかのように転落の一途をたどる。
サラブレッドの生産頭数は年々減少していき、2009年に約1,700頭だったものが2014年には63%減の620頭にまで落ち込んだ。
生産頭数のみならず、競馬の統制管理を行ってきたASSIが、イタリア農業食料林業省へ開催権を譲渡。
近年イタリアの競馬界はずさんな組織運営や売上の低迷から、度々開催がストップする事態となっている。
杜撰な開催経営は競馬をつまらなくさせ、ファン離れを招き、それは売り上げに大きな打撃を与えて行く。
そうなると、賞金のカットも叫ばれるようになり、それに反発する競馬関係者はストライキを起こす。
そんな環境下で面白い、ファンが楽しめる競馬が行えるはずもなく、絶望的負の連鎖スパイラルが延々と続いていく。
そうして、ついにはイタリア農務省が「財政危機のため」と苦しい言い訳を盾に賞金の支払いを差し止める事態にまで発展。
さらには欧州における競馬の競走格付けを行う欧州格付委員会(European Pattern Committee: EPC)が、2014年3月までにイタリアの競馬当局が全ての滞納金を支払わなかった場合、2014年末をもってイタリアをEPCから除名し、さらにイタリアを国際セリ名簿基準委員会(ICSC)の格付けにおいてパート2国に格下げする方針を表明。
しかしそれでも事態打開の姿勢は見えず…結局、滞納金の支払いは行われず、同年4月には除名処分及びパート2国への降格が正式決定した。
そうして、今やイタリアにはGIレースが消滅。凋落の暗渠を歩み続けている。
こんな状況をテシオは、シルラドは天国でどんな心持ちで見ているのだろうか…
想像するだけでも、胸が張り裂けそうになる。
シルラドが現れた時、イタリアへ差し込んだ陽の光は希望に満ちていたものだったのかもしれない。
しかし、その光は斜陽へと変わり、シルラドが去った後、その陽はさらに傾きを増し、今や暗闇がイタリア競馬界を覆い尽くそうとしている。
夕映えに揺られる中、イタリアの人々は思い出す・・・
シルラドの愛おしいその姿を。
ベネッティ氏は思い出していた。シルラドの人懐っこいその仕草を。
シルラドは賢い馬で、いつも近くに人がいると、そのポケットに人参やキャンディを持っていないか?
人にちょっかいを出して口で服を摘んだり、
ポケットの中をチェックしようとじゃれたりするのが大好きだったという。
そんな愛しい、切なき慕情が夕映えの中揺れている。
昏れ泥む街路樹を背景に、過ぎ去りし記憶と命のかりそめが、風の譜線の上、舞い翔がる。
黄金色の残光に照らし出されたそのキヲクはきっとまたいつか、我々の元へ舞い降りてくれるのだろうか。
《参考文献・写真元》
[参考文献]
★クラブ・カヴァッロ・イタリア Club Cavallo Italy
★カヴァリエー・パブリッシャー chavalier publisher
★ポルタ・メトロニア・ローマ Porta metoronia Roma
★ソロ・ガロッポ sologaloppo
★おうまのアイコン
★優駿たちの蹄跡
★Wikipedia
[写真・イラスト元]
★Jockey club Italy
★クラブ・カヴァッロ・イタリア Club Cavallo Italy
★ソロ・ガロッポ sologaloppo
★みふる 様
★黄昏の星図絵 様
]]>
山陰・中国地方を中心として古くから伝わってきた、
1月14日の小正月近辺にて藁馬を使って行われる民俗風習。
地域、エリアによって千差万別、多種多様に仔細には別れる。
共通しているのは…
?子供もしくは若者が藁で作った馬を持って集落の各家々を往訪。
?玄関先で「トイトイ」「トラヘイ」「トロヘイ」「ホトホト」
「トノヘイ「トロヘン」などと掛け声を掛け、藁馬を
置くか家の中へ投げ込む。
?家主が藁馬と引き換えにお菓子やお金、餅を籠なり、袋なりに入れる。
?藁馬と引き換えになった物品をこっそり取り、家から立ち去る。
?この時、家の中の人が水を掛けてくるので、
その水に掛からないように避けて次の家へ向かう。
(地域によっては水に掛かった方が良いとされる所もある)
以前、私も山口県阿東地区・地福に伝わる「といとい」を取材、
見学させて頂いたこともあるが、別の地域では
似て否なるものが行われている。
■島根県飯南町の「トロヘイ」
とろへいは「初めて月が満ちる日に天から幸福が降って来る」という民俗信仰に基づき、子どもたちが「幸福の使者」として民家を回る。起源は明確ではないが、中国地方の山間部を中心に伝わるという。張戸地区では少子化の影響もあって何度か途絶えたが、伝統を守るため地元有志と頓原公民館が2009年に復活させた。
「とろとろとろとろ…」と唱えながら、子どもたちが縁側に大小2種類のわら馬を置き、いったん物陰に隠れると、住民は小さい馬を受け取り、大きい馬に菓子をくくりつける。子どもたちが大きい馬と菓子を持ち帰ろうとすると、隠れていた住民が姿を現し、水を掛ける。その水は「清めの水」と言われ、掛かると1年間、健康に過ごせるという。
■島根県木次町(きすきちょう)の「ホトホト」
若者が頬被りをして藁馬を「ほとほと」と唱えながら門口の戸をあけて投げ込む。
家の者は、用意していた餅や祝儀を馬についた袋に入れる。
隠れていた若者は綱をたぐって馬を引き出す。家人は桶か柄杓で水をかける。
その家は一年、菜の虫がわかない。餅を牛に喰わせると牛が繁盛する。
藁馬は荒神様におさめる。古くはトシジイサン(歳神?)に扮した若者が
白髪の老神の面をつけ、子どものいる家を訪れ、餅やお年玉を与えたもの。
■広島県庄原市口和町向泉の「とらへい」
農家の大切な牛馬の安全を願う、古くは江戸時代以前より続く風習。
その昔は各地域で行われていたが、現在、庄原市では、
口和町向泉(むこういずみ)地域に残るだけとなっている。
外の世界からやってくる神様に扮した「まれびと」(子供たち)が、
隠れながら玄関に入りわらすぼ(わらの容器)にはいった
「わら馬(神馬)」を置き「とらへい!とらへい!」 と
叫んで姿を隠す。すると、家の人は何事かと思い玄関に行き
「わら馬」に気づく。家の人は「わら馬」のお礼に、
空になったわらすぼに菓子や餅などを入れて家の中に戻る。
「まれびと」は姿を現し、こっそりお礼の品々を持ち帰る。
持ち帰る途中で家の者に見つかると、水をかけられてしまう。
この「とらへい」は、口和音頭にも唄わられているという。
「とらへい」の言葉の語源は、諸説色々あるが、
殿様のために兵士がお餅を取りにいっていたことから
「殿兵(とのへい)」と呼ばれていたなどいう一説もある。
各家家が貰った藁馬は、牛を飼っている家の方の床の間
(現在では牛を祀っている神棚)に1年間飾られるのだという。
■山口県錦町向峠の「トロヘエ」
家々の入口で「トロトロ」というと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分と参加者があったという。
■島根県美郷町君谷地区の「とらへい」
1月14日の小正月、雪を踏み分けながら、子供たちが作った「とらへい馬」を持って各戸を回って歩く習わし。
鍵を掛けずに訪問を待つ家々の住民たちと、この一年の無病息災を願う。
子供たちは訪問先で、玄関や勝手口の先に紐を付けた藁馬を置き、家人に聞こえるように「とらへーとらへー」と声を合わせる。この時、見つかると水を掛けられることもあった。
家人は藁馬を見つけると、藁馬に結び付けられている袋に餅やお菓子、お年玉などを入れ、馬を抱えて顔を出す。
その時に子供たちも駆け寄り、この一年の多幸を願うのだという。
いつまでも残り、継がれていってもらいたい、
人の温もりを感じる藁馬習俗。
しかし、近年では少子化の影響で途絶えていってしまっている風習がほとんどだという。
近年のうちに、再度私も現地へフィールドワークしてみたいと感じている。
いつの世までも、この素敵な民俗が残り続けますようにーーー。
《参考文献・写真元》
・『小正月の来訪神:中国地方』2022年 竹林 史博著
・広報みさと第89号
]]>
〜幻の一角獣を追いかけて〜
私はこれまで日本、そして世界中より一角獣(一角馬、バイコーン(二角獣)、
トリコーン(三角獣))の逸話、証言、記録、文献を収集し、日本で伝わる
伝説に関しては現地へと足を運び、調査・フィールドワークを行ってきた。
今回は新たに加わった資料、伝記等を紹介すると共に、奥能登で咫尺叶った
「馬の角」についてお伝えさせて頂く。
この広い世界のどこか
必ず一角獣は実在する…
していたと私は信じている。
■新たな角のある馬の記録発見
1905年、3月4日、ニューヨークスポーティングタイムズ紙が報告した内容によると、
テネシー州ロジャーズビルのコガー博士が所有していた2歳牝馬のアザラの右耳の耳元、
耳と頭の付け根付近に角のような物が生えていたという。
この角のようなものは約3.25インチ(8.25cm)程あり、蹄と同じような色で、
羊や牛のツノと同じ様な硬度があったという。
■アルゼンチンの鬼馬
また、別な国において同様の例が報告されているという。
アルゼンチンのサンタフェにおいて、牛のような2本の角を持つ馬が生まれた。
この馬の角の長さは4インチ(10cm)はあったそうで、
しかも鋭利で直立していたという。まるで牛というより鬼の様である。
また、同じく南米のチリにおいても、2本の強靭な角を持つ馬が生まれたという。
なんと生まれながらに角が生えており、その角は3インチ(約7.6cm)あったという。
性格は非常に大人しかったが、いざ機嫌を損ねるとその角で牛のように
攻撃してきたという。この馬は種牡馬としても使われたが、子馬にその角が
遺伝することは不思議となかったそうである。
〜奥能登に伝わる一角馬伝説〜
(※写真資料提供:竹中健也氏)
石川県は能登半島の珠洲市は、かつて名馬の名産地であった。
今でこそ、名馬の産地と言えば真っ先に北海道が想起されるが、
遙かなる昔日においては、北海道のみならず、日本各地に数多の
名馬たちを送り出していく御牧が存在していた。
その内の一つが珠洲市なのである。
珠洲市には多くの馬の謂れ、伝説、民話が多く残されており、
その名残は、「馬渡(まわたり)」「馬緤(まつなぎ)」「馬おこし(まおこし)」
といった地名にも表れている。
その昔、日本在来馬八種と同じ、日本在来の品種の馬がこの能登半島にもおり、
草を食み、営みを人々と送っていた。
しかし、農耕の機械化、馬匹改良等の波の流れに淘汰されていき、
絶滅してしまった。
その能登馬の中に、角を持った馬がいたという言い伝えがあるのである。
この角が生えた馬が生む産駒は、そのほとんどが良駒で、この馬は?能登駒の母?と
称えても差し支えない程の名牝。
能登馬は明治末期より生産頭数が凋落の一途を辿るも、
昭和30年代までは生産されていたらしい。
中でも、柳田で生産された能登馬は特に優秀で、頑強な馬体に加え、
温厚無垢な性格をしており、農耕・重労働に非常に適した馬であったという。
勝海舟にも師事した15代竹内虎松が在来血統の能登馬を改良した馬は
「虎松馬」と呼ばれ能登駒の中でもさらに際立つ評判を博していたようで、
関西や中京方面に至るまで農耕・荷役馬として高値で買われていったという。
この虎松馬の能登駒の中に角のある牝馬がいたという。
1909年(明治42年)に残した文書の中に登場しているので、
少なくともその時代には角のある能登駒が実在していたことになる。
それだけの名牝ならば、おそらく馬名もあったであろう。
引き続き調査を行ってみたい。
〔いったいどのような角が、この虎松馬には生えていたのであろうか。『石川のトリセツ』昭文社(2021.2/1発行)には能登馬は4種類に大別されていたという。生産された地名で分けられており、鳳至(ふげし)郡柳田村の「虎松馬」、鳳至郡宇出津(うしづ、現能登町)の「梅木馬」、鳳至郡町野(現・輪島市町野)の「鈴の馬」、羽咋郡富来(現・志賀町)の「高田馬」の4種なのだという。※写真はイメージです〕
■?馬の角?と?「角が生えた馬」の像?
「馬の角」の伝承を後世へと伝える「角が生えた馬の像」は、
馬緤町の春日神社に佇んでいる。
この像を立てるに主導となられたのは、珠洲市唐笠町にて
『ストローク乗馬クラブはなむけ』を経営されている竹中健也氏。
(今回の調査で訪れた際、懇切丁寧にご案内、ご助言、ご説明を賜りました。
この場をお借りして再度、深く感謝申し上げます)
竹中氏は珠洲市に伝わる馬の伝説、民話など、馬に関わるあらゆることを
調査されている中、源平合戦に敗れた後、馬緤町へ逃れてきた平時忠の配下の
武士の馬に角が生えている馬がいたという伝説を知る。
「その伝説を、馬と縁のあるこの地へ伝え、馬に関心ある人が
訪れると共に、地域の皆様が伝説を繋いでいくための場になって欲しい」と
願いを込め、この像の建立を主導となって進められた。
〔別なアングルから。伝説の一角馬は、時忠配下の武士と海を渡って来た際、一緒に他に6頭の馬がおり、一角馬も加えると7頭の馬が渡って来たことになる。その一角馬の馬名は不詳。〕
〔?鎌倉時代に人の病を癒した角が生えた馬がいたと伝わっている?。伝説によると、一角馬を飼っていた武士が病に倒れ(腹痛?)た際、角を煎じて飲んだ所、病が癒えたのだと言う。西洋のユニコーン伝説も、ユニコーンの角には「水を浄化し、毒を中和するという不思議な特性があ離、痙攣やてんかんなど、あらゆる病気を治す力を持っている」と言う言い伝えがあり、そうした部分が共通しているのも興味深い。漢方薬に関しても鹿の角を煎じて飲む話があり、生き物の角を煎じて飲むと言うのは万国共通に近い物があるのであろうか?〕
〔馬像を磨く竹中氏。「生きている馬と同じように扱ってあげなきゃいけない」とおしゃっている姿が印象的でした。また同時に非常に共感した次第です〕
〔竹中氏が馬像を磨き上げた瞬間、陽が差し込んで来て馬像を
照らし、荘厳な雰囲気に包まれました〕
そしてこちらが
その伝説の一角馬の角と伝わるもの。
(写真:竹中氏撮影・提供)
〔よく見ると、包丁などか?刃物などで削ったような跡が、
角の先(写真角の左上部分)に見受けられる〕
〔とある旧家に伝わる「馬の角」。大きさはペンと
比較しても7cm程か。写真:竹中氏撮影・提供〕
◉かつて御牧であった珠洲市と馬駆けのあった馬場跡
馬緤町の春日神社とは別な春日神社がもう一箇所ある。
それが飯田町の春日神社。
こちらには、かつて珠洲市が御牧であったことを記す記念碑が立つ。
その神社の目先には珠洲市市役所。
竹中氏によると、かつては市役所は馬の種付場であったという。
またその市役所前の大きな道路も、一直線になっており、
馬が思いっきり走れそうな感覚に捉われた。
やはり直感は当たっており、この道路もかつは武士たちが
馬駆けを行っていた場所でもあったという。
〔「春日通り(馬場通り)を朝夕馬駆けしたという逸話が残る」と記されているのが見える〕
◉ストローク乗馬クラブはなむけ
今回お世話になりました竹中さんの経営されている
「ストローク乗馬クラブはなむけ」のHPはコチラ!
https://strokerchanamuke.jimdofree.com/
(上の一角馬蹄鉄の画像もクリックするとHPへ飛べますよ✨)
〔お話を主にお聞かせ頂いた受付のクラブハウス。中には素敵な馬の装飾品、絵画、グッズがたくさん!それを見るだけでも一見の価値ありありです!特に奥様の描かれている馬のは「すばらしい」の一言。好きな馬の絵を描いてもらうことも出来るそうですので、気になる方はHPをチェック!〕
【ストローク乗馬クラブで会える主なお馬さんたち】
コスモドーム号、レイズアスピリット号、幸せな余生生活(引退後放牧生活)を送っています!
ファンだった方はぜひ会いに行ってやってください!
(ただし必ず事前に前もって、連絡を入れて許可頂いてから行くように!)
〔上の蹄鉄(ただし一角馬Ver.でなく通常馬版)、そしてこのカッコいい『一角馬絵馬』、「道の駅すず塩田村」にて買えちゃいます!〕
珠洲市の平原を見て…
かつての名馬産地であった時代に想いを馳せる…
失われた能登馬たち…
伝説の一角馬…
彼らのためにも、珠洲市がまた馬にとっての楽園となりますように…。
竹中さんの情熱がいつの日か大きな形となりますように!
私も微力ながらそのお手伝い、サポートが出来たらと祈念し、
本レポート締め括らせて頂きます。
ーーーFin.
【お・ま・け 〜箸休め〜】
〔いやいや、のび太よ、全然おかしくないっしょ。むしろカッコいいっしょ!ユニコーン!てかユニコーン知らんのかい!しかし、しずかちゃんの絵が上手い…で!何でこんな絵を描くことになったの?この話😅〕
【バイコーン(二本角)現象】
〔写真のように馬の額に、瘤のような突起が出る馬がごく稀にいます。有名どころではアグネスタキオン、デアリングタクトなど。米二冠馬のベルマーもこの類の二角馬だったようで、ベルマーの場合はもっと長い、角とハッキリ認識できる程、突起が2つあったようですが…〕
【キプロスの一角獣像】
キプロスにて発見されたca. 600–480 B.C.の手作りの
馬のフィギュアだという。
その額には大きな角が戴かれている。
これはユニコーンを模した模型なのか…
角が生えた馬なのか…果たして。
《参考文献》
・Journal of Heredity、第 8 巻、第 7 号、1917 年 7 月、303 〜 305 ページ(ジェ・ミラー)
・北國新聞(H23.10.25)
・郷土資「馬緤の里」
・『石川のトリセツ』昭文社(2021.2/1発行)
など。
]]>
〜南の島に降る奇跡の雪〜
ー南アフリカでも屈指の存在となったであろう
伝説と悲劇のモーリシャス史上最強最高の名馬ー
父 シビルズネフュー(ハイペリオン系)
母 ウインターラヴリネス
母父 ウインターハルター(ハンプトン系)
生年:1960年
性別:牡
毛色:青鹿毛
国籍:モーリシャス
生涯成績:93戦34勝
主な勝ち鞍:メイデンカップ(1965 Gr1, 芝2,400m) 、デュークオブヨークカップ (1966・1967連覇,Gr 1, 芝1,600m) 、コロネル・ドレーパーカップ(1969, Gr 2, 芝2,000m)、クープ・デュサン・サンカートネル(3勝(1965-66連覇、1968)Gr 3)、ユーユーカップ、トーテゴールデントロフィ(1966-67連覇, Gr 3)他。モーリシャス年度代表馬2回(1965年、1967年)
◆Srar-crossed African great horses
南アフリカ大陸における伝説的名馬はどこか薄幸の哀愁と寂寥を取り巻いている馬が
多い…という想いを私自身が抱懐するのは、自身のこの国に対しての
イメージ先行ではないと、感知することが調査研鑽している際に多感する。
その最たる例は、南アフリカ史上最強の名馬の1頭と謳われるシーコテージ(24戦22勝)。
その余りにも眩いばかりの強さから、ファンから妬まれ、パドックにおいて
硫酸を掛けられ、あわやという危機に苛まれたばかりか、
レース中に銃撃まで受けた。
競馬というスポーツは、日本においてもだが、特異な環境下にあり、
日常を送る一般の民草とは一線を画した閉鎖的空間において成り立つ一面が
あることは否定できず、またそれは他国においても、南アフリカにおいても
同じであり、なおかつ民族的観念や気性から、南アフリカにおける
スターホースは苦難の立ち位置を歩んだ馬が多いと感じる。
モーリシャス競馬における伝説的存在、史上最強最高の名馬と崇愛されし、
ミスティックスノーもそんな一頭である。
ミスティックスノーは、93戦34勝の成績を上げた。
この勝利数はモーリシャス馬においては、今だに史上3位の記録となっているばかりか、
南アフリカ大陸全土を含めても、ベスト6に入る記録である。
【南アフリカ大陸最多勝馬ランキング】
◉プロディガル
172戦59勝
〔モーリシャスとアフリカ大陸合わせても、このプロディガルが史上最多勝馬。モーリシャスでは56勝を上げる。1955年生。父シビルズネフュー(ハイペリオン系) 母ラフレッテ 母父ジュビー(セントサイモン系)。2歳から15歳まで競走を続け、その後は20歳まで障害飛越の競技に出場していた。9歳で73.5kgの超酷量を背負って1,000m、1,600m、2,000mのレースに出走し惜敗まで健闘していたこともある。プロディガルの話は、また別の機会に詳細を紹介出来ればと思う〕
◉コマンドー
162戦44勝
◉ダリウス
236戦41勝[41-37-30-128]
〔1910年生。父クイックマーチ(ストックウェル系)母パッションフラワー 母父チェッスール(ヴォルティジュール系)、主な勝ち鞍としては、ヨハネスブルグサマーハンデなど。2歳から18歳まで競争を続けたというダリウス。栗毛で真っ赤に近い馬体であったという〕
◉ヒアーザドラムズ
64戦34勝[34-12-1-17]
※この他、スクリーチアウルという南アフリカ馬が32勝を上げ、
トミーボーイというモーリシャス馬がミスティックスノー以上の
勝ち星を上げたと言われている。
主な勝ち鞍は冒頭のプロフィールに上述した内容であるが、
その強さは圧倒的なものだった。
惜敗、敗戦も多いが、勝つ時は神々しさすら体感する程に、
決定的に他馬捻じ伏せ、ぶっちぎって圧勝した。
しかし、その強さが見る者の一部の心を歪ませた。
ミスティックスノーは、競馬場で毒殺され、
関係者に看取られながら絶命するという、
非業で無念の最期を遂げるーーーーー
それでは、モーリシャス競馬へクローズアップすると共に、ミスティックスノーの
その生涯を見ていきたい。
モーリシャスにおける競馬の産声は、遙かなる昔日、1800年初期にまで遡る。
1812年の6月25日、チャンプドマーズ競馬場(シャン・ド・マルス競馬場)にて
最初の競馬。
この競馬場は南半球最古の競馬場でもある。
ナポレオン戦争中の1810年12月、それまでフランスに領有されていたモーリシャスは、イギリスの占領下に甘受することになる。
シャン・ド・マルス競馬場は1812年に娯楽を通じてイギリス人とフランス人の融和を図ることを目的として設立され、同年6月25日、最初のレースが開催された。1番最初のレースは競馬場を3周も周回するレースだったと言われ、そのレースでは英国人馬主のアーバイン氏所有のファニーという牝馬が勝ったという。
以来、200年以上にわたり、20世紀の世界大戦中にも中断することなく、競馬開催が続けられてきており、南半球では最古、世界でも有数の歴史を持つ競馬場とされている。
〔最初期のチャンプドマーズ競馬場〕
〔モーリシャスは、南アフリカ大陸の南東、マダガスカル島のさらに東に位置する小さな島である。ドードーなど絶滅種がいた島として有名である〕
◆生い立ちからの試練
ミスティックスノーは1960年9月27日、南アフリカにてロバート・マレー氏によって
生産された。父シビルズネフューは、英国から輸入された馬で、
ミルフォード卿が馬主でエプソムダービーで2着健闘したこともある実力馬。
南アフリカ、モーリシャスにおいても活躍馬を輩出中で大きな期待を持たれていたが、
1962年に、ミスティックスノーのデビューを待たずしてこの世を去ってしまう。
母ウインターラヴリネスは、この馬も英国出身の馬であった。
フォークストン競馬場の5ハロン戦で勝ち鞍あり、1948年に南アフリカへと
輸出されると、9戦1勝2着1回という案外な成績で繁殖入り。
しかし、生殖能力に問題を抱えていたようで、生涯20年の中で仔馬は
たったの4頭しかもうけることが叶わなかった。
ミスティックスノーは、ウインターラヴリネスが残した最後の仔であり、
母と父の意志と受け継ぐが如くの名馬に成長を遂げようとは、
幼駒時代は誰も想像だに出来なかった。
しかし、全く期待を寄せられていなかった訳ではなく、
先に生まれていた兄弟たちはそこそこの活躍を果たしていた事もあいまり、
(異父兄のグレンミストは1マイルから2,400までこなして8勝を上げていたし、
異父姉のミスティックフロストも5ハロン戦で勝ち鞍を上げていた)
ある程度の成績を上げようとは算段されていたようではあるが、
まさか一国の最強クラスに進化するとは想定の範囲外だったはずである。
こうした生い立ちの背景を見ても、ミスティックスノーはどこか
幸が薄い、多事多難を抱えた運命を孕んでいたような印象を受ける。
〔父シビルズネフュー〕
【ミスティックスノー血統表】
ミスティックスノーは、南アフリカのナタールに拠点を構えるフォーサイス氏に
預託され、ダーバンのクレアウッドパーク競馬場の芝1,600mでデビュー。
18頭中14着の大敗という、ほろ苦いデビュー戦となったが、
「距離が全く足りていない」というのが陣営の抱いた感触で、
距離を延ばし、成長を重ねていけば必ず大成できるポテンシャルはあると、
決して悲観していなかった。
しかし、この年、この後10戦も消化するが、全く良い所なくシーズンを
終えている。
3歳を迎え、マイル戦でも勝利を収めるなど、相変わらず距離不足の
苦節の競走生活であったが、3勝を上げている。
ところが、ここでオーナーブリーダーのロバート・マレー氏が亡くなり、
ミスティックスノーも売却されることとなってしまう。
幸運にも、ミスティックスノーに目をつけたのはMTC(モーリシャスターフクラブ)であった。
「この馬はモーリシャスの地で必ずや大輪を咲かせるだろう」との
待望を多くの関係者から祝福を受け、新たな舞台へと門出を切った。
あいにく、モーリシャスへの馬の輸送は翌年の2月の船まで待たなければならず、
その間は新たな身元引き受けを務めることとなったL.ハモン調教師が
ミスティックスノーの育成と調教を務めた。
◆胎動始めるポテンシャルとモーリシャスへの旅立ち
ミスティックスノーがモーリシャスへ渡るまでの間、ハモン氏は徐々に
この馬の持つ絶大無比の可能性を感じ始める。
ミスティックスノーが4歳を迎え、古馬となり、出走レースの距離も
2,000mを超えるようになってから、明らかにスノーの動きは違っており、
勝ち鞍も上げるようになってきた。
モーリシャスへの旅立ちが完了した時、ハモン氏の心模様は完全に冬景色から
白虹も掛からんばかりの初夏のよう心持ちで、ミスティックスノーの
ポテンシャルに惚れ込んでしまっていた。
このまま南アフリカで競馬を続けていても必ずやビッグレースを勝てる…!
そんな大望がいつの間にか彼の心の空を支配していたのである。
なんとか彼を説得したMTC首脳陣は、早々に最終手続きを済ませ、
ミスティックスノーを船に積載させるや、足早に港を発つのであった。
1965年4月18日、ついにミスティックスノーは新たなる生活基盤であり、
闘いの武舞台となるモーリシャスの土を踏んだ。
多くのモーリシャスの名馬たちは、南アフリカを主戦場としていた馬が流れてきて、
籍を移し、その才能の目が開く…ようやく水の合う場所を見出して
活躍を始める・・・といった例も僅かながらにあろうものの、多くは
中央から地方への移籍のような感覚と思って頂いた方が、
現代日本競馬を知る我々にとっては理解が早かろう。
競走レベル、ライバルのハードルが下がる事で圧倒できる…
そんなイメージであるが、環境が変わったことで劇的変貌を遂げたと
見た方が何倍も楽しいし、夢幻の可能性を抱ける。
こと環境の変化、モーリシャスの土が、水が、空気が、風が、
そして自身を取り巻く人が変わったからこそ、劇的変身を遂げられたと
確信して良いのがこのミスティックスノーであり、
モーリシャス史上最強マイラーのワイルドアンバーなどの
一部のモーリシャスのレジェンドクラスの偉大な名馬たちだ。
〔モーリシャスに渡ってから最初に調教の手解きを行なったサージ・ヘンリー調教師。ヘンリー氏の調教師免許返納により、調教師はこの後、ラム・ルフィー氏へと変わり、ミスティックスノーも転厩しているが、モーリシャスでは環境が変わっても、さらに馬は良化の一途を辿った。やはり南アフリカよりモーリシャスの水が彼に余程合っていたのであろう〕
◆モーリシャス史上最強馬の力
ミスティックスノーのいかにセンセーショナルにこの地において
デビューを飾り、芽吹いたポテンシャルをこの地で燦然と放散したか。
?流星のような競走成績?と当時を記した文献、書籍には記されている。
目覚めつつあったその素質が開眼しただけでなく、このモーリシャスの
環境が抜群に彼にマッチしていたのであろう。
もう完全に馬が変わっていた。黒光する青鹿毛の馬体は素晴らしい輝きを放ち、
伝説を紡ぎ上げていく。
1965年のこの年は、伝説のデビューイヤー。
その活躍の様は、日本球界が誇る至宝イチローや今を輝く大谷翔平のよう…
という表現が、少し大袈裟であるがしっくりくるぐらいの、
衝撃的内容であったようである。
モーリシャス最大のレースであるメイデンカップをいきなり大勝。
さらには、クープ・デュ・サン・サンカントネール(芝2,000m)を
2:06.0のレコードタイムで圧勝。このタイムは…なんと今だに破られていないのだという。
しかも、同タイムを出したのも、キングスウィープという馬と、
これまたモーリシャスの伝説のステイヤーであるホールドオールのみ。
〔劇的な大勝圧勝を見せて威風堂々たる立ち居振る舞いで口取りに臨むミスティックスノーと関係者たち〕
ミスティックスノーの快進撃は続く。
その名声と栄誉が最も高まる瞬間がやってくる。
1969年、英国よりアレクサンドラ王女がモーリシャスのシャンドマルス競馬場へ来臨。
王女の目の前で、王妃の名を冠したレースで最高のパフォーマンスで応えてみせる。
直線まで脚を貯めていたミスティックスノーは、最後の直線で末脚を爆発させ、
5馬身も突き抜けて大圧勝。これにアレクサンドラ王女も大興奮で歓喜。
これにはモーリシャスターフクラブの首脳陣も最高の接待が叶ったと、
ミスティックスノーの存在とこの馬を招き入れたことに祝杯を上げた。
◆島に降る奇跡のサマースノー
しかし・・・
?Great Tragedy?と語り継がれる悲劇がやってくる。
1970年の5月23日、ブレイジングメイトという馬と激しく叩き合い、
僅かの差で惜しくも2着と敗れたミスティックスノー。
ゴール後に崩れ落ち、倒れたまま動かなくなってしまう。
心臓発作などではなく、有害物質を飲まされての毒殺であった事が明るみになる。
果たして、一体、いつどこで毒は盛られたのか?
口に含んですぐに絶命する毒ではなく、時間を要して効果が目に現れる毒であった。
この日、もう毒の効果が現れ始めていたのか…万全とは言えないような状態で
走ったミスティックスノー。万全なら負けるはずがなかった。
そして、若くして命を絶たれる事が無ければ、まだまだ勝ち星を量産し、
その名誉を至高孤高のものへと出来た事だろう。
謎の毒殺事件は掘り下げらるような事もなく、今も語り継がれていく・・・
彼の調教を最後手掛けていたルフィー氏は目に涙を浮かべながら
空を見上げつつ語る。
「ミスティックスノーは…歓迎された馬でした。モーリシャスの全てから…
私が差し出したニンジンを頬張ると私の肩に頭をもたげ、甘えてくる…彼を忘れません」
モーリシャスという南国の島。
競馬は「国技」として今も多くの島民の心を掴んで離さない。
真夏の島に奇跡のサマースノー。
人々の心に降り積もる悲劇と歓喜の記録と記憶。
その名は?ミスティック・スノー?
〔参考文献〕
・『The South African horse』
・うみねこ博物館『シーコテージ』
・『Mauritius Horse Journal』ほか
]]>
沖縄県は南部、首里城から南東へ8〜9kmの位置に
?馬天(ばてん)?という土地がある。
ここは第2次世界大戦前は旧日本海軍の貯炭場、給水地で,大東島航路も開かれていた。
戦後は米軍の軍港となったが,那覇港への軍港移転を機に漁港となった街である。
なぜ?馬天?というのだろうか?
ふと目についた土地名に私の探究心はそこはかとなく擽られた。
グーグル先生に尋ねてみたが、温故知新、あらゆる情報を知る
全知全能の先生を持ってしても全くその由来は知れない。
現地へ電話で調査してみるかと思ったその時、旧知の友人より
連絡が入った。
美空であった。
美空は以前、彼女が学生時代、本サイトの記事代筆、
管理等行ってくれていた、私の助手のような存在だった。
就職と結婚を機にその業務からは惜別を告げ、
『うみねこ博物館』の更新頻度はカタツムリの如く
遅々たるものになるのだが…
「お久しぶりです!うみねこさんへ面白い報告がありまして」
「ほんと久々だなぁ。下手すると結婚式以来か(笑)どうしたの?」
「先日、家族で沖縄旅行へ行ったんですけど、そこで白い馬が出てくる古い歌の話を現地の方から聞きまして!うみねこさんなら絶対興味があるだろーなって思いまして!」
「沖縄…白い馬…ヒコーキみたいだな!」
「そうなんですよ、メールでその歌の資料送ったんで、見てみて下さい。あんまり長電話すると奥さんに怒られちゃうと思うんで切りますねww」
小動物のような愛想振りまく嬉々たる声に取り巻かれ、
メールを開いてみると・・・なんという偶然か。
そこには?馬天?の2文字が!
【琉球古謠】(仮称)
※左側が原文。右が現代語訳。
(長濱 幸男(宮古島市総合博物館協議会委員)の論文より抜粋)
「馬天浜」…馬天には浜もあるのだろうか?
調べてみるとすぐに「天の浜ビーチ」という
美しい白浜が出てきた。
これは馬天という土地名の由来調査から始まり、
馬の登場してくる南洋歌謡のウタに秘められし、
琉球馬事文化の遷移史と民俗観念、そして琉球名馬たちの
記録と記憶のモノガタリである。
【南洋に残された馬唄たち】
早速調査を開始。まず歩みを向けるは日本最大の知識庫と言える、
「国会図書館」。この文殿に無い書籍、資料は無いのではないか?
と思える程の、?リアル?アカシックレコードである。
斜照が東京タワーを茜色に染める頃、琉球関連古書にいくつもの
馬が出てくる古の南洋歌謡を見つけていた。
いくつか紹介したい。
?『東川根盛加越』
歌われているエリア:宮古島、池間島、多良間島
歌の趣旨:豊年祈願・雨乞い・男女の娯楽
歌に登場する馬:栗毛
その他特徴:71番まで続く、大勢の人たちが声を合わせて
歌い踊る謠であり、楽しく面白く謡われている。
?『砂川ブナ』
歌われているエリア:宮古島
歌の趣旨:恋愛
歌に登場する馬:栗毛
その他特徴:大按 司と美女ブナの恋を謳ったもの。
?『びやんな島ゆんた』
歌われているエリア:新城島
歌の趣旨:恋愛
歌に登場する馬:赤馬
その他特徴:士族の恋愛模様が官能的に歌われる。
?『若神のエーグ』
歌われているエリア:多良間島
歌の趣旨:恋愛
歌に登場する馬:栗馬
その他特徴:若神という主人公の男が、村の娘を誘惑しているところを、
娘の兄に見つかり詫びる場面が謡われている。
?『知花按司のおとまりがふし』
歌われているエリア:沖縄本島
歌の趣旨:神歌
歌に登場する馬:白馬
その他特徴:神女である知花を称えた歌で、「目眉美(めまゆ)」、
「歯茎美(はぐき)」といった女性的な表現、男装・武装の細かな
描写が用いられている。
?『大城グワイナ』
歌われているエリア:伊平屋島
歌の趣旨:神歌
歌に登場する馬:白馬
その他特徴:勝連城の阿麻和利(あまわり)を称えたウタで、
馬具の飾り立ては派手ではないが、乗馬して島々を巡行する模様が
くわしく謡われている。
?『おもろそうし』
歌われているエリア:沖縄・知念半島
歌の趣旨:神歌
歌に登場する馬:白馬
その他特徴:歴代琉球国王が ようはい 遙拝の地として拝んできた
知念半島の「斎場御嶽」(セーファーウタキ)の神歌。
?『マレガタレ』
歌われているエリア:奄美大島
歌の趣旨:神歌
歌に登場する馬:白馬(月毛)
その他特徴:このウタ では、馬曳きを伴って白馬に乗ってきたユタに、
太陽の神が乗り移られたと唱われている。
これら8つの謠を読み比べてみると、明らかに大きく2つのグループに
はっきりと分けることが出来るのである。
沖縄本島より南の島々では謡われているウタの趣旨が男女情念、恋慕を
綴ったものが多く、沖縄本島より北のエリアでは神歌が殆どとなっている。
馬の毛色に関しても二分に出来、沖縄本島より南では栗毛や赤毛、
明るい毛色がメインとなっている。
対して、沖縄本島以北においては、白馬が謡われている。
沖縄本島の最高の名馬が白毛のヒコーキ。
八重山諸島の最高の名馬が赤毛の赤馬。
偉大なる名馬2頭の毛色ともリンクしているのが興味深い。
美空が教えてくれてた古歌は、?の斎場御嶽の神歌のオモロであることが分かった。
このウタの馬は古くから「さんこおり」という聖域で
飼われていたことになっており、この馬が飾り立てられて
一層神聖化した乗り物になっている。
謠の中の表現、「真白雪」は白馬(月毛)のことで、「ツマグロ」とは、
琉球在来馬の特徴である強固な蹄のことを指しているという。
馬具の金襴豪華さは、ただの飾り馬ではなく、大君君主が騎乗する
特別な名馬であることを述べるものであろう。
「さんこおり」とは斎場御嶽内にある2枚の巨岩がお互いに寄りかかって生じている
三角形のトンネルを潜り抜けて達する狭い空地で、ウチナーグチでは
?サングーイ?とも表現されている。
「こおり」は道具などを入れておく裏部屋、庫理と関係がある語だという。
この聖地である「さんこおり」に昔から馬が存在していたと表現することで、
馬をより神聖化し、美称しているものと推察が立つ。
それに加え、沖縄には雪は降らないが、白馬の清浄性と聖神性を表現するため、
「真白雪」と美称語で詠んだと解釈できよう。
そして、金の鞍や銀の鞍に絹糸で織った腹帯、美しい手綱など馬の装いを
美称辞を重ねて称えることで、馬が高貴なる神の聖なる乗り物だと考えている。
▲〔斎場御嶽の三庫理。沖縄には「男は政治、女は神事をする」という土着の思念思想が浸透している。第二尚氏三代目国王の尚真王(しょしんおう)のときにノロ(神に仕える巫女のような存在)は制度化され、ノロ最高位である聞得大君が定められる。?の神歌にも登場する役位だ。その間得大君が就任の儀式を行い、管理した王国最高の御嶽(うたき=聖域)が斎場御嶽「斎場(せーふぁ)御嶽(うたき)」なのである。斎場御嶽は琉球王国最高の聖地であり、今となっては世界遺産にも登録されている。その斎場御嶽の奥にある御嶽(うたき)は本来、男子禁制であり、入る場合はしっかりと挨拶(Ex.「勉強で参りました。失礼致します」など)する必要がある。琉球最大のパワースポットと言っても過言ではない。三庫理を通ってきたら、絶壁の下に空間があり、その昔は岩壁に囲まれていたらしいのだが、今では、神が棲む聖なる島と言われる久高島を臨む事ができるという。三角形の岩(三庫理)の奥の岩が、「チョウノハナ」という拝所のチョウノハナで、岩のてっぺんにはかつて、クバの木があり、そこから神が降りてきたと口伝されている。その神こそ、琉球の創世神と崇め讃えられるアマミキヨである。三角形の岩より注ぎ込む太陽の光は神々しく神秘的で、まさに太陽神の威光という相応しい〕
斎場御嶽の三庫理から展望できる先に浮かぶ、神聖なる島・久高島。
この島は、琉球王国の始祖神である阿摩美久が降臨し、国王や聞得大君(巫女)が
訪れた「神の島」であり、土地の「原始共有制」が今もなお残存している。
12年ごとの午年に行われる祭礼「イザイホー」など、民俗学的に貴重な文化、
祭礼、民俗観念が今も残る島である。
「イザイホー」は12年に一度の午年に行われ、ナンチュが魂替えして神女に就任する
という儀式である。最新最後のイザイホーは1978年(昭和53年)に行われた。
▲〔1966年のイザイホーの様子。イザイホーは、両親が久高島出身で、今後とも島内に住み続ける者が候補者となるという厳格なルールがあり、それによりが実施が困難になってきている現実がある。また、イザイホーに重要な役割を果たして来た久高家・外間家のうち、久高家は神女家系としては続いておらず、外間家の方も普段は沖縄島に在住なのだという。但し、イザイホーは「中止」されるのではなく「延期」されるのであり、1990・2002年・2014年にはイザイホーの延期を神にお伝えする儀礼が事実上の代替行事として行われ、今後イザイホーが不可能になった場合も、慣例に従い同様のお祈りになる可能性が高い〕
イザイホーでは、海の彼方のニライカナイから神が白馬に乗って久高島を尋ねると
伝承されているが、実際にイザイホーの期間中に、ナンチュや神女は
「たえず馬の蹄の音が聞こえ、イザイ山の木々が突如としてざわついた」
という不可思議な体験談も寄せられている。
ニライカナイからやってきた神とその白馬。久高島に降臨したの後は、
まずどこへ降りたのだろうか?
その舞い降りた場所こそ、ヤハラヅカサと伝えられている。
▲〔ヤハラヅカサ〕
しかし、斎場御嶽と馬天の天の浜も重要な位置と思われる。
地図上では久高島、斎場御嶽、馬天・天の浜が一直線上に繋がることも確認できるのだが、
これにヤハラヅカサを加えると三角形になる。
斎場御嶽の三庫理のあの岩の織り成す形にそっくりになるのである。
琉球競馬に君臨した伝説の名馬ヒコーキは、馬天浜に降臨した神馬の
子孫であった可能性はないだろうか。
また最大の聖地・斎場御嶽の三庫理で育った白馬の子孫の可能性が
あるのではないだろうか。
今となっては知る由もない仮説、空理空論に過ぎないかもしれないが、
南洋歌謡の神歌に残る叙述と、神話、民俗から紐解くにその可能性が
ゼロとも言い切れないのは間違いのない事実なのである。
〔馬天港は1960年前後はクジラ漁の港であった。写真はクジラ工場風景の風景で、昭和35年頃まで馬天港内で操業していたという。物珍しさも手伝って、捕鯨船が入ってくると見物客が押しかけたそうで、揚げる時のギアの大きさによってクジラの大きさを判断していたという〕
〜琉球伝説の名馬たち〜
私がこれまで紹介してきた沖縄、琉球の名馬たち。
今回新たに咫尺の叶った名馬も加え、
過去にご紹介した名馬・名手たちを
一挙ご紹介させて頂きたい。
〜琉球王朝三大名馬〜
【鹿毛急車(カゲキュウシャ)】
【仲田青毛(ナカダオーギ)】
【飛天栗毛(ヒテンクリゲ)】
これら3頭は琉球王府時代の最高の名馬と
謳われる存在で、多くの書物、絵巻にその勇姿を
留め、記録されている。
三頭の馬は王府の厩で飼われたと考えられる。
【 仲 黒 馬 】
1640年、久米島にいたという名馬。
『球陽』の遺老説伝に記されており、中山王府が引き取り
野國親雲上・宋保が調教して薩摩の太守光久公に
献上したと記録されている。
【 赤 馬 】
沖縄県石垣島に実在したと言われる伝説の名馬。
とてつもない速さで、空を飛ぶように駆けたという。
遥か遠方の沖合から忽然と現れ、石垣の岸に向かって
泳いできたという。
飛燕のごとき物凄い速さを見せたと伝えられ、その評判は
たちまち広がり、八重山はおろか、沖縄本島でも赤馬を
知らない者はいなくなったという。
【右流間(うるま)】
生年:1933年
性別:牡
毛色:粕毛(芦毛?or月毛?or白毛?)
平成天皇陛下の生まれ年と同じ昭和8年生まれで、
宮内庁へと献納された宮子馬を代表する名馬。
ちょっと変わった馬で、子馬の頃ときどき厩舎を抜け出し、
近くの小学校の庭で子供たちと遊んだり、
床屋さんのガラス戸に自分の顔を写して見たりしていたという。
▲〔皇太子殿下の乗用馬となった右流間と共に海を渡った宮古の名馬・珠盛(たまもり)〕
【ヒコーキ】
いにしえの沖縄競馬に君臨せし、白き琉球のディープインパクト。
彼を所有していたのは与那嶺真宏氏。
彼はヒコーキを駆り、村の競馬だけで無敵を翳すに飽き足らず、
沖縄中の美ら競馬にヒコーキを参戦させ、凱歌を上げ続け
勝利のカチャーシーを吟舞していたという。
明治15年生まれの彼には一人、愛娘のミツさんがいた。
現在100歳を迎えた彼女の証言をここに記しておく。
「ヒコーキというのはね、戦前に父の与那嶺真宏が飼っていた馬です。白い馬でした。白い宮古馬でした。尻尾が長くて、毛並みのとても美しい馬でした。私がまだ子供の時でしたから走り方までは記憶していませんが、姿形に気品があって他の馬とは雰囲気が全く違う馬でした。今の浦添市役所のあたりに昔は馬場(安波茶馬場)があって、ヒコーキが馬勝負(競馬)に出る時は家の者総出で見に行ったものです。でも、父はムラ(浦添)の競馬だけでは満足しませんでした。馬勝負が命という人だったので、県内のどこかで大きな馬勝負があると聞くと、じっとしていられません。ヒコーキを連れて県内を歩き回っていました。西原村から中頭の各村、山道を越えて遙かヤンバル(北部)にも行ったと思います。女学校に入学する前だから、昭和2、3年頃ですかね。
あの頃は競走馬の売り買いを辻(那覇の遊郭街)でやっていたようで、我が家にも何頭か出たり入ったりしていました。でも、ヒコーキは物心がついた時から女学校に入る(昭和3年)までずっと飼っていました。馬名がついているのもこの馬だけでした。当時は飛行機なんて沖縄に飛んでいませんから、いったい誰が名付けたのか…」
南国の楽園・琉球沖縄は名馬生誕の地でもある。
ナカダオーギ…赤馬…右流間…そしてカリユシドルフィン…。
?ヒコーキ?はこれら伝説的琉球名馬たちのさらに上を行く駿馬と妄察できる伝説的幻の名馬。
その走り、空を飛翔ぶがごとく。
ヒラリ優雅に翔舞し、流麗なるままに長き白尾を翻す。
颯爽と流動する肢体は、神歌に合わせて舞う神女の舞踊のようであったという。
琉球伝説の名手たち
?瀬名波のイリヤラ?
屋良朝乗
読谷が生んだ天才騎手。紺色の着物と袴をまとい、二尺五寸(約76cm)の鞭を手に自在に馬を手繰ったという。
?与那嶺のターリ?
⇒北谷村、現在の嘉手納町で無敗を誇ったという。
?幸地のタンメー?
⇒馬上から、しかも走らせた状態で地面のカンザシをすくい上げたという逸話を残す名手。
嘉手納町出身だったという。
?上謝名のブッセーカナヤッチー?
⇒今帰仁の豪傑。三国志に登場する関羽の生き写しと絶賛されていたらしい。
?石垣・宮良の大城師番(おおしろしばん)?
⇒馬乗りの名人で、赤馬を人馬一体で乗りこなした。
《参考文献》
・『宮古馬のルーツを探る(続) −南島の飾り馬・江戸献上馬・册封使の乗馬と毛色−』 長濱 幸男(宮古島市総合博物館協議会委員)
・『消えた琉球競馬.幻の名馬ヒコーキ号を追いかけて』梅崎晴光.2012ボーダーインク
・馬の雑誌 ホースメイト45号(日本馬事協会)
・沖縄の在来家畜 その伝来と生活史 新城明久著(ボーダーインク)
・田畑英勝・亀井勝信・外間守善編.1979.南島歌謡大成 奄美篇.角川書店
・球陽研究会.1978.球陽(1745).沖縄文化史料集成 5:読み下し編.角川書店.
]]>
愛知県春日井市は廻間町(はざまちょう)に伝わる民俗祭事。
毎年7月初旬に行われる。
春日井市内においては、各所にて虫による稲への害を
防ぐ行事として行われていた祭りであったという。
廻間町の場合は、岩船神社を出発し、藁で作った馬に乗った
侍の人形を持って、鉦(かね)を鳴らしながら各家庭の門から
笹竹を集め、坂下との境にある津島社に納めるのだという。
〔笹竹を集めて練り歩く子供たちの様子
〔岩船神社の御祭神は蛭子命(ヒルコノミコト)である。蛭子命はイザナギ命・イザナミ命の最初の子で、収穫の神とされる。境内社として豊受大神を祭神とする御鍬社が祭られており、一帯は農耕地域に相応しい鎮守の森を形作っている〕
〔正面からの岩船神社〕
]]>
1900年頃に北欧デンマークにて作られたという木馬。
引き回せるように土台に車輪が取り付けられている。
手綱が革製で、尻尾も凝った造りで、サイズは
16×32×36 cm (木馬:28×32×5 cm)。
以前はネットのアンティークショップで購入可能であったが
売り切れている。生産台数が多くあったとは思えず、
100年近く前の木馬ゆえ、その価値は希少性が高いと思える。
]]>『トリプルクラウン 錦糸町』
東京の錦糸町にあります、競馬バー、
『トリプルクラウン』さんへ
お邪魔させて頂きました❗️😆
↓お店のホームページはこちら↓
↓お店のツイッターはこちら↓
https://mobile.twitter.com/triplecrownuma
【どんなお店??】
『トリプルクラウン』さんは、
「UMAJOママが馬好きをおもてなしするBAR」
をコンセプトに、錦糸町ウインズの最寄りの立地を
狙ってオープンさせた、馬好き・競馬好きのための
バーなんです✨
ママさんのみゆさんは、シルクレーシングの会員さんで、
あのサリオスの一口オーナー様であり、
な、なんと!サリオスの命名をされた方なんです‼️😍
こりゃサリオスファン、サリオス好きにはたまらんバーだわ!
…となり足を運んだ次第😎
〔ママさんの名刺は単勝馬券デザイン❗️😅〕
※電話番号はお店の番号です。
〔店内にはサリオスの写真やグッズがいっぱい!〕
ママさんからサリオスの貴重な話や裏話も聞けちゃうかも⁉️
コントレイルとマッチレースになった皐月賞はめちゃくちゃ悔しかったそうで…😅
コントレイルファンはサリオス好きも多いと思います。
秋に向けてサリオス復権を願ってぜひ来店してみてください!
いや、サリオスファンだったら絶対に行って損はナシ❗️
サリオスファンの私が保証します!!!😆
【サリオス命名記念モニュメント】
〔サリオスを命名された記念のモニュメント。
大変貴重な物を見せて頂きました〕
コースターもサリオスですっ❗️
店内の様子はこんな感じ✨
〔大きなスクリーンが2つあり、競馬観戦しながらお酒を楽しめます✨〕
〔カラオケもあります✨馬券を当てて、勝利の歌を❗️〕
〔こちらの店内写真はお店ホームページからお借りしています😅
綺麗でお洒落♪〕
メニューがこちら♪
(お店のHPのメニューページへ飛びます)
https://triplecrown.tokyo/%e6%96%99%e9%87%91%e3%82%b7%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%a0/
私はお酒がからっきしダメなので😅
先日Twitterで見たクリームソーダ(クリームソーダって馬いたなぁ…)
を頂きました😊
錦糸町ウインズで遊んだら・・・
遊びながら・・・
勝っても負けても
トリプルクラウンへ❗️
勝ったらより楽しくなるし、
負けてもお店でお酒飲んでママと、店長ヒカルさんと話したら
きっと楽しくなる事間違いナシ❗️
あ、ママさんは乗馬経験豊富な方なので、
乗馬やってる人ならより楽しめますよっ😊
【お店の情報】
所在地:墨田区江東橋3-5-8 5F
営業時間:土日12:00-24:00/月〜金19:00-24:00
秋は完全復活からの超覚醒!頼むぞ!サリオス❗️
(もうDBスーパーヒーローの悟飯並に覚醒してくれww)
※上のサリオス画像は『SPAIA競馬』さんより引用させて頂いております。
]]>
父 バルラサフィブ
母 ラフィングウォーター
母父 ウォーターゲイ
生年:1943年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:インド
生涯成績:13戦12勝[12-1-0-0]
主な勝ち鞍:インド牝馬三冠、インド2000ギニー
■真・史上最強馬を求めて
史上最強馬とはどの馬なのか。
未来永劫、久遠のテーマ「史上最強馬」。
この永久不滅のテーゼのテーブルに上げられるのは…
フランス「世紀の名馬」シーバード。
16戦無敗の不敗神話を紡いだ
フェデリコ・テシオ最高傑作のリボー。
米国三冠を超絶無比、破壊神の如きパワーで
戴冠したセクレタリアト。
マイル中距離で超強力な強豪・豪傑たちを
大差千切りまくったフランケル。
史上最強メンバーの凱旋門賞を追い込み一気で
撫切ったダンシングブレーヴ。
全世界競馬史上初の無敗三冠馬オーモンド 。
業火の如き気性と途方もなく超次元のポテンシャルを見せた
セントサイモン。
地球史上究極の不敗神話、54戦54勝、
ハンガリーの奇跡キンツェム。
こういったところになってくるのではなかろうか。
日本馬ならば、このテーブルに上がってくる候補が、古くはトキノミノル 、クリフジ、マルゼンスキー 。
近年でならシンボリルドルフ 、ナリタブライアン 、ディープインパクト、オルフェーヴル、アーモンドアイ。
はたまたエルコンドルパサー 、サイレンススズカといった面々になるのではなかろうか。
これの超が幾つも付くような歴史的名馬たちは、皆、共通してイギリス、フランス、米国、もしくはイタリア、ハンガリーなど、競馬先進国、競馬主要国の名馬たち。
ところがである。本当に他の国に、史上最強馬候補は
いないのだろうか。
歴史という茫漠たる銀河の中、滔々と流れて行った恒河沙たる幾千幾ばくもの記録と記憶のなか、埋没して行った駿馬はまだいるのではなかろうか。宵闇たる歴史の溟渤(めいぼつ)をカンテラで照査し、振古に微睡む巨大鮫がどこかにいないか。華胥の国に遊ぶ人魚はいないのか。探求追沙し続けた。
いる。第三世界にも、競馬史上に残る歴史的名馬、そして史上最強馬の玉座にも叶おう驚愕の名馬たちが。
何頭か、私が史上最強の可能性もあったと信じる遙古なる名馬たちをご紹介しよう。
【第三世界で世界史上最強の可能性のあった名馬】
?🇷🇴ゾルデヅィ(ルーマニア)
?🇪🇸カポラル(スペイン)
?🇿🇦パンフレット(南アフリカ)
?🇦🇷ヤタスト(アルゼンチン)
?🇹🇷カライエル(トルコ)
?🇳🇪ドキンイスカダンフィリンゲ(ニジェール)
?🇪🇨ターミネーター(エクアドル)
※テルミナトール
そして本馬、ハーマジェスティは
唯一となる牝馬での選出。
各名馬たちを掘り下げて見ていこう。
?🇷🇴ゾリデヅィ(ルーマニア)
ルーマニア競馬史上最強馬
ゾリデヅィ
〔ゾリデヅィ:1910年5月20日生。父カラー 母ミセスデスパード 母父アイシングラス、鹿毛。ルーマニア競馬史上最強にして史上最高の名馬。競馬を愛し生涯を捧げたアルクサンドル・マルギロマンが邂逅を果たし、この世界へ送り出した最高傑作にして、奇跡の結晶体とも言える程の、伝説的神話級の名馬である。2歳から5歳時までレースを続け、4年間jほぼ無敗、生涯ほぼ無敗、キンツェムクラスの不敗神話を紡いだ。ほぼというのは4年間で敗戦2回あるが、これらはどちらも曰く付きで、負けと言ってもほんの僅かの差で負けた2回で、能力で負けた訳ではなかった。第一次大戦の影響で競馬が中止となり、一旦競馬場を去り、種牡馬入りし、4年の空白をえて戻ってきたあと、その復帰戦で僅差の2着。敗戦はこの3回のみ。2歳時はグランクリテリウム(芝1,600m)で優勝し2歳チャンピオンに輝くと、3歳時もルーマニアクラシック三冠とトライアルも含め全戦楽勝。古馬になっても無双無敵の強さを身に纏い、アークル・デ・トライオンフ(ルーマニア凱旋門賞)など、大レースをすべてにおいて圧勝で飲み干し、凱歌を蓬吟し続けた。種牡馬入りしてからもクラシックウィナーを次々とターフへと送り出して行った。〕
ルーマニアの名馬産家であり、競馬を愛し、
最強馬を希求し続けたルーマニアの産んだ
最高のホースマン。
生涯を競馬に捧げた東欧の偉才が送り出した最高傑作が
この馬なのである。
当時のルーマニアは、オーストリア ・ハンガリー帝国の影響もあり、競馬のレベルも非常に高く、英国にも劣らぬものがあったと。
そんな時代の産んだ最高の名馬。圧倒的な能力の違いを見せ続けたこの名馬ならば、史上最強の可能性もあったものと信じたい。
?🇪🇸カポラル(スペイン)
スペイン競馬史伝説の真・史上最強馬
カポラル
〔カポラル。1958年生まれ。8戦7勝3着1回。三冠は逃すも、西ダービー、グランプレミオナシオナル、ヌーヴェルアン賞など大レースを圧勝楽勝の連続で制する。スペイン競馬界において「史上最強」の称号を欲しいままとする伝説の存在である。あまりの強さから、ダービーは4頭立てとなってしまい、ほぼ手綱を抑えたままのキャンターで歴史的大楽勝。脚部不安に苛まれ、全く完成される事のないまま、3歳でターフを去ることとなってしまった。もし、完成されパーフェクトになったカポラルが最高の状態を迎えた時、どれ程の馬になっていたか全くの未知数であったという〕
?🇿🇦パンフレット(南アフリカ)
アフリカ大陸究極最強馬
パンフレット
〔1913年生。シーコテージをも上と言われる、真のアフリカ大陸史上最強馬とも言われる超神話的存在の名馬で、短距離から長距離まで、酷量な斤量を背負っても問題にもせず圧勝を続けた。写真は競走生活晩年、1920年7月3日のダーバンジュライ。手綱を抑えられ、持ったままゴールラインを通過している〕
?🇦🇷ヤタスト(アルゼンチン)
?南米大陸史上最強馬?
ヤタスト
[ヤタスト。1948年生。生涯成績24戦22勝。アルゼンチン四冠に加えオノール大賞、ムニシパル大賞、サンイシドロ大賞ほか
ビッグレースを総なめにしただけでなく、ライバルたちに絶望的能力差を見せつけて圧倒し続けた伝説中の伝説的名馬。特にラストシーズンとなった1953年の強さは手がつけられないとか、驚異的とか、そんな言葉では片付けられない、神話的強さだった。簡略化し、以下に記しておきたい]
【ヤタスト神話1953】
■第一戦
ムニシパル大賞(ダ3,000m)
ウルグアイへと遠征。なんと10馬身差の大差勝ち(ちなみにこのレース、現在で言う国際GI級)。ほぼ馬なり。
■第ニ戦
オトノ賞(芝2,000m)
ほぼ馬なりで、相手を覗いつつ1馬身キッチリ先着。
■第三戦
ジェネラル・ベルグラノ賞(芝2,200m)
全くの馬なり、キャンターで流しながら、手綱も微動だにしないまま大圧勝。
■第四戦
サン・イシドロ大賞(芝3,000m)
GI格レースを大差勝ち(馬身換算不可能)。
■第五戦
L.カサレス・ヴィンセンテ賞(ダ2,500m)
馬なりで大差勝ち(20馬身差)
■第六戦
チャカブコ賞(ダ3,000m)
大楽勝で本気で追われることなく大差勝ち(馬身差換算不可能)。
しかも、?3:04.0?というアルゼンチンレコード。
しかも驚くべきことに、この時ヤタストは62Kもの斤量を背負っていたというのである。この前年、ウルグアイ四冠馬のビザンシオが3:04.0というレコードを出しているためタイ記録ということになるが…にわかには信じがたい話である。
■第七戦
パレルモ賞(ダ1,600m)
?1:34.0?という現在の東京ダート1,600mのレコードをも遥かに凌駕する驚異の時計で3馬身差圧勝。
■第八戦
オノール大賞(芝3,500m)
名馬シデラルを相手に、馬なりで10馬身差の大差勝ち。
芝、ダート、距離、斤量…全て関係無し、真に無敵の快進撃。南米のみならず、南半球でも史上最強レベルだったのではなかろうか。
?🇹🇷カライエル(トルコ)
トルコ競馬史上最強の絶対?神?皇帝
カライエル
▲〔カライエル。1970年生。18戦全勝。父プリンステューダー 母リンダ 母父シハァンギア、トルコ三冠他トルコのビッグレースを総なめにした西アジア史上最強馬。オーナーであるエリー・イェシル氏は史上最強牝馬ミニモのオーナーでもあり、トルコ競馬における最重鎮の存在。そのオーナーが手掛けた中でもカライエルは唯一無二、屈指の抜きん出た存在であった。カライエル陣営のみならず、トルコ競馬の関係者、ファンは皆一様に口を揃えてカライエルをこう称える。「我が国で生まれた最高の競走馬」と。それも誰しもが迷いもなく即答する。また欧州遠征計画が立ち上げられた時、とある人物はこう言ったという。「私は海外で多くのチャンピオンホースを見てきました。しかし、カライエル程の馬を見たことがありません」…果たしてどれ程に強い馬だったのであろうか。その深淵はいまだ見えないー。〕
?🇳🇪ドキンイスカダンフィリンゲ(ニジェール)
ニジェール伝説の名馬
ドキン イスカ ダン フィリンゲ
ニジェール競馬の原動力でありホースマンたちの魂の源となっている神話的存在が、この伝説の名馬の名声と威光。
1956年にエリザベス女王の前で歴史的勝利を収め、国際的名声を獲得。
国民の誇りと英雄にまで上り詰めた。生涯成績は21戦21勝と口伝されている。
「無敵の馬」と呼ばれ、無敗を誇り、国内外で行われたすべての大レースに優勝したという。
あまりに神がかった走りから、超自然的な力を宿しているとさえ信じられていた馬である。
ダンフィリンゲは、ニジェール共和国マラディ州のフィリンジと呼ばれる村で、生まれ、
購入されたがゆえ、その名前はこの村に起因している。
生涯のパートナーとなったアルハジ・イブラヒム・ダッティホ氏によると、競馬では一度もステッキで叩かれた事など無く、毎晩勝利を夢見る魔法の馬だとまで称されていたという。
ニジェール国内で催された大レースのみならず、スーダンや近隣国でもレースに出走していたが、生涯を通し無敗であったことは間違いないという。
?🇪🇨ターミネーター(エクアドル)
※テルミナトール
?エクアドル史上最強馬?
ターミネーター
〔1994年生。生涯成績19戦19勝。エクアドルへ輸入された米国産馬で2歳チャンピオンに輝くとエクアドルクラシックも圧倒的強さで勝ち進み、生涯無敗という驚異的成績を残し、同国の史上最強馬の座へと就いた。その余りの強さはまさにアーノルドシュワルツネッガー演じた『ターミネーター』のごとく冷酷無残なまでの強さとスピードと威圧感を誇り、一番着差が縮まった時で3馬身差。その一戦以外は全て8馬身以上の着差を付けての大圧勝大楽勝大差勝ちの連続で、後続に8秒差以上の着差を付けた事も数度記録している。おそらく、生涯2着以下に付けた合計着は全世界史上No.1と思われる。差他陣営を跼天蹐地に追い詰め、震慄させたその極め付けとなるは、GI級3競走連続、しかもクラシック三冠全戦での単走を実現。この偉業を成し遂げたのは全世界でもこの馬だけ。なおダービーにおいても単走を実現させるというのはこの馬以外ではパラグアイ三冠馬のアマロックが実現させている。〕
※各名馬のより詳細な情報は『奇跡の名馬3』の
?【Splendid Turf Memorium】全世界三冠馬データ(仮称)?
にて掲載予定。
■偉大なる女王陛下
そうして、ハーマジェスティである。インドの牝馬がなぜ史上最強とも思える程のポテンシャルを感知したのか。
その理由を述懐していこう。
ハーマジェスティを生産したのは、イェルヴァダスタッド。ブライトハノーヴァーやアワセレクトなど、インドの幾多もの名馬を送り出していく名門であり、オーナーはA.C. アーデシャー氏がイェルヴァダスタッドと提携して所有していた。
W.ブックリー氏が調教を施し、主戦騎手はビリー・エヴァンス騎手が務めた。
ハーマジェスティの父バーラサフィブはブレニム系の馬で、母方はハリーオン系の馬であった。
インド競馬には10頭の三冠馬がいるのだが、牝馬三冠を達成したのはこのハーマジェスティ1頭のみとなっている。
【インド三冠】
?インド2000ギニー(芝1,600m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 12月開催
?インドダービー(芝2,400m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 2月第一日曜日開催
?インドセントレジャー(芝2,800m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 4月開催
※コロナ禍以前の開催日程
【インド三冠馬】10頭
★コモナー(1953/54)
★ロイヤルマンザー(1961/62)
★プリンスプレディープ(1963/64)
★レッドルーファス(1966/67)
★アワセレクト(1967/68)
★スカーダラー(1976/77)
★アルマナック(1981/82)
★アストニッシュ(1981/82)
★インダイトメント(1997/98)
★スマートチーフタン(1999/00)
【牝馬三冠】
?インド1000ギニー(芝1,600m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 12月開催
?インドオークス(芝2,400m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 2月開催
?インドセントレジャー(芝2,800m)ムハラクシュミ競馬場(ムンバイ) 4月開催
★ハーマジェスティ(1947/48)
★ローズロイヤル(1964/65) ※1000ギニー、オークス、ダービーの変則三冠。
ハーマジェスティは、デビューすると全くの持ったままで、圧勝楽勝を積み重ねていった。
ノーステッキどころか、全く全力で追われることもなく、毎戦、ライバルたちを瞬時に置き去りにして勝負を決していた。
インド1000ギニーですらそれは変わらず、2000ギニーでも牡馬を完膚無きまでに叩きのめす。
距離が伸びれば伸びる程、能力差は顕著となり、インドオークスもケチのつけようの無い圧勝で不敗神話はつづいていった。
そうして、運命のインドダービー を迎えることになる。
■1947年2月2日 インドダービー
インドダービーは、ハーマジェスティという絶大絶対の存在がありながら15頭立ての多頭数のエントリーとなった。
やはり、インド競馬最高峰の一つ。出走するだけでも意義があると睨んだ陣営も多く、ハーマジェスティという偉大なる名馬と一緒に走ったという泊付になると考えて参戦した者もいたという。
上述の通り、ハーマジェスティはここまでインドクラシックすべてを圧勝楽勝で勝ち続けており、もはや同世代に敵う存在など皆無であることは誰の目から見ても、火を見るより明らかだった。
距離もコースも経験済みで、調整においても狂いなし。ペースメーカーとしてエクイティという馬も用意されていた。
準備万全、負ける要素など微塵も無かった。
しかし、「絶対」を感じる時程、その心の観劇に?魔?は差し込んでくるようだ。
単勝支持率は1.1倍を切らん程の超大本命。当時はまだバリヤー式のスタートであったのだが、このスタードで大アクシデントが発生する。複数頭が揉み合い押し合いとなり、激しく接触。これにハーマジェスティも巻き込まれてしまい、複数頭の多重落馬が発生。皮肉にもペースメーカーに用意していたエクイティがハーマジェスティに倒れ掛かり、ハーマジェスティも押されて激しく地面に叩きつけられてしまう。これにより、鞍上のビリー・エヴァンス騎手も落馬してしまう。不幸中の幸いで、エヴァンス騎手もハーマジェスティも大きな怪我なく、すぐさま起き上がった。しかし、エヴァンス騎手が見上げた先には、落馬事故やスタートのアクシデントを幸運にも逃れ、先にスタートを切っていた複数頭が遥か彼方に見えていた。この時点でももはや絶望的状況であったが、エヴァンス騎手は諦めず、すぐさま近くに落とした帽子をひったくる様に取って被り、ハーマジェスティに再騎乗。(しかし、どうやら複数頭落馬してしまったことで、他の騎手も帽子が脱げ落ちてしまっており、別な騎手の帽子をかぶってしまったようで、これにより実況は大混乱したという記述も文献に残っている)レースに復帰したハーマジェスティとエヴァンス騎手が追撃開始。もはや物理的に見ても逆転は絶対に不可能であった。
しかし、2人はレースを捨てていなかった。
先頭に踊り出てていたのは、ハーマジェスティに過去2戦完敗していたブケファロスという馬だった。(アレキサンダーの愛馬と同名であるのも何かの因果を感じる…)ハーマジェスティははじめて全力で追われ、見る見るうちに馬群へと追いつき、1頭、また1頭と凄まじい決河之勢で流星の様に疾駆して先頭集団まで射程圏内に入れてしまう。
しかし、もうゴールは目前と迫っていた上に、ブケファロスは千載一遇、いや億載一遇の機会と捉え、決死の逃げ切り体勢で追われまくっていた。ハーマジェスティは一完歩ごとに差を縮め、ブケファロスに並んだ瞬間にゴールを迎えたーーー。
結果・・・ほんの僅かの差で軍配はブケファロスに上がった。勢いで見ても、ハーマジェスティ優勢に見えたが、判定は覆らない。
出遅れ、闘諍(とうじょう)、転倒、落馬…そこからの再騎乗をしての、絶望に絶望を重ねた苦境を跳ね返しての捲土重来。
逸走からの巻き返しはオルウェーヴルの阪神大賞典、停止からの再スタートでの圧勝はマルゼンスキーを思い出す・・・が、これだけの多重アクシデントに苛まれ、再騎乗して勝利目前の連対までもっていったという例は全世界競馬の歴史を顧みても、この一例のみなのではなかろうか。
■永遠なれ、印の女帝
このインドダービー の2週間後、ハーマジェスティはインドセントレジャー へ出走する。
幸いにも転倒の際に怪我はなかったようだった。エヴァンス騎手も同様で、このレースで前回の借りを100倍にして返すと意気込む。
ハーマジェスティはこの一戦、20馬身差もの超大差を突きつけて、ダービーの惜敗の鬱憤を晴らす。
2着はブケファロスであった。もはや残酷冷酷無比なまでの強さ、能力差を敢然と見せつけられてしまうことになった。
ハーマジェスティはこの後も常軌を逸した強さで、負けることなく、インドダービーの世紀の敗戦を除いて13戦12勝という戦績でインドターフを去った。
ハーマジェスティが向かうは英国。競馬の母国にて、繁殖入りを目的に旅立った。
しかし、彼女を病魔と気候が牙を剥いた…顎下腺が腫れ、船が通ったアデン湾が歴史的猛暑、酷暑にあり、この二重苦に命を蝕まれ、海の上でハーマジェスティは最期を迎える。
いま、インド競馬の名馬で語られるはイルーシヴピムパーネルがもっぱらで、ハーマジェスティの名が挙げられることはない。
しかし、忘れないで欲しい。インド競馬史上最高レベルの競走能力を有し、世界を舞台でも活躍できた可能性のあった、一頭の偉大なる女王陛下の存在を。
]]>
〜奇跡のパラダイスラグーン〜
ニューカレドニア競馬今昔大全
「天国に一番近い島」。
1984年に公開された角川映画で原田友世さんが主演し、
「時をかける少女」と同じ大林宜彦監督がメガホンを取った
映画のタイトル・・・
古き良きバブル時代、南国にきらめくこの島は、
その映画のタイトルそのままに憧れの対象となった。
そんなこの世の楽園にも、競馬は愛されていた。
本コラムは、ニューカレドニア競馬の歴史と名馬、偉人を紐解く要覧である。
興味を持った方は、ぜひこの国の競馬場を訪れてみてほしい。
9月にはこの国を代表する最高峰レース、クラークカップが行われる。
コロナ禍の完全終息を祈念し、本稿を綴るーーー。
「ニューカレドニア」
ってどこ?
ニューカレドニアは南太平洋に浮かぶ、オセアニアに属する
島々から成る国家であるが、フランスの海外領土と
なっているためか、フランスの影響を色濃く受けている。
その歴史は、ニューカレドニアは1853年9月24日、
英国のオーストラリア・ニュージーランド領有に
対抗しようとしたナポレオン3世の派遣した
提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワントによって
フランス領と宣言されたことに始まる。
オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア地域にあり、面積は18,575.5平方キロメートル(台湾の半分の大きさ)である。フランス語ではヌーヴェルカレドニーと発音し、ニューカレドニアは英語の "New Caledonia" から来ている。現地語ではカナキー(Kanaky)とも呼ばれる。
【競馬発祥の歴史】
競馬においてもそれは同じであり、フランス競馬の影響が大きく頭を擡げており、その歴史も古い。
その濫觴は1865年の8月16日に見ることができる。
この日、皇帝の饗宴があり、その席の余興、エンターテインメントに競馬が無いということに遺憾を感じたシェリダン・ウィット氏が競馬組織の立ち上げを提唱し即座に実行。
ニューカレドニアというこのフランスの飛地において、
植民地競馬を行うための組織委員会が設けられ、
その初代議長はアドルフ・ブータン氏が務めた。
しかし、8月16日に予定されていたレースは、悪天候により
順延され、8月18日に初開催を見ることとなる。
ヌメア競馬委員会は?ニューカレドニアレーシングクラブ?と
名を改め、1872年には?カレドニアジョッキークラブ?と
改名される経緯をえている。
1865年から1879年まで、レースはステュクスの入江に面した広大な土地(現在のベデシトロン付近)、またトゥバンドとジョージウェルトンの地を利用して行われていた。
最初期のレースプログラムとしては、ギャロッピング(平地競馬)、トロッティング(繋駕速歩競走)、ポニー(ポニーによる競馬)、ハードル(障害競走)の4種のレースが組まれていた。最も人気を博していたのは、ギャロップ(平地競馬)で、当時のヌメア知事の夫人が所有していたコケという馬が優勝している。
その後、1880年以降においてはマゼンタの地にて創設されたマゼンタ競馬場にて、1928年までこの地において競馬開催が催されていく。
〔マゼンタ競馬場〕
1929年以降に関しては、ニューカレドニアスポーツ協会議長の
アルフォンス・ディレセンガー氏が敷地を引き継ぎ占領。
マゼンタ競馬場は第二次大戦中においては飛行機の発着場として
扱われ、競馬はこの地を追われてしまう。
そんな中、「競馬の灯を消してはならない」と
立ち上がったのが、アンリ・ミラール氏であった。
【アンリ・ミラール】
1882年生。1948年没。政治家兼実業家。
ニューカレドニアレーシングソサイエティー会長。
マゼンタ競馬場が戦争の煽りを受け、飛行場として
使われるようになり、競馬の火は風前の灯となった。
しかし、彼アンリ・ミラールはニューカレドニア中をくまなく歩き回り、
新競馬場として理想の場所を模索する。
その結果、誕生を見ることとなったのが、現在のアンリ・ミラール競馬場であり、
その名称は偉大な一人のホースマンを示す名前でもあるのだ。
〔創設初期のアンリ・ミラール競馬場〕
アンリ・ミラール氏は、ウーアン・トロの麓、アンス・ヴァータの地に新競馬場候補地を見出す。
これが、現在ニューカレドニアの地において最古の歴史を持つ、美しき楽園の競馬場となる…
「アンリミラール競馬場」だった。アンリ・ミラール競馬場が産声を上げ、競馬開催は島民たちによって愛され、
育まれていくこととなる。
アンリミラール競馬場以外の地では、ブルパリ、ラフォア、ブーライユにて競馬開催が行われている。
南半球に位置するため、6月〜8月の涼しい期間のみ、競馬が行われている。
《ニューカレドニア各都市と競馬場》(主なビッグレース)
ヌメア…アンリ・ミラール競馬場(クラークカップ、グランプリデュグーベルネメント)
ブルパリ…アンドレ・メルシエ競馬場、レイモンド・デボー競馬場
ラフォア…バヌ競馬場
ブーライユ…ロバート・ダムテ競馬場(ブーライユカップ)
ちなみに…古のステュクス入江競馬場(仮称)、トゥバンド競馬場、ジョージウェルトン競馬場、マゼンタ競馬場以外にも、各村には小さな競馬場が見られたという。この点においては、日本も同様であり、古き良き時代を偲ばせる一端をニューカレドニアにおいても見ることが出来る。大衆娯楽の少なく、インターネット普及もなく、スマートフォンが無かった時代。
競馬は人々の心に火を付ける最たる娯楽の一つだった。
〔1900年代初期から1930年代に活躍した騎手たち。写真左から…ヒリアー騎手、ウィルシャー騎手、モンフォード騎手、ウォーターズ騎手、ジョンソン騎手、テイラー騎手、マッケンジー調教師〕
【楽園競馬の最高峰?クラークカップ?】
ニューカレドニアにおける最大のレースであり、
最高峰となっているのは、
?クープ・クラーク?こと、クラークカップである。
この競走はニューカレドニアで生まれ育った馬のみが登録資格があり、最も権威ある競走とされている。
言わば、オーストラリアにおけるメルボルンカップ、日本競馬の
大レースに準えるなら、安田記念と有馬記念を合わせたような
立ち位置のレースと説明すればいいだろうか。
芝1,600mの距離にて行われ、国民的催事レースとなっている。
その発祥は1926年の9月16日。
記念すべき第一回はこの時に、ダンベアにて催されている。
現在はヌメア競馬場を舞台に行われているが、
その起源は、ニューカレドニアを訪れたオーストラリアの
商人たちが、原住民たちを激励、活気付ける目的で
開催された事に端を発するとされる。
今もなお、島民たちを鼓舞し活気付ける程の
偉大な競走となっている。
((アンリミラール競馬場内の様子))
〔写真はクラークカップ当日の様子。レーシングプログラムを片手に馬券検討をする馬券オヤジや若者たちの姿が。言われた買い目を機械へ入力して馬券を手渡すお姉さんの様子〕
〔2018年の頃の様子だが、タッチパネルで馬券を買える様子。〕
〜ニューカレドニアの名馬たち〜
1日に4レースも走った名馬
フレーネアー
[フレーネアー:ニューカレドニア競馬における伝説の名馬にして、最初の名馬と言える歴史的存在である。1日に4レースも走るのが珍しくなかったと言われ、これが本当ならば、「サラブレッド種の洋式競馬において最も連続して連闘を重ねた馬」ということになる。1日3走したという日本のセンニンブロの記録を超える存在ということになる。ニューカレドニアにおける名馬というと、ヴァーダン、ファルーク、バルトーの3頭がフレーネアーに続く3大名馬とされる。ヴァーダンはニューカレドニア最強の名馬とも謳われる存在で、偉大なチャンピオンで数々の記録を残したという。ファルークはニューカレドニア最大のレース、クラークカップを1954年、1955年、1956年と三連覇し、65勝もの勝ち鞍を上げた。この記録はニューカレドニア最多勝となるだけでなく、フランス競馬においても最多勝数となる記録である。そしてバルトーは78戦54勝の戦績を記録。この54勝ちの内には、クラークカップ7勝も含まれている。クラークカップ7勝というのはもちろん史上最多勝利となっている]
天国に一番近い神馬
ヴァーダン
〔ヴァーダン。アントワン・メッツガー氏が所有した伝説のサラブレッド。手に負えない程強く、数々の記録を打ち立てた最も偉大な名馬と謳われるニューカレドニアンレジェンドホース。メッツガー氏の息子テオドール、12歳のフランツが騎手を務めたという。それでも圧倒的強さであったのだから、その秘めたるポテンシャルは計り知れないものがある。1898年から1907年まで競走生活を送ったとされる〕
伝説のクラークカップ三連覇&
フランス競馬平地競走最多勝記録馬
ファルーク
〔ファルーク。父ビッグクラス 母アトランテ、1920年から1930年まで、10年間競走を続けた。生涯成績88戦65勝[65-12-9-2]。ニューカレドニアにあったすべて競馬場で競走をしたと言われ、なんと854,900フランもの賞金を獲得している。(現在の価値に換算すると大凡、2億1370万円程。小さな島の競馬で稼いだ賞金額としては、破格の数字と言えよう)〕
クラークカップ7勝神話
バルトー
〔バルトー。1953年から1955年のクラークカップを3連覇。さらに9年間の競走生活でクラークカップを7勝も上げた名馬。生涯成績78戦54勝。〕
南の島のオグリキャップ
パシフィックデュキャップ
〔パシフィックデュキャップ。たてがみと尾が粕毛の芦毛馬。2019年のクラークカップ優勝。重馬場を得意としており、直前で馬場が湿ったのが最大の勝因になったと言われている。決して「南の島のオグリキャップ」と言われていた訳ではなく、私のファーストインプレッションで名付けたに過ぎない(笑)〕
ニューカレドニア競馬史上最強馬
アイバーヒル
〔アイバーヒル:2007年生。父マジカルビッド(ダンチヒ系) 母ヴィクトリアローズ 母父マスタークラス(ノーザンダンサー系)、鹿毛、セン馬、生涯成績26戦24勝[24-2-0-0]、主な勝ち鞍:クラークカップ3連覇、ブーライユカップ5連覇、グランプリデュグーベルネメント、他6つの南部州の賞など。ニューカレドニア競馬が見た、歴代ベストホースであり、史上最高の名馬といえる崇高なる存在。それがアイバーヒルである。デビュー2戦のみ敗戦を喫するも、そこからはなんと4年間無敗。空前絶後の24連勝記録を打ち立てる。これはニューカレドニア競馬においてはもちろん、フランス競馬においても最多連勝記録となる偉大な記録。それどころか、フランス・英国・アイルランド・ドイツ・イタリアといった競馬主要の欧州国を見ても、アイルランドのフィルチの20連勝をも凌ぐミラクルレコード記録でもある。以下のレコードを見ても、凄まじい記録であることは疑いようがない。〕
■連勝記録参考レコード集(20連勝以上)
※繋駕速歩競走は除く。(達成時に所属していた国、エリアで表記)
56連勝 カマレロ(🇵🇷プエルトリコ)
54連勝 キンツェム(🇭🇺ハンガリー)※生涯無敗、牝馬
49連勝 コフレス(🇵🇷プエルトリコ)
44連勝 コンダド(🇵🇷プエルトリコ)
39連勝 ガルゴジュニア(🇵🇷プエルトリコ)
33連勝 ウィンクス(🇦🇺オーストラリア)※牝馬
32連勝 ミスパイン(🇺🇸草競馬(参考記録))※生涯無敗、牝馬
31連勝 ホクショウマサル(🇯🇵日本・ばんえい)
29連勝 ドージマファイター(🇯🇵日本・足利)
28連勝 グリークチャンス(🇬🇷ギリシャ)
28連勝 タカマサ(🇯🇵日本・国営競馬)※牝馬
27連勝 ルナパーク(🇯🇵日本・アラブ)※牝馬
26連勝 リバティーベイ(🇭🇰香港(植民地競馬時代))
26連勝 トモエゴゼン(🇯🇵日本・金沢)
26連勝 ハッコウマーチ(🇯🇵日本・高知)
25連勝 サヴァジェット(🇦🇺オーストラリア)
25連勝 ブラックキャヴィア(🇦🇺オーストラリア)※生涯無敗、牝馬
24連勝 シコティコ(🇩🇴ドミニカ共和国)
24連勝 アイバーヒル(🇳🇨ニューカレドニア)
24連勝 カンテツオー(🇯🇵日本・紀三井寺)
24連勝 キサスキサスキサス(🇯🇵日本・荒尾)
23連勝 リヴァイアサン(🇺🇸米国)
23連勝 インターハイクラス(🇯🇵日本・佐賀)
22連勝 イルーシヴピムパーネル(🇮🇳インド)
22連勝 ミスペティー(🇦🇺オーストラリア)※牝馬
21連勝 ピクニックインザパーク(🇦🇺オーストラリア)
21連勝 ボンズファーストコンスル(🇺🇸米国)
21連勝 ラピッドリダックス(🇺🇸米国)
20連勝 ケンタッキー(🇺🇸米国)
20連勝 シャックルバー(🇦🇺オーストラリア)
20連勝 シュンエイ(🇯🇵日本(アラブ・国営競馬))
20連勝 ファッション(🇺🇸米国)
20連勝 フィルチ(🇮🇪アイルランド)
どうです?ニューカレドニアに行きたくなってきたんじゃありませんか?
海外旅行を兼ねて、ぜひニューカレドニアの競馬場に!
これは、ニューカレドニアの切手なんですが、馬の郵便配達員さんが描かれています。
近年まで馬は身近な存在であり、いまでは乗馬も盛んなようです。
乗馬クラブも数あるようですので、極上の煌めくビーチを乗馬で馬から眺めて散策する…
なんて究極の贅沢(?)も良いかもしれませんね。
Fin.
《参考文献》
★ニューカレドニア、ベルヘイム図書館にてお借りした紙資料・文献データ
★ヌメア・デ・スポルテ・カタログ
★アンリ・ミラール競馬場レーシングプログラム
★Magazap(https://www.megazap.fr/Coup-d-envoi-de-la-nouvelle-saison-hippique-des-le-11-juillet-sur-Nouvelle-Caledonie-La-1ere_a7888.html)
…etc.
]]>
最高峰GIへと昇華させた
米国競馬・真・史上最強牝馬―
父 ブルームスティック
母 ジャージーライトニング
母父 ハンブルク
生年:1912年
性別:牝
毛色:栗毛
調教国:アメリカ合衆国
生涯成績11戦9勝[9-1-0-1]
主な勝ち鞍:主な勝ち鞍:ケンタッキーダービー、サラトガ2歳三冠(サラトガスペシャルS、サンフォードS、ホープフルS、※以上すべてダート6ハロン)、サラナクH(ダ8F)、ガゼルH(ダ8.5F)ほか
■米国史上最強牝馬は誰か
米国史上最強の牝馬、真の女王はどの馬と貴方なら思うだろうか?
ノミネートに上がるなら…BCクラシックをも手中に収め、無敗の19連勝を成したゼンヤッタ。
またそのライバルとして対決を切望された、レイチェルアレクサンドラも当然入ってくるだろう。
彼女はケンタッキーオークスをレース史上最大の20馬身1/4差もの大差で衝撃的勝利をもたらしめ、さらにはケンタッキーダービー馬マインザットバードを蹴散らしてプリークネスSで歴史的勝利も手にした。
近年ではこの2頭と言えようが、悲劇のヒロイン・ラフィアンや、36連対記録を持つファッション(36戦32勝、連対率100%、全世代を通じて米国競馬史上最高の牝馬の1頭に数えられている名牝中の名牝)、古の女帝インプ(171戦62勝[62-35-29-45]の驚異的戦績を残す)、モリーマッカーティー(17戦15勝[15-2-0-0]、カリフォルニアダービー&オークス馬)、ミスウッドフォード(48戦37勝。米国殿堂馬)、リール(8戦7勝)などを上げる方もいるかもしれない。
しかし・・・これから列挙する記述や記録の数々、パフォーマンスを見るに米国競馬の真・史上最強女王はこの馬なのではないだろうか…と半ば確信めいた何か心の挙動を感知、体感せざるをえない想いに邂逅を果たすに違いない。
その馬の名前は?リグレット?。
「後悔」「懺悔」…その馬名の意味とは似ても似つかない、信じ難い程のその夢幻のポテンシャル。
彼女の誕生から歿年の最後まで、紐解いて叙述させて頂くとしよう。
■初春の?後悔?と名伯楽との出会い
1912年の初春、米国ニュージャージー州ブルックデールファーム、同牧場の主にして名馬産家であるハリー・ペイン・ホイットニー氏の期待は、いやがおうにも高まっていた。なにしろ期待に期待を乗せた仔馬が誕生を間近に控えていたのだ。期待馬の父はホイットニー氏が血統表と睨めっこを続けに続け、再三再四に渡り熟考を巡らして種牡馬として購入を決定した名馬ブルームスティック。母馬となるジャージーライトニングは、ケンタッキーオークスや記念すべき第1回アメリカンダービー王者となった名牝モデスティの孫という血統背景となっていた。誕生前からホイットニー氏の期待が膨らんだのも至極当然の事と言えよう。ホイットニー氏は、この馬が牡馬同然にも考えて夢絵図を描いていたところ、産まれてきたのは牝馬であった。「なんということか…」牡馬を想定し続けていたホイットニー氏は失望し落胆。その心模様は命名にまで現れてしまう。それゆえに、「残念・後悔」を意味する“Regret”という言葉が、本馬へと宛てがわれてしまうこととなった経緯である。
しかし、そのホイットニー氏の膨張した熱き情熱が乗り移ったのか、リグレットは当時としてはかなり大柄な牝馬であり、牡馬を圧倒する雰囲気を漂わせていたという。
リグレットを預かることとなったのは、サー・ジェームズ・ゴードン・ロウ師。
彼は20世紀初頭における米国最高の調教師であり、以下の管理馬を見ればどれ程の名伯楽かは一目瞭然であろう。
【ジェームズ・ゴードン・ロウ師の主要管理馬】
これまで数多の名馬たちと修羅場を潜り抜け、栄光の盃を飲み干してきた名将がゆえの感だったのであろう。
ロウ師はリグレットを一目見るや、瞬間に何か特別なものを感じ取ったと語っている。
リグレットはロウ師にとって晩年の名馬であり、コリン、シスオンバイらに匹敵する存在となるのだった。
管理馬をとても大切に取り扱う人物として知られていたロウ師は、本馬に関しても無駄な使い方はせずに目標レースを確実に取るスケジュールを組むようにした。まるで2010年代後半以降の日本競馬の馬の様な使われ方をしていた。主戦はジョー・ノッター騎手が手綱を取ることとなった。
■デビュー戦がいきなりGI級レース!
デビューは、2歳8月にサラトガ競馬場で行われたサラトガスペシャルS(ダ1,200m)に決定した。
初戦がいきなり2歳戦を代表する競走だった。これはもう陣営に絶対的な自信が無ければ組めない算段である。このレースは創設以来、牝馬が勝った事はそれまでただの1度も無かったのだが、出走8頭中唯一の牝馬、しかもデビュー戦だった本馬が1番人気に支持され、そしてファンを後悔させることなく難無く勝利してしまう。スタートから先行すると、2着ペブルス(この年の米最優秀2歳牡馬)に1馬身差をつけて、1:11.6というコースレコードタイで優勝!
着差はそれほど大きくなかったが、本馬自身は何の努力も要していない程のキャンター、持ったままの大楽勝だったという。
はっきり言って、控えめに表現しても…信じられない光景である。
次走は1週間後のサンフォードS。本馬には前走より3kg以上も重い127ポンド(約57kg)が課せられたが、2着に1馬身半差をつけて、1:13.4のレースレコードで圧勝。ゴール前で鞍上のノッター騎手はまったく追っておらず、本馬はまるで散歩を楽しむかのように走った上での勝利だったという…
さらにその1週間後、ホープフルSに出走。米国では用いない表現だが、日本で言うところの3連闘!前夜に降り続いた雨の影響で、馬場は泥だらけの不良馬場だった。この馬場状態に脚を取られたのか本馬は先頭に立つ事は出来ず、道中で馬群に閉じ込められる場面もあったが、13ポンド(約6kg)のハンデを与えた2着馬との競り合いを半馬身差で制して勝利した(本馬は57kg)。
〔写真はホープフルSのリグレット(写真右端)。〕
なんと、デビュー3戦全てサラトガの2歳主要レースを使われ、全て楽勝してしまったのである。
2歳戦はこの3戦だけで締めくくっている。
このサラトガの3戦は三冠戦のような意味合いを包帯している競走であり、リグレットは史上初の三大レース覇者となった。(ほとんど何もせずに)
【サラトガ2歳3大レース】
?サラトガスペシャルS(ダ1,200m)
?サンフォードS(ダ1,200m)
?ホープフルS(ダ1,200m)
《達成馬》
★リグレット(1914年)
★キャンプファイヤー(1916年)
★デヒア(1993年)
★シティジップ(2000年)
■ぶっつけ本番でケンタッキーダービー優勝!
3歳始動戦がなんとケンタッキーダービー!
それも1,200mまでの経験しかない牝馬がである!!
ニューヨーク州を本拠地とする本馬が、直線距離で約1000kmも離れたケンタッキー州のレースをシーズン初戦として選択した事は米国競馬界に衝撃を与えた。この時期のケンタッキーダービーは既に高額賞金の大競走ではあったが、現在のように米国最大の競走という評価は得ておらず、軽視する者も少なくなかった。しかし、ニューヨーク州に本拠を置く本馬がわざわざケンタッキー州まで出向いて参戦した事で、この年のケンタッキーダービーは全米中から注目され、後のケンタッキーダービーの地位向上に大きく寄与したと言われている。
リグレットは終始先頭を走り続け、2歳チャンプのペブルスに2馬身差を付け、史上初となる牝馬のケンタッキーダービー戴冠を果たした。たったの3戦しか経験のない、それも1,200m戦しかない牝馬が、遥か彼方離れたニュージャージーから遠征し、休養明けぶっつけで勝ってしまったのである。しかも1番人気に支持されてである。
はっきり言って、控えめに表現しても…信じられない光景である。
2022年時点においても、ケンタッキーダービーを制した牝馬はリグレットを含めて3頭しかいない。
〔リグレット以外にケンタッキーダービーを制したのは、ジェニュインリスク(1980年のKダービー制覇。生涯成績15戦10勝。プリークネスS、ベルモントSはともに2着。)、ウイニングカラーズ(1988年のKダービー制覇。生涯成績19戦8勝。他にはサンタアニタオークスとダービー制覇など)の3頭のみ。〕
◎リグレットがダービーを勝った大義
マット・ウィン大佐(チャーチルダウンズ競馬場の所有者)
「ケンタッキーダービーの宣伝を海岸沿いの州に対して行うために唯一必要だったのは、リグレットの勝利でした。リグレットは私達を失望させませんでした。今日のケンタッキーダービーの地位を作ったのはリグレットなのです」
と述懐している。
〔ケンタッキーダービー伝統の薔薇のレイを掛けられたリグレット〕
歴史的なケンタッキーダービー制覇から数日後…リグレットに呼吸器の疾患があることが、発覚。
これにより、プリークネスS・ベルモントSへの参戦は白紙とった。
リグレットの不在の残る二冠…プリークネスSは牝馬のラインメイデン。ベルモントSはウィザーズS馬のザフィンが制した。
この結果を受けても…タラレバは勝負の世界では厳禁と分かっていても、リグレットが無事なら空前絶後の牝馬による米国三冠、それも無敗での歴史的大偉業を打ち立てていたのではないか…と考えてしまう。
リグレットは夏のサラトガ開催で復帰。サラナクH(ダ1,600m)にてベルモントS馬ザフィン、さらにはトラヴァーズS馬などを楽々と引きちぎって圧勝してしまった。
この一戦後に、また休養にはいるのだが、リグレットは年度代表馬に選出されている。
しかも・・・ダービーを制したこの年、リグレットは2走しかしていない…のにである。
それ程にケンタッキーダービーが革命的衝撃であったということであろう。
たったの年間2走で年度代表馬となった馬はリグレットのみしかいない。
■呼吸器疾患を患ったままでも
同時代を生きた最強牡馬たちと互角以上
リグレットはその後、再度休養に入り、復帰はほぼ1年後のサラトガ開催を待つこととなった。
サラトガH(ダ2,000m)にて、この年に年度代表馬に選出されるフライアーロック(ベルモントS・ブルックリンH・サバーバンH・サラトガC勝ち馬)、ハンデ戦の鬼ストロンボリ(マンハッタンH・ジェロームH・メトロポリタンH・サバーバンHなど)らを相手に超ハイペースの大逃げに打って出て、流石に超オーバーペース兼ほぼ1年ぶりの実戦に最後は止まり、生涯唯一の大敗を喫してしまう。
このあと立て直し1戦使い、楽勝しているが再度、休養に入ってしまう。
三度となった長期休養明け。リグレットはすでに5歳となっていたが、まだ7戦しか走っておらず、まだまだリグレットは活力に満ち溢れていた。5月のベルモント競馬場のダート1,100mへ出走。10〜20ポンド(4〜9kg)のハンデをライバルたちに与えていたが、全くの馬なりのまま8馬身差の大楽勝で復帰戦を飾っては弾みをつけると、アケダクト競馬場へ移動し、ブルックリンH(ダ1,800m)へ出走する。
このレースにはリグレットがこれまで対戦した中でも最強中の最強メンバーが顔を揃えていた。
オールドローズバド(Kダービー史上最大茶草8馬身差大勝、幻の米最強馬)、ローマー(米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬騙馬、並びに2年連続米最優秀ハンデ牡馬騸馬)、オマールハイヤーム(この年のケンタッキーダービーの覇者で、後にトラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSも勝つ米最優秀3歳牡馬)、さらにはハンディキャップスターのボロー、ストロンボリ、ブーツといった歴戦の強豪・豪傑牡馬もズラリ揃っていた。これらを相手に、呼吸器疾患がありながら鼻差2着に健闘。
(このレースにまつわる逸話:ホイットニー氏はブルックリンHに本馬、ボロー、チクルの3頭出しで臨んでいたが、その中では本馬に勝って欲しいと考えていた。ボロー鞍上のウィリー・ナップ騎手にもその旨を伝え、直線で決して本馬を抜くことが無いように指示していた。ボローがオールドローズバドをかわして2番手に上がったところまではホイットニー氏の考えどおりだったが、ボローとナップ騎手は勢い余って本馬までも差し切ってしまった。勝ち馬表彰式場でナップ騎手はホイットニー氏の指示に反してしまった結果を悔やんで大粒の涙を流したという)
どのような名馬であっても、呼吸器の疾患、喉鳴りをやってしまっては、まともに走れない。
にも関わらず、己の能力と精神力だけで、同時代を生きた最強クラスを跳ね除けた馬は、
リグレットと全世界史上初の無敗三冠馬であるオーモンド 、この2頭しかいない。
■いつの間にか愛されて
リグレットはブルックリンHのあとガゼルH(ダ1,700m)へ出走。
この年に創設された記念すべき第1回CCAオークスを勝利したウィストフルと対戦することとなった。斤量はリグレットが129ポンド(58.5kg)で、ウィストフルは105ポンド(47.6kg)と、24ポンド(約11kg)ものハンデ差があった。
結果は残酷なまでのものとなった。リグレットが冷酷無残なまでの能力差を見せつける。楽々とぶっちぎり、リグレットは2着ベイベリーキャンドルに3馬身差をつけて楽勝。ウィストフルは大きく水を空けられた3着に敗退している。
つづいてリグレットは、真夏の出走を避け、9月に出陣。ダート7ハロン戦に出走するが…対戦相手が集まらず、挑んできたのはたったの一頭。この馬に8kg以上のハンデを与え、57.6kgの斤量を背負って大楽勝。1:24.2のコースレコードを手土産に、ターフを去る事になった。
後悔から始まったホイットニー氏とリグレットの邂逅は、いつしか誰よりもどの馬よりも愛おしい存在になっていた。
牡牝の境界、あらゆる常識を超越、超絶したその無限大のポテンシャルにいつの間にかホイットニー氏は虜になってしまっていたのだ。その夢幻無比の競走能力は、時空を超え、日本のオルフェーヴルらに受け継がれていく事になる。
金色綺羅と眩いその馬体とギロリと睨みを利かせる眼光…写真を見て、ふと思う。オルフェの祖先の偉大なる女帝…その暴力的能力はしっかりと彼に受け継がれているなと・・・。
そしてまた思うのである。この牝馬こそが、米国競馬史上の真の最強女帝だったのではないか…と。
【リグレットMemo】
・【ダービー臨戦秘話】
ロウ師とノッター騎手は、ケンタッキーダービーの1週間前から馬屋に寝泊りして万全の体制で出走できるようにあらゆる仔細な部分に至るまで、配慮に配慮を重ね苦心惨憺したという。過去にケンタッキーダービーに参戦した牝馬14頭は全敗だった(前年も2頭が参戦したが3着と7着最下位の惨憺たる結果に終わっていた)上に、シーズン初戦、しかも過去に6ハロンを超える距離の経験無しという空前絶後の状況だったのだが、それでも出走馬中16頭中の紅一点で圧勝することに。
・リグレットの血は、孫のファーストフィドルが種牡馬入りし、現世へとその血を繋いで行ってくれている。
メジロアサマの母の父はファーストフィドル。すなわち、その血はメジロマックイーンへ。
さらにオルフェーヴル、ゴールドシップなどへ継承されていっている。
]]>
英国南西部のウェールズに古くから伝わる奇習・民俗祭事で、
クリスマス前夜から年明け(十二夜にも行うという)にかけて
行われる。
馬の頭蓋骨を持った白装束とそれを率いる一団が家々を
巡り練り歩くという伝統祭事。
その起源は判然としておらず、かなり古くから続くもので、
社会情勢の変化・生活環境の変化も影響し、20世紀初頭から
20世紀半ばにかけて衰退したが、20世紀後半にかけて新しい形で復活したという。
1798年〜1800年に復活したものとみられ、今でも一部の地域では行われている。
〔一見、不気味に映える白骨馬であるが、幸運をもたらす存在と言われる。「白い馬」は英国では力を現すシンボルである〕
祭事は、ポールのような取手の棒を馬の頭蓋骨に付け、その骨には花飾りや宝石、リボンや蝶ネクタイなどの装飾品で飾り立て、白いシーツを身に纏った物が、その頭蓋骨を持つ「白馬」を演じる。その白馬に無口当落を付けて引く牧夫(厩務員?)役を1人。
そして、ウェールズの民族音楽を歌う一団が合計で4〜5人の小グループとなって、各家庭を練り歩いて行く。
家の玄関まで到着すると、家に入れてくれと交渉開始。一団は歌を歌い始め、対抗して家の中の住民も歌を歌って応戦する。
白骨馬の一団よりも大きな声で歌い、詩的に優れている歌を歌わなければならず、全員が疲れ果てるまで続くという(1時間くらい続く時もあるらしい)…
やがて、住民はドアを開け、一団を迎え入れ、飲めや歌えの大騒ぎで食事を食い尽くして去っていく。
白馬の一団が家の中に入ってくると、その家は幸運がもたらされると信じられており、ほとんどの場合が各家庭が少し歌合戦した末に家の中へ招き入れる。
クリスマス前夜から街を彷徨う白骨馬。一体何がこの民俗文化の背景と発端にあるのであろうか。その起源・由来には諸説あるが、およそ二千年前の中東の寒村にて、産気づいた婦人と夫が馬小屋に乱入してきてこの馬を追い出したとのこと。以来安住の宿を求め彷徨い続けている…とか。もちろん、これは後付設定の可能性もある。またこの白骨馬は飼い主の戦姫 " a warlike princess" を探して彷徨っているという説もある。
《参考文献》
・『世界の奇習と奇祭:150の不思議な伝統行事から命がけの通過儀礼まで』E.リード・ロス著、小金輝彦(翻訳)
・『カラパイア 不思議と謎の大冒険』「馬の蓋骨を持った白装束が家々を訪ねる。イギリス・ウェールズの伝統行事「マリ・ルイード」
・西洋魔術博物館さんのツイート
]]>
三重県 鈴鹿市の夜夫多神社にて、毎年2月の第二日曜日に
行われる奇祭。穀物の豊作、豊穣を祈る祭事。
神事が執り行われる日、日中に宮司、役員、氏子総代、
祭事参加者による玉串奉納が行われ、午後7時になると、
早乙女の衣装に身を包んだ小学生の女の子をはじめ、
田打ち、馬の砂かけの参加者も参加し、祭事が滞りなく
行われるよう、御祓を受ける。
玉櫛が宝殿されると神事「田打ち」「馬の砂掛け」が
執り行われる。
〔神事に使われる馬のハリボテの頭の部位〕
境内へと2トンもの砂が運び込まれ、それを水田に見立てて、
馬での田起こしから田植えまでを再現する。
茶梅を添えた田打ちの木で作ったしゃもじで、
砂を馬の張りぼてに掛ける。
馬が倒れるほど砂を掛けると豊作になると伝えられている。
その後、馬で起こした田をならし、早乙女に扮した女の子たちが、周囲の掛け声に合わせ苗を植える。
〔馬へ砂を掛ける際に用いられるしゃもじ〕
〔横一列に並び、観客や見守る宮司・氏子総代から掛け声を掛けられながら苗を植えていく再現を行う早乙女の女の子たち〕
「馬に砂を掛ける」という祭事は非常に珍しく、全国でも夜夫多神社の
この一件のみしか見られない様な珍重な民俗風習であると言えよう。
]]>
&コントレイル
父子無敗三冠
夢競演三部作墨絵
馬の墨絵師のIKU様にディープ&コントレイルの
併走墨絵を一年前に「日本ダービー」をモデルに
作製して頂きました✨
▲馬の墨絵師であられるIKU様に特注にて描いて頂いた作品になります!
今回は皐月賞、菊花賞も描いて頂き、
親子無敗三冠の墨絵三部作が完成‼️
素晴らしすぎる出来栄えです!😆
IKU様の渾身の力作をご紹介すると共に、
ディープインパクトとコントレイルの父子無敗三冠を、
YOUTUBEのJRA公式の映像で
比較観賞出来るページを作成しました!
あの感動よ、もう一度❗️
【皐月賞】
「英雄 再び 信念貫く 大外一気」
【ディープインパクト 2005年 皐月賞】
【コントレイル 2020年 皐月賞】
【日本ダービー】
「過去現在 そして未来へと
英雄から始まったロマンは 語り継がれる」
【ディープインパクト 2005年 日本ダービー】
【コントレイル 2020年 日本ダービー】
【菊花賞】
「本気で踏ん張れ
確かに響いた 父の声」
【ディープインパクト 2005年 菊花賞】
【コントレイル 2020年 菊花賞】
]]>
「ふぁみーゆ」
新宿、歌舞伎町にある競馬カフェ&バー『ふぁみーゆ』。
コロナ禍の逆風がある中でも、元気いっぱいに営業中!
キャストの女の子はみんな競馬好きで、
可愛いく💖気さくで優しいですよ😊
〔お店の雰囲気はこんな感じ。アットホームな感じでキャストの皆様が気配り心配り抜群で接客してくださいます✨〕
〔お店には大画面のテレビモニターも設置してあり、楽しくみんなで予想&観戦できますよ!〕
〔デムーロ騎手のサインや見ると懐かしくなる競馬史に残る名レースの記念馬券が!😭〕
※写真は、すべてお店と来店中のお客様のご許可を頂いて撮影しております。
意外な出会いがあるかもしれませんよ!
噂では、とある馬主さんやとある調教師の方とか
競馬関連のテレビ制作も来られるとか・・・
私もはまりそう・・・😅
【お店のHP】
【お店のツイッター】
https://twitter.com/famille_idol?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor…
【店長あきほさんのツイッター】
https://twitter.com/akiho_keiba
店長のあきほさんは乗馬もやられている本格派❗️
(写真はお店のHPより引用させて頂いております)
【お店のアクセス】
所在地:〒160-0021 新宿区歌舞伎町1-4-8歌舞伎町らんざんビル3F
Tel: 03-6205-5527
?PLACE3?という、地方競馬後半3レースを指定しての
該当レースの3着内に入線する馬、3頭を選ぶ予想企画も
行われています!当たると素敵な景品が貰えるらしいです!🤔
皆様、ぜひぜひ!
遊びに行ってみてください✨😆
]]>馬、競馬にまつわる奇跡のような奇譚、
いいしれぬ不可思議な奇談・・・
今回は2つ程、ご紹介させて頂きましょう…。
〜ボベリック号の奇跡〜
これは、900頭を超える馬の海上輸送の際、
不運にも船が1ヶ月以上も漂流したにも関わらず、
乗組員全員(65名)と916頭が
生存した奇跡の物語である。
3,965トンのサイズの汽船であるボベリック号(Boveric)は、荒海でも膨大な荷物を積載し運搬可能なよう、安全性と耐重性には十二分に配慮された構築・造りがなされていた大型汽船であった。
1901年、965頭の馬がシドニー、ニューカッスル、メルボルンで出荷され、南アフリカのダーバンに向けて出発。
馬はボーア戦争のためのものであり、当時、1回の積荷で出荷された馬の数は最大であった。
乗組員は65名。馬は経験豊富なトレーダーのドナルド・マッキンネスによって管理された。
優秀な騎手である彼の兄弟アランは、船で彼らと一緒に旅行を共にした。アランは7年間、東部の州から西オーストラリアに馬を送っており扱いに慣れていた。彼は過去3年間、南アフリカの兄のドナルドにも馬を送っていた。
船長のルイスA.レスリーはボベリック号の指揮を幾重、幾度にも渡って執ってた。旅は万全のはずだった。
ダーバンへ向けての出航から10日後、突如、船体がひどく震えた。ボベリックはなんということか!
スクリュープロペラを失ってしまっていたのである。船は無力化した。
それはすなわち、漂流が確定する事を物語っていた
それが起こったとき、ボベリック号は南に30.4度、東に96.23度の位置。
どこからでも千マイル。もはや完全に漂流してしまったことを意味していた。
彼らは間に合わせの帆を作り、それらを取り付けコントロールを試みたが、
大海に浮かぶ一枚の葉も同じ状況では、焼け石に水だった。
彼らが最初に漂流した時、助けを求めて泳ぐために数名が船外に飛び降りたものの、サメが集まり、彼はすぐに船に戻された。
人喰いザメが背鰭を見せるなか、泳ぐことは諦めざるを得なかった。土地は見えない。
漂流から8日後、船長は将校らと話し合い、救命ボートで助けを求める勇士を募った。
なんと、すべての男性が志願し、船長は乗組員と騎手を非常に誇りに思っていた。
彼は一等航海士のヘンリー・ヘイマン、二等航海士のW.マッカーシー、そして2人のAB、 H。ドライとT.ティミンズを選抜。
こうして4人の小さな乗組員は、レスリー大尉の祝福を受けて出発し、オーストラリアに戻るまで、世界で最も長い海の1つに直面することになった。
27日と1,500マイルの航海(おそらく救助ボートでの最長の旅)の後、救命ボートの勇敢な小さな乗組員たちは、アデレードへ到着。その後、すぐさまボベリック号の救助の警告が発出された。
ニュースは関係者全員に発信されたが、この時点ですでに漂流から一ヶ月以上が過ぎていた。
その頃、エドワード7世の戴冠式のために190人の乗客を乗せた5,078トンのナラング号は、英国へ向かっていた。
ナラング号はボベリック号の常夜灯と遭難信号を目撃。ナラング号の船員たちは、ダーバンでボベリックが遅れていることを知っていたのである。オーストラリアとダーバンを出港する船は、行方不明の船を探すように警告されており、途中で捜索するために進路を変更する船もあった。 ナラング号の船長ボンドは、救助することを決意。乗客がそれを承認し、彼は喜びも束の間すぐさま動いた。
ボベリック号からは沢山の歓声が上がった。
ナラング号は戴冠式に間に合わないかもしれない状況にも関わらず、救助を優先したのである。
ナラング号がボベリック号を曳航してから5日後、二隻は南アフリカ・ダーバンへ到着。港には多くの人々が駆けつけ、歓声を上げていた。
彼らが戻ってから2週間後の1902年6月に市庁で会議が開かれ、市長のL.アレクサンダー氏らは全員、船長、救命艇の乗組員、そして船内の全員の勇気についてスピーチを行った。電報は首相と知事からも読み上げられ、知事は救命艇の乗組員への報酬として5ポンドと5シリングを送った。 また、救命艇の乗組員にはそれぞれ、金の時計とチェーンとペンダント、そしてソブリンの財布が贈られた。船長のレスリーはスピーチを求められたが、言葉はあまり得意ではなく、船内のすべての人と救命ボートの乗組員、そして見事に処理したボベリックを誇りに思っており、歓迎と人々の心温まる声に感謝する言葉を見つけることができないと述べたという。スピーチ後、彼へ割れんばかりの大歓声とスタンディングオベーションを与えられた。
〔ボベリック号の船長を務めた、ルイス.A.レスリー氏〕
さて、馬たちは漂流後どうなったか?
965頭いた馬は、ほぼほとんどとなる913頭が生き残った。これは奇跡としか言いようがない。
救助が絶望的であることが明らかになった後、馬の半分を殺すという提案が出たにも関わらず、マッキンネス氏は馬たちへの給餌の配給量を減らすことで、多くの馬たちを犠牲にすることを峻拒した。1日8ポンドの飼料(ふすまともみ殻)で、生き残らせる事を決意(餌は最大で4週間分しかなかった)。船長も可能な限り、すべての馬の命を救うという彼の決定を支持した。マッキンネスは、馬の命を守るための多大な努力に対して、船内の獣医であるデビッド・ストラナハン博士とボベリックのスキッパーであるレスリー大尉を称賛した。
こうして52頭の馬が、肺炎で失われたものの、他の馬は驚くほど良好な状態を維持していた。
ダーバン到着時、すでに戦争は終わっていたが、馬は売れ、他の船で運ばれて行った。
ナラング号側でも奇跡は起きていた。エドワード7世が急な病気で倒れ、戴冠式が遅れることになり、ナラング号側の全員が戴冠式に間に合ったのだという。
正に神様が全てを差し向けてくれた奇跡にしか思えない事件であった。
〜不思議な老紳士〜
これは、とある競馬ファンが実際に体験した不可思議な奇談である。
そのファンの方は、競馬の夢を見た。
その夢の内容とは・・・
1番人気の馬からカイザーバルという馬を買ってたのに、2着にクロスコミアという馬が入って、岩田めー!普段こないのに、こんな時に限ってきやがってー ‼️クロスコミアなんて買えないぞ。クロスコミアってなんやねん! この馬邪魔!!
などと、悔しがってる夢であった。
彼は、この時点で、どの馬券を買うか なんてまだ決めてなかったし、普段あまり夢の内容なんて覚えてないのに、この夢はどうもいつもと違う感覚があり、馬名もはっきり覚えてたので、とりあえず携帯にカイザーバル クロスコミアとメモを残した。
この馬の名前も、記憶にはない馬名であったのだが、本当にこの馬いるのかな? という感じでいつも見ている競馬のサイトを見てみると、同じレースにカイザーバルとクロスコミア(実際の名前はクロコスミア。ここでクロコスミアが正しい馬名なのだと気付く)が出走があり、しかもクロコスミアの騎手は岩田!!
当然というか、俄然として彼のテンションは一気に急上昇した事は言うまでもない。
とは言え、100%正夢 とまでも思ってた訳ではなく、よく考えてみると、はっきりした記憶になくても、出走表くらいはみたので、無意識に覚えいて、それが夢にでてきただけかも?とも思い、半信半疑な部分も多かったという。
しかし、このような事は滅多にないので、騙されたつもりで三連単を3万円位は買おうかと考えた。
日曜の朝、期待はせずとも、そこはかとなくやはり気持ちの高揚を抑えられない彼は、かなり早く目覚めてしまい、コンビニに競馬新聞を買いに行く事にした。(いつもはネットのサイトで見てるので、まず新聞は買わないそうだった)
時間はまだ、朝の7時にもなっていない、早朝の時間帯。
彼は自宅から少し離れたコンビニまで、散歩のつもりで、ゆっくり歩いて向かった。
(田舎なんで、コンビニまで、徒歩だと15分くらい掛かるのだという)
平日はこの時間、結構歩いてる人がいるのに、やっぱり日曜だから全然人がいないなー なんて思いながら歩いていたという。
「ちょっとすいません」
ふいに急に背後から呼び止められた。
全然人がいないなーと思いながらスタスタ歩いていたのに、急に後ろから声をかけられたので、少し驚いて振り向くと、白髪にスーツ姿のおじいさんが立っていた。
身なりが良く、ハットを深く被り、キチッとしたスーツ姿で両手には白い手袋をはめ、
片手にはステッキを持っており、英国紳士風の老紳士であったという。
こんな田んぼばかりの田舎に、ちょっと場違いな印象を受ける方であったが、独り言のようにぼそっと呟いた。
「あえてよかった」 と言ったようなのだが、それを考える間もなく、もう一度はっきりと彼に向かって
「すいません。」と、話し掛けてきた。
「はい?」
「あなたにどうしても伝えたい事があり、こちらへ参りました。 伝えたい というか、「お願い」ですね お願いではありますが、あなたの為でもあり、非常に大切な事です。それこそ、人生を左右するような 大切な大切な事です。 」
「えっ? いや えと、、どういう事です?」
彼は、この老紳士を、服装の違和感もあり、少し頭のおかしな人ではないかと思った。
適当にあしらって無視したほうがいいかな?なんて考えていたが、次のセリフを聞いて
さらに驚愕することとなった。
「今日の競馬、やめていただきたい!」
そういうと老紳士は深く頭を下げた。
「えっ!? いや えと、、どういう事ですか?」
なぜ自分が競馬をする事を知ってるのか?
競馬やめろと日頃から言ってる妻の回し者なのか???
混乱していると、さらに彼はこう続けた。
「いきなりですみません。 詳しくは説明できんのですが、今日の競馬の事は忘れて欲しい。 そもそも、知ってしまったのが間違いなんだ。 お願いいたします! 」
「えっ? いや、、、えっ?」
戸惑う彼を他所に、老紳士は話し続ける。
「驚くのはわかります。 ですが、どうか、深く聞かず私の言う事を聞いてくれませんか? これを用意してきたので」
そう言うと、彼へ銀行の封筒(三井住友銀行の袋だったという)を渡してきた。
「30万、入ってます。こっちで現金を作るのは難しいのですが、変なお金ではありません。 これだけあれば、今、勝ってる分とあわせて、家族でちょっとした旅行にでも行けるでしょう。 これを差し上げますので、今日の競馬の事は忘れてくれませんか? お願いです」
また頭を下げる老紳士。
彼はもう茫然自失とし、意味が分からず、困惑しきっていた。
「いや あの、、 まず、なんで競馬の事を知ってるんですか?」
「それを止めにきたからです。 信じられないかもしれない。もしかしたら私がきた事をうらむかも知れない。 だけど、本当に本当に、あなた自身の為であるのは間違いないので!その金額では満足できないかも知れないが、それが精一杯なのです。 どうか、それで黙って納得して欲しい。」
彼はこっそり確認すると、ピン札で、本当に30万くらい入っていそうだった。
頭のおかしな人からこのお金を貰うのもありなのか…?なんて考えも頭をよぎっていると、老人はさらに彼を問い詰める。
「家族で旅行に行く おいしい物を食べる そういうささいな事が本当に大切で、本当の幸せとはそういう事です。 その幸せで満足できませんか?」
「いや、そういう訳じゃなくて、、、まず、あなたは誰ですか??」
「全部説明するわけには行かないのですが、あなたの味方です。 全てあなたの為にも言ってるのです。 あなたの幸せを守るため。 ですが、何も信じなくてかまいません。ただ、そのお金と引き換えに今日の競馬の事は忘れて欲しい と、こういう話です。 承諾していたただけないなら、他の手も考えておりますが、出来ることならこれで手を打ってほしい。 私は本気です。 お願いできますでしょうか?」
そう言い放った老紳士からは、言い知れぬ、何か?殺気?のようなものを感じた気がしたという。
彼は気圧されたような感じで
「わ、わかりました。」
とだけ答えていた。
とりあえず、「わかった」と答えておいて、後で考えようという考えもある中での返答だった。
老紳士は、彼へ一歩近づくと
「わかっていただけましたか? 本当によかった。 もし…もしも、私にウソをついたら大変な事になります。 自分だけでなく、◯◯や◯◯もです。 「今日の競馬に手を出さない」それだけです。 絶対に守って下さい。 ?絶対に?です。」
◯◯ は彼の妻や子供の名前であった。 彼は愕然とし、咄嗟に何も言葉が出なかった。
なぜ?どうして妻や子供の名前を??
老人は、にっこりと微笑を浮かべ、
「いや、怖がらせて悪かった。 もう会うこともないと思います。 あえてよかった」
と言い、ずっと白い手袋をしてたのだが、それを外して、彼へ握手を求めた。
彼は、ほぼ無意識に手をだし、握手をしながら
「本当に、あなたは誰ですか??」
と尋ねた。
老紳士は、無言でにっこりと笑うと
「ここまでが夢だった…そういう事にして忘れて下さい。 驚かせてすまなかった。 聞きたい事は当然あるだろうけど、ずっと話してる訳にもいかない。 もう何も言わず帰りなさい。 ありがとう」
と言い、彼が元来た道の方へ彼を促した。
彼は、何か逆らえないような空気に従い、踵を返した。
ただただ「怖い」という感情が勝ち、パニック状態でとりあえずその場を離れたかった。
少し歩いた所で、振り向いてみると、もうそこには誰もいなかった。
田園風景の景色、老人の徒歩の速度を考えてみても、視界から消える筈もなく、キツネにつままれたような気持ちになったという。
しかし、彼の手には、渡された銀行の封筒があった。それが今起きた事を現実のものだとまざまざと物語っていた。
よく見ると、その封筒に鉛筆書きで ?この約束だけは絶対に守る事!?とだけ書いてあった。
彼は怖くなり、その日は一切競馬をせず、家族で出かけ、なるべく競馬の事を考えないように1日を過ごしたという。
そして、その日の夜、ドキドキしながら競馬の結果を見てみると、夢にみた通りの結果が出ており、三連単の配当が10万馬券と、かなりついており、もし、もしも想定した通りに三万円で買っていると、
配当は三千万を超えていた。
老紳士から受け取ったお金30万円は、まだ手をつけずに所持し、銀行に貯金したという。
〔2016年ローズSゴール瞬間の映像。オークス馬シンハライトが秋の始動戦を飾った。クロコスミアは後にエリザベス女王杯で3年連続の2着という珍記録を打ち建てる同馬だが、当時はまだ完全な無名馬であり、普通に夢に出るような、普通のファンが意識するような馬ではなかった〕
〔これがその実際のレースの配当結果。三連単は10万5,940円もついている。〕
「あれが誰だったのか?全体的に何だったのか?」
「私は三千万円を手にしてはいけなかったのか?」
疑問、疑念が彼の胸中を去来していった。
老紳士は一体何者だったのだろうか?
そして、なぜ彼の見た競馬の夢を知っていて
それを止める行為を行ったのだろうか?
謎が謎を呼ぶ不可思議極まる奇談である。
]]>
コントレイルへ贈る想い
コントレイルへ。
私は最初、皐月賞までは敢えて厳しい評価をしていた。
現れて欲しいディープの最高傑作の影を
すぐ重ね合わせるにはいかなかった。
ディープと比較するなど、おこがましいとさえ思っていた。
少しずつその懐疑心は解かれていった。
衝撃と戦慄に震えた東京スポーツ杯。
レコードタイム1:44.5。
その疾駆していった姿は、毛色が違えどサイレンススズカがダブった。
コロナ禍となり、無観客競馬が続く中、
無敗の2歳王者サリオスとの一騎討ちで無敗のクラシックホースとなった皐月賞。
ブルーインパルスの飛行の翌々日のこと。
父と同じ馬番で無敗の二冠馬となった無観客ダービー。
無人のスタンドへ馬上礼する福永騎手の心意気に涙が流れた。
夏を越し、持ったまま楽勝した神戸新聞杯。
今でもコントレイルを象徴するような一戦で、
この一戦で無敗三冠は確信に変わった。
しかし、菊花賞は最終コーナーを迎えるまで
掛かり通しで執拗なプレッシャーをルメールから受け続け、
アリストテレスにあわやの場面もある苦しみながらの三冠達成となった。
掛かり通しで長距離GIを勝った馬を、
私はコントレイル以外に知らない。
いや、そんな馬はこの世にいない。
アーモンドアイ 、デアリングタクトとの三冠馬対決。
よくぞ出走に踏み切ってくれたと思う。
ダメージがある中、7〜8割の状態で
アーモンドアイを上回る脚を繰り出すも、2着に敗れる。
ここから歯車は狂ったのだと思う。
無敗の三冠馬ゆえ、
敗戦の際の評価は厳しいものがあった。
レイパパレもモズベッロも強い馬であるし、
大雨と重馬場を利しての一世一代の大駆けにあっただけ。
世界中の三冠馬や歴史的名馬を見ても、格下に負ける事など、星の数ほどあるのに、
コントレイルは不当なほどに叩かれたと思う。
アーモンドアイは間違いなく日本競馬史上最強の
女王であるし、世界的に見ても高速馬場であれば
史上屈指の存在。
エフフォーリアはおそらくは…今後次第では、
日本競馬史上最強馬の座にも就ける可能性のある馬。
その2頭だけにしか、明確な敗戦はしていないと思う。
その2戦すら万全の状態で数回やればリベンジも叶うとも思える内容だった。
しかし、それでも弱いと叩く無知無能な、責任感など微塵も持たない心ない者たちに打擲、揶揄にさらされた。
「この馬は本当に強いんです。もっと皆に知ってほしかったです。
本当に強いという事を。この馬が本当に凄い馬だという事は、これから種牡馬になって証明されると思います」 福永祐一
関わる者にしか分からない、凄味とポテンシャルがコントレイルにはあるのだ。
馬にも乗ったこともないような輩が、ただただ振りかざす心ない罵詈罵倒。
そんな声が私は本当に許せなかった。
コントレイルは
偉大なるディープインパクトに
?三冠馬輩出?のタイトルを
プレゼントしてくれた孝行息子だ。
それだけでも十分な位なのに、
無敗でその偉業を成し遂げて見せた。
全世界競馬史の歴史の中でも、
たった7組しか存在していない父子三冠馬。
その大偉業を無敗で・・・
しかもコロナ禍という未曾有の事態にある中、成就させた。
一つボタンの掛け間違えが起きていれば、
この奇跡は決して舞い降りていなかった。
シンザン以来となる東京五輪(本来は2020年予定だった)イヤーの三冠馬。
シンボリルドルフ、ディープインパクトにつづく無敗の三冠馬。
コロナ禍にある中、そんな奇跡の存在と巡り逢えたことを、今の競馬ファンには心から味わって、感謝の気持ちをコントレイル へ、陣営へ送ってあげてほしい。
ディープに三冠馬輩出のタイトルを
プレゼントしてくれてありがとう。
世界史上初の父子無敗三冠馬の
奇跡の大偉業を見せてくれて、ありがとう。
コロナ禍で鬱積・暗鬱な世の中に光を差してくれて
大きな夢と希望を見せてくれて、ありがとう。
コントレイル
あなたには感謝しかない。
そして、ここまで愛おしいと思えるのは
なぜなんだろうか。
三世代続いての三冠馬が見てみたい。
コントレイルがそうだったように、
父の光跡をたどるであろう存在に会える日が
今から楽しみだ。
コントレイル、あなたのすごさ、素晴らしさは、
『奇跡の名馬3』で必ず紡ぎあげる。
あなたと世界中の三冠馬たちのために、
もう一度、本を創り上げたいと
心から想いが込み上げてくる。
お疲れ様でした。
本当に、本当に、ありがとうございました。
翼広げ、旅立つあなたに、幸多からんことをーー。
懐かしい風が 蒼空を
真っ直ぐに 抜けてく
遠いあの頃と 同じ季節の中
変わらない想い 胸に残ってる
ずっとあなたに会いたかった
通り過ぎてゆく時が切なくて
いつも感じていた愛を抱きしめて
ずっと忘れないーーー
Good-bye!
]]>
?バハマ競馬の闇!暗影裏の悲劇?
〜 楽園のラストホープ 〜
バハマ競馬は1792年の創設されたホビーホースホール競馬場に揺籃を見る事が出来る。
リゾートムード、南国のパラダイスの趣が滲み出たスタンドとレストラン、
競馬場に揺れるヤシの実の木がエキゾチックなトワイライトゾーンを演出していた
独特の競馬場であった。1977年廃場。
ホビーホースホール競馬場は、現在バハマールリゾートがあるケーブルビーチサイトの近くに建設された。
しかし、1958年2月、大火事に見舞われたことを切っ掛けに競馬場は1960年代になって初めて、ファッショナブルで華やかな植民地時代のエリートたちとがサラブレッドたちとが交わり、洋式競馬催しの場として、ホビーホースホール競馬場が再建された。この時にスターティングゲートと写真判定なども導入され、近代洋式競馬が本格化を告げる。設備、環境は当時の最先端となり、欧米に引けを取らない物となった。
〔とあるレースのスタート直後の写真。ほぼ8〜9頭前後でレースは行われていた〕
〔華やかで贅の粋とも言える競馬場、その様相は南国の楽園に場所を移したチャーチルダウンズやアスコットそのものだった〕
〔パドックを周回する人馬を見つめる来客たち〕
?エロール・フリンの愛した白毛馬?
〔バハマ競馬へ参入していた有名人である、エロール・フリン。バハマ競馬は南国の楽園そのもののであり、エロール・フリンはバハマ競馬の象徴的存在でもあった。写真は、彼が所有していた1頭であるバハマ競馬の白毛馬ピンクムーンスノーリップル 。バハマの有名なエルセラ島のピンクサンドビーチにいたく感動と感銘を受けた事に由来する馬名と推察される。ホビーホースホール競馬場のレースで見られたファッショントレンドは、ロイヤルアスコットやケンタッキーダービーの社交界の名士たちが身に纏っていたものに匹敵するものがあったという。優雅の粋を極めた南国の楽園競馬は、ダイニングテラスでロブスターの炭火焼き、タートルパイ、ステーキを楽しみ、カラフルな社交シーンが展開され、マスコミは開催についての社交コラムを熱心に書き綴り、有名人の写真、ファッション、帽子に目を輝かせた〕
〔(左から)アン・トレグロウン女史、エロール・フリン氏、ベティ・トレグロウン女史〕
?バハマ競馬の闇!暗影裏の悲劇?
〜 楽園のラストホープ 〜
ホビーホースホール競馬場は1970年代に入ると斜陽に入る。
八百長が横行し、レース前から勝つ馬は決まっていたという。
サーマークという年度代表馬が優勝を飾った直後、突然死しているが、
これは当時、裏で行われていた不正にあったのではないか?と見られている。
厩舎の所有者やトレーナーが交代でレースに勝ち、賞金を公平に分配していたというのだ。
開催運営側も含め、ファンや観客以外の部外者を除く、競馬関係者のすべてが共謀し、
暗躍していた。オーナー、調教師、厩務員、騎手全員が共謀し、馬たちへ虐待の限りを尽くした。
馬に餌を与えたり運動させたりせず、さらには、何ということか、
馬に薬を飲ませたり、注射をするなどして、弱体化させたことを公然と行っていたというのである。
シーズン中、おそらく注射針の汚れが原因で首に膿瘍が出来てしまった馬もいた。
加え、画策されて使われたであろう何らかの薬瓶が平然と厩舎の通路に転がっていたという。
飼料代が3倍の値段になる高騰を見せ、いよいよ経営、開催も苦しくなってくると、
馬の命をも意問わぬ、阿鼻叫喚の節約地獄を敢行する。
〔放置され、ネグレクトされ続ける厩舎の様子〕
シーズンオフとなる6月になると、馬たちが営みを送っている厩舎棟の電気ガス水道を全て止め、
調教師、厩務員などの関係者や騎手も含め、競馬場から全員が姿を消す。
この難を逃れることが出来たのはごく一部の成績優秀な最強クラスの馬と、
繁殖用の牝馬だけで、300頭近くの馬たちが厩舎に取り残されて数週間放置される。
そのような凄惨な虐待が行われていたにも関わらず、誰もが気付くことなく、競馬は開催されいった。
そのような不当な営業に神が微笑むはずもなく、経営は破綻。
ついに廃場を迎える事になったホビーホースホール競馬場。
しかし、ここからが本当の悲劇、惨劇の幕開けだった。
これまでは最長でも数週間であったが、開催が終焉を迎え、馬たちは競馬開催をしていた悪魔たちにとって、利用価値ゼロとなってしまったのである。永遠の放置、ネグレクト…いや廃棄が幕を開けたのだ。
閉ざされた競馬場の中、馬たちは一滴の水も与えられる事もなく、物も同然に忘れ去られ、ただただ時に身を委ねて命が枯れるのを待つほかなかった。
〔ガリガリに痩せ細り、骨と皮だけになってしまった馬たち〕
〔査察官たちが来訪した時、そこはこの世の楽園の影に浮き立つ地獄そのものだった〕
廃競馬場へ調査へ訪れた査察官ジョン・ブルックランド氏と、カーク・グリントン氏は、この惨状に節句した。
厩舎は荒廃しきり、マリファナの匂いが立ち込め、ハエが飛び回る屋内には糞尿の山…巨大な赤黒いネズミ大群が?食料?を貪り、ビール瓶、空き缶が転がり、瓦礫とガラス片がそこいら中に散らばり、馬は屍に成り果てていた。
このスキャンダルが明るみに出ても、競馬を行っていた元主催者・運営やオーナー、調教師、騎手、厩務員ほか競馬関係者は、誰一人として平然としていた。謝罪の一声すら無かった。その一方で、地元の若い競馬場の獣医であるバルフェ博士は、「夜道に気を付けてください。彼らが夜襲をかけてくるかもしれません…背後に気をつけた方が良い」とひどく動揺しながら忠告を促した。
厩舎に絶命しかけた一頭の栗毛の牝馬がいた。
横たわり、絶命しかけた彼女の名は?ラストホープ?といった。
検査官ジョン・ブルックランド氏(以下、ジョン)は、まだ息のあったこの馬を救護班の応援も要請し、回復に努めた。
もはや絶望的に思われたが、ジョンの膝に頭をのせたラストホープは水や飼料を少しずつ口にし、何とか体を起こす程に快方に向かってくれた。
〔発見された当初のラストホープ〕
その後、バハマ人道協会へと運ばれ、十分な水と食料、ずっと飢えていた愛育を施されたラストホープ。
彼女は元競走馬とは思えない程の、非常に性格の優しい馬だったという。
人間たちからこれ程の仕打ちを受けたというに、協会の世話をしてくれた人たち、ジョンには従順かつ懐き、救助してくれたことを知っているかのように、いや分かっていたのだろう。感謝を示すようにキラキラと輝く瞳を向け、すり寄ってきたという。
〔在りし日のラストホープ。バハマ人道協会にて〕
彼女は、厩舎に放置されている時、仔馬を生んでいた事が後から明らかになる。しかし、食料も水も無く、絶望的劣悪な環境下の中、小さな命は母親以外に看取られる事もなく絶命していった。
この時のラストホープは何を想ったのであろうか・・・
彼女の心中を察するだけで胸が張り裂けそうになり、目頭が熱くなる。
ラストホープは救助されてから2週間程で虹の橋を渡り、旅立っていった。
あまりにも地獄のような環境にいる時間が長く、何も口にしていなかった事から、消化器官も内臓も弱り果ててしまっていたのだ。
最後の最後で、ジョンたちの慈愛の中、旅立っていったラストホープ。
多くの馬たちが絶望の中絶命した事を思うと、彼女は最後は幸せだったのかもしれない。
しかし、彼女の死を、ホビーホースホールにて命を終えた多くの馬たちの想いを無駄にしてはならない。
この様なあってはならない、非人道的悲劇を絶対に繰り返してはいけない。
〜その後〜
閉鎖後、生き残った馬たちはマイアミに空輸され、アメリカの慈善団体によって支払われた新しい家となる牧場、厩舎へ移り住み、余生を過ごした。
ジョンたちは、ラストホープのオーナーを裁判にかけた。
しかし、その時、オーナーは信じられない言葉を、ジョンたちへ突き立てた。
「馬を飢えさせたからといって、罰せらる法律なんてあるのか?ん?」
さらに、ジョンたちは競馬開催の裏立てをしていた政府にも起訴をしたが、
政府のスポークスマン、サイリル・スティーブンソンは次のようにコメントした。
「これらの馬は個人所有であるため、責任を負いかねます。馬が餓死するのを見るのが好きな人はいませんが、私たちにできることは何もありません。」
加え、バハマ馬所有者協会の会長であるウェリントン・ファーガソン氏は、次のように述べた。
「動物の世話をする余裕がありません。私たちはこれらの馬が餓死することに責任を負うことはできません。私たちにできることは何もありません。」
腸煮えくり返る物言いだが、ジョンたちは懸命に訴えをつづけ、苦難の末、植民地動物虐待法に基づいて、犯罪者たちに対し最高50ドル(25ポンド)の罰金を科すことに成功した。しかし、もう死んだ馬たちは帰ってはこないのだ。
?ホビーホースホール?の名称は、ホテルの複合施設等にも付けられていたが、その名が付けられた小さな自然保護区を除いては、線路の痕跡も含め、すべて政府により消去されていった。忌まわしき、都合の悪い記録はすべて記憶の中から埋没させようというのか。
ありえない、絶対に許されない、残酷な残虐行為に苦しんだすべての馬たちへの謝罪と冥福を祈念する記念碑は・・・いまだ立てられることもない。
あまりにも眩い、富豪たちが創り上げた楽園のデイドリームの影、暗闇に響き渡る暗鳴の中、見つけたラストホープを胸に、我々ができる事、成せることは何か。一人一人考えて頂きたい。
〔バハマのナッソーのウォールリムドストリートにあるセントフランシス・ザビエル教会を過ぎる馬車。馬が花の着いた麦わら帽子をかぶり、軽快に進んでいく。南国の楽園情緒漂う、リゾートの優雅な日曜日の午後の風景。このような長閑な光景、愛された馬車馬の影、多くの競走馬たちが悲鳴を上げていようとは…当時は誰も知る由が無かった〕
]]>
Zebra A to Z 物語
シマウマとは?
シマウマは、ウマ属ウマ科ウマ目の縞模様の系統である。
ウマとは言うものの、ロバに近い存在で。
意外にも鳴き声は「ワンワン」と鳴く。
■縞模様の理由
シマウマの縞模様の効果は、捕食者が狩りの獲物とする個体を識別しにくくすることといわれている。
これは、霊長類以外の哺乳類は色の識別能力が低いことと関連しているという。
つまり、シマウマの白黒の模様は、霊長類以外の哺乳類が遠くから見た場合には
草原の模様に埋もれ判別しにくいと想定されている訳である。
また、縞模様は身体の部位ごとに向きが異なり、群れをなすと各個体の縞模様が混ざって視覚的に同化してしまう。
他にも説があり、日よけや草食動物のため群れている方が被害が少なく群れを見つけるのに役立っているとも言われている。
シマウマなど縞模様を持つ生物は、体表面で温度差を形成して微細な空気の流れを生じさせに役立てているとする研究がある。
■人間とシマウマの歴史
野生のシマウマは非常に気が荒く、人間にはなつかない。
加齢により気性は更に荒くなる。
人間とシマウマはアフリカで共に進化し、何百万年にもわたり共に生活してきた。
それゆえにシマウマに乗ることが難しくなったのである。
人間はシマウマと共にずっと過ごしてきたが、相性が良くなかった。
人間は昔、シマウマを食物として捕らえ、それ以外の何物でもなかったのである。
人間がシマウマを捕まえて殺してきたという証拠も存在していて、
シマウマは人間が危害を及ぼす悪い存在であると認識してきました。
〔1866年、ニューヨークにはじめてやってきたシマウマ〕
【シマウマを乗りこなした人物】
★ジャック・キャメロン
4頭のシマウマを調教し、苦心惨憺した結果、馬車を引かせるところまで手馴つけたという逸話が残っている。
★ビル・ターナー
ビル氏の積年・宿念の輿望はシマウマを乗りこなし、シマウマがペットとして人間と生活する世界の実現である。この絶望ともとれる希望を現実のものとすべく、4,500ポンドの大金を叩き、オランダの動物園から生後間もない14ヶ月のシマウマを購入し、ゼブディーと命名。知り合いの牧場の馬房を借り、調教を試みた。しかし、怯え震躯するゼブディーは彼を拒み噛み付き、恐怖を露わにし続けた。頑なに自分の領界への進入を拒否するゼブディー。
「ゼブディーは…と言ってもシマウマ全部に言えることだけれども…彼らはとても神経質で、木の葉一枚にすら、ビクリと狂心させ怯えてしまう…調教なんて夢のまた夢のように思えたさ」
しかし、ビル氏はゼブディーがどれだけ喰らいつこうが、逃げ惑おうが、熱心に語り続け、優しく愛撫することを決して欠かさなかったという。そしてゼブディーと食事までも共にし、ゼブディーと同じものを口へと運び、自分が無害な存在であること、味方であり友であることを、身体で示唆し続けたのである。こうしたビルの誠心熱意が天へと届いたのか、共同生活から僅か数週間でゼブディーは心を開き、ビルに懐いていった。やがて、ハミを装備し、鞍を載せ、ビルとゼブディーは一体となった。
宿願の夢を叶えたビル氏は溢れる喜念を抑えきれず、常連となっている地元のパブへと赴き、マスターをはじめ、町の人々を驚愕させた。
そして4頭のシマウマを手玉に取り、
バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている、
ウォルター・ロスチャイルド男爵ら3名のみ。
★ウォルター・ロスチャイルド男爵
ヴィクトリア朝時代の高貴で、類まれなる技術を持っていたという。その技巧はシマウマすら掌握するほどだった。4頭のシマウマを手玉に取り、バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている。
シマウマで競馬もしたらしいが、公的記録として残されておらず、どんな競走記録だったのかは定かではない。また、その4頭のレーシング・ストライプたちがその後どんな経緯を辿ったかについても不明である。
2014年7月19日にカンタベリーパーク競馬場にてシマウマのレースを実施しようと試みられた事があった。
5頭立て、もちろんプロの騎手が全馬にまたがり、いざスタートを切るも、
一頭たりとも騎手の指示になど従おうとせず、騎手を振り落とそうとして暴れ、スタート50mもせずにレースは頓挫してしまった。
まだまだいる!!
世界のシマウマライダーたち
ケニア初の医師
ロセンド・リベイロ
〔ケニアのナイロビではじめて医師となったロセンド・リベイロ氏は、1907年にシマウマを購入。そのシマウマを飼い慣らし、さらには騎乗して患者の元を訪ねていた。彼のシマウマに騎馬しての往来風景は、いつしか行き詰まった町で見慣れた光景となった。彼は後にこのシマウマを800ルピーでボンベイ動物園に売却したとされる。野生のシマウマを捕らえて馴致させたのだろうか?〕
野生のシマウマを乗りこなした
史上唯一の女性
アリス・ヘイズ
軍の獣医を務めたホレス・ヘイズの妻、アリス・ヘイズは巧みな騎乗技術と
センスを兼ね備えており、あらゆる荒馬も乗りこなしたと伝えられる。
そのテクニックは並外れており、なんとシマウマまで乗りこなして
しまったという。しかし、そんな彼女を持ってしても、シマウマは最も
乗りこなすのが難しい、最高難易度を誇るものだったという。
アリスは、夫が編集した「The Horsewoman-A Practical Guide to Side-Saddle Riding」(1893、1903)の著者でもある。
〔若りし頃、夫に連れ添って世界中を旅した際の彼女のシマウマ騎乗時の貴重な写真〕
〜ゼブラカートビジネス創設者〜
パラナ男爵
1847年にブラジル・リオデジャネイロに生まれたパラナ男爵はゼブロイドの研究開発を
進めた第一人者であり、ゼブロイドをパリへと輸出し、馬車を引かせてビジネスを
行っていたとされている。
〜ゼブラ馬車&シマウマサーカスビジネス設立者〜
グスタフ・グレイス
1860年、ドイツ・マリエンブルク西プロシアで生を受けたグスタフ・アイヒラー(後のグスタフ・グレイス)は、イギリス定住が決まった際、彼は名前をグレイスに改名。興行師でありサーカスも経営を計画していた彼は、ヒヒとシマウマのサーカスを設立、一斉を風靡した。
〔1912年のロンドンにて。普通の馬が引く馬車とバッタリはちあい、「お前何者?」と言わんばかりの貴重な一枚(笑)〕
〔ゼブラサーカスの貴重な写真2枚。左は1908年、右は1944年に撮影されたもの〕
〜楽園を創ろうとした男〜
ジョージ・グレイ
19世紀半ば、ニュージーランドで知事を務めていたジョージ・グレイ氏は、南アフリカからニュージーランドにシマウマを輸入し、その馬たちを使って、個人所有の島?カワウ島?でシマウマたちに馬車を牽引させていたという。1862年、グレイ氏はハウラキ湾のカワウ島を買収。彼はそれを地上の楽園に変えるという野心的な計画を立て、多くのエキゾチックな動植物を輸入しまくった。彼の「動物園」には、カンガルー、ワラビー、カモシカ、サル、シマウマ、ヌー、エミュー、クジャク、ワライカワセミがいたという。
「地上の楽園」を実現させようとした奇人伝である。
〜その他・シマウマの貴重な写真あらかると〜
〔1930年代に撮影。おそらく、野生から仕付けたシマウマに人間の幼児が騎乗した唯一の写真〕
〔これは…シマウマではなく、シマウマを装った騎兵隊の馬に乗るドイツ兵〕
〔1929年撮影。横たわり、だだをこねる(?)シマウマ〕
〔1900年撮影のケニアのシマウマ馬車〕
〔1890年撮影。サーカスに登場した美女とシマウマ〕
〔1893年撮影。南アフリカのプレトリアにて。8頭のシマウマ馬車。ここまで連結出来るとは…シマウマは騎乗するのは困難を極める至難の技であるが、頭絡を付けコントロールすることは、ある程度順応性を見せるような気がする。〕
〔1914年、東アフリカのザンジバルにて撮影。シマウマに騎乗するドイツ軍。ドイツ軍は、乗馬、駄載、輓獣のためにシマウマを馴致させる事に対し関心を寄せ、育成開発のプログラム研究を行っていたという〕
〔1930年代、インド・カルカッタのシマウマ馬車の写真。ブラジルやインド、ニュージーランドなどの欧州植民地の富裕層の間では、シマウマの縞模様が異国情緒を漂わせる目新しさが好まれ、ゼブラカートが流行した時代もあった〕
白いシマウマ
1766年に現れたという、白いシマウマ。
この馬は牝馬で、一部に珍妙な斑点を持っていた。
〔1900年5月26日、ソマリランドにて発見されたという白いシマウマ。ローランド・ウォード氏と第16軽竜騎兵隊ベリュー中尉が捕らえたという〕
2004年3月、ケニアのナイロビ国立公園で白いシマウマが生まれた。
地元のマサイ族の牛飼いが発見。
白いシマウマは、その毛色が目立つため、
捕食者の明らかな標的になってしまう事がネック。
上の写真の子馬は、その独特の色合いのため、
長寿命では生きられなかったと推察される。
白いシマウマの、その毛色の原因は、白皮症の一形態である。
真の白皮症は、青またはピンクの目となり、
白変種(ホワイトライオンの原因)と呼ばれる状態は、
白い背景に通常の色の目とセピア色のトーンをもたらす。
この馬は2005年の某日、ケニアのマサイ・マラで発見された子馬で、
現在では成馬となっているのだが、その消息は不明。
突然変異で生まれてきたアルビノのようである。
アルビノとは先天的に皮膚・毛・目などのメラニン(茶色・黒の染色)が
つくられない遺伝的な奇形である。その毛色は帯黄白色、
皮膚は白色なため、太陽に敏感で皮膚ガンや皮膚障害を
起こしやすく、赤色の瞳孔は白内障になりやすく、
発育障害を伴うことも多い。
自然環境と融合する術を喪失してしまった彼らの寿命は恐ろしく短い。
白いクアッガ
〔イザベリン号。1840年に発見された希少な白いクアッガ。この「イザベリン」号はクリーム色のクアッガであり、クリーム色の背景に黒い縞模様が錆びた赤に変わった、異常に珍重な存在であった。〕
【クアッガ】
ウマ目(奇蹄目)ウマ科ウマ属サバンナシマウマの一亜種である。
南アフリカの草原地帯に生息していたが、すでに絶滅した。
クアッハとも表記される。
〜オ・マ・ケ〜
〔1960年代に生まれた黒い馬体に白い斑点のあるシマウマ〕
〔こちらは近代に生まれた焦げ茶色の馬体に白い斑点のシマウマ。右は黒い馬体に後肢が縞模様のシマウマ〕
〔キリンのような色合いのシマウマ〕
〜幻のゴールデンシマウマ〜
このシマウマは、?ゾーイ?という名前で、ハハワイのモロカイ島でオレオという牝馬から生まれた。
スリーリングランチエキゾチックアニマルサンクチュアリで繋養されていたが、2017年、19歳でこの世を去った。
彼女の金色の色は、彼女がメラニン沈着症を患っており、通常の黒い色が、金色の縞模様に変わっている。
スリーリングランチによると、これまでに「白い」シマウマが飼養された例としては、少なくとも2例あるという。
1頭は約100年前のドイツで、もう1頭は1970年代の東京の動物園で飼育された事例があるのだという。
「ゾーイが11歳になるまで、彼女は唯一生きているゴールデンシマウマでした。ゾーイが生きていることは?ユニコーンが実在しているのと同じくらい奇跡に近い?」と、地元の取材にも答えていた。
ゾーイの母オレオは、28歳という比較的高齢の馬齢まで生きていたという。
]]>
凱旋門賞
Prix de l'Arc de Triomphe
歴史に残る、
歴史に残す。
100年目の
チャンピオンズメモリーズ。
見せよう。
真の王者の誇りと走り。
アダイヤー
なるか欧州三冠!!!
※本来、欧州三冠という呼称は欧州の競馬において存在しない表現です。
現地でもこれを「三冠」とは表現しません。
あえてこの場では「欧州三冠」と表現させて頂きます。
全てを飲み込み
全てを破壊尽くす末脚
ロンシャンに吹き荒れるーーー
ハリケーン
レーン
世界最強女王の力、
満天下に示しつけるッ!!!
タルナワ
雪よ降れーーー
ロンシャンに奇跡の雪よっ!!!
スノーフォール
唄い詠え。
ロンシャンに。
誇り高きゲルマンの詩をーー!!
トルクァートタッソ
ブルーム
ジャパニーズ・レジェンド
武豊、参戦。
シリウェイ
ラービアー
アレンカー
モジョスター
バブルギフト
ベイビーライダー
奇跡は起きる。奇跡を起こす。
奇跡を呼び起こす、
絆の奇跡を信じてーー
父の俤
奇跡重ねて
挑む。世界最高峰の頂きへ――…
父子三代挑戦。
ディープボンド
日本現役最強馬、
父の故郷へ凱旋の錦を飾る。
クロノジェネシス
いまこそすべての力、
すべての想い、
ここへ結集させる時。
見せる。
日本競馬の集大成。
叶え。
日本競馬積年の夢よ。
人と馬とが織り成す運命の物語。
それぞれの想いを乗せ
いま決戦の刻ーーーーー!!!
▶︎▶︎(続きを読む)から私、うみねこの最終見解!
]]>世界レコード
【ダート部門】
※≪≫内は日本レコードになります。※2021年8月15日更新。
■400m 19秒93
(2020年 ドリップブリュー)
ドリップブリューは、2014年、米国生まれの鹿毛の牝馬で
レコードは2020年7月27日のプレーリーメドウ競馬場で記録した。
生涯成績51戦16勝[16-4-8-23]の戦績を残したスーパースピードスター。
前レコード 20秒4
(1945年 ビッグラケット、1993年 オニオンロール)
※2頭に関しては『究極世界記録室』をご覧くださいませ。
■500m 25秒83
(2014年 べダズルシアトル)
べダズルシアトルは2008年生まれの栗毛の牝馬で
レコードは2014年3月15日デルタダウンズ競馬場で記録。
27戦9勝の成績を収めた。
前レコード 26秒4
(1946年 タイスコア)
タイスコアは1941年に米国に生まれた栗毛の牝馬で、79戦27勝という凄まじい戦績を上げた幻の女傑。
レコードは5歳時に記録した。
■600m 31秒01
(2005年 エクラット)
エクラットは2000年のミレニアムイヤーに生を授かった電光石火の超速馬で、
2005年11月28日、レミントン競馬場で驚愕の3ハロンを計時。
ネヴァーシェイムドのWR31.3を更新した。
≪33秒8 マルカベンチャー牡 平成24年6月10日 京都競馬場≫
※上がり3Fでの記録。
■800m 42秒4
(2005年 トリンケット)
★前レコード:43秒2…1993年 アドベンチャーサムラヴ、1996年 ハフタナフタ
ハフタナフタのプロフィールは【芝部門】を参照されたい。
アドベンチャーサムラヴは1980年代の晩年から90年代初頭にかけて米国で活躍した快速セン馬。
あらゆるレースを制し、56戦16勝2着16回3着9回という、とてつもない成績を残した。
■1,000m 53秒06
(2006年 ルフス)
(2010年 トリステサキャット)
ルフスはなんと2006年6月19日、パレルモ競馬場にて2歳時に記録。
一方、トリステサキャットは、ルフスがレコードを記録した2006年に生まれた牝馬で、
レコードは2010年6月5日に同じくパレルモ競馬場にて記録。
〔トリステサキャット:2006年生まれの鹿毛の牝馬。アルゼンチン産。生涯成績46戦23勝[23-9-7-7]。GIには手が届かなかったがメキシコ賞3連覇などG3、リステッド競走を勝ちまくったスプリンターだった。〕
前レコード 53秒06
(1981年 メズモ)
メズモは南米アルゼンチンで1977年に生まれ、競走していた栗毛の馬。
この記録芝だった…という話も…。
芝1,000Mでも1981年に53.3という時計を記録。
≪57秒1 デンコウグラス 牝 平成18年7月15日 小倉競馬場≫
■1,100m 1:00.04
(1992年 アーキ)
アーキはアルゼンチンに1988年に生まれ、4歳時にパレルモ競馬場にて同レコードを記録。
前レコード 1:00.4
(1957年 レシュェージョ)
1954年、南米アルゼンチンに生まれた鹿毛馬で、1957年のパレルモ競馬場で行われた1戦で記録。
≪1:06.6 セントフォード 牡 昭和45年1月11日 東京競馬場≫
■1,200m 1:06.3
(1995年 ジーマレア)
ジーマレアは1991年にアメリカ合衆国に生まれ競走生活を送った。
61戦17勝2着13回3着5回と、これまた壮烈な戦績を残した韋駄天。
≪1:08.7 ビクトリーテツニー 牡 平成20年12月14日 中山競馬場≫
■1,300m 1:12. 94
(2014年 アイキープセイイング)
アイキープセイイングは、2009年米国生まれのセン馬。
レコードタイムは2014年7月27日、エメラルドダウンズ競馬場にて記録されたもの。
〔アイキープセイイング:生涯成績18戦6勝[6-4-3-5]〕
前レコード 1:13.1
(1995年 ラッキーフォーエバー)
1989年米国生まれのセン馬。
≪1:16.4 マイティスプリング 牡 平成17年10月8日 東京競馬場≫
■1,400m 1:19.2
(1980年 リッチクリーム)
1975年に生まれた黒鹿毛の牡馬。25戦8勝、トリプルベンドH、アックアック招待Hなどのビッグレースを制し、レース名にもその名を残したほどのスピードスターだった。
≪1:21.5 インオラリオ 牡 平成24年3月31日 阪神競馬場≫
■1,500m 1:26.0
(1997年 オーサムデーズ)
1992年に米国に生まれた鹿毛のセン馬。母はカリフォルニアの牝馬チャンピオンだった。
≪1:29.6 インターネイティヴ 牡 昭和62年7月12日 札幌競馬場≫
■1,600m…1:32.2
(1996年 リンコンアメリカーノ)
1992年生まれのアルゼンチン調教馬。
レコードは1996年の7月26日、パレルモ競馬場で、斤量58kgを背負い記録。
※1マイル=1,609mとする距離では…
1:32.20 ドクターフェイガー(62KG) 1968年
※この時計は今だ全米レコード(世界レコード)として残り続けている。
▲〔ドクターファーガー。彼があまりに速すぎることを象徴するエピソードがある。種牡馬入りする時、フロリダの牧場まで馬運車で移動中、警官がその馬運車を止めてドクターフェイガーにスピード違反の切符を切った(あまりにも速かったドクターフェイガーに対してのジョークである)という。〕
1:32.24 ナジュラン(50KG) 2003年
実質的レコードホルダーはドクターフェイガーであろう。
≪1:32.7 アルクトス 牡 令和2年10月12日 盛岡競馬場≫
日本競馬伝説のレコード その?
1:33.3 クロフネ 牡 平成13年10月27日 東京競馬場
初ダートで日本レコード。翌年のJCダート馬に9馬身差の大差勝ち。
日本競馬において、良馬場の条件でダート1600mにおいて34秒台を超越したのはいまだクロフネのみである。
■1,700m 1:38. 2
(1983年 ホーダウンズデー)
ホーダウンズデーは1978年に米国で生まれた鹿毛の牡馬で、
ステートフェアジュベナイルチャンピオンシップS.、ゴールドラッシュSなど
40戦11勝[11-10-5-14]の成績を残した馬。
前レコード 1:39.0
(1956年 スワップス)
カリフォルニアの生んだ歴史的名馬。数々のレコードタイムを量産。
ダート2,600mにおいても未だ破られない2:38.1というタイムを保持(ちなみ日本レコードはエリモローラの2:43.3)。
≪1:40.9 メイショウカズサ 牡 令和3年7月11日 小倉競馬場≫
■1,800m 1:44. 78
(2019年 プルピネージョ)
プルピネージョは、2014年に南米アルゼンチンに生まれた鹿毛の牡馬で、
14戦4勝の成績を残した快速馬。レコードは2019年6月25日にパレルモ競馬場にて記録。
前レコード 1:44.91
(2011年 アリストシティー)
2004年に南米アルゼンチンにて生まれ育った芦毛の超特急。
生涯成績は44戦22勝、2着8回、3着4回。2011年8月22日、
パレルモ競馬場にて行われたグランプレミオジェネラルサンマーティン(ダ1,800m)にて
世界レコードをマークした。
★前々レコード:1分45秒0…1988年 シンプリーマジェスティック
GIのビッグタイトルには手が届かなかったものの、44戦18勝、多彩なG2勝ちのあるカリフォルニアダービー馬。
レコードは1988年のゴーデンゲートフィールズ競馬場の9ハロン戦で計時。種牡馬入りも果たす。
≪1:47.8 ウォータクティクス 牡 平成21年4月26日 京都競馬場≫
■1,900m 1:52.2
(1973年 リヴァリッジ)
1969年に生まれた米国二冠馬。2歳チャンピオン、古馬チャンプにも輝き、殿堂入りも果たしている。
≪1:53.7 ワンダーアキュート 牡 平成23年5月22日 京都競馬場≫
■2,000m…1:57.8
(1980年 スペクタキュラービッド)
三冠は惜しくも逃すもGIを勝ちに勝ちまくった歴史的スーパーホース。
≪2:00.4 スマートファルコン 牡 平成22年12月29日 大井競馬場≫
■2,100m 2:05.83
(2012年 クイックカサブランカ)
クイックカサブランカは2008年チリに生まれた鹿毛の牡馬で、
エルダービー、ラティノなどを制した一流馬。
クロフネの世界レコードを上回ったタイムをマークしたのは、
2012年3月10日、アルゼンチンはパレルモ競馬場でのことだった。
日本競馬伝説のレコード その?
前レコード 2:05.9
(2001年 クロフネ 牡 平成13年11月24日 東京競馬場)
永遠に語り継がれる世界レコードの一つとなるであろうJCダートの2分5秒9。
いまだに6秒台にすら突入できる馬は現れていない。当時の砂厚が7cm。
現在では9cmとなっているが、それでも7秒台前半すら現れない状況を
鑑みると、この時計の価値は絶大である。前年王者ウイングアローに7馬身、
上がり3F35.8を流しながら記録…史上最高レベルのJCダートで史上最高の
パフォーマンスを示した、日本競馬史上最強ダートホースの記憶はレコードと
共に輝き続ける。
■2,200m 2:12. 12
(2012年 ロイヤルフォレストリー)
ロイヤルフォレストリーは、2015年にブラジルで生まれた黒鹿毛の牡馬。
コンサグラカオ大賞など25戦14勝の成績を残している(現役、2021年5月現在)。
レコードは2021年3月29日のシダーヂジャルディン競馬場の
キャンセラー・オスワルド・アラナ(ダ2,200m)というG3レースで
記録された物。
前レコード 2:12.29
(2013年 ブラッドマネー)
2010年生まれのアルゼンチン調教馬。13戦6勝2着3回という成績。
レコードは2013年10月14日にマーク。
■2,300m 2:21. 2
(1970年 リオサンタ)
リオサンタは1965年にアルゼンチンで生まれた牡馬。
レコードは1970年3月10日、ペルーはモンテリーコ競馬場で記録した。
≪2:22.3 ハギノハイグレイド 牡 平成14年5月19日 中京競馬場≫
■2,400m 2:24.0
(1973年 セクレタリアト)
説明不要の米国史上最強馬。あの31馬身差の時のミラクルスーパーレコードである。
いまだベルモントSでは25秒台に入ろうという馬さえいない。
アメリカンファラオ、ジャスティファイら近代三冠馬でも遠く及ばない。
全世界で見ても、このレコードに次ぐ最速タイムとなるのが、2:25.97である。
おそらく、未来永劫に残る究極のウルトラレコードタイムだ。
2:25.97の次点レコードを記録したのが、ブラジルのカカーヂビリグイ。
2012年11月12日、シダーヂ・ジャルディン競馬場で記録された。
セクレタリアトが最後まで全力で追われていたら・・・
おそらくは23秒中盤タイムでゴールしていたはずで、そう考えると恐るべき戦慄の世界レコードである。
≪2:28.6 グルーヴィンハイ 牡 平成19年2月18日 東京競馬場≫
■2,500m 2:30.99
(1995年 ドリアングレイ)
ドリアングレイはアルゼンチン調教馬。1991年に生まれた高速ステイヤーで、レコードは1995年の6月19日のパレルモ競馬場で記録した。
≪2:38.6 サトノトップガン 牡 平成21年12月12日 中山競馬場≫
■2,600m 2:40.8
(1920年 マンノウォー)
全米が誇る伝説的国民の英雄であり史上最高の名馬、?ビッグ・レッド?ことマンノウォー。
100年以上保持し続けられている神話的レコードタイム。
このダート23F(2,600m)の世界レコード(全米レコード)はマンノウォーの逸話としても有名な100馬身差勝利神話のローレンスリアライゼーションSで記録されたもので、1920年の9月4日、ベルモント競馬場にてマークされた。
実は、このレース、マンノウォーがあまりにも強過ぎて出走馬が集まらず、レース数週間前のニューヨーク・タイムズ紙には「ローレンスリアライゼーションSに出走する馬を求めています。対象となるのは優秀な3歳の牡馬と牝馬です。出来れば10〜12頭ほど出てほしいのですが、無理なら5〜6頭でも構いません。伝統あるこのレースの価値を守ってください」という広告が載ったほどだったという。
対戦相手のフードウィンクが弱すぎた事もあり、試みに本馬を始めから全力疾走させてみる事にしたのだという。スタートが切られると、真っ先、いの一番に飛び出したのはフードウインクだったのだが、1ハロン通過時点で本馬がかわして先頭に立ち、そのままどんどんフードウインクを引き離していった。3ハロン通過時点で既に20馬身差、残り3ハロン地点では30馬身差、直線入り口では50馬身差、そして直線では馬なりで走ったにも関わらずゴールでは100馬身差をつけて、それまでの記録を6秒以上も更新する2分40秒8の全米レコードがマークされたのであった。最後まで全力フルパワーで走っていれば、40秒を切って39秒前半から38秒後半の超絶世界レコードが記録されていたことは間違いない。
ちなみに、この100馬身差という数字はデイリーレーシングフォーム紙の公式記録集に載っている公式なものなのであるが、実際のところはあまりにも大差がついたために正確な着差の測定は不可能であり、何人かの記者が独自に測定した結果として、100馬身という数字に落ち着いたようである。本当は1マイル差が付いていたのだが、さすがにそれは大き過ぎるという事で100馬身という数字にまとめられたという説まであるように、実際には100馬身以上離れていたという噂も根強いようである。
■3,000m 3:03.0
(1954年 アウレコ)
アウレコは1950年生にウルグアイに生まれた鹿毛の牡馬で母父コングリーヴ、
母はアルゼンチン史上最強女帝コーテドールという亜国生粋の超一流血統だった。
生涯成績はたったの5戦3勝。しかし、その3勝が全てGI。
ポーリャデポトリロス(ダ1,600m)、ホセペドロラミレス大賞(ダ3,000m)、
ムニシパル大賞(ダ3,000m)。世界レコードは1954年1月10日、マローニャス競馬場で記録した。
■4,000m 4:14. 6
※正確には2・1/2マイル(4,023.36m)
(1948年 ミスグリージョ )
ミスグリージョは1942年にアルゼンチンで生まれた栗毛の牝馬。
亜国ではセレクシオン大賞典(アルゼンチンオークス、芝2,000m)、
ナシオナル大賞も勝ち亜オークス・ダービーダブルを成し遂げる。
(他にはラスアラス将軍賞、エリセオラミレス賞、ラプラタ1000ギニーなど)
それらの勲章を手土産に米国競馬へと乗り込み、サンフアンカピストラーノH、
ニューキャッスルH、ダイアナH連覇、ブラックヘレンHなどを制し、
ピムリコカップ(ダ4,000m)にチャレンジ。
このレコードは1948年11月12日の当競走にて記録されたタイムとなる。
なお、4,000m換算にすると勝タイムは4:13.12となるという。
【総括・雑感】
芝のタイムと間違えてるんじゃないの?と言いたくなる時計ばかり(笑)。
特筆はダート史上最速の上がり3F、更新される前の記録31秒3をマークした馬の年齢はなんと2歳!ちょっと信じられません…。
それから、やはりクロフネはすごいですね。世界に入っても全く見劣りするタイムではありません。
ついに破られてしまったものの色褪せない。流石日本の白きセクレタリアト!
本家のセクレタリアトは世界史上最強馬論争に必ず名が上がるのも頷ける凄まじさ・・・。
また3000mのレコード保持者は、今から80年近く昔の馬にも関わらず、菊花賞でセイウンスカイが計時した当時の世界レコードを上回るという凄まじさ!何じゃこりゃ(笑)。
〜世界レコードあらかると〜
!世界最古!
◆不滅の継続◆
◆ウルトラミラクル◆
◆スーパー・レコード◆
1929年8月6日。
英国ブライトン競馬場にて記録。
芝1200m
1:06.15
(1分6秒2)
保守年数:93年。
欧州・オセアニア・中東ほかユーラシア大陸における芝1200レコードをいまだ継続。
現在の世界レコードは米国のディスコパートナーがマークした1:05.67。
しかし、時代や調教・騎乗技術、そして馬場状態を考慮すると、真のワールドレコードはこちらか。
芝6ハロンの世界的施行回数を踏まえれば、いかにこの記録が偉大なものか、容易に想像できよう。
2029年まで破られなければ、レコード達成から100年目を迎える。果たしてレコード100周年なるか―――。
このタイムをマークしたのはファーマーズコルト。
正式には無名のセン馬。
所有者はF.Fermer氏。
芝・ダート両方で世界レコードを出した究極の二刀流
ヌーア
芝2,400m 2:22.8(1950年)
ダ2,000m 1:58.2(1950年)
芝・ダートの両方のチャンピオンディスタンスにて当時では考えられないようなレコードを記録。
記録したのは1950年代。要は30年近くこのタイムに迫れる者はいなかった訳で、
現代にヌーアがいた場合、どれだけのタイムを計時できるだろうか。
ヌーアは1945年英国生まれで、米国にて調教されたアガ・カーン殿下の持ち馬。
31戦12勝2着6回3着3回。三冠馬サイテーションを4回、アソールトを1回撃破。
ナスルーラ産駒のスピードを象徴するような名馬であった。
オ・マ・ケ
ばんえい競馬レコード
直線200m 42.9
(2007年 ホリセンショウ)
2007年12月29日(馬場水分含有率8.7%)
大雪が降りしきる、視界がほぼゼロのような中行われた「2歳A-4」にて行われたレースで記録された。
最も遅かったタイムは、1969年10月19日、旭川競馬場にて行われた「ばんえい記念」にて、ハルトカチの記録した6:10.6。
この時の重量は1,100kgであった。
入着時計で最遅タイムは、2015年に記録された13:27.6。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
日本海記念
【ダイニヒメチドリ】
怪時計の謎
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この世には、到底信じることの出来ないような、とんでもないレコードが存在する。
2010年のNHKマイルCにてダノンシャンティが3歳春にして1マイル1分31秒4という怪記録をゴール板へと槌雷させた瞬間は戦慄に鳥肌が立ち、目を疑ったものだが、驚愕的空前絶後の夢幻レコードと称歌讃嘆されたるタイムが世界には散在している。
それは例えばセクレタリアトのダート2,400m2:24.0であったり、南米にてクリスタルハウスという馬が記録した芝2,000m1分55秒2という記録。上がり3F31秒3をダート戦で叩き出した馬などだ。
これらのレコードタイムは地球上で記録されたとは思えぬほどの震天動地の超絶的もの。
まさに空中に浮遊する庭園のような存在であり、滔々たる歴史の潮流にたゆたう全き虚ろの一角白鯨と言えよう。
日本にも、こうした震撼に身を委ねるほかないミラクルレコードが存在する。
それが1976年9月26日、上山競馬場にて開催された日本海記念(ダート2,300m)で6歳(旧齢7歳)牝馬のダイニヒメチドリが記録した2:21.7というタイム。
現ダート2,300mの日本レコードが、2002年にハギノハイグレイドが東海Sでマークした2:22.3。これは現在も破られていないばかりか、世界レコードでもある。しかし、30年以上も前の地方競馬の牝馬がすでに世界記録を保持していたのである。
しかも…さらに驚愕すべきことに、ダイニヒメチドリはアングロアラブなのである。
▲田舎町にささやかな佇まいを見せていた上山。川砂の敷かれたこの小さな競馬場で偉大なる伝説は誕生した。
廃競馬場に封印された伝説のレコード。このタイムは真実のものなのか。
調査を進めてみたところ…
実際は2:31.7である可能性が高かったようなのである。とは言え、このタイムでも凄まじい。このレースはアラブの豪傑であるレオグリングリンやドウカンガバナー、上山晩年のアラブ最強馬ペルターブレーヴも勝っているが、彼女のタイムには程遠い。以下に列記してあるので、ぜひ比較検討して頂きたい。
◆1976年
ダイニヒメチドリ 牝6
良2:31.7(2:21.7?)
◆1977年
オーナーズホダカ 牡8
良2:34.2
◆1978年 イソシオ 牡9
やや重2:39.6
◆1979年
ホクトパーシャ 牡6
良2:38.2
◆1980年
ホマレダッシュ 牡6
不良2:35.8
・
・
・
◆1988年
ドウカンガバナー 牡8
良2:35.5
※三連覇達成時。
・
・
・
◆1992年
レオグリングリン 牡6
良2:38.0
いかがだろうか?ダイニヒメチドリのタイムがいかに絶烈たるものかご理解頂けたと思う。2位となるのがダイニヒメチドリ勝利の翌年のオーナーズホダカの2:34.2。なんと2秒5差。
ちなみにダイニヒメチドリの2:31.7というこのタイムは、サラブレッドの超一流ダート馬たちとほぼ同等のものである。いくつか例をあげよう。初代JCダート馬ウイングアローが旭川ダート2,300で記録したタイムが2:32.5。メイショウトウコンが2:31.3。サカラートが2:32.2…近年の北海道競馬で最強クラスだったギルガメッシュが2:36.2…タイムパラドックスが2:31.4…
…
これ以上はもう何も言うまい。
時の流れに埋もれし伝説のスーパー・ミラクル・タイム。
?2:21.7?。
“ダイニヒメチドリ”。
謎が謎を呼ぶ、いまや神話のようなレコードタイムの話である。
【ダイニヒメチドリ】
父 クモノチカラ
母 ガーネツト
母父 タカラボシ
生年:1970年
性別:牝
毛色:鹿毛
生涯成績:49戦10勝
]]>
世界レコード
【芝部門】
≪≫内は日本レコード。※2021年8月15日更新。
■400m 20秒94
(1996年 イヴニングスノー)
イヴニングスノーは、1993年生まれのクォーターホース。
1996年に440ヤードにてこのタイムを記録した。
父と母はクォーターホースだが、父父と母母がサラブレッド種。
芦毛は父系のグレイソヴリンから受け継いだものだ。
生涯成績29戦15勝[15-9-3-2]というかなりの好成績を収めた名馬で、
クォーターホースのGI級競走であるロスアミトラスミリオンフューチュリティなどを勝っている。
■800m 46秒3
(1996年 ハフタナフタ)
ハフタナフタはカナダの競走馬。
57戦11勝の強豪で栗毛のセン馬。
真のスーパーレコード
44秒8
(2006年 ディープインパクト)
2006年の天皇賞春にて記録した驚愕の時計。
3,200mの距離で、800mの世界レコードをも超越するという
震天動地のミラクルレコード。
ディープインパクトの真のポテンシャル、真骨頂の「空飛ぶ走り」の全てがこのタイムに凝縮されている。
2017年の天皇賞でディープインパクトの世界レコード3:13.4はキタサンブラックに1秒更新されるが、この4Fタイムはもはや永遠に塗り替えられない、真の世界レコードタイムと言えよう。
その時の天皇賞で記録の3F33.5も天皇賞で更新できる馬も現れるとは思えない。
★その他の驚愕の4F★
44秒1
(サートゥルナーリア 令和元年9月22日)
神戸新聞杯で記録したこの時計がタイム上ではスーパーワールドレコード。
しかもほぼ馬なり、雨降る中記録している。
44秒4
(パントルセレブル 平成9年9月14日)
ニエル賞に出走した際、超スローペースで後方待機のまま直線を向き、徹底マークで閉じ込められ、行き場を失う不利を受けながら、4Fを44秒4という、この世の物とは思えぬ時計を記録。これはディープインパクトが繰り出した、超大捲りを決めた天皇賞春の世界記録44秒8を0秒4も上回るものであり、勝ち馬では無いため正式記録には残らないが、出走馬が記録した4Fとしては事実上の世界レコードといっていい。その記録を、時計の掛かるロンシャンの馬場で記録した事に大きな意味がある。この時の上がり3Fはおそらく33秒前半から32秒後半という超絶別次元の数字を叩き出している可能性高い。ダンシングブレーヴのエプソムで繰り出した31秒台、セクレタリアトのダート2,400m世界レコードと同じ世界のものであり、永遠に破られることのないような驚愕の記録と言っていいだろうか。
44秒14
(2023年 オーギュストロダン)
6月3日、エプソム競馬場、英ダービーにて記録された数字。
この勝利でディープインパクト産駒の3カ国ダービー制覇、13年間全世代でのクラシック競走勝利を決定付けた、日本競馬界のみならず、世界競馬史に残る歴史的瞬間。そのメモリアルヴィクトリーで世紀の4ハロンは記録された。
ラスト1F 10.9
ラスト2F 22.18(史上最速)
ラスト3F 33.01
ラスト4F 44.14
ラスト3.44ハロン(直線)38.25(歴代2位)
これは、AT THE RACESのサイモン・ローランズ氏が1965年以降で集計したデータから分析された数字である。
(英国競馬公式でもこの数字が発表されている)ガリレオ、ニジンスキーといった歴史的名馬をも凌駕した究極の4ハロンである。
■1,000m 53秒07
(1997年 ロコモティヴ)
ロコモティヴはアルゼンチンで競走し、5戦3勝の戦績を残した快速馬。
5月17日、サン・イシドロ競馬場で記録した。
≪53秒7 カルストンライトオ 牡 平成14年8月18日 新潟競馬場≫
真の世界記録?
エプソム競馬場で53秒60
インディジェナスという馬が記録。
1956年にアイルランドに生まれた栗毛の馬。
23戦6勝で勝った6勝は、すべて1000m戦でのものだった。
この53秒60というレコードタイムは、1960年6月2日のエプソム競馬場1000mで記録。
当時は手動時計での計測ゆえ、参考記録となるが、エプソム競馬場で、
しかもこの時、インディジェナスは131ポンド(59.4kg)を背負って駆け抜けたタイム。
あの重い重厚なエプソムで斤量を背負って、高速馬場のカルストンライトオのタイムを
凌駕しているのだから、尋常な記録ではない。
■1,100m 1:00.2
(1995年 ペンブローク)
ペンブロークは米国で活躍したサラブレッドで、1990年の1月30日に生まれた。
父ゴーンウエスト、母父ボールドネシアンという血統で、生涯成績18戦7勝2着2回3着3回という記録を残した。
勝ち鞍にはページS、バドワイザーブリーダーズカップH、ベッドサイド・プロミスH。
当レコードは1995年7月15日、ハリウッドパークで記録。
≪1:04.9 トミヨルカ 牡 昭和45年7月11日 福島競馬場≫
■1,200m 1:05.67
(2017年 ディスコパートナー)
ディスコパートナーは2012年に米国で生まれた芦毛のサラブレッド。
父ディスコリコ(ノーザンダンサー系)、母ルルズナンバー、
母の父ニュメラウス(ミスプロ系)という血統。生涯成績33戦11勝[11-6-8-8]
主な勝ち鞍としてジェイパーS連覇、ベルモントターフスプリント招待連覇、
エリューシヴクオリティS、フォービドゥンアップルS、トロイSなどを勝ち、
BCターフスプリント2年連続3着した米国芝のスプリント路線で一時代を築いた
白銀のスピードスターだった。
1:05.67のワールドレコードは2017年6月10日のベルモントパーク競馬場にて記録された。
芝1,200mという距離は全世界で毎日のように行われている競走距離ゆえ、
その世界記録は価値が高い。(それに日本特有の超高速レーンの馬場で記録された物で無い)
米国と日本では競走距離の設定方式が異なるため、6ハロンというのは
正確には1,207m走っていることになっている。これを日本と同じメートル方式に
置き換えた際の、ディスコパートナーが記録した世界レコードタイムの
1,200m置換タイムは・・・
なんと1:05.29になるという。
前レコードは1:05.68。
2000年にフォブズフェイヴァリットという南アフリカのセン馬が
マークした物。
≪1:05.8 テイエムスパーダ 牝 令和4年7月3日 小倉競馬場≫
(以下、前日本レコード)
≪1:06.0 ファストフォース 牡 令和3年7月4日 小倉競馬場≫
※その前日7/3には同小倉にて1:06.4という日本レコードが記録されていた。
〔平成11年7月17日の小倉競馬場の北九州短距離Sにて1:06.5の日本レコードをアグネスワールドが記録。その勢いのまま英仏のスプリントGIを勝利した〕
■1,400m 1:17.05
(2015年 メイクビリーヴ)
メイクビリーヴはフランス調教馬で、2015年10月4日、
第150回フォレ賞(G1)優勝時に記録。
前レコードは1:17.78。
2000年にアレジという馬が南米の競馬場で記録されたもの。
≪1:19.0 マグナーテン セン馬 平成14年7月14日 新潟競馬場≫
■1,500m 1:25.15
(2012年 エーディエール)
エーディエールは米国の競走馬で、栗毛のセン馬。2005年生まれで、
39戦8勝2着7回3着10回という成績。
JケネスセルフシェルビーC0.ボーイズ&ガールズクラブS連覇(芝1,600m)など
2013年まで競走生活を続けていた。
★前レコード:1分26秒2…1994年 コートラーク
コートラークは米国の競走馬で、黒鹿毛のセン馬。
85戦12勝2着17回3着14回の豪傑で、
6歳時にWRを記録するというタフネスぶりを見せ付けた。
≪1:27.3 ヴァトレニ せん馬 令和3年6月27日 札幌競馬場≫
■1,600m 1:30.3
(トロワゼトワル 牝 令和元年9月8日 中山競馬場)
■1マイル(1,609.3m) 1:31.23
(2010年 マンデュラー)
マンデュラーは2004年生まれの米国産馬で、25戦7勝の戦績を残した。
ワールドレコードは2010年6月6日マンモスパーク競馬場にて記録した。
■1,700m 1:38.0
(1980年 トールド)
トールドも米国の競走馬。鹿毛の牡馬で、32戦13勝2着7回3着2回という成績を残した。
レコードは1980年の9月14日に記録。
≪1.39.5 サラキア 牝 平成30年8月5日 小倉競馬場≫
■1,800m 1:43.0
(2023年 マスクトディーヴァ)
★前レコード:1分43秒4…1991年 コストロマ
コストロマはアイルランド生まれの黒鹿毛の牝馬。
2、3歳時は愛国で競走生活を送り、4歳に米国移籍。
メキメキと力を付け、26戦12勝、イエローリボン招待S、サンタバーバラHなどGIを3勝を上げる。
レコードは1991年10月20日、サンタアニタでマークした。
(以下、前日本レコード)
≪1:43.8 エスコーラ 牡 令和3年7月3日 小倉競馬場≫
■1,900m 1:51.2
(1976年 トゥーネルヴィル)
黒鹿毛のセン馬で米国に育つ。
1971年4月8日生まれ、45戦13勝の成績を残した。
レコードは1976年2月7日、ブーゲンビリアハンデにて記録。他にもコースレコードを樹立するも、1977年10月3日、レース中に故障し帰らぬ馬となる。その速さが祟ったのだろうか。
≪1:54.1 ニチドウタロー 牡 昭和55年4月19日 阪神競馬場≫
■2,000m 1:55.2
(2023年 イクイノックス)
(写真引用:ネット競馬(撮影:下野雄規氏))
10月29日(日)、東京競馬場にて記録。
前半57秒台の猛烈な流れを、先行3番手追走で、
持ったままで直線先頭に並び掛け、右鞭1発、
左肩鞭2回程、あとは軽く流して走破。
信じられない強さだった。
★前レコード:1分55秒4…1999年 クリスタルハウス
1999年9月26日の3歳G1ナシオナル・リカルド・ライオン賞優勝時に記録。
クリスタルハウスは、1996年生まれの鹿毛の牝馬。チリダービーに相当するエルエンサーヨ(芝2,400m)も勝っており、チリ1000ギニーに当たるレースでも2着と好走。さらには南米の凱旋門賞と謳われる南米競馬最高峰の一戦カルロスペリグリーニ国際大賞でも3着と健闘した名牝である。
≪1:56.1 トーセンジョーダン 牡 平成23年10月30日 東京競馬場≫
■1・1/4マイル(2016m)
1:57.16
(1999年 レッドジャイアント)
2004年生まれの米国馬で父ジャイアンツコーズウェイ。
通算成績は12戦6勝。ワールドレコードは2008年サンタアニタ競馬場にて行われたクレメント・ハーシュ・ターフチャンピオンシップ似て記録。他にはヴァージニアダービー(芝2,000m)にてコースレコード1:59.2を記録している。
■2,100m 2:02.63
(2023年 エースインパクト)
2020年生まれのフランス馬で父はクラックスマン。
4戦4勝、無敗のフランスダービー馬。
2023年6月4日のフランスダービー、シャンティ競馬場にて記録。
ソットサスのレコード2:02.90を更新。
日本には芝2,100mの競走がない為、【日本馬が記録した】
というカテゴリーで見ると日本馬最速レコードは
オーソリティがサウジアラビアでマークした2:06.7。
2022年3月26日、サウジアラビアのネオムターフCにて。
★前々レコード
2:07.0(1972年 ロベルト)
ブライアンズタイムやシルヴァーホークの父となる歴史的ヒール。ベンソン&ヘッジズゴールドカップにて、英国の伝説的英雄ブリガディアジェラドに唯一となる土を付けた英ダービー馬である。
《参考記録》
1962年の8月25日、米国はウォーターフォードパーク競馬場にて記録された2:06.08という信じ難いタイムがある。
ラフマックという馬が記録したとされるが詳細が明らかになっていない。
■2,200m 2:08.7
(1999年 キャストアドリフト)
≪2:09.0 プリマヴィスタ 牡 令和4年5月8日 中京競馬場≫
※実質的日本レコードは、タイトルホルダーが2022年6月26日、阪神競馬場・宝塚記念にて記録された2:09.7のレコードタイムかもしれない。
インコースを走ると土塊が跳ね上がる程荒れていた上に、パンサラッサの作り出した激流ペースを、2番手から自ら動いて圧勝。
■2,300m 2:17.64
(2006年 ジャイアントホープ)
2002年生まれの米国産馬。7戦3勝の成績で南米に渡る。
レコードはガルフストリームパーク競馬場で記録。
≪2:18.3 セイウンエリア 牡 平成11年5月9日 東京競馬場≫
■2,400m 2:20.6
(アーモンドアイ 牝 平成30年11月25日 東京競馬場)
サラブレッドが歴史上2,400mのチャンピオンディスタンスを2分20秒台で走った歴史的瞬間。
★前レコード
?2分21秒98…1999年 アシデロ(公式記録)
?2分21秒1…1999年 ウォークオブフレイム(参考記録)
コートラークは米国の競走馬で、黒鹿毛のセン馬。
(1999年 ウォークオブフレイム)
≪前日本レコード2:22.1 アルカセット 牡 平成17年11月27日 東京競馬場≫
■2,500m 2:28.2
(ルックトゥワイス 牡 令和元年5月26日 東京競馬場)
■2,600m 2:35.1
(ミスマンマミーア 牝 令和3年4月11日 阪神競馬場)
★前レコード:2分37秒0…1978年 トムスイフト
米国の名牝シュヴィーの初仔。1973年に生を受け14戦3勝の成績。
1989年に後ろ脚を骨折し、安楽死となる。
前日本レコード
≪2:37.3 サクセスパーシュート 牡 平成24年11月3日 福島競馬場≫
■2,800m 2:49.73
(2013年 ドゥボーン)
日本でも世界でも施行されている機会の少ない距離だが、参考までに。
このレコードタイムはブラジルのドゥボーン号が記録。
2013年4月13日、ガヴェア競馬場にてマーク。
ドゥボーン号は2008年生まれのレインボウクエストの孫。
生涯成績29戦13勝[13-4-6-6]で、長距離戦を得意とした馬だった。
≪2:55.2 ムッシュシェクル 牡 平成6年3月13日 中京競馬場≫
■3,000m 3:01.0
(2014年 トーホウジャッカル 牡 平成26年10月26日 京都競馬場)
〔トーホウジャッカルが更新するまでは3:02.5が世界レコードだった。ブラジルの歴史的名馬ナルヴィクが1959年にガヴェア競馬場で記録したものと、ナリタトップロードが2001年に阪神競馬場でマークしたものが最速だった。それを1秒5も一気に縮めたスーパーレコード。写真はナルヴィク〕
■3,200m 3:12.5
(2017年 キタサンブラック 牡 平成29年4月30日 京都競馬場)
■3,600m 3:37.3
(1927年 ダコタ)
セントサイモンの孫に当たる栗毛の英国馬。
目を疑うようなタイムが並ぶ中、日本馬4頭も名を連ねました。
中でもすごいのが3600mの3分37秒3という時計。
1927年にマークされ、今だ更新されることがないのです。開催される機会の乏しい距離とはいえ、それを踏まえてみても破格のレコードタイムと言えるでしょう。
ちなみに日本レコードはエアダブリンの3:41.6。
■4,000m 4:11.80
(1953年 ティロレーザ)
〔1953年12月6日、ガヴェア競馬場にて記録。芝4000mの世界レコードはブラジル伝説の大女帝ティロレーザの記録である。ティロレーザは1944年生。1948年〜1951年にかけてディアナ賞4連覇の偉業を成し遂げる。ブラジル国際大賞(芝2,400m)で最強馬の地位を確固たるものとした。しかし、不幸な事に不妊であり、仔馬をもうけることが叶わなかった。〕
(4:15.6 キクオーカン 牡 昭和49年3月3日 中山競馬場)
ちなみに英国アスコットゴールドカップ(芝2マイル 3f 210yds(4,014.22m))のレコードはユナイテッドキングダムが1988年6月15日に記録した4.15.67。
仏国カドラン賞(芝4,000m)のレコードは、2014年10月5日にハイジンクスが記録した4.12.22。
※さらに超長距離のレコード記録もあるのですが、それは『奇跡の名馬3』の出版あった際に記載させて頂きます。
史上最速の3ハロン
29秒6
(カルストンライトオ)
2002年の新潟競馬場、直線1,000mのアイビスサマーダッシュのテンの3Fで記録。
ちなみにその時のラップタイムは「9秒8-10秒2-9秒6」という驚異のもの。
後半上がりの史上最速は…
31秒4
(リバティアイランド)
2022年の7月30日、新潟競馬場、芝1,600mで記録。
■前記録
31秒6
(イルバチオ)
2003年の新潟競馬場、直線1,000mのアイビスサマーダッシュにて記録。
直線競馬でなく、コーナー周回あり、
2ターン以上の競馬での史上最速3Fは…
31秒8
オーストラリア史上最強の女傑
ウインクスが幾度も記録。
高速馬場でもない馬場かつ2ターン以上で
この記録は凄まじ過ぎる。
日本記録では…
31秒4
(リバティアイランド)
2022年の7月30日、新潟競馬場、芝1,600mで記録。
2歳デビュー戦にて記録しており、しかも牝馬。
31.4は、勝ち馬以外では2022年5月の新潟競馬場の
直線レース「韋駄天S」にてルッジェーロ号が
記録しているが、勝ち馬の上がり3Fとして
JRA史上最速3F馬はリバティアイランドだ。
■前記録
31秒9
(オースミグラスワン)
2008年の5月10日、新潟競馬場の新潟大賞典(芝2,000m)で記録。
2015年4月26日には京都競馬場、マイラーズC(芝1,600m)でディアデアマドレも31.9を記録。
直線がすでに3ハロン戦に入る新潟競馬場は3ハロンが出て当然ゆえ、これが正真正銘の史上最速記録と言えよう。
また同年の5月3日にも31.9をサトノギャラントが記録。こちらは新潟競馬場の芝1,600mであった。
【2歳馬】
31秒4
(リバティアイランド)
2022年の7月30日、新潟競馬場、芝1,600mで記録。
■前記録
32秒0
(ジャストドゥイング)
2014年9月28日、新潟競馬場の芙蓉S(芝1,800m)で記録。
しかし、新潟競馬場新馬の優秀性を判断するバロメーターの一つに、新潟競馬場以外の
芝2,000mでの上がり3ハロンを見るとその将来性がはっきりと判断できる。
アグネスタキオンは33秒8、ラスト1ハロンは10秒8という凄まじい記録を出している。
さらに、あのディープインパクトも阪神芝2,000mでデビューし、上がり3ハロンの33秒1を記録。
これは、2,000m以上で行われたデビュー戦で世界史上最速の上がり3ハロンであった。
この記録を破ったのが、またディープの子供。シルバーステートであった。
2014年10月の紫菊賞(芝2,000m)で32.7という空前絶後の3ハロンをほぼ追われる事なく記録。
ところが、このシルバーステートの記録をデビュー戦で超越し、またディープの持つ2,000mでのデビュー戦上がり3ハロン世界レコードを超えたのが、またしてもディープの仔ワグネリアンとヘンリーバローズ(シルバーステート弟)。
32秒6
(ワグネリアン)
※実質上の2歳馬史上最速の3ハロンかつ、2,000m以上で行われた2歳デビュー戦における世界レコード。
加え、これは中京競馬場の全距離古馬も含めての史上最速3ハロンレコードでもある。
2017年7月16日の中京競馬場のメイクデビュー(芝2,000m)で記録。
2着ヘンリーバローズも32秒8を記録している。これも父ディープの記録超え。
【?ハロン?の起源とアラカルト】
「ハロン」の言葉の起源は大変古く、その起源は9世紀まで遡り、
当時は「ファー」が古英語で「溝」を意味していた。
この言葉は、耕されたエーカーの農地の溝の長さを指すものであった。
これを1300から220ヤードの距離に規格化。
しかし、時代の変遷の中、この用語は徐々に使われなくなり、
1985年に英国でハロンが公式の測定として完全に廃止された。
今日、ハロンがまだ言及されている場所は2か所のみ。
1つは競馬サークル内。もう1つはミャンマーの高速道路標識だという。
]]>
※なぜかデータが消失してしまったので、リニューアルを掛けての再編集でアップしています(^^;)
【馬と海外競馬の基礎知識】
【全世界の競馬の売り上げ】
873億3483万6697ユーロ
(1ユーロ=135円台の計算)
円換算すると…
117兆855億円!!!!!
また全世界のGI競走は450以上存在する。
そして全世界の競走は平地競走のみでも15万レースを超え、障害や繋駕速歩競走まで含めると…
優に25万レースは超えてくるものと推察される。
海外での競馬用語
■馬体の名称 Parts of the Horse
・前髪:Forelock
・額:Fore head
・おとがい:Chin
・鼻:Muzzle
・顎:Jaw
・喉:Throatlatch、throat
・たてがみ:Mane
・首:Neck
・肩:Shoulder
・きこう:Withers
・背中:Back
・胴:Barrel
・腰:Loin
・肘:Elbow
・前膝:Knee
・管骨:Cannon bone
・副管骨:Splint bone
・蹄:Hoof
・蹄冠:Coronet
・蹄球:Bulb of heel
・繋:Pastern
・球節:Fetlock、Ankle
・尻:Croup
・尻尾:Tail
・寛骨:Pelvis
・腿:Thigh
・大腿骨:Thigh bone
・脇腹:Flank
・腓骨:Fibula
・脛骨:Tibia
・飛節:Hock
・夜目:Chestnut
・腱:Tendon
・靱帯:Ligament
〔病気・怪我〕
・骨折:Fracture
・跛行:Lame
・屈腱炎:Bowed tendon
■馬場状態 Track condition / Going
・良馬場:(芝)Hard→Firm→Good to firm→Good / (砂)Fast→Wet fast
・稍重:(芝)Good to yielding→Good to soft→Soft→Yielding / (砂)Good
・重馬場:(芝)Soft→Holding / (砂)Slow
・不良馬場:(芝)Heavy / (砂)Heavy→Muddy
・極悪馬場:Frozen / Sloppy→Frozen
■レース用語 Racing Terms
《出走前》
・出走取り消し:Scratch
・厩舎:Stable
・厩舎エリア:Backstretch area
・パドック:Parade ring
・本馬場入場:Post parade
・1番人気:Favorite
・本命馬:Horse to beat
・穴馬:Dark horse 、Long shot
・発走時刻:Post time
《発走》
・ゲート:Gate
・態勢完了:They're in the gate
・スタート:Break
・実況の「スタートしました」:Break and…they're off!
・出遅れ:Bad break
・レース序盤:Early stage
・最初の2ハロン:Opening quarter
・1コーナー:First turn、Clubhouse turn
・「各馬1コーナーへ向かいます」:Thye're racing toward the first turn.
《脚質》
・逃げ馬:Front runner、Pacesetter、Speedster、Early leader
・先手を奪う:Take the early lead
・ペースを握る:Set the pace
・先行馬:Stalker
・先行する:Follow the pace、Stalk the pace
・追い込み馬:Closer、Later runner、Stretch runner
・控える、抑える:Stay off the pace、Hold up 、Take back
・先頭から○馬身差:○lengths off the leaders
《道中》
・向こう正面:Backstretch
・折り合う:In hand
・手応えがいい:Respond well
・3コーナー:Far turn
《勝負所》
・仕掛ける:Make a move、Move up
・最終コーナー:Final turn
・直線入り口:Top of the lane、Top of the stretch
・経済コースを通る:Save the grounds
《最後の直線》
・前が開かない:No room to run
・落馬:Fall
・先頭に立つ:Hit the front
・差を広げる:Draw away
・差してくる:come from behind
・追う:Drive
・切れ味:Turn of foot
・「何てすごい切れ味!」:What a brilliant turn of foot
・逃げ切る:Make all
・逃げ切り:Wire to wire
・バテる:Tire、Fade
・埒:Rail
・残り2ハロン:Two furlongs out、Two furlongs to go
・残り1ハロン:At eighth pole
・写真判定:Photo finish
・大接戦:Very close finish
・鼻差で勝つ:Win by a nose
・同着:Dead heat
《レース後》
・異議:Objection
・審議:Inquiry
・確定:Official
・失格、降着:Disqualification
・競走中止:Do not finish、Pull up
・後検量:Weigh in
《馬の性別》
・当歳馬:Foal
・離乳前の子馬:Suckling
・離乳後の子馬:Weanling
・1歳馬:Yearling
・3歳以下の牡馬:Colt
・4歳以上の牡馬:Horse
・3歳以下ん牝馬:Filly
・4歳以上の牝馬:Mare
・セン馬:Gelding
《毛色》Colours
・鹿毛:Bay
・黒鹿毛:Dark bay
・青鹿毛:Brown bay
・栗毛:Chesnut
・栃栗毛:Dark Chesnut
・芦毛:Gray
・白毛:White
・青毛:Black
《生産に関する用語》Breeding Terminology
・種牡馬:Stallion、Sire
・繁殖牝馬:Broodmare、Mare、Dam
・妊娠中の牝馬:In foal broodmare
・母父:Broodmare sire
・交配:Breeding
・流産:Aborted、Slipped
・不受胎:Barren、Not pregnant
・生産者:Breeder
・交配された、〜産:Bred、Mated
・種付料:Stud fee
・血統:Pedigree
世界競馬のはじまり
万古の時代より、ローマ人たちがアラビア馬をグレートブリテン島へと持ち込み、
レースと繁殖を繰り返していた。14世紀前半の百年戦争、それに続くバラ戦争の
終焉で安定したテューダー朝(1485年〜)を迎えると、馬同士を競わせる競争は
さらに増えていった。
その後、チャールズ2世の王政時代に入ると、近代競馬の蕾とも言えるような形が模られ始めていった。
イングランド王チャールズ2世がいたからこそ、競馬は発展と進化を遂げるための土台が
形成された。
王政復古後のこの王は、馬主であり、騎手でもあり、そして熱狂的なファンでもあった。
チャールズ2世の熱烈な競馬愛が生み出した情熱が英国競馬、世界競馬の原点となっていく。
王の統治したこの島には、競走馬の育成、調教、レースを行うに理想的な原野が広がっており、
メッカとなったニューマーケットの地は?聖地?として愛した。
競馬開催中は朝廷ごとニューマーケットへと移動したため、権力も特権も、全てがこの地へと
集約される事となった。
ジェームズ1世
ジェームズ1世は王位継承から2年後の1605年に初めてニューマーケットを訪れ、猟犬や鷹狩りを勤しんだ。彼はニューマーケットを開発し、しばしばニューマーケットにあるグリフィンと呼ばれるホテルに宿泊したという。グリフィンの施設があまりにもジェームズにとっては古風過ぎと事もあり、彼はこの地に宮殿を建てる。彼はまたギャンブルが好きで、この地にても賭けを楽しんだという。彼はかつて、300ポンド未満の現金では入場すら許されないパーティーを催したとも口伝されている。
このジェームズ1世は、競馬にも情熱を注ぎ、英国へ中東のアラブ馬を輸入した先駆者であり、第一人者。彼のこの試みと血を滾らせた想いが数十年後、サラブレッド三代ファンデーションスタリオンらを、大英帝国へと招来させる原動力となって結実し、サラブレッドの歴史は始まる。
サラブレッド三大始祖と呼ばれるバイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン、ダーレーアラビアン。
これらが英国の地を踏むのは、1690年代にバイアリータークが最初となる。
三大始祖の血が英国へと根差すまで、競走に使われていたのはギャロウェー種であった。
ギャロウェー種はスコットランド南西部に原生を発する馬種であるが、現在では純血のものは絶滅してしまっている。
〔ギャロウェーポニーの牡馬。ギャロウェーは、非常に従順で大人しく温和な気質で、非常にタフで乗りやすい馬種であったという。アメリカン・サドルブレッド種の馬の祖先でもある。1600年代に多くが北米へと輸出され、日種改良されていった〕
世界初の競馬場
1540年 イギリスにおいて、建設されたチェスター競馬場が現存最古の記録とされている。これは、近代競馬(正式のルールと専用の施設に基づく競馬)が行われるようになる最古の記録物でもある。
米国初の常設競馬場は1665年に創設されたロングアイランド競馬場。
史上初となるダートのみの競馬場は1821年に設立されたニューヨークのユニオン競馬場。
しかし、まだ当時はスタンドも無かったという。
▲〔チェスター競馬場〕
記録に残る
最古の競走記録
英国史上最古となる競馬に関する記録は西暦210年、ヨークシャーのネザービー(Netherby)でローマ皇帝セプティマス・セヴェラス・アレクサンダーによって英国に連れて来られたアラビアの軍馬の間で行われた競走とされている。
もう一つ、正規の騎手を乗せた最古の競走としては、
1174年ごろ、ウィリアム・フィッツスティーブンがラテン語で書いた「ロンドン市の描写」の記事である。
その記事によれば、スミスフィールド市場近辺にて2名の騎手による競走が行われたという。
しかしながら、英国以外の国でも、馬と人がいた集落であれば、モンゴルの騎馬民族やインディアンの村落などでも散見されたに違いない。ただ記録に残されていないだけで。
競馬は世界で最も古い歴史を持つスポーツの一つであり、
考古学者によれば世界最古の競馬記録は、
紀元前4000年前の中央アジアのカザフスタンにて
部族間の競走として行われたものが史上最古のものとされている。
その後は中国やペルシャでも競馬が行われたようである。
軍馬の訓練の一環として行われていたようで、古代ペルシアの
聖典アヴェスターに、紀元前1500年〜1000年にかけて
競馬が行わていた記録があるという。
また、12世紀末の第三回十字軍に参加した貴族の娯楽として競馬が行われ、14世紀にも貴族が所有する高価な馬自慢のために民衆の前で貴族自らが騎乗したレースがあった事が分かっている。
また世界最古の競走名が付けられた英国式レースは1519年にヨークシャーの村落キプリングコーツで施行されたキプリングコーツダービーとされる。この競走は2019年には第500回目を迎える。距離は4マイル弱とされ、3歳以上であればどの馬でも参加できるという。
世界で2番目に古いとされる競走名は、1599年以来開催されているという、「カーライルベル」というレースである。
カーライルベルは5月下旬から6月上旬までの間の火曜日に開催され、2マイル強の距離で4歳馬によって争われる。
ちなみに次に古い競走はイタリアの伝統競技パリオ(1633年〜)であり、その次に古いのがドンカスターカップ(1766年〜)。
その次にクラシック最古の競走セントレジャー(1776年〜)となる。
🇬🇧英国最古の競走
1176年、ヘンリー2世が所有していたピュースという馬が優勝。
英国で初めて開催された洋式競馬(英国式現代型競馬)で史上初となる勝ち馬誕生。
これは競馬の歴史上、歴史的大事であるはずだが、詳しく知る者は少ない。
また、このレースは欧州全土においてはじめて催された英国式競馬とされる。
※このレースが欧州最古の現代式競馬とされるが、フランスのカペー家から、英国のアゼルスタン王に贈られた書簡には、「走っている馬(競走した経験のある馬)を御贈りする」という一文があるという。この手紙は9〜10世紀に贈られたものとされている。
もしかしたら、800年〜900年頃に史上最古の現代洋式競馬型の競走が行われた可能性もある。
🇺🇸米国最古の競走
1665年、現在のNY州、ヘンプステッドのニューマーケットコースにて催された物とされている。
世界初の調教師
「芝の父」(ターフの父)とも呼ばれる、ウィリアム・トレゴンウェル・フランプトン氏がその人。
フランプトンは、ウィリアム3世によってニューマーケットのランニングホースの番人に任命された。
役職は、現代で言うなればトレーナーマネージャーと言われるに相応しいものであり、本質的には世界初となるプロの競走馬トレーナーである。彼は当時としては破格の長寿を誇り、アン女王、ジョージ1世、ジョージ2世の治世中もその地位を維持し続けた。
フランプトンは、1641年にドーチェスターの近くでモートンのウィリアム・フランプトンの5番目の息子として生まれる。
彼は30代前半にはじめてニューマーケットの地を踏み、現在ヒースハウスが立っているモールトンロードの麓に住んでいたとされる。
彼は競馬と闘鶏の両方で、新進気鋭のギャンブラーとして名を馳せており、1000ポンドもの大金(現在の価値にすると、約2700万円)を賭けたこともあったという。
彼はかなりの変わり者で、極端な女性嫌いでもあったという。
しかし、仕えたアン女王に対しては、敬意と忠誠心を見せていたらしい。
フランプトンはまた、馬に関する知識とトレーニングのスキルに加えて、徐々にルールと系統的な手順をレースに導入した。
現代競馬の礎となる骨子の源を築いた偉人なのである。これが「芝の父」と呼ばれる由縁であろう。1727年、88歳で生涯を閉じる。
世界競馬の重要史
世界初となるレーシングカレンダーの発刊
1727年
全世界競馬において、最も記憶すべき年号。
それがこの年。世界初となる「レーシングカレンダー」が発刊された年である。
以来、今日に至るまで、一度足りとも途切れる事なく続いている。
レーシングカレンダーの発刊により、断片的に散らばっていた古の競馬の記憶と記録とを
繋ぎ止め、目を通したその時代と過去とをタイムチューニングしてくれる。
そうして読者はそのイメージを脳裏に浮かべ、思い描く事ができるのである。
キングズプレート
チャールズ2世の時代に始まった6歳馬限定レースで世界最古の名称が付いた、最高栄誉の超長距離レース。
負担重量は12ストーン(76.2kg)競走距離は4マイル(6,400m)。ヒート競走であり、3回が規定となっていた。
すなわち…6.4kg×3=19,200mを走ることになる。
時代を遡求する程に競走距離は長くなり、6マイルや8マイルの競走も存在していた。
また、ヒート競走は1756年に廃止する命令を出したが、すぐに無くなる事はなく、
1860年のレーシングカレンダーにてついにその存在は消えた。
世界初の3歳馬のレース
1756年より以前に3歳馬は競走に出た事はない。(ただし、1731年と1732年に例外はある。その例外が史上最初の競走)
また、1727年以前には4歳馬が走った例もなく、ニューマーケットにおいては1744年10月まで4歳馬の出走は見られなかった。
世界初となる3歳馬のレースは、1731年8月1日、ヨークのビデイルにて行われた3マイルの一発競走で負担重量は8ストーン(50.8kg)のレースで、9頭立てによりレースは施行された。
翌年にも実施されたが、その後は24年間行われる事なく、3歳馬のレースは封印されてしまった。
当時の競馬界、ファンからは理解されず、虐待同然の評価で非難を浴びる事となってしまったからである。
世界初の2歳馬のレース
2歳馬が競馬に出走するようになった最初の競走は、1769年10月、ニューマーケットにおける2歳馬と6歳牝馬のマッチレースとされている。2歳馬は6ストーン(38.1kg)を、6歳牝馬は9ストーン(57.2kg)を載せ競走し、2歳馬が勝ったという。
この時の2歳馬のレースも非難の的ととなったが、ニューマーケットにはグロスヴェナー・プレートという唯一の2歳馬競走が設けられた。ところが、実際に2歳馬がこのマッチレース以降、4年間は出走する事もなく、1775年にマッチレース形式のレースが1回、1776年には、ついに2歳馬のみとなるステークス競走が、3頭立てという頭数ではあったが、行われるに至った。
そしてこれ以降、2歳馬はようやく時代の潮流にも認められ始め、徐々にレース数を増やし、浸透されていった。
その後にセントレジャーが創設され、オークス、ダービーと名誉あるクラシックレースがその形を形成されてゆく事ととなる。
1歳馬のレース
競走馬の幼齢化が進むにつれ、現代競馬では考えられない状況が到来する。
1791年に史上はじめて行われたという1歳馬による競馬である。
このレースはホートン競馬場にて行われたとされ、キャッシュという1歳牝馬が540mほどの距離で3歳馬をあいてに、相手馬より19kg軽い斤量のハンデをもらい勝ったとされる。
この1歳牝馬はこのレース後、同じ週にもう一度走り、今度は54kgの斤量を背負い、3歳馬に同じ距離で勝利したという。
この1歳馬による競走はこれまでの3歳や2歳馬の競走以上に激しく酷評、論難され、糺弾の上、封印される。
ところが、65年後、再度1歳馬のレースが施行される。
1855年、シュルーズベリー競馬場の11月の開催時に行われたとされるイヤリングステークスで、10頭の1歳馬が約400mの距離で競走。このレースは4年間つづくが、1859年以降、1歳馬が公式競馬に出走することは固く禁じられ、また非公式のものやマッチレースであっても、出走したことが確認された段階で以降における出走資格を剥奪する事が取り決められている。
競馬史上初となるハンデキャップ競走
ハンデキャップ競走の起源とも言える競走は、1753年のニューマーケットにて行われたマッチレースとされている。
この競走、ハンデは重量ではなく「距離」であった。1頭は219.5m前方からスタートした。
この方式の競走は1778年のヨーク競馬場の開催でも記録されている。
※ちなみに現代の繋駕速歩競馬のハンデキャップ方式は、この「距離方式」である。
これに付随する形になるが、特殊なハンデ方式の競馬もあった。
それが【ギブ&テイク・プレート】と呼ばれるレースで、この競走は体高によるハンデ戦であった。
『体高152cmの馬が約57kgの斤量』これを基準とし、これより体高が約0.3cm異なるごとに約400gのハンデ増減を課す…
というもの。10cm異なると13kgのハンデ増減があることになる。
最大重量11ストーン(約70kg)、最低重量5ストーン(約32kg)までとされている。
これの測定に関しては、より精緻に行うべく、一枚の石版の上に馬を載せ、計測を行なったとされている。
この小さな馬にも勝つチャンスを与えようという競走は非常に評判を博したというが、19世紀初期には消失するに至っている。
馬について記した
最古の文書記録
紀元前1780年頃、ユーフラテス川中流岸の都市国家マリの典礼長が、王ジムリ・リムに宛てた手紙が馬について記された史上最初の文書とされている。この便箋の中、王はチャリオットあるいはロバに乗り、決して馬に乗らないよう進言している。
「サラブレッド」という言葉
サラブレッドという語彙が人類史上初めて登場したのが1701年と言われている。
19世紀初頭でも一般にはサラブレッドという言葉は浸透しておらず、「ランニングホース」、「ブラッド」と呼ばれていた。
史上最初の競馬
紀元前13世紀、ホメロスにより綴られた『イーリアス』の中で戦車競走の模様が記されている。これはトロイ戦争で殺されたパトロクス(アキレスの親友)の葬送競技の一つとして執り行われたものらしい。
レースの距離は曖昧だが、記された文書によれば、トロイの都の外に開けた平原を横切ってゴールに向かい、アキレスがそのゴールに立ち勝者を判定するというものだった。
ゴールは樫かカラマツの木がその役割を担ったという。
ディオメデス、メネラオス、アンティロコス、ネストール、メリオネスら5名が参加し、5着全員に賞品が用意されていた。ちなみに優勝者には美女がその賞品として用意されていたという。
見事優勝を勝ち取ったのはディオメデスと伝えられている。
これが馬の登場する、優勝者への賞品も用意された、
出走馬の募られた、公式の世界史上最古の競走・競馬である。
世界最古のブックメーカー
オグデン社
1795年よりブックメーカーとしての営業を開始している。
スタート・
発走のはじまり
その始源は大変に古い。遡及すること紀元前680年。第25回古代オリンピックに、4頭曳きの馬車(チャリオット)競走がスタート。以降続々と競馬の種目が加わっていった。
なんと、すでにこの時にゲートは完成していたことが、1766年に英国のリチャード・チャンドラー氏の発掘調査により判明している。そのスターティングゲートを発明・考案したと言われているのがアリストクルスの息子クレオエタス。その概略と仕組みを記しておく。
上図を見て頂きたい。コースに向かって三角形の先端に当たる前方に青銅のイルカをのせた柱が立てられている。このイルカ像から向かって正面の位置に両翼を広げた青銅のワシの祭壇が設けられている。先頭のイルカの柱から三角形の1辺に当たる距離は約400フィート(約120m)あり、その両辺に馬を入れる枠が仕切られる。各枠・馬たちの前にはロープが張られている。
スタート方法だが、まずスターターが祭壇の位置に立ち、三角形の先端から最後方の位置にある枠のロープを外し、この枠の馬を発走させる。走り出した馬の鼻先が後方から2番目の枠の馬の鼻面と並んだ瞬間、後方2番目の枠のロープを外し、この枠の馬が発走。あとは同様に繰り返し、最後の馬が発走する頃には各馬がほぼ一緒に並んで走り出している状況が作り出せるというカラクリ。
ちなみに、英国でゲートが使用されはじめたのが1965年7月10日、ニューマーケット競馬場。
それまでは伝統に重んじ、旧態のバリヤー式発走を取っていた。
◎バリヤー式スタートのはじまり
バリヤー式発馬機の初導入は1894年のことで、オーストラリアでの競走に用いられたものであった。
考案者であるアレクサンダー・グレイ氏がバリヤーを製作するきっかけとなったのは騎手であった息子のルーベン・アレクサンダーが発走前チョークで引かれたスタートラインを越えてしまい、罰金5ポンドを払うはめになったことであった。
グレイは発馬の際に馬が暴れるのはスターターの旗のはためきが原因だと考え、それに代わる手段として1本のロープを用いたバリヤーを考案したのだった。
グレイの発馬機が初導入されたのは、1894年2月のカンタベリーパーク競馬場。
公正かつ従来より早く発走できる利点が大きく注目され、改良が加えられたのちにオーストラリア全体の競馬場へと導入された。
その後1897年にはイギリスのニューマーケット競馬場、1926年には日本と、次々と世界中の競馬場に導入されていき、1932年頃には世界の主流発走方式として使用されるようになった。
グレイの考案したバリヤーは、1本のロープによってスタートラインを仕切るもので、スターターがレバーを引くことによってロープが跳ね上がって発走可能となる仕掛けになっていた。のちにさまざまな改良型が登場し、1920年代にジョンソンとグリーソンという人物らによるロープを5本に増やしたエキスパンダー状の発馬機、また米国で考案された移動式バリヤー発馬機などがある。移動式発馬機は1946年になってオーストラリアに導入されている。
◎ゲート式スタートのはじまり
世界最初のスターティングゲート導入競馬場は、カナダのブリティッシュコロンビア州にあるヘイスティングス競馬場。1939年、当時スターターを務めていたクレイ・ピュエット氏がバリヤー式による発走にかかる時間と手間の軽減を目的に、以前から暖めていたアイデアを元にゲートを考案。さらには開発まで自らの手で進めていった。開発当初は競馬関係者から懐疑的視線を浴びるものの、その実用性を見せることで説得させ、1939年の7月1日、世界初となるゲート式競走が開催されるに至った。その後、高く評価され、アメリカ西海岸へと普及。さらには米国全土、そして世界へと浸透してゆくことになる。
▲〔ヘイスティングス競馬場。1889年創設。当時はバンクーバー市西部のハウ通り沿いにあり、イーストパーク競馬場と呼ばれていた。1892年に現在の所在地へと移り、同地にて開催された博覧会に因んでエキシビジョンパーク競馬場と改称された。現在の名称に移り変わったのは比較的近年のようである。一周約1,069m、直線は約156mという小さな競馬場である。〕
世界初の薄暮開催
1947年7月18日、英国そして世界で初めてとなる薄暮競馬が開催された。
この開催はサウスラナークシャーにあるハミルトンパーク競馬場にて実施された。
ちなみにこの競馬場は1782年からレースが行われ、1926年に現在の土地へ移設されている。
英国初となる午前中開催となったのもこの競馬場(1971年5月8日)である。
補足ではあるが、英国初の日曜日開催が行われたはドンカスター競馬場で、1992年7月26日(日)に実施。
レース観戦者から入場料を徴収することは不法とされていたので、アイルランド近衛連隊のバンドの演奏を聞きに来た観客から料金を集めた。場内馬券発売も全面的に禁止とされていたという。
世界初の競馬放送
世界最初の競馬放送が行われたのは、英国の地。
放送媒体となったのは、ラジオで、1927年のことだった。
放送内容は第148回を迎えた英国ダービーであり、実況を担当したのが英国のG.F.アリソン氏。
双眼鏡で馬を追いながら放送できる特別仕様のマイクロホンを使用しての実況であったという。
米国初の競馬放送は1930年のアーリントンクラシック。シカゴからの放送であった。
世界初の馬の写真撮影
▲「a man leading a horse (馬引く男)」1825年
世界で初めてとなる、馬を写した写真撮影1825年であると言われている。
これはまた現存する世界最古の写真でもある。
フランスの発明家である二フォール・ニエプスが撮影したという。
競走馬としてカラー写真に残るサラブレッドは、英三冠馬となる
フランスの歴史的名馬グラディアテュールが最初と口伝されている。
カラーでない最古となるサラブレッドの写真は、
1855年に英ダービーを優勝したワイルドデイレルとされる。
〔ワイルドデイレル号の写真。1855年撮影。ワイルドデイレルは、「競走馬として最も洗練された美しい一頭」と評されていたという〕
世界初の馬の映像撮影
1878年6月15日、イギリスのE.マイブリッジが疾走する馬の脚でシャッターが切れる装置を考案し撮影に成功。
等間隔にこの装置を12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。
これに触発されたトーマス・エジソンが映画の原点となる映写機キネトスコープを発明することになる。
これがシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。
映画発端の誕生に馬が関わっていることをどれだけの人が認知しているのだろうか。
世界初のレース映像
(スタートからゴールまで
ノーカット映像で)
スタートからゴールまで映像で撮られた世界初のレースは、
全米が誇る国民的英雄であり、全米が誇る史上最高の
名馬と称えられる?ビッグ・レッド?ことマンノウォーの
ラストラン、引退レースとなった、1920年の『ケニルワースパーク金杯』と
言われている。
米国初代三冠馬サーバートンとマンノウォーのマッチレースであった。
スタートが切られるとマンノウォーが電光石火のスピードで一気に先手を取り、サーバートンを2馬身ほど引き離して逃げ続ける。三角辺りから、観客の群衆の影で目視しづらいのだが、本馬とサーバートンの差が徐々に開き始め、直線に入った時点では既に勝負あり。サーバートン鞍上のキーオー騎手が必死で鞭を振るうのとは対照的に、マンノウォーは最後まで手綱がピクリとも動かず、完全な馬なりのまま走り抜け(映像の悪さからかキャンターにすら見える)、最後は7馬身差をつけて、それまでの記録を6秒4も更新する2分03秒0のコースレコードを計時して完勝する。
世界初の競馬新聞
1896年創刊
デイリーレーシングフォーム
世界初の競馬新聞は米国にて創刊された。
英国のレーシングポスト紙は、意外にも最近で1986年の創刊。
ちなみに国営競馬における日本の競馬新聞は最古が1931年(昭和6年)創刊の『競馬ダービー』。
エリア限定での競馬新聞の発祥は、1924年に関西方面の競馬予想を対象に発売された『中島高級競馬號』(通称:中島競馬號、現在は高知競馬場で発売されている)とされる。
【主な日本競馬新聞の創刊年度】
日刊競馬(東)昭和25年
競馬ブック(全)昭和33年
勝馬(東)昭和37年
1馬(全)昭和41年
トータライザー(東)昭和43年
競馬エイト(全)昭和46年
馬三郎(東)平成11年
ちなみに日本最古の競馬雑誌は、
1907年(明治40年)10月に刊行された
『競馬雑誌』という雑誌だという。
翌月には『競馬世界』という雑誌が創刊されている。
しかし、馬券禁止により、両者とも数年で廃刊となっている。
幻の競馬雑誌である。
・『優駿』は1941年(昭和16年)5月創刊。
・『競馬四季報』は1972年(昭和47年)3月創刊
世界最古の競馬を扱ったスポーツ新聞は、英国の「ベルズ・ライフ・イン・ロンドン」。
これは世界初のスポーツ新聞であり、扱っていたのは競馬であった。1822年に創刊されている。
フランス初のスポーツ新聞である「ル・スポーツ」(1853年発行)は、競馬だけでなく、狩猟の話題も積極的に取り上げていたといいう。世界で3番目のスポーツ新聞がルーマニアの「スポーツ」と呼ばれる隔月の雑誌であり、1880年2月1日にブカレストで発行されている。
▲〔ルーマニア初のスポーツ紙「スポーツ」。競馬、乗馬、サイクリングが中心に扱われていた〕
グレード制の導入
グレード制が導入されたのは、せり名簿に掲載する際に、勝馬の競走の格付けを行うためであり、ヨーロッパではグループ制が1971年に、アメリカではグレード制が1973年に設定された。
ちなみに日本での導入年度は1984年。
競走馬空輸の暦遷
1945年10月22日米国ではじめて馬の輸送が空の便により行われた。はじめて空を飛んだ馬は、エルロボーとフェザー・フートという3歳馬の2頭。馬主はスチュアート・ハンブレン氏。
移動距離は約550km。ロサンゼルスからサンフランシスコ近隣のベイメドウズ競馬場の駐車場まで飛んだという。
競走馬初の大陸横断飛行
1946年5月29日、アメリカン・エキスプレス社によって行われた。
カクーラとウレタという3歳牝馬がその時の馬で、ニューヨークからカリフォルニアまで約3,900km
の輸送距離で、悪天候もあり20時間近くかかったという。
輸送中初の死亡事故
1948年1月、パリのオルリイ空港から出発したシーボルトウスタンの航空機がケンタッキーへ向け出発。機内にはジェラールという種牡馬が搬送中で、最初の着陸地はアイスランドだった。
しかし、犬を一緒にしていたのが悪かったせいか、離陸直後から狂乱状態となり壁を蹴り始めてしまった。この異常事態に付き添いの係員が緊急着陸を操縦士へ要請。その後まもなく、最寄の空港に
寄航。早急に扉を開けるも、馬はもう瀕死の状態で、最悪なことに脚を骨折してしまっているようだった。苦心惨憺の末、機内から降ろすも、2〜3分後死亡してしまった。
ちなみに日本で初の空輸が行われた馬は、ハクチカラだった。
▲〔東京優駿優勝後、口取り式でのハクチカラ。〕
ハクチカラが渡米した当時は、まだ日本人にとっては飛行機に乗ること自体が高嶺の花であり、増してやデリケートなサラブレッドを太平洋横断させるという、このようなスケールの長距離国際航空輸送についてのノウハウは、当時すでに航空先進国であったアメリカですらほとんど有していない状態であった。このことから、日本からの輸送の際は、安全のために客席をすべて取り払った旅客機がチャーター便として用意された。しかも、これは現在のジェット機と比べれば遥かに所要時間を要するプロペラ機による太平洋横断であった。日本の空港には馬を出し入れできるスロープがなかったため、機内に馬を入れる際にはハクチカラを入れたゴンドラを飛行機の乗り入れ口部分までクレーンで吊り上げた。
風で煽られたゴンドラの位置はなかなか安定せず、ハクチカラを無事に機内に入れるまで実に3時間を要したという。またこの輸送に際しては、機長の拳銃の携帯が許可され、万一馬が暴れて馬体のみならず航空機の安全航行に危険が及ぶと判断した場合には、機長の判断による職務権限として馬を射殺してもよいとされた。ハクチカラの航空機への搭乗は関係者がこれに同意することを条件とされたため、輸送中の関係者は緊張の連続であったという。また、中央競馬の関係者も祈るような思いでハクチカラ無事到着の報を待ったといわれる。もっとも、当のハクチカラは輸送中まったく落ち着いており、懸念は杞憂に終わった。ちなみにアメリカにおいても飛行機による輸送を経験したが、現地には競走馬用のスロープが用意されていたため、輸送は実にスムーズに行われた。ハクチカラに同行していた騎手・保田隆芳は競馬を取り巻く文化の違いを実感したという。
モンキー乗り初の使用者
鐙を短くし、腰を浮かせ背を丸め、膝でバランスを取りながらの騎乗法を『モンキー乗り』、馬の背に腰をおろした長い鐙の乗り方を『天神乗り』、そしてそれを日本近代競馬に浸透させたのが保田隆芳氏というのはある程度、有名な知識ではあるが、その発祥・起源は米国の黒人少年にあるのだという。
時は1880年、米国南部のとある黒人少年が馬の乗り方を誰も教えてくれないとのことから、単独で騎乗法の挑戦に打ち込んでいた。貧しいがゆえ、鞍の代わりにボロボロのズックの布を馬の背に付け、振り落とされぬようしがみついて馬に乗る我流の騎乗法を生み出していった。
ある時、この少年の斬新な乗り方と鮮やかな操縦を粒さに認めた馬主が、白人騎手が乗って敗れた馬に、たまたまこの少年を乗せて競馬をしたところ、なんと言うことか、圧勝してしまった。
思考を巡らし、この少年の騎乗スタイルを分析。その結果、サルの様な乗り方は空気抵抗を著しく減少させ、その上重量を軽減させることが可能であることが判明。
以降、この騎乗スタイルは「モンキー乗り」の呼称で伝えられ、世界的に伝播してゆくのであるが、本格的に近代競馬に姿を見せるのはその10年後、1894年のことだとされている。
この年、サンフランシスコ競馬場にて調教をしていたトッドスローン騎手の馬が突如逸走。彼は馬を止めようと手綱を引っ張っることに躍起になるが、馬の頸(くび)の上に乗ってしまう。それを見ていた周囲の者たちは「サルのようだ」と嘲笑。しかし、彼はこの体重移動が馬を楽に、そして自由にしていることに気付き、改良に改良を重ね、現代のモンキー乗りの原型を作り上げていったという。
ちなみに、鞍は最初期は毛布だったが、形はどうあれ、良い鞍の基本条件は、乗り手がバランスが取れて、脚で馬に的確に合図を送れる位置に乗れること、そして体重が馬の腰に掛からないこと。そのポイントを主軸に鞍は現在のフォルムへと進化を遂げていく。
現在のイランでのことだった。馬はペルシャ帝国の象徴であり、貴族だけがそれを所有する権利を持っていた。
1905年、汽船の艦隊が日露戦争に馬を連れて行った時、
エバートン・グレンジ号は1,337頭の馬を運んだとされる。
船舶は、当時シドニーの北に停泊する最大の船であり、
約8,000トンの巨大な汽船であった。
船はクイーンズランド州ボーエンで馬に乗せ、
香港を経由してロシアへと向った。
表現するところの“スティープルチェイス”へと進展してゆくこととなる。
ハードル
大まかに説明するならば、障害の数が多く、距離も長く、障害の大きさも難易度が高いものが上述のスティープルチェイス。その逆を行くのがハードル競走だという。
ポイント・トゥ・ポイント
野外を走る競走で、フォックスハンティングから自然派生したレースだとされる。最古の記録が1836年3月2日、ユースターで催されたもの。
スタート地点とゴール地点が決められており、目標到達点までのコース選択は騎乗者にすべて委ねられる。使われるのがハンターという種の馬なのだが、あのグランドナショナルをこの種の馬が5回も制していることは見逃せない。
〜【スタンドの無い競馬場】〜
ポイントトゥポイントの競走を開催する競馬場、バンガー競馬場はスタンドが無い競馬場として知られている。
観客たちは、草が生い茂ったバンク(土手)から外側の左回りのコースの競走を観戦する。
◆米国初の障害競馬◆
米国における最古の障害競走は1844年ニュージャージー州に立つホボーケン競馬場にて行われたものだとされる。この競走はヒート制で行われ、勝ち馬はカナダのホップスという馬だった。
1897年に統括団体となるナショナル・スティープルチェイス・ハント協会が設立された。
そんな中、米国産馬としてはじめてグランドナショナルを制したのが、ホテルでバスを牽いていたルビオという使役馬で、彼の勝利は、大きな話題を呼んだ。
◆フランス初の障害競馬◆
フランスにおける初となる障害競走は1830年3月4日、ジュイにて行われ、シャルトル公爵の所有馬が優勝した。障害競馬はその後、定期的にクロワ・ド・ベルニーやマルシュ、ヴァンセンヌなどで開催されている。
1863年にはフランス障害競走協会が設立され、パリ市からパリを囲む城壁跡からモルトマール丘までのブローニュの森内の土地を賃借。1873年11月10日にオートイユ競馬場を建設した。パリ大障害の前身となるフランス・グランドナショナル(距離6,400m、22障害、1着賞金38,700フラン)が行われたのは1874年5月25日。1876年に行われた第1回パリ大障害は、フィノ男爵の所有馬が優勝した。
ベトナムの競馬
ベトナムには首都ホーチミンに唯一箇所の競馬場がある。
それがプートー競馬場である。この競馬場で走るのは、サラブレッドでもアラブ種でもない、ベトナム土着の在来種。ポニーのように小さく、騎乗する騎手はなんと皆子供である。
▲〔プートー競馬場〕
▲〔競馬に出場する馬。この時は自転車で引き馬を行っていたようだ〕
▲〔レース後の検量室。確かに子供である〕
馬券発売機はなく、すべて窓口購入だが、牢獄のような物々しい雰囲気の窓口が並んでいるという。トータリゼータシステムはベトナムでは未導入であり、数年前まではレースが終わるまでオッズは分らない状態が続いていたが、手動のオッズ表示板が出来てからは、発走前にもオッズが照合できるようになったようだ。
▲〔手動式の掲示板〕
競馬新聞は1種のみ販売されている。券種は馬単のみで、裏表を購入することを“折り返し”と呼ぶらしい。
]]>
『英 雄 雲』
〜ディープインパクトとコントレイル〜
「過去現在そして 未来へと
英雄から始まったロマンは
語り継がれる」
馬の墨絵師であられるIKU様に特注にて描いて頂いた作品になります!
画力、迫力、フレーズまでリクエストを超える出来映えに溜息が洩れました😆
家宝の一つになりました!!
キングヘイロー、ルヴァンスレーヴ、サリオス、メジロブライトも格別に好きな馬。
しかし、ディープインパクトとコントレイルは特別中の特別。私に取って、「奇跡の名馬」を書こうと思った原動力ともなってくれた、格別の存在です。私に人生を与えてくれた、本当に特別な存在。
『奇跡の名馬3』では、コントレイルをディープ、オルフェと同じ様におおとりで執筆したいと構想しています。
いま私は全世界の三冠系体と三冠馬、各国の競馬の成り立ち、各国の幻の名馬とその国を代表する史上最強馬を調査し、編纂、まとめている途中です。『奇跡の名馬3』は、【3】だけに三冠、三冠馬に拘った作品にしたいと考えています。
発売日も?3?に拘り3月3日とかにしようかとも(笑)。
首を長くしてお待ちください😊
【お知らせ】
ツイッターはじめました!
https://twitter.com/zpWrCU2fmaQz8t0
主に以下の内容を呟いてます(笑)!
?1日1馬として世界の名馬を紹介。
?馬トリビア
?今日は何の日馬紹介(今日は何の日にちなんで、その日に関わりある馬関連情報を発信)
?コントレイル世代応援ミニコラム
?土日重賞、思い出の馬(開催される重賞で、過去の勝ち馬から思い出に残る1頭を振り返るミニコラム)
お時間あれば、ぜひご覧ください!!!
]]>
北海道は馬産地、日高町は静内に佇む一流ホテル。
2014年に自己破産した静内ウエリントンホテル(新ひだか町)の再建に参加し、ホテル名を「静内エクリプスホテル」と改めた上で運営が始まりました。神戸新聞杯でコントレイルの3着に健闘した素質馬ロバートソンキーの馬主・保坂和孝氏が株主のホテルであり、保坂氏の仔細な部分にまで拘り尽くした競馬ファンならまず間違いなく大満足出来るホテルの造りとなっている。
ホテルURK:https://www.eclipsehotel.jp/
この朝食券もその一つ。
2020年の12月より始まったサービスの一つ。
※〔エクリプスホテルのHPの朝食券紹介のページより引用〕
なんと、この朝食券の欲しさだけで宿泊に訪れる宿泊者の方もいらっしゃるそうです!
そりゃそうです・・・エクリプスって言ったら競馬ファンなら知らないはずがない、不敗神話を紡いだ上に、現代を生きる95%のサラブレッドの祖である伝説の名馬なんですから!
こうして3枚揃えると・・・
遊戯王の海馬瀬人が3枚揃えた・・・
ブルーアイズホワイトドラゴン3体のようだな・・・
いや三幻神のカードか(笑)!いや・・・それは三大始祖に当てはめる方がしっくりくる(笑)。
話は逸れましたが、コロナ禍が過ぎたら、ぜひ静内エクリプスホテルへお泊まりに行きましょう!
(ホテル概要。※エクリプスホテルのHPより画像切り抜きにて抜粋させて頂きました)
]]>【祝!白毛ソダシ世界競馬史上初の芝GI級競走制覇!】
〜伝説のホワイト・トリプル(三大神白毛)を想う〜
今年は本当になんという年なのでしょうか!
無敗三冠馬牡牝同時誕生、日本競馬史上初の無敗三冠牝馬、世界競馬史上初の父子無敗三冠馬、JRA芝GI8勝達成・・・
そして、阪神JFにて白毛馬ソダシが世界競馬史上初となる白毛馬によるGI制覇を達成!
それも無敗でのオマケ付き!
それにしても…今の時計の掛かる馬場状態で前日の古馬オープンのリゲルSと同タイムですか。
1:33.1…どこかで見たタイムと思いきや、カリスマ女帝ウオッカの阪神JFと全くの同タイム!
当時はグラスワンダーの1:33.6の衝撃レコードをも超越した驚異の2歳日本レコードでしたが、そのタイムに並ぼうとは…!
今年の開催状況の過程で傷んで時計の掛かりやすくなっている馬場状態で、史上2位タイの時計は素晴らしいの一言。
外からメイケイエールに差し込まれそうになった時、それをはね返し突き抜ける態勢となり、これは行ける!と確信したのも束の間、内から怖い怖いルメールとディープ産駒サトノレイナスが凄まじい勢いで迫って来る。これで差し切られてしまった、またルメールかと、誰もが溜め息を吐いた刹那、ゴール直前で差し返し、GI勝利の頂きを掴み取ったのでした。
この尋常ならざる勝負根性…まさにリアル「マキバオー」いやマキバコか?
その幽玄な雰囲気と神聖性すら覚えるその白き出で立ちから、神懸かったものすら感じるほど。
印象のみならず、確たる実績を積み重ねていっているのが凄いところで、函館、札幌、東京、阪神と、全て競馬場が異なる中、しっかりといかなる条件でも適応し、圧倒してみせ、如何なる時計でも馬場状況でも対応してみせるのですから、この馬はもしかしたらとてつもない馬なのかもしれません…!
ソダシのこの活躍に触発され、全世界のいにしえからの競馬を調査していて邂逅を果たした伝説の白毛馬3頭をご紹介させて頂きたいと思います。史上最強と褒称された白毛馬、世界競馬史上最多出走&白毛最多勝利記録を紡いだプエルトリコの白毛名馬、そしてフランスクラシックと凱旋門賞をも制し(てい)た(かもしれない)白毛馬。
これら伝説の白毛馬3頭を、私は?ホワイト・トリプル?と呼ぶ事にしております。
それでは、超伝説の神白毛名馬3頭の詳細をご覧ください。
伝説の白毛 その1.
?キプロス競馬史上最強馬にして
世界競馬史上最強の白毛馬?
ツイストアンドシャウト
ツイストアンドシャウト
生年:1987年
性別:牡
毛色:白毛
調教国:キプロス
生涯成績:26戦19勝[19-6-0-1]2着6回。連対率90%。
主な勝ち鞍:マラソノストロフィー(GI.ダ2,450m)2回、ジューンカップ(GI.ダ2,100m)2回、キプロスデモクラシーカップ(GI. ダ1,600m)2回、アントリペトリカップ(G2.ダ1,200m)四連覇…etc.
キプロスに降臨した同国史上最強馬。ギリシャやマルタ、地中海エリアも含め、史上最高の名馬と謳われる存在である。
キプロスの名馬ランキングにおいても過去の三冠馬や幾多もの名馬の上に上位付させられ、神聖視かつ崇拝されている孤高の名馬。
キプロス競馬において施行されている、全ての距離と主要GIを勝利しており、圧勝楽勝劇勝の連続だったという。
世界競馬における史上最強の白毛馬であり、ダート競馬史上最強の白毛馬でもある。
前両脚に煤切れたバンデージを巻き、騎手の勝負服が真っ黒という独特の出で立ちも、神々しい雄姿に拍車を掛けたのだろう。
2011年にこの世を去っている。
母系はキプロス土着の血統であり、キプロス競馬において最も純血種を育て成功を収めたピエール・バジコスタ博士が送り出した最高傑作であり、博士にとっての宝は、地中海最高の名馬にして、世界競馬史上最強の聖白駒となったのである。
伝説の白毛 その2.
幻の白い凱旋門賞馬
モンブラン
[モンブラン(モンブランファースト)。1919年生。突然変異としてフランスに邂逅を果たした白毛のサラブレッド。その聖雪のごとき雪白象牙の月の色をした、清楚聖白の白馬だった。それほどの純白であった毛色であるに関わらず、当時はまだ?白毛?という毛色が登録上認知されておらず、両親の毛色であった栗毛で彼は登録を受けた。エスペランス賞を制し、フランス2000ギニーであるプールデッセデプーランを勝利。当時の世界競馬において史上唯一頭となる白毛の芝のGI級競走、それもクラシックレースの歴史的勝利を飾った(正規に白毛登録を受けていれば、史上初の白毛馬の偉業は公的にもこの馬が真の史上初…のはずだった)。そして…神話として語り継がれるべきは、1921年の凱旋門賞。モンブランは、凱旋門賞連覇を成し遂げるクサールよりも先頭で凱旋門賞のゴールを駆け抜けたのである。しかし、その背中に騎手はいなかった…。ロスチャイルド・エドアード男爵の所有馬であり、引退後はアルゼンチンへと渡り、種牡馬生活を送った。]
伝説の白毛 その3.
【南国の白き奇跡の幻夢】
ネヴァド
〔プエルトリコのヴェスケス島が生んだ、南国の白き奇跡の幻夢、ネヴァド。全世界史上最多勝の白毛馬。254戦29勝。雪のような聖白の馬体と碧色の瞳を持っていたという。オーナーはアントニオ・キャティンチ氏。ネヴァドはプエルトリコの様々な競馬場で競走していたが、一番のベストコースはキンタナ競馬場だったという。ネヴァドは1931年から1938年まで競走を続け引退。しかし、引退直後の1939年の暮れにこの世を去った〕
さらに!
これまで私がまとめた白毛馬に関する記録をまとめたページへのリンクをご紹介。
以下のソダシの画像をクリックすると全世界の白毛情報部屋へ跳べます!
〜直近の調査状況に関して〜
引き続き、全世界の三冠競走と全世界三冠馬の編纂に当たっています。
欧州、米国はもちろん、北欧、東欧、中南米カリブ海、オセアニア…
超ゼツマニアックな国ですとガイアナ、スリナム、バハマ、バーミューダ諸島、
フィジーあたりの競馬のリサーチを進めております。
先日、パラグアイの競馬情報をまとめ、次にモロッコ、スペイン古競馬の記録をまとめている途中です。
これまで三冠馬の調査をして来た経緯がある中、今年はコントレイル 、デアリングタクトが現れ、さらにはアーモンドアイも加わっての三冠馬3頭の対決というスーパードリームマッチまでリアルタイムで観戦することが叶い、これは競馬の神様が与えてくださったご褒美なんだろうな…と思っています。この【全世界三冠馬と三冠競走の編成と各国史上最強馬と幻の名馬】を、来年にアップしようかなと考えています。『奇跡の名馬III』には?3?をキーワードに、?3?にこだわって創っていこうと考えてます!乞うご期待!
さぁ、来年は白毛の三冠馬だ!!!
]]>〜夢叶える飛行機雲〜
※2021年4月1日更新Up済。
コントレイルの驚異的快挙
・記録・逸話の数々
?デビュー戦からダービーまで無敗かつ全戦1番人気、最速上がりで二冠達成したのは
コントレイルと父ディープインパクトのみ。
?1枠1番から皐月賞を勝ったのは、グレード制導入以降、
ナリタブライアンとコントレイルのみ。
?皐月賞時、前日まで大雨が降り、コンディション的にはほぼ重馬場だったに関わらず、当日中山競馬場の全レース中で比較しても最速の上がり3Fを記録。これを成し遂げたのは、ディープインパクト、ドゥラメンテ、そしてコントレイルのみ。
ドゥラとディープは完全な良馬場だったが、今年の皐月賞の馬場コンディションで、しかも休み明けでこれを成し遂げたコントレイルはある意味、常軌を逸している存在と言えよう。
?サートゥルナーリアの中106日優勝を上回る中112日のレース間隔を乗り越えての皐月賞優勝。
?金羅調教助手いわく、これまで最も仕上がったのがホープフルS。ダービーは90点、神戸新聞杯は70点の状態であったという。
?世界の名手ライアン・ムーアに絶賛される。「トップホース」「世界レベルの馬」そして、モーリスやドゥラメンテを手掛けた堀調教師に「間違いなく10年とか何年かに一頭の名馬」と激賛するサリオスへ騎乗して朝日杯を優勝した直後、開口一番、陣営に対し「あの馬(コントレイル )は避けた方が良い。あの馬は世界レベルだ」と言わしめた。
?コントレイルの装蹄を務める柿元装蹄師いわく、コントレイルは装蹄所を開業後の自身のキャリアのなかで、トップと言い切る大器。すでに完成度は高いが「装蹄に行くたびに良くなっているので、今後、もっと体がパンとしてきそう。さらに上の“化け物”になる可能性があると感じています」柿元氏はトウカイテイオーの頃から装蹄の道を歩んできた職人である。
?コントレイルは引退レースのジャパンカップの一週前調教にて信じ難い調教を披露した。
7F 93.6
6F 76.9
5F 62.4
4F 49.1
3F 36.5
1F 12.3
この猛時計を持ったまま 、助手が乗って記録。
この時計の凄まじさが分かるよう、平均タイムを載せておく。
しかも、併せた2頭より40馬身以上遥か離れた所から、約5秒遅れてスタートし、
この時計をノーステッキどころか押さえたままで記録したのだから
どんでもない馬である。
調教内容は三冠馬史上最強最高のものがある。
?ディープ産駒牡馬初となる古馬になってからのジャパンC制覇。
またシンボリルドルフ=トウカイテイオー、ディープインパクト=ジェンティルドンナに続く、
史上3組目の父子JC制覇。ダービーとJCを勝った馬は・・・
シンボリルドルフ、トウカイテイオー、スペシャルウィーク、ジャングルポケット、ディープインパクト、ウオッカのみ。
すべて歴史的名馬。コントレイルはこれらに肩を並べた。
?デビューから引退まで史上初となる一桁馬番で競走生涯を終えた。
【内枠に愛された男】コントレイルの馬番
新馬 ?
東スポ杯 ?
ホープフルS ?
皐月賞 ?
ダービー ?
神戸新聞杯 ?
菊花賞 ?
ジャパンC ?
大阪杯 ?
天皇賞・秋 ?
ジャパンC ?
Ⅺ. 引退戦のジャパンカップを制し、日本競馬史上初となる2歳、3歳、4歳でGIを勝った三冠馬となった。
Ⅻ. 史上最多数となる三冠馬が同世代・同時代で出現。(全12頭。次位がディープ世代の9頭)
コントレイルが三冠達成時に
打ち建てた歴史的記録の数々
?史上8頭目のクラシック三冠馬にして、
史上3頭目の無敗クラシック三冠馬
?全世界競馬史上49頭目となる無敗クラシック三冠馬
?世界競馬史上7組目となる親子クラシック三冠馬
?世界競馬史上初となる親子無敗クラシック三冠馬
?日本競馬史上初となる無敗でのGI4勝
?日本競馬史上初となる2歳GI +クラシック三冠の無敗達成馬
※?はまだまだ未調査の国から無敗三冠馬が発見される可能性あり、一応の参考記録。
【最強のパワーネーム!?
?無敗三冠馬召喚の馬名?『コントレイル Contrail』】
これまで、世界でコントレイルと命名されたのは12頭いるが、その12頭全てに共通して、その馬の生年とそのコントレイルと命名された馬が3歳を迎えた年、100%世界のどこかで三冠馬が誕生していた。
【世界のコントレイル Contrail 一覧】
※赤文字名馬は無敗三冠馬。緑文字名馬は親子三冠達成馬。ピンク文字名馬は牡牝同年三冠達成馬。
生年 | 生産国(調教国) | 性別 | 3歳時年数 | 生年時誕生三冠馬 | 3歳時誕生三冠馬 | 備考 |
1968年 | 英国 | 牝 | 1971年 |
アワセレクト(インド) コレハダ(ブラジル、牝馬) トラステヴェール(ペルー) |
ニジンスキー ソウダード(ベルギー) ミニモ(トルコ) ヴァンデラ(ベネズエラ) ファーサンテ(エクアドル) フェステジェード(コロンビア) |
コレハダはダートの三冠馬。 |
1974年 | アルゼンチン | 牡 | 1977年 | セギュラーシー(ベネズエラ、牝馬) |
スカーダラー(インド) ハンプステッド(ウルグアイ) ツェルキース(ポーランド) シアトルスルー(米国) |
|
1981年 | 日本 | 牡 | 1984年 |
イシャモー(オランダ) ドルビージャガー(ノルウェー) アルマナック(インド) アストニッシュ(インド) フェアアンドスクウェア(フィリピン) ハーレーロード(プエルトリコ) ロイヤルダッド(ジャマイカ) プリティウィッチ(ケニア、牝馬) |
シンボリルドルフ(日本) ボクスバーガーシバノー(オランダ) フィットトゥファイト(米国) オールドマスター(ブラジル) ジオロゴ(チリ) カユガ(エクアドル) ノーゼナー(キプロス) テットテンプー(日本) サワトヨキング(日本) |
・フィットトゥファイトは NYハンデ三冠馬。 ・オールドマスターは リオ三冠馬。 ・ジオロゴは、 チリ初代ダート三冠馬 ・テットテンプーは 岩手アラブ三冠馬。 ・サワトヨキングは 福山アラブ三冠馬。 |
1986年 | バルバドス | 牡 | 1989年 |
エルセラーノ(アルゼンチン) ゾーロモロ(ブラジル) スカイロケット(トリニダード・トパゴ) マッチウイナー(ジンバブエ) |
アビーグレイ(ベルギー) ウィズアプルーヴァル(カナダ) サンダンサー(フィリピン) カシークニグロ(ブラジル) ザヴィセロイ(ジャマイカ) クーバード(バルバドス) |
・ゾーロモロはダート三冠 (リオグランデンセ三冠) ・サンダンサーは 親子三冠達成。 |
1987年 | 南アフリカ | 牡 | 1990年 |
スーノーリアズ(ノルウェー) ジュカヴァン(ベルギー) タイムマスター(フィリピン) マンデーモーニング(ジャマイカ) モーニングスター(ケニア) |
エリアッシュ(キプロス) スーパーネイティヴ(ベルギー) イズベスティア(カナダ) イタジャラ(ブラジル) キャンディスエーケーミー (ドミニカ共和国)
|
|
1991年 | アメリカ合衆国 | 牡 | 1994年 |
ダンススマートリー(カナダ) ウォルフ(チリ) レディアンドミー(ベネズエラ) ジェイロバート(ドミニカ共和国) ヴェルヴェキャンディビー (プエルトリコ) |
ナリタブライアン (日本) ミヤコスイセイ(日本) カウンターアタック(日本) パルシファル(ウルグアイ) ミスマレーナ(ベネズエラ) サフィーナ(コロンビア) エルチャカル(パナマ) キングパターン(ケニア) カステルヌオーヴォ(チリ) リバーヴェルドン(香港) シエラネバダ(パナマ) |
・ミヤコスイセイは 北海道アラブ三冠馬。 ・カウンターアタックは 上山アラブ三冠馬。 ・カステルヌオーヴォは、 チリ2歳三冠馬。 ・シエラネバダは パナマ初代牝馬三冠馬。 |
2000年 | 日本 | 牡 | 2003年 |
ロケッティーア(ベルギー) スーパーパワー(ブラジル) ホットオールウェイズ(ブラジル) リドパレス(チリ) プリンテンプス(チリ) フロントステージ(ベネズエラ) アイムサティスファイド (ジャマイカ) |
スティルインラブ(日本) ワンド(カナダ) グランドディライト(香港) タンクレッド(スロバキア)
|
・グランドディライトは 香港短距離三冠。 ・ホットオールウェイズは、 ブラジルのサンパウロの ダート三冠馬。 ・リドパレスはチリの ダート三冠馬。 ・プリンテンプスは牝馬でチリのダート牝馬三冠馬。 |
2001年 | アメリカ合衆国 | 牝 | 2004年 |
イッポティス(キプロス) ロキシンホ(ブラジル) カーニバルメシア (トリニダード・トパゴ) エストレーラーロー(プエルトリコ) トライバルインスティンクトセカンド (チェコ共和国) |
サイレントウィットネス(香港) トロタモンド(チリ) グランカカオ(エクアドル) ビリーアレン(セルビア) |
・サイレントウィットネスは 香港短距離三冠。 ・トロタモンドは チリダート三冠。 |
2010年 | 日本 | 牝 | 2013年 |
ピッコロウェディングパーティー (セルビア) ベターザンエヴァー(シンガポール) フォーストゥフォース(ブラジル) ウォータージェット(ベネズエラ) |
ステピタップ(シンガポール) フィクサドール(ブラジル) メイセスプレトガイス(ブラジル) サーフィーヴァー(ウルグアイ) チェリーオンザトップ (南アフリカ、牝馬)
|
|
2011年 | アメリカ合衆国 | 牝 | 2014年 |
イググ(南アフリカ) ウィズアウトフィアー(ノルウェー) ジンジャーブレッドマン(シンガポール) アマニ(チリ) ドンパコ(プエルトリコ) インテンス(ポーランド) マンヅゥールマンズール(エクアドル) オルフェーヴル(日本) |
アルカイツ(スペイン) ウォーアフェアー(シンガポール) キッドモレヴ(フィリピン) バルァバリ(ブラジル) ニンファデルシエロ(ベネズエラ) ヴェンゴデルアイーレ(エクアドル) ジョイエデニエヴェ(プエルトリコ) ルイスザキング(南アフリカ) |
・アマニはチリダート 牝馬三冠。 ・バルァバリは ブラジルリオ三冠。 |
2014年 | 韓国 | 牡 | 2017年 |
アルカイツ(スペイン) ウォーアフェアー(シンガポール) キッドモレヴ(フィリピン) バルァバリ(ブラジル) ニンファデルシエロ(ベネズエラ) ヴェンゴデルアイーレ(エクアドル) ジョイエデニエヴェ(プエルトリコ) ルイスザキング(南アフリカ) |
エネイブル(英国) アルモロックス(スペイン) ラッパードラゴン(香港) ブッシュブレーヴ(ポーランド) セプフォーティーン(フィリピン) ワウキャット(チリ) アバシリ(南アフリカ) ホーカーフュアリー(ケニア) |
・エネイブルはオークストリプル(英愛ヨークシャー) |
2017年 | 日本 | 牡 | 2020年 |
エネイブル(英国) アルモロックス(スペイン) ラッパードラゴン(香港) ブッシュブレーヴ(ポーランド) セプフォーティーン(フィリピン) ワウキャット(チリ) アバシリ(南アフリカ) ホーカーフュアリー(ケニア) |
ゴールデンシックスティー(香港) サマープディング(南アフリカ、牝) デアリングタクト(日本、牝) コントレイル (日本) ラッフスター(ベネズエラ) リリーブルー(ジンバブエ、牝) ジョヴァニーナ(メキシコ、牝) ワイズガイ(トリニダード) ヘネラルカレントン(フィリピン) ユニオンベル(フィリピン) ヒターナフィエル(エクアドル) ウラカンぺ(ドミニカ共和国) |
・コントレイルは世界史上初の無敗父子三冠馬。 ・リリーブルーは変則三冠牝馬 ・ユニオンベルは無敗の2歳五冠馬。 ・ヒターナフィエルは牝馬ながら牡馬の三冠を達成。 |
さらに!
日本でコントレイルと命名された馬は、無敗二冠馬のコントレイルを筆頭に4頭いるが・・・
4頭中3頭が3歳になった際にクラシック無敗三冠馬が出現している。
《初代コントレイル》
※キヤントレールの登録で競走。英名では?Contrail?で登録されている。
生年:1981年 6月27日
性別:牡
毛色:黒鹿毛
父 イエラパ
母 パワフルチェリー
当歳時→1981年
→ロイヤルダッド無敗ジャマイカ三冠達成。
3歳時→1984年
→シンボリルドルフ無敗三冠達成。
《二代目コントレイル》
※コントレールの登録で競走。英名では?Contrail?で登録されている。
生年:2000年 3月7日
性別:牡
毛色:黒鹿毛
父 ウォーニング
母 コンアモール
当歳時→2000年
→チリのリドパレス、プリンテンプス2頭がチリダート三冠を牡牝で達成!
3歳時→2003年
→ワンド、カナダ三冠達成。
→タンクレッド、スロバキア三冠達成。※スロバキア史上初の三冠馬。
→スティルインラブ、日本牝馬三冠達成。
→ネオユニヴァース 、日本クラシック二冠達成。おしくも三冠目は破れる。
《三代目コントレイル》
生年:2010年 4月14日
性別:牝
毛色:栗毛
父 シベリアンホーク
母 ブルースカイソング
3歳時→2013年
【2013年】
→サーフィーバー無敗ウルグアイ三冠達成。
→フィクサドール無敗ブラジル(サンパウロ)三冠達成。
《四代目コントレイル》
生年:2017年 4月1日
性別:牡
毛色:青鹿毛
父 ディープインパクト
母 ロードクロサイト
当歳時→2017年
→チリのワウキャットが無敗でチリダート三冠とポトランカス三冠をダブル達成!
3歳時→2020年
【2020年】
→サマープディング南アフリカ無敗牝馬三冠達成(南半球の芝レースでは史上初の無敗牝馬三冠馬)。
→ゴールデンシックスティー香港三冠達成。
→コールトゥヴィクトリー無敗トルコ二冠(三冠目でレース中に故障発生しリタイア。怪我が無ければ、99.99%カライエル以来の無敗三冠馬だった)。
→デアリングタクト無敗牝馬三冠達成(日本、アジア競馬史上初の快挙)。
→コントレイル 無敗クラシック三冠+全世界競馬史上初の父子無敗三冠達成!!!
なんと、日本で和名で?コントレイル?と命名された馬が当歳時、
もしくは、ダービーをはじめとする生涯で
ただ一回となるクラシック挑戦の3歳を迎えた年、
100%の確率で
その年に無敗の三冠馬か、
牡牝同時三冠馬が
誕生しているのである。
?コントレイル ?という馬名は、
【無敗三冠】と【牡牝同時三冠】、
【親子三冠】といった
?奇跡の三冠?を紐解く
究極の?パワーネーム?とは言えないだろうか。
コントレイル世代、(同期の)世界の歴史的名馬たち
【【三冠馬】】全12頭(2020/12/28時点)
※コントレイルとデアリングタクト以外の三冠馬、二冠馬、歴史的名馬たちをご紹介!
サマープディング(南アフリカ共和国)
〔サマープディング:2016年生。父シルヴァーノ(ニジンスキー系) 母チェリーオンザケーキ 母父ストライクスマートリー(ミスタープロスペクター系)、史上初となる無敗でのアフリカ牝馬三冠、無敗のアフリカントリプルティアラを達成したばかりか、これは、南半球における、史上初の無敗での牝馬クラシックレース三冠達成でもある。漆黒の青鹿毛の馬体を輝かせ、追い込み、先行、差しと自在。いかなる位置からでも追われまくって伸び足をしぶとく発揮。最後の最後は必ず僅差でも出て、大接戦の勝負を物にして三冠を達成しているのだから、余程勝負強い馬である事は明らか。絶望的な位置取りや進路取りも物ともせず、必ず最後は泥臭く勝利をものにする勝負根性は世界ナンバーワンと言っても過言では無い程である〕
ゴールデンシックスティー(香港)
〔ゴールデンシックスティー。2020年香港4歳三冠達成。絶望的位置取りから図った様に差し切るレースパフォーマンスで人気を博す。1戦のみ敗戦し、無敗三冠は逃すも短距離、マイル、中距離と幅広い距離適性を見せる香港のスーパースターである〕
ラッフスター(ベネズエラ)
〔ラフスター:2017年生。父ヴァケーション(ロベルト系) 母ジルズスカイ 母父スカイウォーカー(インテント系)三冠達成時までの成績:9戦5勝[5-3-0-1]。コントレイル世代の三冠馬の一頭。〕
リリーブルー(ジンバブエ)
〔ジンバブエに現れた歴史的豪牝。2歳牝馬チャンピオンに際どくも輝くと、3歳を迎えて覚醒。ジンバブエギニー(芝1,600m)ではスタートして150m付近から加速を開始。先頭に立ち、そのまま3馬身差圧勝。続くジンバブエオークス(芝2,000m)では後続を突き放す一方になり、2秒差以上をつける大差勝ち。この勢いを駆って臨んだジンバブエダービー(芝2,400m)でも牡馬の最強クラスを圧倒し、2馬身以上突き抜け快勝。変則三冠を成し遂げた〕
ジョヴァニーナ(メキシコ)
〔メキシコの牝馬三冠を隙の無い完璧な競馬と強さで達成〕
ワイズガイ(トリニダード・トバゴ)
〔全く危なげない競馬でトリニダード三冠達成。〕
ヘネラルカレントン(フィリピン)
〔フィリピン三冠馬。一冠目はライバルに半馬身差の勝利となったが、二冠目では恐ろしく強く、2秒差千切る大差勝ち。三冠目には強力な無敗(4戦4勝)の上がり馬スカイショット、無敗の2歳五冠馬ユニオンベルの挑戦を受けて立ち、これら3頭が他馬を引き離してのマッチレースに。ユニオンベルが休養明けの影響か3コーナーで脱落すると、最終コーナーで手が動くスカイショットを横目に楽な手応えで交わし圧勝の三冠達成〕
ユニオンベル(フィリピン)
〔フィリピンの2歳三冠レース?フィラコム・ジュヴェナイルコルツ&ステークスレースズ?シリーズとフィルトボ・ジュヴェナイルチャンピオンシップスの二冠、合わせて2歳五冠を史上初めて無敗のまま制し、2歳にして6戦6勝で年度代表馬に選ばれている。フィリピン競馬史上最強の2歳馬と言える存在。しかし、その後順調さを欠き、年明け初戦は三冠レースの最終戦となってしまい、流石にブランクが長過ぎたか、ヘネラルカレントンに千切られてしまった〕
ヒターナフィエル(エクアドル)
〔エクアドルの2歳牝馬チャンピオンに輝くと、年明けからは無双の強さと速さを発揮。牝馬ながらエクアドルの牡馬三冠路線を歩み、見事三冠達成している〕
ウラカンぺ(ドミニカ共和国)
〔一冠目で覚醒。圧倒的力で二冠制覇。三冠目はこの馬を恐れて3頭立てになり、圧勝濃厚と見られたが、ゴールデントレボルというライバルに苦戦を強いられる。逃げていたゴールデントレボルは、3コーナー前からウラカンの前に張り出し、4コーナーでもウラカンの半馬身前で粘り、外へ外へと膨らみ続けた。これによりウラカンは一度下げて内へと潜り込み、突き放すもゴール前力尽き2着。三冠の夢散る…と思いきや、レース後、審議となり、長い長い協議の結果、ウラカンの進路を妨害したとして、ゴールデントレボルは降着。思いもよらない形で三冠が達成された。馬名の意味は「ハリケーン」〕
【二冠馬】全14頭(2021/1/25時点)
★の付いている馬は、三冠馬になるチャンスまだあり!!
ラブ(英国)
〔英1000ギニー4馬身1/4差で快勝し、英オークス9馬身差で世界の度肝を抜く英国牝馬二冠達成。さらにはヨークシャーオークスも5馬身差で圧勝した〕
マイティーハート(カナダ)
〔片目を失い、隻眼となった競走馬と、日本競馬界から締め出された若手騎手。世界から見放されたような2者が邂逅を果たし、ついにはカナダの二冠を制覇。映画のようなサクセスストーリーが展開された〕
コールトゥヴィクトリー(トルコ)※無敗二冠馬
〔12戦11勝。トルコ二冠を無敗のまま圧勝。2歳チャンプにも成っておりカライエル以来となる無敗三冠完全制覇が懸かっていたが、最後の一冠故障し三冠の夢は泡と消えた。完全に力は抜け切っており、無事ならば99.9%三冠馬となっていたであろう名馬〕
セイクリッドマグネート(マカオ)
〔マカオの二冠目、三冠目を制覇。二冠とも接戦だが、類稀な勝負根性を店勝利〕
ペルシステンテ(プエルトリコ)※無敗二冠馬
〔カマレロ以来となる66年振りの無敗三冠馬を期待された駿馬。6戦6勝でダービー圧勝。プエルトリコ無敗二冠馬。父コンソール、母ミスタレント、母父アラゴーンという血統。デビュー戦は8 1/4馬身差。デビュー2戦目で宿命のライバルと言えるプレセンシアルと激突。激しい叩き合いの末、ペルシステンテは頭差の2着に敗れるも、プレセンシアルの斜行によってプレセンシアルは2着に降着、ペルシステンテが繰り上がりで優勝した。3戦目ではライバルがおらず、17・3/4馬身差の大圧勝。1冠目デルビー・プエルトリケーニョ(プエルトリコ・ダービー)では天敵プレセンシアルを9・1/4馬身差突き放し無敗のダービー馬となった。2冠目となるコパ・ゴベルナドールでも4・1/4馬身差、プレセンシアルを突き放していた。プレセンシアルから3着馬には11馬身差という途方もない差が開いており、この2頭は突出した存在であることは明らかであった。(日本で言うと完全にコントレイルとサリオスの関係)三冠最終戦コパ・サン・フアンでも快調に飛ばし、無敗三冠は間違いないかに思えた…しかし、11月1日、あのサイレンススズカの悪夢が日本から遠く離れたプエルトリコで発現する。残り500mで故障を発生し、競走を中止。そのまま競走生命を絶たれた〕
まさにプエルトリコのコントレイルとサリオスの関係!
プレセンシアル(プエルトリコ)
〔二冠は故障して去った無敗ダービー馬プレシステンテの2着。この馬がいなければ三冠馬だった。プレセンシアルの馬主ルイス・モラーレス氏は、次の様に語っている。「ペルシステンテが怪我をして悲しい。あの馬は3冠馬になっていたに違いない。だが、偽善者を演じても仕方がない。わたしのプレセンシアルが勝ってくれて嬉しい。しかし、怪我をしたペルシステンテのほうが上だったと認める」〕
ニュルンベルグ(ペルー)※無敗二冠馬
〔ペルーで四冠馬にも成れると褒称される二冠馬。〕
アバヴアンドビヨンド(ジャマイカ)
〔ジャマイカの牝馬二冠を制覇。ジャマイカークス快勝後に骨折が発覚し戦線離脱〕
トゥルーロイヤル(パラグアイ)
〔ポーラデポトリジョス(土1,600m)とトリプレコローナ(土2,000m)でパラグアイ牡馬二冠達成〕
ジャスティーナ(パラグアイ)
〔グランダービー・ヘンブラス(土1,200m)、ポーラデポトランカス(土1,600m)でパラグアイ牝馬二冠達成。二冠目のクリアドレス・ヘンブラス(土1,000m)のみ取り逃がす〕
インスタマンチャ(ウルグアイ)
〔ウルグアイ牝馬二冠を達成。ウルグアイの絶対的女王。3歳牝馬は1000ギニー、オークス、エスティムロという路線が王道なので、実質これが3冠のようなもの。〕
マイスキボニータ(ブラジル)
〔アグネスゴールド産駒としてリオ牝馬二冠を制す〕
レトニェーアノック(ロシア)
〔12戦6勝2着5回3着1回の着外なし。オークス二冠(ロシアオークス、スーパーオークス)を達成。ロシアオークスはモスクワ中央競馬場のダート2,400m。スーパーオークスはクラスノダールの芝2,400mのロシアGI。芝とダートの頂点、女王に輝いたという名牝だ〕
インターロイヤルレディ(ポーランド)※無敗二冠馬
〔ポーランド牝馬二冠馬。10戦9勝2着1回。一冠目では後続を4秒千切る超大差勝ちを披露。同国史上最大着差でのGI級競走勝利記録を手土産にポーランドダービーに臨むが、驚愕の追い込みも虚しく鼻差の2着に惜敗。鞍上はジョアンナ・ウィルジク。ポーランドの女性若手騎手の名手。父は調教師で、インターロイヤルレディは父の管理馬。二冠達成の時は表彰台で父娘が抱き合って感動を分かち合い、感動の涙を誘った。間違いなくポーランド競馬史に残るであろう歴史的名牝である〕
▲〔二冠達成し抱き合う親娘〕
▲〔インターロイヤルレディ〕
ウォーイーグル(バルバドス)
〔バルバドス二冠馬。一冠目バルバドスギニーはデジャヴという馬にクビ差及ばず取り逃がすも、二冠目ミッドサマークラシック、バルバドスダービーは力の差を見せ付け大勝。特にミッドサマークラシックにおいては、バルバドス競馬史上に残る大圧勝。なんと19馬身差、約4秒近い差を後続につけて、ゴール100m程前から鞍上のプレスコッド騎手が後ろを何度も振り返り、ド派手なガッツポーズをして、左手をブランブランと降って、観衆を煽ってのゴールイン。〕
【無敗のダービー馬】全5頭(2020/11/24時点)
コントレイルそしてトルコのコールトゥヴィクトリー、ペルシステンテ加えて・・・
ウォーハンマー(インド)
〔傍若無人の強さで負け知らず。6戦全勝のインドダービー馬〕
ナイトサンダー(ポーランド)
〔インターロイヤルレディの猛追を凌ぎ、ダービー馬に4戦4勝。しかしセントレジャーではライバルに屈して二冠はならず〕
]]>
生命(こころ)震える感動を。
生涯史上至高と思ふる瞬間を。
奇跡的邂逅により
奇跡の三重奏が織り成す
Triple Coronado Symphony
この世に生まれ
いまこの時代を生き
競馬ファンで良かったと
一心に全民思う
夢の奇跡のレジェンドマッチ実現!!!
11.29
その目に、
記憶に、
魂に
刻み込め
三大三冠馬降臨。
神話を超える伝説をーーー
超伝説のジャパンカップ 2020
五輪の夢舞台、約束の地、東京で・・・
ジャパンカップ へようこそ!
ウェイトゥパリス(フランス)
GI馬、歴代クラシックホース、ずらり揃う。
グローリーヴェイズ(香港ヴァーズ)
ワールドプレミア(2019菊花賞)
キセキ(2018菊花賞)
マカヒキ(2016ダービー馬)
そして穴馬、古豪、GI常連実力馬もわんさ犇く。
カレンブーケドール
ユーキャンスマイル
パフォーマプロミス
ミッキースワロー
クレッシェンドラヴ
トーラスジェミニ
そして
府中、芝、2400無敗ww
ヨシオ
【過去の全世界三冠馬対決完全網羅】
三冠馬同士の対戦は過去の世界競馬全史を遡及して顧みてみると、
13例の三冠馬対決が記録されている。
?アイシングラス(英国無敗三冠馬)
vsラフレシ(英国牝馬三冠馬)
1893年 ランカシャープレート(芝1,600m)にて
↓
[結果]
アイシングラス 2着
ラフレシ 3着
?リニエルス(ウルグアイ無敗三冠馬)
vsベンツ(ウルグアイ無敗三冠馬)
1917年
同厩舎の無敗三冠馬対決。ベンツが先輩三冠馬。
対戦するこの時、ベンツは敗戦経験済みで無敗のままの激突ではなかった。
↓
[結果]
リニエルスが3着で先着。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsエスコリアル(ブラジル三冠馬)
vsパンプローナ(ペルー四冠牝馬)
1959年アルゼンチンで行われた5月25日大賞(芝2,400m)にて。
※ちなみにこのレースにはチリ二冠馬トルパン、コロンビア二冠馬のフライジョンも参戦していた。
↓
[結果]
エスコリアルが優勝。
ファーウェル2着。
パンプローナ着外。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsエスコリアル(ブラジル三冠馬)
1960年ブラジル大賞(芝3,000m)にて。
↓
[結果]
ファーウェル優勝。エスコリアル2着。
?ファーウェル(ブラジル無敗三冠馬)
vsズンバドール(ウルグアイ三冠馬)
1960年カルロス・ペリグリーニ国際大賞(芝3,000m)にて
※ちなみに欧州からイスパーン賞勝馬やイタリア共和国大統領賞勝ち馬も参戦していた。
↓
[結果]
ファーウェル2着。ズンバドール着外。
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
1984年ジャパンカップにて
↓
[結果]
シンボリルドルフ3着、ミスターシービー10着
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
1984年 有馬記念にて
↓
[結果]
ルドルフ優勝、シービー3着
?シンボリルドルフ(日本無敗三冠馬)
vsミスターシービー (日本三冠馬)
↓
1985年 天皇賞・春
[結果]
ルドルフ優勝、シービー5着
?シアトルスルー(米国無敗三冠)vs
アファームド(米国三冠)
1978年 マールボロCHにて
↓
[結果]
シアトルスルー優勝、アファームド2着。
?シアトルスルー(米国無敗三冠)vs
アファームド(米国三冠)
1978年 ジョッキークラブ金杯にて
↓
[結果]
シアトルスルー2着、アファームド5着。
?シコティコ(ドミニカ無敗三冠)
vsオクサイ(パナマ三冠馬)
カリブ国際(ダ1,800m)にて
↓
[結果]
シコティコ優勝。
?ジェンティルドンナ(日本牝馬三冠)
vsオルフェーヴル(日本三冠馬)
2013年ジャパンカップにて
[結果]
↓
ジェンティルドンナ優勝、オルフェーヴル鼻差2着。
?インメンソ(ドミニカ三冠馬)
vsタンゴダンサー(ドミニカ三冠馬)
vsフレーテローマーティノー(無敗ドミニカ三冠馬)
2018年クラシコ・インデペンデンシア・ナシオナル(ダ2,000m)にて
↓
[結果]
インメンソ優勝、タンゴダンサー2着、フレーテロマーティノー4着
]]>奇跡が呼ぶ奇跡。
300年の時間と次元と時空を突き抜けて。
いま、天地神明の奇跡が舞い降りる。
奇跡色の空、
父の俤
天馬の走り。
いまその光跡をなぞらえてーーーーーーー
コントレイル
成るか。
叶うか。
史上3頭目、
無敗の三冠馬。
そして
世界競馬史上初、
父子無敗三冠馬。
大いなる奇跡、
歴史的名馬の降誕を
見届けよ。
Dual Exsistence
日はまた昇るーーー。
この国をいかなる災禍が、
遍くその暗澹たる翼で覆おうとも
光を照らす。奇跡の存在が現れてーー。
1941年
セントライト
1964年
シンザン
1983年
ミスターシービー
1984年
シンボリルドルフ
1994年
ナリタブライアン
2005年
ディープインパクト
2011年
オルフェーヴル
2020年
コントレイル
史上8頭目の三冠馬、
そして史上3頭目の
無敗三冠達成!!!!!!!
【世界の親子三冠馬】
※年数は三冠達成年
?🇬🇧英国三冠・🇺🇾ウルグアイ三冠
【父】1900年 ダイヤモンドジュビリー(13戦6勝)英国三冠
【子】1913年 リコート(47戦17勝2着9回3着8回)鵜国三冠
?🇦🇷アルゼンチン三冠(四冠)
【父】1904年 オールドマン(19戦18勝2着1回)
【子】1914年 ボタフォゴ(18戦17勝2着1回)※無敗で四冠達成。
?🇷🇴ルーマニア三冠
【父】1913年 ゾリデヅィ(25戦22勝2着3回)
【子】1928年 ギアール
?🇺🇸米国三冠
【父】1930年 ギャラントフォックス
【子】1935年 オマハ
?🇺🇾鵜国三冠(ウルグアイ三冠)
【父】1949年 ルゼイロ(9戦8勝2着1回)※無敗で三冠達成。
【子】1962年 ロコロコ
?🇹🇷トルコ三冠
【父】1973年 カライエル(無敗で達成。生涯成績18戦全勝)
【子】1983年 セレン1世
?🇵🇭フィリピン三冠
【父】1981年 フェアアンドスクウェア(23戦21勝2着1回3着1回)
【娘】1989年 サンダンサー※牝馬
?🇺🇸米国三冠・🇨🇦カナダ三冠
【父】1978年 アファームド(米国三冠)
【子】1993年 ピートスキー(カナダ三冠)
?🇵🇦パナマ三冠
【父】1998年 エヴァリスト
【子】2008年 オクサイ
?🇯🇵日本クラシック三冠
【父】2005年 ディープインパクト
※無敗で三冠達成。14戦12勝(2着1回失格1回)
【子】2020年 コントレイル
※無敗で三冠達成。11戦8勝(2着2回3着1回)
コントレイルが三冠を達成し、史上10組目の親子三冠馬達成となった。
さらに、無敗で親子三冠は、
全世界競馬史上初となる歴史的大偉業達成となる。
(もし、他にも例がありましたら、ぜひ教えてください。今現在、全世界の三冠馬と三冠系体を調査、編纂まとめている状況ですので、教えて頂けたら非常に助かります。)
オーモンド、ニジンスキー、セクレタリアト、ルドルフといった偉大な三冠馬たちも、セントサイモン、リボー、ノーザンダンサー、サンデー、ガリレオといった歴史的大種牡馬も出来なかった、為し得なかった、為しえれない、歴史的大記録。
2020年10月25日、ディープとコントレイル は全世界競馬史上唯一無二の存在となったのである。
P.S 東京五輪の年、「シンザンの再来」が現れるという私の予言を結実させてくれたコントレイルには、心の底から感謝しかない。本当にありがとう。ディープも天国から祝福しているよ。
【オマケ】
『三冠馬の出現確率』
JRAに生産資料が残る1947年以降のクラシックにおいて、3冠に挑戦可能だった馬は現3歳世代までで41万1188頭。うち3冠馬となったのがコントレイルを含め7頭(戦前のセントライト除く)。
3冠馬の出現率は0・0017%。5万8741頭に1頭の確率だ。
なお、3冠馬から3冠馬が生まれる確率はかなりざっくり計算して0・0017%×0・0017%=0・000003%。何とも現実味のない数字となる。
ちなみにジャンボ宝くじ1等の当せん確率は1000万分の1、つまり0・00001%とされる。
いかに「3冠馬から3冠馬」が難事業かが分かる。
しかも、今回は父子そろって無敗。さらには新型コロナウイルス禍という特殊な状況下であったことも踏まえると、もはや天文学的数字になっていくる。
?ダブル・レインボー?
コントレイルの父子無敗三冠達成の週、極めて珍しい現象が親子の生まれ故郷である北海道にて起こった。
?ダブル・レインボー?と呼ばれる稀少な気象現象であった。
?ダブル・レインボー?は瑞祥、大きな幸運の兆しとされ、「卒業」と未来に向けた「祝福」の意味があるという。
一つの人生のサイクルが終了するということを表しているとされ、今まで頑張ってきたことが報われて、次のステップに進むことができるというサイン。二重虹の持つ「祝福」の意味は、これから訪れる幸せを天がお祝いしてくれているということ。二重虹は、今までの努力が報われ次のステージに進むあなたの行く末には、幸せが待っているというサインであるという。このサインは、仕事での昇進や結婚、出産など、目の前に広がった新しい世界が祝福に満ちあふれていることを表しているとされる。
東洋でも、二重虹は「願望実現やこの先の成功を表す吉兆」とされています。また、七色の虹を七福神になぞらえて「長寿・人望・清廉・商売繁盛・威光・財富・愛敬」を表すともされています。二重虹は、多くの人が望むすべての幸運を呼び込んでくれる縁起物として言い伝えられているのです。
また、二重虹は天使からの「エンジェルサイン」とも言われている。二重虹はあなたに「もうすぐあなたの願いが叶い、幸せが訪れますよ」という天使のメッセージなのだという。
二つの虹は、ディープとコントレイル、?7?戦?7?勝で歴史的大偉業を成し遂げる親子を祝福する、もう一つの奇跡であったのかもしれない。