カマレロ     ―Camarero―  

 【 カ マ レ ロ

   〜56の栄光

世界競馬史上
  最多連勝記録保持馬




父サーティーン
母フリントメイド
母父フリントショット

生年:1953年
性別:牡(セン馬)
毛色:黒鹿毛
国籍:プエルトリコ
生涯成績:77戦73勝[73-2-0-2]

カリブ海周辺に浮かぶ島々の競馬は海風に吹かれ、潮騒に耳を傾けながら多種多様な名馬を贈り出してきた。それはジャイマイカへと降舞し、三冠馬となった奇蹟の魔法少女シンプリィーマジック…英領ヴァージン諸島に出現しサイテーションの連勝記録を登攀したアクトスペクテーション…さらには世界競馬史上唯一・双子の牡と牝から生まれた(つまり血統中すべてがクロスされている)グレナダ島の牝馬マーメイド…さらにはセントヴィンセント・グレナディーンに生を授かり、カリブ海域を転戦したレジェンド…ドミニカ調教馬として始めてカリブダービーを制したシコティコ…。
とりわけ、プエルトリコには驚愕の競走成績を紡ぎ上げた伝説の名馬たちが競馬の神に召喚されるかのように誕生。159戦137勝のガルゴジュニア、324戦197勝のコリスバールら世界最多勝利記録を打ち立てた偉大な2頭…そして世界競馬史上に残る名馬と言えば、やはりカマレロということになろう。
何しろ残し去ったその戦歴があまりにも凄まじい。唯一無二の閃光を今もなお解き放っている。77戦73勝…この勝率も歴史的ものに違いないが、史実に残るこの記録の前にはあらゆる記録が影へと埋没してしまう――。

猝鞠圓56連勝

あのハンガリー奇跡の名牝キンツェムの54戦全勝をも凌駕するという、俄かにはとても信じられない大記録。この記録は今だ破られていない。近代競馬において無敗のまま勝ち続けるということは不可能に近く、日本記録も地方競馬の19連勝、国営時代のシュンエイがマークした20連勝が最高であることからも、この56連勝神話を崩壊させることは、もはや到底たどり着く事のできない世界の果ての話のような感覚である。


  
〔56連勝記録時の記念撮影〕

勝ち続けるということは、何よりも難しい。他の競技に準えて見れば、なおのことカマレロのレコードは輝きをましてゆく――。例えば、プロ野球の連勝記録は「18」。南海ホークス(現ソフトバンクホークス)が記録した1954年8月22日〜9月21日のものと、千葉ロッテマリーンズの前身である大毎オリオンズ(1960.6.5〜29、1引き分け挟む)の18連勝が最高とされている。またサッカーの代表チームでは2009年にスペイン代表が記録した「15」連勝というもの。あの憎たらしいほど強い朝青龍でも「35」連勝が最高なのだから、やはり56連勝というのは出色のものだ。競馬においてはなおのこと、何人(馬?)たりとも侵犯することを許さぬ神の領域と言っても過言ではない。


  
〔無敵艦隊スペイン。ユーロ優勝を境にチームは完成された〕


          
〔50戦全勝。伝説のボクサー、ロッキー・マルシアーノ。これもとてつもない記録だ。あの映画『ロッキー』のモデルにもなった人物である〕


カマレロがデビューしたのは1953年で、この年だけで早くも18連勝。さぁこの時点でサイテーションやサイレントウィットネスの記録を抜いてしまった。もちろん世界の一線級で記録した2頭と同列に扱えないのは百も承知だが、敢えて引用させて頂きたい。翌1954年はプエルトリコ三冠を含み19連勝、通算37連勝!そうして迎えた世紀の瞬間…1955年、ついにカマレロは76年の時空を超え、歴代最多連勝を達成。小さな競馬場へと詰め掛けた大勢の人々が、喜色満面の笑みで、祝福の声と拍手とを、このポニーのように小さな競走馬へと捧げた――。


   
〔カマレロの本。あまりの活躍ぶりにプエルトリコでは国民的英雄に〕

この年は32戦して29勝。はじめて敗れてしまった時は、競馬場全体が沈黙に包まれ、皆沈鬱な表情で項垂れていたという。
1956年は8戦して7勝。さぁもう一度連勝記録を重ねようか…という時だった。あまりの連戦に疲れ果ててしまったのか、カマレロはキンタナ競馬場の馬房の中、グッタリと横たわり、ピクリとも動かなくなってしまった。詳しい死因は不明なのだが、過労により誘発された疾病による死亡だったのではないかと言われている。

カマレロは“給仕”という意味で、その名の通り、ただひたすら従順なるままに人に尽くし果たした馬だった。彼は56の栄光瓩寮茲鵬燭鮓たのだろうか――。

カマレロはいま、競馬場にその名を刻み、さらにはレース名にもその名を残し、銅像へと姿を変え、“56”の、その先へと進もうとする勇者の来訪を心待ちにしている。



〔そっと佇むカマレロの銅像〕


永遠と打ち寄せる漣…
白い砂浜をそよぐ微風…




世界競馬史に燦然と煌く奇蹟の残光…
偉大なるカマレロの神話を、ここに記す――…・・・。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 05:35 * - * - *

カーニバルメシア  

 【カーニバルメシア】

〜 海風が雲母と光る時 〜

 ― 新世紀の三冠馬 ―



父 フレッシュリースクゥイーズ
母 レディオブザモーメント
母父 モーメントオブホープ

生年:1998年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:トリニダード・トバゴ
生涯成績:40戦12勝[12-12-12-4]

カリブ海の小アンティル諸島南部に浮かぶ島国であるトリニダード・トバゴは、隠れた名馬の宝庫である。カリブ海の名馬と言えば、世界記録トリオであるカマレロ(56連勝世界記録)、コリスバール(324戦197勝。世界最多勝)、レノックスバー(一年で56戦46勝)やジャマイカ三冠を圧勝した西インド諸島史上最強の女傑シンプリィーマジック、バルバドス三冠の女王ゾウクが有名だが、ここトリニダード・トバゴにも世界へと飛翔すべき逸材、駿馬が続々と出現している。


★トリニダード・
    トバゴの殿堂馬★

†エアロフォース
 1952年生まれの鹿毛の牝馬。英国産。31戦11勝。

†ブライトライト
 1949年生まれの鹿毛の牝馬。セントヴィンセントおよびグレナディーン諸島生産。
 (紹介済み)

†ブラウンボンバー
 1940年生まれの黒鹿毛の牡馬。33戦18勝。

…etc.

トリニダード・トバゴの表彰馬は全馬で15頭になるのだが、中でも強烈な烈光を放っているのがラステファールとロイヤルカラーズ、そして外国産馬というカテゴリーからメントーンの3頭。これら3頭はぜひ覚えておきたい名馬として列挙されてくる。
ラステファールは1937年に生まれた栗毛の牡で、98戦30勝2着26回3着15回という宙海烈震の戦績を刻んだ駿足で、ロイヤルカラーズは本国だけでなく南カリブ最強とまで謳われるほどの怪物。1979年に生まれ、大レースを鯨飲しまくった。
そしてメントーンは英国で生まれ、はるばると渡来。18戦13勝と、ほぼ敵なしの快進撃を展開し、内国産馬を震え上がらせた。

さて、わが国にサンデーサイレンスが降臨し、世界を一変させてしまったように、どの国にも歴史的変革を齎す種牡馬というものが、必ず決まって存在している。
トリニダード・トバゴにおけるその神馬はフレッシュリースクゥイーズということになろう。フレッシュリースクゥイーズは1987年に米国はピンオークファームが生産した栗毛馬で、引退後トリニダードへと輸送されスタッドインするや、次から次へとステークスウィナー、GIホースを輩出。そしてその集大成として天授されたのが、本馬カーニバルメシアなのである。

2000年のミレニアムイヤーの11月18日、ダートの1,150m戦に登場。荘厳なる面持ちと異様なまでの威圧感を放散しつつ現れたカーニバルメシアは大本命に推され、軽く拭き流す大勝を演じ、絶好のスタートを切るのであった。
順調に勝ち上がり、翌2001年は爛肇螢廛襯ラウン瓩噺世μ召琉貘腑廛蹈献Дトを完遂すべく鋭利躍進してゆく。
1,300mの始動戦を辛くも競り勝つと、その25日後、1,750mの一般戦でもったまま2着ヘイルザグルームを3馬身差もぶっ千切る快勝劇。勢いはさらに加速し、WITRAスタリオンS(ダ1,350m)では相手を見ながら3/4馬身差キッチリと突き放しゴールラインを過ると、いよいよ始まる三冠ロードへ向け、英気を養うべく休養に入った。

カリブの太陽は一年を通しギラギラとした炎陽を失わず、島民と鼓舞する。
遠い青空にモクモクと沸き立つ積乱雲が何か忙しく動いているように見える。
パイナップルカートを牽く古翁が、何かふと思い出したように手を休め、ラジオに耳を傾けた
そう、いよいよ新世紀英雄の伝説が幕開けを告げるのだ。





第一関門イースターギニー(ダ1,800m)。休み明けも全くのノープロブレム。ブラッシングブライドに1・1/2馬身差つけ快勝。まずは一冠…安堵感と未来への大望が島中を包む中、セルリアンブルーの青空へと勝利の咆哮を高らかに上げるのであった。
天命の第二冠。ミッドサマークラシック(ダ1,900m)は7月19日に開催された。ここはファントムメナスという馬と叩き合いとなり、最後の最後、力の差異を決定的に見せ付けるようにメシアが頭差で激勝。
そうして終に迎えたるはロイヤルオークダービーS(ダ2,000m)。この日は何もかもが劇的な一日となった。競馬場は新たなる時代の寵児を一目焼き付けるべく、また新たなる世紀の瞬間を見届けるべく結集した島民でごった返していた。
昼下がりの南風が海鳴りとなって競馬場へ静かに反響する。
不可思議な色を呈すその空間へと、ついに新世紀救世主が飛来。大歓声を後押しに、ゲートを擦り抜けたメシアは何の迷いもなく、まるで天使に誘われるかのように、史上9頭目となるトリニダード三冠の“結晶”板を一陣の烈風となって過ぎ去っていった――。
喝采と祝音を告げる拍手のさざめきは、カーニバルメシアが姿を消してからも続き、それはまるで島全体を抱擁しているかのようだった。

こうして誕生した21世紀最初の三冠馬は、その後も崩れることなく競走を続け、いつしか島の民俗となり、信頼を裏切ることのない最強の“救世主(メシア)”となっていた。馬券圏外に敗れ去ったのはわずか4回。トリニダード競馬史上最高の種牡馬であるフレッシュリースクゥイーズへと“三冠”の称号をもたらしたトバゴの最強馬。


偉大なる島の三冠馬であり、象徴そのものである彼こそが、トリニダード史上最高の名馬だと信じる島民は現在でも多い。

海鳥が運ぶ潮風がキララと輝きをはなつ――



メローイエローの聖櫃を疾風となって劈いていった新世紀のロンギヌス。
爛瓮轡↓瓩魯▲淵燭遼気砲い襦宗宗宗


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奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 00:38 * - * - *

ジョニーウォーカーレッド

【ジョニー
   ウォーカーレッド】

 〜碧い海を見つめて〜

― 孤島の小さな乗用馬 ―



父 ?
母 ?
母父 ?

生年:?
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:ケイマン諸島
生涯成績:〆

グランド・ケイマン、リトル・ケイマン、ケイマンブラックの3島からなる西インド諸島西方、キューバの南方に位置する英国領の群島国家であるケイマン諸島は、1503年にかのコロンブスが到達し、1670年には英国の傘下となった。
観光を中心の産業に据えるこの国に、一つの乗馬クラブが存在する。グランド・ケイマンに拠点を構えるこのクラブの馬たちはよく調教されており、気性もたおやかで非常に従順である。
観光客から家族連れで訪れる島民にもこよなく愛されているこのクラブでは、ガイドが付きっ切りになり、熱を上げてレクチャーを施してくれる。初心者や子供へはヘルメットなどの装備品の無料貸し出しも行っているほか、自らの境遇に応じて以下の3種のメニュー・コースを選択できる。




■グループ乗馬
 これは一つのグループに付き最大10頭の馬を貸し出し、集団でホーストラッキング  を楽しむというもの。ちなみに一人当たり1時間15分毎に90ドルの料金が発生する。

■プライベート乗馬
 熟練者から中級者向けのコースで、完全にフリーな乗馬を楽しむことが可能。
 料金は一人当たり1時間15分100ドル。

■遊泳乗馬
 馬と一緒にカリブ海を泳ぐことが出来る。一人当たり1時間半で125ドルという料金設定 も、これは一度体験してみたい魅惑のコースである。


また利用者は朝・夕どちらの時間帯かを選択可能。カリブ海を過る青く涼やかな微風が木々を揺らす閑静なる朝凪の海を選ぶも良し。時も忘れるほど溶けるような、オレンジの
汀へと寄せては返す漣が織り成す白浜とせせらぎのラプソディに、馬と共に身を埋めるのもいいだろう。そんな夢見心地の体験をできるビーチ乗馬は、格別な何かを、きっと騎乗者へと天与してくれるに違いない。

ジョニーウォーカーレッドはこのクラブに属する馬で、唯一サラブレッドの血を引くといわれる牡馬である。人懐っこく、それでいて騎乗者の意のままに動き気遣いを忘れない天子の心を持つ可憐な泡愛の馬なのである。
そのためなのだろう、クラブでも1番人気の高い馬で、島民も慣れ親しんでいる。



〔佇立するジョニーウォーカーレッド〕

小さな紺碧のラグーンには、人と馬の知られざる楽園があった。
遥かなる時代より海亀たちが生命の雫石を研ぎ澄ましたこの島の落陽の中、水平線の彼方を見つめる馬は、今何を想うのか――



そこに人類への信愛があることをただ信じ、笑顔ミラージュが今日も空のキャンパスに澄み映されている――。





奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 03:15 * - * - *

アクトスペクテーション

  【アクトスペクテーション】

〜メロウナイト・ジャズ〜

―西の果てに浮かぶ
   ラグーンの最強馬―


〔レース映像は写真をクリック!〕

父 調査中
母 調査中
母父 調査中

生年:2000年
性別:せん馬
毛色:鹿毛
国籍:英領ヴァージン諸島
生涯成績:26戦24勝(確認できるレースのみ。同着1回)

偉大な英雄であった。小さな島へと降り立った1頭の競走馬は、島民の希望と勇気を一重に集め、夢と愛を乗せ懸命に駆け巡った。豪放磊落なその性格と琴瑟相和するファンの時間は、それは素晴らしく幻想的であり、理想的な競馬の1シーンであった。

カリブ海の西インド諸島に浮かぶサマーラグーン、ヴァージン諸島はイギリスとアメリカの管轄する自治領土で、東側半分が英国の領地であり、西側半分が米国の領土となっている島国で、首都はロードタウンとなっている。


   
〔英領ヴァージン諸島の国章。この紋章に描かれた女性は紀元4世紀のブリタニア出身の聖女であり、ドイツのケルンの守護聖人である聖ウルスラの絵が描かれている。またその周囲には11個のランプが装飾として描かれているが、これはウルスラと共に殉教したとされる伝説の1万1千人の乙女を象徴している(すなわち、「11 millia の乙女たち」で、ランプ一基が千人の乙女を表す)〕


1493年、コロンブスにより発見され、1648年にはオランダ人が植民を開始したが、34年後の1672年にはイギリスに併合され、現在へと至っている。大小様々な形を成す群島で象られているこの国は有人島が16、無人島が50近くという組成で一つの国家を形成している。
気候は亜熱帯気候で、一年を通して25度から30度の日差しがギラギラと輝く南国ムードを醸し出している。
この島で営みを送る人の多くは18世紀に奴隷として連れて来られたアフリカ人の子孫で、そんな負の遺産である過去を拭い去り、島民は明るく毎日を送っている。

さて、この島における競馬は英国植民地時代にその起源を求めることができるものの、コース形態自体は米国を模範としたダートの左回りで、3頭から10頭未満という小頭数で開催が施行されているのが特徴。米領のセントトーマス島には1周が5ハロンというクリントン・E・フィップス競馬場が、一方の英領側のトルトラ島にはリトル・A競馬場が佇みを見せている。こちらはかなり簡易的な競馬場で、ヤシの木に囲まれた土地にそのままコースを敷いたような、1周5ハロンすら怪しい小さな小さな競馬場である。

伝説的名馬アクトスペクテーションはこのトルトラをホームとした馬であった。2002年の10月デビューから連戦連勝。内容はスタートから突き放して往き、直線でさらに突き放しにかかるというワンサイドゲームのもので、馬主であるホッジス氏もこの馬に対しては異常なほどの熱情と執着心、そして自信と誇りを持っていた。
2003年の3月28日には、16連勝を記録。これはヴァージン諸島のレコードであると同時に、米国が誇る最強馬の1頭である、あのサイテーションの連勝記録にも並んだということで島民の鼻息も荒くなった。常に青空の果てまで劈くような豪快なレースを展開し、無双の比類なき強さを見せたアクトスペクテーションであったが、ライバルがいなかった訳ではない。“スピードの悪魔”と称されたヘザケィトアイには思わぬ苦戦を強いられ、写真判定の同着にまで追い詰められたこともあったが、その後、マッチレースを挙行し、5馬身差という圧倒的能力差を残酷なまでに見せつけるのであった。


〔ヘザケィトアイとのマッチレース。容赦なく突き放してゆくアクトスペクテーション〕

2006年6月、アクトスペクテーションは競馬場と泡愛のエールを惜しみなく与えてくれる熱烈なファンへと別れを告げたものの、その3ヵ月後に再び競走馬として復帰してくるといったサプライズパフォーマンスも披露。
最初から最後まで、まるで島の伝説となることを宿命付けられて生まれてきたような馬だった。



〔ファンに囲まれ暇乞いするアクト〕



ロードタウンの一角、とあるジャズバーで語らう若いカップル。
「カツン☆」
と音を立てるブルーグラスに互いの瞳を映しながら、心酔してゆく二人。馬を愛する青年は初めてラム酒を嗜む少女へと、“伝説”のフォークロアを聴かせた。とろけるような熟炎夜の宵闇を譜線とし、微風のようにそよぎ流れてくるジャズに乗せて――。





                           


島民の心の支柱となり、英雄となった伝説の馬は、少女を酔わせ、夢見る海豚とともに深い眠りへと落ちてゆくのであった。




 


“伝説”を未来へ語り継ぐために―――。


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奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 16:00 * - * - *

ガルゴジュニア    

 【 ガルゴジュニア 】

   〜虹の貝殻〜

― プエルトリコの威光 ―



父 ガルゴ
母 ウォーレリーフ
母父 グラニュート

生年:1928年
性別:牡
毛色:鹿毛
国籍:プエルトリコ島
生涯成績:159戦137勝

世界には驚愕の戦績を残し去っていった馬がいる。どうしてそこまで走るのか?なぜに馬主はそこまでに…?
競走成績が100戦を上回った時点で、それは一つ別世界の扉を開けたことを意味する。そして競走回数が増えれば増えるほど、敗戦と言う切なく淡い白雪は降り積もってゆく…。

コリスバールという競走馬がプエルトリコでレースをしていた。その馬は日夜レースに明け暮れ、324という夢物語と、197にも上った奇跡の五線譜を島を吹き抜く微風に乗せ続けた。その風の歌はやがて、ピンクサンドビーチへと打っては返す泡波の中へと溶け込んでゆき、島の神話となった。
この一角鯨が降誕する1年前、ラスモンヤス競馬場で極度の過労がためこの世を去っていった馬がいた。159戦137勝の伝説を史実へと残した偉大なる名馬…ガルゴジュニアがその馬である。

                          

ガルゴジュニアは1928年生まれ。南国のトロピカルシャワーの日差しを背に受け、日進月歩に直向な競走馬生を送った馬であった。小さな体…純粋無垢なままにレースへと臨み、島民の輿望に饗応し続けた。大きなレースを勝つことはこの世を去るその時までついに訪れることがなかったが、150戦以上のレースを消化し、130勝以上上げた馬…つまりは150戦以上して最高勝率を記録しているのは、世界競馬史上同馬ただ1頭のみなのである。
これはとんでもない怪記録で、もはや永遠に更新不可能な記録となるかもしれない。
プエルトリコは、そんな名馬を多く育んできた魅惑の競馬エリアである。今までも、きっとこれからも…――。


〔休むことを知らず走り続けるガルゴジュニア〕

                           
〔当時の島民の描いたガルゴジュニア〕

伝説から神話へ…世界最多勝利のバトンはガルゴジュニアからコリスバールへと受け継がれてゆくわけであるが、ガルゴジュニアは7年間…たったの7年間で159戦も消化し、137勝もの凱歌を上げた。一方のコリスバールは10年間の歳月をかけ、324戦を消化し、197という現在でも他の追随を決して許さない世界最多勝記録の頂へと上り詰めた。
熟考を重ね、咀嚼を重ねれば重ねるほど、いかにとんでもない記録かが浮き彫りになってくる。


真っ白な砂浜に輝く貝殻が黄金色の斜陽を浴びる時、一瞬の煌きの中に広大無辺の世界が翼音を奏でて広がってゆく――――――
虹色の輝き。
レースのみに生涯を重ねた貴方に、一度でいい、見せたかったこの海の青さを…。

そして幸せを運ぶ潮騒と
虹の貝殻を――


                          


悲壮なる勇者のアナタヘ―――。






  

  ★彡追記メモ★彡

☆獲得賞金は当時のプエルトリコ賞金レコードとなる31,739ドル、連勝記録も世界3位の39連勝等多数の記録を持っている。

☆2着は17回。つまり生涯連対回数157回!連を外したのが僅かに2回。TVゲームでもこんな成績は不可能だ。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 17:02 * - * - *

ブライトライト

  【ブライトライト】

  〜蛍石のネオン街〜

―トリニダード・トバゴ島
   史上最初の三冠馬―



父 バーニングボウ
母 フェリシタス
母父 コロラドキッド

生年:1949年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:トリニダード・トバゴ
生涯成績:25戦13勝[13-4-2-6]

競馬史において、“三冠馬”という存在は如何なる巨影にも遮断されることのない、未来永劫の後光を放っている。史上最初の三冠馬であるウエストオーストラリアンが降英した後、世界へと紅玉の天卵が舞い降り、多種多彩な“トリプルクラウン”が心愛と暦譜の中、炊爨されてゆく――。


     

カリプソとクリケットの国、トリニダード・トバゴ。この小さな島国にも、“競馬”という概念は揺らめく波のように、島民から愛されて育まれている。
この島の三冠競走は、イースターギニー、トライアルステークス(ミッドサマークラシック)、トリニダードダービーの3つで、全レースが完遂をみたのは1951年のことだから、歴史的には浅いと言えよう。

史上最初の三冠馬となるプリンセス、ブライトライトは1949年、セントヴィンセント島で生産され、幼少時代あたたかな島民たちに宝愛され、スクスクと育ってゆく。
彼女の心の中、奇跡のポテンシャルも確かに胎動をはじめており、島を吹き抜くシーサイドブリーズと熔融してゆく都市のネオンだけが、彼女の深淵をそっと見透かしていた――。

牝馬ながら牡馬と熾烈な白熱の激闘を展開。
とても牝馬とは思えない小さな姫君は、三冠に加え、バルバドスダービーでも凱旋のマドリガルを吟唱。トリニダード競馬史に残る威光を斜影とさする名馬となった。
いかなる競馬開催国においても、牝馬ながらダービーダブルや三冠を瞠若なるままに制圧する馬など、そうはいない。主要国においても、1国にほんの数頭のみの残光を認めることが出来るのみだ。
本馬ブライトライトもそんな絶界の紫苑であった訳である。


トリニダード三冠馬で、唯一のセントヴィンセント島生まれの名牝は、ホンわかと和みを与える蛍石のようだった。


あれから数十年の時が流れた今も、島風と海風の音が、夕映えに靡く街のネオンと交じり合う――
夜の小さな島の街…桃源郷と檸檬と豫翼――――…
漣波に浚われてゆく、淡い恋歌の音影たち。


                            


小さな島の三冠馬、光冠“3”つのブライトライト。



奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 06:19 * - * - *

グランザァール

  【グランザァール】

   〜白夢の砂風〜

―メキシコ競馬
      史上最強馬―



父 ラジャババ
母 タップザティル
母父 ネイティヴチャージャー

生年:1975年
性別:牡
毛色:芦毛
国籍:メキシコ合衆国
生涯成績:37戦16勝[16-11-3-7]

日本にはこれまで、6頭の三冠馬が降誕している。セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、そしてディープインパクト…。
変則三冠を達成したクリフジを除き、牝馬で三冠を達成した馬は史実上ただの1頭もいない訳だが、世界は広い。牡馬などおそるるに足らず…という豪烈なる女傑が存在している。それはチリのドラマであったり、トルコのミニモ、スペインのトカラ、ジャマイカのシンプリィーマジック、そして英国のショットオーヴァーといった瞑妃たちがその代表格。ウオッカはダービーのみの参戦となったが、シンプリィーマジックやミニモは各々のセントレジャーへ参戦。そしてショットオーヴァーに至っては、2000ギニーにまで参戦している。腰を抜かす…などの誇張表現では済まない絶震の快挙を現実のものへと招来させている。


世界の三冠競走を調査し、あらゆる資料・文献を葦編三絶してみると、ある国に牝馬が初代三冠馬となり、その後も牝馬が三冠馬となり続けた国がある。
その国とは…メキシコである。この国における競馬の起源は、19世紀にその端を見ることができる。しかし、施行団体の興亡が相次ぎ、結局のところ安定しての開催が図られるようになったのは近代1943年のラスアメリカス競馬場が建設されてからのことであった。

三冠競走の創始期は一律して1943年のことで、その3年後に早くも三冠馬が現れている。


【メキシコ三冠馬一覧】

★ プラッキーフラッグ 1946年達成 米国産・牝馬

★ レトータ 1949年達成 米国産・牝馬

★ ケチャヴァ 1966年達成 国産・牝馬

★ グランザール 1978年達成 国産・牡馬

★ ピコタッツォ 1980年達成 国産・牡馬

★ ドミンシアーノ 2000年達成 国産・牡馬

※1949年以前は内国産限定ではなかった。



〔1980年の三冠馬ピコタッツォ〕


…みな名馬には相違ないのは確かであるが、名実ともにメキシコ史上最強と謳われているのが、1978年の三冠馬グランザァールである。三冠競走をすべて圧勝。1978年、79年と2年連続で年度代表馬に選出された他、GIを6勝。ハンデキャップ競走におけるチャンピオンにも2度輝いている。それもそのはず、国内最高峰の位置付けにあり、なおかつ四冠目に相当するラスアメリカス・ハンデ(ダ2,000m)を楽走で連覇してしまったのだから、それも頷ける話である。

しかし、メキシコ史上最強馬であるとは100%言えないのが正直なところで、外国産馬の攻勢に押され続けているのがこの国における現実。だがそれでも当世の最強馬であったことだけは確かで、この世のものとは思えない、白昼夢の超越したポテンシャルを放散した偉大なるメキシコの伝説馬の1頭であると明言できよう。







国境の果て、太陽の斜揮の中、国産馬による海外制圧は未来にあるのだろうか。
威光を胤想として語りかける古のグランザァール。

二人の見つめる桃源郷の先…何か掴めそうで攫めない白影の記憶が揺らめいている――。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 06:01 * - * - *

ヴェルヴェキャンディB

 【ヴェルヴェキャンディB】

〜瑠璃色と
   琴風のキャンディ〜

―プエルトリカン・
  レジェンド・ホース―



父 ダブルデェワン
母 ハイリーインプレッシヴ
母父 ハイエシェロン

生年:1988年
性別:牡
毛色:芦毛
国籍:プエルトリコ
生涯成績:87戦64勝[64-14-5-4]

米国の領土であるプエルトリコには、信じられないような成績を残した馬が、何頭も出現している。159戦137勝のガルゴジュニア…77戦72勝、未来永劫に不滅の56連勝記録を紡ぎ上げたカマレロ。254戦もの戦績を汐歴の彼方へと残し去った麟角鳳觜とも言えるパールバックスキンの毛色をもち、白毛馬の遺児でもあるヴィスケス島のネヴァード…そして324戦197勝の極光を燦然と解き放ち続ける奇跡の馬コリスバール…。

恋連の琴歌が南風として砂浜を愛でるこの島へと邂逅を見た偉大なる名馬の記憶と浪漫譚。その中でも最も絶大な支持とファンの声援を独り占めにスポットライトを浴び続けた偉大なるチャンピオンホースが存在する。その馬こそが、本馬ヴェルヴェキャンディBである。

1991年、プエルトリコ三冠馬に輝き、同年にクラシコ・インテルナシオナル・デル・カリべをも制した完全無欠の名競走馬。 そして彼は、プエルトリコで初となる100万ドルホースという星光爛漫たるタイトルを手中へと収めたという、いわば“プエルトリカン・レジェンドホース”なのである。
…――透き通った瑠璃色のシーブリーズに乗せて、彼の足跡を見てゆこう…









カンデラリオ・ボニーヤ調教師によって競走馬としての手ほどきを受けたヴェルヴェキャンディBは「オイステキャンディB」との命名がなされていて、エドウィン・カストロ騎手を背に、1990年8月8日に行われたレースを鮮やかに勝利し、見事デビュー戦を飾っている。

1991年、“オイステ”キャンディ・Bに一大変革が起きる。 その年、彼はルイス・ヘルナンデス氏の手元へと渡ったのである。要するにオーナーが変わったわけで、それにともない馬名が変更されることに決まった。
これが幸運と脅威的な強さをもたらしたのだろうか…プエルトリコの三冠競走であるプエルトリカンダービー、コパ・コベルナドール、そしてコパ・サンファンを次々と鯨飲。勢いは止まるところを知らず、なんと13連勝を記録する他、同年のクラシコ・ディア・デラ・ラサおよび、クラシコ・バドワイザーも大勝。 そして年の瀬も迫った12月、ヴェルヴェキャンディBはプエルトリコのエル・コマンダンテ競馬場で催されることとなったクラシコ・インテルナシオナル・デル・カリベ(カリブ国際)へ、プエルトリコ代表馬として、威風堂々と出陣。しかし、あのディープインパクトが初の古馬相手となった有馬記念で苦杯を舐めたように、どこか競馬という概念・理念には不条理なところがあるもの。またそれが競馬である訳だが…。話がずれた。車輪を元に戻そう…カリブ海最高峰の競走すら、 ヴェルヴェキャンディBにとっては通過点にしかなるまい…と競馬関係者はもちろん、ファンの誰しもが推敲していたが、ここに思わぬ落とし穴があった。
フリオ・A.ガルシアが渾身の騎乗を見せるも、外国馬2頭に突き放され3着。力負けとも思える内容に、島民は非望に暮れた。


ところがである。この1戦にはまだ続きがある。

1週間後、ヴェルヴェキャンディBを悔涙の底へと突き落としたベネズエラ代表馬リオチャミタとランドレアの2頭から禁止薬物が検出。ただちに2頭の成績は無効、賞金も剥奪となり、ヴェルヴェキャンディBはやはり“プエルトリカン・レジェンド・ホース”であると崇愛されるのであった。


1992年、彼の4歳時は15戦14勝。93年には再び13連勝をマーク。

6歳時には、前年のカリブ国際の覇者ヴァーゼッツジェットと真っ向から対峙し、名勝負を演出。三冠馬の意地と誇りを見せ付けた。
無敵の最強馬として島を勇躍闊歩し続けたヴェルヴェキャンディBのヴィクトリーロードは永遠に続くかに見えたが、終焉はふとして訪れを告げた――。

1995年、クラシコ・ルイス・ムニョス・マリンへ出走した際、故障発生。幸いにも大事には至らず、無念の引退となった。


種牡馬としてのキャリアを積むものの、1998年、彼は競馬場へと帰って来た――。

歴史はかくも繰り返してしまうものなのか――ガルゴジュニアやカマレロが酷使の果てに辿った末路をなぞるように…1998年8月9日早朝――ヴェルヴェキャンディBは人道的に安楽死させられるのだった――……



瑠璃色の漣鴛と海の琴韻の中、伝説は今、泡波として大海へと帰っした――――………




  




  ★彡追記メモ★彡

★ヴェルヴェキャンディBの獲得総賞金は、116万7625.46ドル。

★ヴェルヴェキャンディBは、二度(1991、1992)プエルトリコ年度代表馬に選出された。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 04:30 * - * - *

ネヴァード

   【ネヴァード】

〜シュガーウインドの
      坂道越えて〜

‐環礁から旅立った
    異色異端の名馬‐


父 ノーティカル
母 キュビレット
母父 ?

生年:1928年
性別:牡
毛色:白毛(パールバックスキン)
国籍:ヴィエケス島
生涯成績:254戦29勝

この世には信じがたい戦績を残した馬がいる。ハンガリーのキンツェムは54戦全勝。イタリアのトルネーゼは229戦133勝。またプエルト・リコの競走馬たちは常軌を敢然に逸脱していると表現できる程に凄まじく、ガルゴジュニアが159戦137勝、カマレロが77戦73勝をマークし、同馬は56連勝の世界記録を刻んだ。そして、極め付けは324戦197勝の世界最多出走&最多勝の世界記録を競馬史の譜線に乗せたコリスバール。神威的な大記録はこれだけに止まらない。さらにはもう一頭、驚天動地、無双の競走戦績と稀覯の馬生を送った馬が、カリブ海に浮かぶ小さな島に存在していた――。

彼の名はネヴァード。不可思議な色調のトーンを、競馬の歴史の影にそっと残した盲亀浮木の一生を、ゆっくりと推敲していきたい。
プエルト・リコの東南に浮かぶ島、ヴィエケス島。小さな小さなこの島に、ネヴァードが降誕したのは1928年の暮れ、12月のことだった。南半球ならともかく、北半球に位置するエリアの生産馬としては余りにも遅すぎる生誕である。

  
〔ヴィエケス島の子馬たち〕


                           


誕生の際、立ち合った生産者ミゲル・シモンズ氏は、ネヴァードの馬体や毛色を見るなり、目を丸くしてゴクリと生唾を飲み込んだ。ネヴァードはその全身が純白であっただけでなく、その体毛がパールバックスキンと呼ばれる生物学的にも稀有な毛質を成していたのである。真珠色の眩耀な燐光を纏い、白鹿のような毛並みをした子馬。その額には白い星が戴かれ、前両脚の蹄は漆黒の黒色。反照するように後ろの両脚は膝元まで白いソックスを履いている。それらの内、左後ろ脚の蹄はまるでシマウマのような、ストライプ模様になっており、また一方で右後ろ脚は真っ白で純白な蹄をしている。馬学史上唯一無二の毛色をもつマジカルゴールドダスト(紹介済み)の稀少価値には一歩譲るかもしれないが、このネヴァード独特の特徴も見逃せない。

ネヴァードはあまりに遅生まれだったためか、1929年生まれの競走馬としての扱いを受けた。初出走となったのがこれまた遅く、1931年の11月26日、プエルト・リコ島へと渡ってのプエルトリコフューチュリティというレース。ここからネヴァードは波瀾万丈の競走生活にスタートを切った。
悲願の初勝利が叶ったのは翌1932年の2月28日の日曜日のことであった。真っ先にゴール板を通過したネヴァードを、関係者たちは喜色満面の笑みをいっぱいに出迎え、ネヴァードを愛撫し、囲んで拍手を送り続けた。そしてさらにさらに、明くる日も、また次の日も、ネヴァードは走り続けた。プエルト・リコ島の大きな競馬場から簡易的な小さな競馬場まで、東奔西走、春夏秋冬、一年を通し日進月歩、下を向くことなく誠心誠意、日夕かかわらずただ疾駆し続けた――。
1939年7月28日。11歳になったネヴァードは万感の想いを胸に、引退レースを迎えていた。ひた走ること8年間…そのレース数はなんと、254戦という当時までにおける世界競馬史が目撃したことのない、前例の無き全馬未到の領域へと踏み込んでいた。これは物理的に限界を超絶する震天動地の大記録で、それは250戦以上のキャリアを持つ馬と比較することで明白となる。日本競馬史上最多出走記録を保持していた益田競馬場のアイドルホース、ウズシオタロー(アングロアラブ種、牝馬)は、生涯成績250戦15勝。4歳から14歳(旧齢表記)までの10年間をほぼフルに使っての達成。彼が持久力に秀でたアラブ馬であった、というアドバンテージがあった点も忘れることなく留意しておいて頂きたい。また2007年、この記録を塗り替えた高知競馬のヒカルサザンクロスは、12年かけてようやくウズシオタローの250戦に並んだものであった。
さて、着眼点を記録達成の歳月に置きつつ、話をネヴァードへと元に戻そう。ネヴァードは8年間で254戦というレース数を紡ぎ上げた訳だが、これは一年で32戦を消化しなければ到達できない怪記録。32戦と言うと、驚異的なタフネスぶりと勝負根性を満天下に示したオグリキャップが一生涯を通して辿り着いたレース数。また現代競馬における競走馬の年間を通しての出走回数が多い馬で8〜10戦である訳だから、ネヴァードが如何に超夢次元の世界を生きた馬かが窺い知れる。しかも、デビュー戦が11月末日で、最後の一年を7月末で締め括っているわけだから、実質7年と半年での大記録達成と言えよう。





ヴィエケス島のサトウキビ畑がざわわと揺れる…一本の白亜の坂道を麦わら帽子の少女が自転車に乗り、颯爽と走り抜けてゆく――……彼女の髪をなびかせる潮風に、波音のメロディと砂利道を往くタイヤの轣轆が乗せられ、島を優しく包み込んでいく……――。

しかし、現在この島は「第2の沖縄」と呼ばれ、危急存亡の岐路に立たされている。米軍が演習のため、軍事基地を乱立させたことにより、島民との間に大きな亀裂が生じてしまったのである。飛行場からの轟音が今日も夕湫の空を切り裂いてゆく――……。
誰も知らない…この島から巣立っていった伝説の名馬の記憶を…。


人影も疎らな白い砂浜に寄せては返す漣灑(れんさい ※小波がしきりに動くさま)は、遥か汪線の彼方から届けられた姚珱(ようえい ※美しい宝玉の意味)。桜桃の実る坂道に竚む恋人二人。未来を見据える視線の先に映えるのは、月下の海に舞い散るブルー・スノー。
眩梦の光景広がる海影に、ネヴァードの謠が、今も朧気にたゆたっている――。



 










                           

  ★彡追記メモ★彡

☆ネヴァードのオーナーはアントニオ・キャティンチ氏。

☆ネヴァードにとって、キンタナ競馬場は一番のベストコースだった。

☆ネヴァードは引退した1939年の暮れ、崩御した。常軌を逸したレースへの連戦と酷使がその遠因となっているのかどうか、その因果関係に関しては不明である。

☆ネヴァードの母、キュビレットの血統は不詳。それでも競走馬として登録されたことに、昔日の憐愍を感じてしまう。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 21:24 * - * - *

キャスティ

  【キャスティ】

〜国境の果て
 古代神話の残光〜

-メキシコ史上最強牝馬-

  

父 ヴァリアントネイチャー
母 キャティーコーナー
母父 アンブライドルド

生年:2001年
性別:牝
毛色:鹿毛
国籍:メキシコ合衆国
生涯成績:18戦14勝

メスティソとインディオ、太陽の国“メヒコ”ことメキシコ合衆国は、4世紀以降にマヤ、12世紀以降にはアステカ文明が栄華を極めた。しかし、南米にエル・ドラドを夢求したコンキスタドール(スペイン語で征服者の意)の一人、コルテスの手により、王国は殲滅。果てには滅亡にまで追いやられてしまう。
このアステカ王国の首都テノチティトランが、1821年にメキシコの首都メキシコシティーとなり、1968年の五輪開催、1987年の世界文化遺産登録と、メキシコは世界から着目を浴びる急発展を遂げ、着実に過去の闇は振り払われていった。


〔エル・カスティージョのピラミッド〕

                  
〔メキシコ五輪は体操団体で日本が3連覇。またサッカーでも釜本らの活躍により、アジア勢初のメダル(銅)獲得の歴史的大会であった〕


そんなメキシコにおいて競馬は、長きに渡り盛んに施行され、中米カリブ海地区の盟主としての地位を不動のものとしてきた。
しかし、経済不況が国を蝕み、その侵食は競馬界全体にまで及んだ。さらに泣きっ面に蜂、追い打ちをかけるように1985年にはマグニチュード8.1という超烈震のメキシコ大地震が発生。以降、崩落した社会の中、メキシコ競馬の質は低下、レベルの凋落に歯止めが掛からず、中米カリブ海地区の頂点から崩れ落ちてゆく。
他国(プエルトリコ)へと玉座を明け渡すことになってしまったメキシコ競馬。1970年代には日系二世のロベルト・ミヤサキが首位馬主を獲得し話題になったが、経済不況の打撃は大きく、急速に衰退の道を辿り、まるで貝殻を失ったヤドカリのように不安と焦燥にかられた繊弱たる状況下に追い詰められてしまう。

 
〔メキシコの田舎町〕

                        
〔メキシコの海岸から望むカリブ海〕

  
〔海辺で戯れる少女たち〕


そんな絶望の鉛色に覆われた空の下でも、メキシコのホースマンたちの瞳から輝きが失われることはなかった。

「自国産の馬で世界を獲る!」

太陽のようにメラメラと燃える熱き情熱の炎。競馬関係者はもちろん、ファンの誰しもがギラギラと眼光を放ち、最強馬の降臨を信じ競馬を見つめ続けた。いつの日か必ず訪れる名馬との邂逅を待ち侘びるように…。
その姿には、かつて古代メキシコの神“ケツァルコアトル”を信仰し、崇めたアステカの民、その残影がどこか重なって見えた。

“ケツァルコアトル”とは、「羽毛ある蛇」ないし「高貴なる双子」という意味で、トルテカ族の神なのだという。アステカ族が崇拝するようになったのは、後になってからの事。遠い邃古の昔、天から降り立ち、人間に農耕を教え、あらゆる全ての文化・知識を与え、人身犠牲をやめるよう説いたのだという――……


       
〔ケツァルコアトルの彫刻〕


時は流れ、2001年。メキシコシティに1頭の牝馬が産まれ落ちた。“キャスティ”牝馬に相応しい愛くるしい名が与えられた。そんな中、早くから牧場スタッフはこの馬から放たれる異彩な雰囲気と形容しがたい“何か”…大物の片鱗をヒシヒシと感知していたという。特にバネが凄まじく、跳躍力と俊敏性が常軌を逸しているほどだったという。
2歳を迎え、アグアカリエンテで手腕と技術を磨き上げたメヒコの名匠ルーベン・コントレラス調教師の下へ預けられると、眠らせている潜在能力を徐々に剥き出しにしてゆく。
キャスティは既にレースを知っている古馬のような漂然たる赴きでレースへ向かうと、天空を翔上がる巨鵬のこどく勇躍邁進、大きな差をつけ大楽勝。ジョッキーも全く何もせず大勝してしまったことに、高ぶる感情を抑えきれなかった。キャスティが連勝を続けるとファンもメディアも熱視線をキャスティへ集約させた。

           

『純粋無垢なメキシコ産馬』

完全に米国産馬一色。彼らの草刈場と成り果てた地に、母国の生産馬が外国産馬たちを圧倒する…これ以上にメキシコ競馬人の熱が上がるファクターもないだろう。


キャスティは国民の大声援を追い風に連戦連勝。最優秀2歳に当然と選出され、クラシックへ。
そして同性に敵無し、牡馬恐るるに足らずと、ダービー・メヒカーノ(メキシコダービー、ダ1,800m)へ。牡馬を相手に無謀とも罵りも浴びるが、ものともせず、他馬を弾き飛ばし大勝利。陽が地平線の彼方へと沈む黄昏時、夕映えの競馬場にキャスティへ贈られる拍手が鳴り響き続けた――。

   

初の海外遠征となったプエルトリコのGIクラシコデルカリベ(ダ1,800m)では珍しく精細を欠き、パナマ最強馬スペーゴの2着に甘んじてしまうものの、2005年を迎えるとさらなる迫力と風格を身に纏い圧勝の連続。そしてキャスティを除く全馬が米国産、メキシコの最強クラスが総結集したラス・アメリカスハンデ(ダ2,000m)を馬なりで強烈に突き抜け、6馬身差の大勝で吹き流すと、時は熟したと言わんばかりに、待ちに待った米国遠征へ踏み切った。


〔ラス・アメリカスHのゴール前〕

メキシコ競馬の悲願達成を胸へ抱き、キャスティ陣営は米国・ハリウッドパークへと乗り込んだ。
アウェイの地でもキャスティの評価は高く、アメリカンオークスへ遠征してきていた日本のシーザリオと共に噂になり、紙面でも大きく報じられていた。
コントレラス師は勝利を確信していると、自信満々に言い放ち慧眼を光らせた。しかし…何が起きたというのだろうか。ヴァニティH(ダ1,800m)、キャスティは大敗。メキシコ国民の誰もが現実を受け入れようとしなかった。もし認めてしまうのなら、自分の存在性すら何か大きな力で消し去られてしまう…そんな悲哀と絶望のエキスがたっぷり詰められた樽の中にに頭から漬かされた言い様のない心境に陥っていた。

キャスティという歴史的女傑を持ってしても、メキシコ競馬・宿願の夢を果たすことはできなかった。これは紛れもない現実である。
しかし、メキシコの神ケツァルコアトルがアステカの万民へ文明を天与したように、彼女キャスティも現代のメキシコ国民とメキシコ競馬界へ“希望の光”と“勇気の翼”を与えた。これもまた真実。

  
〔ユカタン半島〕

夢は叶う。いつの日か――。
風光絶佳のユカタン半島。
夕凪に瀛涯の風が舞い降りる―…
淡い想いと鯨波の寄せる砂浜に、未来の最強馬を夢見て。






 ★彡追記メモ★彡

☆キャスティは、ラス・アメリカスハンデにて、一つ下のダービー馬エルパレラス(米国産)に約10馬身差つけている。

☆ヴァニティH他、敗戦時の要因は不明である。

☆キャスティは血統中にリファールの3×4というクロスを内包している。いわゆる「奇跡の血量」である。

奇跡の名馬 (中米・カリブ海の名馬) * 05:14 * - * - *

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