カラカラ

   【カラカラ】

〜凱旋門へ架かる
  アパレル・マジック〜

‐マルセル・ブサック氏
  集大成中の最高傑作‐



父 トワルビヨン
母 アストロノミー
母父 アステリュー

生年:1942年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:フランス
生涯成績:8戦8勝

世界中のホースマン、競馬ファンが、ただの一度だけでもと、夢見続ける勲章。表彰台に上りたいと翹望し続ける競走が、世界には散在している。エプソムの英国ダービー、ケンタッキーダービー、キングジョージ裟&クイーンエリザベス・ダイアモンドS、ドバイWC、ブリーダーズCクラシック、ブリーダーズCターフ、メルボルンC…。そして最高峰中の最高峰…それが凱旋門賞である。



凱旋門賞は1920年10月3日に記念すべき第1回が開催され、大いなる歴史の幕が開かれる。当時のフランスでは、第一次世界大戦の直後という被虐的な風潮も創設案の背中を押し、衰退からの再興とパン・ワールド(世界一)の旗下、パリ大賞に並ぶ大レースが誕生した。それが凱旋門賞であった訳である。
この“世界最強馬決定戦”の意味合いを色濃く持つヨーロッパ最高の競走を最大の目標に、欧州諸国だけでなく、米国、オセアニア、そしてアジア…全世界のホースマンたちが夢絵図を毎年描くようになるに、時間はそう掛からなかった。

しかし、ワールドチャンピオンを決定する世界最大のレースが地元で開催されるに、負ける訳がいかなかったのは開催地であるフランスの競馬関係者たちであった。
そんな機運が仏競馬界を覆う中、一人、大いなる野望を胸に抱くオーナーブリーダーがいた――。
フランスを代表する馬産家、マルセル・ブサック氏である。

 
〔マルセル・ブサック氏〕

ブサック氏は1889年4月17日生まれ。1906年に高校を卒業するや実業であった繊維業を継ぎ、発展に努力すると、1914年には馬主にもなり、アステリュー、トワルビヨン、ファリス、ジェベル、コリダ、マルシュアースと、次から次へと歴史的名馬を生産し、フランス競馬界の重鎮の地位を確立。当競馬界にとって切っても切り離せない重要人物となった。

ダービーは元より、凱旋門賞はブサックにとって是が非でも欲しいタイトルであった。しかし、最高傑作とまで謳われたファリスが戦火の影響がため引退の道を選ばなくてはならない苦況に追い詰められてしまったり、期待を懸け続けたトワルビヨンが牝馬パールキャップに完敗するなど、我慢の時代がつづく。
ブサックに初となる凱旋門の栄光をもたらしたのは、意外にも牝馬であった。フランス競馬屈指の豪牝コリダがそれである。コリダはヨーロッパ中を駆け巡り、大レースを鯨飲。凱旋門賞も1936‐1937年と連覇。さらには夢破れたファリスとトワルビヨンが血統に多大なる影響を与え、生産界を揺るがすようになると、ファリスはブサック第三の凱旋門賞馬となるアルダンを送り、トワルビヨンはフランス競馬史上最強のステイヤーと褒称されるマルシュアースを輩出し、幸運の風を届けた。
マルシュアースは長距離戦で絶対無敵の敢然たる圧制的強さを見せ付けたが、2,400では若干のスピード不足を露呈してしまい、ブサックが思い描く究極の存在には成り得なかった。
マルシュアースの生誕からさらに多種多彩な書物・文献を韋編三絶、研究を続けることで、その僅か2年後、ブサックはファリスをも超越する究極名馬の降誕に成功した。マルシュアースのスタミナと持久力、ファリスの聡明さとポテンシャル、トワルビヨンの爆発力、コリダの勝負根性…すべてを集約した鹿毛の子馬は、「カラカラ」と命名され、スクスクと育っていった。父トワルビヨン、兄マルシュアース、母父アステリューと、一切他者の手が加わらない、完全なる“ブサック・ブランド”の馬であった。





デビューはカラカラが3歳になるまでずれ込んだ。
競馬場へと姿を見せたカラカラは、陽だまりの中、日光浴をしているかのように、たおやかな表情を見せ、スタートが迫るやいなや、軽快な足取りで発走地点へと向かい、悠然とレースを進めた。じっくりと先頭に並びかけると、全く馬なりのまま、手綱をギュッと絞られたままゴールイン。その後も楽走を展観し、潜在パワーの他馬との差異を高らかに舒懐すると、フランス中の豪傑が結集するパリ大賞(芝3,000m)へと参戦すると、軽く追われただけの楽勝。秋にはロワイヤル・オーク賞(芝3,100m)でもほぼ馬なりのまま大勝。凱旋門賞を翌年の最大目標に、カラカラは休養に入る。

翌1946年は、カラカラ・カラーにフランスは染め上げられてしまう。第二次大戦が終息を迎えたという安堵感と未来への祈望がパリの空に浮遊する中、カラカラが瞠若たる足取りで来臨。
トーヴァー海峡を渡り、アスコットの王室競馬へと殴り込みをかける。アスコットゴールドカップ(芝4,000m)では正巧法の競馬で英国馬たちを完膚無きまでに、地にひれ伏す程に能力とスタミナの違いを見せ、ねじ伏せての圧勝。
凱旋門賞を目指し、無敵の快進撃を見せるカラカラは、無敗のまま最大の大一番を迎えていた。
1946年の凱旋門賞は、1941年の7頭立てに次ぐ少頭数8頭立てでの開催となった。しかも、その内の1頭はブサックが用意したペースメーカーだっただけに、カラカラにとってみれば相手は僅か6頭だけという組しやすい展開となるのだった。
カラカラはいつものように、馬なりのままゴールへと鋭進。他馬はカラカラだけを執拗にマークし、猛然と一斉に襲撃をかけてくるが、これが逆にカラカラを本気にさせてしまった。追われたカラカラは目まぐるしいまでの超然たる加速を開始。結局、最終関門の凱旋門賞すら全身全霊、全力全開の死力を振り絞ったパフォーマンスを見せることなく、完全無欠の不敗神話をターフへと残し、競馬場を去っていった。


  
〔大海のスタミナと俊敏性。カラカラとディープインパクトに共通するポイントの一つだ。ディープインパクトはカラカラの凱旋門賞以来の少頭数で、チャンスに見えたのだが…〕

ブサック氏はその後、近親交配の生産理論を頻繁に展開するようになる。カラカラをも凌駕、登攀する夢の最強馬生産に心奪われ、盲目になってしまった彼を待っていたのは、不幸にも破綻であった。繊維業が経営不振から破産に追い込まれ、牧場の生産馬、種牡馬、繁殖牝馬は彼の手を擦り抜けるように闇の彼方へと消失していった。またカラカラも主人と同じ道を辿るかのように、此れ程の歴史的名馬としては、慘憺たる悲惨な成績に終わり、種牡馬として最悪の顛末を迎えてしまうのであった…。



 



  ★彡追記メモ★彡

☆カラカラが走った最短距離は2,400m。マルシュアースの半弟だけに、相当なスタミナを内包していたようだ。

☆カラカラは見栄えがする馬だったが、後ろ脚が曲がっており、寸詰まりしたような体型をしていたという。

☆マルセル・ブサック氏はジョッケクルブ賞(仏ダービー) を12回、凱旋門賞を6回制し、オーナーとして19回、生産者としては17回のリーディングに輝いた。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 19:30 * - * - *

トリプティク

  【トリプティク】

    〜鉄の女〜

―世界を渡り歩いた
      歴史的女傑―



父 リヴァーマン
母 トリリオン
母父 ヘイルトゥリーズン

生年:1982年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:フランス
生涯成績:41戦14勝[14-5-11-11]

昭和62年。西暦1987年の11月15日、涓露も凍てつく冬枯れの東京競馬場へ窈窕なムードを漂わせた牝馬が1頭。
彼女こそトリプティク。現役ながら伝説的女傑の地位を確立し、“鉄の女”と呼ばれていた。
当時ジャパンカップの前哨戦として施行されていたのが、富士ステークス(オープン特別、芝1,800m)であった。この年の参戦外国馬は2頭。前出のトリプティクとオーストラリアのアワウェイバリースター。名立たる豪傑の本戦前の足慣らしに、日本のファンの鼓動も高鳴る――。

このレースが、正真正銘の伝説となる。今見ても信じられない驚天動地、戦慄のパフォーマンスをトリプティクは披露したのである。
7枠7番、オレンジの帽子でスタートを切ったトリプティク。日本の競馬ファンが初めて目撃する真の超絶海外馬の走りに、熱視線が注がれ単勝1.2倍――。
その勝ち方のみが焦点だった訳だが、失望の溜め息が3コーナーでファンから洩れる。なんとトリプティクがズルズルと後退を始め、4コーナーでは1頭だけポツンと離れての追走。前を行く馬群からは4〜5馬身差。さらにトリプティクから先頭までは20馬身近くあった。
「こんなものなのか…」
府中にいた誰しもが、ブラウン管の前で固唾を飲んだファンが、また馬券を握り締めラジオに息を呑む男たちが、そう思った――その瞬間だった。

トリプティクがワープした――






直線入口で離れた最後尾にいた馬が、残り300m地点で2、3番手に上がり、先頭のケープポイントに並び掛けようとしているではないか!
並ぶと思ったのも束の間、魚雷のようなスピードで超次元の加速を転回し、「あっ」と言う間もなく瞬時駿足の勢いで突き抜けてゆく――。
そこからがまた圧巻で、先頭に立ったトリプティクは抑えられ、馬なりのまま5馬身差の大差でゴール板を通過していったのである。

このあまりの凄惨たるレースぶりに、ゴール前のファンは口をポカンと開け、そのまま暫らくの時間、身動きが取ることができなかったという逸話も残されている。


私もこの伝説のレースをビデオで確認してみたが、この世の馬とは思えないその光景に絶句してしまった。トリプティクは日本で競走した全牝馬の中でも史上最強と推察される。
その実績、そのパフォーマンス、そして常軌を逸した異常な強靱性…こうした馬こそ、世界の歴史的名馬と言えるのではなかろうか。
世界各国を旅し、GIを9勝も上げた“鉄の女”トリプティク…彼女の壮烈な生涯をたどってゆくこととしよう。



   


  
                         



トリプティクは1982年の4月19日、アメリカ合衆国に生れ、遠く空を越えてヨーロッパへと渡る。
デビューの地はフランス。1984年のドーヴィル競馬場、マレッテ賞(芝1,600m)を流して楽勝。見事デビュー戦を飾ると、その後1戦を挟んでのマルセルブサック賞(芝1,600m)では4馬身差の大勝で2歳戦を締め括った。
…とまあ、ここまではよくある一流馬のローテーションである。
トリプティクはここからが尋常ではない。
1985年の始動戦はドーヴァー海峡を渡り英国はニューマーケット。英1000ギニー(芝1,600m)へ出走し、7着と敗れるも、次は愛国へ赴き、愛1000ギニートライアル(芝1,600m)を快勝。次走は愛1000ギニーかと思いきや、前走から僅か1週間後、なんと愛2000ギニー(芝1,600m)へ出走。万緑一紅のトリプティクは牡馬を轟然と烈脚で葬り去り、クラシックのタイトルを手中に収めるのだった。
標的とした1000ギニーは惜しくも敗れてしまうが、その後も休養を取ることなく英オークス、愛ダービーと4連闘。疲れを微塵も見せずベンソン&ヘッジス金杯、フェニックスチャンピオンSとGIを6連戦。チャンピオンS終了後、カナダへと飛び立ち、ロスマンズ国際で3着と気を吐いた。

翌1986年も、獅子奮迅のフル回転で走り続けるトリプティク。この年、間違いなくトリプティクは本格化の兆候を見せていたが、1頭の出現により、次々とGI制覇の夢は手を擦り抜けていった。
史上最強馬候補にも必ず選出される“伝説の勇者”ダンシングブレーヴである。
中でもこの年の凱旋門賞は1965年以来の超高水準メンバーが結集していた。
ダンシングブレーヴ。
地元フランスからは史上最強のフランスダービー馬と讃えられるベーリング。
英愛ダービー馬シャーラスタニ。ドイツ史上最強クラス、12連勝中のアカテナンゴ。
当時の英国最強古馬シャルダリ。
日本ダービー馬シリウスシンボリ。
チリオークス馬マリアフマタ。
ヴェルメイユ賞馬ダララ。
ロワイヤル・オーク賞馬メルセイ。
コロネーションC馬サンテステフ。

…戦慄のメンバーに空気は凛々と張り詰め、木々の葉がさざめきをやめようとしない。
レースではダンシングブレーヴが神の威光を放散するかのような超夢次元の末脚を炸裂させ、ゴールを突き抜けていった。トリプティクも粉骨砕身、懸命に全ての力を振り絞って追い掛けるが結局差はつまらず3着完敗となるが、このそうそうたる史上屈指の最高メンバーを向こうに回していただけに、胸を張れる結果と評価できよう。
この凱旋門賞後、英チャンピオンS(芝2,000m)を勝ちブリーダーズカップ・クラシック(ダ2,000m)へ。
そしてジャパンカップへ。
いずれも敗退に終わるが、この超過密なハードローテーションを耐えられるだけで勲章ものと賛嘆できる。後記の資料欄にある通り、彼女のローテーションを普通のサラブレッドへ適用した場合、おそらくその馬は気息奄奄と疲弊しきってしまうだろう。そんな光景が目に浮かぶ。

世界各国を飛び回り、東へ西へ。雪辱を誓い来日したジャパンカップ…その前哨戦、語り紡がれる富士ステークスの“ワープ現象”――……。
夕影に映るシルエットが空のキャンバスへ溶けてゆく――。





時は流れ、米国。
“鉄の女”も衰え知り、母の志を胸に抱く。

トリプティクは引退後、生れ故郷の米国はケンタッキー州クレイボーン・ファームにて繁殖入り。
お腹の中にはミスタープロスペクターの仔を宿していた。

幸せの風がそよぐ、5月24日。
牧場の夜警がトラックから降り、いつものように巡回に出ようと準備を整えていた。
牧場の草花が、怪しく燐光を反射させている。
業務へ向う夜警がライトを点けたその時だった――。

車のヘッドライトに照らされたトリプティクは直接あまたの光を目に受け、完全に気が動転し、我を無くしてしまった。慌てふためくトリプティクはトラックへ突進。光の中、大いなる天の翼に包まれ、トリプティクは静かに瞳を閉じた――。


トリプティクはトラックに激突。骨が粉々に砕け、おびただしい量の出血が牧路を真っ赤に染めていた……――。


残せなかった新しい生命。

どんな苦難苦境も乗り越えた不屈の精神。

「どんな仔が生まれたのかな?」絶望と祈望の黄昏に、悲壮と涙の風が吹く――

途絶えた“鉄の淑女”の系譜。

世界を飛んで、命を懸けて見せてくれた驥熙の翅翼(ききのつばさ)。
忘れない。貴女の走りを―――。








  ★彡追記メモ★彡

☆トリプティクの全戦績は以下の通り。

1984年 ドーヴィル マレッテ賞   ― 1着 ― T1600 ― ― ―

9.12 ロンシャン オマール賞 G 7頭 2着 ― T1600 ― ハナ Coup de Folie

10. 7 ロンシャン マルセルブサック賞 G 9頭 1着 A.ルクー T1600 1.46.7 4身 (Silvermine)

1985. 5. 2 ニューマーケット 英1000ギニー G 17頭 7着 ― T8F ― ― Oh So Sharp

5.11 レパーズタウン 1000ギニートライアル G 9頭 1着 ― T7F 1.28.3 3/4身 (Burning Iscue)

5.18 カラー 愛2000ギニー G 16頭 1着 C.ロシェ T8F 1.42.1 2 1/2身 (Celestial Bounty)

5.25 カラー 愛1000ギニー G 15頭 5着 ― T8F ― ― Al Bahathri

6. 8 エプソム 英オークス G 12頭 2着 ― T12F ― 6身 Oh So Sharp

6.29 カラー 愛ダービー G 13頭 5着 ― T12F ― ― Law Society

8.20 ヨーク ベンソン&ヘッジス金杯 G 6頭 3着 ― T10F85Y ― 4 3/4身 Commanche Run

9. 8 フェニックスパーク フェニックスチャンピオンS G 11頭 9着 ― T10F ― ― Commanche Run

10.20 ウッドバイン ロスマンズ国際S G 11頭 3着 ― T13F ― 1/2身 Nassipour

1986. 5. 4 ロンシャン ガネー賞 G 10頭 4着 ― T2100 ― 1 1/2身 Balliamont

6. 5 エプソム コロネーションC G 10頭 2着 ― T12F ― 短頭 Saint Estephe

6.28 ロンシャン ラクープ G 6頭 1着 ― T2400 2.38.4 短頭 (Antheus)

7. 5 サンダウン エクリプスS G 8頭 2着 ― T10F ― 4身 Dancing Brave

7.26 アスコット キングジョージ此QEDS G 9頭 3着 ― T12F ― 3/4身 Dancing Brave

8.19 ヨーク 英国際S G 12頭 2着 J.リード T10F110Y ― 3/4身 Shardari

9. 7 フェニックスパーク フェニックスチャンピオンS G 13頭 3着 A.コルデロJr. T10F ― 5身 Park Express

10. 5 ロンシャン 凱旋門賞 G 15頭 3着 A.コルデロJr. T2400 ― 2身 Dancing Brave

10.18 ニューマーケット 英チャンピオンS G 11頭 1着 A.S.クルーズ T10F 2.09.49 3/4身 (Celestial Storm)

11. 1 サンタアニタ ブリーダーズCクラシック G 11頭 6着 A.S.クルーズ D10F ― 8身 Skywalker

11.23 東京 ジャパンC G 14頭 11着 A.S.クルーズ T2400 2.26.1 1.1秒 ジュピターアイランド

1987. 5. 2 ロンシャン ガネー賞 G 10頭 1着 A.S.クルーズ T2100 2.15.1 3身 (Tokfa Yahmed)

6. 4 エプソム コロネーションC G 5頭 1着 A.S.クルーズ T12F 2.35.97 3/4身 (Rakaposhi King)

7. 4 サンダウン エクリプスS G 8頭 3着 ― T10F ― 2 1/4身 Mtoto

7.25 アスコット キングジョージ此QEDS G 9頭 3着 ― T12F ― 3身 Reference Point

8. 8 ヨーク 英国際S G 10頭 1着 S.コーゼン T10F110Y 2.15.53 2身 (Ascot Knight)

9. 6 フェニックスパーク フェニックスチャンピオンS G 12頭 1着 A.S.クルーズ T10F 2.06.7 クビ (Entitled)

10. 4 ロンシャン 凱旋門賞 G 11頭 3着 A.S.クルーズ T2400 ― 5身 Trempolino

10.17 ニューマーケット 英チャンピオンS G 11頭 1着 A.S.クルーズ T10F 2.10.98 2 1/2身 (Most Welcome)

11.15 東京 富士S OP 9頭 1着 A.S.クルーズ T1800 1.46.9 5身 (アワウェイバリースター)

11.29 東京 ジャパンC G 14頭 4着 A.S.クルーズ T2400 2.25.4 0.6秒 ルグロリュー

1988. 4.30 ロンシャン ガネー賞 G 5頭 3着 S.コーゼン T2100 ― 5身 Saint Andrews

6. 2 エプソム コロネーションC G 4頭 1着 S.コーゼン T12F 2.34.84 3/4身 (Infamy)

7. 2 サンダウン エクリプスS G 8頭 3着 A.S.クルーズ T10F ― 3身 Mtoto

8.20 ウッドバイン アーリントンミリオン G 14頭 10着 G.スティーヴンス T10F ― 7身 Mill Native

9. 4 フェニックスパーク フェニックスチャンピオンS G 9頭 3着 D.ブフ T10F ― 1 3/4身 Indian Skimmer

9.18 ロンシャン プランスドランジュ賞 G 10頭 1着 F.ヘッド T2000 2.04.9 3/4身 (Masmouda)

10. 2 ロンシャン 凱旋門賞 G 24頭 13着 A.ルクー T2400 ― 7身 Tony Bin

11. 5 チャーチルダウンズ ブリーダーズCターフ G 10頭 4着 L.ピンカイJr. T12F ― 11身 Great Communicator

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 20:19 * - * - *

ロケピーヌ

   【ロケピーヌ】

 〜ささやかな夢物語〜

―フランス繋駕速歩
   競馬史上最強牝馬―



父 アッツ
母 ジャルネ
母父 カリオス

生年:1961年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:フランス
生涯成績:調査中

西の空、遠く霞んでゆく飛行機雲が茜色に染め上がる。時は夕刻。黄昏に暮れる街路樹をサラサラと恋慕を乗せた夕下風が吹き抜けて往く――。
宵闇のヴェールが掛けられてゆく街を背景に、揺れる二人のコントラストが滲んでいた。

仕事を終え、同僚と立ち寄った高級フランス料理店。
「ここかぁ…すっごい高そうだけと大丈夫?だけど楽しみ…」




胸を弾ませ、無邪気な無垢の笑顔を浮かべる彼女を見て、青年は一段としたためている想いを強めた。
「入ろっか」
「うん」


                             


個人まりとし、欧風な店の造りは都市の景観からどこか逸脱しており、垢抜けた印象さえあった。
席へとエスコートされた彼女の前へ、ほどなくして一本のワインが運ばれてきた。
「なんだか本格的ね。小さいレストランなのに…フランスへ来たみたい!」


     

「僕もこの隠れ家的なところが好きなんだよ。さっそれより乾杯だ」
グラスに手を伸ばす彼女の視線に、ワインの銘柄が目に留まった。
「…ロケピーヌ…って読むのかな…これ」
彼女はそっと囁くように呟くと、ワインをかざし見つめ始めた。
「うん、フランスの有名な競走馬の名前らしいんだけどね」


   

カランと音を立てた2つのグラス。古欧の情緒漂う窓ガラスに隔てられた外界はすでに星の海へと姿を変え、こうこうと灯るネオンが夜の訪れを知らせていた――。


ワインの名称ともなった名馬ロケピーヌ。彼女の瀞光爛漫なる競走馬生を芳醇、熟成させる葡萄酒のように、じっくりと推敲してゆくこととしよう。

1961年、ルイ16世治下の警視総監であったド・ロケピーヌ公爵の下に生まれた小さな鹿毛馬は、9ヶ月たってもまだ名前が与えられていなかった。
公爵はパリ8区の一画を所有していた財産家。同区においては繋駕速歩競馬振興会が立地しており、公爵の競馬に懸ける情熱も並大抵のものではなかった。そんな折り、公爵は自らの所有馬に桁外れに飛び抜けた速力を見せる馬がいることに気付き、すぐ様にこの馬の走りを間近で観覧。その余りにも想像を絶する滑走力に圧倒され、深い感銘を受けたという。半月以上、命名されることのなかった小さな牝馬に、公爵自身の名前が当てられた。

颯爽としなやかに、虹色の風を受けて至極順調に育ったロケピーヌに、いよいよデビューの時がやってくる。

見る見るうちに他馬を地平の彼方へと置き去りに、圧勝で締め括ったかに見えた初戦だったが、余りの速さゆえ、反則の駈歩と判断され、失格となってしまう。
大勝、楽勝も失格によりすべてが気泡に帰すという敗戦が幾度となく続き、陣営は焦燥にかられた。苦悩の末に取られた手段は、常時に渡る蹄冠予防帯の着用と、220〜230gという重い蹄鉄の装備であった。ほとばしらんばかりの驚異的な超スピードをセーブされても、ロケピーヌは並外れた肺活量と類い稀な低い心拍動を武器に、連戦連勝。勝ちも勝ったり、あれだけ降着処分受けていたのが嘘か悪夢であったように負け知らずで驀進し続けるのであった。

強敵、強豪の集う大レースでも清涼感溢れる闊達なスピードは翳りを見せず、ロケピーヌはフランス繋駕速歩の最高峰アメリカ賞を1966〜1968年にかけ3連覇。さらにはスウェーデンへと飛びエリトロップ2連覇。イタリアの地ではロッテリア賞を、さらに遠く大西洋を横断した米国でも無敵の快進撃を展開。ローマ、ミラノ、ナポリ、トリノ、イェーテボリ、ミュンヘン、ストックホルム、コペンハーゲン、ニューヨーク…世界中の主要都市でロケピーヌは奇跡色の妙技を転舞し、その度に人々の心は感動と言う名の光に照らされたのだった。

競馬場を後にしたロケピーヌは北欧スウェーデンで繁殖入り。4頭の子馬をもうけた後、流産がたたって命を引き取った。まだ14歳という馬齢であった。


――…食事も終わり、ロケピーヌの残りも無くなりかけている頃、彼はおもむろに彼女の手を取り、そっと握りしめ、そして永遠の誓いを彼女へと告げた。
重なる二人の心と影。
夜空から降り注ぐ綺羅星のシャワーは、ロケピーヌからのプレゼント。
静かな夜に浮かぶ雲。それを譜線に祝韻のノクターンがいつまでもさざめいていた。誓い合う二人の未来へと音階を上げて――。






  ★彡追記メモ★彡

☆ロケピーヌは生涯を通じて誇り高く、冷静で、かつ気まぐれな牝馬であったという。

☆ロケピーヌを手繰った騎手の一人は、彼女の途方も無い速さと俊敏性を受け、「まるでフェラーリのようだ」と評価した。

☆ロケピーヌは、1966-68年ヨーロッパグランドサーキット覇者でもある。

☆ロケピーヌは競走成績だけでなく、産駒に名種牡馬Florestan(フロレスタン)を輩出するなど繁殖成績でも優れた実績を残した。

☆現在、ヴァンセンヌ競馬場では彼女を記念しての重賞競走、「ロケピーヌ賞(“Prix Roquépine”、3歳以上牝馬限定G2、2,175m)が施行されている。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 02:53 * - * - *

レンブラント

  【レンブラント】

〜相愛と芸術の二重唱〜

‐世界馬場馬術
    完全制覇の名馬‐



父 不詳
母 不詳
母父 不詳

生年:1977年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:ドイツ
生涯成績:‐

馬と人が一体となって織り成すスポーツ…競馬、乗馬、ポロ競技…そんな馬のスポーツの一つに、二者の全てが重なり合ってこそ初めてその存在が“究極美”となって現出されてくる特異な競技がある。そう「馬術」がそれである。
馬術には多種多様な競技項目がある。馬場馬術、耐久競技、障害飛越…ちなみにこれら3種目を3日間で列挙順にて行い、その減点総計によって勝敗を決める馬術競技を総合馬術という。3種目すべてにおいて同一の馬に騎乗しなければならず、元来は軍馬の能力審査を目的として行っていたものが競技化したものなのだという。

そんな馬術競技の一種である馬場馬術は、平坦な60m×20mの馬場内で、規定の演技を定められた時間内に立て続けに行い、正確性、美しさを競う競技。常歩(なみあし)、速歩(はやあし)、駈歩(かけあし)の組合せにより、円を描いたり、蛇行、後退、停止・発進、回転、横歩き、パッサージュ(極度の短縮速歩)、ピアフェ(短縮速歩による足踏み)などの演技を行い、それらを採点する。演技順序の誤りや時間超過は減点の対象。審判員は各運動課題ごとに10点満点で採点を行い、その合計点で順位は決定される。
そんな馬場馬術のカテゴリーにおいて、王者の輝きを放射し続けた偉才の名馬…それこそが彼、レンブラントである。
いまだ威光を失わない偉大なる競技馬の生涯を見てゆくこととしよう。




「絶対に最高のパートナーとめぐり会って、五輪で優勝してみせるわ」
ドイツに暮らすニコル・ウプホフは、馬好きが高じて馬術界の頂点を志すようになった。可憐な体型と類い稀なテクニックが自慢の少女で、彼女の馬術における才能は恍惚の世界へと誘うかのような魅惑的な煌めきを常に有していた。目にした誰しもが眩耀な光暈に包まれ、至福の時を謳歌する…―。

1980年代の初頭、ついに神様の用意した運命の出会いが、彼女の前に舞い降りる――。
ある日、ニコルはウエストファーレン種の鹿毛馬に一目惚れし、即断即決で購買。熟慮、熟考を決して怠らない彼女が、少し興奮気味に「理想のパートナーを見つけた」と、熱を上げ主張する。いつもと違う、平静を崩した彼女がそこにあった。周囲は目を剥いて彼女の説得を試みたものの、彼女の瞳は揺るぎない自信と決意の色に漲っていた。結局のところ、説得に応じた者は皆強固な想いに打ち拉がれ、行く末を見守ることに。



〔ニコルとレンブラント〕

彼女の断行が正答だったことが白日の下となるに、そう時間はかからなかった。
“レンブラント”と命名されたこの馬は天才的なまでに神懸かった秀逸な才能を披露した。騎乗しても、曳き馬をしても、まるで湖面の水鏡のように冷静沈着で、いかなる指示にも従順だったという。

さて、“レンブラント”という名前についてだが、既にお気付きの方も多いのではないか。そう、オランダが生んだ17世紀最大の画家レンブラント(1606〜1669)が、彼の名の由来である。代表作に『夜警』、『デュルプ博士の解剖学講義』、『ユダヤの花嫁』など。強い明暗対比、まろやかな色彩を特徴とする芸術性・画風から「魂の画家」と呼ばれるように、自己の内面を吐露した宗教画、肖像画、風景画、神話画などに多数の傑作を残した。


     
〔レンブラント〕


        
〔『夜警』〕

厳格なる後光を纏う絵画の巨匠。そんな彼をも時空を飛び越え魅了するレンブラントとニコルのパフォーマンス。1987年以降、イタリアにおけるジュニアライダーヨーロッパチャンピオンのタイトル獲得を皮切りに、世界中の選手権やグランプリの勲章・優勝カップ・メダル等が、次々と棚へ机へ陳列されてゆく。まるで魔法でお菓子が撹拌され、そして造出されていくように…。
ニコルの夢は、オリンピックでの金メダル獲得だった。
「レンブラントと一緒なら、絶対に夢を叶えられる。私は信じてる。彼を――」


そしてついに、1988年のソウル五輪にて、ニコル積年の念願が成就する。

正に人馬一体、天香玉兎のラプソディー。

寸分の狂いもなく連動する月と太陽の浮音。

フィナーレに星光爛漫のピルエットを――……。

フットライトの微光の中、アラベスクが描かれる。
桜花満面の笑顔でレンブラントへ寄り添うニコルの首には、金色に光る「夢の宝石」が、眩しく燦然と輝いていた――。


                           


二人が織り成す信愛の二重唱を、讃えるかのように。

キラリ、キラリ。

久遠の時の中で――…。





  ★彡追記メモ★彡

☆ニコルとレンブラントのカップルはソウル五輪後も世界を股に架ける大活躍。
1992年のバルセロナ五輪でも芸術的完璧な演技を披露し、見事2大会連続、2度目となる金メダルを手中に収めた。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 08:06 * - * - *

ゲリノット:エゾライチョウ

【ゲリノット:
    エゾライチョウ】

〜夜汽車の窓、愛情の翼〜

‐仏国繋駕速歩競馬
     幻のヒロイン‐

 

父 不詳
母 不詳
母父 不詳

生年:1952年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:フランス
生涯成績:87戦54勝

夜行列車の車窓を流れてゆく星屑の残影が、せせらぎのように光の漣を立て、純粋無垢な少女の瞳を煌めかせている。星降る静かな夜の静謐を崩し、夜汽車は往く…――…次なる競走の街を目指して。



ゲリノット:エゾライチョウ(以降ゲリノット)、彼女は第二次大戦の直後、フランスの繋駕速歩競馬界に現れた伝説のヒロインである。87戦して54勝という成績も凄まじいが、彼女がフランス国民から愛され、讃美の眼差しを一身に集めた真の誘因は、圧制的かつ優雅なパフォーマンス以上に、彼女と主戦騎手の深い親愛の絆にあるのである。
彼女の人気は計り知れないものがあった。それを雄弁に証明している指針の一つに“ファンレター”がある。なんと『マドモワゼル ゲリノット』の宛先で何百通も届いたのだという。これは日本のハイセイコーやキングヘイロー、またはディープインパクト、アイルランドのスター障害馬デザートオーキッドにも起きた現象である。
ゲリノットは、絶大な人気を裏切らない、深奥なるポテンシャルを秘めている馬であった。
1954年の3歳でデビューするや否や、たちまちスターダムに勝ち上がり、連戦連勝。世のスポットライトは彼女のみを照射し、ファンとサポーターの情愛が彼女を競馬場のスターレットへと伸し上げたのだ。
パートナーを務めたM.ミルズ騎手との息(馬?)の合ったパフォーマンスは素晴らしく、形容しがたい虹色の燐光を解き放っていたという。騎手が馬を想い、馬が騎手に応える、相思相愛の名コンビがそこにあったわけだ。



〔フランスの繋駕速歩競馬の馬たち〕





ゲリノットは仏国内に活躍の場を絞らず、夜行列車に乗り、欧州各国を転戦していたのだという。そのためか、“寝台のマドンナ”といった粋なニックネーム(称号?)も与えられている。

       


ヨーロッパ各地を巡り巡って東奔西走、縦横無尽に疾駆していたゲリノットに、突然にして不幸は降り掛かった。
主戦を務めていたミルズ氏が病に倒れ、ゲリノットに寄り添うことすら出来なくなってしまったのである。

「ゲリノットほどの馬なら、乗り替わりなんて何の問題もないことさ」

陣営もファンも、そしてミルズ騎手もそう考えていた。しかし…騎手が替わると同時にゲリノットは不振に陥り、全くの別馬であるかのように勝てなくなってしまったのである。連戦連敗、まるで気力を吸い尽くされた蝉の蛻のようになってしまったゲリノットの眼は、幽寂たる哀愁と寂寥感で支配されていた…。

ミルズ騎手が病床に伏している間、ゲリノットは不本意にも悪戯に敗戦を積み重ねてしまう。
主戦騎手が離れてしまうだけで、ここまで変わってしまう馬も珍しいが、ゲリノットはミルズ騎手こそ真のパートナーと理解しており、彼女にとっては彼以外の騎手に、栄光へのダンスパートナー役は考えられなかったのだろう。
ゲリノットの歯車は完全に狂い、跛行してしまったり、スタートの段階で身体の向きを変える、果てにはコースを逆走。
「貴方に何がわかるの?」
とでも言いたげにジョッキーのゴーサインすら無視するという暴挙にまで及んでしまう。

夜汽車に揺られる中、透徹たるダークスカイへ向かっていななくゲリノットは、愛しき人への慕情を哀哭する、幼気な一人の少女そのままだった。





沈痛な重い泥墨の日々。そんな闇漠とした視界が、ある日を境に一気に晴れ渡る――。

「待たせたね」

ミルズ騎手がにこやかにゲリノットへと頬笑かける。病魔に打ち勝ち、ついにベストパートナーが帰ってきたのだ。


  


                       
〔パリの界隈〕


それからのゲリノットは以前にも増して壮烈な強靱さ、パワーを見せ付けた。あたかも天馬が繋駕速歩競馬をしているかのように――。颯爽としなやかに、走路を滑走していくゲリノット。
そんな彼女も8年間にわたる競走生活にピリオドを打ち、故郷の牧場へ里帰りすると、優秀な繁殖牝馬としての務めを全うし、健やかな生活を送るのだった。
しかし、永遠の別れは突然にしてやってくる。
1970年3月、10回目の分娩の時だった…。出産がうまくいかず、痛烈な痛みがゲリノットを襲う。千波万波に押し寄せる激痛に身を悶え、のたうち回るゲリノット。壮絶な光景に周囲はただただ見守るしかなく、馬房からは悲痛ないななきだけが重く重く響き、窓を震わせていた。

ミルズ騎手が報せを聞き駆け付けた時、厩舎は沈鬱な静寂に包まれ、啜り泣く声が彼へとすべてを悟らせた。
横たわり、ピクリとも微動だにしないゲリノットへとそっと寄り添うミルズ騎手。その姿に周囲は胸をつまらせ、むせび泣いてゲリノットを偲んだ。
年老いたミルズ騎手は、とめどなく涙を流し、
「私のかわいいお嬢さん…」
と呼掛け続けていた。
天へと召された眠り姫へ、ずっとずっと、永遠に…


星屑の中、流れ往く汽笛と車窓に映る宵闇。そこへ映写される微笑のファントムこそ、老雄と令嬢の育んだ“愛情の翼”、そのものだったのかもしれない――。






  ★彡追記メモ★彡

☆ゲリノット:エゾライチョウは、10億フラン、現在の1000万フランを稼いだ。

☆彼女の人気と名声は凄まじく、花やオークトチュールのモデル、またノルマンディー地方のカマンベールの名称にも用いられたという。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 01:45 * - * - *

セメンドリア

  【セメンドリア】

  〜白雨の中の白翼〜

- 19世紀末を彩った
    フランスの女傑 -

  
父 ルサンシー
母 クザルダァス
母父 キシェベル

生年:1897年
性別:牝
毛色:芦毛
国籍:フランス
主な勝ち鞍:フランス牝馬三冠[プール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏1000ギニー)、ディアヌ賞(仏オークス)、ヴェルメイユ賞]、パリ大賞ほか

シャンゼリゼ通りに聳える凱旋門は、フランス語で“Arc de triomphe de l'Etoile”と綴られる。これは衆知の通り、ナポレオン1世率いる仏軍の戦勝を受け、これを記念するためシャルグランが考案、1836年に完成を見るに至ったものである。古代ローマの凱旋門にならい、高さ50m,幅は45mある。
壁面に描かれた“ラ・マルセイエーズ”、義勇軍の視線の先には壮観なるパリの町並みが広がりを見せている。



エッフェル塔にノートルダム大聖堂、ルーブル美術館…誰もが一度は耳にしたことがあるであろうパリのシンボルとも言えるような名所が立ち並び、今日も人々の抒情詩を受けとめる楽譜となり、佇む。
この街の空の玄関、シャルル・ド・ゴール空港では、今も人波と物資が混交し、出入を延々と繰り返している。


 〔ノートルダム大聖堂〕
                           


   
 〔ルーブル美術館〕


ここフランスには、歴史を完全なまでに一変させ、一つの時代を築き上げる程の偉大な名馬が出現している。それがグラディアテュールであり、シーバードであり、またリライアンス、サルダナパル、近年ではパントルセレブルといった辺りになるのだろう。しかし、フランスの歴史的名牝という範疇の中、革命的位置付けに置換されるべき存在となると、胸中に浮沈してくるのはアレフランス、プライサンテリエくらいなものなのである。フランス語で執筆された競馬関係の蔵書、文献が思いの外少なく、フランス人による選出の機会も少ないという所に、その遠因があるのかもしれない。しかし待ってほしい。間違いなくこのランクに充填されるべき怪牝が、19世紀末のフランスを開放的輝きで照らしていたのだ。彼女の名はセメンドリア。歴史的駿逸である彼女は、19世紀末のフランスを代表するに止まらず、世界競馬史に於いても、一つの指針となる名牝である。

競馬開催国には必ずと言っていい程、常識や科学的見識から説明のつかないような牝馬が、数十年の間隔を置いて降誕している。これについては何度となく舒懐させて頂いているが、まずそのポイントが…

(1)牡馬(当時の最強クラス)をものともしない。

(2)距離が不問である。

(3)タイトルを総なめ。

…という3つの条件を満たしている馬が、超絶的能力を包容した“奇跡の名牝”と言えよう。


話を元に戻そう。1897年、20世紀という新たなる時代の大海への出航準備に忙しく流れてゆく時の流れの中、1頭の真っ白な子馬が生まれ落ちた。白光をサンサンと放つ馬体からは、無限の可能性と幽寂な雰囲気に包まれ、触れ合う者は皆、未知の世界へ誘うかのような幼気な瞳で魅了されるのだった。

期待と怯憶が民衆の心の中錯綜し、揺れ動く世紀末のパリ。
ここを舞台に、セメンドリアは競走馬としてのスタートを切った。


〔フランスの街並み〕
                 
                     
   〔パリの界隈にて〕



競馬場を訪れていた者誰もが眼を丸くして1頭を注視していた。
「美しい…この白い馬も走るのかい?」

完璧なまでの楽走だった。手綱はピクリとも微弱にも動かず、馬なりで駆け抜けると、その玉貌を観衆へと向けるようにくるりと振り返ると、天香玉兎の無垢の瞳を輝かせるのだった。
セメンドリアの美貌と繊細なシルクを連想させる滑らかなまでの敢然たる強さに、パリジェンヌたちは舌を巻いた。2歳戦2戦2楽勝のまま迎えたフランス牝馬の第一冠、プールデッセデプーリッシュ(仏1000ギニー、芝1,600m)をキャンターのまま3馬身差で圧勝し、ディアヌ賞(仏オークス、芝2,100m)では2着馬の動きをじっくりと観察し、愛でるかのように並走を続けると、最後は全くブレが生じることなくそのままゆっくりと加速し、これまた大楽勝。

同世代の同性に敵無しであることを国中に見せ付けると、勢いもそのままに、パリ大賞(芝3,000m)へと乗り込んでいった。
今でこそクラシックディスタンスのパリ大賞だが、当時はまだ長距離志向全盛の時代。セメンドリアにとっては、一気の距離延長に加え、一流トップクラスの牡馬、しかも歴戦の古馬が相手になるという、敗戦色濃厚な試練の一戦となった。
ブローニュの木々が初夏の風にさざめく中、暢楽とした軽やかなステップでロンシャン競馬場へ登場したセメンドリアは、キラキラと繊細な光焔を馬体から開放し、ゴールを見つめていた。

人で埋め尽くされ、すし詰め状態になったスタンドからは、セメンドリアへ向けられる期待と不安の情念が渦巻き、そのムードは競馬場全体を包み込むように波及していった―。
1900年のパリ五輪を控えた中での開催となったパリ大賞。この大一番、セメンドリアは、直線を向くやいなや、白き幻影の翼を広げ、烈震を立てながらあっという間に先頭の馬を交わし去り、颯爽と楽走。牡馬や古馬が相手であろうと、長距離戦であろうと、セメンドリアの底知れぬ強さに、黒い影が頭をもたげてくる事は、決してなかった。
ところで、このパリ大賞というレースは、ドイツのバーデンで開かれた世界最初の国際レースをパリのジョッキークラブが主催し、そのバーデン大賞を真似てフランスでも開かれるようになった国際レースである。
フランスにおけるピラミッドの頂上へと登攀しきってしまったセメンドリアに課せられた使命は、本家本元である国際レースで凱歌を上げることだけだった。


少し話しを未来に…1年後の1900年へ……

…涼やかな透徹とした9月の夜空は、ドイツへと向かう輸送車の轣轆だけを受け入れたかのように静まり返っていた。
セメンドリアは国の誇りを背負った初の国際レースでも、飄々かつ淡々としており、異様なまでの落ち着きを見せていた。

レースでは直線途中から、せき止められていた全ての能力を解放せんばかりのモーションで突き抜け、歴史的勝利を手中に収めるのだった。

時を遡り…1年前のセメンドリアはヴェルメイユ賞(芝2,400m)へ出走。他馬を大きく引き離し楽勝。フランス牝馬三冠を達成するのであった。
巨大な白翼が競馬場の隅々までを覆い、祝福の声は幻翼の中、永遠に響き続けた。

           


ノートルダムの鐘の音に乗せて送られる幸せの詞が、昼下がりの白雨を呼んだ―…小さな虹がかかる頃、白い天使はフランス競馬の伝説となり、やがては遠き日の記憶として、競馬史の中、清漣に洗われるかのよう、少しずつ消えていくのだった…。


 


  ★彡追記メモ★彡

☆セメンドリアはソーマンバイの3×4、ウインドハウンドの4*5×5、ワイルドデイレェルの4×4、メルボルンの5×5、アリスホーソーンの4*5×5という超多重クロスが使われたインブリード配合で誕生した馬である。

☆セメンドリアの父、ルサンシーは、種牡馬としてフランスで大活躍。セントサイモンに並べられる好評価を受けていた馬である。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 07:30 * - * - *

デザートオーキッド

【デザートオーキッド】

〜デージィーへの手紙〜

―英国の国民的
   アイドル障害馬―



父 グレイミラージュ
母 フラワーチャイルド
母父 ブラザー

生年:1980年
性別:せん馬
毛色:芦毛
国籍:グレートブリテン及びアイルランド連合王国
生涯成績:70戦34勝[34-11-8-17]

オグリキャップ、タマモクロス、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、セイウンスカイ、クロフネ…いつの世も、強い芦毛馬というものは、絶大な人気を博すものである。他馬と異なる存在感と魅惑的な外観…そしてその異質な強さが魅力となる由縁なのかもしれない…。

競馬の母国・英国にも絶大な人気の高さを誇った芦毛の名馬が、障害界に闊歩していた。
その馬の名はデザートオーキッド。彼の人気は常軌を逸しており、現在でも彼の生涯を綴ったペーパーブックが出版、増版されたり、引退後も各地の競馬場やイベント会場へゲストとして引っ張りだこだった。70戦して34勝…障害戦のみで築き上げた戦績としては、確かに破格ではあるものの、その額面上のみから彼の人気の秘密と本質は決してみることはできない。

彼の絶世の人気の要因の一つは、まずやはりその目立つ毛色にあった。特に障害競馬では高齢馬が多い。芦毛という毛色は年を重ねるに連れ白色化に拍車がかかるため、高齢馬となると白毛と誤認してしまう程、雪のように白くなる。デザートオーキッドも例に漏れず、真っ白な馬だった。
また人気の後押しとなったのが、「障害競馬」という概念。日本や米国に比べ、ヨーロッパの障害競馬の人気は格段に高い。天と深海底ぐらいの差があると言っていいだろう。英国最大の障害レースであるグランドナショナルの関心は際立って高く、その注目度や賑わいや話題性など、すべての面において英国ダービーをも上回るほど。
そして何といっても、デザートオーキッドのその走法と戦法も人気の大きな一因となっている気がしてならない。彼はスタートからグングンと加速。大きく弾むような走りから軽やかに飛越し、その差をさらに広げてゆく…いわば、真っ白なサイレンススズカが障害競馬に現われたと考えて頂ければ、その人気の謎の一端も咀嚼できるのではないだろうか。

しかし、デザートオーキッドの本当の魅力は、そのロマンティックな生涯にあった。
1980年、この世に生を受けるも、彼は競走馬としてではなく、ハンター用として生産された馬だったのである。
そんなデザートオーキッドを障害競馬で使ってみようと考えたのは、オーナーのR.バーリッジ氏だった。デザートオーキッドは
エルスワース厩舎へと入厩し、黙々と障害レースの調教をこなし、デビューの時を待った。エルスワース氏は、調教の段階から、「コイツは只者ではない」と察知しており、入念な調整が進められ、綿密なレースプランが練られた。

待望のデビューは1983年1月21日、ケンプトンパーク競馬場でのノーヴィスハードルに確定。
このレースの最終ハードルで派手に落馬してしまう。デザートオーキッドはしばらく起き上がらなかったため、関係者は最悪の可能性を考えたが、デザートオーキッドはケロッとしており、ただ気を失っていただけだったようだった。とんだデビュー戦に終わってしまったが、エルスワース氏に落胆の色は全く見られなかった。最初のシーズンは2着1回で終わったが、1984年のシーズン初戦、アスコット競馬場で初勝利を上げてから軌道に乗り、大きく先行して大差で勝つ(この年すでに15馬身差の勝利を上げている)スタイルを確立させていった。
この年はチェルトナム競馬場で開催されているチャンピオンハードルにも出走。しかし、先行馬のドーンランに先頭を奪われ、着外に終わっている。
ところが、この後のデザートオーキッドは精彩を欠き、どうもパッとしない成績を上げるようになってしまう。これはデザートオーキッドの晩年の手綱を握ったリチャード・ダンウッディー騎手の分析であるが、ハンディキャップが重くなってしまったのと、なまじ跳躍力があるがために、小さい障害を嘗めるようになってしまったのが原因なのだという。



そこでついにフェンスデビュー(チェイスに出走)したのが1985年シーズンの半ばであった。いきなり4戦をぶっちぎり(Made all.Unchallenged.というのが正確な記録。つまり「スタートから先行して追随を許さなかった」ということ)で連勝してさらにその名を英国全土へと轟かせた。

1986〜1987年は初戦でまたもぶっちぎりの大勝。もう1勝上げた後、初めて出走したキングジョージ裟ぅ船Дぅ垢如△泙燭靴討Made all.Unchallenged.…2番手が霞む程引き離しての勝利だった。デザートオーキッドによるビッグレースでの勝利はこのとき初めて騎乗したサイモン・シャーウッド騎手の元へと転がり込んだ。競走馬生活の中で、騎手に騎乗を断られたのは後にも先にもこのときだけだというのだから、これまで主戦を務めていたコリン・ブラウン騎手にとっては何とも皮肉な話である。このシーズンは後2勝して終了。



1987〜1988年のシーズンも勝利で幕開けするも、3戦目、evens favourite(日本流でいう2倍)で出走したキングジョージ裟ぅ船Дぅ垢任蓮▲棔璽譽鵐献磧爾箸料埓笋弊萋争いを展開。疲れたところを、ヌプサーラという馬に最後から3つ目の障害で抜かれ、屈辱的な大差の2着となってしまった。その後、デザートオーキッドは汚名返上と意気込んでチェルトナムゴールドカップにも出走。しかし、チャーターパーティー、そしてグランドナショナルの勝ち馬ライムリーズンの2頭に続く3着とまたも涙を呑んだ。どうやらデザートオーキッドとチェルトナム開催は最悪に相性が悪いらしく、この年で5回目の出場だったが、一度も勝てていない。このフェスティバルで主戦を務めてきていたコリン・ブラウン騎手が引退を表明。以後、デザートオーキッドの主戦騎手にはサイモン・シャーウッド騎手に白羽の矢が立った。
鞍上が変わろうとデザートオーキッドの純粋無垢な強さとスピードが色褪せることはなかった。チヴァス・リーガルカップ(現マーテルカップ)、ウィットブレッド・ゴールドカップと連勝。名声をさらに高め、障害界のアイドルホースの道を歩みはじめだしてゆく。あのレッドラム引退後、数シーズンに渡って確実に勝ってくれるヒーローを渇望していたところに、彗星のごとく舞い降りてきたのがデザートオーキッドだった訳である。人々はそれぞれの想いを彼へ投影し、白い英雄に酔い痴れた。

1988〜1989年のシーズンには、キングジョージ裟ぅ船Дぅ坑仮〔椶鮠紊押▲▲好灰奪箸任離凜クター・チャンドラーチェイスではパントプリンスとの凄絶な死闘を演じている。最終障害から並走となり、完全なマッチレース。ゴール直前でわずかにデザートオーキッドの鼻先が前に出るという奇跡のような勝利だった。そしてこのシーズン、英国は連日の雨に見舞われ、チェルトナムゴールドカップは開催そのものが危ぶまれていた。不得手とするチェルトナムのコース。さらにその上、馬場状態は足がめり込むほど泥どろという最悪のコンディションとなっていた。この時、主催者はあまりに劣悪な馬場状態を考慮。コースを少しでも乾かすためにヘリコプターが導入された。この効果が現われたとでも言うのか、デザートオーキッドは過去の大苦戦が嘘のように楽勝し、見事チェルトナムゴールドカップを初勝利でこの開催を締め括った。

サイモン・シャーウッド騎手の勇退により、主戦ジョッキーは2度目の交替となった。選任されたのはリチャード・ダンウッディー騎手。

障害馬としてピークを迎え、競走馬生も晩年に差し掛かった頃、デザートオーキッドの名を知らない者などイギリスにいなくなっていた。国民的スターとなり、競馬を知らなくてもデザートオーキッドの名前は知っている、普段馬券は買わないがデザートオーキッドの出るレースは必ず買うという一般大衆が、競馬ファン人口を上回っていた。
キングジョージ裟ぅ船Дぅ垢鬚気蕕2勝。さらにはアイリッシュ・ナショナルも制し、最高の障害ホースとして君臨した。



しかし、どんなスーパーホースでも引退の時はやってくる。最後のレースとなったのは、91年のキングジョージ裟ぅ船Дぅ后4餠なことに、デビュー戦を迎えたケンプトンパーク競馬場でラストランを迎えることに。
このレース、最後から3つ目の障害に差し掛かった時だった…飛越に失敗し、あのデビューの時と同じように落馬してしまったのである。観衆からは、悲鳴ともとれる大きな呻き声が漏れた。しかし、幸いにもデザートオーキッドに怪我は無く、ジョッキーも無事だった。
話にはまだ続きがある――…デザートオーキッドはカラ馬となるも、立ち上がってゴールを目指したのである。その光景に誰もが胸打たれ、レースの勝者より遥かに大きな歓声がデザートオーキッドへと上がったという(この時の勝ち馬ザフェローは翌年もこのレースに勝っています)。


運命とは不思議なもので、最初と最後のレースを同じ競馬場で走り、どちらも落馬で終わった。
デザートオーキッドは、引退後、悠々たる余生を送り、チャリティなどの催しで姿を見せると、大観衆を集めた。

そんな彼を、突然の病魔が襲う。疝痛に倒れたのである。手術の成功率は20%と言われた。

「デージィー、早く元気になって!」

「手術の成功、心から祈っています」

全国からはデザートオーキッドへ励ましの手紙が殺到した。その中には海外からのものもあり、オーストラリアから届いた一通には、

「厩舎で休んでいるデザートオーキッド様イングランド」

という表書きで投函された手紙も無事届いたという。こうした現象はハイセイコーやディープインパクトなどにも見られたが、海外から送達されただけに、スケールがでかい。
名馬への想いは、万国共通という訳である。



祈りが天へと通じたのだろう…手術は成功。
その後のデザートオーキッドは、競馬場やイベント会場へ招待され、ファンを沸かすなど、引退後もその人気が衰えることはなかった――。


時は流れ、2006年11月13日の早朝、彼は白い巨翼を目一杯に広げ、天へと翔ていった…。
窈窕な白馬が残し去った伝説は、競馬の母国のみならず、全世界で語り継がれている。



「デージィー、ありがとう!」


  ★彡追記メモ★彡

☆デザートオーキッドは、“Dessie”というニックネームで親しまれていた。

☆以下に記したのが、デザートオーキッドの勝った主要レース一覧。

King George VI Chase(Kempton Park)4勝(86、88、89、90)、Cheltenham Gold Cup(Cheltenham 89)、Whitbread Gold Cup(Sandawn Park 88)、IrishNational(Fairyhouse 90)各1勝ずつ

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 04:44 * - * - *

Gladiateur

【 グラディアテュール 】

  〜伝説の剣闘士〜



父 モナルク
母 ミスグラディエイター
母父 グラディエイター

生年:1862年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:フランス
競走成績:19戦16勝[16-0-1-2]
主な勝ち鞍:英国三冠{英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー}、パリ大賞、アスコットゴールドカップ、ラ・クープ、アンペラトリス大賞、ドンカスターS、ニューマーケットダービー

フランスには、100年の間隔をおいて究極のサラブレッドが降誕している。一頭が1962年生まれのシーバード(紹介済み)、そしてもう一頭が本馬グラディアテュールということになる。

2頭には共通する部分が幾つもある。まず血統がとても一流とは言えない貧相なものであったことだ。
シーバードの母系は5代前まで遡っても平地競走での勝ち馬が見当たらず、グラディアテュールの場合近親にほとんど活躍馬の出ていない無名血統だった。
2点目は国際的大活躍をしたという点。シーバードは英ダービー、凱旋門賞という2大レースを大楽勝。グラディアテュールもイギリスではじめての外国産馬による英ダービー制覇という歴史的快挙を成し遂げている。
そして最後の3点目は、両馬とも痛ましい悲劇の最期を迎えているという点である。シーバードはあろうことか食肉工場へ売り飛ばされ、グラディアテュールは…。あまりにも酷い歴史的英雄の最期は、本編の最後に記したい。

1862年、フランスはダンギュ牧場に大きく脚が湾曲したみすぼらしい牝馬から1頭の巨大な子馬が生まれ落ちた。母の名前ミスグラディエイターからの連想で、“グラディアテュール”(「剣闘士」)と命名されたこの子馬は、血統相応の気品に乏しい馬で、未成熟なまま身体だけが発達したかのような、巨体を持て余し、胴の長い貧相な外観をしていた。
誰からも期待など寄せられなかったこの馬に、突然の災難が舞い込む。ある日、母ミスグラディエイターがグラディアテュールと馬房で和んでいる時のことだった。ミスグラディエイターは誤って愛くるしい子供の右前脚を踏んでしまう。この惨事により、グラディアテュールは一生を跛行で悩まされることになってしまい、十分な調教を消化することもままならぬことになってしまうのであった。

そんな災禍の下、1歳を迎えたグラディアテュールは、コンピェーニュの森で調教を施される。4〜5頭で森の中を併走するという調教がクリスマス前まで続けられる。この森林調教により、グラディアテュールは颯爽かつ闊達とした動きを示すようになり、馬主であるコフレデリック・ド・ラグランジェ伯爵と調教師のトム・ジェニングス調教師が行う最終選定調教にまで残るまでの目覚ましい成長を遂げていたのだった。




1864年、グラディアテュールは慎重に調教を施され、10月11日のニューマーケット競馬場へと姿を見せる。クリアウェルS(芝1,200m)を大きなモーションから繰り出される圧倒的パワーを見せ付け、ジョーカーという馬に1馬身差つけ楽勝で初陣を飾った。2走目となったのが初出走からわずか3日後のプレンダーガストS(芝1,200m)となったが、体調不良のため3着と惜敗。3戦目は10日後のクライテリオンS(芝1,164m)だった。この時、グラディアテュールは体調が整わなかったことに加え、跛行の悪化で歩く事もままならなかったという。そのためレースでも全く良い所無しの着外に大敗している。
しかしまだこの時、グラディアテュールは自身に眠らせている巨大なるポテンシャルをまだ1ミリも使いこなせていなかった。それはグラディアテュールが成長期に差し掛かる時期にあったことや、その使用距離により、超神的能力に蓋がされていたと考えるのが妥当なところだろう。


春風の訪れと共に、グラディアテュールは六ヵ月間の冬休みを終え、厩舎へと戻ってきた。休み明けのグラディアテュールに、ジェニングス調教師は過酷な試練を与える。厩舎ナンバー1と目されているルマンダリンとの併せ馬調教がそれだった。しかも、グラディアテュールには8kg以上ものハンデが背負わされていたという。しかし、グラディアテュールは馬なりのままグングンと猛進し、10馬身差もの大差をつけルマンダリンを置き去りにしてしまった。この衝撃のシーンを目の当たりにしたジェニングス調教師は、トライアルを使わずクラシック第1弾の2000ギニーへ向かわせることを決意したという。

5月2日、久々にニューマーケットの馬場を踏んだグラディアテュールは、誤算に苛まれていた。十分な調教が全く行えず、さらにその上、またも体調が完調まで仕上がらない。こうした苦況に加えて跛行もひどかったため、ゴール前で息が上がってしまうとジェニングス師は読んでいた。この大ピンチをジェニングス調教師はとんでもない機転を利かし、乗りきってしまう。現在では門前払いとなりそうな話だが、ジェニングス師は「とてもみっともない馬なので、とてもパドックでは見せられません」と主催者側に申請し、パドックに姿を見せず、スタンドから遥かに離れたコース上で装鞍が行われ、グラディアテュールはスタミナの浪費を抑えることに成功。レースは薄氷を踏むかのようなクビ差の辛勝だったが、最後の最後、師の機転を利かせた秘策が功と出た結果が勝利を呼び込んだのであろう。この歴史的勝利の瞬間、グラディアテュールはフランスの英雄となった。フランス産馬史上初の英クラシック優勝という、歴史的快挙の達成。フランス人は歓喜の渦へと飲み込まれた。この勝利を祝い、街は夜を撤した宴に暮れたという。

グラディアテュールがエプソム競馬場へ降臨。圧倒的1番人気の支持を受けての英ダービーとなった。後方から悠然たる脚取りでレースを進めると、直線コースで神懸かった超然たる末脚を爆発させ、クリスマスキャロルに2馬身差で優勝。英ダービーにおける、史上初となる外国産馬による快挙達成だった。

   

ウイニングランを経て、メインスタンドへ戻ってきたグラディアテュールを迎えたのは、万感万雷の拍手喝采と称賛と賛辞の嵐だった―。厳重な警備体制が敷かれていたが、フランス産馬である事など誰しもが忘れ、全観客がスタンディングオベーションで迎え入れたのである―。故国フランスでは、イギリス競馬の象徴とも言えるダービーに勝利したことで、国を上げての盛大な宴が、何日にも渡って催されたという。民衆がここまで歓喜乱舞した背景には、当時の政治的情勢の敵国だったイギリスへの情念がちらついている。
またオーナーのラグランジェ伯爵がナポレオンの将軍の子息で、ナポレオン3世国王陛下の親友でもあったことから、この勝利をフランスの新聞社が「ワーテルローの復讐」と書き立て、半世紀前の溜飲を下げた。ワーテルローの戦い―…1815年、ナポレオンが英を中心とする同盟軍に大敗したあの無念を晴らしたというのだ。

グラディアテュールの注目の次走がパリ大賞(芝3,000m)と発表された。これにフランス国民は熱狂。なんと15万を超える大衆がロンシャン競馬場へと詰め掛けた。お目当てはもちろんただ1頭、究極英雄グラディアテュールだ。レースではグラディアテュールが4コーナーで8馬身差も離された後方から一気に突き抜け、ゴール前では8馬身の大差を突き付けていた。これに感極まった観客が同馬の勝利を祝福しようと柵を押し倒し馬場へと傾れ込み、グラディアテュールを取り囲むように祝辞と称賛の言葉を並べた―。フランス革命以来の熱狂と興奮がそこにはあった――。その荘厳なる光景は、秉燭が訪れ、夕闇がブルゴーニュの森を包み込むまで続いたと伝えられている。

その二ヵ月後、7月25日のドローイング・ルームS(芝2,000m)では宇宙まで突き抜けてゆくかのような、猛烈なスピードで駆け抜け、40馬身差という超大差勝ちを記録。これを目撃した他陣営は震え上がり、翌日に出走したヴェンデイングメモリアルS(芝2,400m)では全馬が回避してしまい、単走となってしまう。
しかしこの時、グラディアテュールの右前脚は悲鳴を上げはじめていたのである…。歩く事もままならないまま出走を迎えた三冠最終戦のセントレジャー(芝2,920m)。英オークス馬のレガリアが挑んできたが、グラディアテュールの敵は爆弾を抱えた自分自身の右前脚だった。その脚をかばうかのように馬なりで終始レースを進め、レガリアを3馬身差に沈める。フランス産史上初、史上2頭目の三冠馬誕生だった。

脚が極限の限界状態を迎えていたにも関わらず、グラディアテュールは三冠達成から僅か2日後のドンカスターS(芝2,400m)へ出走した。ジェニングス調教師は、「単走になるだろう。それならゆっくり走って賞金を稼げる」…こう読んでいたようなのだが、大誤算が発生する。なんとレガリアが再戦を叩き突けてきたのである。今度ばかりは出走回避をジェニングス師も考えたが、グラディアテュールは闘気のオーラを全身から発散させ、気合いに満ち、競走意欲に溢れていたという。この強固な意志を尊重し、レースへ向かわせると、キャンターでレガリアをちぎり捨て舞い戻って来た。すると不思議な事に、脚の腫れが嘘のように引いていたという。そんな逸話が残されている。

三冠馬としてフランスへ凱旋すると、プランス・アンペリアル大賞(芝3,200m)へ出走。当然のごとく楽走でレースを終え、ニューマーケット・ダービー(芝2,400m)へ参戦すると40馬身差の超圧勝で締括る。続くケンブリッジャーS(芝1,816m)で謎の敗戦を喫することになる。おそらくその敗因は主戦ジョッキーであるH.グリムショー騎手の近眼にあったものと思われる。彼は自らの近視からペース判断を見誤ることがあった。1,800mという距離で大差離されて追走していては、さすがに厳しいだろう。これが最後の敗戦となった。

4歳を迎えたグラディアテュールは、ダービー・トライアルS(芝2,400m)とクラレットS(芝、距離不明)で脚を慣らし、アンペラトリス大賞(芝5,000m)とラ・クープ(芝3,200m)を大勝。その勢いを風に乗せ、最強古馬決定戦のゴールドC(芝4,000m)へ。
このレースがグラディアテュール神話の究極の一戦として語り継がれることとなる――。

グラディアテュールは先頭をゆくブレッダルベーンから離され続けてゆく…その差40馬身。坂の下りで抑えられた時には100馬身もの差が開いてしまっていたという…。さらに差は広がる一方で、一番差がついた時にはもはや馬身差には換算できず、約300m以上の差があったという。しかし、グラディアテュールは仕掛けられると、もはや生き物とは思えない敏捷なモーションで軽快なフットワークを刻み、見る間に差が詰まってゆくと、直線へ入る前に全馬を飲み込んだ――。グラディアテュールが「光の剣」をかざす―。剣閃はアスコットを貫き、ゴール板へ剣が突き刺された―…40馬身差の超大差勝ち。俄かには信じがたいパフォーマンスである。
光と影。競馬史に残る燦然たる栄光の後、大きな不幸が陣営を襲う。主戦のグリムショー騎手が、このレースの帰り道に馬車で転倒し、25歳のあまりに短い生涯を閉じることとなってしまったのである。

しかし、歴史的英雄に悲涙に暮れる時間は与えられない。彼には大いなる未来へとはば立つための、最後のレースが眼前に迫っていたのであるから――。
1866年10月7日、ラストランにしてグリムショー騎手の弔い戦にして引退レースとなったアンペルール大賞(芝6,400m)を3馬身差の快勝で締め括り、見事有終の美を飾ったのだった。


しかし―――……

…―ターフを去ったグラディアテュールに、華やかな種牡馬生活が訪れることはなかった。産駒は全くと言っていい程結果を残せず、別の馬主へと盥回しされ、挙げ句の果てには馬車馬として奴隷のように酷使された…生涯悩まされていた脚の腫れが悪化していたにも関わらず…である。そして1876年、余りのひどい扱いについに最期は立つこともできなくなり、同馬の最後の所有者関係者の手により、安楽死処分が取られた…フランス史上最高の英雄は、誰にも看取られることもなく、闇の彼方へと去ってゆき、伝説は神話となっていまへと語り紡がれている…――。




  ★彡追記メモ★彡

☆1865年の仏ダービーは、グラディアテュールに調教で大敗したルマンダリンが圧勝。2、3着馬もグラディアテュールとともに最終調教選定に残った2頭であった。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 05:51 * - * - *

ハンス

    【ハンス】

  〜賢者かく語りき〜

 

父 ?
母 ?
母父 ?

生年:189?年
性別:牡
毛色:鹿毛?
国籍:ドイツ
生涯成績:〆

馬は古来より、不思議な能力を持っているとされている。
ディープインパクトのように反則的競走能力を示す馬、セクレタリアトのように馬とは思えないまでの超次元の身体能力を示す馬もいる。サラブレッドに限らず、馬は特殊な能力を備えている。そんな中でも、ほとんど説明がつかないような行動を示した例が数多く報告されてきている。幽霊が出ると噂されている場所を通ることを馬が嫌がったという話もある。また、馬が危険を予知する能力を持っていたり、取り扱う者や、騎乗者の感情まで読み取ることができるという説もある。
馬には人と同様、味覚、触覚、聴覚、嗅覚、視覚の、いわゆる五感が備わっているのだが、馬のこれら5つの感覚は人よりはるかに優れている。そのうえ、まだ未知な第6番目の高度な感覚が馬にはあるらしい。

世界各国から馬の魔可不思議な情報が寄せられる中、1890年代のドイツから信じられない報せが届いた。
なんと、“計算ができる天才馬”がいるというのである。近年、チンパンジーが数字を理解し、計算するというニュースが飛び込んできた時はあるが、1世紀前にこのような超能力を備えた馬が実在していたのだ。

この馬の名は『ハンス』といった。「賢い」を意味する「Kluger」や「Clever」を付けて「Kluger Hans」、「Clever Hans」と呼ばれ、一躍人気を博した。


1891年のとある日、調教師ウィリアム・フォン・オステン調教師が遊び心に簡単な問題を出してみると、蹄を叩く回数でその答えを出してしまったという。これが人々の口伝えに広まり、風に乗って噂は遠方にまで轟いていった。





この学者馬ハンスを一目見ようと、たくさんの観衆が集まると、オステン調教師は「それならば、みんなにも見せてやろう」快くハンスの計算ショーを披露。次々と出題される問題を快刀乱麻に正答し続けるハンスに、紳士が、貴婦人が拍手でハンスを褒称した。


ハンスの計算ショー

賢馬ハンスを知らない者はドイツに皆無となった1904年、ついにハンスの調査がカール・シュトゥンフ氏らによって行われたものの、トリックなどは一切見つからず、「真の天才ホース出現!」と大騒ぎになり、世界的にも有名になった。しかし、この後も科学のメスは入り続け、ある時、アルバート・モール氏が飼い主の動きをハンスが追っていることを指摘。1907年にはさらに入念な精査が行われ、ついにハンスがどのように答えを知っていたかが解明された。この謎を説き明かしたのは、オスカー・フングスト氏。
それでは、超天才馬ハンスの秘密を、ここで明らかにするとしよう。

いつものように計算ショーを行っていたところ、ある問題で観客や飼い主、出題者、その場に居合わせた誰にも問題が分からないように出題(あらかじめ問題を紙に書いておき、出題者はそれを見ずに出題する。あるいは、出題直後、すぐに立ち去る、という方法)すると、それまでの冴え渡る回答が影を潜め、答えられなくなってしまった。つまり、ハンスは答えを知っている出題者や、調教師、そして観客の表情や息遣いから答えを察知し、蹄を叩いていたのである。要するに、計算ができるのではなく、回りの雰囲気を敏感に察知することに長けた馬だったという訳である。


しかし、よくよく考えてみれば、計算はできなくとも、数字を理解していたということが証明され、やはりハンスは学者馬だと、その名声はハンスの秀逸な察知能力と共に学史に名を残すのだった。



                            



  ★彡追記メモ★彡

☆今日、馬の見せる雰囲気を感じ取る現象を「クレバー・ハンス効果」と呼ぶ。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 03:19 * - * - *

シロッコ

   【シロッコ】

  〜熱風のララバイ〜

 

父 モンズン
母 ソーセデュラス
母父 ザミンストレル

生年:2001年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:ドイツ
生涯成績:13戦7勝[7-1-3-2]

“ドイツ競馬の結晶体”、そう称賛されるべき程の名馬。ドイツダービー馬としては史上最上級の活躍を果たした。またアカテナンゴ、ビルカーハン、オレアンダーら、ドイツが誇る最強馬らと比較しても、その力は互角以上のものがあり、ネレイデがいるだけにドイツ史上最強馬と断言はできないが、その領域には到達していると言えよう。

シロッコは2001年の4月10日、ドイツのジョージ・V・ウルマン男爵の下へと降誕。父モンズンは独GIを3勝し、種牡馬として大成功している馬である。さらに、その父系を見るとドイツ競馬唯一の三冠馬コニングストゥール(20戦11勝)が顔を覗かせる。一方、母系もこれまた秀逸で、母ソーセデュラスはドイツダービー2着のズビアコ、同レース3着のストームトゥルーパーを輩出し、2004年にはドイツ最優秀繁殖牝馬に選出されている。しかも、ソーセデュラスは輸入馬ではなく、ドイツで走った牝馬で、まさにドイツ競馬のすべてを集約したような血統を持っているのがこの馬なのである。

シロッコはアンドレアス・シューツ厩舎へと入廐。順調に調教をこなし、デビューを迎えることになる。デビュー戦は2004年の3月27日、クレフェルド競馬場のシュヴァネンマルクト賞(芝2,200m)。4頭立ての重馬場というシロッコにとっては好条件が揃っていたが、まだ有り余る資質を眠らせたまま走っているという感じのレースで、惜しくも2着に敗れた。
しかし、シューツ調教師はこの馬の眠らせたポテンシャルに気付いており、2戦目を未勝利にも関わらず、いきなりの準重賞であるダービートライアル(芝2,200m)へと出走させた。シロッコは明らかに他馬とは異なる光を放出しており、レースでも7馬身差という大差をつけ、楽々と1着となった。3戦目は伝統のG2戦ウニオンレネン(芝2,200m)。3着に甘んじてしまうが、ダービーを見据えた敗戦だったように推察される。そして、2004年の7月4日。シロッコが頂点へ君臨する日がやってくる。ハンブルク競馬場の芝は渋りに渋って、極悪の不良馬場へと変貌していた。しかし、シロッコにとって、これが追い風となった。シロッコは最後の直線、風に乗るかのような、ホバリング走法で4馬身差の圧勝劇を披露した。この勝利により、シロッコは一族の無念を、一気に卓越風で吹き飛ばしたことになった。それと言うのも、父モンズンは独ダービー2着。兄弟たちも2、3着と、涙を呑んでいたのだ。

ダービー後、一息入れられ、始動戦はいきなりのドイツ最高峰、バーデン大賞(芝2,400m)に照準が当てられた。結果は3着に終わるも、休養明けかつ、初となる古馬、しかもそのトップクラスとの対戦だけに、まったく悲観する者はなく、むしろ大崩れしないその安定感に、明るい未来を期待させる一戦となった。
凱旋門賞出走が選択肢の一つに浮上するも、シロッコの苦手となる固い馬場状態が懸念され、イタリアのGIジョッキークラブ大賞(芝2,400m)への参戦が決定される。ここにはエレクトロキューショニスト(後にゼンノロブロイ、カネヒキリを退ける。2006に年ドバイWC制覇)やヴェルメイユ賞馬スイートストリームらが顔を揃えたが、最後はシロッコが叩き合いを制し、幕を閉じた。

2005年、シロッコに大きな転機が訪れる。フランス、A.ファーブル厩舎への移籍である。
すべては世界最強となるための英断だった。移籍初戦はほぼ一年ぶりとなった9月のフォア賞だった。まだ慣れない環境下で長期の休み明け…さらにはメンバー構成を熟慮すれば、同レース3着、そして初となる着外(4着)に終わってしまった凱旋門賞にも納得がいく。
シロッコは季節風に身を任せ、大西洋を横断。アメリカ合衆国の地を踏んだ。米国競馬の祭典・BCへと出走するためである。レースにはキングジョージをはじめとする大レースを勝ちまくるアザムールが1番人気に推され、誰もが彼の勝利を確信していた。しかし、ドイツダービーの時に同じ。ターフに熱風が吹き荒れた。
シロッコが先行し圧勝。ついに、シロッコが覚醒を遂げたのだ。ドイツ産馬として初のBCウイナーに輝いたのである。
南から吹きさぶ主風が、帆船のセイルを慌ただしく揺らしていた。その温かな風は、来るシロッコの快進撃を予告しているかのようだった――。

2006年、シロッコはジョッキークラブS(芝2,400m)でこの年のスタートを切った。宙を浮くがごとく、熱風を纏い、ホバリングするシロッコ。ほぼ手綱が動かない程の大楽勝。2着馬に3・1/2馬身差をつけていた。さらに、コロネーションカップではウィジャボードをはじめとするヨーロッパの強豪相手に楽走。


                                


熱風を纏い、宙を舞うシロッコ。キングジョージを回避し、凱旋門賞へとターゲットを絞ることになる。この頃になると、シロッコは前年の凱旋門賞馬で愛ダービー馬であるハリケーラン、日本が生んだ「世紀の天馬」にして史上最強の三冠馬ディープインパクトと並んで、3強と称されるようになっていた。
フォア賞でハリケーランを下し、あとは本番を制するだけだった。

10月1日、凱旋門賞。世紀の世界最強三強の激突となったこの日、ターフに熱風は吹かなかった。シロッコは謎の失速を喫し、生涯最初で最後の惨敗(8着)を経験することになってしまうのだった。勝ったのは、同廐の3歳馬、レイルリンクだった。

シロッコはこの凱旋門賞を最後に引退。ドバイのモハメド殿下にトレードされ、ニューマーケットのダルハムホールスタッドで種牡馬入りすることに。


夢と希望の風を纏い、今日から明日へ…。
あたたかな風が吹く…
サハラ砂漠から地中海へ…“耳をすませば”聞こえてくる…熱風の囁きが、ターフを冴え渡る“Shirocco”となって。


  ★彡追記メモ★彡

☆シロッコの手綱はドイツ時代は全鞍スボリッチ騎手が、フランス移籍後は'05年の凱旋門賞を除き、全鞍スミヨン騎手が騎乗している。

☆シロッコの名は父モンズンから同じ卓越風であるシロッコを連想したもの。

☆シロッコとは、“shirocco”と綴る。地中海沿岸を吹く高温の南風で、特にシチリア及び南イタリアの乾燥した風が有名。

☆「シロッコ」は国、地域により呼び名が異なり、イタリアでは“scirocco”、アフリカでは『ギブリ』と呼ばれている。これは『天空の城 ラピュタ』、『となりのトトロ』、『風の谷のナウシカ』、『魔女の宅急便』、『耳をすませば』、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』などで知られる宮崎駿雄監督のアニメ映画の製作所スタジオ・ジブリの語源でもあるという。

奇跡の名馬 (仏国・独国・伊国・愛国の名馬) * 07:13 * - * - *

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